0000_,19,168a01(00):華頂誌要
0000_,19,168a02(00):
0000_,19,168a03(00):目 次
0000_,19,168a04(00):第 一 開創縁由 第 二 開祖畧傳
0000_,19,168a05(00):第 三 祖德顯彰 第 四 祖忌報恩
0000_,19,168a06(00):第 五 歷代畧譜 第 六 寺門沿革
0000_,19,168a07(00):第 七 知恩院宮 第 八 門葉廣繁
0000_,19,168a08(00):第 九 古文書類 第 十 伽藍興隆
0000_,19,168a09(00):第十一 靈寶什器
0000_,19,168a10(00):第一 開創縁由
0000_,19,168a11(00):洛東の名山華頂の麓、金殿傑閣巍然として海内無雙
0000_,19,168a12(00):の名藍あり。是を吾淨土宗總本山知恩敎院大谷寺と
0000_,19,168a13(00):す。
0000_,19,168a14(00):當山の創立は今を去ること七百三十餘年、圓光大師
0000_,19,168a15(00):法然房源空上人の淨土開宗施化利生に基けり。大師
0000_,19,168a16(00):上人初め比叡山延曆寺にましまして、圓頓菩薩戒の
0000_,19,168a17(00):正統を禀け、徧く顯密の解行に達し、多聞廣學一代に
0000_,19,168b18(00):獨步したまふと雖も、猶ほ其難解難入にして解脱の
0000_,19,168b19(00):捷路と爲すに足らざるを歎き、黑谷の報恩藏に入り
0000_,19,168b20(00):て一切經を披覽したまふこと五遍。終に皇千八百
0000_,19,168b21(00):三十五年高倉天皇承安五年、唐朝善導大師の觀無量
0000_,19,168b22(00):壽經疏によりて、彌陀釋迦二尊の本懷を悟り、頓に捨
0000_,19,168b23(00):聖歸淨の心を决したまへり。時に御年四十三。感悅
0000_,19,168b24(00):の情自から禁する能はす。乃ち叡岳を辭して庵を洛
0000_,19,168b25(00):東吉水の邊即ち當山境域内に結ひ、淨土の宗名を立
0000_,19,168b26(00):てて、熾んに專修念佛の一行を勸め給ふ。德風の薰
0000_,19,168b27(00):する所、朝野靡然として之に歸向し、求道の士女絡
0000_,19,168b28(00):繹として其門に集まる。
0000_,19,168b29(00):抑吉水の地たる、華頂の勝槪を占め、全都を一眸に
0000_,19,168b30(00):收めて遙に西山を望む。眞に是大悲傳普化の好道場
0000_,19,168b31(00):なり。されは他に暫住兼帶の地多しと雖も、獨り當
0000_,19,168b32(00):山を以て多年永住の本處と定めたまへり。是吉水上
0000_,19,168b33(00):人の名を專にしたまふ所以なり。當時大師の住坊三
0000_,19,168b34(00):所にあり。一は西山廣谷の庵室を移せるもの、之を
0000_,19,169a01(00):中ノ坊とひ又二ツ岩禪坊ともいふ今の御影堂の地に在り。二を
0000_,19,169a02(00):東ノ新坊といひ又松下禪坊といふ今の大鐘樓の東北に在り。三
0000_,19,169a03(00):を西ノ舊坊といひ、又淸水禪坊ともいふ今の三門西南の地に在
0000_,19,169a04(00):り。中に於て大師は自ら中ノ坊に住し、東西の二坊
0000_,19,169a05(00):を門弟の宿舍としたまへり。然るに建永二年大師
0000_,19,169a06(00):七十五歳事に坐して讚岐國に配せられ、四年の後恩免の
0000_,19,169a07(00):宣旨を賜はりて、建曆元年十一月歸洛ありし比には、
0000_,19,169a08(00):吉水の諸坊既に荒廢に屬せしかは、靑蓮院慈圓僧正
0000_,19,169a09(00):後ち慈鎭和尚と諡すの沙汰として、大谷の山上南禪院慈惠大師草創と號
0000_,19,169a10(00):する坊舍を寄せ、以て大師の依所に充てたまへり。即
0000_,19,169a11(00):ち現今勢至堂の地是なり。大師此禪坊に於て、其翌
0000_,19,169a12(00):建曆二年正月二十五日八十歳にして往生の素懷を遂
0000_,19,169a13(00):けたまひしかは、遺弟等住坊の東崖上に葬り、廟堂
0000_,19,169a14(00):を莊嚴し、洒掃供養恰も在ますか如く、貴賤上下常
0000_,19,169a15(00):に群集して知恩報德の誠を致せり。
0000_,19,169a16(00):然るに滅後十六歳 後堀河天皇嘉祿三年六月、山門
0000_,19,169a17(00):の衆徒、其興盛を嫉み、朝廷に嗷訴し、使を遣はし
0000_,19,169b18(00):て坊舍を破却し、廟塔を發かんとす。同法遺弟竊か
0000_,19,169b19(00):に遺骸を嵯峨に移し翌年之を粟生野に荼毘したてま
0000_,19,169b20(00):つる。
0000_,19,169b21(00):其後勢觀房源智上人深く靈蹟の廢滅を歎き、物情の
0000_,19,169b22(00):沈靜するを俟ち、 四條天皇文曆元年同法と力を協
0000_,19,169b23(00):はせ、朝廷に奏して大谷の舊地を復し、佛殿を建て
0000_,19,169b24(00):影堂を營み、僧坊門廡一に寺院の制に則とり、始め
0000_,19,169b25(00):て知恩院大谷寺と號し、大師を仰いて開山第一世と
0000_,19,169b26(00):爲す。 天皇嘉稱して勅願所となし。「華頂山」「知
0000_,19,169b27(00):恩敎院」「大谷寺」の勅額を賜ひしかは、之を總門影
0000_,19,169b28(00):堂佛殿の三所に揭け、永へに專修念佛の本處、大師
0000_,19,169b29(00):入寂の靈跡を標し天下の道俗をして其歸嚮する所を
0000_,19,169b30(00):知らしむ。之を本山開創の縁由とす。
0000_,19,169b31(00):第二 開祖略傳
0000_,19,169b32(00):開祖大師諱は源空、法然房と號す。父は美作國久米
0000_,19,169b33(00):の押領使漆時國、母は秦氏なり。父母子なきことを
0000_,19,169b34(00):歎きて佛神に祈り、終に 崇德天皇長承二年皇紀一七九三
0000_,19,170a01(00):四月七日久米の南條稻岡の庄に降誕したまへり。幼
0000_,19,170a02(00):名を勢至丸といふ。
0000_,19,170a03(00):父時國常に本姓に慢する心ありて、當庄の預所源内
0000_,19,170a04(00):定明の執務に從はさりしかは、定明之を怨み、保延
0000_,19,170a05(00):七年の春、夜陰に乘して時國を襲ひ、深傷を被らし
0000_,19,170a06(00):む。勢至丸時に九歳、小矢を放ちて定明の眉間を傷
0000_,19,170a07(00):く。定明之に由り其發覺せん事を恐れて奔竄す。時
0000_,19,170a08(00):人小兒の勇を嘆して小矢兒と稱す。時國終に臨み遺
0000_,19,170a09(00):命して曰はく。「汝更に敵を怨むことなかれ。皆是前
0000_,19,170a10(00):世の宿業なり。若遺恨を結ひて仇を復せは、其報世
0000_,19,170a11(00):世に盡きがたし。如かす早く出家して我菩提を吊ひ
0000_,19,170a12(00):自の解脱を求めんには」と勢至丸命に服して同國菩
0000_,19,170a13(00):提寺に到り、叔父觀覺に事ふ。觀覺經書を授くるに、
0000_,19,170a14(00):聞く所の事憶持して更に忘るることなし。
0000_,19,170a15(00):久安三年二月十五歳觀覺狀を具して之を比叡山西塔北
0000_,19,170a16(00):谷持寶房源光の許に送る。狀に云はく。「進上大聖文
0000_,19,170a17(00):殊像一體」と。蓋し小童の俊秀を諷するなり。源光
0000_,19,170b18(00):其非凡を察し、當時の名匠功德院皇圓阿闍梨に薦む。
0000_,19,170b19(00):四月其門に入り、十一月剃染受戒す。法名圓明房善弘十六歳
0000_,19,170b20(00):の春より天台の三大部を講究し、三年にして業を卒
0000_,19,170b21(00):ふ。惠解天縱殆んど師授に超えたり。阿闍梨感歎し
0000_,19,170b22(00):て、益學業を勵み、圓宗の棟梁たるべしと勸奬する
0000_,19,170b23(00):や切なり。然れとも當時滿山の大衆、多くは加持祈
0000_,19,170b24(00):禱を事として顯榮利祿に耽り、眞摯に佛道を求むる
0000_,19,170b25(00):もの尠く、甚しきは干戈を弄して世の騷擾を釀すも
0000_,19,170b26(00):のなきにあらず。大師深く之を厭ひ、久安六年九月
0000_,19,170b27(00):十八歳忽ち師席を辭して西塔黑谷に遁れ、 慈眼房叡空
0000_,19,170b28(00):の室に投し、幼稚の昔より成人の今に至るまて、父
0000_,19,170b29(00):の遺言忘れかたくして隱遁の志深きよしを述ふ。叡
0000_,19,170b30(00):空隨喜して法然房源空と名く。黑谷は叡山の別所に
0000_,19,170b31(00):して、閑靜比なく、和漢の聖敎報恩藏に滿てり。叡
0000_,19,170b32(00):空上人は大原良忍の徒にして、圓頓菩薩戒の正統を
0000_,19,170b33(00):繼き、又頗る眞言密乘の達者なり。
0000_,19,170b34(00):大師此に於て戒密二敎を究め、幾ならすして血脉を
0000_,19,171a01(00):叡空上人より禀承す。加之、日夜報恩藏に入りて一
0000_,19,171a02(00):切經を披閲し、自佗宗の章疏研尋せすといふことな
0000_,19,171a03(00):し。其性の俊秀なる、難解の書と雖も三讀すれは文
0000_,19,171a04(00):義自から通暢す。此を以て早く一代の敎旨に達し、
0000_,19,171a05(00):悉く八宗の要領を得たまへり。
0000_,19,171a06(00):保元元年二十四歳叡空の室を辭し、求法を嵯峨淸凉寺に
0000_,19,171a07(00):祈り、尋いて諸宗の碩學を歷訪して、其蘊奧を叩き、
0000_,19,171a08(00):自解の分齊を述ふ。法相の藏俊、三論の寬雅、華嚴
0000_,19,171a09(00):の慶雅等、皆其造詣の深きを嘆賞せさるなし。
0000_,19,171a10(00):かくて大師智惠第一の譽街に滿ち、多聞廣學の聞世
0000_,19,171a11(00):に普しと雖も、尚ほ自ら三學の器に非さるを覺り、
0000_,19,171a12(00):出離の道に煩ひて寢食安からす。順次解脱の要路を
0000_,19,171a13(00):知らんか爲に、再ひ黑谷に籠居し、周覽年を積み一
0000_,19,171a14(00):切經を披閲し給ふこと五遍。特に善導和尚の疏釋を三
0000_,19,171a15(00):讀して、『觀經散善義』の「一心專念彌陀名號、行住
0000_,19,171a16(00):坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、
0000_,19,171a17(00):順彼佛願故」の文に至り、豁然として、彌陀大悲
0000_,19,171b18(00):の救濟は釋尊出世の本懷にして、凡夫解脱の捷徑は
0000_,19,171b19(00):念佛往生の一門に在りと決擇し、立地に顯密の行業
0000_,19,171b20(00):を閣き、專修念佛の一行に歸し、日課稱名六萬遍の
0000_,19,171b21(00):行者となり給へり。建久十年更に一萬遍を加ふ時に 高倉天皇承安
0000_,19,171b22(00):五年三月壽四十三。之を淨土開宗の紀元とす。
0000_,19,171b23(00):是に於て山を下り、庵を洛東吉水の邊當山御影堂の地に結ひ、
0000_,19,171b24(00):專ら淨土の法を演へ、念佛の行を勸めたまふ。機縁
0000_,19,171b25(00):の熟するところ化導日に盛にして歸するもの雲霞の
0000_,19,171b26(00):如し。
0000_,19,171b27(00):然れども諸宗の學匠また大師の所立を肯せす。文治
0000_,19,171b28(00):二年の秋大師五十四歳顯眞法印後ち天台座主に補すの請に應し、洛北
0000_,19,171b29(00):大原に赴き、諸宗の碩學三百餘人明遍、證眞、貞慶、智海、湛斆、永辨、靜嚴等其上首
0000_,19,171b30(00):たりと會して、一日一夜論談往復を重ね、具さに念佛
0000_,19,171b31(00):往生の時機に相應せる所以を宣説したまへは、滿座
0000_,19,171b32(00):悉く信服し、「形を見れは源空上人、實には彌陀如來
0000_,19,171b33(00):の應現か」と感嘆しけるとなん。世に之を大原問答
0000_,19,171b34(00):と稱す。是より法運益益開く。
0000_,19,172a01(00):大師自行化他唯念佛を縡としたまふと雖も、一乘圓
0000_,19,172a02(00):戒は特に其正統を繼けるを以て、請益辭するに由な
0000_,19,172a03(00):く、 後白河、 高倉、 後鳥羽三帝の戒師となり
0000_,19,172a04(00):給へり。高倉天皇は御在位の時承安五年勅請ありし
0000_,19,172a05(00):かは、禁中に參して圓戒を授けたてまつる。 後白
0000_,19,172a06(00):河法皇は屢屢仙洞に召して受戒聞法したまひ、歸敬
0000_,19,172a07(00):甚た深し。甞て往生要集を披講せしめ、叡感の餘り、
0000_,19,172a08(00):藤原隆信をして大師の眞影を圖せしめ、蓮華王院の
0000_,19,172a09(00):寶庫に納め給へり。又文治四年八月、院中の如法經
0000_,19,172a10(00):に大師をして其先達とならしめ、建久三年二月御大
0000_,19,172a11(00):漸の砌、召して往生の儀式を定めしめ給へり。其他
0000_,19,172a12(00):上西、宜秋、修明の各門院を始め、月卿雲客宮人其
0000_,19,172a13(00):化を仰いて受戒念佛するもの極めて多し。
0000_,19,172a14(00):就中、關白藤原兼實公崇敬他に異り、道契良に篤し。
0000_,19,172a15(00):建仁二年大師を拜して落飾し、圓證と號す。是より
0000_,19,172a16(00):先き建久九年の春六十六歳其請に依り『選擇本願念佛集』
0000_,19,172a17(00):を著はす。一部十六章、聖道淨土の二門を分ち、淨
0000_,19,172b18(00):土門の中に於て安心起行を辨定し、正雜二行の得失
0000_,19,172b19(00):を論し、本願念佛の勝益を顯はす。淨土一宗の要義
0000_,19,172b20(00):渾へて其中にあり。此年念佛三昧を發得し給ひ、爾
0000_,19,172b21(00):後屢屢勝相を感す。事御自筆の三昧發得記に詳なり。
0000_,19,172b22(00):其他頭光蹈蓮、暗室放光等、現證奇瑞また尠からす。
0000_,19,172b23(00):人其德を渴仰して勢至菩薩の化現と稱す。
0000_,19,172b24(00):大師の勸化一朝に滿ち四海其化を仰くに及ひ、門弟
0000_,19,172b25(00):の中專修を名として餘敎を誹り、本願に托して放逸
0000_,19,172b26(00):を行ふものありしかは、南都北嶺の衆徒之によりて
0000_,19,172b27(00):念佛の興行を停め、大師の化導を妨けんとし、元久
0000_,19,172b28(00):元年の冬、山徒大講堂に集り、之を座主眞性僧正に
0000_,19,172b29(00):訴ふ。大師之を聞き、大に憂ひ、自ら起請文七箇條
0000_,19,172b30(00):を製し、門徒宿老八十餘人をして連署せしめ、且つ
0000_,19,172b31(00):誓書を山門に送る。兼實禪閤亦座主を諭して衆徒の
0000_,19,172b32(00):憤を解かしむ。其後興福寺の欝陶猶止ます。朝に迫
0000_,19,172b33(00):り、專修念佛を糺改し、大師以下を重科に處せんと
0000_,19,172b34(00):乞ふ。朝議門徒の邪執を禁遏したまふと雖も、咎を
0000_,19,173a01(00):大師に歸するを允さす。
0000_,19,173a02(00):然るに建永元年十二月 後鳥羽上皇熊野に行幸し給
0000_,19,173a03(00):ふに際し、上皇の宮女出でで東山鹿谷の別時念佛會
0000_,19,173a04(00):に參す。門人安樂住蓮等六時禮讃を諷誦するに、其音
0000_,19,173a05(00):調哀婉にして人の感信を惹く。宮女忽ち發心し、安樂
0000_,19,173a06(00):住蓮に就て度を受く。還幸の後之を彈劾するものあ
0000_,19,173a07(00):りしかは、 上皇大に赫怒し給ひ、安樂住蓮を捕へて
0000_,19,173a08(00):之を斬に處せしむ。其累遂に大師に及ひ、建永二年
0000_,19,173a09(00):二月大師七十五歳其度牒を褫ひ、俗名藤井元彥を附して、土佐國
0000_,19,173a10(00):に配流せしめ給ふ。道俗貴賤之を悲むと雖も、大師
0000_,19,173a11(00):更に意とせす。「吾洛中に於て化導年久しと雖も、未
0000_,19,173a12(00):た邊土弘通の機を得す。平常之を憾とす。然るに今
0000_,19,173a13(00):計らさるに此命を拜す。是頗る朝恩とも謂ふへし」
0000_,19,173a14(00):と。從容として化導を止めす。門弟の中之を阻む者
0000_,19,173a15(00):あり。大師色を作して曰はく。「予たとひ死刑に行は
0000_,19,173a16(00):るとも、豈に專修の事を談せすして止むへけんや」
0000_,19,173a17(00):と。辭氣激切、聽くもの感泣せさるなし。
0000_,19,173b18(00):三月都を發して鳥羽の南門より乘船す。經ノ島、高
0000_,19,173b19(00):砂、室ノ泊、鹽飽等、路次敎益を施し、讃岐國子松
0000_,19,173b20(00):の生福寺に留まり給ふ。配所土佐を讃岐に變せしは兼實禪閤の計による遠近傳
0000_,19,173b21(00):へ聞いて化を求むるもの常に群をなす。
0000_,19,173b22(00):同年十二月、最勝四天王寺の落慶により、大赦を行
0000_,19,173b23(00):はる。大師亦勅免を蒙ると雖も、猶ほ洛中の往還を
0000_,19,173b24(00):許されさりしかは、攝津國勝尾寺に入り、草庵を西
0000_,19,173b25(00):谷に結ひて幽捿す。居ること四年。建曆元年七月
0000_,19,173b26(00):後鳥羽上皇御夢想の事あり。藤原光親兼實禪閤建永二年四月
0000_,19,173b27(00):五日薨去の遺囑により、切りに大師召還の事を奏す。乃
0000_,19,173b28(00):ち十一月十七日恩免の宣旨を賜ふ。
0000_,19,173b29(00):靑蓮院慈鎭和尚、大師の入洛を聞き、使を發して之
0000_,19,173b30(00):を迎へ、洛東大谷の禪房に居住せしむ。道俗先を爭
0000_,19,173b31(00):ひて供養し、貴賤踵を繼いて來集す。此時參院して
0000_,19,173b32(00):後鳥羽上皇に圓戒を授けたてまつる。
0000_,19,173b33(00):翌年正月二日病に罹る。大師自ら大漸の近つけるを
0000_,19,173b34(00):覺り、更に餘言を交へす、唯往生の一事を談し、高
0000_,19,174a01(00):聲に念佛し給ふのみ。法蓮房啓して曰はく。「古來の
0000_,19,174a02(00):先德皆其遺跡あり。然るに今精舍一宇も建立なし。
0000_,19,174a03(00):御入滅の後いつくを以てか遺跡とすへきや」と。大
0000_,19,174a04(00):師答へて曰はく。「跡を一廟に占むれは遺法あまねか
0000_,19,174a05(00):らす。予が遺跡は諸州に遍滿すへし。いかんとなれ
0000_,19,174a06(00):は、念佛の興行は愚老一期の勸化なり。されは念佛
0000_,19,174a07(00):を修せん所は、貴賤を論せす、海人漁人か苫屋まて
0000_,19,174a08(00):も、皆是予か遺跡なるへし」と。同二十三日宗要を
0000_,19,174a09(00):一紙に認め、之を勢觀房源智に授く。所謂一枚起請
0000_,19,174a10(00):文是なり。同二十五日正午、慈覺大師傳來の僧伽梨
0000_,19,174a11(00):衣を着し、頭北面西にして光明遍照の文を誦し、眠
0000_,19,174a12(00):るか如く入寂し給へり。世壽八十、臘六十六。實に
0000_,19,174a13(00):皇紀千八百七十二年、 順德天皇建曆二年正月二十
0000_,19,174a14(00):五日なり。都下の道俗競ひ來りて、哭泣すること連
0000_,19,174a15(00):日市の如し。門弟等遺骸を石槨に納め、禪房東岸の
0000_,19,174a16(00):勝地に葬り相議して廟堂を建つ。
0000_,19,174a17(00):大師一代の法語は、了惠上人集成して、漢和『語燈
0000_,19,174b18(00):錄』十八卷となし、一化の行狀は、舜昌法印勅を奉
0000_,19,174b19(00):して『行狀畵圖』四十八卷を編せり。志あるもの必す
0000_,19,174b20(00):就いて見るへきなり。
0000_,19,174b21(00):第三 祖德顯彰
0000_,19,174b22(00):開祖上人識德一朝に高く、化導四海に徧かりしかは、
0000_,19,174b23(00):在世滅後歷朝の崇敬淺からす。屢徽號を賜ひて其功
0000_,19,174b24(00):を彰はし、或は行狀を錄して其德を傳へ給へり。即
0000_,19,174b25(00):ち 後鳥羽天皇は文治四年慧光菩薩の號を賜ひ、
0000_,19,174b26(00):四條天皇は滅後二十三年天福二年華頂尊者と諡し、
0000_,19,174b27(00):後嵯峨天皇は滅後三十三年寬元二年正月十日通明
0000_,19,174b28(00):國師大和尚の宸翰を賜ひ、 後花園天皇は滅後二百
0000_,19,174b29(00):三十餘年淨華院等熙國師の奏請により、天下上人無
0000_,19,174b30(00):極道心者の嘉號を賜ふといふ。然れとも記錄明かな
0000_,19,174b31(00):らす。今此に悉くし難し。
0000_,19,174b32(00):又滅後三百二十八年 後奈良天皇天文八年八月、靑
0000_,19,174b33(00):蓮院尊鎭法親王の執奏により、光照大士と諡し、勅
0000_,19,174b34(00):書を當院に賜ふ。當時法親王の狀に曰はく。
0000_,19,175a01(00):就當院開山堂額義、 勅諡事令執奏之處、可
0000_,19,175a02(00):爲光照大士由被仰定間、則題之候、珍重候、内
0000_,19,175a03(00):内可被相觸門徒中候哉、猶泰憲法眼可申候也
0000_,19,175a04(00):八月二十五日 (花押)
0000_,19,175a05(00):知恩院方丈
0000_,19,175a06(00):次に滅後四百八十六年、東山天皇は將軍德川綱吉公
0000_,19,175a07(00):の奏請により、元祿十年正月十八日圓光大師と諡し
0000_,19,175a08(00):たまひ、少納言伏原宣通を當院に遣はし、開祖影前
0000_,19,175a09(00):に於て勅書を宣揚せしめ給ふ。今其狀を略記せは、
0000_,19,175a10(00):同日勅使伏原少納言板輿に乘り、宿坊先求院より列を
0000_,19,175a11(00):作りて當山に進みたまふ。
0000_,19,175a12(00):
0000_,19,175b13(00):
0000_,19,175b14(00):三門前に到り、手輿に移乘し、鞍馬の力者淨衣を着して之をく南土阪
0000_,19,175b15(00):を登れは、石橋より筵道を設く。此より步して大殿
0000_,19,175b16(00):に進み給ふ。此時山主白譽秀道上人、黑谷薰譽上人
0000_,19,175b17(00):百萬遍、淨華院は不參と共に之を堂前に迎ふ。少納言階下に於て
0000_,19,175b18(00):手水畢て太刀を撤し、上堂して内陣正面の疊に着座
0000_,19,175b19(00):し給へは、史生勅書の覽筥を捧けて其前に置く。次
0000_,19,175b20(00):に少納言勅書を宣揚し給ふ。
0000_,19,175b21(00):勅、王法與佛法比等、内外貴典章、朝家同
0000_,19,175b22(00):釋家定律、都鄙仰興盛、淨土開宗源空上人、先
0000_,19,175b23(00):究聖道之敎、后闢淨土之宗、諳彌陀誓願於胸
0000_,19,175b24(00):次、感善導提撕於定中、覩寶樹照妙境、内證
0000_,19,176a01(00):益明、步金蓮現靈光、密因忽露、即是肉身如
0000_,19,176a02(00):來、何疑勢至權迹、三朝帝師、德重于當時、四
0000_,19,176a03(00):海良導、行應于末代、皇化廣布率土、法要永傳
0000_,19,176a04(00):普天、特諡號圓光大師
0000_,19,176a05(00):元祿十年正月十八日
0000_,19,176a06(00):此時大衆一同平伏す。宣揚畢れは山主座より起ちて
0000_,19,176a07(00):勅書を頂戴し、役僧之を柳筥に載せて御影前に供ふ。
0000_,19,176a08(00):少納言是より別座に移り、山主被物の唐織一重を引
0000_,19,176a09(00):く。史生以下同しく被物あり。式畢りて勅使以下下
0000_,19,176a10(00):堂せらる。山主及餘山の丈室之を階下に送る。勅使
0000_,19,176a11(00):是より唐門を入り、大方丈に於て三献の儀式あり。
0000_,19,176a12(00):山主以下再ひ入堂して燒香禮拜し、祝辭をのへ祭文
0000_,19,176a13(00):を讀み、法要一會を修す。事『贈圓光大師號繪詞』
0000_,19,176a14(00):及ひ『元祿度贈號記』に詳なり。
0000_,19,176a15(00):又大師五百回忌に當り、中御門天皇は寶永八年正月
0000_,19,176a16(00):十八日勅使少納言平松時春を當院に遣はし、重ねて
0000_,19,176a17(00):東漸大師の徽號を賜ふ。勅書に曰はく。
0000_,19,176b18(00):勅、圓光大師勢至權迹、慧日熈熈高耀台嶽之上、
0000_,19,176b19(00):宗風穆穆始開淨土之源、念佛三昧深示群聖之蘊、
0000_,19,176b20(00):誓書一紙固結四衆之心、非師之泛慈航誰離苦
0000_,19,176b21(00):海、毎人能乘寶筏自濟迷川、遺敎邈爾既歷五
0000_,19,176b22(00):百星霜、功德浩然爰徧六十州郡、仍重寵章加
0000_,19,176b23(00):諡東漸之號也
0000_,19,176b24(00):寶永八年辛卯正月十八日
0000_,19,176b25(00):是より後五十年毎に諡號勅使の事例となり、五百五
0000_,19,176b26(00):十回忌 桃園天皇寶曆十一年正月十八日には、少納
0000_,19,176b27(00):言高辻世長勅を奉して當院に臨み、諡慧成大師の勅
0000_,19,176b28(00):書を賜ふ。
0000_,19,176b29(00):勅、圓光東漸大師、心解純眞、行操高邁、五閲
0000_,19,176b30(00):大藏、數感衆聖、講華嚴一乘則靑蛇蟠案上、
0000_,19,176b31(00):修法華三昧則白象現壇前、圓頓妙戒紹正統、
0000_,19,176b32(00):淨土要行開本基、辯才之所諭、愚者言下領納、
0000_,19,176b33(00):道德之攸蒙、明師社中輩出、懋哉慈悲備足廣度
0000_,19,176b34(00):群品、至矣智慧成滿深入諸法、今玆當五百五十
0000_,19,177a01(00):年忌辰、更加徽號、諡曰慧成大師
0000_,19,177a02(00):寶曆十一年正月十八日
0000_,19,177a03(00):又 光格天皇は文化八年正月六百回忌に當り、少納
0000_,19,177a04(00):言西洞院信順を當院に臨ましめ、弘覺大師の諡號を
0000_,19,177a05(00):賜ふ。勅書に曰はく。
0000_,19,177a06(00):勅、朕聞、道不自弘弘必由人、物不自覺覺
0000_,19,177a07(00):必待師、緬惟故吉水源空和尚、少在叡峰、博學
0000_,19,177a08(00):之名夙彰、老居吉水、專行之德彌高、戒珠明朗
0000_,19,177a09(00):隋和讓其光、慧刄鋭利干鏌愧其鈍、分難易於
0000_,19,177a10(00):聖淨、揀優劣於正雜、體二尊之大悲、揚三師
0000_,19,177a11(00):之徽猷、於是、若善若惡揖苦域而長別、無賢無
0000_,19,177a12(00):愚望樂邦以高馳、貴賤歸嚮、化風扇於一時、
0000_,19,177a13(00):緇素信服、慈澤流於百世、嗚呼如和尚、其弘道
0000_,19,177a14(00):之哲人、覺物之良師乎、三朝先皇既賜佳號以旌
0000_,19,177a15(00):盛德、玆丁六百周之忌辰、朕亦更加以弘覺大師
0000_,19,177a16(00):之諡
0000_,19,177a17(00):文化八年正月十八日
0000_,19,177b18(00):又 孝明天皇は萬延二年正月六百五十回忌に當り、
0000_,19,177b19(00):少納言交野時萬を遣はして慈敎大師の勅書を賜へ
0000_,19,177b20(00):り。曰はく。
0000_,19,177b21(00):勅、皇家御四海先窮民、所以施仁政也、釋氏
0000_,19,177b22(00):度衆生急昧者、所以解倒懸也、淨土元祖圓
0000_,19,177b23(00):光東漸慧成弘覺大師源空、德重當時、識高千古、
0000_,19,177b24(00):占地則獲吉水勝槪、興宗乃繼終南眞風、直入玄
0000_,19,177b25(00):門、逈脱大小權實之域、橫超秘術、永絶焉矣乎
0000_,19,177b26(00):哉之詮、浩渺苦海慈航、熈怡樂邦良導、凡聖倶濟、
0000_,19,177b27(00):蕩蕩乎民無能名焉、病藥相投、欣欣然擧有喜
0000_,19,177b28(00):色焉、可謂垂應化之手、資至治之休矣、今玆
0000_,19,177b29(00):丁于六百五十周忌辰、仍累加崇典、益旌芳躅、
0000_,19,177b30(00):宜諡曰慈敎大師
0000_,19,177b31(00):萬延二年正月十八日
0000_,19,177b32(00):又 明治天皇は明治四十四年第七百年御忌に際し二
0000_,19,177b33(00):月二十七日當院門主山下現有を宮中に召させられ加
0000_,19,177b34(00):諡明照大師の勅書を賜へり
0000_,19,178a01(00):
0000_,19,178b02(00):以上すへて十一號あり。中に就いて大師の諡號六回
0000_,19,178b03(00):に及ふ。是各宗に未た其例を見さる所。實に我か開
0000_,19,178b04(00):祖上人絶倫の眉目にして、宗門無上の光榮と云ふへ
0000_,19,178b05(00):きなり。
0000_,19,178b06(00):又滅後九十餘年 後伏見上皇舜昌法印に勅して、開
0000_,19,178b07(00):祖大師一化の行狀を纂輯せしめ給ふ。舜昌は江州滋
0000_,19,178b08(00):賀の人。初橫川の隆眞に就いて出家し、學顯密を兼
0000_,19,178b09(00):ね、叡山功德院に住す。又淨業を如一國師に受けて、
0000_,19,178b10(00):深く大師の芳躅を慕ふ。兼て文筆を能くするを以て
0000_,19,178b11(00):此命を拜す。乃ち大師門下の舊記を集め、徧く古老の
0000_,19,178b12(00):傳説を聞き、實を撰ひ謬を正して、一部の實錄を編
0000_,19,178b13(00):成す。總て四十八卷二百三十七段。毎段畫圖を現は
0000_,19,178b14(00):し、以て天裁を仰く。上皇叡感斜ならす。更に當時
0000_,19,178b15(00):の才臣に勅して、事實を校正し文辭を潤色せしめ、
0000_,19,178b16(00):繪所に命して委しく畫圖を成さしめ給ふ。『縁起』に
0000_,19,178b17(00):よるに、詞書は 上皇先つ宸翰を染めさせ給へは、
0000_,19,178b18(00):伏見法皇、 後二條天皇も御隨喜あり。靑蓮院尊
0000_,19,179a01(00):圓法親王、三條相國實重公、姉小路從二位濟氏卿、
0000_,19,179a02(00):世尊寺從三位行尹卿、從四位定成卿等能書の面面、
0000_,19,179a03(00):競ふて助筆したてまつる。即ち各卷の筆者は
0000_,19,179a04(00):後伏見上皇 一、二、三、七、八、
0000_,19,179a05(00):後二條天皇 十四、十五、但月輪禪閤以下は尊圓親王の筆也廿二、但或人以
0000_,19,179a06(00):下は行尹卿廿五、廿六、但上野國御家人以下濟氏卿卅三、卅四、卅五、
0000_,19,179a07(00):卅六、但勝法房の一段濟氏卿卅七、卅八、卅九、四十二
0000_,19,179a08(00):伏見天皇 四十
0000_,19,179a09(00):尊圓法親王 九、十、十一、十二、十三、十八、三十
0000_,19,179a10(00):實重公 卅一
0000_,19,179a11(00):濟氏卿 十六、十七、廿四、廿七、廿八、廿九、卅
0000_,19,179a12(00):二、四十一、四十三、四十四、四十五、四十六、四
0000_,19,179a13(00):十七、四十八
0000_,19,179a14(00):行尹卿 四、五、六、廿一、但又一紙以下濟氏卿廿三
0000_,19,179a15(00):定成卿 十九、但仁和寺に栖む以下行尹卿二十但遠江以下濟氏卿
0000_,19,179a16(00):繕寫畢りて之を官庫に納めたまふ。之を正本といふ 上皇復
0000_,19,179a17(00):叡慮ありて更に一本を重寫したまふ。其第一、第十
0000_,19,179b18(00):一、第三十一の三卷は 伏見法皇の宸翰、第八、第廿
0000_,19,179b19(00):の二卷は世尊寺行俊卿或云定成卿の筆、餘の四十三卷は
0000_,19,179b20(00):悉く 後伏見上皇の宸翰にして、之を舜昌に賜ひ、世
0000_,19,179b21(00):に流布せしめ給ふ。之を副本といふ此の如く事叡旨に發し勅
0000_,19,179b22(00):裁に及ひ宸翰に成れるを以て、世擧りて勅修御傳と
0000_,19,179b23(00):稱す。 後二條天皇の德治二年に始まり、凡そ十餘
0000_,19,179b24(00):年を經て大成すといふ。後舜昌法印御傳總修の賞と
0000_,19,179b25(00):して當院第九代の別當に補せられし時、更に官庫の
0000_,19,179b26(00):正本を當院に下し賜ひ、足利尊氏公爲に唐櫃三合を
0000_,19,179b27(00):寄せて之を納めしむ。是に於て正副二本倶に當院の
0000_,19,179b28(00):重寶となれり。其後第十二世誓阿上人兵火の難を恐
0000_,19,179b29(00):れて副本を大和國當麻に移し、往生院を建てて之を
0000_,19,179b30(00):護持す。今猶ほ彼寺第一の重寶たり。又正本は永く
0000_,19,179b31(00):當院の寶庫に珍藏し、中世歷代の住持之を宮中に披
0000_,19,179b32(00):講するを例とせり。近世寬文七年八月 後水尾法皇
0000_,19,179b33(00):の叡覽に供へし時、「是誠に希代の名物なり、殊に數
0000_,19,179b34(00):百年の星霜を送り、應仁の兵火をも免れて四十八卷
0000_,19,180a01(00):具足して今の世まて傳はりけるも又奇なり、よろし
0000_,19,180a02(00):く秘重して宗門萬代の規模にそなふへし」と勅諚あ
0000_,19,180a03(00):り。更に一本を重寫して門主尊光法親王法皇の皇子に賜
0000_,19,180a04(00):はるへしとて、延寶の頃先つ土佐常照、住吉具慶に
0000_,19,180a05(00):畫圖を寫さしめ給ふ。丹靑未た半ならさるに親王示
0000_,19,180a06(00):寂し給ひしかは、其御沙汰も終に止みけるとなん。
0000_,19,180a07(00):近くは明治十五年十二月 明治天皇陛下叡旨を傳へ
0000_,19,180a08(00):て之を宮中に致さしめ、叡賞一週間に及はせたまへ
0000_,19,180a09(00):り。明治三十二年八月國寶に編入せらる。
0000_,19,180a10(00):其他、御忌の鳳詔、遠忌の勅會等、皇室眷遇の優渥
0000_,19,180a11(00):なる、皆悉く祖德の顯彰に非さるなしと雖も、今之
0000_,19,180a12(00):を次章に讓る。
0000_,19,180a13(00):第四 祖忌報恩
0000_,19,180a14(00):開祖上人大漸に臨み諸弟を誡めて曰はく。「予か歿後
0000_,19,180a15(00):に於て孝養の爲に、圖佛、寫經等の善、浴室、檀施
0000_,19,180a16(00):等の行を修する事なかれ。若し報恩の志あらは、唯
0000_,19,180a17(00):一向に念佛すへし。平生の時自行化他唯念佛の一行
0000_,19,180b18(00):に局る。歿後の追修寧そ自餘の諸善を雜へんや」と。
0000_,19,180b19(00):然るに法蓮房等世間の風儀に順して、中陰累七の作
0000_,19,180b20(00):善餘法を雜ふ。是一は他宗の碩德を迎へて法儀を盛
0000_,19,180b21(00):にし、一は之によりて南北の猜疑を避くるにありし
0000_,19,180b22(00):と雖も、固より大師上人の志にあらす。大師は事に
0000_,19,180b23(00):當り常に別時念佛を用ゐ給ひしかは、遺弟等大師の
0000_,19,180b24(00):忌景を迎ふる毎に大谷に集會し、一七日別時念佛を
0000_,19,180b25(00):興行し、以て報恩に擬するを例とせり。
0000_,19,180b26(00):降りて足利氏の中世、大譽上人關東より入洛し、百
0000_,19,180b27(00):萬遍及當山に住して、盛に宗風を宣揚するに當り、
0000_,19,180b28(00):祖忌の法式整はさるを見て、其法則を定め、諷誦を
0000_,19,180b29(00):製す。曲調典雅遂に永式となる。
0000_,19,180b30(00):其後大永四年、大師滅後三百十三年 後柏原天皇當山祖忌の甚
0000_,19,180b31(00):た振はさるを軫念したまひ、現住超譽存牛上人第廿五世に
0000_,19,180b32(00):詔して、毎年正月京畿の門葉を當院に集め、一七日
0000_,19,180b33(00):晝夜開祖上人の御忌を修せしめ給ふ。勅に曰はく。
0000_,19,180b34(00):朕聞、挹流派者緬尋其源、愛枝葉者力培其
0000_,19,181a01(00):根、蓋知恩敎院者淨宗創業道塲、祖師入寂靈跡、
0000_,19,181a02(00):遺敎布于海内、屬刹徧于國中、苟爲其末流者、
0000_,19,181a03(00):寧可忘本源乎、自今而後遇孟春月、宜令集
0000_,19,181a04(00):會京畿門葉、一七晝夜修法然上人御忌也、追遠之
0000_,19,181a05(00):誼、想應若此、故玆詔示宜知悉矣
0000_,19,181a06(00):大永四年正月十八日
0000_,19,181a07(00):是より後年年御忌を迎ふる毎に、聖旨を奉戴して一
0000_,19,181a08(00):七晝夜大法會を開き、毎日門中の耆宿をして諷誦を
0000_,19,181a09(00):唱導せしむ。其簡選に當れるもの、法主に代りて大
0000_,19,181a10(00):衆を率ひ、禮盤に登りて法則を正す。 天皇また笏
0000_,19,181a11(00):を割きて超譽に賜ひ、引聲念佛の音節を整へしめ給
0000_,19,181a12(00):ふ。
0000_,19,181a13(00):此御忌法要は、慶長の恢興にともなひ益益之を盛修
0000_,19,181a14(00):し、諸國の門末登嶺して法筵に列なる。其唱導師を
0000_,19,181a15(00):初讃、重役の二に分ち、初讃は京都及ひ大阪此は隔年一人
0000_,19,181a16(00):門中法によりて、廿、廿一、廿三の三日間、毎日一
0000_,19,181a17(00):人宛之を勤め、重役は京門中初讃を了れる者、順次
0000_,19,181b18(00):に四年間繼續して之を勤修せり。重役は廿四日、廿二日廿五日、十九日と次第す
0000_,19,181b19(00):明治の昭代に及ひ、海陸の交通開くるに從ひ、全國
0000_,19,181b20(00):門末信徒の參列するもの益益多く、十一年に至り、都
0000_,19,181b21(00):鄙老幼の登嶺に便せんか爲め、陰曆正月を改めて陽
0000_,19,181b22(00):曆四月之を執行し、廿五日當日及ひ十九日初日を重役の
0000_,19,181b23(00):唱導日と定め、餘の五日を以て初讃に充つ。京門中三日、大阪
0000_,19,181b24(00):門中二日間 凡そ宗宗開祖の聖忌を修するに、各各其稱呼
0000_,19,181b25(00):を異にす。而して本宗獨り御忌と稱して歷朝の尊儀
0000_,19,181b26(00):に准する所以のもの、實に此大永の詔書に基けり。
0000_,19,181b27(00):末流たるもの深く朝恩を欽仰すへきなり。
0000_,19,181b28(00):例歳の御忌既に此の如し。其毎五十年の大忌に至り
0000_,19,181b29(00):ては、更に盛儀を極む。其四百回忌以往の事歷は、
0000_,19,181b30(00):寬永の災に記錄燒失して之を知るに由なきも、 後
0000_,19,181b31(00):西院天皇萬治四年正月の四百五十回忌には、諸國の
0000_,19,181b32(00):末山を上洛せしめ、門主尊光法親王當日の唱導を勤
0000_,19,181b33(00):め給へり。
0000_,19,181b34(00):中御門天皇寶永八年正月第五百回忌を修す。六年
0000_,19,182a01(00):九月先つ觸書を諸國の門末に發し、其登嶺を促すと
0000_,19,182a02(00):共に、報謝金を献せしむ。七年阿彌陀堂を山上より
0000_,19,182a03(00):大殿の西に移し、廟堂を修復し、拜堂を新築す。八
0000_,19,182a04(00):年正月十三日、靈元上皇「華頂山」の勅額を賜ひ、之
0000_,19,182a05(00):を三門に揭く。十八日勅使平松少納言時春當院に光臨
0000_,19,182a06(00):ありて、東漸大師の諡號を賜ひ、廿二日法會の中日也には
0000_,19,182a07(00):門主尊統法親王勅を奉して四箇法要を行はせ給ふ。
0000_,19,182a08(00):本宗祖忌の勅會此に始まる。幕府隨喜して下行米三
0000_,19,182a09(00):百石を寄せ、以て其費を辨せしむ。又宮中の舞樂臺
0000_,19,182a10(00):を移して舞樂を催ふす。西園寺大納言致季日野中納言
0000_,19,182a11(00):輝光六條宰相中將有藤の三卿着座し、甘露寺頭辨尚長法事
0000_,19,182a12(00):を奉行す。樂行事には持明院中將基雄綾小路中將俊宗布
0000_,19,182a13(00):施取殿上人には唐橋侍從在廉豐岡左兵衞佐資時梅小路左
0000_,19,182a14(00):兵衞佐定代岡崎左衞門佐國廣高丘侍從季敦任命せらる。同
0000_,19,182a15(00):日巳刻、門主法親王御殿より行列美美しく官人扈從
0000_,19,182a16(00):を率ゐて堂前の幄屋に入り、又更に列を作して入堂
0000_,19,182a17(00):したまふ。其法事次第左の如し。
0000_,19,182b18(00):勅會圓光東漸大師五百年御忌法事次第
0000_,19,182b19(00):前日檢校堂内莊嚴衆僧座席並樂器等
0000_,19,182b20(00):當日寅刻於樂屋發亂聲三節奏神分
0000_,19,182b21(00):一番作相 外座僧衆集會堂内左右席着座
0000_,19,182b22(00):二番作相 公卿殿上人並地下役人參堂
0000_,19,182b23(00):職衆集會三門内之幄屋前
0000_,19,182b24(00):導師乘輿供奉行列
0000_,19,182b25(00):次衆僧前治部省玄蕃寮着出居座
0000_,19,182b26(00):奉行頭辨着出居座
0000_,19,182b27(00):次公卿着座
0000_,19,182b28(00):次導師入於幄内
0000_,19,182b29(00):次於樂屋發亂聲
0000_,19,182b30(00):次衆僧前左省右寮左右相分率於衆僧
0000_,19,182b31(00):次衆僧進步 行列
0000_,19,182b32(00):衆僧前左右 引頭左右各一人 讃衆左右各五人 梵音衆左右各六人
0000_,19,182b33(00):散華衆左右各五人灑水一人 唄師左右各一人 長老衆左右各五人
0000_,19,182b34(00):次衆僧前到階下左右止立 衆僧入堂各守標住立
0000_,19,183a01(00):而後着座
0000_,19,183a02(00):次迎導師 舞人樂人出樂屋外左右列立鳥蝶同
0000_,19,183a03(00):列凡五十四人
0000_,19,183a04(00):次吹調子平調
0000_,19,183a05(00):次樂行事左右率舞人樂人參向幄之前 行列
0000_,19,183a06(00):左 樂行事 舞人奚婁爲先 迦陵頻 樂人
0000_,19,183a07(00):右 樂行事 舞人壹皷爲先 胡蝶 樂人
0000_,19,183a08(00):次作樂鳥向樂 一曲奏畢賜祿左右
0000_,19,183a09(00):次導師出幄 執綱二人執蓋一人持幡童左右從僧左右各二人
0000_,19,183a10(00):前行 十弟子從後 上童並坊官 御後官人撿非
0000_,19,183a11(00):違使 供奉
0000_,19,183a12(00):衆僧前尚在階下左右止立
0000_,19,183a13(00):次導師上堂執香爐着禮席 樂止 衆僧前退去
0000_,19,183a14(00):執綱執蓋退入 樂行事率舞人樂人入於樂屋
0000_,19,183a15(00):從僧先進辨備道具禮席展座具高座敷草座
0000_,19,183a16(00):前机安居筥脇机安香爐筥共如意設畢着外
0000_,19,183a17(00):座
0000_,19,183b18(00):次總禮伽陀發聲 吹音取 作樂廻盃樂
0000_,19,183b19(00):導師三禮登高座 衆僧同唱 十弟子着座 樂
0000_,19,183b20(00):止
0000_,19,183b21(00):次堂童子四人着座圖書寮爲先
0000_,19,183b22(00):次圖書官人鳴金皷二下 作樂十天樂
0000_,19,183b23(00):傳供 正面階級左右列童子八人 階上左右列弟
0000_,19,183b24(00):子十人 左右童子各執供具授十弟子十弟子
0000_,19,183b25(00):次第傳授備堂内之机上
0000_,19,183b26(00):次殿上人二人布施取之上﨟捧佛布施備高座之脇机上
0000_,19,183b27(00):次振鉾三節
0000_,19,183b28(00):次供舞左迦陵頻右胡蝶 舞畢入於樂屋
0000_,19,183b29(00):次鳴金皷一下 作樂胡飮酒
0000_,19,183b30(00):唄師左右二人座起着左右之座 坐畢發聲
0000_,19,183b31(00):賦華筥 堂童子四人左右相分圖書寮爲先就
0000_,19,183b32(00):華筥机下圖書執華筥授堂童堂童授殿上人
0000_,19,183b33(00):殿上人三人次第賦導師並僧正兩人前次圖書又
0000_,19,183b34(00):執華筥授堂童堂童分賦左右四十三人衆僧但除引頭賦畢
0000_,19,184a01(00):復座
0000_,19,184a02(00):次衆僧内外座之大衆起立 作樂賀殿急
0000_,19,184a03(00):散華師二人 發聲 衆僧同唱 散華畢 樂止
0000_,19,184a04(00):衆僧着座 唄師復座
0000_,19,184a05(00):次鳴金皷一下 作樂拔頭
0000_,19,184a06(00):讃衆起立唱讃讃頭二人執鈸餘者執華筥 職衆起立助音 讃畢
0000_,19,184a07(00):鳴鈸 樂止 着座
0000_,19,184a08(00):次鳴金皷一下 作樂五常樂
0000_,19,184a09(00):梵音衆起立作梵音頭二人執香爐餘者執華筥 職衆起立唱和
0000_,19,184a10(00):梵畢着座 樂止
0000_,19,184a11(00):次鳴金皷一下 供舞 左萬歳樂右延喜樂
0000_,19,184a12(00):撤華筥 導師並僧正兩人之華筥極撤之衆
0000_,19,184a13(00):僧之華筥堂童撤之圖書寮就華筥机下各授圖
0000_,19,184a14(00):書圖書收之
0000_,19,184a15(00):次導師唱導
0000_,19,184a16(00):神分
0000_,19,184a17(00):表白
0000_,19,184b18(00):諷誦
0000_,19,184b19(00):發願 四弘 祈願 佛名
0000_,19,184b20(00):讃歎
0000_,19,184b21(00):隨意
0000_,19,184b22(00):迴向
0000_,19,184b23(00):次後伽陀發聲 鳴金皷二下 作樂長慶子
0000_,19,184b24(00):導師下高座執香爐着禮席禮拜而退着座
0000_,19,184b25(00):樂止
0000_,19,184b26(00):次被物
0000_,19,184b27(00):導師 唐織一重大納言 厚板一重中納言 縫薄一
0000_,19,184b28(00):重宰相
0000_,19,184b29(00):大僧正 白綾一重大納言 同一重中納言
0000_,19,184b30(00):僧正 白綾一重中納言 同一重宰相
0000_,19,184b31(00):長老左右十三人 各平絹一重殿上人五人
0000_,19,184b32(00):導師並僧正兩人之被物御藏出納極公卿次第傳
0000_,19,184b33(00):執 長老十三人之被物御藏出納殿上人次第傳執
0000_,19,184b34(00):次鳴金皷一下 入調舞 左右遞奏舞
0000_,19,185a01(00):左 甘州 太平樂 陵王
0000_,19,185a02(00):右 登天樂 古鳥蘇 納蘇利
0000_,19,185a03(00):次撤被物 導師之被物坊官二人撤之 僧正兩
0000_,19,185a04(00):人之被物各侍者二人撤之 長老十三人各自掛
0000_,19,185a05(00):之
0000_,19,185a06(00):次衆僧退出 先下次上左右二行次第退去
0000_,19,185a07(00):次從僧十弟子降階下 執葢進來執綱如入堂之
0000_,19,185a08(00):儀 衆僧前左右先行
0000_,19,185a09(00):次導師退出如入儀 還列還城樂
0000_,19,185a10(00):到幄前乘輿
0000_,19,185a11(00):次公卿退出
0000_,19,185a12(00):寶永八辛卯年正月二十二日辰半刻一番作相、已上
0000_,19,185a13(00):刻二番作相、未下刻法事畢、以日未暮主殿寮無立
0000_,19,185a14(00):庭燎之儀
0000_,19,185a15(00):同廿三日日中法要後、東河原光福寺其徒衆三百餘人
0000_,19,185a16(00):と共に、堂前に於て六齋念佛を興行す。廿五日導師
0000_,19,185a17(00):現住四十三世應譽圓理大僧正なり。餘日の唱導は京阪門
0000_,19,185b18(00):末より簡選すること例忌の如し。
0000_,19,185b19(00):又五百五十回忌は 桃園天皇寶曆十一年に當る。八
0000_,19,185b20(00):年觸書を諸國門末に配布し、十年幕府に請ひて諸堂
0000_,19,185b21(00):を修復す。十一年正月十八日勅使高辻少納言世長光臨
0000_,19,185b22(00):ありて、慧成大師の勅書を賜ひ、廿二日勅會、導師
0000_,19,185b23(00):門主尊峯法親王、法事奉行萬里小路頭右大辨韶房着座
0000_,19,185b24(00):公卿花山院大納言兼濟綾小路中納言有美園池前宰相房季樂
0000_,19,185b25(00):行事持明院中將宗時山科少將敬言布施取殿上人岡崎中務
0000_,19,185b26(00):大輔國榮豐岡治部少輔尚資藤井右京權大夫兼矩梅小路兵部
0000_,19,185b27(00):權少輔定福高丘大藏大輔紹季等なり。舞樂被物等例の如
0000_,19,185b28(00):く、廿五日導師五十三世麗譽順眞大僧正。其他先忌
0000_,19,185b29(00):に同し。
0000_,19,185b30(00):又 光格天皇文化八年正月六百回忌を修す。三年十
0000_,19,185b31(00):一月觸書を諸國に發し、且つ『御忌勸誘記』を頒與し
0000_,19,185b32(00):て、各寺毎に御忌奉修を獎む。八年正月十八日勅使西
0000_,19,185b33(00):洞院少納言信順登嶺ありて、弘覺大師の徽號を賜ひ、廿
0000_,19,185b34(00):二日勅會の導師門主尊超法親王、法事奉行坊城頭辨
0000_,19,186a01(00):俊明着座公卿德大寺中宮權大夫公廸山科中納言忠言日野左
0000_,19,186a02(00):大辨宰相資愛樂行事小倉中將、綾小路少將、布施取殿上
0000_,19,186a03(00):人外山勘解由次官、樋口大藏權大夫、交野右衞門佐、
0000_,19,186a04(00):東久世治部權少輔、石山右京權大夫等にして、舞樂
0000_,19,186a05(00):被物等あり。有栖川宮織仁親王御參詣あらせらる。
0000_,19,186a06(00):廿五日導師六十四世泰譽在心大僧正なり。餘日の唱
0000_,19,186a07(00):導、廿三日の六齋念佛等亦先忌に同し。
0000_,19,186a08(00):又 孝明天皇萬延二年正月六百五十回忌には、十八
0000_,19,186a09(00):日交野少納言時萬登嶺ありて慈敎大師の諡號を賜ひ、
0000_,19,186a10(00):廿二日勅會導師門主尊秀法親王にして、法事奉行淸
0000_,19,186a11(00):閑寺權右中辨豐房着座公卿正親町三條大納言實德裏松
0000_,19,186a12(00):中納言恭光柳原右衞門督光愛樂行事櫛笥右中將隆韶高野左
0000_,19,186a13(00):少將保美布施取殿上人石山左京大夫基文樋口右馬權
0000_,19,186a14(00):頭靜康壬生修理權大夫基修竹屋左衞門佐光昭藪新大夫實方等
0000_,19,186a15(00):なり。伏見宮邦家親王御參詣あり。舞樂被物等例の
0000_,19,186a16(00):如し。廿五日導師七十二世莊譽淨嚴大僧正。餘日
0000_,19,186a17(00):の唱導、廿三日の六齋念佛等亦先例の如し。
0000_,19,186b18(00):又 明治天皇明治四十四年三月一日より七日まで四月十九日より廿五日まで
0000_,19,186b19(00):の兩期に於て第七百年御忌を修す 聖上之を叡聞あ
0000_,19,186b20(00):りて二月二十七日當院門主山下現有を宮中に召し加
0000_,19,186b21(00):諡明照大師の勅書を賜ふ、是より先き淨土宗務所は
0000_,19,186b22(00):記念傳道を奬勵し、當山は御忌凖備局を開設して諸
0000_,19,186b23(00):般の設備を爲せしかは、海陸交通の便を利用して全
0000_,19,186b24(00):國の緇素、翕然として群參し。法要の盛儀前代未聞と
0000_,19,186b25(00):稱す。即ち三月には庭儀式宮中舞樂等先忌の如く、
0000_,19,186b26(00):加ふるに各本山法主交互に導師を勤め。四月には六
0000_,19,186b27(00):齋念佛庭儀式舞樂献詠披講能狂言等あり。兩期を通
0000_,19,186b28(00):して參拜者の數、百餘萬に達すといふ。
0000_,19,186b29(00):第五 歷代略譜
0000_,19,186b30(00):開祖第一世圓光大師法然房源空上人 承安五年御開基 建曆二年正月廿五日寂壽八十
0000_,19,186b31(00):第二世勢觀房源智上人建久六年入室 建曆二年相續 文曆元年再興 曆仁元年十二月十二日於賀茂神宮堂寂壽五十六
0000_,19,186b32(00):第三世本佛房道宗上人建長二年十月二日寂
0000_,19,187a01(00):第四世道舜上人文永元年二月三日寂
0000_,19,187a02(00):第五世覺生上人文永八年六月九日寂
0000_,19,187a03(00):第六世觀明房遍空上人弘安八年九月廿一日寂
0000_,19,187a04(00):第七世了信上人永仁元年二月十三日寂
0000_,19,187a05(00):第八世如一國師諱如空 智惠光院開山 百萬遍六世元亨元年三月六日寂壽六十
0000_,19,187a06(00):第九世舜昌法印元台徒而住于叡山功德院建武二年正月十四日(一説二十五日)寂壽八十餘
0000_,19,187a07(00):第十世西阿上人文和四年八月十八日寂
0000_,19,187a08(00):第十一世圓智上人鳥羽法傳寺及山科阿彌陁寺開基延文二年三月廿七日寂
0000_,19,187a09(00):第十二世誓阿普觀上人退隱于大和國當麻創立往生院應安七年七月十九日寂壽七十八
0000_,19,187a10(00):第十三世恭阿上人永和四年九月二十日寂
0000_,19,187a11(00):第十四世助阿上人明德三年三月十六日(一説永德元年四月廿二日)寂
0000_,19,187a12(00):第十五世佐阿上人應永五年二月廿一日寂
0000_,19,187a13(00):第十六世信樂上人應永七年十月廿二日寂
0000_,19,187b14(00):第十七世法阿上人應永十四年四月廿三日寂
0000_,19,187b15(00):第十八世入阿上人文安五年八月廿六日寂
0000_,19,187b16(00):第十九世堯譽隆阿上人淨嚴坊隆堯資文明十三年九月七日寂壽六十九
0000_,19,187b17(00):第二十世空禪上人寶德二年四月廿八日寂
0000_,19,187b18(00):第二十一世大譽慶竺上人增上寺酉譽資、號行蓮社 百萬遍十九世長祿三年正月廿四日寂壽五十七
0000_,19,187b19(00):第二十二世周譽珠琳上人大譽資、號棟蓮社 長祿三年住職 文龜三年辭山 永正八年四月廿三日(一説正月廿六日)寂壽七十三
0000_,19,187b20(00):第二十三世勢譽愚底上人了曉資、號眞蓮社聖訓善公 三河大樹寺開山 永正元年八月住職 同八年辭山 同十三年四月十一日寂 壽七十三
0000_,19,187b21(00):第二十四世肇譽訓公上人了曉資、號釋蓮社 三河大恩寺中興 永正八年住職 同十七年八月十五日寂
0000_,19,187b22(00):第二十五世高顯眞宗國師肇譽資、號尊蓮社超譽存牛 松平親忠息永正十七年冬住職 大永七年辭山 天文十八年十二月二十日寂 壽八十一 安政四年閏五月十一日追諡國師號
0000_,19,187b23(00):第二十六世保譽源派上人勢譽資、號歎蓮社 大和香久山法然寺開山、大永七年住職 享祿初辭山 天文廿一年三月三十日寂
0000_,19,187b24(00):第二十七世德譽光然上人保譽資、號浩蓮社聰欣 享祿之初住職天文廿三年十月辭山 弘治元年七月二十四日寂
0000_,19,188a01(00):第二十八世浩譽聰補上人德譽資、内大臣萬里小路秀房公息、號九蓮社 天文廿三年十一月住職 文祿四年十月辭山 慶長三年十一月十七日寂壽七十八
0000_,19,188a02(00):第二十九世滿譽尊照僧正浩譽資、 内大臣秀房公之孫、 號行蓮社九花 文祿四年十月住職 元和六年六月廿五日寂壽五十九
0000_,19,188a03(00):第三十世城譽法雲上人號馨蓮社雨杲元和六年十月台命住職(武藏越谷天嶽寺より)寬永四年十二月朔日寂
0000_,19,188a04(00):第三十一世然譽源正上人號太蓮社 寬永五年七月台命住職(大巖寺所化) 同年八月五日寂
0000_,19,188a05(00):第三十二世雄譽靈巖上人號檀蓮社松風 寬永六年六月廿五日台命住職(靈巖寺より) 同十八年九月朔日寂壽八十八
0000_,19,188a06(00):第三十三世圓譽廓源上人號本蓮社欣心 寬永十九年二月台命住職(光明寺閑居)慶安元年七月四日寂壽七十二
0000_,19,188a07(00):第三十四世心譽文宗上人號深蓮社慈曄慶安元年八月台命住職 飯沼弘經寺より)同二年十二月八日寂
0000_,19,188a08(00):第三十五世勝譽舊應上人號超蓮社信阿慶安三年正月台命住職光明寺より)明曆三年三月朔日寂
0000_,19,188a09(00):第三十六世帝譽尊空上人靈巖資、伏見宮守邦親王御息、號眞如院天蓮社照滿 明曆三年六月台命住職(靈巖寺より) 寬文三年十二月辭職 元祿元年十一月七日寂壽七十三
0000_,19,188a10(00):第三十七世玄譽知鑑上人號信蓮社忠阿寂照 寬文三年十二月廿四日台命住職(光明寺より) 延寶二年四月十九日辭職 同六年三月六日寂壽七十三
0000_,19,188a11(00):第三十八世玄譽萬無上人號直蓮社心阿 延寶二年五月二日台命住職(光明寺より) 同九年六月廿五日寂壽七十五
0000_,19,188b12(00):第三十九世直譽感榮上人號正蓮社信阿 延寶九年八月廿四日台命住職(大光院より) 貞享四年十二月朔日寂壽八十餘
0000_,19,188b13(00):第四十世專譽孤雲上人號稱蓮社名阿 元祿元年二月十三日台命住職(光明寺より) 同四年十一月六日寂壽六十八
0000_,19,188b14(00):第四十一世宏譽良我上人號督蓮社信阿 元祿四年十二月十日台命住職(光明寺より) 同六年十二月廿九日寂壽六十三
0000_,19,188b15(00):第四十二世白譽秀道上人號本蓮社至心 元祿七年正月廿九日台命住職(傳通院より) 寶永四年三月十一日寂壽七十七
0000_,19,188b16(00):第四十三世應譽圓理大僧正號相蓮社眞阿實空 寶永四年三月廿三日台命住職(光明寺より) 同年八月廿七日任官 正德五年五月廿二日辭職 享保十年九月五日寂壽七十六
0000_,19,188b17(00):第四十四世通譽岸了上人號入蓮社仰阿到彼 正德五年六月十九日台命住職(光明寺より) 享保元年七月十七日寂壽七十
0000_,19,188b18(00):第四十五世然譽澤春上人號本蓮社自致 享保元年八月六日台命住職(傳通院より) 同三年七月廿五日寂壽七十
0000_,19,188b19(00):第四十六世然譽了鑑大僧正號任蓮社運阿法爾 享保三年八月十二日台命住職(傳通院より) 同十二年六月十九日任官 同八月五日寂
0000_,19,188b20(00):第四十七世照譽見超上人號眞蓮社仰阿如空 享保十二年八月廿六日台命住職(傳通院より) 同十七年正月七日寂
0000_,19,188b21(00):第四十八世堅譽往的大僧正號正蓮社良阿不卻 享保十七年二月二日台命住職(傳通院より) 同十八年四月十六日任官 元文三年四月廿五日寂
0000_,19,188b22(00):第四十九世稱譽眞察大僧正號名蓮社圓阿即生 元文三年五月十六日台命住職(光明寺より) 同六月廿九日任官延享二年四月四日寂壽七十六
0000_,19,189a01(00):第五十世靈譽鸞宿大僧正號臺蓮社洞阿光音 延享二年五月二日台命住職(常福寺より) 同三年四月五日任官寬延三年十月十五日寂
0000_,19,189a02(00):第五十一世喚譽雲頂大僧正號遣蓮社慈風寬延三年十一月十二日台命住職(傳通院より) 寶曆元年十月廿九日任官 寶曆三年二月五日寂
0000_,19,189a03(00):第五十二世團譽了風大僧正號光蓮社舜阿攝化 寶曆三年三月十四日台命住職(光明寺より) 同四年閏二月十九日任官 同年九月三日寂壽七十二
0000_,19,189a04(00):第五十三世麗譽順眞大僧正號嚴蓮社善阿淨光自爾 寶曆四年十月七日台命住職(光明寺より) 同五年四月廿一日任官 同十三年八月廿日辭職 明和六年四月十二日寂
0000_,19,189a05(00):第五十四世曹譽澤眞大僧正號潤蓮社慈孝 寶曆十三年九月廿五日台命住職(傳通院より) 同年十一月廿一日任官 明和二年七月廿五日寂
0000_,19,189a06(00):第五十五世興譽正含大僧正號仁蓮社願阿海幢 明和二年八月廿六日台命住職(光明寺より) 同三年四月廿八日任官 同六年十月二日寂壽八十
0000_,19,189a07(00):第五十六世覺譽敎意大僧正號金蓮社如阿即生 明和六年十一月四日台命住職(光明寺より) 同七年九月廿日任官 同八年十一月十二日寂壽七十二
0000_,19,189a08(00):第五十七世檀譽貞現大僧正號栴蓮社乘阿大愚 明和八年十二月八日台命住職(光明寺より) 安永元年九月廿九日任官 同九年七月十一日辭職 同九月廿四日寂
0000_,19,189a09(00):第五十八世海譽祐月大僧正號深蓮社得阿還愚 安永九年八月六日台命住職(傳通院より) 天明元年四月廿二日任官 同四年七月五日寂
0000_,19,189a10(00):第五十九世實譽興玄大僧正號誠蓮社聖阿德雲 天明四年八月八日台命住職(傳通院より) 同五年三月十八日任官 寬政三年八月七日辭職 同八年三月十八日寂
0000_,19,189b11(00):第六十世誠譽定説大僧正號見蓮社尊阿起信 寬政三年九月廿五日台命住職(光明寺より) 同四年三月五日任官 同十年九月十日辭職 享和二年正月三日寂
0000_,19,189b12(00):第六十一世仰譽聖道大僧正號信蓮社空阿如幻 寬政十年十月二日台命住職(傳通院より) 同十一年五月廿三日任官 享和元年九月十六日寂
0000_,19,189b13(00):第六十二世聖譽靈麟大僧正號體蓮社心阿具堂 享和元年十月十六日台命住職(傳通院より) 同二年四月廿七日任官 文化三年四月十三日寂
0000_,19,189b14(00):第六十三世君譽智嚴大僧正號愛蓮社敞阿都息 文化三年五月十八日台命住職(傳通院より) 同四年三月廿八日任官 同六年七月十九日寂
0000_,19,189b15(00):第六十四世泰譽在心大僧正號淸蓮社妙阿純厚 文化六年八月十六日台命住職(傳通院より) 同七年三月廿七日任官 文政三年九月四日辭職 同五年九月廿七日寂壽七十九
0000_,19,189b16(00):第六十五世迎譽貞嚴大僧正號等蓮社無礙行阿 文政三年十月三日台命住職(傳通院より) 同四年四月十九日任官 同十年六月十八日寂
0000_,19,189b17(00):第六十六世察譽貞瑞大僧正號明蓮社喚阿飮光 文政十年七月二十日台命住職(光明寺より) 同十一年三月晦日任官 天保二年十二月廿六日寂
0000_,19,189b18(00):第六十七世聽譽説行大僧正號諦蓮社如實性阿 天保三年二月二日台命住職(光明寺より) 同四年四月十四日任官 同七年十二月十八日辭職 嘉永三年四月十七日寂
0000_,19,189b19(00):第六十八世響譽説玄上人號法蓮社演阿天僊 天保八年正月廿三日台命住職(光明寺より) 同九年閏四月廿一日寂
0000_,19,189b20(00):第六十九世方譽順良大僧正號但蓮社因阿可松牀 天保九年六月十日台命住職(光明寺より) 同十年四月三日任官 弘化元年十一月十一日辭職 同二年十二月十六日寂
0000_,19,190a01(00):第七十世赫譽歡幢大僧正號顯蓮社光明阿寶喜 弘化二年五月廿六日台命住職(大光院より) 同三年五月十四日任官 嘉永元年七月廿六日寂
0000_,19,190a02(00):第七十一世萬譽顯道大僧正號德蓮社所歸命阿隆遂 嘉永元年九月十九日台命住職(勝願寺より) 同年十月廿二日任官 安政五年五月十二日寂
0000_,19,190a03(00):第七十二世莊譽淨嚴大僧正號得蓮社專阿天琳安政五年八月四日台命住職(光明寺より) 同年十二月三日任官 文久元年四月十日寂
0000_,19,190a04(00):第七十三世名譽學天大僧正號實蓮社祐阿因順文久元年七月十三日台命住職(光明寺より) 同年八月廿四日任官明治三年十一月廿六日寂壽六十七
0000_,19,190a05(00):第七十四世隨譽俊光大敎正號天蓮社順阿齊祥 明治四年十月二日大内史奉勅補任(傳通院より) 同五年五月任權少敎正 同年七月十一日任大敎正 同七年四月十九日辭職 同年五月廿一日寂
0000_,19,190a06(00):第七十五世順譽徹定大敎正號隨蓮社金剛寶阿松翁 明治七年四月十七日敎部省補任住職(傳通院より) 同八年三月七日任大敎正 同二十年四月辭職同二十四年三月十五日寂壽七十八
0000_,19,190a07(00):第七十六世立譽行誡大敎正號建蓮社晋阿修善奉 明治二十年四月六日内務大臣補任住職(增上寺前住) 同廿一年四月廿五日寂壽八十三
0000_,19,190a08(00):第七十七世鳳譽靈瑞大僧正號麟蓮社龜阿眠龍 明治廿一年六月五日一宗推戴内務補任(增上寺より) 同廿九年五月十三日寂壽七十九
0000_,19,190a09(00):第七十八世竟譽運海大僧正號到蓮社任阿無功 明治廿九年七月一宗推戴内務補任(增上寺より)同三十五年四月廿八日辭職同三十七年十二月廿一日寂壽七十六
0000_,19,190a10(00):第七十九世孝譽現有大僧正號謙蓮社善阿葵堂 明治三十五年五月一宗推戴内務補任(增上寺より)
0000_,19,190b11(00):第六 寺門沿革
0000_,19,190b12(00):開祖上人御往生の後、遺弟等追慕の情に堪えす、慈恩
0000_,19,190b13(00):を報せんか爲に廟堂を營みて如在の誠を致し、又法
0000_,19,190b14(00):語を流布し、『選擇集』を開版して遺法の弘通に力め
0000_,19,190b15(00):しかは、淨土に歸するもの日に月に其數を增し、瑞夢
0000_,19,190b16(00):を傳へて遠近緇素大谷に參集し、念佛の興行斯に最
0000_,19,190b17(00):も盛なり。是に由て他宗の徒漸く之を嫉み、以て諸宗
0000_,19,190b18(00):の怨敵、佛法の魔障なりとし、或は朝に奏して念佛停
0000_,19,190b19(00):止の宣旨を仰き、或は書を著して選擇廢立の不當を
0000_,19,190b20(00):鳴らす。中にも並榎の定照『彈選擇』を作りて遺弟隆
0000_,19,190b21(00):寬を挑む。隆寬『顯選擇』を著はして其僻難を嘲りし
0000_,19,190b22(00):かは、定照大に憤り、山門の衆徒を使嗾して、嘉祿
0000_,19,190b23(00):三年六月座主圓基僧正に訴へ、朝に迫りて念佛を停
0000_,19,190b24(00):止し、隆寬等を流し、大谷の廟堂を破却せんと乞ふ。
0000_,19,190b25(00):終に 勅許を得て、山門の所司專當等大谷に集り、將
0000_,19,190b26(00):に廟堂を破り遺骸を發かんとす。時に京都の守護北
0000_,19,190b27(00):條時氏之を聞き、内藤西佛を遣はして制せしむれと
0000_,19,191a01(00):も聽かす。即夜遺弟竊かに遺骸を嵯峨に移す。宇都
0000_,19,191a02(00):宮蓮生、千葉法阿、内藤西佛等家子郞等を催具して路
0000_,19,191a03(00):次を警衞す。其數一千餘人に達すといふ。翌年正月之
0000_,19,191a04(00):を粟生野に荼毘したてまつる。山徒また『選擇集』及
0000_,19,191a05(00):ひ其印版を奪ひ、悉く之を燒棄す。是に於て敎運一
0000_,19,191a06(00):時に挫折し、祖跡全く湮滅に歸せり。勢觀房源智上
0000_,19,191a07(00):人深く之を慨き。其後七年、文曆元年朝に奏して大
0000_,19,191a08(00):谷を復興し、始て知恩院大谷寺と稱す。 四條天皇
0000_,19,191a09(00):嘉して勅願所となし、勅額を賜ふに至る。
0000_,19,191a10(00):源智上人は備中守平師盛の子、内大臣重盛公の孫な
0000_,19,191a11(00):り。幼より大師に常隨給仕すること十八年。大師の
0000_,19,191a12(00):憐愍他に異り。宗戒兩脈並に聖敎房舍等悉く之を付
0000_,19,191a13(00):屬したまへり。然れとも性隱逸を好み、自行を本と
0000_,19,191a14(00):して法幢を建つることなし。此時に當り、大師の門
0000_,19,191a15(00):下異義紛亂として各流派を分つ。鎭西の聖光、西山
0000_,19,191a16(00):の善惠、長樂寺隆寬、九品寺覺明の四家を其最とす。
0000_,19,191a17(00):中に於て鎭西の聖光房能く師傳に信順して、毫も私
0000_,19,191b18(00):見を加へす。此を以て源智上人之と親交あり。其後
0000_,19,191b19(00):聖光房附法の弟子然阿良忠洛に入りて其所承を弘む
0000_,19,191b20(00):るや、上人の附弟蓮寂房之と東山赤築地に會し、其
0000_,19,191b21(00):義道の違はさるを認め、是より永く鎭西義に依附し、
0000_,19,191b22(00):本院また其流に屬することとなりぬ。
0000_,19,191b23(00):源智上人より道宗、道舜、覺生、觀明、了信の五世、
0000_,19,191b24(00):其傳詳ならすと雖も、後嵯峨天皇寬元二年正月開祖
0000_,19,191b25(00):三十三回忌に當り、通明國師大和尚位を勅諡ありし
0000_,19,191b26(00):といふ。獅子伏象論に出つ
0000_,19,191b27(00):第八世如一國師、法を小幡の慈心良忠の資に禀け、學德
0000_,19,191b28(00):一世に秀てしかは、 伏見、 後伏見、後二條、後
0000_,19,191b29(00):醍醐四朝の歸崇を蒙り、屢屢淨土の要義を宮中に進
0000_,19,191b30(00):講す。文保元年九月 伏見法皇御臨終の知識を奉仕
0000_,19,191b31(00):し、生前に 後醍醐天皇より國師號を賜はれり。叡
0000_,19,191b32(00):山功德院舜昌法印師の道風を慕ひ、山を下りて其化
0000_,19,191b33(00):を助く。 後伏見上皇勅して開祖上人の傳記を總修
0000_,19,191b34(00):せしむ、乃ち『行狀畫圖』四十八卷を上つる。世に之
0000_,19,192a01(00):を勅修御傳といふ。後國師の跡を繼いで、當院第九
0000_,19,192a02(00):代の別當に補せらる。
0000_,19,192a03(00):其後第十二世誓阿上人京師災禍の多きを憂ひ、 後
0000_,19,192a04(00):光嚴天皇應安三年、朝に奏して大師の影像一軀御自作三
0000_,19,192a05(00):軀の内及御傳の副本を護持し、大和國當麻に退隱して
0000_,19,192a06(00):往生院を立つ。現今奧院と稱するもの是なり。
0000_,19,192a07(00):夫より物換り星移りて、 後花園天皇永享三年、當
0000_,19,192a08(00):院回祿に罹る。實に文曆の復興より百九十餘年なり。
0000_,19,192a09(00):足利將軍義敎公即時造營の令を下す、住持空禪二十世
0000_,19,192a10(00):意巧を廻らし、人別一文充四十八萬人を勸進し、數
0000_,19,192a11(00):年を出てすして佛殿影堂舊觀に復す。當時勸進の版木今尚ほ當山寶庫に藏
0000_,19,192a12(00):す
0000_,19,192a13(00):此頃洛中に於ける鎭西義は、淨華院向阿の餘流のみ
0000_,19,192a14(00):獨り世に聞えしか、嘉吉二年大譽慶竺增上寺開山酉譽資關東よ
0000_,19,192a15(00):り上洛し、初め百萬遍を興し。後ち寶德二年當院二
0000_,19,192a16(00):十一世に補し、講學布敎盛に鎭西白旗の正義を皷吹
0000_,19,192a17(00):せしかは、宗風大に揚り、京畿の間相傳へて鎭西義
0000_,19,192b18(00):の中興と稱す。
0000_,19,192b19(00):長祿四年二月靑蓮院より敷地山林所領安堵の狀を賜
0000_,19,192b20(00):はる。
0000_,19,192b21(00):第二十二世周譽珠琳に及ひ、應仁の大亂あり。京師
0000_,19,192b22(00):殆と焦土となり、本院も亦烏有に歸せり。是に由て
0000_,19,192b23(00):難を江州伊香立に避けて假栖し、新知恩院と稱す。
0000_,19,192b24(00):後その鎭靜を告くるに及ひ、文明十餘年洛に歸り、
0000_,19,192b25(00):將軍足利義政公に訴へ、朝野の賛助を得て、佛殿影
0000_,19,192b26(00):堂を舊地に營む。靑蓮院尊應准后其功を錄して、長
0000_,19,192b27(00):享二年八月山林敷地を復したまふ。
0000_,19,192b28(00):延德三年七月管領細川政元所領安堵の狀を寄す。
0000_,19,192b29(00):後柏原天皇永正十四年八月廿八日、當院再ひ回祿
0000_,19,192b30(00):に罹りしかは、現住肇譽訓公第廿四世助縁を四方に募り、
0000_,19,192b31(00):同年十二月東福寺内萬壽寺の堂宇を移して、阿彌陁
0000_,19,192b32(00):堂梁行六間桁行七間瓦敷にして禪宗の法堂の如し圓座を布く屋根一層にして粗造なりしを營搆す。
0000_,19,192b33(00):永正十七年超譽存牛第廿五世に補す。上人は三州岩
0000_,19,192b34(00):津城主松平親忠德川家康六世の祖の子なり。大永の初め、百萬
0000_,19,193a01(00):遍の住持傳譽、權貴に依附して自ら本山に處り、當
0000_,19,193a02(00):院を以て其別院に准せんとす。靑蓮院尊鎭法親王當
0000_,19,193a03(00):院に荷擔して、其非理を辯訴すれとも聽かれす。怏
0000_,19,193a04(00):怏として高野に遁れたまひしかは、山門三塔僉議し
0000_,19,193a05(00):て、朝廷及ひ幕府に訴へ、事漸く當院の利に歸し、
0000_,19,193a06(00):親王も復座し給へり。當院の規格是に於て定まる。
0000_,19,193a07(00):是より 至尊後柏原帝の御歸崇日に厚きを加へ、大永四
0000_,19,193a08(00):年正月御忌鳳詔を下して、毎歳正月京畿の門葉を當
0000_,19,193a09(00):院に集め、一七晝夜開祖上人の御忌を修せしめたま
0000_,19,193a10(00):ひ、同六年四月御大漸に臨み、超譽を召して受戒念
0000_,19,193a11(00):佛したまひしかは、翌月 後奈良天皇彌陀來迎圖惠心筆
0000_,19,193a12(00):一鋪を賜へり。斯の如く超譽上人 皇室の歸仰厚か
0000_,19,193a13(00):りしを以て、後ち 孝明天皇安政四年に至り、高顯
0000_,19,193a14(00):眞宗國師と諡せらる。又後年德川氏の本院を興隆せ
0000_,19,193a15(00):しもの、一は上人縁戚の餘光に基けり。
0000_,19,193a16(00):大永八年四月 後柏原天皇第三回の御忌に當り、
0000_,19,193a17(00):後奈良天皇親ら阿彌陀經を宸寫して當院に賜ふ。
0000_,19,193b18(00):又是時に當り、 皇室式微、帝道振はさりしかは、
0000_,19,193b19(00):本院歷代の住持普く諸國の門葉に下知して、王事に
0000_,19,193b20(00):勤めしむ。邊陬所在の本宗寺院、到る所勅願所の綸
0000_,19,193b21(00):旨勅額若くは紫衣、香衣の綸旨を帶ふるもの、多く
0000_,19,193b22(00):其勤王の功を錄するに由る。第二十七世德譽光然の
0000_,19,193b23(00):時、享祿三年御影堂を再興す。 後奈良天皇嘉稱し
0000_,19,193b24(00):て「知恩院」、「大谷寺」の額を賜ふ。
0000_,19,193b25(00):享祿四年閏五月、德譽參内して法然上人傳を披講し
0000_,19,193b26(00):たてまつる。
0000_,19,193b27(00):天文八年八月尊鎭法親王の執奏に依り、開祖上人に
0000_,19,193b28(00):光照大士と 勅諡ありしかは、法親王之を題して額
0000_,19,193b29(00):を影堂に揭く。然に十月叡山衆徒の抗議あり宣旨を召返さるるに至れり
0000_,19,193b30(00):天文十七年縁譽稱念當院の南に一心院を創め、大に
0000_,19,193b31(00):本院の化を助く。二十二年同法百十餘人と誓書し、
0000_,19,193b32(00):開祖影前に於て不斷念佛毎月廿四日夜を興行し、又資財を諸
0000_,19,193b33(00):國に募りて、御影堂を瓧葺に改む。
0000_,19,193b34(00):天文二十三年浩譽聰補二十八世を嗣く、内大臣萬里
0000_,19,194a01(00):小路秀房公の息なり、其皇室と外戚の親あるを以て
0000_,19,194a02(00):内外に重んせられ、常に宮中に參して屢屢宗要を奏
0000_,19,194a03(00):す。
0000_,19,194a04(00):弘治三年十一月 正親町天皇山越の彌陀一鋪を賜
0000_,19,194a05(00):ふ、盖し先皇此年九月五日後奈良天皇崩御御追福の爲なり。
0000_,19,194a06(00):永祿六年四月勅に應して一枚起請文を小御所に講
0000_,19,194a07(00):し。翌年九月及ひ十二年八月同しく淨敎を進講した
0000_,19,194a08(00):てまつる。
0000_,19,194a09(00):天正三年九月には毀破の綸旨を賜はり門葉衆徒の香
0000_,19,194a10(00):衣執奏を專管せしめたまふ。同九年九月また宮中に
0000_,19,194a11(00):於て法談あり。
0000_,19,194a12(00):又將軍足利義輝公は永祿三年五月親寫の一枚起請文
0000_,19,194a13(00):を寄せ。九月一宗本寺の坐次公帖を附す。
0000_,19,194a14(00):天正元年織田信長將軍足利義昭と隙あり。三月上洛
0000_,19,194a15(00):して本陣を當院に搆ふるや、白銀五百枚、鳥目五百
0000_,19,194a16(00):貫文、米三百石を寄せ、以て臨時諸堂の修復及ひ年
0000_,19,194a17(00):中の常什を辨せしめ。同十月愛宕郡百貫文の地を
0000_,19,194b18(00):寺領に充つ。同七年二月、更に寺領百石を加增す。
0000_,19,194b19(00):又豐臣氏に至り、天正十三年十一月寺領百九十石の
0000_,19,194b20(00):朱印を付し、翌年十一月二百石とし、文祿二年九月
0000_,19,194b21(00):更に二百四十六石七斗二升に加增す。
0000_,19,194b22(00):又天正十九年十二月、靑蓮院領地山林の一部を得て
0000_,19,194b23(00):境域を擴む。
0000_,19,194b24(00):文祿四年十一月浩譽上人退隱し、其資滿譽尊照浩譽の甥
0000_,19,194b25(00):第二十九世に補す。
0000_,19,194b26(00):此時に當り、德川家康公三河より起りて關八州を領
0000_,19,194b27(00):し、尋いて豐臣氏に代りて天下を掌握し、覇府を江
0000_,19,194b28(00):戸に開く、世世本宗に歸仰せるを以て、其本山にして
0000_,19,194b29(00):且つ超譽上人曾住の由緖を訪らひ、慶長八年十月寺
0000_,19,194b30(00):領七百三石餘を給し、又生母傳通院殿慶長七年八月伏見に薨す、當院に於
0000_,19,194b31(00):て葬儀を行ひ、後江戸小石川に歸葬す菩提の爲め當山境域を擴張し、大殿
0000_,19,194b32(00):諸堂を營搆せしむ。即ち現今の中下二段に在りし靑
0000_,19,194b33(00):蓮院の領地及ひ常在光院今の大庫裡の地にあり太子堂速成就院と號す、今の光玄
0000_,19,194b34(00):院の地にあり金剛寺阿彌陁堂と號す、今の福壽院、浩德院の地にあり親鸞聖人の墳墓今の祟泰院の
0000_,19,195a01(00):地にあり等を悉く他處に移し、其跡を收めて中段に大御
0000_,19,195a02(00):影堂、集會堂、大小方丈、大小庫裡等を造營し、下
0000_,19,195a03(00):段には塔頭子院を設けしむ。是に於て當山の境域は
0000_,19,195a04(00):上中下の三段より成り、北は靑蓮院に隣り、西は白
0000_,19,195a05(00):川筋に沿ひ、南は圓山及ひ祇園神祠に接し、東は背
0000_,19,195a06(00):に華頂山を負ふ。前後七年を費して諸堂落成す、同
0000_,19,195a07(00):十五年滿譽僧正十四年四月僧正法印に任せらる駿府及ひ江戸に赴き、
0000_,19,195a08(00):造營を謝す。眷遇極めて渥し。
0000_,19,195a09(00):慶長十二年家康公の奏請により、當院に宮門跡を置
0000_,19,195a10(00):かせらるることとなり、元和五年九月、 後陽成天
0000_,19,195a11(00):皇の皇子良輔親王入室得度あり。良純法親王と稱す。
0000_,19,195a12(00):幕府下段の北部に宮室を設け、門跡領千四十五石を
0000_,19,195a13(00):附す。之より尊光法親王、尊統法親王、尊胤法親王
0000_,19,195a14(00):尊峯法親王、尊超法親王、尊秀法親王相繼いて御入
0000_,19,195a15(00):室あり。一宗の首座となりたまへり。
0000_,19,195a16(00):又慶長二年九月滿譽僧正關東檀林の法度五條を定
0000_,19,195a17(00):め、元和元年增上寺觀智國師と淨土宗諸法度三十五
0000_,19,195b18(00):條を議し、家康公之を制定して、當院及ひ增上寺に交
0000_,19,195b19(00):ふ。之より當院の事務は、京門中より役者六人を選ひ
0000_,19,195b20(00):山内の役者と共に役所を組織し、一切を處理せり。
0000_,19,195b21(00):元和三年將軍秀忠公乃父の遺志を繼き、三門及ひ經
0000_,19,195b22(00):藏を經營し、五年落慶す、乃ち宋版一切經五千六百
0000_,19,195b23(00):餘卷を經藏に納む。
0000_,19,195b24(00):同六年六月滿譽僧正寂す。將軍秀忠公武藏國天嶽寺
0000_,19,195b25(00):城譽をして其跡を繼かしめ、第三十世に補す。之よ
0000_,19,195b26(00):り後當院住持の進退は台命により、江戸城中に於て
0000_,19,195b27(00):沙汰せらるることとなれり。
0000_,19,195b28(00):慶長の恢弘より二十餘年の後、 明正天皇寬永十年
0000_,19,195b29(00):正月九日、方丈より火を失し、大殿、方丈、庫裡等
0000_,19,195b30(00):悉く烏有に歸し、阿彌陀堂、勢至堂、三門、經藏のみ
0000_,19,195b31(00):纔に其災を免かるることを得たり。住持雄譽靈巖三十二世
0000_,19,195b32(00):江戸に赴きて命を待つ。四月將軍家光公令して舊例
0000_,19,195b33(00):に凖し之を再興せしむ。片桐石見守貞昌等之を奉行
0000_,19,195b34(00):し、即年十二月工を起し、凡そ八年にして御影堂、
0000_,19,196a01(00):集會堂、大小方丈、大小庫裡等悉く成る。結搆舊觀
0000_,19,196a02(00):に倍蓰し、絢爛目を奪ふ。現今の諸堂即ち是なり。
0000_,19,196a03(00):靈巖上人又洪鐘を鑄造して遠く法音を傳ふ。同十八
0000_,19,196a04(00):年江戸に赴きて造營を謝す。六月台命に依り、城中
0000_,19,196a05(00):に於て天下和順の法問を行ひ、恩賚極めて多し。是
0000_,19,196a06(00):より後寬文、元祿、寶曆、文化、萬延の諸度大修繕
0000_,19,196a07(00):を行ふ。皆幕府の經營にかかる。
0000_,19,196a08(00):第三十八世萬無上人に及ひ、延寶六年三月圓山の地
0000_,19,196a09(00):を得て大鐘樓を現地に築き元假樓圓山の下岸に在り同七年幕府に
0000_,19,196a10(00):乞ひ、祇園の社地南北十二間、東西百八十間を割き
0000_,19,196a11(00):て三門前の通路を開く。
0000_,19,196a12(00):第四十三世應譽僧正の時、寶永七年阿彌陀堂を山上
0000_,19,196a13(00):より大殿の西に移し、廟堂を修理し、拜堂を立つ。
0000_,19,196a14(00):是に於て當山の境域結搆ともに完成を告く。寬政三
0000_,19,196a15(00):年の調査に依るに、寺域すへて四萬五千七百五十餘
0000_,19,196a16(00):坪あり。
0000_,19,196a17(00):上述の如く、本院は慶長以來德川氏の庇護を蒙ると
0000_,19,196b18(00):共に、 皇室の殊遇を辱ふせること亦尠からす。當
0000_,19,196b19(00):院歷代の住持台命に依りて上洛するや、着京の即日
0000_,19,196b20(00):勅請紫衣の綸旨を賜はり、入院の後參内して 天恩
0000_,19,196b21(00):を謝し奉るを例とす。且つ年首其他慶吊の御事には、
0000_,19,196b22(00):必す參内 天機を奉伺し、參内の節は他寺に混せす、
0000_,19,196b23(00):別日に仰せ付らる。又第四十三世應譽上人以降大僧
0000_,19,196b24(00):正に任せられ、緋衣着用を許さる。加之 後陽成天
0000_,19,196b25(00):皇は屢屢彌陀の寶號を御宸筆ありて當院に賜ひ、
0000_,19,196b26(00):後水尾法皇は御歸仰特に厚く、寬永八年十月靈巖上
0000_,19,196b27(00):人に勅して、門中の長老二十人を率ゐ、院の御所に於
0000_,19,196b28(00):て彌陀超世別願の法問を行はしめ。同十一年五月に
0000_,19,196b29(00):は六波羅蜜の法談をなさしめたまふ。又寬文六年八
0000_,19,196b30(00):月には、門主尊光法親王の開祖一枚起請文を聽講あ
0000_,19,196b31(00):らせられ、同年九月十五日、玄譽知鑑三十七世及ひ徒衆十
0000_,19,196b32(00):五人を仙洞に召し、 後光明天皇十三回の國忌を奉
0000_,19,196b33(00):修せしめ、尋いて廓然大悟得無生忍の法問を聽受あ
0000_,19,196b34(00):らせられ、叡感のあまり珍膳を賜ひ、後日女院より
0000_,19,197a01(00):九條の袈裟を下したまへり。又同七年八月には、開
0000_,19,197a02(00):祖の御傳を叡覽ましまし、重寫の叡願をさへ起させ
0000_,19,197a03(00):たまへり。
0000_,19,197a04(00):又 東山天皇は元祿十年正月開祖上人に圓光大師の
0000_,19,197a05(00):徽號を賜ひ、 靈元天皇は寶永七年十一月宸翰「華
0000_,19,197a06(00):頂山」の勅額を賜ひ、 中御門天皇は寶永八年正月
0000_,19,197a07(00):開祖五百回忌に當り、重ねて東漸大師と諡し、法要
0000_,19,197a08(00):の中日二十二日には門主尊統法親王に詔して法筵を張り、
0000_,19,197a09(00):大納言花山院兼濟等をして式に與からしめ給ふ祖忌の勅
0000_,19,197a10(00):會此に始まる 桃園天皇は五百五十回忌に當り、寶曆十一年
0000_,19,197a11(00):正月先忌の如く勅會を行はしめ、慧成大師の徽號を
0000_,19,197a12(00):賜ひ、 光格天皇は文化八年正月六百回忌に臨み、弘
0000_,19,197a13(00):覺大師と諡し、勅會を行はしめ、 仁孝天皇は天保十
0000_,19,197a14(00):二年二月 先帝光格天皇の御遺品として、白銀花瓶及靑
0000_,19,197a15(00):貝花臺を賜ひ、 孝明天皇は東宮の御時、弘化三年
0000_,19,197a16(00):二月尊超法親王を請して、三歸十善戒及ひ日課念佛
0000_,19,197a17(00):を誓約あらせられ、翌年五月 先帝仁孝天皇の御遺品唐
0000_,19,197b18(00):桑文臺及ひ硯凾を御下賜あり。安政四年閏五月當山
0000_,19,197b19(00):二十五世超譽存牛に高顯眞宗國師の諡號を賜ひ、又
0000_,19,197b20(00):萬延二年正月開祖六百五十回忌にのそみ、勅會を行
0000_,19,197b21(00):はしめ、慈敎大師の勅書を賜ひ、崩御の後慶應三年、
0000_,19,197b22(00):明治天皇陛下より御遺品として靑銅花生及唐桑蒔
0000_,19,197b23(00):繪文臺を下し賜へり。
0000_,19,197b24(00):此の如く 皇室の殊遇と幕府の外護とに依り、中世
0000_,19,197b25(00):以後百事舊慣古例を逐ひて、昇平の夢を結ひし本院
0000_,19,197b26(00):も、慶應三年正月 明治天皇御踐祚ましまし、十月
0000_,19,197b27(00):德川氏大政を奉還して明治維新となるや、從來の制
0000_,19,197b28(00):度文物悉く一變し、門主尊秀法親王御復飾ありて、
0000_,19,197b29(00):知恩院宮廢絶に歸し、尋いて寺領を公收せられ、加
0000_,19,197b30(00):ふるに廢佛毀釋の聲囂囂として、本末相顧るの暇な
0000_,19,197b31(00):く、恰も敎法滅盡の期に到達せしか如く、一時混沌
0000_,19,197b32(00):の狀に陷りしと雖も、是れ偶偶獨立發展の一進路に
0000_,19,197b33(00):過きすして、時運の推移は、從來關東檀林の獨占に
0000_,19,197b34(00):委せし傳統附法の事再ひ本院に興り、却て闔宗敎化
0000_,19,198a01(00):の中心、緇素信仰の源泉となり、吉水草庵の古態に
0000_,19,198a02(00):復するに至れり。加之數代の法主錫を飛して全國を
0000_,19,198a03(00):遊化し、又常に布敎師を派して敎化に力めしかは、
0000_,19,198a04(00):本末の親善日に厚きを加へ、一時困憊を極めし本院
0000_,19,198a05(00):の財政も、漸次整理せられ。明治三十六年には阿彌
0000_,19,198a06(00):陀堂の新築に着手し、七年を閲して巍然たる兩堂相
0000_,19,198a07(00):並ひて華頂の偉觀を呈するに至り、又四十年以降大
0000_,19,198a08(00):殿諸堂の修繕を營み、燦然たる莊嚴を凝らして、四
0000_,19,198a09(00):十四年開祖大師七百年の御忌を奉修せり。以上本院
0000_,19,198a10(00):七百年間の沿革を略説し了る。
0000_,19,198a11(00):第七 知恩院宮
0000_,19,198a12(00):當院宮門跡の濫觴は、慶長の恢興に當り、皇室の歸
0000_,19,198a13(00):仰、幕府の崇信日に厚きを加ふると共に、一宗統轄
0000_,19,198a14(00):の爲め首座を設くるの必要より起れり。即ち慶長十
0000_,19,198a15(00):二年滿譽僧正職に在るの時、德川家康公志願ありて、
0000_,19,198a16(00):本宗に宮門跡を開創し給はんことを奏請せしかは、
0000_,19,198a17(00):後陽成天皇直ちに之を聽し、皇子八宮良輔親王時に四歳
0000_,19,198b18(00):を以て知恩院門主と定め給へり。家康公大に喜ひ、元
0000_,19,198b19(00):和元年奏して猶子となし、爾後歷代之に准して將軍の猶子と爲る當院下段
0000_,19,198b20(00):の北部に宮室を設け、門領一千四十五石を附せり。
0000_,19,198b21(00):親王元和五年九月十八歳にして入室得度あらせられ
0000_,19,198b22(00):良純法親王と號す。戒師滿譽僧正なり。寬永二十年
0000_,19,198b23(00):十一月故ありて甲州天目山に配せられ給ひしかは、
0000_,19,198b24(00):後水尾天皇の皇子榮宮良賢親王德川家光公の猶子
0000_,19,198b25(00):として、明曆二年五月御入室あり。第二世に補し、
0000_,19,198b26(00):尊光法親王と號す。
0000_,19,198b27(00):其より以降、第三世尊統法親王は寶永四年六月、第
0000_,19,198b28(00):四世尊胤法親王は享保十二年三月、第五世尊峯法親
0000_,19,198b29(00):王は寶曆四年八月、第六世尊超法親王は文化七年九
0000_,19,198b30(00):月、第七世尊秀法親王は萬延元年十二月を以て入室
0000_,19,198b31(00):得度したまひ、連綿相續して慶應年間に及へり。
0000_,19,198b32(00):然るに王政維新となるや、慶應三年十二月詔して諸
0000_,19,198b33(00):宗の法親王を復飾せしめ給ひしかは、當院門主尊秀
0000_,19,198b34(00):法親王も御復飾ありて、華頂宮博經親王と改稱し、
0000_,19,199a01(00):東京へ御移住あらせられ、知恩院宮廢絶に歸せり。
0000_,19,199a02(00):明治十九年一月内務大臣の指令により、從前當知恩
0000_,19,199a03(00):院は宮門跡との縁故淺からさるを以て、本院住職代
0000_,19,199a04(00):代門跡號を公稱する事となれり。
0000_,19,199a05(00):今左に御歷代の略譜を出す。
0000_,19,199a06(00):第一世 良純法親王 御父後陽成天皇(第八皇子)御母大典侍源具子
0000_,19,199a07(00):號 無礙光院宮專蓮社行譽心阿自在良純大和尚
0000_,19,199a08(00):慶長九年三月二十九日 誕生 稱八宮
0000_,19,199a09(00):同 十二年十一月廿七日 可爲知恩院門跡旨治定
0000_,19,199a10(00):同 十九年十二月十六日 爲親王 宣名直輔
0000_,19,199a11(00):元和元年六月二十八日 爲德川家康公猶子
0000_,19,199a12(00):同 五年九月十七日 入室得度(十八) 戒師當院廿九世滿譽
0000_,19,199a13(00):尊照 即日敘二品
0000_,19,199a14(00):同 五年十月廿一日 改衣
0000_,19,199a15(00):寬永二十年十一月十一日 有故配流于甲州天目山(四十)
0000_,19,199a16(00):萬治二年四月二十八日 勅免(五十六)
0000_,19,199a17(00):同 年六月二十二日 皈洛 住泉涌寺中新善光寺
0000_,19,199a18(00):寬文四年四月十三日 搆新宅於北野移住、還俗號以心菴
0000_,19,199a19(00):同 九年八月朔日 薨去(六十六) 三日葬于泉涌寺
0000_,19,199b20(00):明和五年八月 當百回忌復本位
0000_,19,199b21(00):第二世 尊光法親王 御父後水尾天皇(第十二皇子)御母中納言局藤繼子
0000_,19,199b22(00):號 無量威王院宮大蓮壯超譽勝阿神龍尊光大和尚
0000_,19,199b23(00):正保二年九月廿九日 誕生 稱榮宮
0000_,19,199b24(00):慶安四年十月 爲德川家光公猶子
0000_,19,199b25(00):承應三年四月六日 爲親王 宣名良賢
0000_,19,199b26(00):明曆二年五月八日 入室得度(十二) 戒師當院卅五世勝譽
0000_,19,199b27(00):舊應
0000_,19,199b28(00):同 年七月朔日 改衣
0000_,19,199b29(00):寬文二年三月廿五日 爲修學關東下向(十八)
0000_,19,199b30(00):同 六年三月十七日 歸洛(廿二)
0000_,19,199b31(00):同 七年三月廿七日 爲修學再下關
0000_,19,199b32(00):同 十年九月七日 歸洛(廿六)
0000_,19,199b33(00):延寶三年閏四月廿四日 爲修學三下關(卅一)
0000_,19,199b34(00):同 六年六月廿五日 歸洛(卅四)
0000_,19,199b35(00):同 七年十一月十日 叙二品
0000_,19,199b36(00):同 八年正月六日 示寂(三十六)葬于一心院山上
0000_,19,199b37(00):安永七年十二月六日 贈一品
0000_,19,199b38(00):第三世 尊統法親王 御養父靈元天皇准母新大納言局父有栖川宮幸仁親王母家女房
0000_,19,200a01(00):號 壽經光院宮源蓮社高譽等阿愍生尊統大和尚
0000_,19,200a02(00):元祿九年九月九日 誕生 稱淳宮
0000_,19,200a03(00):同 十年八月十四日 爲御養子攺稱岡宮
0000_,19,200a04(00):同 十一年八月十四日 當室相續(三)
0000_,19,200a05(00):寶永三年十月三日 爲德川綱吉公猶子
0000_,19,200a06(00):同 四年三月廿九日 爲親王 宣名良邦(十二)
0000_,19,200a07(00):同 年六月十六日 入室得度 戒師當院四十三世應譽圓理
0000_,19,200a08(00):同 年十一月 改衣
0000_,19,200a09(00):同 六年六月十九日 叙二品
0000_,19,200a10(00):同 七年九月 關東下向
0000_,19,200a11(00):同 年十月十四日 於增上寺淸揚院殿卅三回忌御導師
0000_,19,200a12(00):同 年十一月二日 歸洛
0000_,19,200a13(00):同 八年正月廿二日 宗祖大師五百回忌勅會導師
0000_,19,200a14(00):同 年五月十八日 示寂(十六葬于一心院山上
0000_,19,200a15(00):文化八年五月十六日 贈一品
0000_,19,200a16(00):第四世 尊胤法親王 御父靈元天皇(第十五皇子)御母少納言局秦仲子
0000_,19,200a17(00):號 最勝光院宮慶蓮社深譽見阿眞融尊胤大和尚
0000_,19,200a18(00):正德五年三月三日 誕生 稱悅宮
0000_,19,200a19(00):享保四年正月廿三日 當室相續(五)
0000_,19,200a20(00):同 十一年六月十五日 爲德川吉宗公猶子(十二)
0000_,19,200b21(00):同 十二年正月廿二日 爲親王 宣名榮貞(十三)
0000_,19,200b22(00):同 年三月十九日 入室得度 戒師當院四十六世然譽了鑑
0000_,19,200b23(00):同 年四月八日 改衣
0000_,19,200b24(00):同 十五年九月十五日 叙二品(十六)
0000_,19,200b25(00):元文四年十二月廿一日 示寂(二十五)葬于一心院山上
0000_,19,200b26(00):天保九年十月十九日 贈一品
0000_,19,200b27(00):第五世 尊峰法親王 御養父櫻町天皇准母靑綺門院父京極宮家仁親王母家女房
0000_,19,200b28(00):號 無邊光院宮高蓮社俊譽乘阿齊聖尊峰大和尚
0000_,19,200b29(00):寬保元年正月八日 誕生 稱富貴宮
0000_,19,200b30(00):寬延元年正月六日 當室相續(八)
0000_,19,200b31(00):同 年正月廿一日 爲御養子
0000_,19,200b32(00):寶曆三年五月六日 爲德川家重公猶子(十三)
0000_,19,200b33(00):同 四年五月廿七日 爲親王 宣名和義(十四)
0000_,19,200b34(00):同 年八月廿五日 入室得度 戒師當院五十二世團譽了風
0000_,19,200b35(00):同 五年十月十四日 改衣(十五)
0000_,19,200b36(00):同 十一年正月廿二日 宗祖大師五百五十回忌勅會導師(廿一)
0000_,19,200b37(00):同 十三年二月十五日 爲修學關東下向(廿三)
0000_,19,200b38(00):明和元年十二月十八日 歸洛(廿四)
0000_,19,200b39(00):同 二年二月九日 敘二品
0000_,19,200b40(00):天保八年七月廿一日 示寂(四十八)葬于一心院山上
0000_,19,201a01(00):第六世 尊超法親王 御養父光格天皇准母東京極院父有栖川宮織仁親王母御息所藤原福子
0000_,19,201a02(00):號 大光明院宮照蓮社耀譽眞阿芬陀梨尊超大和尚
0000_,19,201a03(00):享和二年七月十日 誕生 稱種宮
0000_,19,201a04(00):文化二年八月七日 當室相續(四)
0000_,19,201a05(00):同 五年八月十九日 爲御養子(七)
0000_,19,201a06(00):同 六年六月廿六日 爲德川家齊公猶子
0000_,19,201a07(00):同 七年四月廿七日 爲親王 宣名福道(九)
0000_,19,201a08(00):同 年九月二十七日 入室得度 戒師當院六十四世泰譽在心
0000_,19,201a09(00):同 八年正月十七日 改衣(十)
0000_,19,201a10(00):同 年正月廿二日 宗祖大師六百回忌勅會導師
0000_,19,201a11(00):同 十四年二月廿六日 叙二品(十六)
0000_,19,201a12(00):天保四年二月十日 爲修學關東下向(卅二)
0000_,19,201a13(00):同 六年四月十日 歸洛(卅四)
0000_,19,201a14(00):同 八年十一月廿二日 聽牛車(卅六)
0000_,19,201a15(00):同 十三年正月六日 爲修學再下關(四十一)
0000_,19,201a16(00):弘化元年二月十二日 歸洛(四十三)
0000_,19,201a17(00):嘉永五年八月十二日 叙一品(五十一)
0000_,19,201a18(00):同 年八月廿一日 示寂葬于一心院山上
0000_,19,201a19(00):第七世 尊秀法親王 御養父孝明天皇准母少將掌侍父伏見宮邦家親王母御息所藤原景子
0000_,19,201b20(00):嘉永四年三月廿六日 誕生 稱隆宮
0000_,19,201b21(00):同 五年十月十二日 當室相續(二)
0000_,19,201b22(00):萬延元年八月廿七日 爲御養子(十)
0000_,19,201b23(00):同 年九月 爲德川家茂公猶子
0000_,19,201b24(00):同 年十一月廿九日 爲親王 宣名博經
0000_,19,201b25(00):同 年十二月廿九日 入室得度 戒師當院七十二世莊譽淨嚴
0000_,19,201b26(00):同 二年正月十五日 改衣(十一)
0000_,19,201b27(00):同 年正月二十二日 宗祖大師六百五十回忌勅會導師
0000_,19,201b28(00):元治二年三月四日 日光山勅會下關引續修學(十五)
0000_,19,201b29(00):慶應二年十二月十二日 叙二品(十六)
0000_,19,201b30(00):同 三年二月十日 歸洛(十七)
0000_,19,201b31(00):同 四年正月七日 復飾 稱華頂宮博經親王(十八)
0000_,19,201b32(00):明治九年五月廿四日 薨去(廿六歳)
0000_,19,201b33(00):第八 門葉廣繁
0000_,19,201b34(00):開祖大師一向專修凡入報土を標榜して、淨土宗を開
0000_,19,201b35(00):創したまふと雖も、延曆、興福の二徒豪強を恃みて
0000_,19,201b36(00):新宗の興隆を喜はす。大師深く之を憚かり、在世の
0000_,19,201b37(00):間精舍を建立したまふことなく、大漸に臨みても遺
0000_,19,201b38(00):跡徧州の洪訓を垂れて、精舍の建立を誡め、同法の
0000_,19,202a01(00):群集を制し、唯稱名の寶閣を人の信念に築かんこと
0000_,19,202a02(00):を勸めたまへり。
0000_,19,202a03(00):道俗貴賤此の遺誡に感激して、益益淨敎の興隆を見
0000_,19,202a04(00):る。而して諸宗の謗難日に加はり、滅後二三十年間、
0000_,19,202a05(00):迫害至らざるなし。遺弟の中花洛に留まるものは、
0000_,19,202a06(00):籍を他門に寄せて其難を避け、然らさるものは、居
0000_,19,202a07(00):を僻陬に轉して其志を全ふせり。然れとも武威強迫
0000_,19,202a08(00):は以て永く此の大法の流通を禦くに足らず。御傳四
0000_,19,202a09(00):十二に云はく。
0000_,19,202a10(00):上人の歿後 順德院の御宇建保、 後堀河院の御
0000_,19,202a11(00):宇貞應、嘉祿 四條院の御宇天福、延應、たひたひ
0000_,19,202a12(00):一向專修停止の勅をくたさるる事ありしかども、
0000_,19,202a13(00):嚴制すたれやすく、興行ととまりかたくして、遺
0000_,19,202a14(00):弟の化導都鄙に遍く、念佛の聲洋洋として耳に滿
0000_,19,202a15(00):てり。これ豈に止住百歳の佛語むなしからすして
0000_,19,202a16(00):やうやく利物偏增の益をあらはすにあらすや
0000_,19,202a17(00):と。歷朝の念佛停止は皆諸宗の強請による是より全國到る處本宗精舍の興
0000_,19,202b18(00):建を見る。其後敎外別傳の宗流行して、公武の歸崇
0000_,19,202b19(00):を博するに及ひ、禪者の中淨敎に快からさるものあ
0000_,19,202b20(00):り。爲に其興隆を妨けられし形跡なきにあらす。
0000_,19,202b21(00):然るに室町時代に及ひ、時運の變遷に伴ひ連りに本
0000_,19,202b22(00):宗の紹隆を促せり。此時に當り、談所關東に勃興し
0000_,19,202b23(00):て、雲衲四方より集まり、碩學各地に輩出して、敎
0000_,19,202b24(00):勢日に加はる。又諸方の豪族之に歸して梵宇を營み、
0000_,19,202b25(00):領土の安寧、歿後の冥福を祈らしむるもの多し。而
0000_,19,202b26(00):して是等の衆侶祖德を追慕して京師に來り、祖廟に
0000_,19,202b27(00):詣てて眞影を拜し、深く遺跡の靈感に打たれ、永く
0000_,19,202b28(00):當院に隷せんことを乞ひ、或は叢林愈愈大にして勅
0000_,19,202b29(00):額を賜はり、勅願所に昇格せんと欲し、或は出世拜
0000_,19,202b30(00):綸の光榮に浴せんと欲するもの、其執奏を洛中の本
0000_,19,202b31(00):處に求むるの必要より、漸次に本末の關係を生する
0000_,19,202b32(00):に至れり。
0000_,19,202b33(00):當時一宗の本寺と稱するものは、洛中に於て當院及
0000_,19,202b34(00):百萬遍、淨華院の三山に過きす。中に於て淨華院は
0000_,19,203a01(00):祖師に疎く、百萬遍は其舊跡を轉して感懷深からす。
0000_,19,203a02(00):獨り當院は靈廟嚴として其蹟を存す。是闔宗輿望の
0000_,19,203a03(00):歸する所以にして、大永四年正月 後柏原天皇御忌
0000_,19,203a04(00):鳳詔を超譽に賜ひて、
0000_,19,203a05(00):知恩敎院者、淨宗創業道場、祖師入寂靈跡、遺敎
0000_,19,203a06(00):布于海内、屬刹徧于國中
0000_,19,203a07(00):と宣示したまひしもの、蓋し當時民心の景嚮を明に
0000_,19,203a08(00):したまひしものと謂ふへし。
0000_,19,203a09(00):是より宗運益益開發して、當院の興隆を促せしかは、
0000_,19,203a10(00):天正三年九月 正親町天皇より毀破綸旨を賜はりて
0000_,19,203a11(00):門末香衣の執奏を專管するに至れり。是諸國の末葉
0000_,19,203a12(00):當院に隸屬するもの益益多きを加へ、 殆ど一宗の總
0000_,19,203a13(00):本寺と稱すへき資格を具備せるに由らすんはあら
0000_,19,203a14(00):す。
0000_,19,203a15(00):降りて德川氏に至り、外其援護と内僧衆の敎化と相
0000_,19,203a16(00):待ちて、宗運隆隆として本宗の興隆昔日に十倍す。德
0000_,19,203a17(00):川氏は元三河の出にして、其香花院と定むる所のも
0000_,19,203b18(00):の皆本院に屬し、且つ當院第廿五世超譽存牛上人高顯眞宗
0000_,19,203b19(00):國師は其家門より出てて、夤縁極めて深し。而して其
0000_,19,203b20(00):關東を領し、增上寺と師檀を約するや、增上寺また古
0000_,19,203b21(00):來本院に隷屬す。是を以て慶長二年九月關東檀林の
0000_,19,203b22(00):制度五條を當院より發し、家康公之に副簡す東西相呼應して本
0000_,19,203b23(00):末の關係を明にし、關東寺院悉く當院に隷屬するに
0000_,19,203b24(00):至れり。後德川氏天下を掌握するに及ひ、當院を恢
0000_,19,203b25(00):興して大伽藍を建て、宮門跡を創めて一宗の法王と
0000_,19,203b26(00):なす。是より關東檀林に掛錫せるもの、所縁に隨ひ
0000_,19,203b27(00):て寺門を興す毎に、皆當院に隷屬せんことを求む。
0000_,19,203b28(00):現存本宗寺院の大半は、實に德川氏の初期に創設せ
0000_,19,203b29(00):られしものなり。其後寬永年中西敎の變あり。幕府
0000_,19,203b30(00):戸籍人別を擧けて之を寺院の管轄に皈せしより以
0000_,19,203b31(00):來、 諸宗各各其本末寺籍を整備し、更に移動を許さ
0000_,19,203b32(00):す。是に於て本末の關係全く定まれり。
0000_,19,203b33(00):寶曆十年の調査によるに當院嫡末二千九十二箇寺孫
0000_,19,203b34(00):末曾孫末等四千八百四十二箇寺總計六千九百三十四
0000_,19,204a01(00):箇寺あり、明治の初年廢佛毀釋の難に逢ひて其幾分
0000_,19,204a02(00):を減す、其後增上寺獨立して大本山格となり、駿遠
0000_,19,204a03(00):以東の末寺を之に附するに及ひ大に其數を減す。現
0000_,19,204a04(00):今本宗寺院の總數七千二百七箇寺の内當山に屬する
0000_,19,204a05(00):もの三千七百四十五箇寺あり、其檀信徒を合算する
0000_,19,204a06(00):ときは、優に五十萬戸、三百萬口を計上するを得べ
0000_,19,204a07(00):し。
0000_,19,204a08(00):第九 古文書類
0000_,19,204a09(00):當山に藏する古文書の中、慶長以前に於ける當山沿
0000_,19,204a10(00):革の徴證とすへきもの二十餘通を選ひ、此に採錄す。
0000_,19,204a11(00):但し書中に引用せるものは重出せす。
0000_,19,204a12(00):一後鳥羽上皇歸洛院宣 建曆元年十一月十七日藤原光親奉
0000_,19,204a13(00):有所思食被恩免訖、於專修之行者、永不
0000_,19,204a14(00):可令更、然者 院宣如此、仍執達如件
0000_,19,204a15(00):十一月十七日 權中納言(花押)
0000_,19,204a16(00):法然御房
0000_,19,204a17(00):一本堂勸進牒 永享四年五月日
0000_,19,204b18(00):東山 知恩院本堂勸進人別一文充四十八萬人
0000_,19,204b19(00):且表彌陀本願數、且爲上人報恩也
0000_,19,204b20(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b21(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b22(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b23(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b24(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b25(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b26(00):一文 一文 一文 一文 一文 一文
0000_,19,204b27(00):右勸進所修如件
0000_,19,204b28(00):永享四年五月日 勸進沙門空禪
0000_,19,204b29(00):一靑蓮院安堵之狀 長祿四年二月廿四日
0000_,19,204b30(00):知恩院敷地並山林等見四至境繪圖封裏に事、任寺家當知行之
0000_,19,204b31(00):旨、領掌不可有相違者、依 靑蓮院大僧正
0000_,19,204b32(00):御房御氣色、執達如件
0000_,19,204b33(00):長祿四年二月廿四日 法印(花押)奉
0000_,19,204b34(00):當寺住持上人御房
0000_,19,205a01(00):一靑蓮院尊應准 御書 長享二年八月九日
0000_,19,205a02(00):今度當寺再興事、爲當代一圓之經營、勵土木
0000_,19,205a03(00):之大成之條、頗可謂當院中興之開山、殆可覃
0000_,19,205a04(00):星霜於慈氏下生之曉者哉、 然上者寺家敷地山林
0000_,19,205a05(00):同寺領並法樂寺無量壽院惣別寮舍之敷地等、且訪
0000_,19,205a06(00):先規由緖、且任當知行旨、爲寺家進退、不可
0000_,19,205a07(00):有相違者也、仍爲後代之龜鏡故、所染筆之
0000_,19,205a08(00):狀如件
0000_,19,205a09(00):長享二年八月九日 尊應(花押)
0000_,19,205a10(00):知恩院住持周譽上人
0000_,19,205a11(00):一細川政元寺領安堵之狀 延德三年七月十八日
0000_,19,205a12(00):知恩院領所所名田畠並諸末寺領等事、任當知行、
0000_,19,205a13(00):彌令全領知、同段錢人夫以下諸公事、如先先令
0000_,19,205a14(00):免除之上者、可爲守護使不入地之狀如件、
0000_,19,205a15(00):辛亥延德三年七月十八日 政元(花押)
0000_,19,205a16(00):住 持
0000_,19,205a17(00):一周譽上人置文 文龜三年四月六日
0000_,19,205b18(00):東山大谷知恩院末代制誡記錄之事
0000_,19,205b19(00):一於寺家靈寶等者、任從往古之制法、於
0000_,19,205b20(00):勅定上意之外者、堅可爲不出之事
0000_,19,205b21(00):一於靈寶聖敎佛像繪像佛具道具並寺領等者、縱
0000_,19,205b22(00):雖爲住持一物而不可叶自專之儀、萬一難
0000_,19,205b23(00):去寺用之事在之者、爲住持僧衆等被申合、
0000_,19,205b24(00):各以加判可被成敗之事
0000_,19,205b25(00):一縱雖爲住持僧衆之悲母姉妹尼衆之寮庵室等、
0000_,19,205b26(00):於寺中並近所而不可立置之事
0000_,19,205b27(00):一寺家行儀法度之事、自以前之如壁書等、爲
0000_,19,205b28(00):住持可有其成敗也、於違背之輩者、不可
0000_,19,205b29(00):叶居住之事
0000_,19,205b30(00):右此條條、以先師遺誡、致寺家再興之上者、定
0000_,19,205b31(00):置之處也、若被背此旨之侶者、蒙本尊上人鎭
0000_,19,205b32(00):守三寶之冥罰、可被爲空二世悉地者也、仍
0000_,19,205b33(00):置文如件
0000_,19,205b34(00):文龜三癸亥年卯月六日當院廿一代棟蓮社周譽花押
0000_,19,206a01(00):一靑蓮院尊應准后令旨 永正元年八月廿七日
0000_,19,206a02(00):知恩院住持職事、任當住附與之旨、可令存知
0000_,19,206a03(00):給者、依 靑蓮院准三宮御氣色、執達如件
0000_,19,206a04(00):永正元年八月廿七日奉 法眼(花押)
0000_,19,206a05(00):謹上勢譽上人御房
0000_,19,206a06(00):一當院鐘銘 永正十四年十月廿九日
0000_,19,206a07(00):奉鑄洛陽東山知恩院鐘
0000_,19,206a08(00):右旨趣者、以本願沙門遵阿並祐秀等十方檀那之芳
0000_,19,206a09(00):助奉鑄者也、仍呈偈曰、大聖慈音遍十方、聞
0000_,19,206a10(00):響斷除睡貪瞋、現世安穩得自在、命終决定生
0000_,19,206a11(00):極樂
0000_,19,206a12(00):永正十四丁丑年十月二十九日 當院二十三代肇
0000_,19,206a13(00):譽書之
0000_,19,206a14(00):三條住御大工五郞左衞門尉國次
0000_,19,206a15(00):一當院再建勸進狀 永正十四年
0000_,19,206a16(00):勸進沙門敬白
0000_,19,206a17(00):請特上自靑雲下至白屋、扣大檀小檀之門
0000_,19,206b18(00):扉、歷有縁無縁之村落、聚分分施與、受個個
0000_,19,206b19(00):奉加、再建東山大谷知恩院之堂舍、擬宜西刹
0000_,19,206b20(00):之嚴土樂國之寶閣狀
0000_,19,206b21(00):夫寺院修葺之功德者、福壽增長之根源焉、法筵興
0000_,19,206b22(00):行之善根者、 官祿自在之洪基也矣、 肆震旦大宗
0000_,19,206b23(00):拵於梵宇、呈明王之嘉名、月氏須達施于佛陀、
0000_,19,206b24(00):得長者之果報、 粤當院者、厥初慈惠大師草創之
0000_,19,206b25(00):靈場、稱南禪院也、然後法然上人移住之蕭寺號
0000_,19,206b26(00):知恩院也、 後白河法皇降院宣、而闢淨土眞宗
0000_,19,206b27(00):於斯處、 高倉院明時忝叡信、而受圓頓妙戒於
0000_,19,206b28(00):上人、都而四代之戒師一天之軌範也、自爾以降、
0000_,19,206b29(00):貴賤合掌上下同志、 依之九野之道俗運步如
0000_,19,206b30(00):眉、八埏之男女續踵傾首、惟則上人者彌陀右脇
0000_,19,206b31(00):之大士、 大勢至菩薩之應作云云、壯年之古住叡
0000_,19,206b32(00):山、究四明之奧義、詳三學之妙理、披閲一切
0000_,19,206b33(00):經之誠諦、五返開悟五千卷之梵凾、一徴達自他
0000_,19,206b34(00):宗之章疏、得權實之理敎、是以法華三昧之會場
0000_,19,207a01(00):白象現、華嚴講讃之法席靑龍詣、如此奇瑞不可
0000_,19,207a02(00):勝計、然而承安第五載不惑有三之春、善導和尚示
0000_,19,207a03(00):夢定彰現化、得觀經疏明文、入一向專修之門、
0000_,19,207a04(00):歸三輩往生之誓、他力之慈悲伊顯、本願之深意揭
0000_,19,207a05(00):焉、凡於本朝古德多雖勸化淨土門、上人獨步
0000_,19,207a06(00):也、然間、一心專念之窓内、禮彌陀三尊之聖容、三
0000_,19,207a07(00):昧發得之牀前、拜勢至丈六之色像、或時山王權
0000_,19,207a08(00):現有影嚮兮垂納受、 或時賀茂明神有降臨兮
0000_,19,207a09(00):聽法談、或異香薰而現淨土莊嚴、或妙蓮敷而放
0000_,19,207a10(00):闇室光明、 爰彼境界者、 隣西都念西方之勝
0000_,19,207a11(00):區、卜東山表東漸之靈地也、天童子來而行道、
0000_,19,207a12(00):夜叉神集修營、 故一度參詣之輩萠九品之良因、
0000_,19,207a13(00):一時往還之族感一華之蓮莖、寔是靈崫專示所依、
0000_,19,207a14(00):然永正二七仲啇之曉天罹回祿災、欻然火起焚燒
0000_,19,207a15(00):舍宅、是併波旬之所爲也、丁丑九十暮月之時候、
0000_,19,207a16(00):企再興營、復能起塔造立僧房、豈非佛神之冥
0000_,19,207a17(00):顯乎、佛閣僧寮雖悲損亡、本尊影像喜免餘㷔、
0000_,19,207b18(00):今致再造之搆令捧勸牒之狀、仍奉加之信男信
0000_,19,207b19(00):女莫擇樸樕橡樟、莫分絲麻菅蒯、是則罽賓沙
0000_,19,207b20(00):彌加舊杖於修造、轉非命業報佩長生符、舍衛
0000_,19,207b21(00):奴婦掃精舍之會場、成忉利天子得法眼淨、只
0000_,19,207b22(00):取一拳石一勺水之聖言、 莫泥一寸鐵一尺木之
0000_,19,207b23(00):懇篤拂雲之樹生自寸苗煙、浮天之浪起自
0000_,19,207b24(00):一滴露、其謂之歟、纔以小施之發露、宜畢大
0000_,19,207b25(00):厦之成風、若爾者與善之人結縁之類、現世者保
0000_,19,207b26(00):方朔王母之齡、 兼得鄭白陶朱之富、 當生者預
0000_,19,207b27(00):彌陀觀音之迎接、受地藏龍樹之愍、 庶幾二義雲
0000_,19,207b28(00):收而鳳凰城之月無傾矣、 四塞風靜而楡柳宮之花
0000_,19,207b29(00):長盛焉、 乃至塵刹微塵刹之有情攝取不捨、 沙界
0000_,19,207b30(00):恒沙界之群類利益無疆、勸進飄祿梗概如斯、敬
0000_,19,207b31(00):白
0000_,19,207b32(00):一後柏原天皇綸旨 永正十七年十一月十七日
0000_,19,207b33(00):知恩院住持職之事、任故肇譽上人遺言、早令存
0000_,19,207b34(00):知、宜奉祈天下泰平 寶祚延長者、 綸命如
0000_,19,208a01(00):此、仍執達如件
0000_,19,208a02(00):永正十七年十一月十七日 左中辨(花押)
0000_,19,208a03(00):信光明寺超譽上人御房
0000_,19,208a04(00):一超譽上人請待狀 永正十七年十一月二十日
0000_,19,208a05(00):知恩院住持職之事、任肇譽上人御遺言旨、以使
0000_,19,208a06(00):僧被申入候之處、堅御辭退不可然候、就斯
0000_,19,208a07(00):既達 叡聞、 被成 綸旨訖、仍門徒中、會
0000_,19,208a08(00):合于東山、同心令申候、不被及御斟酌、早早
0000_,19,208a09(00):有御上洛、被調公私之御禮、可被下影前燒
0000_,19,208a10(00):香事、且御報謝、且冥加候哉、於無御領狀者、
0000_,19,208a11(00):有誰誰仁、爲住持乎、然者院宇立地荒廢、法
0000_,19,208a12(00):縁自然衰微、而猶至難澁者、敢背 勅命之段、
0000_,19,208a13(00):云貴邊云寺家、可爲時宜、 如何候哉、所詮
0000_,19,208a14(00):速促上都之企、劃入院之粧者、可爲宗門繁
0000_,19,208a15(00):昌、仍連署如件
0000_,19,208a16(00):永正十七年十一月二十日
0000_,19,208a17(00):淨 敎 寺 開 譽(花押)
0000_,19,208b18(00):法 然 寺 德 譽花押)
0000_,19,208b19(00):報 恩 寺 慶 譽(花押)
0000_,19,208b20(00):智惠光院淨譽(花押)
0000_,19,208b21(00):知 恩 寺 傳 譽(花押)
0000_,19,208b22(00):寶 泉 院 上 譽(花押)
0000_,19,208b23(00):信光明寺
0000_,19,208b24(00):侍者御中
0000_,19,208b25(00):一山門訴狀 大永三年四月廿四日
0000_,19,208b26(00):大永三年卯月二十四日、於山門大講堂三院集
0000_,19,208b27(00):會議曰、 可早被達爲奉行沙汰 上聞事
0000_,19,208b28(00):夫汲流派討法水之源、不超五時之立波、踏門
0000_,19,208b29(00):閫窮佛家之奧、不出一代之樞鍵矣、抑淨土一
0000_,19,208b30(00):宗者、吾朝之弘通以法然爲元基、以稱名爲
0000_,19,208b31(00):行業、屢案其由來、彼然公者叡峯住侶、台敎修
0000_,19,208b32(00):練淨德也、然間扇靑蓮院御門葉、卜居於東山之
0000_,19,208b33(00):衢、寄望於西刹之雲、因玆搆知恩窮之一宇、爲
0000_,19,208b34(00):諸德之本寺、專念佛不退一行、定衆中之法度、
0000_,19,209a01(00):爰當百萬遍之住持、宗自儀懱本處之條、希代
0000_,19,209a02(00):之濫吹佛法之陵遲不過之者歟、仍本末之次第及
0000_,19,209a03(00):度度雖被相理之、外憑權威内謀惡之
0000_,19,209a04(00):間、 御門主忽被遷御座於異境之隅、一山之馳
0000_,19,209a05(00):走滿徒之愁欝、何事如之、早止非分之昇進、預
0000_,19,209a06(00):順路之御政道者、速奉成 門主之還御、彌勵
0000_,19,209a07(00):一天泰平之精誠、於本寺歸伏之黨類者、盛揚
0000_,19,209a08(00):四海安樂之德音哉之旨、群議儡同
0000_,19,209a09(00):一廣幡局奉書 (年月不詳) ○編者云大永三年四月歟、尚俟後考
0000_,19,209a10(00):ちおん院より申いたし候りんしいたされ候。末寺
0000_,19,209a11(00):のほかにはもんともいり候ましき事にて候へと
0000_,19,209a12(00):も、ちおん寺よりわつらはしく申につきて、かさ
0000_,19,209a13(00):ねていたされ候。返返末寺の中にてはきせいある
0000_,19,209a14(00):寺にて候とも、本寺ちおん院にたいしてはさらに
0000_,19,209a15(00):所そんあるましき事にて候とおほしめし候。御
0000_,19,209a16(00):おもむき御心え候て、ちおん院に御ほせきかせ
0000_,19,209a17(00):られ候へのよし申れ候このよし申候へく候かし
0000_,19,209b18(00):く
0000_,19,209b19(00):御ちこ 申給へ
0000_,19,209b20(00):一彌陀三尊來迎圖裏書 大永六年五月二日靑蓮院尊鎭法親王御筆
0000_,19,209b21(00):此一鋪者、先皇號後柏原天皇御持尊也、今般爲御
0000_,19,209b22(00):臨終知識之間、去月廿日從當今所被附下知
0000_,19,209b23(00):恩院超譽上人也、依彼住持所望加裏書畢
0000_,19,209b24(00):大永六歳次丙戍年五月二日甲申遍照無量金剛(花押)
0000_,19,209b25(00):親王記之
0000_,19,209b26(00):一後奈良天皇宸翰阿彌陀經奧書 大永八年四月七日
0000_,19,209b27(00):右繕寫一卷、所以者何、先皇廿五之期月、四七之
0000_,19,209b28(00):日天、染翰精神、貫華功力、以玆一軸恭寄上
0000_,19,209b29(00):方、爰知恩敎院者海内名藍門中本寺、宗派歷代、
0000_,19,209b30(00):叡賞幾朝、心在菩提、念是回向焉
0000_,19,209b31(00):○編者云 正保二年の靈寶帳に據るに、後柏原天皇の御三回忌に當り、御宸寫ありしなり。然に後人 後柏原天皇の宸翰に作る。是「廿五之期月四七之日」を廿五周年廿八日と解せしに由る。今古説に從ふ。
0000_,19,209b32(00):一靑蓮院尊鎭法親王御書 (年不詳)六月十三日
0000_,19,210a01(00):當院額三ケ所、依度度錯亂令紛失之間、今般
0000_,19,210a02(00):被染 宸翰、再予又題之候、就其門徒中各奉
0000_,19,210a03(00):加之事被相調之、惣門已下如先規再興可爲
0000_,19,210a04(00):專一候也
0000_,19,210a05(00):六月十三日 (花押)
0000_,19,210a06(00):知恩院德譽上人
0000_,19,210a07(00):方丈
0000_,19,210a08(00):一總門勸進之狀 年月不詳
0000_,19,210a09(00):抑當寺者、淨土一宗之本處、念佛興行之舊跡、一
0000_,19,210a10(00):天仰信之靈場、道俗歸入之淨室也、因玆上下敬
0000_,19,210a11(00):崇、諸人來到、現當願望立地成就、誰人不運志
0000_,19,210a12(00):乎、何輩不歸敬乎、當院之草創者、永觀中慈惠
0000_,19,210a13(00):大師之開山、名南禪院、厥後靑蓮院門主慈鎭和
0000_,19,210a14(00):尚依歸附、法然上人令移住、改號知恩敎院、頗
0000_,19,210a15(00):念佛弘通利生揭焉也、然間淨敎宗旨當寺開闢事、
0000_,19,210a16(00):預 後白河法皇勅言、依之 後白河院 高倉院
0000_,19,210a17(00):後烏羽院御代代、被請受戒被參國師云云終
0000_,19,210b18(00):於此道塲遂往生、坊舍聖敎悉以勢觀房源智讓
0000_,19,210b19(00):與之、以門弟同意、爲二代住持、今此勢觀房、平
0000_,19,210b20(00):相國淸盛公曾孫、備中守師盛息、上人補處嫡弟、
0000_,19,210b21(00):又菩薩大戒付屬、即淨土一宗棟梁、相續化導院主
0000_,19,210b22(00):矣、寺影自成感、法味亦宜然矣、宛靑陽朝、奇
0000_,19,210b23(00):花芬芬而呈實相之色、玄冬夕、礹松之風颯颯而破
0000_,19,210b24(00):囂塵之夢、始修勸學之靜處、念佛稱念之勝境、從
0000_,19,210b25(00):爾已來星霜累年處、永享辛亥令回祿畢、住持
0000_,19,210b26(00):僧侶折手言語同斷、忝 普廣院殿善山造營興行不
0000_,19,210b27(00):可回時日之由被仰出、御奉加添之、剩洛中邊
0000_,19,210b28(00):土之淨土門念佛結衆、悉以可致奉加之旨、御下
0000_,19,210b29(00):知嚴重之上即時佛閣以下新成建立之處、其後應
0000_,19,210b30(00):仁發大亂、悉被破壞、于時住持柳營奉歎之間、
0000_,19,210b31(00):則 慈照院殿喜山被仰御奉加、堂舍等成再建
0000_,19,210b32(00):之處、今度永正丁丑不圖發災火、片時成灰燼、
0000_,19,210b33(00):雖然本尊眞影並傳紀等、皆以安全、爰以佛殿方丈
0000_,19,210b34(00):庫裡等粗立、偏是善巧方便所致也、兼亦任往古
0000_,19,211a01(00):先規、爲 叡慮、總門以下再興之儀、雖被仰
0000_,19,211a02(00):出、有志無力、故唱奉加於都鄙、各預涯分之
0000_,19,211a03(00):珍財、令造功成就、爾者結縁之尊卑、現露福祐
0000_,19,211a04(00):屋、當粧安養殿而已
0000_,19,211a05(00):一不斷念佛誓狀 天文廿二年十一月廿四日
0000_,19,211a06(00):奉執行毎月一夜廿四不斷念佛事依所東山知恩院
0000_,19,211a07(00):右發願意趣者、 爲自他臨終正念往生極樂並佛祖
0000_,19,211a08(00):報恩謝德也、故同志同業之一結衆、抽一心丹精、
0000_,19,211a09(00):無退轉流動可行之、若依私少縁於令懈怠
0000_,19,211a10(00):者、釋迦彌陀及念佛守護一切之佛神、可蒙御罸
0000_,19,211a11(00):者也、仍誓狀如件
0000_,19,211a12(00):于時天文二十二年十一月二十四日 稱念書
0000_,19,211a13(00):粟田口 大谷法橋治部卿(花押)
0000_,19,211a14(00):粟田口 長谷方橋玄祐(花押)
0000_,19,211a15(00):比丘 宗 偆(花押)
0000_,19,211a16(00):淨 本(花押)
0000_,19,211a17(00):淨 光(花押)
0000_,19,211b18(00):信阿彌陀佛(花押)
0000_,19,211b19(00):(以下百十餘人略す)
0000_,19,211b20(00):一足利義輝公座次公帖 永祿三年九月十五日
0000_,19,211b21(00):知恩院住持座次事、爲淨土一宗之本寺條、不
0000_,19,211b22(00):謂門徒宿老上座之旨、先先被成 綸旨上者、
0000_,19,211b23(00):被入聞食訖、宜被存知之由所被仰下也、
0000_,19,211b24(00):仍執達如件
0000_,19,211b25(00):永祿三年九月十五日 左衞門尉(花押)
0000_,19,211b26(00):丹後守(花押)
0000_,19,211b27(00):當院雜掌
0000_,19,211b28(00):一織田信長公戰勝謝狀 元龜四年六月二日
0000_,19,211b29(00):一筆令啓達候、 今度 上總介殿信長御上洛之
0000_,19,211b30(00):處、御本陣相勤之、御勝利被爲在候事、偏依
0000_,19,211b31(00):當院御祈禱之力、尚又寺領之儀被相願、及披露
0000_,19,211b32(00):候處、御寄附被下候間、永世無退慢、佛法紹隆、
0000_,19,211b33(00):當家御武運長久可被致御祈禱候者也
0000_,19,211b34(00):元龜四年六月二日 左久間左衞門尉(花押)
0000_,19,212a01(00):柴田修理亮(花押)
0000_,19,212a02(00):一信長公修復料寄進狀 天正元年九月十二日
0000_,19,212a03(00):一白銀 五百枚
0000_,19,212a04(00):一鳥目 五百貫文
0000_,19,212a05(00):一米 三百斛
0000_,19,212a06(00):右之品品、今般兩度御本陣相勤、寺僧中盡分骨
0000_,19,212a07(00):候間、爲諸堂修覆年中常什方入用、被下之者
0000_,19,212a08(00):也、彌此末當家御武運可被抽丹誠候、尚末寺
0000_,19,212a09(00):出仕之輩江も此旨可被致沙汰候、仍而如件
0000_,19,212a10(00):天正元年九月十二日 佐久間左衞門尉(花押)
0000_,19,212a11(00):柴田修理亮(花押)
0000_,19,212a12(00):知恩院長老
0000_,19,212a13(00):侍者
0000_,19,212a14(00):一信長公寺領寄進狀 天正元年十月十九日
0000_,19,212a15(00):古來當山寺領有之處、近年被沒失候段、達
0000_,19,212a16(00):御聞候處、 思召を以於愛宕郡之内百貫文之地
0000_,19,212a17(00):被下之、彌 當家御武運長久可被抽丹、天
0000_,19,212b18(00):下御一統之上者、又又御沙汰可有候條、依 仰
0000_,19,212b19(00):令執事候、恐恐謹言
0000_,19,212b20(00):天正元年十月十九日 佐久間左衞門尉(花押)
0000_,19,212b21(00):柴田修理亮(花押)
0000_,19,212b22(00):知恩院長老
0000_,19,212b23(00):侍者
0000_,19,212b24(00):一正親町天皇毀破綸旨 天正三年九月廿五日
0000_,19,212b25(00):當院之事、爲淨土一宗之本寺之旨、 後柏原院
0000_,19,212b26(00):宸翰等明白也、然上者、諸國門下出世着香衣事、
0000_,19,212b27(00):不簡自他流、從當院可被致 奏聞、若掠
0000_,19,212b28(00):上儀於申請 綸旨者、雖爲何時可被毀
0000_,19,212b29(00):破之由、 天氣所候也、仍執達如件
0000_,19,212b30(00):天正三年九月二十五日 左中將(花押)
0000_,19,212b31(00):知恩院住持浩譽上人御房
0000_,19,212b32(00):一同 女房奉書
0000_,19,212b33(00):その寺の事、一しゆうのほん寺たるよし申入候事
0000_,19,212b34(00):にて候。しよこくのもんかかうゑをちやくし申さ
0000_,19,213a01(00):るる事、それより御ゆるし候へく候。ほんちをそ
0000_,19,213a02(00):むき候はは、なん時もきは候へきりんし申ととの
0000_,19,213a03(00):へ候へく候
0000_,19,213a04(00):ちをんゐんへ
0000_,19,213a05(00):まいる
0000_,19,213a06(00):一信長公領地加增之狀 天正七年二月十八日
0000_,19,213a07(00):當院儀、法上人爲本所之由、貞安申候、依之
0000_,19,213a08(00):寺領百石新寄附之畢、彌佛法紹隆怠慢不可有
0000_,19,213a09(00):之者也、仍而如件
0000_,19,213a10(00):天正七年二月十八日 信長(花押)
0000_,19,213a11(00):知恩院浩譽上人御房
0000_,19,213a12(00):一豐臣秀吉公朱印百九十石 天正十三年十一月廿一日
0000_,19,213a13(00):當寺領目錄
0000_,19,213a14(00):一九拾五石 佛光寺之内
0000_,19,213a15(00):一貳拾九石 淨土寺之内
0000_,19,213a16(00):一六拾六石 祗園之内
0000_,19,213a17(00):合百九拾石
0000_,19,213b18(00):天正拾三年十一月廿一日○
0000_,19,213b19(00):知恩院
0000_,19,213b20(00):一秀吉公朱印二百石 天正十四年十一月廿三日
0000_,19,213b21(00):於城州所所貳百石目錄別紙有之事、遣之畢、可全院
0000_,19,213b22(00):納候也
0000_,19,213b23(00):天正十四年十一月二十三日○
0000_,19,213b24(00):知恩院
0000_,19,213b25(00):所所院領目錄之事
0000_,19,213b26(00):一六拾六石五斗 佛光寺内
0000_,19,213b27(00):一參拾七石 淨土寺
0000_,19,213b28(00):一六拾六石 祇 園
0000_,19,213b29(00):一貳拾八石五斗 三本木内
0000_,19,213b30(00):合貳百石
0000_,19,213b31(00):天正十四年十一月二十三日○
0000_,19,213b32(00):知恩院
0000_,19,213b33(00):一山林請狀 天正十九年十二月十日靑蓮院廳務宛
0000_,19,213b34(00):當院方丈に請申山之事
0000_,19,214a01(00):合一ケ所有者在所者御基山之内也繪圖傍系別紙有之
0000_,19,214a02(00):右當院爲山林請申所實正也、但爲御本役、毎年
0000_,19,214a03(00):一石宛可致進納、若不法懈怠在之候者、右之
0000_,19,214a04(00):山可被召上者也、仍請狀如件
0000_,19,214a05(00):知恩院
0000_,19,214a06(00):天正十九年十二月十日 當納所九然(判)
0000_,19,214a07(00):行者相模(判)
0000_,19,214a08(00):廳務大藏卿參ル
0000_,19,214a09(00):一秀吉公朱印二百四十六石七斗二升 文祿二年九月十三日
0000_,19,214a10(00):知行方目錄
0000_,19,214a11(00):一參拾貳石七斗 土居堀成替地 城州 西 院 内
0000_,19,214a12(00):一貳拾九石貳斗參升本知 同 佛光寺内
0000_,19,214a13(00):一四拾七石七斗 山科替地 同 岡 崎 内
0000_,19,214a14(00):一三拾七石 本知 同 淨土寺内
0000_,19,214a15(00):一參拾五石貳斗 同 同 粟田口村
0000_,19,214a16(00):一六拾壹石八斗 同 同 大佛屋敷替祇 園
0000_,19,214a17(00):一三石九升 四條五條之間
0000_,19,214b18(00):合貳百四拾六石七斗貳升
0000_,19,214b19(00):右可全寺納候也
0000_,19,214b20(00):文祿二年九月十三日○
0000_,19,214b21(00):知恩院
0000_,19,214b22(00):一增上寺請書 慶長二年九月廿七日
0000_,19,214b23(00):謹而言上、抑增上寺門家出世之事、從百萬遍或
0000_,19,214b24(00):新黑谷等申請儀、爲曲事之間、前之 御綸
0000_,19,214b25(00):旨ヲ令毀破、從御本寺知恩院被遂奏聞、改
0000_,19,214b26(00):被下 御綸旨爲正可令頂戴候、向後も自余
0000_,19,214b27(00):之以手次申請輩於有之者、永令擯出止參
0000_,19,214b28(00):會、國主江御理申、彼寺家ヲ可令退出候、仍
0000_,19,214b29(00):爲後證狀右粗言上
0000_,19,214b30(00):慶長二 九月廿七日 增上寺源譽(花押)
0000_,19,214b31(00):進上知恩院
0000_,19,214b32(00):御侍者中
0000_,19,214b33(00):一德川家康公朱印 慶長八年十月六日
0000_,19,214b34(00):知恩院領之事
0000_,19,215a01(00):一參百十石一斗九升 西 院 村 内
0000_,19,215a02(00):一二十九石二斗三升 佛光寺村内
0000_,19,215a03(00):一四十七石七斗 岡 崎 村 内
0000_,19,215a04(00):一三十七石 淨土寺村内
0000_,19,215a05(00):一十九石二斗 粟田口村内
0000_,19,215a06(00):一七十七石八斗 祗 園 之 内
0000_,19,215a07(00):一三石九斗 四條五條之内
0000_,19,215a08(00):一百七十九石四升 東九條之内
0000_,19,215a09(00):合七百三石二斗五升
0000_,19,215a10(00):此内五百石 方 丈 領
0000_,19,215a11(00):二百三石二斗五升 役 者 分
0000_,19,215a12(00):右永所寄附也、全可令寺納、並寺中門前山林
0000_,19,215a13(00):竹木諸役守護不入者、 佛事勤行修造等不可有
0000_,19,215a14(00):懈怠之狀、如件
0000_,19,215a15(00):慶長八年十月六日 (花押)
0000_,19,215a16(00):一滿譽僧正任官文書 慶長十四年四月十七日
0000_,19,215a17(00):僧正成之御禮として兩傳奏へ銀子三枚宛、つけ紙
0000_,19,215b18(00):にて御上なされ候を、只今銀子請取上申候、次に
0000_,19,215b19(00):我等三人へ銀子一枚宛、爲御祝儀拜領候、被成
0000_,19,215b20(00):御心得可被仰入候、以上
0000_,19,215b21(00):速水右近良益(花押)
0000_,19,215b22(00):慶長十四年卯月十七日 立入河内守康善(花押)
0000_,19,215b23(00):井家攝津守○○(花押)
0000_,19,215b24(00):知恩院御内
0000_,19,215b25(00):宗把老
0000_,19,215b26(00):英傳老
0000_,19,215b27(00):法印御禮御進物之事
0000_,19,215b28(00):禁裏樣 銀子五枚
0000_,19,215b29(00):女院御所樣 杉原十帖銀子壹枚
0000_,19,215b30(00):御方御所樣 杉原十帖銀子一枚
0000_,19,215b31(00):女御樣 杉原十帖銀子一枚
0000_,19,215b32(00):新大スケ殿御局 壹石貳斗
0000_,19,215b33(00):職事 壹石貳斗
0000_,19,215b34(00):上卿 壹石貳斗
0000_,19,216a01(00):右請取候而上申候、已上
0000_,19,216a02(00):速水右近大夫良益(花押)
0000_,19,216a03(00):慶長十四年 立入河内守康善(花押)
0000_,19,216a04(00):卯月十七日 速水右兵衞尉○○(花押)
0000_,19,216a05(00):井家攝津守○○(花押)
0000_,19,216a06(00):知恩院
0000_,19,216a07(00):英傳老
0000_,19,216a08(00):宗把老
0000_,19,216a09(00):第十 伽藍興隆
0000_,19,216a10(00):四條天皇文曆年中、勢觀房源智上人本院復興の後、
0000_,19,216a11(00):一百九十餘年を經て、後花園天皇永享三年回祿の災
0000_,19,216a12(00):あり。當時の將軍足利義敎公即時造營の令を下し、
0000_,19,216a13(00):都鄙の念佛結衆を勸進せしむ。住持二十世空禪意巧
0000_,19,216a14(00):を廻らし、人別一文充四十八萬人を募り、數年を出
0000_,19,216a15(00):てすして佛閣以下を舊觀に復す。然るに其より三十
0000_,19,216a16(00):七年を經て應仁の亂あり。堂宇悉く兵燹に罹る、廿
0000_,19,216a17(00):二世周譽上人大師の影像、傳記等を奉して、難を江
0000_,19,216b18(00):州伊香立に避け、一宇を建立して之を安置す。新知恩
0000_,19,216b19(00):院是なり。戰亂收まるの後、洛に還り、足利將軍義政
0000_,19,216b20(00):公に訴へ、朝野の奉加を得て堂舍を經營す。文明十餘
0000_,19,216b21(00):年阿彌陀堂先つ成り、長享の初年御影堂を建立す。其
0000_,19,216b22(00):後僅に三十歳、 後柏原天皇永正十四年八月廿八日、
0000_,19,216b23(00):再ひ諸堂回祿に罹りしかは、即年阿彌陀堂梁行六間桁行七間を
0000_,19,216b24(00):建立す。現住廿四世肇譽上人なり。 此堂百九十三年の後寶永七年中段の現地
0000_,19,216b25(00):に移す。又百六十七年を經て明治十一年老朽頽破の故を以て之を取毀てり復十三年の後、後奈
0000_,19,216b26(00):良天皇享祿三年、廿七世德譽上人御影堂を再興す。曩
0000_,19,216b27(00):に 四條天皇恩賜の勅額、數度の火災に遇ひて鳥有
0000_,19,216b28(00):に歸せしかは、此時 後奈良天皇重ねて「知恩敎院」、
0000_,19,216b29(00):「大谷寺」の勅額を賜ふ。其より七十餘年を經て、二
0000_,19,216b30(00):十九世滿譽僧正の代、慶長八年德川家康公令して、
0000_,19,216b31(00):現今の中下二段に在りし常在光院、速成就院、金剛
0000_,19,216b32(00):寺、親鸞聖人の墓所等を悉く他所に移し、中段吉水
0000_,19,216b33(00):中坊の舊址を訪ねて、新に大御影堂を築き、大小の
0000_,19,216b34(00):方丈には伏見桃山御殿を移用し、又集會堂庫裡等を
0000_,19,217a01(00):建て、下段には塔頭支院を設けしむ。尋いて元和三
0000_,19,217a02(00):年德川秀忠公三門及經藏を營み、五年に至り落慶す。
0000_,19,217a03(00):是に於て諸堂悉く完備し、海内無雙の名刹となる。
0000_,19,217a04(00):然るに 明正天皇寬永十年正月九日、俄然火を失し
0000_,19,217a05(00):て大殿諸堂一時に灰燼となり、僅に上段の舊宇と三
0000_,19,217a06(00):門經藏とのみ其災を免るることを得たり。現住雄譽靈
0000_,19,217a07(00):巖上人三十二世江戸に赴きて陳謝す。將軍家光公直ちに
0000_,19,217a08(00):再建の命を下し、片桐石見守貞昌等之を奉行して、同
0000_,19,217a09(00):年十二月起工の式を擧け、約八年を閲して、現今の
0000_,19,217a10(00):御影堂、集會堂、大小方丈、大小庫裡等悉く落成す。
0000_,19,217a11(00):傳へいふ。寬永の初德川氏甲府城を築くの意あり。
0000_,19,217a12(00):材を木曾山中麝香谷に索めて之を選伐す。會會本院
0000_,19,217a13(00):回祿にかかりしかは、悉く之を轉用すと。時德川三
0000_,19,217a14(00):代の盛時に屬し、鉅萬の資財と幾多の人工とを惜ま
0000_,19,217a15(00):さりしを以て、規模宏壯に輪奐の美を恣にし、闔國
0000_,19,217a16(00):多くその比を見さる、蓋し所以なきにあらさるな
0000_,19,217a17(00):り。
0000_,19,217b18(00):德川氏の治世中、寬文、元祿、寶曆、文化、萬延の諸度
0000_,19,217b19(00):大修繕を行ふ。一に幕府の經營にかかる。今亦門末
0000_,19,217b20(00):信徒の翼賛を得て、明治四十年以降大修繕を加ふ。
0000_,19,217b21(00):又阿彌陀堂は明治十一年舊堂解除の後、遍く全國に
0000_,19,217b22(00):募縁して、三十六年十一月工を起し、四十三年四月
0000_,19,217b23(00):慶讃式を擧く。
0000_,19,217b24(00):今左に諸堂の大概を記せは、
0000_,19,217b25(00):三門 梁行六間半、桁行十四間半、二階、西面瓧
0000_,19,217b26(00):葺也。元和五年德川秀忠公の建立にして、明治三十
0000_,19,217b27(00):五年七月特別保護建造物に編入せらる。
0000_,19,217b28(00):階上は極彩色にして、中央に寶冠の釋迦牟尼佛坐像、
0000_,19,217b29(00):左右に善財童子、須達長者及十六羅漢の木像を安置
0000_,19,217b30(00):す。共に大佛工康猶法印の作なり。樓上に揭くる「華
0000_,19,217b31(00):頂山」の額は、寶永七年十一月 靈元天皇の宸翰な
0000_,19,217b32(00):り。
0000_,19,217b33(00):御影堂 本堂または大殿とも云ふ。梁行十九間桁
0000_,19,217b34(00):行廿四間半、南面瓧葺外椽四方幅二間、前拜梁行十三間、桁行二間、後門梁行七間、桁行五尺也。
0000_,19,218a01(00):寬永十六年德川家光公の建立にして、明治四十三年
0000_,19,218a02(00):八月特別保護建造物に編入せらる。
0000_,19,218a03(00):内陣中央壇上の宮殿に、本尊開祖圓光大師坐像丈二尺一
0000_,19,218a04(00):寸御自作なり及帝道遐昌の木牌((表)(中央)今上皇帝福基永固
0000_,19,218a05(00):聖化無窮(右)皇后慈心平等如河海之無竭(左)皇太子承恩厚地同山岳之無移)(總金箔牌一基白木八足臺付但扉付)
0000_,19,218a06(00):を奉安す。此尊像文明十六年修復の事、御居敷に周
0000_,19,218a07(00):譽上人の記あり。
0000_,19,218a08(00):奉修復法然源空上人眞影、 勸進之聖淨嚴坊宗
0000_,19,218a09(00):眞、施主蒲生藤兵衞尉也
0000_,19,218a10(00):文明十六甲辰年三月日 于時住持當院廿一代
0000_,19,218a11(00):棟蓮社周譽(花押)
0000_,19,218a12(00):右此眞影者、爲根本御自作、同四十八日御開眼
0000_,19,218a13(00):供養之靈像間、 雖多其憚、就天下蘖亂而依
0000_,19,218a14(00):有御損壞、爲末代興隆所奉修復也矣、仍意
0000_,19,218a15(00):趣如件敬白
0000_,19,218a16(00):宮殿左右の天童及堂後の白衣觀音は、法橋德應の畵
0000_,19,218a17(00):く所なり。
0000_,19,218b18(00):東壇には大師御臨終護持の阿彌陀佛立像寬印供奉作及其
0000_,19,218b19(00):脇士と、善導大師傳御自作源智、聖光、超譽、滿譽、雄譽五上
0000_,19,218b20(00):人の木像、歷代法主の靈牌及日月諸靈牌等を安置す。
0000_,19,218b21(00):西壇には東照宮、台德院二公束帶の坐像康猶作及傳通
0000_,19,218b22(00):院殿の眞影を安置す。堂の東南屋檐の下に傘橫はる。知恩院の傘と稱へて世に喧傳せらる
0000_,19,218b23(00):阿彌陀堂 御影堂の西に在り。梁行八間、桁行九
0000_,19,218b24(00):間、重層瓧葺なり。明治三十六年十一月起工、同四
0000_,19,218b25(00):十三年四月慶讃。兩堂の間に渡廊を架す。
0000_,19,218b26(00):本尊阿彌陀佛坐像御丈九尺四寸其面輪は仁門菩薩の刻する
0000_,19,218b27(00):所にして、元と八幡南三昧堂の本尊なりしか、災火の
0000_,19,218b28(00):爲に唯面輪のみ殘れり。寶永年中忍澂上人之を得て、
0000_,19,218b29(00):久しく獅谷の寶庫に藏す。寶曆十年に至り、當院麗
0000_,19,218b30(00):譽大僧正五十三世之を請し、佛工田中康敎をして躰軀を
0000_,19,218b31(00):加刻せしめ、當堂の本尊とせり。勅額「大谷寺」は天
0000_,19,218b32(00):文年中 後奈良天皇の賜ふところなり。
0000_,19,218b33(00):集會堂 御影堂の後背に在り。梁行十三間桁行二
0000_,19,218b34(00):十三間半、南面瓧葺也。寬永十餘年の建立にして、
0000_,19,219a01(00):俗に千疊敷と呼ひ、誦經講學等大衆集會の道塲也。
0000_,19,219a02(00):此堂と本堂との中間に渡廊東西三間南北十五間あり。是より内
0000_,19,219a03(00):部大小方丈に至る廊椽は、すへて鶯張と稱して嬌音
0000_,19,219a04(00):を發す。
0000_,19,219a05(00):中壇に安置する所の彌陀三尊は惠心僧都の作、德川
0000_,19,219a06(00):家光公の寄附に係る。此堂の西面に玄關あり。其正
0000_,19,219a07(00):面の門を武家門と云ふ。
0000_,19,219a08(00):此堂より大方丈に至る渡廊南北二間半東西九間半の中央南方に、
0000_,19,219a09(00):方二間半の車寄あり。唐門より通す。共に保護建造
0000_,19,219a10(00):物なり。
0000_,19,219a11(00):唐門 御影堂の後方東に偏し、集會堂、大方丈の
0000_,19,219a12(00):中間前面にあり。明二間、四脚、檜皮葺なり。寬永年
0000_,19,219a13(00):中の造營にして、明治四十三年八月特別保護建造物
0000_,19,219a14(00):に編入せらる。
0000_,19,219a15(00):大方丈 集會堂の東側に連接す、梁行十三間半、
0000_,19,219a16(00):桁行十九間、南面、檜皮葺なり。寬永年間の建立に
0000_,19,219a17(00):して、明治四十三年八月特別保護建造物に編入せら
0000_,19,219b18(00):る。室内は佛間、拜之間、上段之間、中段之間、下
0000_,19,219b19(00):段之間、裏上段之間宮御得度の間菊之間、鶴之間、鷺之間、
0000_,19,219b20(00):梅之間、柳之間の十一房に區劃す。
0000_,19,219b21(00):佛間には阿彌陀佛立像安阿彌快慶作及ひ天皇、后妃、法親
0000_,19,219b22(00):王の尊牌三十四基、德川氏歷代の靈牌十三基を安置
0000_,19,219b23(00):す。上段之間は至尊御成の間にして、最も莊麗を極
0000_,19,219b24(00):む。又各房の床壁襖及板戸の繪は、總へて狩野主馬
0000_,19,219b25(00):助尚信、外記入道信政、興意法橋定信の筆に成り、
0000_,19,219b26(00):多くは總金箔極彩色なり。
0000_,19,219b27(00):庭園は小堀遠州の築く所。頗る幽趣に富めり。庭前
0000_,19,219b28(00):の坐禪石は慈鎭和尚の遺愛にして、元と三門の下に
0000_,19,219b29(00):在りしを、天和年中現地に移せり。
0000_,19,219b30(00):小方丈 大方丈の東北に連接す。中間に東西一間五尺南北六間の渡廊あり
0000_,19,219b31(00):梁行十間、桁行十二間半、南面、檜皮葺なり。寬永
0000_,19,219b32(00):十餘年の建立にして、明治四十三年八月特別保護建
0000_,19,219b33(00):造物に編入せらる。
0000_,19,219b34(00):室内は上段之間、中段之間、大床之間、蘭亭之間、
0000_,19,220a01(00):花鳥之間 羅漢之間の六房に區劃す。上段之間は知
0000_,19,220a02(00):恩院宮御成之間にして、人工の妙を盡せり。又各房
0000_,19,220a03(00):の壁及ひ襖の畵は、すへて中彩色を施し、大方丈と
0000_,19,220a04(00):同しく狩野尚信、信政、定信の三手に成る。板戸ま
0000_,19,220a05(00):た然り。
0000_,19,220a06(00):權現堂 小方丈東北の山地に在り。方三間餘、南
0000_,19,220a07(00):面、瓧葺なり。慶安元年德川家光公の建立。奉行板
0000_,19,220a08(00):倉周防守なり。東照、台德、大猷、嚴有、四公の像
0000_,19,220a09(00):を祀る。
0000_,19,220a10(00):大庫裡 集會堂の背後十間の地に在り。梁行十四
0000_,19,220a11(00):間、桁行十七間、瓧葺也。
0000_,19,220a12(00):小庫裡 大庫裡の東九間に在り。梁行七間、桁行
0000_,19,220a13(00):十間半、瓧葺なり。
0000_,19,220a14(00):學問所、對面所、常侍局、大茶堂等 皆小庫裡と小
0000_,19,220a15(00):方丈との中間にあり。中に於て學問所、對面所は法
0000_,19,220a16(00):主の御用室なり。
0000_,19,220a17(00):其他寶庫、奧藏、調菜所、浴室等あれとも、今之を
0000_,19,220b18(00):略す。
0000_,19,220b19(00):經藏 御影堂の東南に在り。方五間、重層、寶
0000_,19,220b20(00):形、西面、瓧葺なり。元和五年德川秀忠公の創建に
0000_,19,220b21(00):して、明治三十三年四月特別保護建造物に指定せら
0000_,19,220b22(00):る。輪塔中に宋國開元寺版三大藏經五千六百餘卷を
0000_,19,220b23(00):納む。前面の傳大士及ひ脇士二童の像は、康猶法印
0000_,19,220b24(00):の作なり。
0000_,19,220b25(00):大鐘樓 經藏南方の山腹に在り。方四間、瓧葺な
0000_,19,220b26(00):り。懸くる所の洪鐘は、寬永十三年九月靈巖上人の
0000_,19,220b27(00):鑄る所なり。高一丈八寸、徑九尺、厚九寸五分、量
0000_,19,220b28(00):一萬八千貫あり。唯六字の寶號を刻す。初め基地狹
0000_,19,220b29(00):隘僅に假樓を設けて之を懸けしか、三十八世萬無上
0000_,19,220b30(00):人の時、延寶六年知識を四方に唱へて、現今の鐘樓
0000_,19,220b31(00):を築くに及ひ、幕府領家圓山に諭し、其地を夷けて現
0000_,19,220b32(00):今の搆とせり。
0000_,19,220b33(00):勢至堂 又本地堂と名く。 山上大谷淨室大師御終焉地の
0000_,19,220b34(00):舊址に在り。梁行八間、桁行八間半、南面、瓧葺な
0000_,19,221a01(00):り。 後奈良天皇享祿三年、第廿七世德譽上人の營建
0000_,19,221a02(00):に係る。傳へ云ふ、靑蓮院の護摩堂を移築すと此堂は元の御影堂にして、
0000_,19,221a03(00):慶長九年大師の影像を中段の新殿に遷すに及ひ、本
0000_,19,221a04(00):地勢至菩薩の像作者不詳、藤原秀衡念持佛と云ふを壇上に安置し、勢至
0000_,19,221a05(00):堂と稱するに至れり。此堂は當山現存建築物中最古
0000_,19,221a06(00):のものにして、明治三十二年四月特別保護建造物に
0000_,19,221a07(00):指定せらる。「知恩敎院」の額は天文年中 後奈良天
0000_,19,221a08(00):皇の宸翰なり。
0000_,19,221a09(00):此堂に接して位牌所、衆寮、庫裡、客室等あり。客
0000_,19,221a10(00):室は山亭と號し、靜琳院殿吉子内親王の寢殿を移せ
0000_,19,221a11(00):るものにして、眺望佳絶、平安城下の光景一眸の中
0000_,19,221a12(00):に收まる。
0000_,19,221a13(00):又堂の東側に影向石、紫雲水の故蹟あり。影向石は
0000_,19,221a14(00):開祖大師御終焉の砌、賀茂明神影向の靈跡にして、
0000_,19,221a15(00):紫雲水は元亨二年正月二十五日了惠上人大師の語燈
0000_,19,221a16(00):錄を奉納の時、紫雲天に聳へ、光此池に映せるより
0000_,19,221a17(00):名くとそ。
0000_,19,221b18(00):又堂後に當山歷代の墓所あり。其北端に濡髮堂あり。
0000_,19,221b19(00):寬永年中靈巖上人伽藍神吒枳尼天を祀る。
0000_,19,221b20(00):小鐘樓 勢至堂の前、元阿彌陀堂の跡にあり。方
0000_,19,221b21(00):九尺、瓧葺なり。元の鐘は二十四世肇譽上人の時、
0000_,19,221b22(00):永正十四年に鑄造せしものなれとも、微小に過くる
0000_,19,221b23(00):を以て、寶永七年之を改鑄せり。現今の鐘高四尺六寸徑二尺五寸
0000_,19,221b24(00):是なり。
0000_,19,221b25(00):御廟堂 勢至堂の東崖上、所謂賜蓮感夢御傳第三十八卷に出つ
0000_,19,221b26(00):の地に在り。方三間、南面、瓧葺なり。前面に唐門
0000_,19,221b27(00):あり。左右に玉垣を繞らす。初め大師鶴林の後、石
0000_,19,221b28(00):の唐櫃を搆へて尊骸を此地に歛め、廟堂を立つ。然
0000_,19,221b29(00):るに嘉祿の變、粟生野に送りて荼毘に附したてまつ
0000_,19,221b30(00):り、上足等分骨護持せり。而して本廟は文曆元年勢
0000_,19,221b31(00):觀房の再興にかかり、靈骨を朱の唐櫃に盛りて、中
0000_,19,221b32(00):壇の寶塔に安置す。爾來數度の興廢を閲し、慶長十
0000_,19,221b33(00):八年滿譽僧正之を改築す。施主松平紀伊守信一なり。
0000_,19,221b34(00):其後寶永七年修復を加ふ。
0000_,19,222a01(00):拜堂 廟堂の前面にあり。梁行二間半、桁行三間
0000_,19,222a02(00):半、檜皮葺なり。應譽僧正の時、寶永七年岩を斫り
0000_,19,222a03(00):山を拓きて之を建つ。
0000_,19,222a04(00):蓮華藏 拜堂の南、磴道の中間に在り。方二間、
0000_,19,222a05(00):北面、瓧葺なり。是全國僧俗の納骨堂なり。
0000_,19,222a06(00):一心院 山上の南方にあり。當山の別院なり。天
0000_,19,222a07(00):文十七年稱念上人の創むる所にして、本尊阿彌陀佛
0000_,19,222a08(00):立像は安阿彌の作。元と靑蓮院の護摩堂に安置せし
0000_,19,222a09(00):を、尊鎭法親王御寄附ありしなり。「一心院」の額は
0000_,19,222a10(00):足利義輝公の筆蹟なり。此寺捨世地の本寺にして、
0000_,19,222a11(00):滿譽上人の掟書等あり。
0000_,19,222a12(00):山上より御影堂の東に通する磴道は、元和の末年稱
0000_,19,222a13(00):念社の創設する所にして、其後酒井左衞門尉の修理
0000_,19,222a14(00):にかかると云ふ。
0000_,19,222a15(00):泰平亭 御影堂の前面、三門を登りたる所に在り。
0000_,19,222a16(00):梁行五間半、桁行十二間半、北面、瓧葺なり。嘉永
0000_,19,222a17(00):六年の造立にして、茶所なり。
0000_,19,222b18(00):鎭守堂 三門の東南、茶所の南西に在り。内殿は
0000_,19,222b19(00):梁行二間、桁行七尺、拜殿は方二間なり。内殿は慶長
0000_,19,222b20(00):十六年の建立にして、八幡、天照、春日、山王、熊
0000_,19,222b21(00):野、愛宕、辨財の七社を勸請す。拜殿は文化十四年
0000_,19,222b22(00):燒失せしを以て、翌年之を再建せり。其南に宮司の
0000_,19,222b23(00):住所あり。眞葛菴と號す。
0000_,19,222b24(00):輓近、崖下の池中に觀音の銅像を安す。七十六世行
0000_,19,222b25(00):誡上人の記念佛なり。
0000_,19,222b26(00):表門 高麗門又は新門ともいふ、三門の正西約二
0000_,19,222b27(00):百間の地に在り、小堀町に接す。明二間半、瓧葺也。
0000_,19,222b28(00):是より三門に通する廣路を櫻の馬場と稱す。元と祇
0000_,19,222b29(00):園の社地なりしを、延寶六年幕府に請ひ、門前囊町
0000_,19,222b30(00):の寺地と交換して通路とせり。路傍の櫻は本多兵部
0000_,19,222b31(00):少輔の植る所なり。
0000_,19,222b32(00):裏門 南門とも云ふ。三門前より圓山に通する所
0000_,19,222b33(00):にあり。明二間、瓧葺也。
0000_,19,222b34(00):黑門 大庫裡の下方下段に接する所に在り。梁行
0000_,19,223a01(00):二間、桁行六間半、瓧葺なり。元と桃山の城門なり
0000_,19,223a02(00):しが、慶長年間此所に移して通用門となす。
0000_,19,223a03(00):總門 黑門の正西約二百間の地に在り。白河に接
0000_,19,223a04(00):す。明二間半、瓧葺なり。慶長以後專ら此より本院
0000_,19,223a05(00):に通せしを以て、支院其左右に列せり。後ち櫻馬場
0000_,19,223a06(00):を開き、表門を設くるに及ひ、彼を新門と稱し、此
0000_,19,223a07(00):を古門と呼へり。
0000_,19,223a08(00):得淨明院 黑門、總門の中間、舊學林の北部、知
0000_,19,223a09(00):恩院宮御殿の舊址に在り。 明治十五年善光寺大本
0000_,19,223a10(00):願上人久我誓圓尼公の開創にして、本宗の別格寺な
0000_,19,223a11(00):り。
0000_,19,223a12(00):塔頭支院 黑門前より總門に至るまで、其北側に
0000_,19,223a13(00):在るものを良正院、先求院、舊學林、福壽院、浩德院、
0000_,19,223a14(00):松宿菴、その南側に在るものを通照院、常稱院、信重
0000_,19,223a15(00):院、保德院、忠岸院、入信院、光照院とす。良正院は
0000_,19,223a16(00):元と浩翁軒と號す。賾譽宗把の時、鳥取侯池田忠雄
0000_,19,223a17(00):母公良正院殿東照公の息女の香花所と定むるに及ひ、今の
0000_,19,223b18(00):名に改む。先求院は天正の頃酒井忠次法諱先求院殿の庵居
0000_,19,223b19(00):せし所にして、聲譽助念を開山とす。舊學林の地、
0000_,19,223b20(00):元と知恩院門跡の御所なり。南北の寮舍は明治十四
0000_,19,223b21(00):年の建設にかかる。福壽院は元と松壽或は樹に作る院と號
0000_,19,223b22(00):す。有馬氏の開基なり。通照院は元と西養軒と號す。
0000_,19,223b23(00):元祿十五年靈雲院と改め、享保に至り、今の名に改
0000_,19,223b24(00):む。信重院は天正年中名譽重信の開基にして、慶長
0000_,19,223b25(00):八年藤堂勝兵衞の香華院とす。保德院は正保年中松
0000_,19,223b26(00):譽源甫の開基。入信院は元と智相院と稱し、寬永年
0000_,19,223b27(00):中松平越中守定綱の建つる所にして、靈巖上人を祖
0000_,19,223b28(00):とす。元祿、寶永の頃義山上人の住持を以て名あり。
0000_,19,223b29(00):光照院は松平伊豆守信吉の香花所なり。
0000_,19,223b30(00):又黑門の南に崇泰院あり。此地に元と親鸞聖人の廟
0000_,19,223b31(00):所ありしを、慶長恢弘の時鳥部野に移さしむ今西大谷と稱する
0000_,19,223b32(00):是なり院の後に今尚ほ其跡を存す。又通照院の後方に
0000_,19,223b33(00):光玄院あり。元和二年滿譽僧正の開基なり。此地に
0000_,19,223b34(00):元と太子堂ありき。其後方櫻馬場に沿ひて樹昌菴、
0000_,19,224a01(00):既成院、德林院、源光院、眞源院あり。樹昌菴は黑田
0000_,19,224a02(00):孝高の妹妙圓尼の開基。既成院は舊名を九誾院と呼
0000_,19,224a03(00):ふ。德林院は慶長年中一譽法意の開基する所。此二
0000_,19,224a04(00):院輓近崇泰院の南より轉せり。源光院は元と賢宿菴
0000_,19,224a05(00):と稱す一心院願譽幻宿の開く所にして慶安三年久須
0000_,19,224a06(00):美重次之を再興す。眞源院は舊名を九勝院といふ。
0000_,19,224a07(00):此源光院、樹昌菴、眞源院、以德院は、近年まて三
0000_,19,224a08(00):門の南に並列せしを、本山防火の爲め此地に移轉せ
0000_,19,224a09(00):しむ。
0000_,19,224a10(00):境域 當山現境内坪數四萬四千五百三十三坪五合
0000_,19,224a11(00):八勺あり。内四萬百九十二坪七合五勺は官有地第四
0000_,19,224a12(00):種にして、二千六百六坪八勺は民有地第一種なり。
0000_,19,224a13(00):第十一 靈寶什器
0000_,19,224a14(00):當山の寶什物目錄に載する所のもの、總へて二千五
0000_,19,224a15(00):百餘點あり。其大半は優に珍寶とすへきものなりと
0000_,19,224a16(00):雖も、紙數限あるを以て、其中國寶に指定せれしも
0000_,19,224a17(00):の、全國寶物調査員の鑑査狀を有するもの、宮内省
0000_,19,224b18(00):の撿印を捺せられしもの、及ひ本山に關係深きもの
0000_,19,224b19(00):等、二百餘點を摘錄す。而して其作者等稍疑を存す
0000_,19,224b20(00):へきものありと雖も、暫く傳説に從ひ敢て私見を加
0000_,19,224b21(00):へす。
0000_,19,224b22(00):○佛像
0000_,19,224b23(00):一阿彌陀佛坐像 集會堂 本尊
0000_,19,224b24(00):本製 丈三尺三寸 惠心僧都作 一軀
0000_,19,224b25(00):一觀音、勢至立像 同上 脇士
0000_,19,224b26(00):同 三尺六寸 同作 二軀
0000_,19,224b27(00):一阿彌陀佛立像
0000_,19,224b28(00):同 三尺二寸 寬印供奉作大師臨終佛 一軀
0000_,19,224b29(00):一觀音、勢至立像 同上 脇士
0000_,19,224b30(00):同 二尺八寸 作者不詳 二軀
0000_,19,224b31(00):一阿彌陀佛立像 大方丈 本尊
0000_,19,224b32(00):同 三尺三寸 安阿彌快慶作 一軀
0000_,19,224b33(00):一阿彌陀佛立像 納骨堂 本尊
0000_,19,224b34(00):同 三尺二寸 作者不詳 一軀
0000_,19,225a01(00):一勢至菩薩坐像 勢至堂 本尊
0000_,19,225a02(00):同 一尺八寸 作者不詳 一軀
0000_,19,225a03(00):一聖觀音立像
0000_,19,225a04(00):同 三尺 鞍作鳥作 一軀
0000_,19,225a05(00):一十一面觀音立像
0000_,19,225a06(00):同 二尺七寸三分 行基菩薩作 一軀
0000_,19,225a07(00):一廿五體佛菩薩像
0000_,19,225a08(00):赤栴檀 高七寸三分 印度製 一龕
0000_,19,225a09(00):一三尊板佛(國寶)
0000_,19,225a10(00):銅打出 竪六寸四分橫五寸七分 傳鑑眞和上將來 一面
0000_,19,225a11(00):一三尊板佛(國寶)
0000_,19,225a12(00):銅鍍金 竪五寸橫六寸四分 支那製法隆寺傳來 一面
0000_,19,225a13(00):一大日如來坐像
0000_,19,225a14(00):木製 一尺三寸五分 弘法大師作 一軀
0000_,19,225a15(00):一地藏菩薩坐像 二童子附
0000_,19,225a16(00):同 二尺童子七寸五分 運慶作 一軀
0000_,19,225a17(00):一善導大師立像
0000_,19,225b18(00):同 四尺 作者不詳 一軀
0000_,19,225b19(00):一同 立像
0000_,19,225b20(00):同 四尺 同俊乘坊將來 一軀
0000_,19,225b21(00):一圓光大師鏡御影坐像
0000_,19,225b22(00):同 一尺一寸 御自作 一軀
0000_,19,225b23(00):其居敷に 文明家之靈十六甲辰年十月七日 當院廿一代住持周譽(花押)奉修複知恩院開山法然源空上人御自作之眞影者、爲寺□相傳異于他尊像也、雖然就去應仁以來天下之蘗亂而依有御破損、乍以奉修覆之也、仍修覆之趣如件、敬白
0000_,19,225b24(00):○佛畵
0000_,19,225b25(00):一紅玻璃色彌陀佛圖(國寶)
0000_,19,225b26(00):絹本着色 竪四尺二五橫二尺八寸 弘法大師筆 一幅
0000_,19,225b27(00):一彌陀三尊圖
0000_,19,225b28(00):同 四尺七寸一尺九二 智證大師筆 一幅
0000_,19,225b29(00):一彌陀來迎圖
0000_,19,225b30(00):同 三尺四寸一尺七二 惠心僧都筆 一幅
0000_,19,225b31(00):弟子天台僧源信、正曆甲午歳冬十二月謹圖、阿彌陀佛引導衆生之相、渴仰戀慕發願而言、佛光照耀聖衆來迎、上品蓮臺願得往生、
0000_,19,226a01(00):上求下化萬德究竟、如文殊願如普賢行、
0000_,19,226a02(00):一廿五菩薩早來迎圖(國寶)
0000_,19,226a03(00):絹本着色 四尺七五五尺一三 同筆 一輻
0000_,19,226a04(00):一金身彌陀佛圖
0000_,19,226a05(00):同 四尺七五二尺二五 同筆 一幅
0000_,19,226a06(00):一廿五菩薩來迎圖
0000_,19,226a07(00):同 四尺八四三尺三八 同筆 二幅
0000_,19,226a08(00):一彌陀三尊圖
0000_,19,226a09(00):同 三尺二寸一尺三二 同筆 一幅
0000_,19,226a10(00):後奈良帝所賜 靑蓮院尊鎭法親王の裏書あり
0000_,19,226a11(00):一彌陀三尊圖
0000_,19,226a12(00):絹本着色 三尺七五二尺 同筆 一幅
0000_,19,226a13(00):一彌陀三尊圖
0000_,19,226a14(00):同 五尺二五二尺五五 張思恭筆 三幅
0000_,19,226a15(00):佛信女王氏富五娘同夫翁應祥云云の願文あり
0000_,19,226a16(00):一彌陀三尊圖
0000_,19,226a17(00):絹本着色 四尺二二二尺六四 同筆 三幅
0000_,19,226b18(00):一彌陀三尊圖
0000_,19,226b19(00):同 四尺七寸三尺五分 李龍眠筆 一幅
0000_,19,226b20(00):一彌陀來迎圖
0000_,19,226b21(00):絹本墨畵 三尺四寸一尺七五 雪舟筆款行年八十三云云 一幅
0000_,19,226b22(00):一釋迦坐禪圖
0000_,19,226b23(00):絹本着色 一尺八三八寸一分 閻立本筆 一幅
0000_,19,226b24(00):一文殊二童子圖
0000_,19,226b25(00):絹本水墨 二尺六五一尺三一 梁楷筆 一幅
0000_,19,226b26(00):一文殊菩薩圖
0000_,19,226b27(00):絹本着色 二尺七八一尺三寸 巨勢金岡筆 一幅
0000_,19,226b28(00):一五髻文殊圖
0000_,19,226b29(00):同 三尺六二一尺六二 珍海已講筆 一幅
0000_,19,226b30(00):一地藏菩薩圖(國寶)
0000_,19,226b31(00):同 六尺四三二尺四五 小野篁筆 一幅
0000_,19,226b32(00):一地藏菩薩圖
0000_,19,226b33(00):同 二尺五寸一尺一寸 巨勢有重筆 一幅
0000_,19,226b34(00):一地藏菩薩圖
0000_,19,227a01(00):絹本彩畵 二尺五寸一尺一寸 一幅
0000_,19,227a02(00):一水月觀音圖
0000_,19,227a03(00):絹本墨畵 三尺四寸一尺五寸 周丹士筆 一幅
0000_,19,227a04(00):一不動明王圖
0000_,19,227a05(00):同 三尺七二一尺二五 妙澤筆妙葩讃 一幅
0000_,19,227a06(00):一毘沙門天王圖(國寶)
0000_,19,227a07(00):絹本着色 三尺六七一尺八七 巨勢金岡筆 一幅
0000_,19,227a08(00):一帝釋天圖
0000_,19,227a09(00):同 二尺八五一尺七寸 一幅
0000_,19,227a10(00):一十王變相圖
0000_,19,227a11(00):同 三尺二二一尺七七 陸信忠筆 十幅
0000_,19,227a12(00):一妙音辨才天圖
0000_,19,227a13(00):同 二尺四八一尺二寸 飛驒守惟久筆 一幅
0000_,19,227a14(00):一五百羅漢圖
0000_,19,227a15(00):同 六尺二寸四尺 法能大師筆 一幅
0000_,19,227a16(00):一羅漢集會圖
0000_,19,227a17(00):同 三尺八寸一尺九三 張思恭筆 二幅
0000_,19,227b18(00):一羅漢圖
0000_,19,227b19(00):同 二尺七八一尺三七 土佐將監筆 一幅
0000_,19,227b20(00):一羅漢説法圖
0000_,19,227b21(00):同 三尺六五一尺七寸 兆殿司筆 一幅
0000_,19,227b22(00):一羅漢圖
0000_,19,227b23(00):絹本淡彩 三尺四三一尺六七 可翁筆 一幅
0000_,19,227b24(00):一十六羅漢圖
0000_,19,227b25(00):絹本墨畵 四尺四寸二尺二寸 雪舟筆 一幅
0000_,19,227b26(00):一十八羅漢圖
0000_,19,227b27(00):折本 一尺三二四尺四二 屠隆筆 一帖
0000_,19,227b28(00):○曼陀羅
0000_,19,227b29(00):一觀經曼陀羅(國寶)
0000_,19,227b30(00):絹本着色 四尺七寸四尺八五 惠心僧都筆 一幅
0000_,19,227b31(00):一觀經曼陀羅
0000_,19,227b32(00):同 七尺二五四尺六四 薛仲並李信筆至治三年 一幅
0000_,19,227b33(00):一觀經曼陀羅
0000_,19,227b34(00):同 一丈一尺三一丈一尺三 筆者不詳 一幅
0000_,19,228a01(00):一九品曼陀羅
0000_,19,228a02(00):同 九尺六尺 李孟根筆 一幅
0000_,19,228a03(00):一彌陀經曼陀羅(國寶)
0000_,19,228a04(00):同 四尺九四四尺五寸 惠心僧都筆 一幅
0000_,19,228a05(00):一稱讃淨土經説相
0000_,19,228a06(00):同 四尺九五三尺九分 吳道子筆 一幅
0000_,19,228a07(00):一華嚴經説相
0000_,19,228a08(00):同 五尺五五三尺一八 李龍眠筆 一幅
0000_,19,228a09(00):一觀音三十三身圖
0000_,19,228a10(00):同 六尺六寸五尺 李時實筆嘉靖廿九年 一幅
0000_,19,228a11(00):一地藏本願經變相
0000_,19,228a12(00):同 五尺三寸二尺八寸 巨勢金岡筆 一幅
0000_,19,228a13(00):一地藏本願經變相
0000_,19,228a14(00):同 六尺九寸七尺四五 陸信忠筆 一幅
0000_,19,228a15(00):一道綽善導二祖曼陀羅
0000_,19,228a16(00):同 四尺五寸三尺九寸 筆者不詳 二幅
0000_,19,228a17(00):一兩界曼陀羅
0000_,19,228b18(00):同 六尺二五四尺八五 高橋一齊筆 二幅
0000_,19,228b19(00):○舍利塔
0000_,19,228b20(00):一九重舍利塔
0000_,19,228b21(00):鑄物滅金 高二尺五五方一尺 支那製 一基
0000_,19,228b22(00):寶永七年義山撰釋迦舍利塔記一卷あり
0000_,19,228b23(00):一宗祖遺身佛形舍利塔
0000_,19,228b24(00):木製 高六寸方四寸 一基
0000_,19,228b25(00):享和三年閑田廬蒿溪選圓光大師佛形舍利記一卷あり
0000_,19,228b26(00):一三重舍利塔
0000_,19,228b27(00):赤銅製 高一尺徑五寸 一基
0000_,19,228b28(00):櫻町天皇所賜の釋尊肉髻舍利三顆及神變不思議舍利等を納む
0000_,19,228b29(00):○眞影
0000_,19,228b30(00):一淨土五祖眞影
0000_,19,228b31(00):絹本着色 四尺五五四尺九八 宋畵俊乘房將來 一幅
0000_,19,228b32(00):一善導大師眞影
0000_,19,228b33(00):同 一尺八一九寸二分 傳御自筆 一幅
0000_,19,228b34(00):上部色紙形二枚に十八願文を記す
0000_,19,228b35(00):一善導圓光兩大師眞影
0000_,19,229a01(00):絹本着色 三尺一尺三寸 乘臺筆讃あり 一幅
0000_,19,229a02(00):一後白河法皇御影
0000_,19,229a03(00):同 三尺二五一尺九四 土佐古將監筆 一幅
0000_,19,229a04(00):一圓光大師眞影
0000_,19,229a05(00):絹本 二尺五寸一尺三二 御自筆 一幅
0000_,19,229a06(00):讚文 南無阿彌陀佛、往生之業念佛爲先若我成佛、十方衆生、稱我名號、下至十聲、若不生者、不取正覺、彼佛今現在成佛、當知本誓重願不虚、衆生稱念必得往生
0000_,19,229a07(00):裏書云 此御影者、上人之御眞筆也、元久二年二月十三日被遊之處也、而絹之裏に被遊文字裏紙に寫之間、今修補之時切拔之裏に付之、而間左字之樣ニ見タルハ此故歟、爰依不慮之因縁、自千本成法房良淨相傳之一紙在之、嗚呼機感時到聖應無疑者歟、盡未來際常樂寺之本尊、而灌吉水於門賓之頂施化潤於諸德之身給、願共諸衆生往生安樂國、願共諸衆生値遇空上人矣旹永享八丙辰四月十五日 尊意(花押)
0000_,19,229a08(00):一圓光大師眞影
0000_,19,229a09(00):絹本 二尺三寸一尺一寸 御自筆勢觀房護持 一幅
0000_,19,229a10(00):一圓光大師三日月眞影
0000_,19,229b11(00):同 一尺八寸九寸 御自筆 一幅
0000_,19,229b12(00):裏書云 法然上人御自筆三日月御影、本院靈寶九幅之内 千峰光然德譽(花押)
0000_,19,229b13(00):一圓光大師三日月御影
0000_,19,229b14(00):同 三尺三四一尺一一 宅摩澄賀筆足利尊氏傳來云云一幅
0000_,19,229b15(00):一圓光大師眞影(國寶)
0000_,19,229b16(00):紙本墨畵 一尺五七九寸四分 藤原隆信筆 一幅
0000_,19,229b17(00):裏書云 上人開眼供養御座也、右此御影者隆信卿筆、知恩院十三代住持助阿上人多年安置御影也、然今自周譽上人令相傳者也、以表倍衣修復之次記之處也 眞譽(花押)
0000_,19,229b18(00):一圓光大師轉衣眞影
0000_,19,229b19(00):絹本着色 二尺三寸一尺一寸 御自筆 一幅
0000_,19,229b20(00):裏書云 此壽像者、源空上人自畵之尊像也、洛陽弘誓寺雖爲靈寶、依爲浩翁院宗把之懇望、東山大谷寺知恩院之校割奉寄進者也、粤大文字屋自齊新鏤金襴表補祖恩云云
0000_,19,229b21(00):寬永第五著雍執除孟春廿五日弘誓寺白蓮社善譽潤屋玄富叟(花押)
0000_,19,229b22(00):一圓光大師寶缻眞影
0000_,19,229b23(00):絹本彩畵 三尺七寸一尺三寸 筆者不詳 一幅
0000_,19,230a01(00):一圓光大師眞影
0000_,19,230a02(00):紙本墨畵 八寸七分五寸二分 藤原隆信筆 一幅
0000_,19,230a03(00):賛曰 光明遍照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨
0000_,19,230a04(00):一月輪兼實公眞影
0000_,19,230a05(00):紙本 二尺三寸一尺三寸 土佐光信筆 一幅
0000_,19,230a06(00):○繪卷物
0000_,19,230a07(00):一法然上人行狀畵圖(國寶)
0000_,19,230a08(00):紙本着色 竪一尺七寸紙數千百十枚 四十八卷
0000_,19,230a09(00):詞書 伏見天皇、後伏見天皇、後二條天皇、尊圓法親王、三條相國實重、姉小路濟氏、世尊寺行尹、同定成
0000_,19,230a10(00):畵圖 土佐吉光等
0000_,19,230a11(00):目錄一卷 寶永五年春東大寺別當道恕法親王筆
0000_,19,230a12(00):一法然上人行狀畵圖
0000_,19,230a13(00):紙本着色 冷泉爲恭筆 三十六卷
0000_,19,230a14(00):一同繪傳
0000_,19,230a15(00):絹本着色 五尺二五二尺五七 宅摩澄賀筆 七幅
0000_,19,230a16(00):一贈圓光大師號繪詞
0000_,19,230a17(00):紙本 一尺三寸 報恩寺湛澄選文、古磵圖、雲竹書 三卷
0000_,19,230b18(00):一融通大念佛縁起
0000_,19,230b19(00):紙本着色 一尺八分 詞畵筆者不詳 二卷
0000_,19,230b20(00):卷末 永德二年云云 詞書闕所良純法親王、堯然法親王、良恕法親王補筆
0000_,19,230b21(00):一高顯眞宗國師繪詞傳
0000_,19,230b22(00):紙本着色 三卷
0000_,19,230b23(00):○名號
0000_,19,230b24(00):一彌陀六字名號 紙本 後陽成天皇宸翰大小四幅
0000_,19,230b25(00):一彌陀六字名號 同 圓光大師眞蹟 大小四幅
0000_,19,230b26(00):一名體不離名號 絹本 同 一幅
0000_,19,230b27(00):一寶名號 紙本 同 一幅
0000_,19,230b28(00):死シテノチ我カ身ニソヘルタカラニハ南無阿彌陀佛ニシクモノハナシ 建曆元年十二月十二日源空(花押)
0000_,19,230b29(00):一彌陀六字名號 同 源智上人筆 一幅
0000_,19,230b30(00):一彌陀三尊名號 絹本 證空上人筆 一幅
0000_,19,230b31(00):款 寬元二年十一月廿二日假名菩薩沙門證空
0000_,19,230b32(00):一彌陀六字名號 紙本 弘法大師筆 一幅
0000_,19,230b33(00):一彌陀六字名號 同 尊光法親王筆 一幅
0000_,19,231a01(00):一彌陀六字名號 絹本 尊超法親王筆 一幅
0000_,19,231a02(00):一彌陀六字名號 紙本 幸仁親王筆 一幅
0000_,19,231a03(00):○古寫經
0000_,19,231a04(00):一註楞伽經 聖武天皇宸翰 一帖
0000_,19,231a05(00):一虗空藏問七佛陀羅尼咒經 同 一卷
0000_,19,231a06(00):一集法悅捨苦陀羅尼咒經 同 一卷
0000_,19,231a07(00):一入楞伽經 同 六卷
0000_,19,231a08(00):一金剛頂瑜伽中略出念誦經 孝謙天皇宸翰 四卷
0000_,19,231a09(00):奧書 維神護景雲二年歳次在戊申五月十三日景申、弟子謹奉爲先聖、敬寫一切經一部、工夫之莊嚴畢矣、法師之轉讀盡焉云云
0000_,19,231a10(00):一大悲經 光明皇后御筆 一卷
0000_,19,231a11(00):奧書 皇后藤原氏光明子、奉爲尊考贈正一位太政大臣府君、尊妣贈從一位橘氏太夫人、敬寫一切經論及律、莊嚴既了、伏願、憑斯勝因奉資冥助、永庇菩提之樹長遊般若之津、又願、上奉 聖朝恒延福壽下及寮釆共盡忠節、又光明子自發誓言、弘濟沈淪勤除煩障、妙窮諸法早契菩提、乃至傳燈無窮流布天下、聞名持卷獲福消災、一切迷方會歸覺路、天平十二年五月一日記
0000_,19,231a12(00):一時非時經奧書大悲經に同し 同 一卷
0000_,19,231b13(00):一超日明三昧經 同 一卷
0000_,19,231b14(00):奧書 維天平十五年歳次癸未五月十一日、佛弟子藤三女稽首和南云云
0000_,19,231b15(00):一師子素駄婆王斷肉經 淸和天皇宸翰 一卷
0000_,19,231b16(00):一淨土三部經 紺紙金字 後白河法皇宸翰 四卷
0000_,19,231b17(00):一觀無量壽經 同開卷説相あり同 一卷
0000_,19,231b18(00):跋 此經者後白河院御筆也、北條左京太夫氏綱御前(法名)花溪宗智寄進、當寺代代住持毎月十五日讀誦可有回向者也、奏者明岸淸全信女(十念)
0000_,19,231b19(00):永祿元戊午年七月十日 本誓寺見蓮社英譽(花押)
0000_,19,231b20(00):一阿彌陀經 同 後奈良天皇宸翰 一卷
0000_,19,231b21(00):奧書 右繕寫一卷、所以者何、先皇廿五之期月四七之日天、染翰精神貫華功力、以玆一軸恭寄上方、爰知恩敎院者、海内名藍門中本寺、宗派歷代叡賞幾朝、心在菩提念是回向焉
0000_,19,231b22(00):一菩薩處胎經(國寶) 陶仵虎筆 五卷
0000_,19,231b23(00):奧書 大統十六年歳次鶉火律在挾鐘八日丙寅佛弟子陶仵虎云云
0000_,19,231b24(00):一大樓炭經(國寶) 蘇慶節筆 一卷
0000_,19,231b25(00):奧書 咸亨四年章武郡公蘇慶節爲父邢國公敬造一切經
0000_,19,232a01(00):一阿惟越致遮經 二卷
0000_,19,232a02(00):一大通方廣經 天平三年十一月十六日 一卷
0000_,19,232a03(00):一瑜伽師地論 八十二卷
0000_,19,232a04(00):内十七卷は天平七年八月寫了の奧書あり、筆者は慈勸慈通三宅連人成慈照慈泰慈勢慈法慈信等なり、六卷は寶龜、延曆、天長の奧書あり、餘の五十九卷は奧書なし
0000_,19,232a05(00):一寫經所紙筆授受日記寫經生試驗書(國寶) 一卷
0000_,19,232a06(00):一金剛頂瑜伽經 天平勝寶三年十一月寫 一卷
0000_,19,232a07(00):一中阿含大品柔輭經天平寶字三年十月二日 岡日佐大津筆 一卷
0000_,19,232a08(00):一長阿含十報法經 一卷
0000_,19,232a09(00):奧書 天平寶字六年五月願主僧光覺云云
0000_,19,232a10(00):一毘尼摩得勒伽經 一卷
0000_,19,232a11(00):奧書 天平寶字六年五月十六日寫奉 願主僧光覺云云
0000_,19,232a12(00):一稱讃淨土經 中將法如筆 廿五部
0000_,19,232a13(00):一華嚴八會綱目章 東大寺興顯筆 一卷
0000_,19,232a14(00):一菩薩地持論 十卷
0000_,19,232a15(00):奧書 贈從一位右大臣兼行皇太子傳中衞大將藤原朝臣誓願、延曆十六年六月二日
0000_,19,232b16(00):一續華嚴疏 一卷
0000_,19,232b17(00):一菩薩念佛三昧經 朝野魚養筆 一卷
0000_,19,232b18(00):一般若燈論 同 一卷
0000_,19,232b19(00):一華嚴文義要決問答 一卷
0000_,19,232b20(00):一地藏十輪經 遠古登點を附す 一卷
0000_,19,232b21(00):一地藏十輪經 康平三年十一月點、興福寺僧慶念 一卷
0000_,19,232b22(00):一佛頂尊勝陀羅尼 唐梵對本 一卷
0000_,19,232b23(00):一十地經論 支旿筆 一卷
0000_,19,232b24(00):一海龍王經 李元惠等筆 四卷
0000_,19,232b25(00):一般舟三昧經 治部卿門部王筆 三卷
0000_,19,232b26(00):一金剛般若波羅密多經 葛野麻呂筆 一卷
0000_,19,232b27(00):一法華經 紺紙金字 小野道風筆 一卷
0000_,19,232b28(00):一觀無量壽經 紅紙金罫金字 一卷
0000_,19,232b29(00):一華嚴經第五 紺紙金字 一卷
0000_,19,232b30(00):一十二門論義疏 圓光大師眞蹟 一帖
0000_,19,232b31(00):奧書 壽永二年三月三日、以三論宗中度上人之本令比校了、但件本書寫之後、未被校之本也、未足爲證之本也、更以他本重可校正
0000_,19,233a01(00):耳、源空(花押)表紙 奉施八報恩藏 施主源空
0000_,19,233a02(00):一上宮聖德法王帝説(國寶) 筆者不詳 一卷
0000_,19,233a03(00):一順次往生講式文治二年六月二日信玄筆 一卷
0000_,19,233a04(00):一金剛壽命念誦法 慈鎭和尚筆 一卷
0000_,19,233a05(00):○古版經
0000_,19,233a06(00):一宋版一切經 德川秀忠公寄附 五千六百二十八卷
0000_,19,233a07(00):一明版一切經 尾張公寄附 二千百十四卷
0000_,19,233a08(00):一阿彌陀經 一卷
0000_,19,233a09(00):卷末に 元亨二年八月晦 向阿(花押)
0000_,19,233a10(00):一出相阿彌陀經 應永三十三年十月刻 一卷
0000_,19,233a11(00):○法語及傳書
0000_,19,233a12(00):一一枚起請文 紙本 圓光大師 一幅
0000_,19,233a13(00):一一枚起請文 同 陽光院御筆 一幅
0000_,19,233a14(00):一一枚起請文 同 良純法親王筆 一幅
0000_,19,233a15(00):一一枚起請文
0000_,19,233a16(00):紙本 享德二年八月 足利義政公筆 一幅
0000_,19,233b17(00):一一枚起請文
0000_,19,233b18(00):紙本 永正癸酉季秋 足利義稙公筆 一幅
0000_,19,233b19(00):一一枚起請文
0000_,19,233b20(00):同 天文甲寅應鐘永祿三年五月 足利義輝公筆 二幅
0000_,19,233b21(00):一一心專念之文 紙本 尊圓法親王筆 一幅
0000_,19,233b22(00):一利劍即是之文 同 尊光法親王筆 一幅
0000_,19,233b23(00):一宗脈璽書 同 鎭譽魯耕筆 六通
0000_,19,233b24(00):一五重血脈 同 德譽聰欣筆 五通
0000_,19,233b25(00):一三卷書 同 浩譽聰補筆 三卷
0000_,19,233b26(00):一戒脈璽書都部 同 同筆 四通
0000_,19,233b27(00):一宗脈都部 同 安譽虎角筆 六通
0000_,19,233b28(00):○敕書綸旨
0000_,19,233b29(00):一後鳥羽上皇歸洛院宣 建曆元年十一月十七日權中納言光親奉 一幅
0000_,19,233b30(00):一正親町天皇毀破綸旨 天正三年九月廿五日左中將親綱奉 一幅
0000_,19,233b31(00):一同 女房奉書 一幅
0000_,19,233b32(00):一廣幡局奉書 一幅
0000_,19,233b33(00):一東山天皇徽號勅書 元祿十年正月十八日諡圓光大師 一幅
0000_,19,234a01(00):一中御門天皇徽號勅書 寶永八年正月十八日諡東漸大師 一幅
0000_,19,234a02(00):一桃園天皇徽號勅書 寶曆十一年正月十八日諡慧成大師 一幅
0000_,19,234a03(00):一光格天皇徽號勅書 文化八年正月十八日諡弘覺大師 一幅
0000_,19,234a04(00):一孝明天皇徽號勅書 萬延二年正月十八日諡慈敎大師 一幅
0000_,19,234a05(00):一孝明天皇徽號勅書 安政四年五月十一日諡高顯眞宗國師 一幅
0000_,19,234a06(00):一明治天皇徽號勅書 明治四十五年二月廿七日諡明照大師 一幅
0000_,19,234a07(00):○古文書
0000_,19,234a08(00):一藤原兼實公御書 (年未詳)十一月廿九日法然上人御坊宛 一幅
0000_,19,234a09(00):一靑蓮院法印奉書 長祿四年二月廿四日當寺住持宛 一幅
0000_,19,234a10(00):一管領細川政元安堵狀 延德三年七月十八日 一幅
0000_,19,234a11(00):一超譽上人請待狀 永正十七年十一月廿日 一幅
0000_,19,234a12(00):一尊鎭法親王御書 (年未詳)六月十三日勅額添翰 一幅
0000_,19,234a13(00):一同 (天文八年)八月廿五日光照大士云云 一幅
0000_,19,234a14(00):一河内守禁制 天文十八年七月日 一幅
0000_,19,234a15(00):一不斷念佛誓狀 天文二十二年十一月廿四日稱念以下百十餘人連署 一幅
0000_,19,234a16(00):一筑前守禁制 永祿元年三月日 一幅
0000_,19,234a17(00):一足利義輝公座次公帖 永祿三年九月十五日左衞門尉丹後守奉 一幅
0000_,19,234b18(00):一淺井備前守長政禁制 元龜元年九月日 一幅
0000_,19,234b19(00):一朝倉孫三郞景健禁制 元龜元年九月日 一幅
0000_,19,234b20(00):一織田信長公書黑印 (天正七年)五月廿八日村井長門守宛 一幅
0000_,19,234b21(00):一德川家康公書翰 (天正十年)六月廿二日 一幅
0000_,19,234b22(00):一豐臣秀吉公朱印百九十石 天正十三年十一月廿一日 一通
0000_,19,234b23(00):一同 關白披露 (年月未詳)中川修理太夫より 一通
0000_,19,234b24(00):一同 朱印二百石 天正十四年十一月廿三日 二通
0000_,19,234b25(00):一同 朱印地子以下免除 天正十七年十二月朔日 一通
0000_,19,234b26(00):一同 朱印二百四十六石七斗二升 文祿二年九月十三日 一通
0000_,19,234b27(00):一前田玄以狀 慶長三年九月十八日(年未詳)四月十二日 二通
0000_,19,234b28(00):一德川家康公御書三寺紫衣 (慶長四年)九月六日 一通
0000_,19,234b29(00):一觀智國師書狀 (年未詳)九月十一日慶長二年九月廿七日 (年未詳)六月十日 三通
0000_,19,234b30(00):一滿譽僧正任官文書 慶長十四年四月十七日 二幅
0000_,19,234b31(00):一淨土宗諸法度 元和元年七月日家康(花押)元和四年六月廿八日秀忠(花押) 二通
0000_,19,234b32(00):一德川秀忠公御書 (年未詳)二月八日知恩院宛 一通
0000_,19,234b33(00):一德川家光公御書 寬永年間 雄譽上人圓譽上人宛 五通
0000_,19,234b34(00):一寺社奉行書翰 寬永十八年 三幅
0000_,19,235a01(00):一玄譽知鑑新添寺寶記 中に後陽成天皇宸翰六字名號七片 書畵極札廿二片粘付す 一帖
0000_,19,235a02(00):一尊超法親王御書 弘化三年二月 一通
0000_,19,235a03(00):○勅額及古版木
0000_,19,235a04(00):一知恩敎院額 天文年中 後奈良天皇宸翰 一面
0000_,19,235a05(00):一華頂山額 寶永七年十一月 靈元天皇宸翰 一面
0000_,19,235a06(00):一大谷寺額 天文年中 尊鎭法親王御筆 一面
0000_,19,235a07(00):一黑谷上人御影版木 正和四年十月刻 一面
0000_,19,235a08(00):一黑谷上人起請文版木 貞治四年十一月刻 一面
0000_,19,235a09(00):一黑谷上人御法語版木 同年月刻 一面
0000_,19,235a10(00):一知恩院本堂勸進版木 永享四年五月刻 一面
0000_,19,235a11(00):一圓頓戒脈版木 一面
0000_,19,235a12(00):○詩歌墨蹟
0000_,19,235a13(00):一後水尾天皇宸翰和歌 みよし野云云 一幅
0000_,19,235a14(00):一後西院天皇宸翰和歌並道晃法親王畵駒とめて云云 一幅
0000_,19,235a15(00):一靈元天皇宸翰和歌 初秋風此ころの云云 一幅
0000_,19,235a16(00):一同 龜萬年友しつかなる云云 一幅
0000_,19,235a17(00):一尊圓法親王眞蹟 いろは函書近衞龍山公 一枚
0000_,19,235b18(00):一家仁親王御歌 開祖五百五十回忌法の師の云云 一幅
0000_,19,235b19(00):一職仁親王御歌 同 世世に猶云云 一幅
0000_,19,235b20(00):一尊峯法親王御賛 同 慧解縱橫踰常倫云云 一幅
0000_,19,235b21(00):一職仁親王御歌 川亭山たかみ云云ここにみる云云 二福
0000_,19,235b22(00):一美仁親王御歌 開祖六百回忌澄そめし云云 一幅
0000_,19,235b23(00):一尊超法親王御賛 同 一幅
0000_,19,235b24(00):一同 御歌 堂前松 吉水の云云小松 今よりの云云 二幅
0000_,19,235b25(00):一同 重陽詩 一幅
0000_,19,235b26(00):一近衞内前公和歌 開祖五百五十回忌なをそへし云云 一幅
0000_,19,235b27(00):一九條尚實公賛文 同 華頂山頭霞彩晴云云 一幅
0000_,19,235b28(00):一虎關禪師墨蹟 眞性心地藏云云 一幅
0000_,19,235b29(00):一宋眞西山墨蹟 獨上無渚頂云云 一幅
0000_,19,235b30(00):一宋明哲禪師墨蹟 六祖賛卷尾に手卷一幅奉上受持貧衲道霈拜 一卷
0000_,19,235b31(00):一元趙子昻墨蹟 鏡湖流水漾淸波狂客歸舟逸興多 一幅
0000_,19,235b32(00):一元石溪心月墨蹟 窓前野馬間來往云云 一幅
0000_,19,235b33(00):一明道霈禪師墨蹟 奧書 康凞甲戌夏五月朔旦鼓山比丘道霈焚香書於聖箭堂 一卷
0000_,19,235b34(00):一手鑑 聖武天皇宸翰以下二百六十五筆 一帖
0000_,19,236a01(00):一手鑑 聖武天皇宸翰以下百六十四筆 一帖
0000_,19,236a02(00):○繪畵
0000_,19,236a03(00):一維摩居士像
0000_,19,236a04(00):紙本水墨 二尺八寸一尺一寸 相阿彌筆 一幅
0000_,19,236a05(00):一布袋和尚圖
0000_,19,236a06(00):同 一尺八五一尺一寸 一休禪師筆 一幅
0000_,19,236a07(00):賛 生涯杖一枝、彌勒心心傳、藏本袋無底、回頭兜率天
0000_,19,236a08(00):一壽老人圖
0000_,19,236a09(00):同 三尺八五一尺六三 雪舟筆 一幅
0000_,19,236a10(00):一白鷹圖
0000_,19,236a11(00):絹本着色 四尺三寸二尺三分 徽宗皇帝筆 一幅
0000_,19,236a12(00):一墨梅圖
0000_,19,236a13(00):紙本墨畵 四尺二寸一尺五分 楊補之筆 一幅
0000_,19,236a14(00):一石勒參禪圖
0000_,19,236a15(00):絹本着色 一尺一五一尺九分 趙松雪筆 一幅
0000_,19,236a16(00):一牡丹花缻圖(國寶)
0000_,19,236a17(00):同 二尺六二二尺七寸 錢舜擧筆 一幅
0000_,19,236b18(00):一淸溪道士詩意圖
0000_,19,236b19(00):紙本淡彩 一尺五分二尺六四 同筆 一幅
0000_,19,236b20(00):一鳳凰雌雄鷄圖
0000_,19,236b21(00):絹本着色 五尺二五三尺四五 呂紀筆 雙幅
0000_,19,236b22(00):一黄鶴樓、岳陽樓圖
0000_,19,236b23(00):同 五尺二五二尺八七 雄子堯筆 雙幅
0000_,19,236b24(00):一蓮鷺圖國寶)
0000_,19,236b25(00):同 四尺二尺四六 徐凞筆 雙幅
0000_,19,236b26(00):一桃李園、沈香亭圖(國寶)
0000_,19,236b27(00):同 六尺八寸三尺九五 仇英筆 雙幅
0000_,19,236b28(00):一竹石圖
0000_,19,236b29(00):絹本墨畵 一尺一五二丈九寸 吳夏㫤筆 一卷
0000_,19,236b30(00):一梅鷺圖
0000_,19,236b31(00):同 三尺四九一尺三九 除澤筆 一幅
0000_,19,236b32(00):一仙女海市圖
0000_,19,236b33(00):紙本墨畵 三尺六五一尺六八 嚴嵓筆 一幅
0000_,19,236b34(00):一墨梅圖
0000_,19,237a01(00):同 四尺五寸二尺二寸 雪軒筆 一幅
0000_,19,237a02(00):一山水圖
0000_,19,237a03(00):同 一尺七分二尺六五 眞相筆 一幅
0000_,19,237a04(00):一鶉圖
0000_,19,237a05(00):絹本着色 三尺三五一尺一三 土佐光起筆 二幅
0000_,19,237a06(00):一十二月古人遊賞圖
0000_,19,237a07(00):絹本着色 一尺一七一丈五尺五寸 月仙筆 三卷
0000_,19,237a08(00):一百肓圖
0000_,19,237a09(00):紙本 一尺一寸二丈八尺 同 一卷
0000_,19,237a10(00):○屏風
0000_,19,237a11(00):一色紙短册交張圖屏風金泥 德川家光公寄附一雙
0000_,19,237a12(00):一唐人遊船圖屏風 同 同 一雙
0000_,19,237a13(00):一源氏畵屏風 同 同 一雙
0000_,19,237a14(00):一山吹圖屏風 同 同 一雙
0000_,19,237a15(00):一松竹梅圖屏風 同常信筆 德川綱吉公寄附一雙
0000_,19,237a16(00):一花合戰圖屏風 金箔 桂昌院殿寄附 一雙
0000_,19,237a17(00):一牡丹梅蘆屏風 金泥 一條大政所寄附一雙
0000_,19,237b18(00):一若松圖屏風 同洞雲筆 同 一雙
0000_,19,237b19(00):一人物山水樓閣圖屏風 同 德川家寄附 一雙
0000_,19,237b20(00):一富士山圖屏風 同 松平綱賢侯寄附 一雙
0000_,19,237b21(00):○法具
0000_,19,237b22(00):一健陀縠子廿五條袈裟 印度製鎌倉八幡宮舊藏 一領
0000_,19,237b23(00):一白地遠山萠黄金襴交縫九條袈裟 光格天皇御衣蓮觀院局手製 一領
0000_,19,237b24(00):一紺地彩縫白地葵唐草交縫九條袈裟 靈巖上人遺品 一領
0000_,19,237b25(00):一袈裟張屏風 支那製俊乘房將來 半雙
0000_,19,237b26(00):一念珠千珠貫百八珠貫 圓光大師御所持 二連
0000_,19,237b27(00):一蓮華形鉦 紐通シ三あり 同 一個
0000_,19,237b28(00):一蓮華形抦香爐 同 一個
0000_,19,237b29(00):一佛面八鈷鈴 佛工止利造 一個
0000_,19,237b30(00):一香爐箱 裏書 明應二年眉間寺云云 一個
0000_,19,237b31(00):○器具
0000_,19,237b32(00):一笏 後柏原天皇所賜 一抦
0000_,19,237b33(00):一純銀花缻 光格天皇御遺品 一個
0000_,19,237b34(00):一靑貝角卓 同 一個
0000_,19,238a01(00):一唐桑蒔繪文臺 仁孝天皇御遺品 一個
0000_,19,238a02(00):一同 硯箱 同 一合
0000_,19,238a03(00):一靑銅薄端花器 孝明天皇御遺品 一個
0000_,19,238a04(00):一唐桑蒔繪花臺 同 一個
0000_,19,238a05(00):一蒔繪料紙箱 華頂宮御寄附 一合
0000_,19,238a06(00):一蒔繪硯箱 同 一合
0000_,19,238a07(00):一硯並硯箱 圓光大師御所持 一合
0000_,19,238a08(00):一笈 俊乘房所持 一個
0000_,19,238a09(00):一御傳唐櫃 足利尊氏公寄附 一合
0000_,19,238a10(00):一端溪日月硯 一面
0000_,19,238a11(00):一硯 滿譽僧正遺品 一面
0000_,19,238a12(00):一蒔繪料紙箱 德川家茂公寄附 一合
0000_,19,238a13(00):一蒔繪硯箱 同 一合
0000_,19,238a14(00):一推朱角卓 桂昌院殿寄附 一個
0000_,19,238a15(00):一古伊萬里錦花器 豐公聚樂第所用 一個
0000_,19,238a16(00):一鎭宅靈符鈴 銘 鎭宅靈符神 文祿二年肥後守藤原淸正(花押) 一口
0000_,19,238a17(00):一富士釜 一個
0000_,19,238b18(00):一古銅寶鐸 近江國守山天王山にて發掘 一口
0000_,19,238b19(00):
0000_,19,238b20(00):附 言
0000_,19,238b21(00):本書はもと明治四十三年淺井法順師華頂山知恩院
0000_,19,238b22(00):の囑を受けて 開祖圓光明照大師御遠忌報恩記念
0000_,19,238b23(00):のため過去七百年間に於ける華頂山の由緖沿革及
0000_,19,238b24(00):ひ現在の寺域殿堂靈寶等の大要を記述せられしも
0000_,19,238b25(00):のに今回更に增補訂正を加へ本會に寄稿せられた
0000_,19,238b26(00):るもの也
0000_,19,238b27(00):大正二年秋 編 者 誌
0000_,19,238b28(00):
0000_,19,238b29(00):
0000_,19,238b30(00):
0000_,19,238b31(00):
0000_,19,238b32(00):
0000_,19,238b33(00):
0000_,19,238b34(00):華頂誌要終