0000_,20,242a01(00):檀林深川靈巖寺志
0000_,20,242a02(00):
0000_,20,242a03(00):目 次
0000_,20,242a04(00):剙開叢林 當山創建 本尊迎置 珂山功操
0000_,20,242a05(00):所建諸堂 門塀境景 稱三別院 子院八宇
0000_,20,242a06(00):發意八庵 七谷學舍 朱璽賜章 開山廣濟
0000_,20,242a07(00):歷世師名 當主法脉 遠祖遺弟 傳燈哲德
0000_,20,242a08(00):諸侯墳墓 彫銘二三 大島堂跡 末寺十一
0000_,20,242a09(00):御朱印五十石 道本山東海院靈巖寺
0000_,20,242a10(00):境内古蹟拜領三萬一千五百六拾七坪餘
0000_,20,242a11(00):剏開叢林
0000_,20,242a12(00):開祖靈巖上人慶長八年安房國にありて眞宗の要義を
0000_,20,242a13(00):説法せられしかば里見安房守忠義師に歸依せられし
0000_,20,242a14(00):に依り藩老東條民部左衞門金藤九郞右衞門是又同じ
0000_,20,242a15(00):く隨喜し大網村にて一宇を建立し佛法山大網寺大巖
0000_,20,242a16(00):院と名く東西七丁南北十丁を寺境とし專ら所化を集
0000_,20,242a17(00):會し法問論義の談所と定め規條淸差を新たに定め生
0000_,20,242b18(00):實飯沼縁山鎌倉に鼎約して宗門の大檀林とす
0000_,20,242b19(00):師始生實大巖寺の三世として檀林の能化なりしか
0000_,20,242b20(00):ど故ありて寺を辭遁し一旦南都伊勢國に遊び諸國
0000_,20,242b21(00):に寺院を開基せらるる事三十余宇そののち東照宮
0000_,20,242b22(00):の命により再び生實に再住し法灯をかかげられし
0000_,20,242b23(00):かど總房の二州天台眞言日蓮の三宗のみ多くあり
0000_,20,242b24(00):て淨家はいとまれなれば宗門興隆のため安房國に
0000_,20,242b25(00):渡り説法度生ありし時大巖院を始保田別願院檢義
0000_,20,242b26(00):谷原大勝院等房總の間に師の建創少からず然れど
0000_,20,242b27(00):も檀林と定められしは當山のみなり院名の大巖は
0000_,20,242b28(00):生實をうつされし心なりとぞ
0000_,20,242b29(00):生實に住職の間隨從ありし所化又は遠近の國郡より
0000_,20,242b30(00):師の德風をしたひ雲水の輩集會し常に法問講釋間斷
0000_,20,242b31(00):ある事なかりしかは寺門日日に繁榮し眞俗の興隆東
0000_,20,242b32(00):關に最頂なり
0000_,20,242b33(00):師の行狀は予文政四年廣濟傳三卷を述す故に玆略
0000_,20,242b34(00):天正十八年御入國の時上總國佐貫城二萬石を内藤彌次
0000_,20,243a01(00):右衞門家長に賜れり慶長五年八月家長伏見城にて討
0000_,20,243a02(00):死ありければ子息左馬介政長父封を繼入部の時菩提
0000_,20,243a03(00):所を開基し花香谷村慶相山佐貫院善昌寺と名く
0000_,20,243a04(00):善昌寺の號は始三河國加茂郡龜井戸にありて開山
0000_,20,243a05(00):光蓮社演譽上人は内藤甚五右衞門淸政が子也伯父
0000_,20,243a06(00):淸長天正十八年佐貫城に移封の時隨ひ來り小寺を
0000_,20,243a07(00):營み内藤家の香花の地とせしかど慶長八卯年七月
0000_,20,243a08(00):十四日歸寂せしかば此時無住なり
0000_,20,243a09(00):善昌寺寬文五年奧州岩城平へ内藤家移城のとき寺
0000_,20,243a10(00):號並住持をかの方へ引移されしかばその跡の寺を
0000_,20,243a11(00):其まま松平出雲寺勝隆菩提所として修理を加へ
0000_,20,243a12(00):覺雲山勝隆寺と改む故に今善昌寺の號南總にな
0000_,20,243a13(00):し
0000_,20,243a14(00):此時師の高德遠近に振ひしかば内藤氏より使者を以
0000_,20,243a15(00):て慇に請待し大衆法問結夏の料を寄附し宗門弘通心
0000_,20,243a16(00):のままにせらるへし外護檀越となりまゐらせむとあ
0000_,20,243a17(00):りしかば利樂有情は沙門の本意と是を承諾し内藤家
0000_,20,243b18(00):に對話の上善昌寺を檀林所と改ため定めらる是より
0000_,20,243b19(00):大網より善昌寺に住持せられしかば大巖院には弟子
0000_,20,243b20(00):を住持せしめられければかの方に殘りし雲水も又生
0000_,20,243b21(00):實にて師の舊友たりし僧歸國の上長育せし弟子など
0000_,20,243b22(00):も遠近の國國より集り來りければいつしか飯沼鎌倉
0000_,20,243b23(00):瓜連生實などの檀林にもおさおさ劣らぬ程の衆徒あ
0000_,20,243b24(00):り此頃江戸にては東照宮御在城にて時時營中にて法
0000_,20,243b25(00):問論議聽聞遊ばされしかば其度毎に師を其員に召れ
0000_,20,243b26(00):御前にて御賞慇を蒙り奉られけるに慶長八年諸國の
0000_,20,243b27(00):寺院私に法問論議し檀林の規條をととめられ
0000_,20,243b28(00):是までは關東に限らず諸國にて有德有學の知識の
0000_,20,243b29(00):許にては法問論議傳法講釋あり東國にては鎌倉瓜
0000_,20,243b30(00):連飯沼小金生實縁山は近來德匠を選び住職あられ
0000_,20,243b31(00):しにそ自然と他國より傳法の爲め來遊せしかと猶
0000_,20,243b32(00):西國にては多く京都本山並三河伊勢なとにて禁戒
0000_,20,243b33(00):傳法ありし事なり
0000_,20,243b34(00):公上より命ありて東關十八の外は是を嚴制させられ
0000_,20,244a01(00):しかば師の德風且集會大衆の員數等により當山其隨
0000_,20,244a02(00):一に定り白簱傳灯の大法師位に仰付らるこれより師
0000_,20,244a03(00):いよいよ大衆の敎誡宗門弘通に丹棘を抽でらる
0000_,20,244a04(00):當山創建
0000_,20,244a05(00):師房總止錫の間檀家の請により時時出府あられしか
0000_,20,244a06(00):ど宿所は法縁の寺院又は在家の寄寓なり是本意にあ
0000_,20,244a07(00):らず又隨伴の中自然心得違ありては佛祖への慚愧お
0000_,20,244a08(00):そるべき事なりいかにも小寺を一宇起立し宿院とな
0000_,20,244a09(00):さばやと寬永元年此旨を檀家堀庄兵衞に談しわれ地
0000_,20,244a10(00):境を愛するにはあらされど宗門興隆眞俗繁榮利益有
0000_,20,244a11(00):情のためなればいかにもして江戸にうつり一宇建立
0000_,20,244a12(00):せんとありし時堀氏いかにも承りぬ出府の節地所を
0000_,20,244a13(00):見立んと方方尋求けるに日本橋より十丁ほど下り廣
0000_,20,244a14(00):き芦原あり潮さし引沼にて向井將監忠勝の下屋舗な
0000_,20,244a15(00):り是を向井氏に乞けるに望にまかすべしとありしか
0000_,20,244a16(00):ば師欣然として東西一丁餘南北二丁程乞うけ茶船を
0000_,20,244a17(00):あまた集め土を運ひ地の高き所にても五六尺づづ堤
0000_,20,244b18(00):を築き低所は七八尺又は一丈餘宛築けるに四方の男
0000_,20,244b19(00):女高貴の方方は紙扇袖袋などにてまで土を運び石を
0000_,20,244b20(00):持よせらる師それそれわかちなく十念血脉をさづけ
0000_,20,244b21(00):られけるに半年餘にして地成しかは先假に九間に八
0000_,20,244b22(00):間の本堂七八間づづの庫裏方丈その外雜部屋下部屋
0000_,20,244b23(00):客寮迄棟數六七を作りて自ら道本山靈巖寺と名けら
0000_,20,244b24(00):る
0000_,20,244b25(00):師始住職あられし生實大巖寺開山道譽上人は一流
0000_,20,244b26(00):の祖なれば其道譽流の本山といへる心にて山號を
0000_,20,244b27(00):つけ自名を後世に傳へ宗門弘通所たらんと行末を
0000_,20,244b28(00):祝されしと云
0000_,20,244b29(00):始門輩並檀家とも在府中の旅宿小庵と擬けるに今一
0000_,20,244b30(00):寺とせられしかば行末の手あていかがなど案じける
0000_,20,244b31(00):もありしとぞ此時先に堂にて七日七夜の別時念佛を
0000_,20,244b32(00):開闢し毎日二座の説法あり則ち建立せる所の堂を念
0000_,20,244b33(00):佛堂と名け其後大將軍家へ寺地落慶の奏達すみけ
0000_,20,244b34(00):れば兩御所御目見仰出されけるさて十方遠近の貴賤
0000_,20,245a01(00):より二日三夜或は七日或は四十八夜の別時念佛を賴
0000_,20,245a02(00):み來り毎日の參詣市の如し師の道德都鄙に普ねかり
0000_,20,245a03(00):けれは寬永四年六月西御丸にて大御所台德院殿師の
0000_,20,245a04(00):法問聽受させらるべきむね仰出され一宗の長老とと
0000_,20,245a05(00):もに一心佛性の法問を論議あり其のち毎日の群集に
0000_,20,245a06(00):地狹なりければ官に乞地つつきの茅原を添地に願は
0000_,20,245a07(00):れけるに寬永五年の春隣地三丁四方餘を新に加へ賜
0000_,20,245a08(00):はりければすべて六丁四方の大境内となれり然れと
0000_,20,245a09(00):も皆芦原にて潮さし引船往來の處なり師やがて是を
0000_,20,245a10(00):築立秋十八間に十五間の本堂並に庫裏方丈惣門中門
0000_,20,245a11(00):鐘樓雜部屋庫物置子院學寮まで悉く備はりければ宗
0000_,20,245a12(00):門一方の大刹となりける此時總房にて化度の所化並
0000_,20,245a13(00):に諸國に遊學せる好身の大衆ことことく集りければ
0000_,20,245a14(00):やがて善昌寺の檀林を當山にうつし道譽一流の傳法
0000_,20,245a15(00):弘通の靈塲とす時に寬永五年なり
0000_,20,245a16(00):寬永記云元年甲子靈巖雄譽上人法力を以江戸八丁
0000_,20,245a17(00):堀海上を諸檀那土石を運ひ集て陸地に築くここに
0000_,20,245b18(00):於て一宇を建立し靈巖寺と號す
0000_,20,245b19(00):本尊迎置
0000_,20,245b20(00):師未だ雲水の身にて行脚せられし時上總國佐貫城下
0000_,20,245b21(00):に安國寺といへる古破の寺あり
0000_,20,245b22(00):安國寺は曆應二年足利尊氏卿東國鎭護のためにと
0000_,20,245b23(00):て七堂伽藍を造營ありしより寺領もあまた寄附せ
0000_,20,245b24(00):られしかど其のち里見北條の戰にいつとなく寺門
0000_,20,245b25(00):荒廢す元和三年師の門弟住務ありしより淨土宗に
0000_,20,245b26(00):改それより先は天台とも云又は眞言とも云
0000_,20,245b27(00):立よりて本尊を拜瞻せられしに座像の彌陀尊なれと
0000_,20,245b28(00):臺座後光共に落損し光彩見るべくもあらざれど相好
0000_,20,245b29(00):圓滿殊勝なりければ師頻に繫念す我若修學功積りて
0000_,20,245b30(00):當所にて一寺に住職せは必ず迎へ奉りて某寺の本尊
0000_,20,245b31(00):と仰ぎ奉らむと無二に祈誓し名殘惜く別れられしに
0000_,20,245b32(00):三十年過て當所善昌寺へ内藤家の請にて住務せられ
0000_,20,245b33(00):しかばかの旨を述られ本尊を乞れ許をうけ寺へ迎へ
0000_,20,245b34(00):再興し中尊佛となし禮拜安置ありその後又當山開創
0000_,20,246a01(00):あられければ實に末代良導の本尊なりとてかの寺よ
0000_,20,246a02(00):り迎へらる此時海中にて靈驗等あり着船すみて本堂
0000_,20,246a03(00):に安置し七日の別時をはじめ毎日法談の時必此尊の
0000_,20,246a04(00):ことを演説せらる夫より度度回祿ありしかどいつも
0000_,20,246a05(00):炎災なくして今時猶嚴然たり則ち今靈巖寺の本尊是
0000_,20,246a06(00):なり
0000_,20,246a07(00):珂山功操
0000_,20,246a08(00):當山既に靈巖島にて開祖土木の功を得大伽藍成就し
0000_,20,246a09(00):又台命によりて本宗の學所たる大檀林所十八員の其
0000_,20,246a10(00):一に加はり入て眞俗の繁榮諸宗に希なる事どものみ
0000_,20,246a11(00):ならず殊に檀家も數多あり且所化も諸方より集り來
0000_,20,246a12(00):り法問講釋怠慢なかりしに明曆三年正月十八日本郷
0000_,20,246a13(00):丸山本妙寺日蓮宗勝劣派越後本成寺觸頭よりの出火にかかりて境内
0000_,20,246a14(00):諸堂坊舍聖敎神祠佛堂子院學寮鐘閣塀牆まで殘らず
0000_,20,246a15(00):燒失すさればとて再建せずしてやむべきにあらざれ
0000_,20,246a16(00):ど江戸一圓の類燒人數十萬八千余も死亡せるほどな
0000_,20,246a17(00):れば檀家ことことく同燼なる故直には力に及ばされ
0000_,20,246b18(00):ば追おいに再建の助勢をなしけるに萬治二年三月十
0000_,20,246b19(00):八日台命によりて寺を此地に移させらる
0000_,20,246b20(00):萬治記云二年巳亥八月三日靈巖寺を以て公用の地
0000_,20,246b21(00):とす和尚自らの力をもて築し處なれば公より寺領
0000_,20,246b22(00):五十石を寄附せられ御朱印をも賜り寺地を東南葛
0000_,20,246b23(00):西に移さる江戸砂子云第二世松蓮社大譽上人珂山
0000_,20,246b24(00):和尚の代にあたり明曆三年正月十八日の回祿のの
0000_,20,246b25(00):ち此地に移さる是又海濱也珂山の門人大蓮社珂碩
0000_,20,246b26(00):和尚に命して境内を築しむ
0000_,20,246b27(00):此時寺主開山より第三世珂山上人道德に長じ弟子珂
0000_,20,246b28(00):碩和尚是又超凡絶倫の高哲なりしかば漫漫たる海に
0000_,20,246b29(00):つづける芦原を苅拂ひ檀家はことことく同燒せしか
0000_,20,246b30(00):ど師の德力に集りて築立しかば程なく境内成就し不
0000_,20,246b31(00):日に大伽藍造立あり此時松平遠江守開基の號あり人
0000_,20,246b32(00):夫若干を出し梵刹は一己の造營となり依て當山の役
0000_,20,246b33(00):所は九曜を以て定紋とす是より當山移境の煩なかり
0000_,20,246b34(00):しかばつひに海東第一の大厦となれり
0000_,20,247a01(00):此時富賀岡八幡宮を以當山の鎭守とし兩門前並に
0000_,20,247a02(00):靈巖島は氏子とす故に祭禮ある時は惣門前に神輿
0000_,20,247a03(00):を休下し惣門へ珠簾紫幕を張り置き時の山主並に
0000_,20,247a04(00):一山の長老を衞侍せしめ法樂を備へ誦經念佛あり
0000_,20,247a05(00):又神輿に附添る萬灯並家主共が警固參列も當山の
0000_,20,247a06(00):兩門前を以て初番と定め海邊大工町を第一番とす
0000_,20,247a07(00):次には諸町町の割番ありといふ文化四年八月十
0000_,20,247a08(00):九日永代橋俄落の時予も八幡宮祭禮を拜す其時一
0000_,20,247a09(00):見せしに靈巖寺門前町を初番と定列す
0000_,20,247a10(00):所建諸堂
0000_,20,247a11(00):本堂 中門内二十間餘南向 今無
0000_,20,247a12(00):寬永中今の靈巖島にて初建の堂は十八間に十五間
0000_,20,247a13(00):京間也明曆三年燒失後當地に移りても猶十八間に十
0000_,20,247a14(00):五間也其のち又燒失享保中再建ありしかど又明和
0000_,20,247a15(00):八卯年八月十一日夜本堂燒失により安永中又再建
0000_,20,247a16(00):あ
0000_,20,247a17(00):此堂予一見す堂の棟に九曜紋五所にあり唐破風向
0000_,20,247b18(00):拜方丈より廊下あり礎石は神田橋外護持院取拂の
0000_,20,247b19(00):時往的上人乞願はれしを賜へりしなり石のわたし
0000_,20,247b20(00):大は丈余に及ひ小は五六尺もあり今猶存す
0000_,20,247b21(00):此時の堂は梁間京間十三間桁行同十三間向牌京間
0000_,20,247b22(00):五間二尺後通二間十三間鑁東方二間一間の庇
0000_,20,247b23(00):寬政九年十一月二十二日麻布大火の時又烏有とな
0000_,20,247b24(00):る此時潮冏上人大衆へ宗傳の時なり僧俗ともに防
0000_,20,247b25(00):火の手あて申入しを傳法の席なり火災あるべから
0000_,20,247b26(00):ずと自若たりしかど其内圓火風陣に競ひ殿宇子院
0000_,20,247b27(00):學寮門塀小屋等に至るまで一山殘りなく灰燼とな
0000_,20,247b28(00):れり
0000_,20,247b29(00):講法堂 中門の内左にあり六間四方塗屋なり寬政の
0000_,20,247b30(00):火災に殘りける講法堂の三字を扁し又天龍擁護の
0000_,20,247b31(00):四字を題す是一切經庫なり二枚の聯は開山の偈頌
0000_,20,247b32(00):にて同筆とも云
0000_,20,247b33(00):三科七大如來藏 五眼具足滿識身
0000_,20,247b34(00):本形影像同一體 生前滅後無窮盡
0000_,20,248a01(00):鐘撞堂 大師堂の北にあり寬政中燒失後假建なり
0000_,20,248a02(00):鐘 圓徑五尺余 高壹丈余 厚九寸
0000_,20,248a03(00):銘
0000_,20,248a04(00):開祖松風上人創建斯靈區後大譽珂山和尚以明曆丙
0000_,20,248a05(00):申年鑄洪鐘於靈巖島其後 命乃移寺於今地而洪鐘
0000_,20,248a06(00):亦隨移遷延寶年之間鐘屢罹災不響亮矣於是予遂發
0000_,20,248a07(00):志募得銅錫於有信增加舊鐘更改鑄以水備法器而此
0000_,20,248a08(00):寺卑濕不利鑄鐘故於淺草九品精舍竣鳧氏之功云
0000_,20,248a09(00):延享改元甲子孟冬七日現住麗譽善阿順眞謹誌
0000_,20,248a10(00):道本山東海院靈巖寺
0000_,20,248a11(00):大方丈 度度燒失寬政中回祿文化中再建のところ
0000_,20,248a12(00):文政元年正月二日夜又自火により一圓類燒追追立
0000_,20,248a13(00):坪减少本堂より東にあり當時本尊並に觀音勢至は
0000_,20,248a14(00):始悉く安置玄關内玄關より内表坐敷等悉く此所に
0000_,20,248a15(00):具す始貞巖上人代建所の建坪ことに多かりし
0000_,20,248a16(00):是寬政回祿の時智堂上人建られしかと燒失により
0000_,20,248a17(00):潮冏上人建られし其のち追追貞嚴上人建添られし
0000_,20,248b18(00):なり
0000_,20,248b19(00):孝潤上人代自火燒失に付て諸記錄位牌什具に至る
0000_,20,248b20(00):まで悉く燒失す然れども自身又大方丈を建改めら
0000_,20,248b21(00):れ引つつき遷化なり
0000_,20,248b22(00):位牌堂
0000_,20,248b23(00):大方丈の東に一棟別に貞嚴上人建改らるそれより
0000_,20,248b24(00):別棟にあらす此所に諸侯方並麾下衆別に靈屋なき
0000_,20,248b25(00):の靈牌を安置す備前家土州藤堂和泉守酒井雅樂頭
0000_,20,248b26(00):西尾隱岐守相良遠江守をはじめ諸縁檀方の位牌多
0000_,20,248b27(00):し神田源七は町家なりといへとも由緖によりて此
0000_,20,248b28(00):中に安置すすへて本坊位牌壇には町家の位牌神田
0000_,20,248b29(00):氏の外は一基も安置せす
0000_,20,248b30(00):庫 裏
0000_,20,248b31(00):貞嚴上人代再建あられしより孝潤上人代燒亡後假
0000_,20,248b32(00):建なりしを顯海上人代新に建立あり十五間に十間
0000_,20,248b33(00):なり
0000_,20,248b34(00):新書院
0000_,20,249a01(00):山主居間向なり
0000_,20,249a02(00):右之外諸役部屋廊下小坐敷茶間類凡廿余間あり但し
0000_,20,249a03(00):追追建坪减少なりと云貞嚴上人代建添られしは大黑
0000_,20,249a04(00):堂並常念佛殿詰衆部屋兩役者部屋寮司部屋表役僧部
0000_,20,249a05(00):屋内役者内典謁部屋各二ケ所宛詰衆部屋は凡十餘ケ
0000_,20,249a06(00):所有之並に長廊下曲直凡二十五間其外茶番所洒司道具入
0000_,20,249a07(00):納戸類すへて棟數三十も有之
0000_,20,249a08(00):圓光大師堂 中門入右の方二間に二間半塗屋
0000_,20,249a09(00):此中に千部經を納む
0000_,20,249a10(00):前に標石有之東都廿五ケ所第 番
0000_,20,249a11(00):熊野社
0000_,20,249a12(00):同所少し前にあり當山鎭守なり拜殿三間に二間幣
0000_,20,249a13(00):殿九尺四方内陣二間半に二間
0000_,20,249a14(00):文庫 本坊より北に在什帳古記を入置しかれども常
0000_,20,249a15(00):用の分は平日其役所所にありし故度度燒失別に
0000_,20,249a16(00):孝潤上人代自火故多く燒失す
0000_,20,249a17(00):施餓鬼池 本坊東園中にあり
0000_,20,249b18(00):貞嚴上人代新に堀せられ此前にて毎日大施餓鬼を
0000_,20,249b19(00):修し魚鳥を放ち供物を投す
0000_,20,249b20(00):稻荷社 記錄藏の側にあり西向
0000_,20,249b21(00):開山堂 表門入左雄松院の本堂とす七間に五間往古
0000_,20,249b22(00):は七間に八間ありて最初靈巖島にての念佛堂なり
0000_,20,249b23(00):故に上人の像を本尊と安置し晝夜常念佛修行六時
0000_,20,249b24(00):禮誦あり今は別院となる初開山靈巖島にて此堂落
0000_,20,249b25(00):成の日七日七夜念佛を修し毎日二座の説法ありし
0000_,20,249b26(00):と云これなり其時誓願せられけるは今より怠轉な
0000_,20,249b27(00):く此堂にて常念佛すへしもし此念佛退轉せば此寺
0000_,20,249b28(00):も隨て退轉すべしと其時當山檀家三萬余宇ありし
0000_,20,249b29(00):なり明曆大火の節一萬を减ず其のち順眞上人代大
0000_,20,249b30(00):公事初り本坊と地中所化方一同事起り所化方地僧
0000_,20,249b31(00):とも數十人追放の時百日の閉門等有之其節檀家新
0000_,20,249b32(00):葬に差合多くは其平生信ずる所の宗に改め又夫を
0000_,20,249b33(00):幸に隣寺淨心寺等へ改檀し寺僧學寮の檀も其主追
0000_,20,249b34(00):放ありし故跡に念もなく彼是此時五千程减せりと
0000_,20,250a01(00):云ふ其のちも追追學寮の分は其寮主一世切にて不
0000_,20,250a02(00):埓なども多く追追破壞せる度ごとに又又檀家减し
0000_,20,250a03(00):又江戸燒亡の度ごとに小檀のゆくへしられぬもあ
0000_,20,250a04(00):り又まま日蓮一向にうつるも多く成行て常時常在
0000_,20,250a05(00):の本檀家一山にて七千餘有之由なり然れども別院
0000_,20,250a06(00):子院學寮八庵に分れあれば其員各宇にては少しと
0000_,20,250a07(00):いへとも東都第一の檀數なり
0000_,20,250a08(00):勢至 中門の正面南にあり近來行德德願寺智山住務
0000_,20,250a09(00):より今辨定相續す寮持となれり
0000_,20,250a10(00):觀音堂 江戸三十三所第二十九番
0000_,20,250a11(00):塔婆地藏 開善院の本尊なり江戸東方四十七番の札
0000_,20,250a12(00):所なり
0000_,20,250a13(00):不動堂
0000_,20,250a14(00):地藏尊 表門の突當り東へ一丁余にあり高壹丈六尺
0000_,20,250a15(00):銅像江戸六地藏の第五番也六地藏は一番南品川品
0000_,20,250a16(00):川寺二番四谷内藤宿太宗寺三番巢鴨眞正寺四番山
0000_,20,250a17(00):谷東漸寺五番當山六番深川永代寺也寶永五年地藏
0000_,20,250b18(00):坊正元といへる者建立せりといふ日本橋小田原町
0000_,20,250b19(00):二九屋よりの石花瓶あり臺座石壇凡七尺余世俗正
0000_,20,250b20(00):元は八百屋お七が菩提のために吉三郞建立せりと
0000_,20,250b21(00):いへども左にあらず元祿のはじめ慈濟庵空無上人
0000_,20,250b22(00):六體八尺立像の金銅地藏菩薩を建立ありしかば此
0000_,20,250b23(00):地藏尊を後の六地藏尊といふ也
0000_,20,250b24(00):浪除觀世音
0000_,20,250b25(00):光閑院に安置す縁起別にあり
0000_,20,250b26(00):觀世音大士
0000_,20,250b27(00):最勝院持一堂ありて寺の西にならぶ
0000_,20,250b28(00):柳稻荷社
0000_,20,250b29(00):地藏尊の東にあり本社九尺に一間拜殿二間に九尺
0000_,20,250b30(00):前に鳥居あり當山いまだ此地に移らざる先よりあ
0000_,20,250b31(00):れば地主の神とす
0000_,20,250b32(00):石地藏尊 惣卵塔中裏門の手前左の方にあり
0000_,20,250b33(00):門塀境景
0000_,20,250b34(00):裏 門
0000_,20,251a01(00):境内東の方裏門前町屋へ通拔なり惣卵塔のつづき
0000_,20,251a02(00):にてうでき門也此所より雲光院法禪寺等へ通行す
0000_,20,251a03(00):るもの多し
0000_,20,251a04(00):庫裏門 中門の並び東の方にひらく方丈内の輩の外
0000_,20,251a05(00):は出入を禁す
0000_,20,251a06(00):非常口 火葬所より大和町へ出る但し外人不通の所
0000_,20,251a07(00):葭沼
0000_,20,251a08(00):境内南東にあり此地元祿中より裏門前町たりしに
0000_,20,251a09(00):寬政三年津波にかかりしより今のごとく葭沼とな
0000_,20,251a10(00):りぬ中に二條の舟入の川ありて山本町と西永町と
0000_,20,251a11(00):の間なる川に通ず
0000_,20,251a12(00):十 境 此十名は麗譽順眞大僧正の所稱と云
0000_,20,251a13(00):正覺殿本堂 講法閣 通眞門中門 柳神祠柳稻荷
0000_,20,251a14(00):日月井講法堂の北の方にあり 入玄窟大師堂 梵鐘塲撞鐘 開士堂
0000_,20,251a15(00):開山堂 放生池
0000_,20,251a16(00):又十境 此十境は淨譽圓海大和尚の所名と云
0000_,20,251a17(00):寶王殿 響流閣 開法藏 雄松舍 修梵觀 鎭衞祠
0000_,20,251b18(00):入妙門 放生池 栖禪石 無常路
0000_,20,251b19(00):四 隣
0000_,20,251b20(00):西は高橋より正覺寺橋への大路なり大路の西向に當
0000_,20,251b21(00):知山本誓寺あり東は雲光院に界ひ南は日蓮宗淨心寺
0000_,20,251b22(00):北は立花和泉守屋敷なり
0000_,20,251b23(00):正德五年未三月官史に御朱印拜領寺社帳靈巖寺古跡拜領地三
0000_,20,251b24(00):萬千五百六十七坪余
0000_,20,251b25(00):諸 谷
0000_,20,251b26(00):北櫻谷 南櫻谷 中谷 北柳谷 同南 錦谷北
0000_,20,251b27(00):同南谷
0000_,20,251b28(00):一山火葬所 葭沼の東南にあたりて一坊あり當山
0000_,20,251b29(00):別院子院學寮諸檀越の無常人を望によりて火葬す
0000_,20,251b30(00):凡火葬所は千住小塚原に諸宗あり其外砂村桐谷大
0000_,20,251b31(00):龜谷增上寺下屋敷白銀右四ケ所の外私に火屋ある
0000_,20,251b32(00):事は當山と隣淨心寺にあるのみにて江戸諸宗寺院
0000_,20,251b33(00):の中にある事なし
0000_,20,251b34(00):開祖の大功は元より論なし珂山又なみなみの輩なり
0000_,20,252a01(00):せばいかでか今の地拜領ありとも築立再建成就ある
0000_,20,252a02(00):べきや
0000_,20,252a03(00):稱三別院
0000_,20,252a04(00):雄松院 開山大和尚影像を安置自作といふ自讃あり
0000_,20,252a05(00):惣門を入左の方にあり影堂七間に六間後に庫裏あ
0000_,20,252a06(00):り常念佛は開山より數萬日怠轉なし
0000_,20,252a07(00):長專院
0000_,20,252a08(00):中門の前東南角榊原家をはじめ諸家の取次なり
0000_,20,252a09(00):濟松院
0000_,20,252a10(00):櫻谷の北向にあり檀家凡三百に及ぶ
0000_,20,252a11(00):子院八宇
0000_,20,252a12(00):正覺院 安養院 松林院 榮壽院 深照院 淨閑院
0000_,20,252a13(00):成等院 開善院
0000_,20,252a14(00):各院に檀家あり中門の前南にひらきて左右に列立
0000_,20,252a15(00):す何も兩脉禀傳の僧を住持とす
0000_,20,252a16(00):發意八庵
0000_,20,252a17(00):此八庵は發心者なり往世開山上人近江國山中越の
0000_,20,252b18(00):時とかやあやしき輩八人出上人の心を引見法衣剝
0000_,20,252b19(00):奪の爲なりしを上人説法開導せられしかば忽發心
0000_,20,252b20(00):隨從すといふ其後師の德風に歸し出家隨常となり
0000_,20,252b21(00):しと云
0000_,20,252b22(00):廣閑院 濟乘院 雪光庵 潮江庵 見松庵 淸澄庵
0000_,20,252b23(00):吟松庵 臨海庵
0000_,20,252b24(00):七溪學舍
0000_,20,252b25(00):所化學寮七谷あり何れも檀家あり凡檀林他の十七山
0000_,20,252b26(00):には學寮に檀家なし當山の各寮にのみ檀家數十家宛
0000_,20,252b27(00):の資縁ありて遠國雲水の助縁に便あり是開山大和尚
0000_,20,252b28(00):の法德廣大凡識のはかる所にあらざるの致す所なら
0000_,20,252b29(00):ん歟明曆三年までは百二十余宇ありて學寮の中にも
0000_,20,252b30(00):檀家數百ありしもままありしかど寺地引移ののち八
0000_,20,252b31(00):十寮に减少し其のち又順眞上人在住の内山主と一山
0000_,20,252b32(00):の院寮一同の公事起りてつひに數十人追放となり其
0000_,20,252b33(00):跡百日閉門の差扣ありしかば檀家新葬にさしつかへ
0000_,20,252b34(00):又日比日蓮義抔を好める輩は幸と改宗し又其後も度
0000_,20,253a01(00):度江戸燒亡の時に减數し當今學寮の中の檀家漸く三
0000_,20,253a02(00):四十より六七十軒にみてず寮も又年を追て衰敗し當
0000_,20,253a03(00):今漸く四十寮となれり
0000_,20,253a04(00):文政元寅年十二月學寮四十院の名
0000_,20,253a05(00):櫻谷北 空寮 鸞及 秀山 空寮 達忍 大道
0000_,20,253a06(00):靈貫 良冏 的順
0000_,20,253a07(00):同谷南 順厚 辨定 存統 法道 琢音
0000_,20,253a08(00):中谷 淨因 空寮 演戒 澤恩 順海
0000_,20,253a09(00):靈恩 立信 覺丈 快順
0000_,20,253a10(00):柳谷北 善隆 密堂 智航 縁碩 慧嶽 榮全
0000_,20,253a11(00):同 南 了察 敎順 順道 成山 乘法
0000_,20,253a12(00):錦谷北 覺道 台純 靈純 仰觀
0000_,20,253a13(00):同 南 靈存 靈瑞 寬山 空寮
0000_,20,253a14(00):朱璽賜章
0000_,20,253a15(00):御朱印
0000_,20,253a16(00):靈巖寺領武藏國豐島郡葛西大島村之内
0000_,20,253a17(00):五拾石事新寄附之畢并寺中門前竹木諸
0000_,20,253b18(00):役等免除永不可有相違者也仍如件
0000_,20,253b19(00):寬文五年七月十一日(御朱印)
0000_,20,253b20(00):開山廣濟
0000_,20,253b21(00):靈巖大和尚は檀蓮社雄譽松風と號す駿河國沼津人沼
0000_,20,253b22(00):津土佐守氏勝が三子天文廿三年正月父三河國鴫原城
0000_,20,253b23(00):主山岡氏を攻ける時討死により母愁傷し出家とす永
0000_,20,253b24(00):祿七子年二月十五日十一歳にして同所淨蓮寺開山增
0000_,20,253b25(00):譽上人の弟子となり剃染受戒す幼稚より俊惠邁彥常
0000_,20,253b26(00):倫に超たり同十一辰年生實大巖寺に入て修學し法問
0000_,20,253b27(00):講釋怠る事なく天正二戌年廿一歳にて三國佛祖の相
0000_,20,253b28(00):傳を禀承し同十五年龍澤山の第三世に擢擧せられ同
0000_,20,253b29(00):十八年以後度度江城御前の法問に召れ又縁山へ入御
0000_,20,253b30(00):の節御前の法問に出席あり此時故ありて龍澤山を辭
0000_,20,253b31(00):し東海道を遊化し近江國蒲生郡布施村に福壽寺同國
0000_,20,253b32(00):上羽田村に圓通寺を起立し翌十九年南都に靈巖院を
0000_,20,253b33(00):開創あり請によりて山城國宇治の稱故寺の本堂を建
0000_,20,253b34(00):立し同國瀧鼻村に西光寺を剙營す文祿元年二月廿九
0000_,20,254a01(00):日東照宮伏見城にて八幡正法寺大超上人を御使とし
0000_,20,254a02(00):て召せられ再び生實龍澤の住職を命じ給へり此時春
0000_,20,254a03(00):日の神前にて佛舍利感得の奇瑞ありさて生實に歸住
0000_,20,254a04(00):ののち千葉寺の鐘を土中より感得し龍澤山を再建せ
0000_,20,254a05(00):らる時に松風の號を加ふ慶長八年安房國に渡り金臺
0000_,20,254a06(00):寺に止錫説法のとき國主里見安房守忠義朝臣の歸依
0000_,20,254a07(00):深く大網村に大巖院を開創のせつは天津山より材木
0000_,20,254a08(00):を出すに靈應あり當寺にて四十八夜の別時を始め壽
0000_,20,254a09(00):像に勝瑞の奇感あり本尊を南都より迎へ盜賊源兵衞
0000_,20,254a10(00):發心し石田三成の迷魂を慈濟せらる又上總國五井に
0000_,20,254a11(00):守永寺を起開し里見家に戒を授け同國佐貫善昌寺に
0000_,20,254a12(00):移住し雲水をあつめ檀林の規則を定め湊村に迷幽の
0000_,20,254a13(00):靈を救度し同村に湊濟寺同國小原宿に三經寺を營基
0000_,20,254a14(00):あり又姊崎最頂寺を改流再建し下總國生實の大覺寺
0000_,20,254a15(00):の起祖となり西國遊化を發意し伊勢國山田に靈巖寺
0000_,20,254a16(00):同國赤桶に心光寺を創立あり因幡國にて前安房國主
0000_,20,254a17(00):里見氏に對面訪會し伯耆國穴鴨に大雲寺の宗旨を定
0000_,20,254b18(00):め赤崎に專稱寺を建起せらる又出雲國にうつり朶村
0000_,20,254b19(00):に馴願院松江に極樂寺をひらき備前國岡山に靈巖寺
0000_,20,254b20(00):を開き石見國に至り湊村極樂寺の記主遠祖の像を拜
0000_,20,254b21(00):し嚴島大明神の影向龍神の乞願を船中に感得し花頂
0000_,20,254b22(00):山にのぼりて滿譽大僧正に謁談し上總に歸錫し安房
0000_,20,254b23(00):國檢義谷の大勝院上總國金谷本覺寺安房國保田別願
0000_,20,254b24(00):院等を建起あり又上總國千田稱念寺を改派再興し六
0000_,20,254b25(00):十六才にて依病に瑞感あり生實潮龍上人來訪傳法の
0000_,20,254b26(00):時は龍燈の祥瑞あり江戸にわたりて當山をひらき不
0000_,20,254b27(00):斷念佛開闢の上兩御所君へ御目見すみて西御丸御前
0000_,20,254b28(00):にて法問扱の命あり新建の當山に境を添へられ十八
0000_,20,254b29(00):檀林の員に入りて大殿を營備し台命によりて花頂惣
0000_,20,254b30(00):本山に住職入院し鎭守殿をいとなみ東照宮の御宮を
0000_,20,254b31(00):崇奉し本多忠刻の請により播磨國姬路に下向し同所
0000_,20,254b32(00):飾萬津知法寺を創立あり歸京の上仙洞御所にて説法
0000_,20,254b33(00):仰出され院宣によりて院御所にて法問を取扱す台德
0000_,20,254b34(00):院殿薨御により諷經納經として東武に參向の時花頂
0000_,20,255a01(00):山炎燒の災ありしかど大猷院殿の命によりて是を再
0000_,20,255a02(00):興せらる此時新に洪鐘を鑄閣を半山にうがち鞍馬山
0000_,20,255a03(00):參詣の時は白蜈出現あり孤雀法衆に馴れ黑子を除き
0000_,20,255a04(00):伏見宮若宮を補處のため剃度し奉られ三部經を校點
0000_,20,255a05(00):開板あり其外選擇集頌義等に至るまで數部の宗疏を
0000_,20,255a06(00):彫鏤せしめ本堂落慶の後壽像を安置し列祖の牌をた
0000_,20,255a07(00):て淸規を定む諸堂全備の御禮として東都に下向のせ
0000_,20,255a08(00):つは殿中にめされ御前にて法問を聽せられ杖を營中
0000_,20,255a09(00):に免ぜらる御戒受させらるへきの命によりて歸都延
0000_,20,255a10(00):引のうち受病わづかにて正念往生ありすべて師の本
0000_,20,255a11(00):傳予別に撰述せし故其概猷をここに略出するのみな
0000_,20,255a12(00):り
0000_,20,255a13(00):歷世師名
0000_,20,255a14(00):開山檀蓮社雄譽上人松風靈巖大和尚 寬永十八已九月朔日
0000_,20,255a15(00):二世雄蓮社正譽上人意天大和尚
0000_,20,255a16(00):三世松蓮社大譽上人珂山大和尚
0000_,20,255a17(00):四世本蓮社公譽上人繼風靈圓大和尚 貞享三年二月六日
0000_,20,255b18(00):五世名蓮社義譽上人遇光蓮的大和尚 貞享二年八月七日
0000_,20,255b19(00):本朝諸佛靈應記云靈巖寺蓮的和尚未だ所化の御時下
0000_,20,255b20(00):野國日光山中禪寺の溫湯に入りたまひしを湯主以て
0000_,20,255b21(00):の外にもてなし奉る蓮的和尚のいはくみづからはか
0000_,20,255b22(00):く計馳走にあふへき者にあらずと辭退ありしかば湯
0000_,20,255b23(00):主が云されば是へつかせ給へる宵の夢に明日所化の
0000_,20,255b24(00):僧來り給ふべし是は靈巖寺の五世の和尚にてましま
0000_,20,255b25(00):せばよくもてなし奉れと新たに靈夢を蒙りしかば心
0000_,20,255b26(00):の及ぶほどは馳走仕ると語れり此和尚は靈巖寺開山
0000_,20,255b27(00):雄譽上人萬日を初めたまふ開闢の日に生れ給ひ今年
0000_,20,255b28(00):萬日の廻向延寶八年四月二日蓮的和尚導師にておは
0000_,20,255b29(00):しき誠にかたがた不思議の縁なりと云云
0000_,20,255b30(00):六世念蓮社愍譽上人春應大和尚 元祿十四年三月廿八日
0000_,20,255b31(00):七世雄蓮社前大僧正松譽上人詮察大和尚 享保二年三月十八日
0000_,20,255b32(00):八世常蓮社然譽上人直到吟達大和尚 同八年三月三日
0000_,20,255b33(00):九世演蓮社前大僧正學譽上人獨松冏鑑大和尚
0000_,20,255b34(00):享保十七年十二月五日
0000_,20,256a01(00):十世正蓮社前大僧正堅譽上人不卻往的大和尚
0000_,20,256a02(00):元文三年四月廿五日
0000_,20,256a03(00):十一世天蓮社騰譽上人頂英大和尚
0000_,20,256a04(00):十二世服蓮社膺譽上人辨弘大和尚 新田へ移
0000_,20,256a05(00):十三世傳蓮社眞譽上人貴順大和尚
0000_,20,256a06(00):十四世嚴蓮社大僧正麗譽上人順眞大和尚 本山
0000_,20,256a07(00):十五世性蓮社薰譽上人團智大和尚
0000_,20,256a08(00):十六世還蓮社到譽上人潮音大和尚 黑谷へ轉す
0000_,20,256a09(00):十七世淸蓮社淨譽上人圓海大和尚 飯沼鎌倉
0000_,20,256a10(00):十八世曜蓮社大僧正嶺譽上人智堂大和尚 礫川縁山
0000_,20,256a11(00):十九世圓蓮社順譽上人祐水大和尚 百萬遍
0000_,20,256a12(00):二十世淨蓮社光譽上人學圓大和尚
0000_,20,256a13(00):廿一世圓蓮社相譽上人潮冏大和尚 誓願寺
0000_,20,256a14(00):廿二世等蓮社迎譽大僧正貞嚴大和尚 飯沼礫川本山
0000_,20,256a15(00):廿三世音蓮社潮譽上人孝潤大和尚
0000_,20,256a16(00):圓淑大和尚
0000_,20,256a17(00):開祖法流無印は總系譜中に出○印は私加之門弟傳燈斗を記法孫の分は略之
0000_,20,256b18(00):道譽系出初卷大巖寺開祖 靈巖傳別出 春譽光蓮社明山 佐渡州加茂郡吉住極樂寺開山 貞存天蓮社梵譽 武州葛飾郡本所大雲寺開山 利導法蓮社傳譽 同 江戸白金專心寺開山 素覺明蓮社光譽 河州牧方一乘寺開山 靈月安蓮社穩譽 奧州岩城西岳寺開山 林覺三蓮社經譽 奧州岩城光源寺開山 暫龍關蓮社透譽 阿州海部郡宍喰長福寺中興 願行寺ノ誤歟 周存眞蓮社乘譽 藝州廣島淨安寺開山 拱阿然蓮社辨譽 駿州 縣福欣寺開山 利天照蓮社光譽 房州安房郡大圓寺開山 靈極深蓮社貞譽 城州久世常福寺西用極樂寺開山
0000_,20,257a01(00):廓無正蓮社念譽 南都靈巖院二世 念無佛蓮社法譽 江戸三田濟海寺道往寺開山 圓知心蓮社深譽 江州初鹿瀨東光寺開山 歷央函蓮社文譽 洛東粟田口城安寺開山 傳譽本蓮社靈什 房州平郡穗田遣水寺開山 龍鐵大蓮社頓譽 勢州山田大蓮寺開山 窓月往蓮社西譽 城州宇治善法寺開山 文廓信蓮社深譽 江州安土淨嚴院十一世 愚誾德蓮社本譽 勢州鈴鹿郡住山太岩寺開山 珂山松蓮社大譽 當山移境再興 滿靈照蓮社光譽 岩槻淨國寺京知恩寺住職 靈圓木蓮社公譽 當山鎌倉光明寺住職
0000_,20,257b02(00):靈益念蓮社專譽 和州添下郡淸凉院開山 尊空天蓮社帝譽 照滿親王 花頂山住職 靈實眞蓮社誠譽 勢州山田蓮華院梅香寺二世 靈存信蓮社行譽 勢州飯高郡深野來迎寺開山 寶譽靈雲 播州餝萬津知寶寺開山 靈益念蓮社專譽 大和州添下郡淨眞寺開山 光譽靈雲 同東河田村蓮光寺西方寺開山 淨淸白譽 勢州越坂淨淸院開山 故稱願譽 和州鳥ノ庄准稱寺開山 善把正蓮社念譽 江州彥根淸德寺開山 行譽來迎寺同人歟 丹波州棚原淨圓寺開山 普應順蓮社敎譽 洛陽法宣寺開山
0000_,20,258a01(00):存覺照蓮社寂譽 泉州箱作宗福寺開山 琳廓冠蓮社寶譽 信州飯山慶宗寺開山 西風函蓮社文譽 京都粟田口城安寺開山
0000_,20,258a02(00):
0000_,20,258a03(00):當主法脉
0000_,20,258a04(00):
0000_,20,258a05(00):觀智國師 聞諦團譽寶臺院 智童登譽縁山主 知鑑玄譽花頂山 春岳念譽 傳通院 了把照蓮社寂譽聽室京四條正覺寺五世元祿十四巳正月廿一日 圓含順蓮社鸞譽融照川越大蓮寺又吉見藥師寺 享保十巳正月五日化 圓慶善蓮社稱譽玄阿正德二酉九ノ十一日 圓悅漸蓮社東譽直西寶臺院享保十六亥十一ノ廿三日 圓達信蓮社單譽直到寳曆三酉正ノ五日用土蓮光寺住 音貞法蓮社忍譽吉見藥師寺 圓應喚蓮社遣譽用土蓮光寺寬保元酉十ノ廿四日 圓道相蓮社實譽同寺寳曆十辰十ノ十五日 圓秦道蓮社空譽善阿寬延四未八ノ廿一日小スハ無量院
0000_,20,258b06(00):圓嶺觀蓮社相譽單阿直心寶曆十三酉十一ノ廿六日惠眼院九世文化元十一ノ廿五日 圓壽天蓮社長譽光阿湛月岩付淨國寺天明五已十二ノ九日 圓隆直蓮社到譽信阿二臘ヨリ淺草龍寶寺文政二卯八ノ朔化 圓妙諦蓮社觀譽肥後隈本阿彌陀寺 圓鏡洲蓮社寶譽肥後阿彌陀寺後同國往生院 圓智等蓮社倫譽勝阿 圓旭等蓮社齊譽 慈喚 志道 圓澄 智全 倫翁 倫道 圓諦 桂山 智海 學眞 智元 證順 圓悅
0000_,20,259a01(00):圓藝得蓮社慶譽大坂小橋寶國寺文化五辰正ノ十日 圓雄實蓮社相譽眞阿如海 月行事大養寺寬政十一未十ノ九日 圓輪轉蓮社旋譽淺草永昌寺寬政二戌九月十五日 圓岸定蓮社得譽生阿縁山下慧眼院十世文化五辰十二ノ廿五日 圓月寬蓮社原譽 圓龍 義宣 曇融 深海 俊藝 凖藝 玄宣精蓮社進譽廣阿 小金東漸寺 文政三辰九月廿一日 圓如性蓮社成譽寬政十午三月八日 靈忠法子圓譽 圓幢 圓義 忍順 勇進 祖城金河成佛寺
0000_,20,259b02(00):圓亮啓蓮社運譽縁山一文字席上州安中大泉寺 圓歷行譽雲州松江善導寺 圓利順阿 初西久保大養寺 後縁山惠眼院十一世 圓定妙蓮社高譽越中富山大信寺享和二戌八ノ廿九日 圓淑芳蓮社桂譽改舜靈 文政三辰九月十三日奉命靈巖寺 亮仙大蓮社敬譽寬政十午六ノ廿四日 運海乘蓮社航譽文化十酉九ノ十五日 信戒 圓妙 圓澄 舜隨 法運 舜妙 圓説 寛洲
0000_,20,259b03(00):&
0000_,20,259b04(00):傳灯哲德
0000_,20,259b05(00):○照蓮社寂譽存覺は堺人靈巖上人都鄙勸諭の時歸依
0000_,20,259b06(00):弟子となり江戸に來り靈巖寺に入り修學し岩公珂山
0000_,20,259b07(00):の二上人に附從傳法二脉相承ののち歸國し日根郡箱
0000_,20,260a01(00):作村に醫王山宗福寺を開基す貞享四年九月十六日化
0000_,20,260a02(00):○光譽は靈巖上人の弟子なり大和國宇知郡東河田村
0000_,20,260a03(00):蓮光山西方寺を開基し延寶三年六月四日沒西方寺記
0000_,20,260a04(00):案るに靈巖公の弟子に光譽二人あり一は明蓮社光
0000_,20,260a05(00):譽素覺大和國奈良人河州牧方一乘寺開山にて慶長
0000_,20,260a06(00):十七年三月廿五日寂なり又一は照蓮社光譽利天房
0000_,20,260a07(00):州長田村人安房國安房郡大圓寺に住し入滅の年を
0000_,20,260a08(00):記さず此二は惣系譜にあり今當寺記に光譽と計り
0000_,20,260a09(00):なれば素覺の方大和人にてひたしけれど沒故の年
0000_,20,260a10(00):月大に違へり利天の方は國たがへりといへども沒
0000_,20,260a11(00):日をしるさず巖公奈良にて靈巖寺開起の時房州よ
0000_,20,260a12(00):り附隨來りて當寺を起立し當寺にて終りを遂しな
0000_,20,260a13(00):らむか左れど又別人歟
0000_,20,260a14(00):○念蓮社專譽靈益は靈巖上人に投し剃髮染衣し隨從
0000_,20,260a15(00):年久しそののち大和國に至り一説に大和國人巖公奈良在住の時の弟子なりと云添
0000_,20,260a16(00):下郡觀音寺村松平日向守菩提所淨眞寺を住開し天
0000_,20,260a17(00):和元年同村に草庵を淸凉院と名づけ隱栖す同二年萬
0000_,20,260b18(00):無上人本山在職の日寺號を賜はる貞享元年三月洛東
0000_,20,260b19(00):一心院に住職し同四年正月十七日化七十一才
0000_,20,260b20(00):○冠蓮社寶譽琳廓は越後高田人堀丹後守藩梅戸六右
0000_,20,260b21(00):衞門子なり同所淨林寺に入て應譽文悅の弟子となり
0000_,20,260b22(00):靈巖寺に入來し巖公の弟子となり附法相承す元和六
0000_,20,260b23(00):申年父法名快翁宗庵の文字を逆にとりて信濃國水内
0000_,20,260b24(00):郡飯山に慶宗寺法光山林昌院を建開し父の菩提に擬す德行
0000_,20,260b25(00):により後淨林寺に住務せし故開寺をかの末寺とす寬
0000_,20,260b26(00):文五年十二月廿七日寂七十五才
0000_,20,260b27(00):○生蓮社寶譽太益光珪は江戸人奧野氏靈巖寺會下本
0000_,20,260b28(00):譽太岩の弟子同山大譽上人の附法にて修學成熟のの
0000_,20,260b29(00):ち本多下總守俊次の好望によりて寬文七未年近江國
0000_,20,260b30(00):膳所別保村に今井兼平が廟所ありし所に今井山念佛
0000_,20,260b31(00):院兼平寺を建立し開祖となる
0000_,20,260b32(00):○專蓮社透譽暫龍は石見國人靈巖上人かの國濟度の
0000_,20,260b33(00):時弟子となり給隨成功し寬永の末巖公花頂山御在職
0000_,20,260b34(00):中阿波國に下り海部郡宍喰浦願行寺を中興し海顏山
0000_,20,261a01(00):安養院と加號す
0000_,20,261a02(00):寺記云當寺開山月快上人元草葺の彌陀堂ありいく
0000_,20,261a03(00):年經るとも知人も申傳もなし天正年中堺浦より廻
0000_,20,261a04(00):國し堂に止住し四十八夜別時念佛し彌陀如來悲願
0000_,20,261a05(00):の義趣を勸進あり元當浦は眞言宗なるに念佛の利
0000_,20,261a06(00):益廣大なる事を初て聞て大に歸依し終に一宇とな
0000_,20,261a07(00):る後堺に歸らるるの時檀家信心の爲とて日本三體
0000_,20,261a08(00):の靈佛二尺五寸餘の立像齒吹如來を贈らる今の本
0000_,20,261a09(00):尊是なり慶長九年十二月十六日戌刻南海の洪波山
0000_,20,261a10(00):陸一時に鹽水と充塞するの時近村一圓人民沒溺男
0000_,20,261a11(00):女死人甚多此時開山行狀位牌過去帳まで失ふ其の
0000_,20,261a12(00):ち門前の人由來の大畧を記し石牌をたつ
0000_,20,261a13(00):寬永十八年三月七十餘才にて寂
0000_,20,261a14(00):○崇蓮社敦譽雲恕は日向國人幡隨上人に隨從し上人
0000_,20,261a15(00):滅後高弟意天上人に侍衞す天公靈巖寺に住職により
0000_,20,261a16(00):靈巖寺に止錫修習國に歸りて後兒島郡三納郷に野嶽
0000_,20,261a17(00):山谷照寺と云ふ廢寺あり始禪宗次に時宗にて文殊堂
0000_,20,261b18(00):のみあり是を再興し住す又本寺高月院に在住す寬文
0000_,20,261b19(00):七未九月廿四日沒七十四才
0000_,20,261b20(00):○秀譽は城州綴喜郡多賀村の人熊岡藤左衞門子靈巖
0000_,20,261b21(00):寺珂山上人附法寬文元年同所眞福寺を中興す當寺へ
0000_,20,261b22(00):天正十五亥年貞安上人再興といへとも不分明寬文六
0000_,20,261b23(00):年六月六日七十九於泉國善輪村死
0000_,20,261b24(00):○西譽窓月は城州醍醐人靈巖上人弟子と成慶長十四
0000_,20,261b25(00):年九月十四日宇治五鈷山善法寺を中興す
0000_,20,261b26(00):寺記云當寺者宇治關白賴通公永承中開創之名善法
0000_,20,261b27(00):堂下略
0000_,20,261b28(00):慶安四卯年八月十五日死す
0000_,20,261b29(00):○凾蓮社丈譽西風歷央は下野國千本人剃髮ののち名
0000_,20,261b30(00):越大澤又生實館林等諸所へ遊錫し終に靈巖上人に附
0000_,20,261b31(00):法傳承す寬永の末京にのぼり粟田口に東輝山戒安
0000_,20,261b32(00):寺を起立し承應二年二月三日化六十四
0000_,20,261b33(00):○生譽直念は土州高知郡南新堀人姓貞重氏靈巖寺に
0000_,20,261b34(00):下向し大譽珂山上人に隨剃度し傳法相承す安房國平
0000_,20,262a01(00):郡片岡村に至り鼠福山來迎院菩提寺を起立す
0000_,20,262a02(00):○深蓮社廣譽は安房國平郡多田良村人船形西行寺本
0000_,20,262a03(00):譽岩碩弟子靈巖寺意天上人に三脈禀受あり寬永十八
0000_,20,262a04(00):巳年安房國長狹郡橫須賀村前原町に念佛院を建延寶
0000_,20,262a05(00):七年十二月十七日死
0000_,20,262a06(00):○回蓮社寂譽哲道は長崎人三浦氏東國の相傳を崇重
0000_,20,262a07(00):し靈巖寺に下向し大譽上人に嗣法す寬文中安房國朝
0000_,20,262a08(00):夷郡加茂村に松林山性空院眞勝寺を起建す
0000_,20,262a09(00):○照蓮社光譽利天は安房國長田村人大網大巖院二世
0000_,20,262a10(00):靈譽弟子靈巖大和尚の附法三脉禀得ののち安房國の
0000_,20,262a11(00):北條に禪寺の廢絶あるを檀家より乞寬永元年改宗し
0000_,20,262a12(00):佛道山超念院大圓寺と名く
0000_,20,262a13(00):○信蓮社三譽苦順向西は藝州廣島人靈巖寺に入正譽
0000_,20,262a14(00):上人に嗣傳あり寬永三年安房國米澤村にて滿光山護
0000_,20,262a15(00):國寺の廢絶を興す當寺はじめ永德年中造立の地藏堂
0000_,20,262a16(00):ありしを改宗し寺とせしなり
0000_,20,262a17(00):○春譽は佐渡國羽黑村人靈巖上人の弟子となり諸國
0000_,20,262b18(00):隨從し二利許可ののち歸國し吉住村にて慶長十五戌
0000_,20,262b19(00):年松風山極樂寺を起立し同十五年正月十二日沒八十
0000_,20,262b20(00):三才
0000_,20,262b21(00):○大蓮超譽珂碩松露は武藏國人野村氏二本榎覺眞
0000_,20,262b22(00):寺圓岩に投し薙髮し生實に入て珂山寮に修學し後山
0000_,20,262b23(00):公江戸靈巖寺住職の時隨身し是より靈巖寺に棲し其
0000_,20,262b24(00):後諸國に人民を敎化し眞宗を弘通す緇素其德に伏し
0000_,20,262b25(00):貴賤其化を信ず初越後國村上泰叟寺に住務し淵龍を
0000_,20,262b26(00):濟度す武藏國瀨多ケ谷領奧澤に幽居を求めけるに吉
0000_,20,262b27(00):良左兵衞督の城跡を得ければ境内三町九反五步九反五分
0000_,20,262b28(00):は除地なり の所に大伽藍を造立し淨土九品の九品體の彌
0000_,20,262b29(00):陀を彫刻安置す世に九品堂と云師九品山唯在彌陀院
0000_,20,262b30(00):淨眞寺と名け毎年三部經千部讀誦を修行せられける
0000_,20,262b31(00):凡一部の化益枚擧にいとまあらず別に行狀傳一卷あ
0000_,20,262b32(00):り又鎭流祖傳惣系譜にも粗其大途を出す元祿七年十
0000_,20,262b33(00):月七日圓寂七十七才
0000_,20,262b34(00):○法譽念無聖は近江國人廿一才時恨むる者ありて敵
0000_,20,263a01(00):と成んとする時生國俗生を隱し關東に下向し靈巖上
0000_,20,263a02(00):人に謁して師と賴み剃髮隨給專修專念す其後一心に
0000_,20,263a03(00):三心具足し四修自然とあり念佛の外他事なし或日靈
0000_,20,263a04(00):夢によりて竹芝寺龜塚臺に至り元和七年念佛堂を建
0000_,20,263a05(00):立す是より先に觀音堂あり
0000_,20,263a06(00):寺記云龜塚臺者太田道灌當時告臣云此塚猶我國
0000_,20,263a07(00):河圖也以營草堂安置觀音像近來零落礎趾僅殘
0000_,20,263a08(00):爰以斯塲見在雖憑念無幽栖實古竹柴寺往蹟也
0000_,20,263a09(00):中略念無元和七執行千日別時念佛發現當二世大
0000_,20,263a10(00):誓願欲造伽藍爲佛法紹隆肇竹柴寺復舊趾
0000_,20,263a11(00):得成梵刹幸一日淸譽雲林槪庵室共入念佛三昧
0000_,20,263a12(00):依爲法器仁爲二世二脈師靈巖大和尚此時住
0000_,20,263a13(00):昇花頂惣本山賜號於濟海寺弘鷲山遺敎六時
0000_,20,263a14(00):勤行無怠
0000_,20,263a15(00):寬永十八巳年大猷院殿一千五百餘坪の寺地を賜ひけ
0000_,20,263a16(00):れば直ちに寺を構へ僧房を營立す延寶三卯年龜塚の
0000_,20,263a17(00):古堂を改め新建の大殿落成す高く法灯をかかげ暗夜
0000_,20,263b18(00):を照し大慈長明灯と名く
0000_,20,263b19(00):寺記云燈明堂當東海海上中度颶濤起時多少船舶
0000_,20,263b20(00):迢望此燭以得脱鬼門關之阢
0000_,20,263b21(00):貞享五辰年初て縁山貫主孤岩大和尚周光山長壽院と
0000_,20,263b22(00):加號あり此時牧野駿河守忠卿檀越となり松平隱岐守
0000_,20,263b23(00):定直松平紀伊守平岡越前守觀世太夫等各師檀の約を
0000_,20,263b24(00):なす念無又高輪伊皿子に來迎山統攝院道往寺を起立
0000_,20,263b25(00):し幽栖所と定むとそ
0000_,20,263b26(00):當寺記云寬永八年起立大猷院殿數度入御御茶屋等
0000_,20,263b27(00):被爲建然共其後零落
0000_,20,263b28(00):寬文三年八月十五日兼て往生の時を定め諸人に暇乞
0000_,20,263b29(00):し捨身往生す此時異香四方に薰し寺中山外にて雨花
0000_,20,263b30(00):あり參詣の道俗奇瑞に驚き遠近市の如し
0000_,20,263b31(00):師三田臺に在居念佛せられし故其所を聖坂と云又
0000_,20,263b32(00):伊皿子の門前を念無と名く今あやまりてねいもと
0000_,20,263b33(00):いふは非なり且箕田八幡宮常に師前に影向し説法
0000_,20,263b34(00):を聽受し給ひしとぞ殊に別當に神勅し給ひけると
0000_,20,264a01(00):て今に至り祭禮の時は濟海道往の兩寺の門前にて
0000_,20,264a02(00):神輿をかきすへ暫時住持大衆を引連法樂の讀經あ
0000_,20,264a03(00):る事富岡八幡宮の靈巖寺表門にて法樂あるが如し
0000_,20,264a04(00):案るに八幡宮は本地彌陀佛にましましければ念佛
0000_,20,264a05(00):信受の輩を護念のあまりにや深川と云箕田と云淨
0000_,20,264a06(00):土門の寺前にて法樂を受給ふも不思議なり且靈巖
0000_,20,264a07(00):寺と云當寺と云師弟の開基寺を好愛したまふも實
0000_,20,264a08(00):に不思議といふべしされば念佛修行の輩は此神の
0000_,20,264a09(00):冥助し給はんことゆめゆめ疑ふへからす
0000_,20,264a10(00):道往寺の言傳に云念無聖始禪曹洞にて三田功運寺
0000_,20,264a11(00):品川海晏寺を起立し後淨土門に入て此二ケ寺開基
0000_,20,264a12(00):ありと云案るに此説によらば近江國より下向一旦
0000_,20,264a13(00):禪門に入られしにや此兩寺の記魚魯ある事他日糺
0000_,20,264a14(00):明すべし
0000_,20,264a15(00):○天蓮社梵譽貞存は甲州臣岡部石見守信隆子靈巖上
0000_,20,264a16(00):人の弟子となり常給隨仕す元和六年淺草御藏前にて
0000_,20,264a17(00):長行山西迎院大雲寺を起立す寬永五年二月二日沒寬
0000_,20,264b18(00):文八申二月二日類燒によりて寺は本所押上今の地に
0000_,20,264b19(00):うつさる
0000_,20,264b20(00):○超譽珂碩上人行業記略云師諱珂碩字松露別號超譽
0000_,20,264b21(00):姓野村氏武州人也父名參母某氏元和四年正月朔生父
0000_,20,264b22(00):嘗匠作大尹桑山氏之家臣以驟諫廢錮參與妹夫有憾妹
0000_,20,264b23(00):夫往將賊之參拔劒擊之自歎曰我以狂諫失旨且殺妹夫
0000_,20,264b24(00):不如死也自刎而死時寬永三年十二月四日師年九歳母
0000_,20,264b25(00):潜匿之稍長仕加藤戸部不幾辭祿而去有外家土屋忠者
0000_,20,264b26(00):資給衣食同十二年遂往于江戸覺眞寺投圓嵓法師覓薙
0000_,20,264b27(00):髮嵓曰見子骨相當成大器今夫隨流上人往子生實大巖
0000_,20,264b28(00):寺門下有珂山法師汝宜事山師師喜與嵓共行于大巖寺
0000_,20,264b29(00):拜山師出家時年十八一日讀梵網經忽起一誓曰我常這
0000_,20,264b30(00):安養淨土九品佛像以擬日本國中之人之名位總牌使一
0000_,20,264b31(00):瞻禮者生生世世不失人身正見念佛參生安養得無上道
0000_,20,264b32(00):自是注心造佛日夜無輟十三年流師寂于大巖寺山師乃
0000_,20,264b33(00):辭生實到武州靈巖寺師亦從之無幾巖師遷洛陽知恩院
0000_,20,264b34(00):山師代主一年豆州御崎漁人網怪魚相共食盡患奇病舶
0000_,20,265a01(00):監今村氏亦罹重疾醫療無效今村氏家人來請慈救師廼
0000_,20,265a02(00):作木浮圖長數丈謂家人曰汝宜以此浮圖樹于邑人網魚
0000_,20,265a03(00):之所也家人以浮圖載船還於豆州一邑群集建浮圖于水
0000_,20,265a04(00):中舶監及邑人所患頓愈龍灯現浮圖之上一七夜由是里
0000_,20,265a05(00):人名其岸松曰龍灯松先是師命侍者置一器于坐隅日貯
0000_,20,265a06(00):三錢以充佛造之費其後連年遭火災屢失資財然願心熾
0000_,20,265a07(00):盛寬文四年丈六像一軀成不幾弟子珂憶從京師來啓師
0000_,20,265a08(00):曰小子亦克助之師正色曰丈六九軀之像若戮力成之者
0000_,20,265a09(00):何爲歷期年乎惟以衣之餘資作之未嘗募造像于世間
0000_,20,265a10(00):汝勿復言也憶亦啓曰九軀之像設者師之所誓也願以慈
0000_,20,265a11(00):念分與香火之小縁弟子得復霑于靈潤也師許之是故九
0000_,20,265a12(00):品丈六像六軀圓光之中小佛六千六軀者盖是憶之
0000_,20,265a13(00):所造也七年九品丈六像九軀皆悉充足又造丈六釋迦佛
0000_,20,265a14(00):像一軀與九品像倶靈巖寺按るにここに靈巖寺と云しは大島村念佛堂の事成べし無何
0000_,20,265a15(00):風波漲寺佛軀半漂海中不久而悉還本所人皆嘆稱之師
0000_,20,265a16(00):之本誓弗陽捐師在靈巖寺者幾卅又餘年越後州村上
0000_,20,265a17(00):太守某邀師住州之泰叟寺時寬文八年師年五十一州
0000_,20,265b18(00):有巨流號曰十川河岸崩墜歳常溺人咸謂宿龍之所致也
0000_,20,265b19(00):縣吏杉浦氏到寺而請師曰以慈力爲國降之師諾之廼到
0000_,20,265b20(00):十川嚮水合掌唱佛十聲修法未畢一境晦冥有大蟒從淵
0000_,20,265b21(00):起矯首宛延旋轉遂出淵而去合場奇之仰師神德師於越
0000_,20,265b22(00):州歷十年日説淨土因縁勸人稱佛號從化之者未知厥數
0000_,20,265b23(00):武州荏原郡世田谷奧澤村九品山唯在念佛院淨眞寺者
0000_,20,265b24(00):盖是古城之蹤也故老相傳吉良氏嘗就此地築城也壘堭
0000_,20,265b25(00):之舊阯今尚存矣郷中申官爲寺請師來居師遂退去越州
0000_,20,265b26(00):往于奧澤時延寶六年師年六十一奧澤之境荊棘荒蕪無
0000_,20,265b27(00):有人家師乃茅第築土佛堂厨堂朴素不言師謂徒曰奧澤
0000_,20,265b28(00):之地違城邑遠地僻幽靜我將屏縁此地以修餘年也師廼
0000_,20,265b29(00):躬親種松栽茶用充薪水且買田數頃以爲供給師甞所造
0000_,20,265b30(00):九品佛像移于奧澤安奉艸堂自是世人呼師所居曰九品
0000_,20,265b31(00):佛化道日煽又江府有竹洞葛民者家世業儒一兒患喘母
0000_,20,265b32(00):携兒之寺師唱佛百聲宿病速愈母大喜抃乃以明呂起所
0000_,20,265b33(00):畵之蓮花三軸奉師致謝葛民大駭嘆回心佛業因自爲呂
0000_,20,265b34(00):起水墨蓮華記以置寺記文略之又献師鳩杖自作銘刻之銘文略之
0000_,20,266a01(00):延寶八年八月大風草堂倒仆九品像軀頽毀剝壞師命工
0000_,20,266a02(00):修補且造小佛若干列于九品佛像圓光之中元祿七年六
0000_,20,266a03(00):月廿三日師寢疾至秋日革九月十六日自鳴磬誦光明遍
0000_,20,266a04(00):照之文剏念佛會以爲順寂之期廿三日門人珂憶從河州
0000_,20,266a05(00):來師謂之曰九品佛像本誓已就堂寓莊嚴有志不遂汝宜
0000_,20,266a06(00):修立矣身後之事皆付屬汝憶掩涙唯唯廿九日聚徒説法
0000_,20,266a07(00):自十月五日唯時啜水唱佛號耳七日夜半對佛合掌唱彌
0000_,20,266a08(00):陀號而寂實元祿七年十月七日享年七十七僧夏五十九
0000_,20,266a09(00):八日闍維九日諸徒收取靈骨五色舍利百余粒纍然在矣
0000_,20,266a10(00):乃窆餘骨于九品山之西北云師平日造佛九品丈六彌陀
0000_,20,266a11(00):佛像九軀毎一軀圓光之中小佛一千十一軀九品九軀小
0000_,20,266a12(00):佛大凡一萬百十軀丈六釋迦佛像一軀圓光小佛一千一
0000_,20,266a13(00):十軀惠心僧都堅田千軀摹像一千十軀備中千軀摹像一
0000_,20,266a14(00):千十軀石懸千軀摹像一千十軀藥師觀音勢至地藏像各
0000_,20,266a15(00):一千十軀以至其餘佛菩薩像大凡三萬二千軀師在奧澤
0000_,20,266a16(00):者蓋十七年自師滅年已降今盖五年珂然沙彌謹記行
0000_,20,266a17(00):業且繫以頌頌文略之
0000_,20,266b18(00):○攝津國玉手安福寺圓信諱は珂憶字勝譽自ら圓信と
0000_,20,266b19(00):號若狹國人新田裔里見義勝子なり母は半氏法名壽法寬永
0000_,20,266b20(00):十二年乙亥十二月朔日生七才江戸靈巖寺珂山和尚に
0000_,20,266b21(00):隨ひ薙髮其寺に籍名す或時師に陪し酒井公の某第に
0000_,20,266b22(00):趣く師は公と對話時を移す其徒者屏處に碁を圍む師
0000_,20,266b23(00):其傍に有り俄に手棊諍を起し刃を拔樣交師兩刄の間
0000_,20,266b24(00):に踊入屏風を以其一人を擁阻て慇懃に是をいさむ兩
0000_,20,266b25(00):心忽ち平其諫諭に遵公并兩士の父母深く感賞し内藤
0000_,20,266b26(00):帶刀室素より淸信あり一日靈巖上人に謁らるるの次
0000_,20,266b27(00):一人を凖子とし出家せしめ植福の質とせんとせらる
0000_,20,266b28(00):るの時諸子を路寢に陣列せしめ使を延是を相せしめ
0000_,20,266b29(00):其鑒拔に任せらるるの時師其列にあらず一房に入て
0000_,20,266b30(00):深く鎻告るに師の嚴命を以する時出其故を詰れば師
0000_,20,266b31(00):云凡棄るにしのばざるの父母なり然るにわれ是をす
0000_,20,266b32(00):てて質を和尚に委す何意にか又親を外に求めんや况
0000_,20,266b33(00):や斑列にあつてもし選にあたらずんば何の顏かあら
0000_,20,266b34(00):む我此故に出ずと滿座皆駭歎す使者心戰曰我何ぞ擇
0000_,20,267a01(00):事をせん唯此奇兒を得んと和尚是を免さる師和尚の
0000_,20,267a02(00):命やむを得すして是に隨ふ幼禪の擧動夷倫に傑出和
0000_,20,267a03(00):尚これより益其器を重んし力をつくして提携すしか
0000_,20,267a04(00):れとも寺務蝟集凾丈にいとまなきを患とし高弟珂碩
0000_,20,267a05(00):職上座に居故に師に命して煆煉を受しむ内藤公の室
0000_,20,267a06(00):鐘愛甚渥く恩施其豐華を極む明曆丁酉大火時師奮起
0000_,20,267a07(00):し碩師を求め肩にして去もとより先布を衣糲を食己
0000_,20,267a08(00):を捨人を惠む事天性に出萬治己亥師年廿五潜に叢林
0000_,20,267a09(00):を出修練の地を求杖笠の外擕る所なし先江島巖穴に
0000_,20,267a10(00):入斷食修法三七日白蛇の窟中に蜿蜒するを見其長丈
0000_,20,267a11(00):餘是より諸州を廻歷名山勝區足跡殆徧中間蓬頭垢面
0000_,20,267a12(00):破衲敝履風飱露宿備に百苦す時に一二の同志ありて
0000_,20,267a13(00):般舟會を建んと請しかは錫を京南川勝寺村にとどむ
0000_,20,267a14(00):尅期九旬その志を果んとせらるる時月餘にして不平
0000_,20,267a15(00):の事により師さりて足を山科の安祥寺に疊み跡を嵯
0000_,20,267a16(00):峨の嵐山に晦す行業愈愈峻にして脇席を沾さず目睫
0000_,20,267a17(00):を交へず菲衣疏食時に或は繼ざれども是に處る事泰
0000_,20,267b18(00):山の如し己を修るに純純として門を杜て客を謝とい
0000_,20,267b19(00):へとも道香掩ふ事なきを以て歸向するもの甚多し或
0000_,20,267b20(00):は粮を千里につつみ或は雪に深更に立寬文四甲辰山
0000_,20,267b21(00):科竹鼻村に庵を卜土田を香燈に充人其居を稱して圓
0000_,20,267b22(00):信寺と名く居る事一榻慮を凝逆旅を經がごとく孤笻
0000_,20,267b23(00):瓢然として匏繫せず始靈巖寺に有し日膠漆を結ふ者
0000_,20,267b24(00):各各一方に住泉南寶泉寺主乘譽も其一なり一日師に
0000_,20,267b25(00):語て云河内國安宿郡玉手山安福寺は行基大士の開創
0000_,20,267b26(00):其山後二上に倚前石川に臨み林巒殊絶泉石秀潤有道
0000_,20,267b27(00):者の窟宅とすべき所なり年を經の久しき寺廢路雍り
0000_,20,267b28(00):艸莾欝翳人みな是を惜む師の度量此廢を起すべきや
0000_,20,267b29(00):と師忻然として宿約有がごとく遂に此山に至り起廢
0000_,20,267b30(00):を任とし朽壞を闢き榛薉を翦り澮溝を決り伏流を導
0000_,20,267b31(00):き散じて疎林とし洄して淸地とす其寥廊泓渟造物者
0000_,20,267b32(00):の始て淸濁を判が如し是寬文六丙午年なり其平處に
0000_,20,267b33(00):就締構小廬僅に膝をいるべし雲に臥し月に步しみ
0000_,20,267b34(00):づから其業を樂み慶弔齋會席に預らす徜徉逍遙し殆
0000_,20,268a01(00):と人世を忘るる時時詩歌を賦し其志を伸居は啇山の
0000_,20,268a02(00):跡を踵き僧は廬岳の風を傳の句あり人至れば崇庳長
0000_,20,268a03(00):幼となく一に誠を以て待す故に農人樵子賈豎僕童の
0000_,20,268a04(00):ごときも亦皆其德に薰染し心を淨業に歸す同十庚戌
0000_,20,268a05(00):春佛殿を山の西偏に落す莊嚴輪奐天降地涌の如し
0000_,20,268a06(00):像設華旛諸供具一も闕る者なし翌年十二月朔日徒を
0000_,20,268a07(00):擇ひ規を立て不斷念佛會を啓く爾より説法行懺鐘梵
0000_,20,268a08(00):常に響き四方緇素風に嚮事水の壑に趣き雲の岫に歸
0000_,20,268a09(00):るがごとし延寶七己未年五月洛西木辻村なる護念庵
0000_,20,268a10(00):の廢を起し念佛寺と名づく同八庚申春玉手山にて西
0000_,20,268a11(00):偏の堂宇を東偏にうつす經房僧舍鐘樓厨倉門廡に至
0000_,20,268a12(00):るまで次第就緖す始興刹の時佛殿將に功を竣へんと
0000_,20,268a13(00):するに斷崕崩隕し甍擔を毀傷す隨築は隨て崩る一
0000_,20,268a14(00):衆いかんともする事なし師山麓の古廟に詣し祈て云
0000_,20,268a15(00):吾儻ここに縁あらば願くは爲に力を加へて此難なか
0000_,20,268a16(00):らしめよと禱願むなしからず營造速に成る故新に神
0000_,20,268a17(00):祠を建て鎭護とす今の牛頭社是なり是より先陰雲凝
0000_,20,268b18(00):閉の夜往往鬼哭地燃あつて人を驚悸せしむ師の居に
0000_,20,268b19(00):及びて妖遂に息む尾張大納言光友卿師の德風を聞き
0000_,20,268b20(00):數數徴し接見其對揚肎梁に中るを以深く蓮門に歸し
0000_,20,268b21(00):親く宗訣を受て弟子の禮をとる師瑞龍院順譽源正の
0000_,20,268b22(00):號を立府第に至るごとに慰勞慇懃錫賚使蕃なり故に
0000_,20,268b23(00):夫人諸公子塵鄙暴牌の屬に至るまで磬折し忱を傾け
0000_,20,268b24(00):ずといふ事なし公自の壽像を玉手山中に設腴田二千
0000_,20,268b25(00):畝を割て食輪を資く彥根侯井伊家の宰輔木俣土佐
0000_,20,268b26(00):守安久久しく佛家に歸すと雖も常に明師に逢ざるを
0000_,20,268b27(00):慨く一日伊勢兩宮に詣心にひそかに是を祈り歸路宇
0000_,20,268b28(00):治橋を渡るの時師に逢その氣宇常にあらさるを見傾
0000_,20,268b29(00):蓋道を問神助實ある事を喜び簡牘案に堆く招請頻繁
0000_,20,268b30(00):なり黄金若干を玉手山に捨し又辟支佛の牙楚石禪師
0000_,20,268b31(00):の書賛慈覺大師彫西方の三聖像并に寶襲とする所の
0000_,20,268b32(00):書畵重器施して萬代の鎭とす佛牙は成藏主入吳所得
0000_,20,268b33(00):也元祿七甲戌秋碩和尚武藏國奧澤淨眞寺にて病に臥
0000_,20,268b34(00):師馳往掖侍碩公感志し諸徒に告て云憶老世に在我と
0000_,20,269a01(00):異事なし汝ら其敎命に從へ是わが遺囑也と碩公歸寂
0000_,20,269a02(00):の時師禮を盡し喪をとり法姪林師に淨眞寺を繼しめ
0000_,20,269a03(00):みづから靈骨を負玉手山に塔す武藏を發するの時人
0000_,20,269a04(00):人とどめ途に涕泣するもの少からず凡そ過る所の地
0000_,20,269a05(00):にて瞻拜せる者雲のごとしここに淨眞の營造備はら
0000_,20,269a06(00):ざるを慮り材を選び工に命し佛殿僧舍等をたて土田
0000_,20,269a07(00):若干頃を置永久修葺の備とす是碩公の遺寄を虚くせ
0000_,20,269a08(00):ずと也師和尚を離るる時哀悼節に踰て食嚥に下さず
0000_,20,269a09(00):寐席を安くせず自爾已來氣力衰耗神情落魄終に舊痾
0000_,20,269a10(00):を再び起らしむ師起ざるをしり終焉の儀を具しめ別
0000_,20,269a11(00):行會を創めて衆に修せしめ自ら旛脚をとり繫念やま
0000_,20,269a12(00):す寶永五戌子年十一月廿二日辰刻洎然として化寂年
0000_,20,269a13(00):七十四龕を停る事三日容色變せず四輩瞻禮同廿五日
0000_,20,269a14(00):東南の隅に荼毘立塔所度弟子四百餘人出世に衆を領
0000_,20,269a15(00):する者十一人歸依受業のものはいくばくと云ふ事を
0000_,20,269a16(00):しらず是より先寶永元甲申年春官より議ありて當國
0000_,20,269a17(00):に於て河脈を改め舊河を以て田とす師の贖得るもの
0000_,20,269b18(00):二千有餘畝師寬度大量妍能容る毀譽得失一も懷に
0000_,20,269b19(00):介せず然ども義を行ひ節を立るに至ては至嚴至峻少
0000_,20,269b20(00):しも假借なし身の長六尺容貌魁偉人をして欽伏せし
0000_,20,269b21(00):む指端血を出し彌陀經を書く事一千卷金書銀書各一
0000_,20,269b22(00):卷佛像を畵事若干寺を建る事四區不斷念佛會を開
0000_,20,269b23(00):く所五區經像書畵を裝潢する事數百皆百余區の寺院
0000_,20,269b24(00):に鎭す又碩公の素願を資け丈六の佛像六區圓光中の
0000_,20,269b25(00):小像六千六十六軀をつくる又洛北知恩寺の祖龕をつ
0000_,20,269b26(00):くり洪鐘を鑄軸を修し常行念佛會の資縁を扶助す
0000_,20,269b27(00):又或は貪窶に給し或は放生に備へ或は病者の爲に醫
0000_,20,269b28(00):藥を辨し或は火變に罹る者の患を救凡百營咸己を止
0000_,20,269b29(00):るの羸餘に出未始より人に募らず
0000_,20,269b30(00):諸侯墳墓
0000_,20,269b31(00):松平 櫻井(系略之)
0000_,20,269b32(00):榊原(系略之)
0000_,20,269b33(00):松山桑名今治等祖(系略之)
0000_,20,269b34(00):松平 久松(系略之)
0000_,20,270a01(00):久松松平 今治(系略之)
0000_,20,270a02(00):本多 膳所(系略之)
0000_,20,270a03(00):本多 神戸(系略之)
0000_,20,270a04(00):京極(系略之)
0000_,20,270a05(00):池田七千石なれば非大名故不可然然れトモ於池田家淨土は當家斗故に玆に記す(系略之)
0000_,20,270a06(00):越 州
0000_,20,270a07(00):淸淨院殿明譽光岸照詰大居士 左少將越前綱昌
0000_,20,270a08(00):越前左少將吉品養子實松平中務大輔昌勝長男
0000_,20,270a09(00):凖母森大内記長繼女實母松平隱岐守定行女
0000_,20,270a10(00):寬文元丑生江戸小菊丸 延寶二年五月十二日爲吉
0000_,20,270a11(00):品養子 同七月十八日御禮金馬代時服二十同三年十一月廿
0000_,20,270a12(00):三日元服叙四品任侍從兼越前守賜綱一字年十六 同
0000_,20,270a13(00):四年十二月廿一日家督四十五萬二百八十石餘七月
0000_,20,270a14(00):廿二日御禮金百枚綿五百把御太刀長家代金七枚家士七人御禮 同八年八
0000_,20,270a15(00):月十八日左少將年二十一貞享三閏三月六日依亂心召
0000_,20,270a16(00):養父吉品於殿中領地悉沒收綱昌一生爲御合力
0000_,20,270a17(00):賜毎年二萬俵之由仍蟄居鳥越邸元祿十二卯二
0000_,20,270b18(00):月十一日卒年三十九
0000_,20,270b19(00):淸照院殿嶽譽淨惠鏡空大姊 同室
0000_,20,270b20(00):飛鳥井中納言雅直卿女 吉品養女
0000_,20,270b21(00):延寶四年七月十八日縁組 正德二年七月十四日沒
0000_,20,270b22(00):專光院殿天譽靈月大姊
0000_,20,270b23(00):松平中務大輔昌勝室 松平隱岐守定行女
0000_,20,270b24(00):寬文元年七月朔卒
0000_,20,270b25(00):彫銘二三
0000_,20,270b26(00):櫻井翁墓碑銘 聖瑞寮の墓地にあり銘文左の如し
0000_,20,270b27(00):櫻井山字常翁號雪館水戸人也寬政庚戌二月二十一日
0000_,20,270b28(00):壽七十六終其葬在深川靈巖寺祖雪寬文等擔皆學雪舟
0000_,20,270b29(00):畵法於僧等禪郷傳雪村之業亦淑於人翁親承父祖之敎
0000_,20,270b30(00):育繼之以精思摸凖積習以修其伎始所羹墻輯爲胸臆之
0000_,20,270b31(00):資其氣韻風骨則由巳得之勝而上焉聲名顯揚洽於都鄙
0000_,20,270b32(00):乃千里重弊諸畵接踵矣適作桃源圖行筆有力意思豪瞻
0000_,20,270b33(00):不自覺臂指有異也而未幾卒爲絶筆其終始於畫夫翁有
0000_,20,270b34(00):女名桂月一名雪保號秋山克纉厥緖彰聞朝野翁曰汝業
0000_,20,271a01(00):既成我死猶生是爲銘
0000_,20,271a02(00):松牕關循齡撰 平正藏書並題額 櫻井氏雪保建
0000_,20,271a03(00):雪鮮居士墓碣之銘 同所にあり銘文左の如し
0000_,20,271a04(00):學者閑散之地故樂爲其吏胥者往往有韻士如櫻井孟素
0000_,20,271a05(00):是也孟素通稱政藏名絢號雪鮮大番同心轉學問所下番
0000_,20,271a06(00):自大考得等楊畫訣至孟素不墜其傳性恬靜不否人物
0000_,20,271a07(00):日堅座一室研精繪事傍好茶理愛櫻花搜訪櫻花近得百
0000_,20,271a08(00):種皆描寫逼肖成卷於家甞作丁祭圖大方丈巧妙緻密至
0000_,20,271a09(00):傳供 台覽文化八年十月十一日病終享年四十三葬於
0000_,20,271a10(00):深川靈巖寺裡聖瑞寮先塋之次銘曰 吏芹官無塵客來
0000_,20,271a11(00):娛客六法工我如對婦未逢報何遽游岱峯忍勤名三尺封
0000_,20,271a12(00):古賀樸譔 孝子壽胤建
0000_,20,271a13(00):供養塔 裏門の方へ行大路の左側なる墓所にあり高
0000_,20,271a14(00):壹丈五尺斗幅三尺餘もあるべし世俗是を獄吏の淺
0000_,20,271a15(00):右衛門が建し萬人塚なりといふは誤れりすなはち
0000_,20,271a16(00):銘に見へたるがごとく萬日念佛の供養塚なり銘左
0000_,20,271a17(00):のごとし
0000_,20,271b18(00):武州豐島郡江戸道本山靈巖寺念佛堂一萬日念佛成就
0000_,20,271b19(00):奉回向供養塔
0000_,20,271b20(00):願以此功德平等施一切同發菩提心往生安樂國
0000_,20,271b21(00):右萬日當山開基雄譽上人回向導師當院第三世大譽
0000_,20,271b22(00):上人旹承應二癸巳曆九月一日深譽光淨念譽淨譽念
0000_,20,271b23(00):譽西休淨譽宗圓念譽稱入コノ餘滿面施主ノ法號ヲ
0000_,20,271b24(00):刻シ前面ノ中央ニ
0000_,20,271b25(00):南無阿彌陀佛大譽 願主念譽稱入大德
0000_,20,271b26(00):松平外記本多伊織刄傷文政中の事故ありて略玆
0000_,20,271b27(00):松櫻記傳一册別に述す
0000_,20,271b28(00):大島堂跡
0000_,20,271b29(00):靈巖寺念佛堂跡 下大島丁の中程にあり
0000_,20,271b30(00):靈巖寺領の内なり語り傳に靈巖寺三世松蓮社大譽珂
0000_,20,271b31(00):山和尚の門に珂碩と云高足の僧有明曆三年靈巖寺を
0000_,20,271b32(00):深川に移されし時其他の海濱にそふてたてらるされ
0000_,20,271b33(00):ば師の爲に土工を起し老若少壯の擇なく土一簀を運
0000_,20,271b34(00):び來るには十念を授けて四衆を勵せしに名にあふ珂
0000_,20,272a01(00):碩が十念と聞つどひて日日群集したりしを以不日に
0000_,20,272a02(00):其工を終りしと也よりてかの供養の爲に此地へ念佛
0000_,20,272a03(00):堂を建立し常行念佛を始たりしが是又信仰の人人多
0000_,20,272a04(00):くつどひて參會せしかば誰かれとなくここを靈巖寺
0000_,20,272a05(00):の念佛堂と唱へたりしより今も其名殘りて地名のご
0000_,20,272a06(00):とくいひ傳へりと其のち珂碩此地に住して數多の佛
0000_,20,272a07(00):像を造營し最後に荏原郡奧澤村にて靈地を開きかの
0000_,20,272a08(00):數多の佛像を安置して九品山淨眞寺と號し己もそこ
0000_,20,272a09(00):にとどまりて示寂せしと云今もかの奧澤村淨眞寺に
0000_,20,272a10(00):昔此常念佛堂にて用ひたる攝待茶釜或は飛茶釜と云事は淨眞寺縁起に見へた
0000_,20,272a11(00):りと稱するものあり其銘に奉寄進鑵子一口爲二親菩
0000_,20,272a12(00):提寬文八年霜月廿五日常念佛九百日武州豐島郡葛西
0000_,20,272a13(00):莊大島村常念佛堂什物沙彌淨正山城國宇治之里宮本
0000_,20,272a14(00):仁左衛門とありこれによれば常念佛を創せしは寬文
0000_,20,272a15(00):六年の事と見えたり
0000_,20,272a16(00):所屬末宇
0000_,20,272a17(00):東叡山領坂本紫雲山英信寺
0000_,20,272b18(00):境内五百坪外七百三十三坪寄進地内三百五十坪は寬
0000_,20,272b19(00):永二酉年九月卵塔塲に差免され三百八十三坪は元文
0000_,20,272b20(00):元辰七月仕添地卵塔塲と成開山本山の開祖花頂山住
0000_,20,272b21(00):務中松平壹岐守英信卒去ありしかば丹波州笹山城主
0000_,20,272b22(00):松平伊守より起立し請じて開祖とす故ありて豐後
0000_,20,272b23(00):州杵築城主松平志摩守駿河州小島領主松平丹後守同
0000_,20,272b24(00):じく創業を助成す本堂七間四面本尊彌陀佛三尊左の
0000_,20,272b25(00):壇に右三家の靈を安置す寬永八年起立
0000_,20,272b26(00):同領金杉東國山中養院西念寺
0000_,20,272b27(00):古跡境内百六十四坪三勺開山願蓮社誓譽的山上人
0000_,20,272b28(00):淺草山谷月光山覺道寺春慶院
0000_,20,272b29(00):境内年貢地表十二間裏三十一間開山圓蓮社團譽禪林
0000_,20,272b30(00):上人始源壽院と云大檀那花屋春慶大姊の法號により
0000_,20,272b31(00):改たむ寬永五年七月十五日開起し禪林は本國但馬國
0000_,20,272b32(00):に歸り寬文二年十一月廿八日入寂すと云本堂七間四
0000_,20,272b33(00):面
0000_,20,272b34(00):下谷入江三寶山歡喜院盛雲寺
0000_,20,273a01(00):境内拜領地表十六間裏二十六間開山寶蓮社龍譽喜山
0000_,20,273a02(00):上人元和五年起立寬永十八年二月五日化す
0000_,20,273a03(00):高田馬場龜鶴山易行院誓閑寺願
0000_,20,273a04(00):境内二千三百十四坪内二千百八十一坪除地百三十三
0000_,20,273a05(00):坪年貢地七十八坪大門屋敷分開山重蓮社本譽誓閑和
0000_,20,273a06(00):尚山城國伏見人甲田氏の子瀧山大善寺に下向入學し
0000_,20,273a07(00):大譽載岩上人の弟子なり又道本山貞譽上人に附法す
0000_,20,273a08(00):入寺三年修學ののち隱逸の身と成木食草衣常念佛を
0000_,20,273a09(00):建立す寬永七年迄靈巖島にありて道俗群集せり明曆
0000_,20,273a10(00):大火ののち此所に引移仰付られける時易行院と號し
0000_,20,273a11(00):五智如來を建立す寬文八年十二月八日本山珂山上人
0000_,20,273a12(00):今の號に改めらる
0000_,20,273a13(00):四谷鮫橋南町榮孤山 香蓮寺
0000_,20,273a14(00):境内年貢地三百七十五坪開山傳蓮社灯譽善哲上人紀
0000_,20,273a15(00):州人寬永五年五月國主に乞在府無寺の輩死亡の時葬
0000_,20,273a16(00):吊のため起立し明曆二年九月五日寂す近世貞恭院殿
0000_,20,273a17(00):和歌山へ御葬棺の時住持供從あり
0000_,20,273b18(00):駒込光運山常照院德性寺
0000_,20,273b19(00):境内表二十一間四尺裏二十間開山覺蓮社三譽諦岩和
0000_,20,273b20(00):尚寬永五年起立同十六年三月四日寂
0000_,20,273b21(00):武州瀨田ケ谷領奧澤九品堂 淨眞寺
0000_,20,273b22(00):吉良氏の城址なり寺縁は開山の傳の所に出本堂十二
0000_,20,273b23(00):間四面向に九品堂三宇各六間四面庫裏玄關山門鐘堂
0000_,20,273b24(00):その外建つつけり毎年四月朔日より千部の大法會あ
0000_,20,273b25(00):り參詣群集す
0000_,20,273b26(00):武州澤地村誓瑑寺
0000_,20,273b27(00):上總州湊根本山見國院湊濟寺
0000_,20,273b28(00):開山本山に同じ元和元年三月廿六日起立縁起廣濟傳
0000_,20,273b29(00):に出す
0000_,20,273b30(00):下總州銚子部田淨國寺
0000_,20,273b31(00):開山記主禪師東關開創四十八宇の隨一と云そののち
0000_,20,273b32(00):新義眞言の僧住務せしかど再び本宗に改む檀家凡千
0000_,20,273b33(00):に及ふと云