0000_,20,288a01(00):檀林江戸崎大念寺志 0000_,20,288a02(00): 0000_,20,288a03(00):目 次 0000_,20,288a04(00):寺縁本由 大小伽藍 什寶靈器 朱賜領件 0000_,20,288a05(00):累世師名 輪下正衆 末宇有縁 0000_,20,288a06(00):御朱印五拾石 常陸國河内郡江戸崎正定山知光院大念寺 0000_,20,288a07(00):寺縁本由 0000_,20,288a08(00):天正十八年開山慶岩上人創建之抑岩公は肥前國鹽田 0000_,20,288a09(00):城主惟任修理亮藤原知光の三男なり織田右大臣信長公西國にて當家の絶名を 0000_,20,288a10(00):歎息せられ明智光秀をして惟任日向守と名乘せ給へるは當家西國にての代代の名家にして然も武勇の譽れ隱れなかりしをしたはせ西國 0000_,20,288a11(00):を手に入らせ給はん爲となり 惟任は其先祖結城の胤系にして上野入 0000_,20,288a12(00):道か子征西將軍に隨ひ菊地を賴み西國に下りて菊地 0000_,20,288a13(00):が持城の一つを預りしよりつひに其子孫彼の幕下に 0000_,20,288a14(00):屬し家門榮え一族ひろこりて地名により名字を改め 0000_,20,288a15(00):ける又宇都宮の系圖とも寺記にあり 0000_,20,288a16(00):菊地の本家大友の爲めに亡廢せしかば菊地の殘黨 0000_,20,288a17(00):大友家に降りける時のちなり其後大友より菊地の 0000_,20,288b18(00):苗字を名乘せければ菊地の名猶西國に殘れり 0000_,20,288b19(00):かくて其が末永祿四酉年三月菊地左兵衞尉大友幕下武邑 0000_,20,288b20(00):軍兵を起し知光を攻此頃時うつりて互に虎狼の心を起し家ことに戰ひければ惟任は薩摩國の島津氏に 0000_,20,288b21(00):屬しける故大友氏の軍士攻めけるなり折節籠城の兵士の中に裏切の事あり 0000_,20,288b22(00):て城に火をかけければ譜代恩顧の一族郞等四十七人 0000_,20,288b23(00):家婦老少三十九人不殘討死城は奪はれ郞等は皆落失 0000_,20,288b24(00):せける時三男仙千代丸八才なりしをめのとの兄蒲原 0000_,20,288b25(00):兵庫ひそかに隱し遁れ出て同國佐賀の正定寺に忍置 0000_,20,288b26(00):再び歸城の謀慮をめくらしおりおり家士の隱家をも 0000_,20,288b27(00):とめ密談有て既に仙千代丸十三才の時同九寅年旗上 0000_,20,288b28(00):けなして舊城を攻べき事を島津家にも折折通しけ 0000_,20,288b29(00):る時龍造寺肥前守隆信數萬の軍兵を率ひ同年春彼菊 0000_,20,288b30(00):地のものともを攻落しけれは仙千代丸今は世に敵も 0000_,20,288b31(00):なく賴むかひなけれはとて既に自害とありしを寺主 0000_,20,288b32(00):證譽押留め娑婆の定めなき事生者必滅のことはりを 0000_,20,288b33(00):のへ先祖父母の菩提の因を植へき事ねんころに勸諭 0000_,20,288b34(00):ありしかばつひに剃度し證譽の弟子となり家の重代 0000_,20,289a01(00):小鍛冶宗近の刀を是まで守刀とせしを初て證譽に讓 0000_,20,289a02(00):り學問出精ありしかはもとより聰明絶倫内外の典に 0000_,20,289a03(00):涉獵ありし後十八才時遙に傳法の幽要を求探らんか 0000_,20,289a04(00):ため元龜三年申春川越蓮馨寺へ初入寺感譽上人の座 0000_,20,289a05(00):下に法問論議し又諸山を經廻し天正八年增上寺へ入 0000_,20,289a06(00):寺し法席につらなり感譽上人遷化の後は觀智國師の 0000_,20,289a07(00):嗣法上足となりて一時の法將たり天正十八年寅十月 0000_,20,289a08(00):常陸國江戸崎に至り説法勸化の時城主芦名修理太夫 0000_,20,289a09(00):に對面し東國戰記を案ずるに江戸崎城主は此頃土岐美濃守なり寺記又同じ芦名は會津より沒落し來れるなり後藩 0000_,20,289a10(00):臣に此僧は内府公御目を掛らるる出家なり殊に又長 0000_,20,289a11(00):學豐文なり歸依崇敬すべしとありければ家臣百姓悉 0000_,20,289a12(00):く歸依し當寺草創に至り數多人夫地形を平げ古山を 0000_,20,289a13(00):穿時誕生釋迦を堀出故に翌年普請未成就なりしか 0000_,20,289a14(00):と四月八日の入佛と定む此事棟札有之天正十九年增上寺存 0000_,20,289a15(00):應上人より條目一通算題一法句の則をわたし所化五 0000_,20,289a16(00):十人を遣はされ一夏法幢を執行あり此法問中神祖 0000_,20,289a17(00):の命によりて縁山より了的廓山の兩上人當山へ入來 0000_,20,289b18(00):あり 0000_,20,289b19(00):神祖天正十八年御入國後關左に十八城を定させら 0000_,20,289b20(00):るべき尊慮あらせけれは御宗門の中大小の寺院に 0000_,20,289b21(00):拘りなく時の知識の德學双備を知聞させられ學徒 0000_,20,289b22(00):輻湊の師の會下を十八檀林と定めさせ給ふべき密 0000_,20,289b23(00):密の御高慮ましましけれはそれそれ地理山形林樹 0000_,20,289b24(00):の形勢なと此廓山了的の二子を遣はされ何となく 0000_,20,289b25(00):法義に事をよせられ給ひしと也此事誰も心付もの 0000_,20,289b26(00):もなかりしかと後慶長七年十八檀林を仰出されし 0000_,20,289b27(00):に及ひて知りけるなり是れ全く是まて關八州は寇 0000_,20,289b28(00):讎の徒のみ住けれは御入國ありといへとも城主の 0000_,20,289b29(00):心中并に民の心いかかなと内内御含にて僧を以御 0000_,20,289b30(00):内内の密目鑑に比せられしなるべし 0000_,20,289b31(00):同年冬安居の時所化傳法相承を乞ふと雖師存する旨 0000_,20,289b32(00):有けれはいまた傳法はしかるへからすと許諾なしこ 0000_,20,289b33(00):こに誰人ともしらず銅佛の彌陀を一躰持來りしを町 0000_,20,289b34(00):の檀家の中にて買求め十念寺へ寄附ありしをひそか 0000_,20,290a01(00):に聞しられ師佛法紹運の時なりやとかの佛を求請せ 0000_,20,290a02(00):られ今も此傳法佛とすつひに此冬三國相承の傳法式あり慶長五 0000_,20,290a03(00):年町屋より火うつりて寺門類燒せしかは屆の爲師江 0000_,20,290a04(00):府に出られ地狹少隘を訴願ありけれは上聞に達し内 0000_,20,290a05(00):藤修理進に被仰付西町の内にて寺地拜領被仰出然れ 0000_,20,290a06(00):とも此地へ古來より民家移難くと片ヶ輪へ寄西町片 0000_,20,290a07(00):輪に寺を建當所町名大數南大宿町一丁大宿町二丁戸張町二丁西町二丁不動院門前町二丁下新町一丁上新町一丁橫町一 0000_,20,290a08(00):丁根町一丁切通一丁西本町二丁濵町一丁なり寺員は眞言宗五天台宗九淨土三曹洞三臨濟五時宗一山伏二有之文政三春遊踏の時記 0000_,20,290a09(00):筑後國善導寺は師の古郷に近ければ先祖廟參且は有 0000_,20,290a10(00):縁濟度の爲めに所由ありとて國師より奏達に及ばれ 0000_,20,290a11(00):しかは台命ありて筑後國善導寺住務を仰付られしか 0000_,20,290a12(00):は師又徒弟をつれて遠路轉越しかの寺に入院し二十 0000_,20,290a13(00):世に住せらる 0000_,20,290a14(00):案するに彼山善導寺の世系記を探覽するに廿世は圓 0000_,20,290a15(00):譽辨跡上人廿一世は傳譽了感上人なり前後に師の 0000_,20,290a16(00):名なし彼山にては世代を除けるか又は脱名か又は 0000_,20,290a17(00):文祿中纔住故記錄燒失にて名牌を失するか詳なら 0000_,20,290b18(00):す今は當山の記によりて此事をのするのみ 0000_,20,290b19(00):是は文祿年中肥前名護屋御陣まで神祖御持佛守護并 0000_,20,290b20(00):御法話なとの爲の供奉として存應上人を始め不殘上 0000_,20,290b21(00):人呑龍上人慶岩上人所化廓山上人の五人まかられけ 0000_,20,290b22(00):れど渡海の御日限も究らさりし故住職し關東下向の 0000_,20,290b23(00):時伏見の宿より知恩院へ登山ありて善導寺兵火の爲 0000_,20,290b24(00):に燒れしかど本山よりいまた尋問させられず故に彼 0000_,20,290b25(00):徒恨思の事ありと述られしかは滿譽大僧正直に良照 0000_,20,290b26(00):院宗把を使僧として伏見宿まで綸旨并唐羅香衣一つ 0000_,20,290b27(00):九條袈裟一つ被相送之 0000_,20,290b28(00):慶長五年靑野原御勝戰御落去後翌六年鎭西より上洛 0000_,20,290b29(00):し御祝詞を述奉る時神祖遠路の處厚心出仕滿悅の至 0000_,20,290b30(00):りと御懇の上意の上御茶壼御鷹繪銀子百枚被下之翌 0000_,20,290b31(00):年傳通院御建立に付師を中興とさせらるべき内命有 0000_,20,290b32(00):けれは新寺たる大念寺の相續いまた行末おぼつかな 0000_,20,290b33(00):く殊に風土國民他國にかはり奪僞妄謟の者はかりな 0000_,20,290b34(00):るの旨内内奏達し自然の御用にもいかがとの時御 0000_,20,291a01(00):感諾の上傳通院は國師の弟子所化廓山へ被仰付 0000_,20,291a02(00):按るに文祿二年より善導寺住職あられ慶長五年秋 0000_,20,291a03(00):彼山を辭して上京し又は何となく御祝陣と申善導寺を立出伏見にて御目見もすみ引つつき京へ出 0000_,20,291a04(00):仕の處台命により再彼方へ歸山なく御供せしならんか又は傳通院の御内沙汰などありて又大念寺に歸錫あられしならんか故に善導 0000_,20,291a05(00):寺にては日日に師を待らけれど歸山なき故に一山立腹し世代を除去せるか前に合せ見るべし直に當山へ歸 0000_,20,291a06(00):山あられしならむか此中間江戸崎には住持の定め 0000_,20,291a07(00):もなく看護にひとしく老輩の僧をととめ置かれし 0000_,20,291a08(00):なるへしいつれにも師の本心當山を以て本所位牌 0000_,20,291a09(00):所と定置れし故に傳通院をも辭せられしなるべし 0000_,20,291a10(00):土浦城主松平伊豆守信一慶長六年入部度度使者にて師を請 0000_,20,291a11(00):待し寺を彼地にうつすべき旨有しかと淨門の知識と 0000_,20,291a12(00):遠近の里民歸敬強止有けれは師ももたしかたしと止 0000_,20,291a13(00):らる依之後に師の高弟眞譽一諾上人を彼地に請せら 0000_,20,291a14(00):れ歸依あられしを家嫡安房守信吉の時に及ひ淨眞寺 0000_,20,291a15(00):を創建菩提所と定られしなり 0000_,20,291a16(00):慶長十九年元和兩度大坂御陣の時供奉せられ落去後 0000_,20,291a17(00):於伏見城黄金三十枚砂金五包白銀三百枚其外法具文 0000_,20,291b18(00):庫拜領あり 0000_,20,291b19(00):按るに是黑本尊并御先祖方の御供養のため了的廓 0000_,20,291b20(00):山を始平生御目見なと申上し宗門の僧の内御歸依 0000_,20,291b21(00):の分數人を召具せられしなり然るを宗徒の内にて 0000_,20,291b22(00):も了的廓山なとの御陣中供奉は御合戰の御謀談の 0000_,20,291b23(00):爲なと言ならはせしは實に不正の者の説なるべし 0000_,20,291b24(00):神祖既に謀士補佐の臣數萬人を被爲召連又御尊身 0000_,20,291b25(00):無双の名君にてましませはいかでか僧家に攻戰の 0000_,20,291b26(00):道尋させ給ふべきや併ら軍中なれは御供養の外御 0000_,20,291b27(00):祝禱の爲なとの仰付もあり又常に御座近く召せら 0000_,20,291b28(00):れ御法話又は御閑夜なとの御咄の御伽には時時召 0000_,20,291b29(00):されけるなり是敵徒の中と云へども立はなれし僧 0000_,20,291b30(00):身故所によりては先方の機密變謀なとをさぐらせ 0000_,20,291b31(00):らるべき御用にも用ひさせられんが爲才智勝れし 0000_,20,291b32(00):不殘呑龍慶岩了的廓山源榮なとを始其時により召 0000_,20,291b33(00):具せられし事數度なり唯一途に心得べからずあな 0000_,20,291b34(00):がち御供養の爲はかりにもあらさるべし時により 0000_,20,292a01(00):ては機變の爲にも御對話あるべし古よりの大將何 0000_,20,292a02(00):れも僧を召し連られし例を追せられ給ひし上にて 0000_,20,292a03(00):御先祖方又本尊佛御供養の爲又御勝利御祝禱のた 0000_,20,292a04(00):め又は折にふれさせ御法話御閑座の御伽の爲なる 0000_,20,292a05(00):へし 0000_,20,292a06(00):存應上人國師に被任上京參内の時も呑龍上人并に師 0000_,20,292a07(00):は台命によりて供參内あり是は自然安土論の事も近 0000_,20,292a08(00):くありてややもすれは日連の徒淨家に拒難あれは殊 0000_,20,292a09(00):に花洛はかの徒はびこり本山も十六又は廿一ケ寺有て法論 0000_,20,292a10(00):なとあるべき時國師の尊を扶翼すべしとなり 0000_,20,292a11(00):按するに神祖諸宗の佛法を興隆させられ給ひしか 0000_,20,292a12(00):と御一代の内はことに淨土の宗門をのみ御扶護あ 0000_,20,292a13(00):らせ給し事秀康卿の時をもてしるべし慶長の末に 0000_,20,292a14(00):及ひ慈眼大師始て御目見後寵恩深かりしかと御菩 0000_,20,292a15(00):提所と同しく御子孫御入棺の事は御尊慮にましま 0000_,20,292a16(00):さず又日蓮宗をはきらはせ給ひしにや彼宗の御建 0000_,20,292a17(00):立の寺御朱印地なと神祖より初て下されしは一ケ 0000_,20,292b18(00):寺もあらす御治世の後彼宗徒女儀方を殊にこしら 0000_,20,292b19(00):へいろいろと謀僞によりて當今柳營家大御奧を始 0000_,20,292b20(00):め女儀方一同の信受出來せしなり此故に神祖彼宗 0000_,20,292b21(00):をは殊ににくませ給ひしかは元和の始御城中宗論 0000_,20,292b22(00):の後立おかせらるべからざる御氣色なりしかと彼 0000_,20,292b23(00):徒を信受の役司頻りに愁訴ありし故御宥恕には及 0000_,20,292b24(00):ひしなり當今の如く彼徒の榮は加藤淸正の女紀伊 0000_,20,292b25(00):大納言賴宣卿の簾中となられ又南龍院殿賴宣卿御事の 0000_,20,292b26(00):母堂正木氏養珠院殿の兩大姊よりかの家深く信受 0000_,20,292b27(00):させられしかは有德院殿の御代に至り大統を繼せ 0000_,20,292b28(00):られ御城中に於てますます信じさせ給ひしかは愚 0000_,20,292b29(00):迷の女質方より事起りて諸方にても殊に歸依深重 0000_,20,292b30(00):とはなりけらしとそ 0000_,20,292b31(00):是去年慶長六年大念寺類燒後奏訴し奉しかと御こと多く 0000_,20,292b32(00):再建の御助勢も御沙汰なかりしかは連年假作事にて 0000_,20,292b33(00):法問論議なと取扱けれは此金帛にてかの作事造營の 0000_,20,292b34(00):料に充當すべしとなり是より先江駿兩御城中にて法 0000_,20,293a01(00):問又は增上寺へ入御の時御前法問論議の度ことに御 0000_,20,293a02(00):褒詞拜領物等數多有之其度毎多く筆記を役せらる或時 0000_,20,293a03(00):豊後梅銀杏木の鉢植を拜領し庭上に植しかば大木となり今に當山に茂繁せり 0000_,20,293a04(00):正月六日御禮にも國師の供列にていつも呑龍不殘慶 0000_,20,293a05(00):岩了的廓山は御白木書院にて御禮あり四代目にて此格なりしを第五代の初 0000_,20,293a06(00):故有て大廣間獨禮表席と被定 師始天文二十三年寅年肥前國に誕生し 0000_,20,293a07(00):天正十八寅年當山造立時師三十七才又罹災後慶長七 0000_,20,293a08(00):年今地にうつり住年四十九元和三巳年正月廿一日合掌寂 0000_,20,293a09(00):然として往生有年六十四合廿八年住 0000_,20,293a10(00):當山開山縁起并諸傳を裁採惟任の氏諸人しれる者 0000_,20,293a11(00):少く織田記にありといへとも本氏をしるせる書も 0000_,20,293a12(00):まれなれはここに略出す 0000_,20,293a13(00):大小伽藍 0000_,20,293a14(00):本堂 十二間奧へ九間十二世慶譽上人代再建 0000_,20,293a15(00):本尊 御丈五尺三寸脇二大菩薩二尺五寸つつ中尊 0000_,20,293a16(00):聖德太子作と云 0000_,20,293a17(00):佛天蓋 本理院殿御寄附 巖宿上人代 0000_,20,293b18(00):大方丈 六間に五間 初勝譽上人立義譽上人再新建之 0000_,20,293b19(00):本尊彌陀厨子入二尺七寸五分惠心僧都作 0000_,20,293b20(00):外ニ彌陀佛小厨子入四寸五分開山上人念持佛 0000_,20,293b21(00):小方丈 三間ニ六間善智上人建之處寬保三年壁打潰 0000_,20,293b22(00):嚴譽上人新に六間半に四間に新建 0000_,20,293b23(00):庫裡 十一間ニ五間輪超上人代再建 0000_,20,293b24(00):樓門 三間半ニ二間善智上人再建 0000_,20,293b25(00):表門 三間ニ五間巖宿和尚再建 0000_,20,293b26(00):安養院 五間ニ三間廿一世嚴譽上人代十間ニ五間半 0000_,20,293b27(00):ニ新造 0000_,20,293b28(00):所化寮 十一宇各五間ニ三間此内二軒行譽上人立替 0000_,20,293b29(00):并伴頭寮造替寶永五年二月十五日行譽上人の記錄 0000_,20,293b30(00):也今悉疊置 0000_,20,293b31(00):開山堂 經藏又住法窟 三間四方始良徹上人造後義 0000_,20,293b32(00):譽上人建之 住法窟額獨湛禪師筆 0000_,20,293b33(00):内ニ開山像安置左中興良徹上人右舊應上人像其外 0000_,20,293b34(00):牌有之檗本一切經二千九百十四册開テ六千七百七 0000_,20,294a01(00):十一卷也 0000_,20,294a02(00):閻魔堂 二間四方 義譽上人建豐譽大僧正再興 0000_,20,294a03(00):神社 一間ニ八尺 0000_,20,294a04(00):鎭守社 八尺四方 0000_,20,294a05(00):三社殿 間口二間奧行四間半 子聖 秋葉 稻荷也 0000_,20,294a06(00):才譽上人像 0000_,20,294a07(00):地藏堂 地藏尊長ケ三尺餘木像作不知或云運慶作 0000_,20,294a08(00):天滿宮 一間四方熏譽大僧正代田中忠兵衞 0000_,20,294a09(00):放生池 石橋 表山 0000_,20,294a10(00):裏門 東の方開所 0000_,20,294a11(00):下馬札 表門前に建之 0000_,20,294a12(00):鐘堂 二間四方 法山上人建覺譽傳秀上人造替 0000_,20,294a13(00):撞鐘 下指渡し二尺五寸堂八尺四方鐘 0000_,20,294a14(00):銘曰 0000_,20,294a15(00):大日本常陸國河内郡江戸崎正定山大念寺奉鑄 0000_,20,294a16(00):造鳬鐘一口其銘曰 0000_,20,294a17(00):華鯨像已成高嗚徧萬程淸響絶思評玄韻誰得雀六識 0000_,20,294b18(00):恒爲盲三毒甚鼆情半夜寒鐘聲五更霜乳盟三千徒衆 0000_,20,294b19(00):嶺諸乘聞法行方憼護聖警絶獲修大正成就惠命正聞 0000_,20,294b20(00):必起須整合掌發善境臥者護神炳宜信這靈鎗 尼免 0000_,20,294b21(00):劍兵獄卒扗湯穽昏夢識忽驚永夜因玆晟是以皆惺性 0000_,20,294b22(00):得通登報城 師與播盛 0000_,20,294b23(00):重乞 0000_,20,294b24(00):國祈遐昌臣民遠度四方和協萬祥現前 0000_,20,294b25(00):又願廻作自他安樂國因共回向薩婆若爾 0000_,20,294b26(00):旹天和四歳次甲子春二月十日 0000_,20,294b27(00):當寺第十世住持究譽智讃 0000_,20,294b28(00):境内 一丁四方 三千六百三十坪餘此内ニ山有之 0000_,20,294b29(00):什寶靈器 0000_,20,294b30(00):唐銅立像彌陀佛 開山感得 0000_,20,294b31(00):九條袈裟喜字織附 雲光院殿ヨリ賜處 0000_,20,294b32(00):唐侶香衣 水精念珠 此二品滿譽大僧正より被賜 0000_,20,294b33(00):金糸香侶 柄香爐 名號一幅高祖大師筆 0000_,20,294b34(00):紺字金泥五念名號 同筆厨子入表具 0000_,20,295a01(00):名號 開山上人筆并自筆奧書 0000_,20,295a02(00):三條古鍛冶宗近刀 同傳來 0000_,20,295a03(00):佐羅目岐の茶壼 徽宗皇帝畵 此二品神祖所賜 0000_,20,295a04(00):黑本尊寫 來迎佛 惠心僧都筆 0000_,20,295a05(00):當麻曼陀羅 彌陀名號 知恩院宮御筆 0000_,20,295a06(00):台德院殿御靈屋御掛替幡十二流 縁山巖宿上人寄附 0000_,20,295a07(00):御紋付御旛二流并御紋御寄附 明信院樣より寄附 0000_,20,295a08(00):彌陀像 田熊筆 選擇集曼陀羅 0000_,20,295a09(00):一葉觀音 三影 書記筆 0000_,20,295a10(00):當山の山寺號 滿譽大僧正筆 八祖影像 0000_,20,295a11(00):開山像影 舊應上人道影 信譽上人道影 0000_,20,295a12(00):國師眞跡 典譽大僧正寄附 0000_,20,295a13(00):名號 貞譽大僧正筆 寫彌陀經 老女筆 0000_,20,295a14(00):銅誕生佛厨子入 當山出現傳來也淸譽代紛失才譽代 0000_,20,295a15(00):又江戸より歸戾 0000_,20,295a16(00):述聞抄 開山上人筆 子聖權現縁起一卷 0000_,20,295a17(00):一夜行一片并記 0000_,20,295b18(00):當麻曼陀羅貞享圖 祐天大僧正開眼 0000_,20,295b19(00):智光淸海兩曼陀羅二幅 證譽大僧正開眼 0000_,20,295b20(00):此三幅は毎月二十三日懺法相勤時爲可奉掛之義譽 0000_,20,295b21(00):上人造之 0000_,20,295b22(00):開山上人所持三部經并敎櫃 同笈 0000_,20,295b23(00):正定巓額 滿譽大僧正筆 樓門ニ掛之 0000_,20,295b24(00):右之外畧之 0000_,20,295b25(00):朱賜領件 0000_,20,295b26(00):御朱印寫 0000_,20,295b27(00):大念寺領寄附狀 0000_,20,295b28(00):常陸國河内郡東條庄五拾石之事 0000_,20,295b29(00):右全可寺納并寺内山林竹木等令免許了者守此旨佛 0000_,20,295b30(00):事勤行修造等不可有懈怠者也仍如件 0000_,20,295b31(00):慶長七年十一月十五日 内大臣御判 0000_,20,295b32(00):同 0000_,20,295b33(00):當寺領常陸國河内郡東條庄五拾石事并寺中山林竹 0000_,20,295b34(00):木等免除任慶長七年十一月廿五日先判之旨不可有 0000_,20,296a01(00):相違彌可專佛事勤行修造者也仍如件 0000_,20,296a02(00):寬永十三年十一月九日御朱印 0000_,20,296a03(00):大念寺 0000_,20,296a04(00):同 0000_,20,296a05(00):大念寺領常陸國河内郡下蒲ケ山村之内五拾石事并 0000_,20,296a06(00):寺中山林竹木諸役等免除任慶長七年十一月二十五 0000_,20,296a07(00):日寬永十三年十一月九日兩先判之旨進止永不可有 0000_,20,296a08(00):相違者也仍如件 0000_,20,296a09(00):寬文五年七月十一日御朱印 0000_,20,296a10(00):以下畧玆 0000_,20,296a11(00):累世師名 0000_,20,296a12(00):高僧傳卷五十五右云釋源譽字慶嵓號聲蓮社肥前州鹽田 0000_,20,296a13(00):城主修理亮知光之三男也天文二十三年生童名仙千代 0000_,20,296a14(00):丸性溫裕天才卓犖永祿四年三月同州菊地發夙懟而一 0000_,20,296a15(00):族圍城士卒合鬪響移時而攻竟罹延燎敗績於是父子同 0000_,20,296a16(00):時討死逮十七日晡時保士桑島平左衞門挾幼主仙千代 0000_,20,296a17(00):丸間行凌路程九里屆南里正定寺蓮徒勠力助義其後幼 0000_,20,296b18(00):主廓然志塵表到筑後州樞衣善導寺證譽師之室中禀靈 0000_,20,296b19(00):強記不忘所歷因而證公命稱慶誦元龜三年二月師 0000_,20,296b20(00):如豐前州黑浦發舶赴中國涉跋京畿之靈區而抵東壤 0000_,20,296b21(00):鳴圓也虎角二開士之間天正六年如那須之雲岩寺而薰 0000_,20,296b22(00):炙禪老决單傳之玄妙甞諳記碧岩之全篇于時改名慶嵓 0000_,20,296b23(00):禪蓮之諸大衆擧稱碧嵓子十八年五月浪遊江戸崎皷扇 0000_,20,296b24(00):有年常州刺史盛重朝臣一謁甚渥慶長七年四月於定山 0000_,20,296b25(00):建大藍延師爲開祖今之大念寺是也師祝新宇拈天上天 0000_,20,296b26(00):下之古則從是論士翼如萃又縣令敦尚師之諭導薙染名 0000_,20,296b27(00):淨運國俗橫烈動妨敷演之塲運公之猛威能呵止之云十 0000_,20,296b28(00):五年七月師與呑龍師聽昇殿近錦扆十九年冬將軍秀忠 0000_,20,296b29(00):征大坂請師伏見城明年春又請問道要賚黄金而充學資 0000_,20,296b30(00):元和二年四月大相國公之薨後於增上寺師管行中陰之 0000_,20,296b31(00):法務而操節於羣式于今爲流例大樹鍾愛貺寺産五十石 0000_,20,296b32(00):三年正月六日登城賀新年依鈞命於城中修論議二會君 0000_,20,296b33(00):臣翹然觀聽問答擢秀同倫優賞給帛葢城請凖 神君之 0000_,20,296b34(00):舊規謂也二十日歸定山爲衆轉法輪二十一日怡然順寂 0000_,20,297a01(00):報齡六十有四臘五十有七塔于定山 0000_,20,297a02(00):開山聖蓮社源譽慶嵓上人 元和三年正月二十一日 0000_,20,297a03(00):二世源蓮社晃譽聖吟上人 元和五年二月二十二日 0000_,20,297a04(00):三世誠蓮社深譽殘鐵上人 元和七年七月二十四日 0000_,20,297a05(00):四世正蓮社眞譽良徹上人 寬永十六年六月三十日 0000_,20,297a06(00):五世超蓮社勝譽舊應上人 鎌倉へ 0000_,20,297a07(00):六世感蓮社呈譽吟應上人 慶安三年六月九日 0000_,20,297a08(00):七世縁蓮社三譽輪超上人 大樹寺へ 0000_,20,297a09(00):八世廣蓮社信譽巖宿上人 小石川へ 0000_,20,297a10(00):九世乘蓮社昇譽善知上人 瓜連へ 0000_,20,297a11(00):十世竟蓮社究譽智讃上人 0000_,20,297a12(00):十一世然蓮社湛然門秀上人 新田へ 0000_,20,297a13(00):十二世學蓮社慶譽法山上人 0000_,20,297a14(00):十三世心蓮社行譽澤良上人 0000_,20,297a15(00):十四世定蓮社禪譽了圓上人 誓願寺へ 0000_,20,297a16(00):十五世忍蓮社念譽可悅上人 0000_,20,297a17(00):十六世圓蓮社義譽觀徹上人 0000_,20,297b18(00):十七世傳蓮社通譽頓秀上人 新田へ 0000_,20,297b19(00):十八世覺蓮社性譽了善上人 0000_,20,297b20(00):十九世性蓮社覺譽傳秀上人 0000_,20,297b21(00):二十世若蓮社般譽梁存上人 大樹寺へ 0000_,20,297b22(00):廿一世成蓮社嚴譽奚疑上人 隱居 0000_,20,297b23(00):廿二世淨蓮社淸譽連海上人 百萬遍 0000_,20,297b24(00):廿三世眞蓮社到譽仙雅上人 新田へ 0000_,20,297b25(00):廿四世到蓮社典譽智英上人 飯沼へ 0000_,20,297b26(00):廿五世深蓮社海譽祐月上人 瓜連へ 0000_,20,297b27(00):廿六世行蓮社任譽運冏上人 天德寺へ 0000_,20,297b28(00):廿七世得蓮社才譽天隨上人 0000_,20,297b29(00):廿八世廣蓮社寬譽了山上人 天德寺へ 0000_,20,297b30(00):廿九世寶蓮社熏譽在禪上人 0000_,20,297b31(00):三十世淸蓮社淨譽原澄上人 黑谷 0000_,20,297b32(00):卅一世性蓮社寶譽顯了上人 瓜連 0000_,20,297b33(00):卅二世法蓮社響譽説玄上人 0000_,20,298a01(00):聞諦聞書又名十八公記云當時大御所樣御意に叶候天海大僧 0000_,20,298a02(00):正近年國師と御中不宜寒暑年頭さへ不被相越不實千 0000_,20,298a03(00):萬の事なり慶長二年江戸崎大念寺を源譽慶岩長老開 0000_,20,298a04(00):基建立より同所不動院に住せられしかは入魂相重り 0000_,20,298a05(00):毎日の樣に被相越佛法の淺深聖淨の大綱なと無隔意 0000_,20,298a06(00):相議せられ國師へ對面致され度むね度度慶岩へ賴ま 0000_,20,298a07(00):れ候へば兩人共一城主の子息と云武門より出眞俗の 0000_,20,298a08(00):龍象故岩公出府の度毎に國師へ相咄され取持骨折に 0000_,20,298a09(00):付終に國師對面を遂られし處夫を縁にいたし毎年四 0000_,20,298a10(00):五度つつ江戸へ出土産物叮嚀其上平伏入魂常人より 0000_,20,298a11(00):多く致され公方樣へ御目見にても出來候はは此上も 0000_,20,298a12(00):なき大恩なりと某共迄へも莫大の進物を送り田舍産 0000_,20,298a13(00):物を持參せられけるもとより拔群の法將なれども吹 0000_,20,298a14(00):擧なくしては公方樣へ御目見の筋なき故に國師をは 0000_,20,298a15(00):師匠の如く仰かれ筑波山の眞言僧と水戸菊蓮寺の公 0000_,20,298a16(00):事の時も内證の事とも國師へ談せられし程故岩公も 0000_,20,298a17(00):此人は我宗の扶護第一なること吉水上人の時覺聖に 0000_,20,298b18(00):法印ありしことくと宗門の事とも迄内外となく相咄 0000_,20,298b19(00):され兩上樣の御心迄うすうす御噂致され公儀勤方其 0000_,20,298b20(00):外武邊の事共平生武家方と談話の趣其外微細に噂の 0000_,20,298b21(00):度毎にひたすら御目見の事取持を願はれし故終に兩 0000_,20,298b22(00):上樣へ言上し天海法印は天台一宗の法將天下無双の 0000_,20,298b23(00):大德也と奏達度度に及ひ其上彼德業を百萬倍に言上 0000_,20,298b24(00):せられしかは當大御所樣扨は其者召出すべし此旨申 0000_,20,298b25(00):傳置く可しされともいはれなく登城申付んより彼宗 0000_,20,298b26(00):の寺院を取立其上住職申付る時我前へも呼出し可申 0000_,20,298b27(00):也との御事なりしに程なく關ケ原の御合戰初り佛法 0000_,20,298b28(00):の事なとは自然と御打捨置れしに御利運の御事故つ 0000_,20,298b29(00):ひに慶長七年武州仙波喜多院無量壽寺へ天海を住職 0000_,20,298b30(00):仰付られ是まて國師の奏上により上意も御懇の事と 0000_,20,298b31(00):ものよし夫れより引つつき時とき御目通へ召出され 0000_,20,298b32(00):又御法話なと聞せられしに元來智才無窮の仁其上公 0000_,20,298b33(00):武の事并宗門御取扱の事まで委しく國師より聞得ら 0000_,20,298b34(00):れし事なれは上樣の御意に叶候樣に何事も申上しか 0000_,20,299a01(00):は此節は双なき御歸依僧となり却て淨土の一門は天 0000_,20,299a02(00):台より出し事にて末宗也佛法の大海は天台第一なり 0000_,20,299a03(00):なとと述られし故國師大に立腹あられ我推擧を以 0000_,20,299a04(00):御目見おりし恩分を忘れ其宗の再興を本意とせられ 0000_,20,299a05(00):んとて我宗をそしらるる事實意を失ひ佛法同一味の 0000_,20,299a06(00):掟にもれたりにくき惡工の法印めと時時兩上樣へ言 0000_,20,299a07(00):上せられけれは今は中中國師より御歸依深くなり大 0000_,20,299a08(00):僧正に任しけれは却て妬心の樣に思召れ御前の不首 0000_,20,299a09(00):尾を招かるる如く成行しかは今は何事も因縁なり此 0000_,20,299a10(00):末萬一彼僧が事言上せは我宗の興廢にもかかるべし 0000_,20,299a11(00):と無念の胸をさすられ其後は踈遠と成し計にて御前 0000_,20,299a12(00):にて對面の外は言葉を掛られし事もなし依て呑龍存 0000_,20,299a13(00):虎了的源榮聞諦まても立腹し慶岩を惡言せし事も度 0000_,20,299a14(00):度也慶岩はさすが舊友故にや相替らす大僧正と入魂 0000_,20,299a15(00):故此事密に噂もあられしと相見え彼方よりも疎遠と 0000_,20,299a16(00):成けれは今は執敵のことく成行我宗のためいよいよ 0000_,20,299a17(00):よろしからずかの僧は天下無双の智者なれは國師の 0000_,20,299b18(00):ことき淸廉質直の身にては法戰は勿論なり對論應答 0000_,20,299b19(00):も及ぶべからざれは一宗の小輩に至るまて恨悔すと 0000_,20,299b20(00):云事なし若初より吹擧なくはかの僧御前へ出る事あ 0000_,20,299b21(00):るましくたとへ召し出されしとても中よく水魚にあ 0000_,20,299b22(00):らは加樣に我宗を讎敵の如くも思はれましく少しは 0000_,20,299b23(00):義理をも思はれなは物事無事に成り行くべきを末世 0000_,20,299b24(00):の形勢とは申ながら淺間しかりしことどもなりさて 0000_,20,299b25(00):慶岩は大衆一同ににくみ國師も師資ながら此一義に 0000_,20,299b26(00):てはうとませ給へは自分も自然と江戸へ出府も遠く 0000_,20,299b27(00):成行きしに此比身まかり往生をとけし旨門弟慶祐本 0000_,20,299b28(00):成出府し遺物回向料など國師其外へ捧ぐ此時門弟共 0000_,20,299b29(00):師の在世中南光坊よりの書狀數通を持參 0000_,20,299b30(00):一筆の芳札顯意懷候先以國師樣貴長老御無障精修 0000_,20,299b31(00):梵行の旨欽悅不斜候今度以兩公之御執成來□□ 0000_,20,299b32(00):將軍樣 御目見可被成下趣預爲知千萬之光適實以 0000_,20,299b33(00):優曇鉢華浮木逢龜曠劫之大慶に覺候然る上は 御 0000_,20,299b34(00):前の首尾其砌之執達萬般仰兩公之御取成候爲御禮 0000_,20,300a01(00):明日罷出可申候得共昨夕着府先捧愚毫候杉原十帖 0000_,20,300a02(00):煎銘二箱國師樣へ進上之貴老公へ菓子一箱氷砂糖 0000_,20,300a03(00):一壼爲土産驗及進入候此旨宜洩達仰處候謹言 0000_,20,300a04(00):八月五日 0000_,20,300a05(00):一筆申入候隨而今度國師樣御執持を以 將軍樣へ 0000_,20,300a06(00):御目見相叶千鶴萬龜難有仕合候全其許公之御庇陰 0000_,20,300a07(00):故也謝心難申盡候此塗膳菓子呈進申候御受覽可給 0000_,20,300a08(00):候猶近日面謁可申述候恐恐不備 0000_,20,300a09(00):九月十八日 天 海 0000_,20,300a10(00):源譽上人御房 0000_,20,300a11(00):尚以不殘長老廓山長老了的長老へも宜敷御發聲願 0000_,20,300a12(00):存候 0000_,20,300a13(00):又 0000_,20,300a14(00):態令飛札候抑今度大坂爲征伐 0000_,20,300a15(00):兩公御發駕先陣之面面既打立候貴師爲御供僧供奉 0000_,20,300a16(00):之旨被仰出候處病氣發覺不及其儀旨嘸嘸歎悔可無 0000_,20,300a17(00):窮候爲御見舞菓子一箱蒲團三枚藥酒一壺令進覽之 0000_,20,300b18(00):候於賞受者忝可存之候恐恐謹言 0000_,20,300b19(00):十月五日 大僧正天海 0000_,20,300b20(00):大念寺源譽上人御房左右侍者 0000_,20,300b21(00):又 0000_,20,300b22(00):以使僧令啓呈候如芳慮者病縁未被脱追て煩重之旨 0000_,20,300b23(00):痛思不斜候愚老爲御見舞曲錫可發處近來時時御召 0000_,20,300b24(00):出有之他國遊行無 御許容候間背本意候何樣加療 0000_,20,300b25(00):治惱之上參會相待候人世之五苦誰誰も難遁候へば 0000_,20,300b26(00):佛名稱讃積功之貴老之事故三尊之迎接心に被侍不 0000_,20,300b27(00):可少歟尚實尊可申述候也恐恐謹言 0000_,20,300b28(00):十月九日 大僧正天海 0000_,20,300b29(00):源譽上人御房同宿中 0000_,20,300b30(00):以實忠申入候源譽大長老鶴林之趣預知示驚歎不少 0000_,20,300b31(00):候仍爲悔吊會津蠟燭一箱葛煎餠一箱位牌前へ備候 0000_,20,300b32(00):間可被相計存候也 0000_,20,300b33(00):十一月七日 大僧正天海 0000_,20,300b34(00):慶岩長老遺弟契蓮中 0000_,20,301a01(00):右の外もくさくさ持出候へとも寫えす候南光坊の事 0000_,20,301a02(00):本成能能存居候故在府中承候所拔群の英衲無双の達 0000_,20,301a03(00):德故中中國師抔可及義とは於某も不奉存候本成重て 0000_,20,301a04(00):の出府之節外狀其外進物の遺品等一見の約束申候 0000_,20,301a05(00):右覺書の文は當山の記には無之雖然當寺之事故加 0000_,20,301a06(00):入此所畢 0000_,20,301a07(00):輪下正衆 0000_,20,301a08(00):○法蓮社傳譽關徹上人は筑後國人安武の城主安武八 0000_,20,301a09(00):郞藤原義久の三男なり九才にして同國瀨高寺に入剃 0000_,20,301a10(00):髮受戒す穎惠同僚にこゆ十四才にして東關に遊學の 0000_,20,301a11(00):ため常州江戸崎大念寺に至り當山開祖慶岩上人に謁すこ 0000_,20,301a12(00):れ兩氏もと系族たりし故なり岩公其聽敏の性質聞思 0000_,20,301a13(00):の利速をよみし師のもとに到らしめ三縁山の國師なり修學の成 0000_,20,301a14(00):滿を許容せしむ居事三年やがて兩貫主國師と慶岩上人の請牒 0000_,20,301a15(00):を傳へ花頂山主の執奏により香衣を賜り上人と號す 0000_,20,301a16(00):是より國にかへり遠近を勸諭し眞宗の法門を説演せ 0000_,20,301a17(00):らる慶長十九年肥前國長崎の津に遊化す 0000_,20,301b18(00):始蠻船の交易海舶は筑前國博多なり皆左道耶蘇宗門類 0000_,20,301b19(00):をひろめ衆をまとはす事海内にはびこれり關原御 0000_,20,301b20(00):凱陣ののち當津に鎭臺を置たまひ萬の事を草創し 0000_,20,301b21(00):給ふ寺院の建立にも及へり 0000_,20,301b22(00):是より先當津に鎭臺を置せられ九國の地の左道をい 0000_,20,301b23(00):ましめ給ふ事おこそかなりといへとも民したがはす 0000_,20,301b24(00):して酷刑に行はるるもの甚多しまま隨ふものありと 0000_,20,301b25(00):いへどもひとり當津は夷人の館する所なれは蚩蚩た 0000_,20,301b26(00):る愚民かの邪宗を仰信し其こころはせを改め得さる 0000_,20,301b27(00):者少からす官吏法をとりて其表を改めしむるも其裏 0000_,20,301b28(00):をさとすに便なし鎭令是を愁ふる事甚しかりしかと 0000_,20,301b29(00):いかんともすべきにあらすして年を過しぬ爰に上人 0000_,20,301b30(00):德澤のきこえありて辨泉涌くが如し法誨を蒙るもの 0000_,20,301b31(00):歸敬せすと云ふ事なし官令之れを聞て悅て招請し古 0000_,20,301b32(00):街に道塲をまうけて中道院と名く其處に於て説敎せ 0000_,20,301b33(00):しめらる聽受歸投するもの其始は僅かに二三十人な 0000_,20,301b34(00):りしかど敎風頻に振ひしかは邪道おのづからふさが 0000_,20,302a01(00):りて佛門の正路に入るもの日日にますます多し然る 0000_,20,302a02(00):に固執を改めさる輩ひそかに黨を結びて上人を害せ 0000_,20,302a03(00):んとす國制として民たるものは双劍を帶する事を許 0000_,20,302a04(00):されすと雖鎭臺是を上人の檀家に許して法座を守護 0000_,20,302a05(00):せしめ其任の重きことを知らしむ台廟の御時元和二 0000_,20,302a06(00):年鎭臺奏してもとの西洋舘の地本博多町にあるもの 0000_,20,302a07(00):を上人に賜り正定山大音寺と號し院名は古きを用ひ 0000_,20,302a08(00):て中道院と稱す是れ當津に於て寺院建立の最初なり 0000_,20,302a09(00):當地八月朔日の禮は地邦正元の如し此時當院第一 0000_,20,302a10(00):たり是上人の流芳なり 0000_,20,302a11(00):寬永十三丙子庶民ひそかに彼の蠻敎を奉する輩本州 0000_,20,302a12(00):島原天草の地にあつまりて一揆を結びしかは伊豆守 0000_,20,302a13(00):源信綱朝臣公旨を蒙りて九國の諸軍を將ゐて之れを 0000_,20,302a14(00):征せしかは明年に至りて賊徒平らきぬ又其翌年信綱 0000_,20,302a15(00):朝臣彼賊の洪鐘を當山に寄附せらる是れ上人の邪徒 0000_,20,302a16(00):をさとせし大功あるを聞くが故なり又奏請して今の 0000_,20,302a17(00):敷地を賜り寺房を引移さしむ同十八年辛巳上人を東 0000_,20,302b18(00):都營中に召見し給ふ特に時服三を賜り出斑獨謁なり 0000_,20,302b19(00):是より當山代代の住持職此禮芳を受く 0000_,20,302b20(00):又殊に封告を賜り祠曹の副書を得て三寶に供給す 0000_,20,302b21(00):る事滿足せり 0000_,20,302b22(00):當津の諸寺院封告あるものは皆當山の餘榮なり 0000_,20,302b23(00):又白銀百錠を賜りて寺移の費料に充らる此時當津の 0000_,20,302b24(00):民戸皆一夫を出さしめて其役を助けらる 0000_,20,302b25(00):慶安四年辛卯十一月始より上人恙患あり西方に皈入 0000_,20,302b26(00):の時到れりとて專稱名號怠らす十三日に至りて正念 0000_,20,302b27(00):亂れす端坐合掌し西に向ひ示寂す世壽六十四法五 0000_,20,302b28(00):十六年 0000_,20,302b29(00):當津の寺院の衆檀死者ある毎に券札を以て官にまう 0000_,20,302b30(00):して其防禦をなす事おこそかなりこれ國制にて貴賤 0000_,20,302b31(00):同しく長逝するものは度牒を寺院に受用す是れ彼の 0000_,20,302b32(00):蠻姦をたたすか爲なり當山獨り其列にあつかる事な 0000_,20,302b33(00):し是れ上人の德流なり是れより世世の住務皆寵榮あ 0000_,20,302b34(00):るも上人の餘芳ならすや 0000_,20,303a01(00):享保庚子歳冬十月功德の碑を建つ其文略之前面 0000_,20,303a02(00):崎陽大音寺開山上人功德之碑 0000_,20,303a03(00):享保己亥年 0000_,20,303a04(00):享保庚子歳冬十月東都物茂卿撰 0000_,20,303a05(00):當山第六世住持上人談譽慧海立 0000_,20,303a06(00):狀元及弟光祿大夫兵部尚書前都察院左都御史内 0000_,20,303a07(00):閣學士兼禮部侍郞翰林院侍讀學士翰林院修撰中 0000_,20,303a08(00):國彭啓豐如請書 0000_,20,303a09(00):大淸乾隆四十一年十月 0000_,20,303a10(00):○然蓮社廓譽天悅は下總國葛西人なりかつて江戸崎 0000_,20,303a11(00):に入寺留學し兩脉傳畢陸奧國に趣き田名郡大畑村に 0000_,20,303a12(00):至り慶安元年月想山心光寺と名く 0000_,20,303a13(00):○光蓮社然譽學洞は奧州岩城人鑒蓮社良守意順上人 0000_,20,303a14(00):弟子初は大澤圓通寺に掛錫し後江戸崎に附法留錫す 0000_,20,303a15(00):其後花洛に至りて一條智惠光院に住し次に飯岡西方 0000_,20,303a16(00):院に住し次に野中專稱庵に住す元來隱逸を好み淸操 0000_,20,303a17(00):默讓なりしかは愛宕郡市原村に靜林庵を作り棲こと 0000_,20,303b18(00):十六年又慶安元子年大住村惠心庵を再興し寬文五巳 0000_,20,303b19(00):年二月二日惠心庵にて沒す七十八才 0000_,20,303b20(00):○勝蓮社超譽元主は筑前國人大念寺慶岩上人に隨從 0000_,20,303b21(00):修學し歸國後日田郡大超寺に住務し又小笠原氏の請 0000_,20,303b22(00):により小倉峯高寺に住し寬永十一戌年速見郡木付に 0000_,20,303b23(00):て大音山法流院正覺寺を營作し寬文元年十一月十七 0000_,20,303b24(00):日寂 0000_,20,303b25(00):○源蓮社晃譽聖吟は岩公の上足として常に眞俗の用 0000_,20,303b26(00):務を辨補し又學徒の訓導を專要とす法問講釋怠る事 0000_,20,303b27(00):なくつひに學頭に進み德望によりて當山第二世の貫 0000_,20,303b28(00):主となる元和五年二月二十一日寂 0000_,20,303b29(00):○正蓮社念譽萬龍は筑後國人一説に云惟任の家の子 0000_,20,303b30(00):戰中より師を抱き中井式部が一子にて忠臣無二の士 0000_,20,303b31(00):なりとそ常に座下を去らすして法音を聽受し眞俗を 0000_,20,303b32(00):弼衞して内幹事をつとむ寬永八年當國河内郡釜井に 0000_,20,303b33(00):龍王寺を起立し寬文二年七月十四日寂 0000_,20,303b34(00):末宇有縁 0000_,20,304a01(00):塔頭 安養院 0000_,20,304a02(00):常陸國新治郡土浦光照山淸廣院淨眞寺 0000_,20,304a03(00):開山宗蓮社眞譽一諾上人慶長六年五月松平安房守信 0000_,20,304a04(00):士爲菩提所創立元和元年三月十四日化 0000_,20,304a05(00):境内一丁四方 0000_,20,304a06(00):△地中 春靜院 0000_,20,304a07(00):△末寺 覺心寺 0000_,20,304a08(00):行方郡板久大永山願入院淨國寺 0000_,20,304a09(00):開山圓蓮社法譽德翁上人結城所化文祿元到潮來建乙未十 0000_,20,304a10(00):月十四日化 0000_,20,304a11(00):△寺中 寂照院稱名院 0000_,20,304a12(00):香取郡佐原理智山照德院法界寺 0000_,20,304a13(00):開山耀蓮社天譽春公上人天正十一年七月起立 0000_,20,304a14(00):△末寺 利益寺 △末庵 大日庵 0000_,20,304a15(00):同松崎松崎山常照院心光寺 0000_,20,304a16(00):開山淨蓮社淸譽一傳上人慶長中開寬永二丑十月十三 0000_,20,304a17(00):日化 0000_,20,304b18(00):信太 本藏村 藏勝寺 0000_,20,304b19(00):開山峯月上人鎌倉人建長二年立寺文永二年十月十五 0000_,20,304b20(00):日化七十五才 0000_,20,304b21(00):或書云小田常陸介鎌倉參勤後上人を招待國へ連歸 0000_,20,304b22(00):十八ケ所淨家の寺院を被建立之處其後戰度度何れ 0000_,20,304b23(00):も燒失云云 0000_,20,304b24(00):北條時賴逗寺七日一僧隨伴曰理海房房病惠心彌陀出 0000_,20,304b25(00):笈念佛五日化時賴人道命葬此寺今墓有之彼圖笈有入 0000_,20,304b26(00):道從鎌倉善光が造れる三尊を送り以謝之今に有屋後に 0000_,20,304b27(00):一宇を建惠心彌陀を留淹留日日就此敬禮故山を西明 0000_,20,304b28(00):寺峰と云後故有て須賀村に移し西明寺と云其跡へ鎭 0000_,20,304b29(00):守本藏權現を崇時賴靈本社拜殿儼然時賴此近里を以 0000_,20,304b30(00):附當寺今爲除地屬寺四丁 0000_,20,304b31(00):△末寺 西明寺 多寶院 淨蓮院 圓融院 0000_,20,304b32(00):四ケ寺共同村 0000_,20,304b33(00):江戸崎無量山長福院壽經寺 0000_,20,304b34(00):開山源蓮社傳譽宗岩上人羽生田淨嘉子源譽慶岩上人 0000_,20,305a01(00):弟子萬治二年三月十四日化七十三才寶永二年牧野備 0000_,20,305a02(00):前守松山二丁寄附是本山行譽願故也 0000_,20,305a03(00):無檀地 山上に愛宕社あり是城跡なり 0000_,20,305a04(00):新治郡田中庄金田村護念山長福院證誠寺 0000_,20,305a05(00):開山法蓮社然譽玄達上人板橋村人月岡次郞右衞門子 0000_,20,305a06(00):應永元年十月十五日建 秀康卿時境内一丁除地と成 0000_,20,305a07(00):始長福寺誠證院と云正德年中改 0000_,20,305a08(00):△塔頭二 回向院 正明院 0000_,20,305a09(00):河内郡東條庄釜井村 龍王寺 0000_,20,305a10(00):開山正蓮社念譽萬龍上人筑後人本山所化六世逞公附 0000_,20,305a11(00):法寬永八未年起住五年歸古郷再不歸貞享二年十二月 0000_,20,305a12(00):晦日爲末寺 0000_,20,305a13(00):行方郡海發鄕原庄玉造村得生山寶池院正念寺 0000_,20,305a14(00):開山但蓮社良吟苔岩上人初は大澤の所化學頭なり慶 0000_,20,305a15(00):長二年建立住八年甲寅二月九日化 0000_,20,305a16(00):神祖島田治兵衞に命除地三石五斗同十五石今はなし 0000_,20,305a17(00):筑波郡釜田邊村鐘聲山寶樹院道林寺 0000_,20,305b18(00):開山單蓮社信譽見靈上人下總笠井人初占庵元和二年 0000_,20,305b19(00):三月十日細川玄蕃頭臣加藤半兵衞爲師請守方五十四 0000_,20,305b20(00):步除地とす慶安二丑八月廿八日化七十才 0000_,20,305b21(00):新治郡宍倉村松應山瑞聖院最勝寺 0000_,20,305b22(00):永祿二未年起城主菅谷隱岐守立惠心圖三聖像を安置 0000_,20,305b23(00):先妣の牌を置菩提所と云天正十七丑年二月六日化境 0000_,20,305b24(00):内二石五斗九升目除地 菅谷より遣す 0000_,20,305b25(00): 0000_,20,305b26(00):附錄 0000_,20,305b27(00):攝門上人傳 0000_,20,305b28(00):三縁山志檀林志等の著によりてその非凡なる精力 0000_,20,305b29(00):と史才とを窺ひ得べき攝門上人の一生は殆んど傳 0000_,20,305b30(00):奇に類す頃者上人の事蹟を知らんとして搜索せる 0000_,20,305b31(00):結果を敎報紙を藉りて之を公にす今や故老凋落甚 0000_,20,305b32(00):しく上人の事蹟を知るもの少し若し此稿に漏れた 0000_,20,305b33(00):る事蹟を知る人あらば指示し玉はんことを切望す』 0000_,20,305b34(00):攝門上人を傳せむとするには勢ひその家系を語ら 0000_,20,306a01(00):さるべからず是れ上人の爲人を推知すべき一要素 0000_,20,306a02(00):なれば也』上人の祖父は明和四年幕府の忌諱に觸 0000_,20,306a03(00):れ死罪に行はれたる柳莊山縣大貳先生也大貳は甲 0000_,20,306a04(00):斐の人その先は名將山縣三郞兵衞也大貳英邁の資 0000_,20,306a05(00):豁達の才あり多識多能よく古今の史實に通し最も 0000_,20,306a06(00):軍學に明也その江戸に出てて帷を下すやその門に 0000_,20,306a07(00):至り贄を執るもの恒に數百人門下の盛なる當時肩 0000_,20,306a08(00):を比ぶる者なく諸侯或は賓師の禮を以て待つ者あ 0000_,20,306a09(00):り而して常に大義名分の紊亂を嘆し時世の非なる 0000_,20,306a10(00):を憂ひ之を論議すること頗る凱切なるものあり其兵 0000_,20,306a11(00):法を論し勝敗を評するに江戸を攻擊するに南風に 0000_,20,306a12(00):乘して品海より火翦を放つ等の語あるによりて幕 0000_,20,306a13(00):吏のきく所となり大憲を犯し不敬の至りなりと申 0000_,20,306a14(00):渡され斷頭塲裏の露と消えたり大貳の長子を次郞 0000_,20,306a15(00):兵衞好春といふ幕府を憚りて母の姓齋藤氏を冒し 0000_,20,306a16(00):父の門人たりし諸侯の留守居役の周旋によりて品 0000_,20,306a17(00):川に引手茶屋の株を購ひて營業するに至れり蓋し 0000_,20,306b18(00):此の如き賤業に躱るることは幕府の嫌疑を避くる恰 0000_,20,306b19(00):好なる策なりしなるへし大貳に三子あり長は次郞 0000_,20,306b20(00):兵衞好春次は長順今村氏を冒し醫を業とせり三は 0000_,20,306b21(00):亮また今村氏を冒し醫を業とせり柳子新論を校訂 0000_,20,306b22(00):出版せる山縣昌藏は今村亮の孫にして大貳の玄孫 0000_,20,306b23(00):也 天皇陛下の山梨縣に巡行あらせらるるや大貳 0000_,20,306b24(00):の尊王の志を齎して非命に死せるを恤み祭祀金を 0000_,20,306b25(00):賜はるに際し大貳の遺族たるを以て山縣姓に復す 0000_,20,306b26(00):るの許可を得たり』上人は次郞兵衞好春の長男と 0000_,20,306b27(00):して天明二年引手茶屋の内所に於て呱呱の聲を擧 0000_,20,306b28(00):げたり』 『山縣家の系譜に記して云長男九歳のと 0000_,20,306b29(00):き出家して攝門と稱す增上寺學寮に入り後還俗し 0000_,20,306b30(00):て幕府の城坊主となり竹尾善筑と稱す名は次春字 0000_,20,306b31(00):は子龍善筑はその號也』と然に昌藏君より予に送 0000_,20,306b32(00):られし小傳には次春幼より學を好み十三歳にして 0000_,20,306b33(00):身を桑門に投すと記し同一の家錄に出家の年次相 0000_,20,306b34(00):違せり案するに三縁山志の屋代弘賢の序に云く寬 0000_,20,307a01(00):政六年伊勢國にして釋門に入り察龍と稱すと生年 0000_,20,307a02(00):天明二年より算すれば正に十三年也十三歳の出家 0000_,20,307a03(00):は疑ふべからず』然るに十三歳の少年が脱素披緇 0000_,20,307a04(00):の身となりし因縁に就ては家糸小傳其他の記錄に 0000_,20,307a05(00):於て何等の語る所なしと雖も古老の傳説に依れば 0000_,20,307a06(00):當時の事情揣摩するに難からざる也蓋し少年の胸 0000_,20,307a07(00):を躍らせ血を沸かすは先人の功名談に過ぎたるも 0000_,20,307a08(00):のなし古來之に縁りて志を立てたるもの尠からざ 0000_,20,307a09(00):るは史傳の語る所上人また其一人なりし也曩祖三 0000_,20,307a10(00):郞兵衞は甲斐の名臣たり祖父大貳は三千の門下に 0000_,20,307a11(00):擁せられ諸侯の賓師たり其尊皇の橫議幕府の忌諱 0000_,20,307a12(00):に觸れ空しく刑場の露と消えし顚末はいかに此少 0000_,20,307a13(00):年の胸を躍らせしぞ俊邁の質學を好みし少年は父 0000_,20,307a14(00):の稼業の引手茶屋の日夕見るものは遊郞嬌婦の痴 0000_,20,307a15(00):態聞くものは鄙聲卑猥の話頭也欝悖たる少年の志 0000_,20,307a16(00):想は此賤業を厭ふの念熾にして終に抑ふべからず 0000_,20,307a17(00):脱然として家を出てて西へ走れり』何の目的ある 0000_,20,307b18(00):にあらざれとも一度伊勢大廟に詣して禱ることあら 0000_,20,307b19(00):むとして東海道を西へ登りしが身に貯もなく箱根 0000_,20,307b20(00):に至れる頃は困憊して殆んど步む能はず時に通り 0000_,20,307b21(00):合せし出家あり之を憐みて懇に來由を問ふ少年乃 0000_,20,307b22(00):ち所志來歷を語る此出家は心法寺の第十五世攝心 0000_,20,307b23(00):上人なりき』攝心上人少年を伴ひて伊勢大廟に詣 0000_,20,307b24(00):でしも來迎寺に暫く錫を留む少年はつらつら思ふ 0000_,20,307b25(00):に志を樹つと雖も身は刑人の後也徒手赤裸にして 0000_,20,307b26(00):志を遂げんこと難し如かず身を方外に托せんにはと 0000_,20,307b27(00):攝心上人に請ふて得度し名を察龍と稱し伊勢に留 0000_,20,307b28(00):ること四年十七歳のとき伊勢を辭して江戸に歸る此 0000_,20,307b29(00):時既に記行ありし由高田與靖の先德奠香錄序に見 0000_,20,307b30(00):ゆ其俊才想ふべき也江戸にては心法寺に留錫せし 0000_,20,307b31(00):や將た直ちに縁山に入りしや明ならず修學數年の 0000_,20,307b32(00):後六紀八年三島中谷在心室の寮主となり同十二年 0000_,20,307b33(00):名を攝門と改む其上京して嵯峨淸凉寺に留錫せし 0000_,20,307b34(00):は何時なりしか知らざれども兎に角京に遊べるは 0000_,20,308a01(00):事實也上人の學禀承するところなく多くは獨學剋 0000_,20,308a02(00):苦の餘になれるものの如く其得意とする所は歷史 0000_,20,308a03(00):系譜にあり文政元年七月華嚴原人論の講莚を開き 0000_,20,308a04(00):講錄三卷を撰べり法務の餘暇其該博なる史才を傾 0000_,20,308a05(00):けて撰述せるもの三縁山志十八檀林志年中法要淸 0000_,20,308a06(00):規院中檀越碑銘山中奇蹟拾遺學匠略傳本末寺院名 0000_,20,308a07(00):數四流六派法系門室院家御流等あり嘗て崇廟祭名 0000_,20,308a08(00):錄を著はして德川家先亡の奠香に資す上人の縁山 0000_,20,308a09(00):にあるや彌陀經を誦ずること廿萬邊稱名禮拜四十萬 0000_,20,308a10(00):遍に及べりと云淨業に精進なりしことまた尋常にあ 0000_,20,308a11(00):らざりしが如し事は高田與靖が序に見えたり』傳 0000_,20,308a12(00):の奇なるは上人の生涯也其家系出家目錄に於ての 0000_,20,308a13(00):みならず雄宕の氣三郞兵衞以來大貳に至りて澎湃 0000_,20,308a14(00):たりし武士の血は攝門上人の皮下に流れたり其出 0000_,20,308a15(00):家たる世塵を厭ひたるにあらざれは緇流に伍して 0000_,20,308a16(00):紛紛たる本山の席を爭ふが如きも上人の所志にあ 0000_,20,308a17(00):らず卓犖の才滿滿たる覇氣は終に緇衣を脱して塵 0000_,20,308b18(00):中の人たらしめたり時に文政二年十月廿一日也離 0000_,20,308b19(00):山のとき著書既に九十七部二百十九卷に及べりと 0000_,20,308b20(00):いふ精力の卓絶なる實に愕くに勝へたり』上人が 0000_,20,308b21(00):交遊せし所の士皆當時の名士にして彼の北門の防 0000_,20,308b22(00):備を建言し自から擇捉島に渡り露人の建設せし十 0000_,20,308b23(00):字架を撤し天長地久大日本國の標木を樹てたる近 0000_,20,308b24(00):藤守重の如き博學多識を以て一時に鳴りし屋代輪 0000_,20,308b25(00):池高田與靖の如き其交情尋常にあらざりしは彼等 0000_,20,308b26(00):が序跋等に明也就中近藤正齋は剛腹を以て聞へ容 0000_,20,308b27(00):易に人に許さずしかも上人を目して能く内外の學 0000_,20,308b28(00):に通じ傍ら經論の要を究む其頂を圓にすと雖も然 0000_,20,308b29(00):かも其志を方にす堂堂たる一武辯なりと云へるは 0000_,20,308b30(00):上人の性行を盡せるものにして而も守重が上人を 0000_,20,308b31(00):重ぜるを見るべき也』還俗せる攝門は幕府表坊主 0000_,20,308b32(00):竹尾氏の株を讓り受けて竹尾善筑と稱し勤務の餘 0000_,20,308b33(00):暇幕府の舊記傳説を參考して舊考餘錄五卷を著は 0000_,20,308b34(00):し天保三年之を幕府に獻納し篤志を賞され白銀五 0000_,20,309a01(00):十兩を賜りき當時の習慣として自著を獻ずること頗 0000_,20,309a02(00):る難かりしに表坊主にして此の如き待遇を受けた 0000_,20,309a03(00):るは頗る異例に屬するを以て傍人をして其殊遇を 0000_,20,309a04(00):羡望せしめたりと云ふ平戸侯松浦靜山朽木義綱成 0000_,20,309a05(00):畠道筑林靜宇等と交情最も親し嘗て其著佐喜草の 0000_,20,309a06(00):稿なるや麾下の士大野權之亟切に其稿本を讓受け 0000_,20,309a07(00):んことを請ふこと再三之を受けて少しく體裁を改め名 0000_,20,309a08(00):を泰平年表と題し殿居袋靑表紙と共に之を梓に上 0000_,20,309a09(00):せ世に頒てり頒限三百部市に鬻ぐことを禁じたりし 0000_,20,309a10(00):が當時此の如き出版は幕府の禁ずる所なりし故に 0000_,20,309a11(00):權之亟は罰せられて丹波綾部に幽閉せられ鏤刻せ 0000_,20,309a12(00):し書肆は江戸を追放せられたり攝門上人の關係者 0000_,20,309a13(00):にしては刑辟に觸れしもの祖父大貳あり今また權 0000_,20,309a14(00):之亟あり後に友人近藤守重あるは傳奇なる生涯に 0000_,20,309a15(00):更に一段の奇を加ふるものと云ふべし』還俗の後 0000_,20,309a16(00):著はせし書に舊考餘錄、東武太記、千代の松が根、 0000_,20,309a17(00):幕府祖胤錄、廣忠君御廟記、市場殿墓考、神祖七 0000_,20,309b18(00):男松千代君八男仙千代君御廟記等あり多くは流布 0000_,20,309b19(00):せずして秘府に藏せらる先德奠香錄は還俗の後天 0000_,20,309b20(00):保六年本宗淨侶の囑により撰述せるもの也』天保 0000_,20,309b21(00):十年八月六日世壽五十八にして病死す或はいふア 0000_,20,309b22(00):ルコール中毒のために路傍に仆れたるなりと傳奇 0000_,20,309b23(00):なる人はかくして傳奇にして終焉の幕を閉ぢたり 0000_,20,309b24(00):墓は麴町心法寺にあり遠塵院常譽察阿覺齋居士蓋 0000_,20,309b25(00):し自撰の號也男德野覺齋俳諧を好み夜雪庵の門に 0000_,20,309b26(00):入り夜鶴庵と號せり』 0000_,20,309b27(00):編者云く本傳は上人の法縁中谷氏の筆する所今 0000_,20,309b28(00):之を採錄して上人を傳ふるの一端とす