0000_,20,379a01(00):黑谷誌要
0000_,20,379a02(00):
0000_,20,379a03(00):目 次
0000_,20,379a04(00):第一 由緖沿革
0000_,20,379a05(00):第二 歷代畧譜
0000_,20,379a06(00):第三 伽藍興隆
0000_,20,379a07(00):第四 古文書類
0000_,20,379a08(00):第五 靈寶什器
0000_,20,379a09(00):
0000_,20,379a10(00):
0000_,20,379a11(00):第一 由緖沿革
0000_,20,379a12(00):開祖圓光明照大師 夙に世塵を厭ひ叡山黑谷に幽捿
0000_,20,379a13(00):したまひしより以來。或は諸宗の碩學を訪ひて顯密
0000_,20,379a14(00):の蘊奧を叩き。或は一代の三藏を繙きて經釋の本意
0000_,20,379a15(00):を探る。斯の如くして解脱の要路を求めたまふこと
0000_,20,379a16(00):二十餘年。終ゐに 高倉天皇承安五年深く二尊の本
0000_,20,379a17(00):懷を悟り他力易往の淨土宗を開創したまふや。叡岳
0000_,20,379b18(00):を辭して庵を洛東吉水に結ひひたすら專修念佛の一
0000_,20,379b19(00):行を勸めたまふ。其後白川賀茂小松殿等其居あらた
0000_,20,379b20(00):まるといへとも化導日に盛にして門前常に市をな
0000_,20,379b21(00):す。
0000_,20,379b22(00):中について當山は白川の禪坊と稱し。舊と黑谷の所
0000_,20,379b23(00):領なりしが叡空上人入滅の時之を大師に付屬したま
0000_,20,379b24(00):ふ。舊記を案するに大師曾て眞如堂に詣てて淨敎の
0000_,20,379b25(00):弘通を祈り。其より當山の林中を經回し山上の一石
0000_,20,379b26(00):に安座して暫く西方を念したまひしに谿間より紫雲
0000_,20,379b27(00):靉靆として騰涌し金光赫として照耀せしかは是れ
0000_,20,379b28(00):淨敎有縁の地なるへしとて止住あらせたまふと。其
0000_,20,379b29(00):後嫡弟法蓮房信空上人叡山黑谷の本所と共に之を相
0000_,20,379b30(00):續し常に當山に居住せられしかは人之を白川の上人
0000_,20,379b31(00):と呼へり。上人の沒後湛空惠尋惠顗相踵いて當山を
0000_,20,379b32(00):領す。世世叡山黑谷と來徃せしよりまた新黑谷の稱
0000_,20,379b33(00):あり。第五世惠顗上人の時初めて堂舍を經營して寺
0000_,20,379b34(00):觀をなす。乃ち大師感見の奇瑞に基き紫雲山金戒光
0000_,20,380a01(00):明寺と號す。第九世定玄上人に至り當山淨華院と兼
0000_,20,380a02(00):帶の端を開く。第十世等凞上人永享の頃將軍足利義
0000_,20,380a03(00):敎公に乞ひ大内政弘伊勢貞國の資助を得て境域を擴
0000_,20,380a04(00):張し堂宇を恢興し宗侶受戒の道塲となす。上人學德
0000_,20,380a05(00):並ひ秀いて 後小松 稱光 後花園三朝の帝師たり
0000_,20,380a06(00):しかは 後小松法皇は『淨土眞宗最初門』の額を賜
0000_,20,380a07(00):ひ。後花園天皇は滅後八年其德を嘉みして佛立惠照
0000_,20,380a08(00):國師と諡したまへり。
0000_,20,380a09(00):其後應仁の大亂あり佛殿僧房悉く灰燼に歸し荒廢四
0000_,20,380a10(00):十餘年に及ふ。永正年中極譽理聖上人深く靈蹟の廢
0000_,20,380a11(00):滅を歎き天台座主靑蓮院尊應准后の勸進狀を奉して
0000_,20,380a12(00):知識を四方に倡へ佛殿影堂を舊觀に復す。之を當山
0000_,20,380a13(00):の中興とす。
0000_,20,380a14(00):第二十一世法山上人織田信長豐臣秀吉二公の歸依に
0000_,20,380a15(00):よりて。天正二年信長公は制狀を寄せ。同十三年秀
0000_,20,380a16(00):吉公は寺領百三十石を給す。次に道殘源良の二師あ
0000_,20,380a17(00):り是より漸く淨華院の覊絆を脱す。文祿二年豐公の
0000_,20,380b18(00):妾淀君先考淺井長政菩提の爲に御影堂を改築して輪
0000_,20,380b19(00):奐の美を極む。慶長十年豐臣秀賴公大佛殿造營の餘
0000_,20,380b20(00):材を以て阿彌陀堂を建立す現今の佛殿是なり。是時
0000_,20,380b21(00):に當り天下靜定して京師また兵火の患なく四民倍繁
0000_,20,380b22(00):榮せしかは。當山の境域に墳墓を定むるもの多く塔
0000_,20,380b23(00):頭門末年を逐ふて增加し當山の興隆昔日に倍す。
0000_,20,380b24(00):德川氏起るに及ひ外護益益加はる。二十六世琴譽盛
0000_,20,380b25(00):林上人東照公の歸崇を得て慶長十五年當山を董する
0000_,20,380b26(00):や 御陽成天皇は特に紫衣の綸旨を賜ひ。照公は同
0000_,20,380b27(00):十八年六月勅許紫衣並に入院法度を定め。九月先規
0000_,20,380b28(00):に凖して寺領百三十石の判物を賜ふ。
0000_,20,380b29(00):然るに慶長十七年九月十三日火を失し御影堂方丈庫
0000_,20,380b30(00):裡等燒亡し。堂司大師の影像を抱き出さんとして能
0000_,20,380b31(00):はす共に燒死す。豐臣秀賴公直ちに之を再興し。照
0000_,20,380b32(00):公は大師御自作の影像を安藝國瀨戸田光明三昧院よ
0000_,20,380b33(00):り遷座せしむ。現今御影堂に安置する所の尊像是な
0000_,20,380b34(00):り。又令して毎年諸末寺を集會し開祖大師の御忌を
0000_,20,381a01(00):盛修せしむ。
0000_,20,381a02(00):元和寬永の頃了的第廿七世潮呑第廿八世の二上人相紹きて朝
0000_,20,381a03(00):野の歸崇を博す。元和四年淺野長晟侯は其室正淸院
0000_,20,381a04(00):殿照公の姬君の靈屋を堂側に營み寺領百石を附し。又雲
0000_,20,381a05(00):光院尼公は其住宅を寄せて講堂大方丈を造り。寬永三
0000_,20,381a06(00):年豐永氏三重の塔を山頂に建つ。其他洪鐘を鑄鐘樓
0000_,20,381a07(00):を築き門廡を改むる等諸堂完備し莊嚴漸く具はる。
0000_,20,381a08(00):寬文二年二月當山靈寶を 後西院天皇 後水尾法皇
0000_,20,381a09(00):及ひ東福門院の叡覽に供す。同十年吉田寺觀音の堂
0000_,20,381a10(00):宇を阿彌陀堂の南側に築く。延寶年中錢屋良喜一切
0000_,20,381a11(00):經を納め。元祿二年稱悅法師經藏を興す。又同年山
0000_,20,381a12(00):北の荒地を得て領域を擴む。享保十三年松平伊賀守
0000_,20,381a13(00):父祖追孝の爲めに毎年米百五十石を寄せ永代違變な
0000_,20,381a14(00):きを誓ふ。
0000_,20,381a15(00):越えて安永五年十二月御影堂方丈庫裡等再ひ回祿に
0000_,20,381a16(00):罹りしかば。神譽覺譽逾譽禀譽淨譽等歷代の法主勸
0000_,20,381a17(00):財巡化幾多の歳月を閲して影堂方丈書院庫裡等悉く
0000_,20,381b18(00):舊に復す。現今の堂舍即ち是なり。其後文政年中明
0000_,20,381b19(00):譽顯海上人の時堂前の林藪を開拓し三門再建の土木
0000_,20,381b20(00):を起す。寥譽定圓上人第五十六世の代萬延元年三門落成
0000_,20,381b21(00):し又高麗門を新築す。是に於て諸堂全く備はり輪奐
0000_,20,381b22(00):の美洛東の偉觀を呈す。文久二年九月幕府の命によ
0000_,20,381b23(00):り一山を擧けて京都守護職松平容保侯の宿陣に供
0000_,20,381b24(00):す。是に依て明治維新の際薩藩兵士の包圍を受け砲
0000_,20,381b25(00):丸御影堂前に落下せしも幸にして事なきを得たり。
0000_,20,381b26(00):又王政復古して寺領除地悉く公收せらると雖も定圓
0000_,20,381b27(00):上人門末支院を督勵して能く變に應し益益寺基を固
0000_,20,381b28(00):くす。明治三十一年十一月 今上天皇陛下儲位にま
0000_,20,381b29(00):しませし時當山に行啓あらせられ。翌日優渥なる御
0000_,20,381b30(00):詞并に金子若干を賜ふ。現今境内の總面積四萬四千
0000_,20,381b31(00):百六十坪餘。塔頭二十宇。末寺子院併せて三百三十
0000_,20,381b32(00):餘箇寺あり。大師基を開きたまひしより玆に七百餘
0000_,20,381b33(00):年。法統連綿として六十代。堂塔高く東山に聳え。
0000_,20,381b34(00):門葉遠く諸國に榮ゆ。寔に是れ念佛弘通の根元地。
0000_,20,382a01(00):淨土一宗の大本山なり。
0000_,20,382a02(00):
0000_,20,382a03(00):第二 歷代略譜
0000_,20,382a04(00):○開祖大師法然房源空上人
0000_,20,382a05(00):開祖大師 父は美作國久米の押領使漆時國。長承二
0000_,20,382a06(00):年四月七日誕生す。幼名を勢至丸といふ。九歳にし
0000_,20,382a07(00):て父を喪ひ其遺命により出家の志を立て同國菩提寺
0000_,20,382a08(00):觀覺に事ふ。十五歳叡岳に登り持寶房源光に隨ひ。
0000_,20,382a09(00):尋いて皇圓阿闍梨の門に入り剃染受戒し大に天台の
0000_,20,382a10(00):敎觀を究む。久安六年十八歳にして黑谷に隱捿し叡
0000_,20,382a11(00):空上人に師事し法然房源空と稱す。叡空上人は大原
0000_,20,382a12(00):良忍上人の徒にして圓戒眞言に精通せり。大師此に
0000_,20,382a13(00):於て深く二敎を修め又廣く經論章疏を涉獵す。二十
0000_,20,382a14(00):四歳出てて南都を歷遊し諸宗の秘賾を探る。時人嘆
0000_,20,382a15(00):して智惠第一の法然房といふ。然れとも尚自ら三學
0000_,20,382a16(00):の器に非さるを歎き黑谷報恩藏に入りて凡夫解脱の
0000_,20,382a17(00):要路を探る。一切經を披覽すること五返。終に善導大
0000_,20,382b18(00):師の觀經散善義を讀み一心專念の文に至り廓然とし
0000_,20,382b19(00):て彌陀本願の妙旨を悟る。時に年四十三 高倉天皇
0000_,20,382b20(00):承安五年三月なり。是に於て山を下り居を洛東吉
0000_,20,382b21(00):水に卜め淨土の宗を開く。天下靡然として其化を仰
0000_,20,382b22(00):き道俗翕然として其門に集まる。是より先き本師叡
0000_,20,382b23(00):空上人深く大師の德に服し大乘圓頓の戒統及ひ黑
0000_,20,382b24(00):谷白川の坊舍聖敎等悉く之を付囑す。戒德遂に天聽
0000_,20,382b25(00):に達し 後白河 高倉 後鳥羽の三帝を始め后宮公
0000_,20,382b26(00):卿大師を請して受戒念佛せさるなし。關白藤原兼實
0000_,20,382b27(00):公尤も大師に歸し建久九年其請により選擇本願念佛
0000_,20,382b28(00):集を著はす。大師念佛薰習功つもり或は靈夢を感見
0000_,20,382b29(00):し或は三昧を發得し或は靈相を顯現す。時人生身佛
0000_,20,382b30(00):の想をなし勢至菩薩の化現と稱す。斯くて敎運益隆
0000_,20,382b31(00):んなるに從ひ贋徒輩出して餘敎を誹り放逸を行ふ者
0000_,20,382b32(00):ありしかは南北の諸宗之を嫉むもの漸く多きを加
0000_,20,382b33(00):ふ。元久元年叡山の衆徒大師の念佛を停止せんとす。
0000_,20,382b34(00):大師之を聞き門下を誡めて七箇條起請を製し又誓書
0000_,20,383a01(00):を山門に送り事なきを得たり。翌年興福寺の徒白疏
0000_,20,383a02(00):を捧けて一向專修を糺改せんと乞ふ。會ま安樂住蓮
0000_,20,383a03(00):等宮人を度するの事あり 後鳥羽上皇の忌諱に觸れ
0000_,20,383a04(00):承元元年二僧刑せられ大師俗名を賜はりて土佐に配
0000_,20,383a05(00):流せらる。大師以て意とせす邊土の敎化は寧ろ朝恩
0000_,20,383a06(00):なりと喜ひたまふ。讃岐に留まること十月にして赦
0000_,20,383a07(00):免せられ攝津勝尾寺に幽居する事四年。建曆元年十
0000_,20,383a08(00):一月洛に歸り大谷に居住す。道俗喜ひ迎へ貴賤門に
0000_,20,383a09(00):集る。翌建曆二年正月病に臥し宗要を一紙に認めて
0000_,20,383a10(00):之を勢觀房に授く所謂一枚起請文是なり同廿五日頭
0000_,20,383a11(00):北面西にして光明遍照の文を誦し往生の素懷を遂け
0000_,20,383a12(00):たまふ世壽八十僧臘六十六。門弟等全身を住房東崖
0000_,20,383a13(00):の勝地に葬り相議して廟堂を建つ。然に滅後十七年
0000_,20,383a14(00):山徒の暴擧を避けて粟生野に荼毘し門弟各分骨護持
0000_,20,383a15(00):し縁に隨て廟塔を營む。
0000_,20,383a16(00):其後ち遺敎年を追て四海に瀰漫せしかは歷朝の歸崇
0000_,20,383a17(00):淺からす屢屢徽號を諡して其德を旌はし或は御忌を
0000_,20,383b18(00):修して其恩を報せしめたまふ。中にも 東山天皇は
0000_,20,383b19(00):圓光大師。 中御門天皇は東漸大師。 桃園天皇は
0000_,20,383b20(00):慧成大師。 光格天皇は弘覺大師。 孝明天皇は慈
0000_,20,383b21(00):敎大師。 明治天皇は明照大師の徽號を賜ふ。
0000_,20,383b22(00):○第二世法蓮房信空上人
0000_,20,383b23(00):上人は左大辨藤原行隆朝臣の息なり。保元二年十二
0000_,20,383b24(00):歳にして黑谷叡空上人の室に入り剃染受戒す。後ち
0000_,20,383b25(00):圓光大師に從ひ大乘圓戒を相承し淨土の敎門を習練
0000_,20,383b26(00):す。時人嘆して云く『内外博通し智行兼備す念佛宗
0000_,20,383b27(00):の先達傍若無人といふへし』と。以て其造詣の深き
0000_,20,383b28(00):を知るべし上人大師の嫡弟たるを以て黑谷白川の二
0000_,20,383b29(00):坊を相續せしめたまふ即ち建久九年四月大師歿後付
0000_,20,383b30(00):囑の狀に云く
0000_,20,383b31(00):信空大德者。是多年入室之弟子也。其志諄厚而有
0000_,20,383b32(00):誠。爲表懇志聊有遺囑。謂黑谷本房寢殿雜舍白川
0000_,20,383b33(00):本房寢殿雜舍坂下薗一所。洛中地一所。此外本尊三尺彌陀
0000_,20,383b34(00):立像定朝聖敎摺寫六十卷等付屬之了其書在別紙
0000_,20,384a01(00):と。此白川本房といへるもの即ち當山にして。世に
0000_,20,384a02(00):白川の上人と稱するもまた之に因れり。上人常に同
0000_,20,384a03(00):門下の推服する所となり大師滅後の修善建塔及ひ嘉
0000_,20,384a04(00):祿の避難等皆其指揮に出ざるなし。
0000_,20,384a05(00):上人諸宗の迫害日に甚きを見て深く時運の非なるを
0000_,20,384a06(00):察し外圓戒を旨とし敢て專修を標榜せす。然りと雖
0000_,20,384a07(00):も明禪法印を始め其化によりて淨土門に歸するもの
0000_,20,384a08(00):多かりき。安貞二年九月九日僧伽梨を着し頭北面西
0000_,20,384a09(00):にして大師の芳骨を胸に安き安祥として寂す壽八十
0000_,20,384a10(00):三。
0000_,20,384a11(00):○第三世正信房湛空上人
0000_,20,384a12(00):上人は德大寺左大臣實能公の孫法眼圓實の子なり。
0000_,20,384a13(00):初め大納言律師公全と呼ひ四明の法將たりしも大師
0000_,20,384a14(00):の門に歸し正信房湛空と改む。大師遷謫の時は配所
0000_,20,384a15(00):まてともなはれしといふ。後ち居を嵯峨二尊院に卜
0000_,20,384a16(00):し圓戒念佛を事とす。嘉祿三年六月山徒暴擧して大
0000_,20,384a17(00):谷の廟堂を破却するや法蓮房覺阿等良快僧正と謀り
0000_,20,384b18(00):て遺骸を二尊院に移しついで太秦に隱くし翌年粟生
0000_,20,384b19(00):野に荼毘す。天福元年上人鴈塔を二尊院の山上に築
0000_,20,384b20(00):き遺骨を迎へ以て報恩に擬す。
0000_,20,384b21(00):信空上人より戒統並に當山の付屬を受け天下の戒和
0000_,20,384b22(00):尚として 土御門上皇 後嵯峨天皇修明門院に圓戒
0000_,20,384b23(00):を授けたてまつる。建長五年七月廿七日生年七十八
0000_,20,384b24(00):にして寂す。上人淨業の傍ら國風を嗜み其詠『續後
0000_,20,384b25(00):選』『續古今』『新後選集』等に出つ。
0000_,20,384b26(00):○第四世求道房惠尋上人
0000_,20,384b27(00):上人は姓氏詳ならす。幼にして叡山黑谷に登り台敎
0000_,20,384b28(00):を學ひ。後ち湛空上人に從ひて圓戒念佛を禀承し當
0000_,20,384b29(00):山を領す。新黑谷の稱は盖し此頃より歟一説大師の在世既に此稱あ
0000_,20,384b30(00):りと云云 文永弘安の頃台門の戒學大に廢す。而して上
0000_,20,384b31(00):人圓戒の正統たるによりて元應寺の傳信法勝寺の惠
0000_,20,384b32(00):鎭元興寺の惟賢西山の道空理圓等皆上人に從て流傳
0000_,20,384b33(00):せさるなし。晩年餘事を廢して唯念佛を行す。弘安
0000_,20,384b34(00):元年十月二十八日寂す。
0000_,20,385a01(00):○第五世素月房惠顗上人
0000_,20,385a02(00):上人また圓智と號す。但馬の人平通盛四世の孫なり。
0000_,20,385a03(00):十四歳にして惠尋上人の座下に投し翌年剃髮受戒
0000_,20,385a04(00):す。壯時園城法隆建仁の諸寺を歷遊して博く諸宗を
0000_,20,385a05(00):究はめ。又鎌倉に往きて宗源を傳ふ。後ち京師に歸
0000_,20,385a06(00):りて當山を領し堂舍を恢興し始めて紫雲山金戒光明
0000_,20,385a07(00):寺と號す或云金戒の二字は運空上人の時加ふる所と豫め死期を知り正安三年
0000_,20,385a08(00):二月十八日寂す。
0000_,20,385a09(00):○第六世壽觀房任空上人
0000_,20,385a10(00):行實詳ならす。唯『中院一品記』に曆應三年八月德大
0000_,20,385a11(00):寺亭に於て如法經十種供養の導師たりし記事あるの
0000_,20,385a12(00):み舊記正中三年三月朔日寂に作るは據り難し
0000_,20,385a13(00):○第七世示觀(我イ)房範空上人
0000_,20,385a14(00):行實詳ならす。文和二年正月十六日寂
0000_,20,385a15(00):○第八世我觀(等玉イ)房運空(蓮イ)上人
0000_,20,385a16(00):如法と號す。父は南都春日の巫祝なり。初め東大寺
0000_,20,385a17(00):に入りて剃染し。智藏房に就て唯識因明を研精す。
0000_,20,385b18(00):後ち京師に出てて範空の門に投す。後光嚴帝其道譽
0000_,20,385b19(00):を聞召して金戒を禀け運空大道人の號を賜ふとい
0000_,20,385b20(00):ふ。永德二年八月十日寂す。
0000_,20,385b21(00):○第九世定玄僧然上人
0000_,20,385b22(00):上人は大納言萬里小路仲房卿の子なり。十二歳通玄
0000_,20,385b23(00):比丘に就て得度し。後ち淨華院敬法上人に師事して
0000_,20,385b24(00):淨業を受く。又南北に周遊して諸敎を學ひ。特に意
0000_,20,385b25(00):を戒律に用ゐ運空忠惠の二師に隨ひて圓戒並に灌頂
0000_,20,385b26(00):を相傳し。終に當山第九世に補せらる。應永五年二
0000_,20,385b27(00):月淨華院を相續して兩山を兼ぬ。曾て 後小松天皇
0000_,20,385b28(00):に圓戒を授けたてまつり阿彌陀經を奏説す。應永十
0000_,20,385b29(00):五年江州坂本に法藏院を剏め。又栗本郡灰墳に安養
0000_,20,385b30(00):院を興す。天台の隆堯良俊の徒來りて其化を助く。
0000_,20,385b31(00):應永二十二年十一月廿四日寂す。壽七十二上人の寂年異説多し、
0000_,20,385b32(00):今は萬里小路時房公の「建内記」に據る
0000_,20,385b33(00):○第十世佛立惠照國師
0000_,20,385b34(00):等凞僧任と號す。俗姓詳ならず。應永六年十才にし
0000_,20,386a01(00):て淨華院に入り敬法上人に就て剃髮し。法を定玄上
0000_,20,386a02(00):人に受け淨華院を董す。定玄上人示寂に及ひ 稱光
0000_,20,386a03(00):天皇の勅許を得て當山を領す。
0000_,20,386a04(00):上人學顯密を兼ね戒德一世に鳴る。應永三十二年七
0000_,20,386a05(00):月 稱光天皇の御不豫に際し黑戸に伺候して如法念
0000_,20,386a06(00):佛を修すること一七日。御惱忽に散せしかは叡感淺
0000_,20,386a07(00):からず。後ち正長元年大漸に臨み勅して臨終の知識
0000_,20,386a08(00):としたまへり。後小松上皇も屢仙洞に召して受戒念
0000_,20,386a09(00):佛し『淨土眞宗最初門』の額を賜ふといふ。將軍足
0000_,20,386a10(00):利義量公も終焉に臨み招きて知識たらしむ。正長二
0000_,20,386a11(00):年六月後花園天皇勅して香衣を賜ふ。是れ淨土鎭西
0000_,20,386a12(00):流香衣勅許の嚆矢か。永享年中將軍義敎公に乞ひ大
0000_,20,386a13(00):内伊勢二氏の援助を得て當山を興し宗侶受戒の道塲
0000_,20,386a14(00):とす。後ち寺務を法弟良秀に讓り松林院に退き康正
0000_,20,386a15(00):元年八月十一日世壽六十六にして寂す。受業の弟子
0000_,20,386a16(00):二百餘人。上人の示寂異説あり、今「長興宿禰記」に依て推定す、
0000_,20,386a17(00):滅後八年 後花園天皇寬正三年八月佛立惠照國師と
0000_,20,386b18(00):諡す勅草は左大辨菅原繼長卿の作進勅書に云く
0000_,20,386b19(00):勅 戽淨刹之玄流、綽利於法筏、兼圓戒之眞
0000_,20,386b20(00):乘、廓擎於梵梁、等熙和尚 正吾宗之血脈、統
0000_,20,386b21(00):師家之肝要(言イ)、囊括八挺、褊爲玄簡之知識、衣
0000_,20,386b22(00):被九有、嫓爲光明之導師、况應先帝之勅喚、開
0000_,20,386b23(00):演安心之要門、諳敎主之弘願、奉示託生之直路、
0000_,20,386b24(00):遂呈生諸佛家之相、正成當座道塲之因、是以、
0000_,20,386b25(00):料歸崇之無比、推叡感之所覃、故樹立於風
0000_,20,386b26(00):聲、殊草創於日下、諡曰佛立惠照國師、
0000_,20,386b27(00):寬正三年八月十二日
0000_,20,386b28(00):○第十一世良秀僧尋上人
0000_,20,386b29(00):上人は定玄に就きて剃髮し國師に嗣法す。初め花開
0000_,20,386b30(00):院に住し。後ち淨華院及ひ當山を領す。寂年詳なら
0000_,20,386b31(00):す。舊記永享十年八月九日寂に作る、然るに「建内記」嘉吉元年七月生存の記事あり、其妄知るべし
0000_,20,386b32(00):○第十二世聖深阿縁上人
0000_,20,386b33(00):國龍と號す。兩山を兼ぬ。長祿二年正月九日寂一説享德
0000_,20,386b34(00):二年八月九日
0000_,20,387a01(00):○第十三世等珍僧海上人
0000_,20,387a02(00):珠明と號す。兩山を兼帶す。寬正五年六月六日寂一説
0000_,20,387a03(00):文龜元年七月十八日
0000_,20,387a04(00):一休禪師當山に詣して大師眞蹟の一枚起請に賛せる
0000_,20,387a05(00):は此頃なるへし。
0000_,20,387a06(00):○第十四世良玉僧秀上人
0000_,20,387a07(00):應仁兵火の後。越前に赴き文明七年七月十日彼地に
0000_,20,387a08(00):寂す。
0000_,20,387a09(00):○第十五世威照良眞上人
0000_,20,387a10(00):上人は伊勢守平貞國の子にして良秀上人の徒なり。
0000_,20,387a11(00):應仁の亂に堂宇兵燹に罹りしかは衆徒四散し荒廢す
0000_,20,387a12(00):ること四十余年に及ふ。上人淨華院に留まりて明應
0000_,20,387a13(00):九年九月 後土御門天皇御終焉の知識に參す。永正
0000_,20,387a14(00):八年正月廿八日寂す。
0000_,20,387a15(00):○第十六世稱念秀馨上人
0000_,20,387a16(00):上人は伊勢守平貞祐の二男なり。叔父玄眞上人に就
0000_,20,387a17(00):て得度し頗る博覽の聞あり。初め花開院に住し後ち
0000_,20,387b18(00):淨華院に晋む。上人當山の廢絶を歎き之を興すの意
0000_,20,387b19(00):あり理聖を看坊として宿志を果さしむ。天文八年七
0000_,20,387b20(00):月廿九日寂す。
0000_,20,387b21(00):○第十七世極譽理聖上人
0000_,20,387b22(00):上人は九州の人にして師承詳ならす。其檀興の才あ
0000_,20,387b23(00):るを以て秀馨上人慫慂して當山を再興せしむ。永正
0000_,20,387b24(00):九年七月前天台座主靑蓮院尊應准后隨喜して親ら勸
0000_,20,387b25(00):進の疏を勒して貴賤を奉加せしむ。上人拮据經營す
0000_,20,387b26(00):ること多年佛殿影堂漸くにして成る之を當山の中興
0000_,20,387b27(00):とす。後柏原天皇當山の一枚起請文を叡覽あり『法
0000_,20,387b28(00):然上人眞筆一枚起請』と題したまふ。大永四年大師
0000_,20,387b29(00):眞筆鏡之御影を得て之を當山に納む。享祿三年七月
0000_,20,387b30(00):二十六日寂す。
0000_,20,387b31(00):○第十八世榮譽永眞(心イ)上人
0000_,20,387b32(00):行實詳ならす。戒光院の開山なりといふ。天文七年
0000_,20,387b33(00):六月二十八日寂す。
0000_,20,387b34(00):○第十九世西譽雲栖上人
0000_,20,388a01(00):淨蓮社と號す。上人の住世永祿元年實譽眞敎金光院
0000_,20,388a02(00):を剙め。同四年溪譽善玉正福院を開く。是より當山
0000_,20,388a03(00):の大衆塔頭支院を創設するもの漸く多し。同七年上
0000_,20,388a04(00):人栖松院を金光院の南に創し翌年之に退隱し同十年
0000_,20,388a05(00):三月二日寂す一説雲栖上人一旦退隱し正玉善海の二師之に嗣く 其後上人再住せらるといふ
0000_,20,388a06(00):○第二十世弘譽傳心上人
0000_,20,388a07(00):專蓮社と號す。元龜三年十二月十五日寂す。
0000_,20,388a08(00):○第二十一世性譽法山上人
0000_,20,388a09(00):源蓮社と號す。尾張の人なり。永祿年中藝州廣島に
0000_,20,388a10(00):戒善寺廣敎寺紀州有田に大乘寺を起し天文二十三年
0000_,20,388a11(00):京に國生寺を創して宗風を宣揚す。元龜三年十二月
0000_,20,388a12(00):當山を董す。天正元年善香法師と共に靈異を感して
0000_,20,388a13(00):大師埋骨の靈地を發見す乃ち五輪の塔を建て傍に一
0000_,20,388a14(00):菴を設く是れ勢至堂及法泉菴の濫觴なり。
0000_,20,388a15(00):天正二年十一月織田信長公制狀を賜ふ。又當山より
0000_,20,388a16(00):火筋を献す公の謝狀今に在り。天正十三年十一月豐
0000_,20,388a17(00):臣秀吉公寺領百三十石の朱印を賜ふ。
0000_,20,388b18(00):又上人曾て佐野宗綱入道天德寺了伯と稱すの窮を救ふ。入道後
0000_,20,388b19(00):ち豐公の知遇を受くるに及ひ大に上人を德とす。當
0000_,20,388b20(00):山什寶俵藤太の繪卷物は其寄贈にかかるといふ。上
0000_,20,388b21(00):人の住世妙蓮院法泉菴瑞泉院淨專院明壽院後改常光院英
0000_,20,388b22(00):春院後改淨源院西翁院等の子院を創す。
0000_,20,388b23(00):上人晩年攝州眞上の眞如寺に隱棲し天正十四年八月
0000_,20,388b24(00):十五日寂す。年八十三。丹波桑田郡の專念寺大恩寺
0000_,20,388b25(00):もまた上人の起立にかかる
0000_,20,388b26(00):○第二十二世道殘源立上人
0000_,20,388b27(00):然蓮社愚同良智と號す。越前の人なり十八歳の時下
0000_,20,388b28(00):野大澤圓通寺に到り良迦上人に師事すること十餘年
0000_,20,388b29(00):才學英發遂に其附屬を受く。後ち故國に歸るや。
0000_,20,388b30(00):西福寺亮叡上人延いて補處とす。天正六年香衣參内
0000_,20,388b31(00):を聽さる。正親町天皇其才學を嘉みし在京して宗侶
0000_,20,388b32(00):を提撕せしめ給ふ。同十四年六月勅を奉して淨華院
0000_,20,388b33(00):に晋み。同十七年五月當院に轉す。是より先き當山
0000_,20,388b34(00):の門徒淨華院の塔頭と快からす常に紛爭を事とす十
0000_,20,389a01(00):七年四月終ゐに天裁を仰くに至る。上人居中調停に
0000_,20,389a02(00):努め十八年四月相和熟せしむ。十七年十二月豐公當
0000_,20,389a03(00):寺門前境内地子以下諸役免除の朱印を賜ふ。上人の
0000_,20,389a04(00):住世(常往院)愚同院後改長安院榮攝院行心院永運院光德
0000_,20,389a05(00):院西住院超勝院等の子院建立せらる。上人宗學に精
0000_,20,389a06(00):通し詞辯縱橫なりしかば公武の皈仰を得たり曾て宮
0000_,20,389a07(00):人宗要を問ふものあり上人『和風安心鈔』二卷を述し
0000_,20,389a08(00):以て之に酬ゆ。文祿二年九月二十三日寂。壽五十八。
0000_,20,389a09(00):越前西福寺に歸葬す。
0000_,20,389a10(00):○第二十三世看譽源良上人
0000_,20,389a11(00):星蓮社と號す。法山上人の徒なり。鎌倉光明寺より
0000_,20,389a12(00):轉住す。文祿二年豐公の寵姬淀君大檀那となりて御
0000_,20,389a13(00):影堂を再興す。文祿四年三月十九日寂
0000_,20,389a14(00):○第二十四世縁譽休岸上人
0000_,20,389a15(00):三蓮社源了と號す。石州濱田の人にして淨華院專譽
0000_,20,389a16(00):良休の徒なり。初め石州銀山に西向寺を開き後ち淨
0000_,20,389a17(00):華當山を歷住し又天正十九年大阪生玉に銀山寺を創
0000_,20,389b18(00):す晩年西向寺に皈寂す。時に慶長三年十一月二十九
0000_,20,389b19(00):日なり一説二月十九日寂壽五十六
0000_,20,389b20(00):○第二十五世長譽源然上人
0000_,20,389b21(00):觀蓮社良把と號す。鎌倉光明寺より轉住す。慶長十
0000_,20,389b22(00):年一説十七年豐臣秀賴公阿彌陀堂を改造す現今の佛殿即
0000_,20,389b23(00):ち是なり。傳へ云ふ大佛殿造營の餘材を以てすと。
0000_,20,389b24(00):同十一年芳譽栖久西の總門を立つ。同十四年四月七
0000_,20,389b25(00):日寂す。上人の住世子院の創せらるるもの顯岑院松
0000_,20,389b26(00):樹軒又作正壽軒空林庵龍光院林昌院後改將法院等なり。中に就て
0000_,20,389b27(00):龍光院は羽柴下總守息女菩提の爲に建つる所なり。
0000_,20,389b28(00):○第二十六世琴譽盛林上人
0000_,20,389b29(00):泰蓮社昶阿と號す。姓は松田氏伊勢の人なり。幼に
0000_,20,389b30(00):して當山に入り。天正の初め關東に遊學して虎角に
0000_,20,389b31(00):嗣法し。山田に皈りて淨閑寺天機院を創す。文祿二
0000_,20,389b32(00):年德川家康公の命により京に出てて淨福寺に居り。
0000_,20,389b33(00):慶長十五年六月當山に晋董す。當山舊と淨華院と同
0000_,20,389b34(00):く萬里小路家の傳奏なりしが此に於て淨華院と意合
0000_,20,390a01(00):はす同家も亦執奏を拒む。上人駿府に到り之を訴ふ。
0000_,20,390a02(00):照公命して武家傳奏によらしむ。同月晦日 後陽成天
0000_,20,390a03(00):皇勅して紫衣を賜ふ。同十七年九月十三日寺内火を
0000_,20,390a04(00):失し影堂方丈庫裡等燒亡し大師の影像も烏有に皈し
0000_,20,390a05(00):給へり。豐臣秀賴公直に影堂を再興せしむ朞年にし
0000_,20,390a06(00):て成る奉行宮城丹波守なり。同十八年九月上人駿府
0000_,20,390a07(00):に徃き照公に謁し藝州瀨戸田に大師直作の影像ある
0000_,20,390a08(00):ことを聞す。公領主福島正則に命して之を徴せしめ且
0000_,20,390a09(00):つ先規に凖して寺領百三十石の判物を賜ふ。十月十
0000_,20,390a10(00):五日大師の影像を安藝より迎へて影堂に安す諸人群
0000_,20,390a11(00):參すること市の如し。翌年三月照公令して毎年諸末寺
0000_,20,390a12(00):を集會し開祖の御忌を盛修せしむ。上人の住世超覺
0000_,20,390a13(00):院養壽院養親院安中院廓旃庵西雲院等の子院立つ。
0000_,20,390a14(00):上人照公の皈崇を博し曾て布薩戒を授く。元和二年
0000_,20,390a15(00):淨閑寺に退隱し同三年十一月廿一日寂す壽七十三。
0000_,20,390a16(00):○第二十七世桑譽了的上人
0000_,20,390a17(00):傳蓮社導故と號す。姓は近藤氏甲斐の人なり。七歳に
0000_,20,390b18(00):して郡の瑞泉寺大譽に投して剃髮し。十七歳武州上
0000_,20,390b19(00):簔に赴きて觀智國師に師事す。慶長十三年日蓮宗徒
0000_,20,390b20(00):と法問を鬪はし頗る東照公の信賴を博す。後ち徒衆
0000_,20,390b21(00):百余人を率ゐ小田原大蓮寺に移り法幢を建つ。元和
0000_,20,390b22(00):二年八月當山に晋董し紫衣の綸旨を賜はる。同三年
0000_,20,390b23(00):八月淺野但馬守長晟の室正淸院殿東照公の女葬儀の導師を勤
0000_,20,390b24(00):む是によりて廟所を當山に設け寺領百石を寄進せら
0000_,20,390b25(00):る。上人の住世雲光院尼公の住宅を賜はりて講堂を
0000_,20,390b26(00):營み又梵鐘鐘樓鎭守堂を構へ崇源院殿秀忠公御臺所峯巖院
0000_,20,390b27(00):殿駿河大納言の墳廟を興す。又善敎院南龍院萬福寺光守院
0000_,20,390b28(00):等の子院を開く。元和三年及ひ九年二條城に於て秀
0000_,20,390b29(00):忠家光二公一枚起請文を拜覽せらる上人身長六尺其
0000_,20,390b30(00):聲雷の如く解行俊利衆人悅服す當山の今日ある上人
0000_,20,390b31(00):に俟つ所甚だ多し。寬永二年十一月家光公命し 縁
0000_,20,390b32(00):山に轉昇せしむ。同七年八月十五日寂す。壽六十九。
0000_,20,390b33(00):○第二十八世徃譽潮呑上人
0000_,20,390b34(00):源蓮社信入と號す。姓は熊野氏武州埼玉郡の人なり。
0000_,20,391a01(00):觀智國師に隨從する事三十餘年宗戒の秘賾究めさる
0000_,20,391a02(00):なし。初め光嚴寺後改雲光院を江戸深川に剏め寬永三年
0000_,20,391a03(00):四月台命によりて當山を領す。寬永十年豐永宗如文
0000_,20,391a04(00):殊塔を山頂に建て同十一年木下宮内少輔西向總門を
0000_,20,391a05(00):再興しまた大皷樓及南門を造る。上人寺内の通規附
0000_,20,391a06(00):法の別規を定め且つ三脈口傳書を著はし宗乘に貢献
0000_,20,391a07(00):する所多し。同十六年觀智國師の夢告により三國相
0000_,20,391a08(00):承の傳書を縁山に贈る。縁山貫主南譽業譽の二師書
0000_,20,391a09(00):を寄せて之を謝す。寬永十二年淸心院に隱棲す。正
0000_,20,391a10(00):保二年六月上人傳持の冏酉二師所記の裏書五卷を縁
0000_,20,391a11(00):山に贈る。上人の住世月窓庵淸心院明閑庵深心庵文
0000_,20,391a12(00):殊庵上雲院法鏡庵創せらる。慶安三年四月十三日淸
0000_,20,391a13(00):心院に寂す。壽七十三。
0000_,20,391a14(00):○第二十九世忍譽源授上人
0000_,20,391a15(00):堪蓮社と號す。法を觀智國師に禀け。宗風を江戸天
0000_,20,391a16(00):德寺に揚く。寬永十二年十一月當山に晋み。同二十
0000_,20,391a17(00):一年江戸に赴き十一月二日皈途に於て寂す。上人の
0000_,20,391b18(00):住世智光庵光安軒福壽院自現庵寶樹軒欣淨庵源崇院
0000_,20,391b19(00):玉照院光中庵及ひ寶藏を建つ。
0000_,20,391b20(00):○第三十世眼譽呑屋上人
0000_,20,391b21(00):本蓮社と號す。甲州の人なり。尾州高岳院呑宿に就
0000_,20,391b22(00):きて剃染し光明寺傳察上人に嗣法す。業成りて後ち
0000_,20,391b23(00):高岳院に皈住し。更に相應寺を開きて敎綱を張る。
0000_,20,391b24(00):正保三年四月當山に晋董し相應院殿尾州藩祖義直侯の生母の碑を
0000_,20,391b25(00):立て其冥福を祈る。慶安四年四月家光公大猷院殿を上野
0000_,20,391b26(00):に葬るや上人徃いて納經燒香す。慶安五年尾州に退
0000_,20,391b27(00):隱し自然院を布池に剙む。世人之を名古屋黑谷とい
0000_,20,391b28(00):ふ。寬文八年四月二日寂す。壽八十二。上人の住世
0000_,20,391b29(00):公安院及ひ善性庵を創す。
0000_,20,391b30(00):○第三十一世誓譽嚴眞上人
0000_,20,391b31(00):忠蓮社と號す。三河の人州の松應寺誓岩の資なり慶
0000_,20,391b32(00):安五年七月松應寺より轉住す。承應二年天曉傳喜の
0000_,20,391b33(00):二庵を剏む承應三年伏見大阪堺の末寺を巡化し十一
0000_,20,391b34(00):月二十日寂す。
0000_,20,392a01(00):○第三十二世檀譽順應上人
0000_,20,392a02(00):栴蓮社と號す。明曆元年十二月江戸西福寺より晋董
0000_,20,392a03(00):す。同四年六月泉州興源寺某開祖眞蹟と稱して一枚
0000_,20,392a04(00):起請を京極妙心寺に開展す。然るに開祖の眞蹟は獨
0000_,20,392a05(00):り當山に藏するを以て官に抗訴す。所司代牧野佐渡
0000_,20,392a06(00):守之を聽き妙心寺の開展を禁す。興源寺某之を肯せ
0000_,20,392a07(00):す事由數條を擧けて開展を強ゆ。當山使僧を派して
0000_,20,392a08(00):之を沒收す。官もまた命して興源寺を放つ。同年伏
0000_,20,392a09(00):見大阪堺門中を巡化す。萬治三年酒井長門守北溪に
0000_,20,392a10(00):鐘樓を興す。同四年正月開祖大師第四百五十回御遠
0000_,20,392a11(00):忌を修す。其前年より四十八夜の別時を行ひ正月十
0000_,20,392a12(00):九日より都鄙の門葉集會し法要盛儀を極め緇素群參
0000_,20,392a13(00):す。寬文二年二月勅により當山大師の影像鏡御影一
0000_,20,392a14(00):枚起請其他の靈寶二十餘點を奉して參内し 後西院
0000_,20,392a15(00):天皇 後水尾法皇及ひ東福門院の叡覽に供す。同三
0000_,20,392a16(00):年熊谷堂蓮池院を再興し文殊塔を修復す。同年六月上
0000_,20,392a17(00):人福善寺の事を慨し當山を退き泉谷西壽寺に閑居。
0000_,20,392b18(00):次て帝釋寺に移り後ち安藝に下りて寬文九年四月十
0000_,20,392b19(00):日寂す。
0000_,20,392b20(00):○第三十三世廣譽順長上人
0000_,20,392b21(00):闡蓮社と號す。常州水戸の人なり。增上寺隨波上人
0000_,20,392b22(00):に就て得度し學成るの後ち小金東漸寺に住し寬文四
0000_,20,392b23(00):年正月當山に晋董す。此年開祖大師念持の三尊を大
0000_,20,392b24(00):方丈に復座し又諸堂修復勸進の爲め靈寶を展開す。
0000_,20,392b25(00):同六年伏見大阪堺の末寺を勸化し八年諸堂の修理成
0000_,20,392b26(00):を告く。同十年吉田觀音の堂舍及ひ浴室を立て十二
0000_,20,392b27(00):年大曼陀羅を製す。延寶元年十月勢至堂常念佛を開
0000_,20,392b28(00):闢し同四年同堂を再建す上人常に唱導に勉め都下盛
0000_,20,392b29(00):名の士皈投するもの多し。延寶四年十月二十三日寂
0000_,20,392b30(00):す年七十七。
0000_,20,392b31(00):○第三十四世叶譽酉村上人
0000_,20,392b32(00):心蓮社故阿見竿と號す。加州金澤の人。法を增上寺
0000_,20,392b33(00):露白上人に嗣き。初め幡隨院に住し。延寶五年正月
0000_,20,392b34(00):當山に晋む。同六年金屋氏資を投して阿彌陀堂を西
0000_,20,393a01(00):向に引く。此年岡崎村と山公事あり當山勝利に皈す
0000_,20,393a02(00):同七年伏見大阪堺門中を巡化す。同八年三月善導大
0000_,20,393a03(00):師の一千年忌を修す。同九年源崇院に閑居し貞享二
0000_,20,393a04(00):年八月二十九日寂す年七十。上人の形貌祖影に酷似
0000_,20,393a05(00):し見るもの之を異とす。曾て三門興立の志あり釋尊
0000_,20,393a06(00):の像を刻して後圖を俟つ。又才學に長し三經略解曼
0000_,20,393a07(00):荼羅鈔淨家傳書等を著はす。
0000_,20,393a08(00):○第三十五世通譽涱林上人
0000_,20,393a09(00):入蓮社源阿と號す。延寶九年正月江戸幡隨院より晋
0000_,20,393a10(00):董す。元祿元年十二月當山行者外記御室御所より法
0000_,20,393a11(00):橋を許さる。同二年稱悅法師諸人を勸化して經藏を
0000_,20,393a12(00):興す納むる所の黄檗版藏經は中島良喜の寄附する所
0000_,20,393a13(00):なり。此年奉行所に請願して山北の荒芝地を當山の
0000_,20,393a14(00):所轄とす。又曼珠院門跡良尚法親王『淨土門宗最初
0000_,20,393a15(00):處』の額を賜ふ蓋し尊應准后の勸進帳に據る者なり。
0000_,20,393a16(00):同三年十一月所司代内藤大和守を當山に葬る。同五
0000_,20,393a17(00):年大小方丈書院庫裡等を修理し六月十三日寂す。
0000_,20,393b18(00):○第三十六世薰譽寂仙上人
0000_,20,393b19(00):心蓮社桂嶽と號す。法を傳通院春岳上人に嗣き江戸
0000_,20,393b20(00):幡隨院に住す。元祿五年八月當山に晋董す。寶永四
0000_,20,393b21(00):年六月知恩院宮尊統法親王得度の敎授師となる。八
0000_,20,393b22(00):月江戸に赴くや將軍綱吉公屢召して法を殿中に説か
0000_,20,393b23(00):しむ依て下谷晴雲寺に常在し三十人扶持を賜はる。
0000_,20,393b24(00):翌年八月洛に歸り同六年正月十七日寂壽六十六。
0000_,20,393b25(00):○第三十七世重譽寫悅上人
0000_,20,393b26(00):願蓮社誠阿と號す。寶永六年三月結城弘經寺より晋
0000_,20,393b27(00):董す。享保八年十一月十八日寂。
0000_,20,393b28(00):○第三十八世到譽順敎上人
0000_,20,393b29(00):靑蓮社速開と號す。丹波酒井谷の人なり。享保八年
0000_,20,393b30(00):十二月鴻巢勝願寺より晋董。同十三年六月松平伊賀
0000_,20,393b31(00):守父祖菩提の爲め年額米百五十石を納め永世違變な
0000_,20,393b32(00):きを誓ふ。同十四年三月百萬遍其藏する所の一枚起
0000_,20,393b33(00):請を大師の眞蹟と稱して展開す。當山之を公儀に訴
0000_,20,393b34(00):へしかは所司代牧野河内守之を禁止するの事あり。
0000_,20,394a01(00):知恩院淨華院居中調停し百山をして永く之を寳庫に
0000_,20,394a02(00):秘せしむ。享保二十年十月二十日寂す。壽七十五。
0000_,20,394a03(00):○第三十九世香譽春澤上人
0000_,20,394a04(00):定蓮社普薰阿愚照と號す。享保二十年十一月瀧山大
0000_,20,394a05(00):善寺より晋董し。元文四年十一月三日寂。
0000_,20,394a06(00):○第四十世鏡譽萬龍上人
0000_,20,394a07(00):圓蓮社眞阿實性と號す。元文四年十月小金東漸寺よ
0000_,20,394a08(00):り晋董し寬保三年九月十九日寂。
0000_,20,394a09(00):○第四十一世法譽知俊上人
0000_,20,394a10(00):正蓮社源國空然と號す。讃州高松の人なり。寬保三
0000_,20,394a11(00):年十月瀧山大善寺より晋む。寬延三年四月本堂常念
0000_,20,394a12(00):佛を開闢す。同八月松平讃岐守の戒師をつとむ。寶
0000_,20,394a13(00):曆四年松林寺に退隱し翌五年八月六日寂年七十六。
0000_,20,394a14(00):其著迦才淨土論餘暉鈔七卷世に刊行せらる。
0000_,20,394a15(00):○第四十二世晃譽念潮上人
0000_,20,394a16(00):天蓮社還阿惠默と號す。寶曆四年十月瀧山大善寺よ
0000_,20,394a17(00):り晋董。同九年御影堂を修理し知恩院宮より屋根瓧
0000_,20,394b18(00):獅獅口を寄附せらる。同年十月二十日寂。
0000_,20,394b19(00):○第四十三世到譽潮音上人
0000_,20,394b20(00):還蓮社梵阿性海と號す。大阪の産なり。寶曆九年十
0000_,20,394b21(00):二月深川靈巖寺より晋董す。同十一年正月開祖圓光
0000_,20,394b22(00):大師五百五十回御遠忌を修す。安永二年源崇院に閑
0000_,20,394b23(00):居し同四年五月二十五日寂壽七十七。
0000_,20,394b24(00):○第四十四世謙譽靈忠上人
0000_,20,394b25(00):敬蓮社乘空行阿と號す。安永二年十月岩槻淨國寺よ
0000_,20,394b26(00):り晋董し同三年四月十三日寂。壽五十七。
0000_,20,394b27(00):○第四十五世神譽感靈上人
0000_,20,394b28(00):洞蓮社山阿愚痴海と號す。攝津有馬の人なり。安永
0000_,20,394b29(00):三年五月小金東漸寺より晋董す。同五年十二月二十
0000_,20,394b30(00):七日茶之間より出火し本堂方丈庫裡回祿に罹りしか
0000_,20,394b31(00):ば先つ大師の影像を大塚覺壽の宅に。尋いて阿彌陀
0000_,20,394b32(00):堂に移し。假方丈を善勝庵に置く。六年三月より諸
0000_,20,394b33(00):堂賽物を再建方に編入し洛中洛外の勸化を始む。松
0000_,20,394b34(00):平伊賀守玄米百五十俵牧野備前守金五十枚松平豐
0000_,20,395a01(00):守疊五十枚彥根藩木俣氏金二十枚上田家米三十石等
0000_,20,395a02(00):各金糓物品を致して慰問す。同年勢至堂を同八年大
0000_,20,395a03(00):阪龍興寺を別院とす。同年十月大庫裡上棟式を擧け
0000_,20,395a04(00):五重宗脉圓戒を啓建す。同九年臺所工事成り天明二
0000_,20,395a05(00):年寶藏を新築す。同三年縁山豐譽大僧正金五十兩を
0000_,20,395a06(00):寄せ以て巡行勸化費に充てしむ。天明三年十月七日
0000_,20,395a07(00):寂す年六十五。
0000_,20,395a08(00):○第四十六世覺譽靈長上人
0000_,20,395a09(00):本蓮社眞阿了性と號す。播州明石の人にして同處光
0000_,20,395a10(00):明寺俊瑞の資なり。天明四年正月結城弘經寺より晋
0000_,20,395a11(00):董す。同五年四月御影堂上棟式を擧け。寬政三年四
0000_,20,395a12(00):月大師遷座式を行ふ同五年四月小方丈を上棟し六年
0000_,20,395a13(00):御居間を改築す。同十年十月超勝院に隱棲し文化八
0000_,20,395a14(00):年七月二十七日七十九にして寂す。
0000_,20,395a15(00):○第四十七世逾譽俊海上人
0000_,20,395a16(00):深蓮社願阿性如と號す。出雲國神門郡の人。同國圓
0000_,20,395a17(00):覺寺俊徹の徒なり。寬政十年十二月小金東漸寺より
0000_,20,395b18(00):晋董。同十一年二月官命に依り境内地圖を製す。享
0000_,20,395b19(00):和二年六月大方丈上棟。十一月山内へ宗脈相傳あり。
0000_,20,395b20(00):文化元年十月二十八日寂。壽六十五。
0000_,20,395b21(00):○第四十八世禀譽戒堂上人
0000_,20,395b22(00):玅蓮社承阿紫雲と號す。文化元年十二月江戸靈山寺
0000_,20,395b23(00):より晋董し翌二年九月九日寂。壽五十八。
0000_,20,395b24(00):○第四十九世淨譽原澄上人
0000_,20,395b25(00):淸蓮社生彼國阿と號す。江州信樂の人。文化二年十
0000_,20,395b26(00):二月江戸崎大念寺より晋董。同三年十一月大方丈入
0000_,20,395b27(00):佛供養あり。同五年三月元黑谷の祖像を當山に於て
0000_,20,395b28(00):開帳す。同六年阿彌陀堂を修理す。同七年八月知恩
0000_,20,395b29(00):院宮尊超法親王得度の敎授師を勤む。同八年正月開
0000_,20,395b30(00):祖大師六百回遠忌を修す。此年土木既に竣功せるを
0000_,20,395b31(00):以て舊の如く諸堂賽物を頒布す。同十一年『白河禪
0000_,20,395b32(00):房』の額を大方丈に揭く尊超法親王の筆なり。文政
0000_,20,395b33(00):三年七月七日寂す壽六十八。上人著はす所五重本末
0000_,20,395b34(00):講義六卷紫雲山縁起及ひ縁起考等あり。
0000_,20,396a01(00):○第五十世明譽顯海上人
0000_,20,396a02(00):聖蓮社成阿佛因と號す。江州勢田の人にして山城桂
0000_,20,396a03(00):極樂寺赫譽の徒なり。文政三年十月江戸靈巖寺より
0000_,20,396a04(00):晋董す。同九年八月龜井大隅守祖先の石塔を修理す。
0000_,20,396a05(00):上人の住世門葉諸山に金入袈裟被着を許す。又林藪
0000_,20,396a06(00):を開拓して三門の興立を謀る。同十三年四月二日寂
0000_,20,396a07(00):す。壽六十二。
0000_,20,396a08(00):○第五十一世祐譽天從上人
0000_,20,396a09(00):愛蓮社幻阿周道と號す。能登處之口の人。同所法幢
0000_,20,396a10(00):寺に入りて出家す。文政十三年四月岩槻淨國寺より
0000_,20,396a11(00):晋董す。天保七年三月足立兵庫宮内父子銀三貫六百
0000_,20,396a12(00):目を献し三石六斗五升の地を購ひ御忌祠堂に充つ。
0000_,20,396a13(00):同八年十二月西翁院に退隱し九年閏四月十九日寂
0000_,20,396a14(00):す。壽六十一。
0000_,20,396a15(00):○第五十二世宣譽巨道上人
0000_,20,396a16(00):廣蓮社心阿性愚と號す。城州槇島の人知恩院寮主巨
0000_,20,396a17(00):海の資なり。天保九年二月結城弘經寺より晋董す。
0000_,20,396b18(00):同十四年境内地圖を製す。弘化二年八月十二日寂。
0000_,20,396b19(00):年五十五。
0000_,20,396b20(00):○第五十三世貫譽學善上人
0000_,20,396b21(00):法蓮社綜阿如水守拙と號す。越後の人なり。弘化三
0000_,20,396b22(00):年正月瀧山大善寺より晋董し。嘉永四年五月十日寂
0000_,20,396b23(00):す。壽四十九。
0000_,20,396b24(00):○第五十四世住譽密善上人
0000_,20,396b25(00):常蓮社順阿和光と號す。美濃赤坂の人。彥根相安寺
0000_,20,396b26(00):に得度す。嘉永四年八月結城弘經寺より晋董し。同
0000_,20,396b27(00):五年八月十四日寂。壽四十四。
0000_,20,396b28(00):○第五十五世在譽祐倫上人
0000_,20,396b29(00):常蓮社聖阿慈悲加と號す。父は有馬藩士近藤氏。八
0000_,20,396b30(00):歳にして州の善導寺祐譽に從て薙髮す。嘉永六年二
0000_,20,396b31(00):月岩槻淨國寺より晋董。安政三年七月十一日寂す。
0000_,20,396b32(00):壽五十二。
0000_,20,396b33(00):○第五十六世寥譽定圓上人
0000_,20,396b34(00):廓蓮社龍阿金龜と號す。姓は伊藤。美濃石津郡山崎
0000_,20,397a01(00):の人なり。文政三年四月州の多藝郡志津善敎寺圓珂
0000_,20,397a02(00):に就て得度す。同八年三月增上寺に掛錫し解行並び
0000_,20,397a03(00):備はりて學頭職に昇る。嘉永元年江戸崎大念寺に住
0000_,20,397a04(00):し。安政三年九月當山に晋董す。十月紫衣を賜はり
0000_,20,397a05(00):翌年正月參内す。同七年御影堂厨子須彌壇等を修理
0000_,20,397a06(00):し。萬延元年十二月三門を落慶す。又高麗門及び茶
0000_,20,397a07(00):所浴室等を建立す。同月台命により智恩院宮尊秀法
0000_,20,397a08(00):親王得度の敎授師となる。同二年正月開祖大師第六
0000_,20,397a09(00):百五十回御忌を修す。明治五年六月權少敎正。同八月
0000_,20,397a10(00):權大敎正に補せらる。十一年十一月十二日寂す。壽
0000_,20,397a11(00):七十。上人の住世維新の革命あり本末諸山ともに寺
0000_,20,397a12(00):領を公收せられ備さに困頓を極む。上人斯間に處し
0000_,20,397a13(00):て機務宜きを得て益益寺基を固ふす。
0000_,20,397a14(00):○第五十七世梁譽觀定上人
0000_,20,397a15(00):高蓮社眞阿性月と號す。美濃方縣郡黑野村に生る。
0000_,20,397a16(00):父は大野氏世世農を業とす。文政十一年三月同郡折
0000_,20,397a17(00):立超勝寺に投し棟譽上人に師事す。天保四年正月縁
0000_,20,397b18(00):山に掛錫し累進して學頭職に昇る。慶應二年四月台
0000_,20,397b19(00):命により瀧山大善寺に晋董。明治維新の時自ら獅子
0000_,20,397b20(00):吼を姓とす。明治六年一月深川靈巖寺に轉し。十二
0000_,20,397b21(00):年四月當山を董す。同十七年權大敎正に任せらる。
0000_,20,397b22(00):二十年三月宗事によりて退隱す。
0000_,20,397b23(00):○第五十八世開譽説門上人
0000_,20,397b24(00):廣蓮社要行阿淨敎と號す。姓は佐藤氏尾州海西郡艸
0000_,20,397b25(00):平村の人なり。天保五年四月上州高崎安國寺德演に
0000_,20,397b26(00):就て得度す。同八年四月縁山に掛錫し慶應二年二念
0000_,20,397b27(00):庵に住す。明治六年四月小机泉谷寺に轉住同九年四
0000_,20,397b28(00):月權少敎正に補せられ五月參河大樹寺に移る。同二
0000_,20,397b29(00):十年五月當山に晋み同年八月十二日示寂。後ち正僧
0000_,20,397b30(00):正を贈らる。
0000_,20,397b31(00):○第五十九世梁譽觀定上人
0000_,20,397b32(00):再住なり。明治二十年八月前住の寂するや一宗の公
0000_,20,397b33(00):選により再ひ當山を董す。二十七年大僧正に叙せら
0000_,20,397b34(00):る。同年日淸の戰役に一宗賑給恤兵の事を管掌す。
0000_,20,398a01(00):二十八年影堂以下の修理を行ふ。三十二年一月十日
0000_,20,398a02(00):安祥として寂す。壽八十一。
0000_,20,398a03(00):○第六十世靜譽定玄上人
0000_,20,398a04(00):寂蓮社雷阿拙默と號す。俗姓は仁井田氏弘化元年九
0000_,20,398a05(00):月常州江戸崎に生る。嘉永五年四月同所大念寺に入
0000_,20,398a06(00):り寥譽上人に師事す。安政五年縁山に掛錫し宗學を
0000_,20,398a07(00):研精すること十餘年。明治六年十一月越前西福寺に
0000_,20,398a08(00):住し。十六年少敎正に補せらる。三十二年九月一宗
0000_,20,398a09(00):の公選により當山に晋董し正僧正に叙す。四十四年
0000_,20,398a10(00):三月大僧正に進む。此年三四兩月開祖大師七百年御
0000_,20,398a11(00):忌を修す。是より先門末を督勵して淨財を募り諸堂
0000_,20,398a12(00):を莊嚴し境内の敷石を改修す。
0000_,20,398a13(00):
0000_,20,398a14(00):第三 伽藍興隆
0000_,20,398a15(00):當山は。大師御在世の時は尚ほ一の草庵にして寺院
0000_,20,398a16(00):の觀あるに非す。大師終焉に臨みても遺跡遍州の慈
0000_,20,398a17(00):訓を垂れて精舍の建立を誡めたまひしかは。信空上
0000_,20,398b18(00):人等遺誡を守り敢て舊態を改めす。第五世惠顗上人
0000_,20,398b19(00):に至り始めて堂宇を經營し往昔紫雲光明の奇瑞あり
0000_,20,398b20(00):しに因みて紫雲山金戒光明寺と號す。第十世佛立惠
0000_,20,398b21(00):照國師の時更に恢興する所ありしも應仁の蘗亂に滿
0000_,20,398b22(00):山焦土と化し爾來四十餘年空しく荒草の繁茂に委せ
0000_,20,398b23(00):り。永正年中秀馨理聖の二上人深く靈蹟の廢滅を歎
0000_,20,398b24(00):き徧く都鄙に勸めて佛殿影堂を復興す。抑抑當山の
0000_,20,398b25(00):地古來中山と稱し其北境は古の栗原にして所謂京師
0000_,20,398b26(00):五三昧塲の一なるを以て當山の興隆と共に花洛の人
0000_,20,398b27(00):士競て其墳墓を當山の境域に築きしかは。隨て衆徒
0000_,20,398b28(00):の塔頭支院を創するもの漸く多し。
0000_,20,398b29(00):永祿元年實譽眞敎金光院を現地に創む。
0000_,20,398b30(00):同四年溪譽善玉正福院を南谷に起す。後ち慶長年中現地に移す同
0000_,20,398b31(00):七年第十九世雲栖上人栖松院を建てて隱棲す常光院の南なり
0000_,20,398b32(00):元龜三年秀譽春喜今の三門の南に善勝院を開く。
0000_,20,398b33(00):天正元年專譽林勝大通寺後ち妙蓮院と改むを南谷に剏む。同二
0000_,20,398b34(00):年第二十一世法山上人善香法師と共に大師埋骨の舊
0000_,20,399a01(00):地を發見し廟塔を築く。善香其側に法泉庵を營む。
0000_,20,399a02(00):同四年光譽淸玄瑞泉院を光德院の東一譽珍西淨專院を善敎
0000_,20,399a03(00):院の東創す。
0000_,20,399a04(00):同五年法譽一岌明壽院後ち常光院と改むを現地に立つ。
0000_,20,399a05(00):同九年頓譽覺圓英春院後ち淨源院と改むを再興す一説慶長年中
0000_,20,399a06(00):同十二年光譽淸玄西翁院を現地に建つ施主藤村源兵衞
0000_,20,399a07(00):同十五年本譽誓運常往院を長安院の西開く施主井伊侯の家臣和田常閑
0000_,20,399a08(00):同十六年第二十二世道殘上人愚同院を常往院の東立つ後ち寬永
0000_,20,399a09(00):年中松平周防守之を再興して長安院と改む住持然譽宗傳なり
0000_,20,399a10(00):同十七年松譽琴察榮攝院を現地に創す施主木俣土佐守又圓譽
0000_,20,399a11(00):存悅行心院を養壽院の東に立つ。
0000_,20,399a12(00):同十九年永繼阿闍梨永運院を善敎院の東に創む。後
0000_,20,399a13(00):年妙蓮院と併合して其地に移る。
0000_,20,399a14(00):文祿元年英譽生育光德院を今の浴室の地に營む。
0000_,20,399a15(00):同二年豐公の寵姬淀君其父養源院殿菩提の爲に御影
0000_,20,399a16(00):堂を改築す。此年林譽良眞西住院を現地に創め。星
0000_,20,399a17(00):譽看貞長性院一作超勝院を西總門の南側に立つ。
0000_,20,399b18(00):慶長五年心譽等舜顯岑院を現地に興す施主白崎忠右衛門
0000_,20,399b19(00):同八年覺譽誓欣松樹軒を現地に營み。長譽臨慶空林
0000_,20,399b20(00):庵を南門の西に建つ。
0000_,20,399b21(00):同十年豐臣秀賴公阿彌陀堂を再興す京都大佛殿造營
0000_,20,399b22(00):の餘材を以てすといふ現今の佛殿是なり一説作慶長十七年
0000_,20,399b23(00):此年羽柴下總守龍光院を現地に建て開基眞譽善貞西蓮社專
0000_,20,399b24(00):譽林昌院後ち將法院と改むを御影堂の背後に立つ。
0000_,20,399b25(00):同十一年西向總門を造る願主芳譽栖久なり。
0000_,20,399b26(00):同十三年大通寺を妙蓮院と改め今の永運院の地に移
0000_,20,399b27(00):す施主宮城丹波守母
0000_,20,399b28(00):同十五年淺野但馬守の乳母兵部卿局生譽宗吟をして
0000_,20,399b29(00):超覺院を現地に創せしむ。
0000_,20,399b30(00):同十七年九月寺内火を出し御影堂方丈庫裡等燒失し
0000_,20,399b31(00):大師の影像も災に罹りしかは豐臣秀賴公即時再興の
0000_,20,399b32(00):令を下し宮城丹波守之を奉行す。翌年御影堂落成す。
0000_,20,399b33(00):東照公福島正則に命して藝州豐田郡瀨戸田光明三昧
0000_,20,399b34(00):院傳持の大師直作の像を當山に移さしむ。十八年十
0000_,20,400a01(00):月十五日入洛遷座。
0000_,20,400a02(00):此年細川遠江守養壽院を今の上雲院の地に營む開基深譽
0000_,20,400a03(00):良泉又當山奧院回向院と號すを聚樂内野に移す。
0000_,20,400a04(00):同十八年第廿六世盛林上人養親院を今の光安軒の地
0000_,20,400a05(00):に營む施主伊藤石見守
0000_,20,400a06(00):同十九年三譽古安安中院を西住院の東創す施主黑田侯の家臣伊藤半兵衛なり
0000_,20,400a07(00):元和元年唱譽善休廓庵を勢至堂前の下地に建つ。
0000_,20,400a08(00):同二年韓人心譽宗嚴西雲院を剏む。
0000_,20,400a09(00):同三年冬淺野但馬守長晟其室正淸院殿東照公の女の靈屋を影
0000_,20,400a10(00):堂の西側に營み附するに寺領百石を以てす。
0000_,20,400a11(00):同六年證譽敎興善敎院を現地に營む。
0000_,20,400a12(00):同八年宗林法師萬福寺を境内門前に建て。巖譽貞圓
0000_,20,400a13(00):南龍院を榮攝院の北に創す後ち上田侯再興して觀壽
0000_,20,400a14(00):院と改む。
0000_,20,400a15(00):同九年雲光院尼公大方丈を建て。其子神尾刑部少輔
0000_,20,400a16(00):光守院を榮攝院の背に創す。又此年於六局鐘樓堂を
0000_,20,400a17(00):造る鐘は大龍寺寶譽の勸進する所なり。又鎭守の社
0000_,20,400b18(00):殿を今の浴室の地に營み。中坊某紫雲石堂を造る。
0000_,20,400b19(00):寬永三年眞譽宗貞月窓庵を蓮池院の南に建つ。
0000_,20,400b20(00):同五年第二十八世往譽上人二條城内雲光院尼公の假
0000_,20,400b21(00):殿を移して雲光院を剏む後ち淸心院と改む。此年春
0000_,20,400b22(00):日局極樂橋を架す後ち寬永十八年豐永堅齋之を改造して石橋とす
0000_,20,400b23(00):同九年東譽(榮イ)明鑑明閑庵を法泉菴の東に。專譽念正深
0000_,20,400b24(00):心庵を南門の西端栖松院の東南隅に立つ。
0000_,20,400b25(00):同十年三重塔を現地に築き文殊庵を其傍に營む。施
0000_,20,400b26(00):主豐永宗如號堅齋なり。
0000_,20,400b27(00):同十一年雲光院尼公小方丈及び北門を造營し。松平
0000_,20,400b28(00):中務大輔大庫裡を立つ。又木下宮内少輔西向總門を
0000_,20,400b29(00):改造し。中島某大皷樓を今の經藏の地金屋某浴室を立つ。
0000_,20,400b30(00):又寶藏紫雲石不斷堂南門を造る。此年寶譽林廣上雲
0000_,20,400b31(00):院を觀壽院の後ろに創す後年現地に移す。善極法師
0000_,20,400b32(00):法鏡庵を南門の西に立つ。
0000_,20,400b33(00):同十四年西譽道心(通イ)智光庵を南門通に。法譽助光光安
0000_,20,400b34(00):軒を文殊塔の東に創す明治に至り現地に轉す。
0000_,20,401a01(00):同十五年善受法師福壽院を北門の西に。行譽春慶自
0000_,20,401a02(00):現庵を勢至堂の後に。淨譽宗源寶樹軒を後ち實相庵と改む文殊
0000_,20,401a03(00):塔の北に立つ。
0000_,20,401a04(00):同十六年順譽欣西欣淨庵を實相庵の西立つ。
0000_,20,401a05(00):同十八年二十九世忍譽上人源崇院を上岡崎に創し退
0000_,20,401a06(00):隱の地とす施主友松道半
0000_,20,401a07(00):同十九年刧譽春歷玉照院を善敎院の南創す施主狩野探幽の室
0000_,20,401a08(00):同二十年淨雲法師光中庵を南門の西に立つ。
0000_,20,401a09(00):正保元年傳譽雲了明壽院を再興して常光院と稱す施
0000_,20,401a10(00):主村上某なり。
0000_,20,401a11(00):同三年堅譽凝心公安院を現地に創し相應院殿尾張藩祖義直侯の
0000_,20,401a12(00):生母の壽像を祀る。
0000_,20,401a13(00):慶安元年宗哲法師善性庵を傳喜庵の南建つ。
0000_,20,401a14(00):承應二年澤田休英春院を再興して淨源院と改む住持諦譽
0000_,20,401a15(00):潮順の時なり又稱壽法師天曉庵を蓮池院の南雲西法師傳喜庵を天曉庵の
0000_,20,401a16(00):南立つ。
0000_,20,401a17(00):寬文三年願譽淨心高倉大納言中坊長兵衞等の資助を
0000_,20,401b18(00):得て蓮池院を再興す。永祿元年より此年に至るまで
0000_,20,401b19(00):百四年間に子院の創建せらるるもの實に塔頭三十二
0000_,20,401b20(00):格庵十八に達す。此年文殊塔を修理す。
0000_,20,401b21(00):同四年大方丈を修理す。
0000_,20,401b22(00):同五年御影堂修理。
0000_,20,401b23(00):同六年小方丈及び居間を再築す。
0000_,20,401b24(00):同七年鎭守の社殿を現地に遷す。
0000_,20,401b25(00):同八年大小庫裡書院鐘樓を修理し米藏を立つ。
0000_,20,401b26(00):同十年吉田寺闕所に付其本尊觀世音の堂舍を當山現
0000_,20,401b27(00):地に建つ。又彥坂某林昌院を再興して將法院と改む
0000_,20,401b28(00):住持長宅
0000_,20,401b29(00):此年北門外に在る當山所有の火屋法華堂龕前堂地藏
0000_,20,401b30(00):堂等を山東に移す。
0000_,20,401b31(00):延寶四年福壽院稱悅勢至堂を再興す施主金屋友西野田庄右衞門
0000_,20,401b32(00):同六年二月阿彌陀堂を西向に引く施主金屋友雪友西
0000_,20,401b33(00):同八年紫雲石堂を再興す。
0000_,20,401b34(00):元祿二年稱悅法師四方を勸進して一切經藏を現地に
0000_,20,402a01(00):大皷樓の跡也建つ。
0000_,20,402a02(00):同五年大小方丈庫裡書院居間等を修理す。
0000_,20,402a03(00):寶歷九年御影堂を修理す。
0000_,20,402a04(00):安永五年十二月二十七日御影堂大小方丈庫裡等再び
0000_,20,402a05(00):回祿に罹る。此年勢至堂を別院とす。
0000_,20,402a06(00):同八年十月大庫裡上棟。
0000_,20,402a07(00):天明二年寶藏を新築す。
0000_,20,402a08(00):同五年四月廿四日御影堂上棟式を行ふ。
0000_,20,402a09(00):同七年八月御影堂瓧葺上。
0000_,20,402a10(00):寬政三年四月御影堂落成に付大師御遷座。
0000_,20,402a11(00):同五年四月小方丈上棟。
0000_,20,402a12(00):同六年御居間改築。
0000_,20,402a13(00):同九年六月西向總門を改造す。
0000_,20,402a14(00):享和二年六月大方丈上棟式。
0000_,20,402a15(00):文化三年十一月六日大方丈入佛供養あり。
0000_,20,402a16(00):同六年阿彌陀堂修理。
0000_,20,402a17(00):同十一年林藪を開拓して石垣土手等を築き三門興立
0000_,20,402b18(00):に着手す。
0000_,20,402b19(00):文政四年大方丈前庭の唐門を改造す。
0000_,20,402b20(00):萬延元年三門落慶。此年高麗門茶所等を新造す。
0000_,20,402b21(00):今現在諸堂の大概を記さば
0000_,20,402b22(00):○高麗門 春日通正東に在り明二間半西面瓧葺也。
0000_,20,402b23(00):萬延元年寥譽上人之を建つ。始め文政年中明譽上
0000_,20,402b24(00):人三門建立の志あり石階を造り新道を拓き南に石
0000_,20,402b25(00):垣北に土手を築き柵門を立つ。後ち柵を去りて此
0000_,20,402b26(00):門を建つ。
0000_,20,402b27(00):○三門 高麗門を入ること一町御影堂庭前中階に在
0000_,20,402b28(00):り。桁行七間五分梁行四間五分二階南面瓧葺也。
0000_,20,402b29(00):文政十一年明譽上人土木を起し萬延元年寥譽上人
0000_,20,402b30(00):の時落成す。階上には本師釋迦牟尼佛文殊普賢及
0000_,20,402b31(00):ひ十六羅漢の木像を安す。樓上に揭くる『淨土眞
0000_,20,402b32(00):宗最初門』の額は 後小松天皇の宸翰。天井の蟠
0000_,20,402b33(00):龍は法橋曉園の筆なり。
0000_,20,402b34(00):○總門 又は西門といふ。高麗門の北方二十餘間内
0000_,20,403a01(00):門前町に在り。明二間 西面瓧葺也。高麗門の未
0000_,20,403a02(00):た開けさりし時は皆之より出入す故に總門といふ
0000_,20,403a03(00):現今の建物は寬政九年の改造にかかる。
0000_,20,403a04(00):○北門 境域の西北隅眞如堂に通する所にあり。明
0000_,20,403a05(00):二間北面瓧葺也。
0000_,20,403a06(00):○南門 岡崎神社より極樂橋に通する所に在り。明
0000_,20,403a07(00):一間二尺南面瓧葺なり。
0000_,20,403a08(00):○御影堂 桁行十三間梁行十二間南面瓧葺前拜桁行七間梁行二間
0000_,20,403a09(00):一尺四寸後門桁行三間梁行二間三尺五寸也。四十五世神譽上人の代安永五
0000_,20,403a10(00):年十二月回祿の後ち淨財を積み緇素を勸進し。天
0000_,20,403a11(00):明三年工を起し。同五年四月上棟。寬政三年四月
0000_,20,403a12(00):靈長上人の時落成遷座式を行ふ。
0000_,20,403a13(00):中央須彌壇上の宮殿には。宗祖大師御自作の座像
0000_,20,403a14(00):を安置す。此像は建永年中 後白河法皇の皇女如
0000_,20,403a15(00):念尼公の爲めに彫刻したまひしものにして安藝國
0000_,20,403a16(00):豐田郡瀨戸田光明三昩院に護持せり。然に慶長十
0000_,20,403a17(00):七年當堂災に罹り神僧一夜刻成の影像燒失せしか
0000_,20,403b18(00):は。東照公領主福島正則に命して之を當山に遷さ
0000_,20,403b19(00):しむ。
0000_,20,403b20(00):左右の兩壇には。善導大師の立像信空上人の座像
0000_,20,403b21(00):歷代の法主及ひ門葉信徒の日月牌。萬人講の木牌
0000_,20,403b22(00):等を安す。後堂の壁畵勢至菩薩は法眼探策の筆な
0000_,20,403b23(00):り。
0000_,20,403b24(00):○阿彌陀堂 御影堂の東南に在り。桁行八間梁行七
0000_,20,403b25(00):間半西面瓧葺敷瓧也。永正年中理聖上人再興の後。
0000_,20,403b26(00):慶長十年豐臣秀賴公京都大佛殿造營の餘材を以て
0000_,20,403b27(00):改造す是れ當山に於ける最舊の建造物なり。初め
0000_,20,403b28(00):南面なりしを延寶六年引て西面に改む。
0000_,20,403b29(00):本尊阿彌陀佛丈六の座像は惠心僧都最終の作にし
0000_,20,403b30(00):て僧都一代彫刻に用ひたまひし器具を悉く其腹中
0000_,20,403b31(00):に納めらる因て之を『乙の如來』と稱す。觀音勢
0000_,20,403b32(00):至の二脇士は後年の安置なり。脇壇には運慶作の
0000_,20,403b33(00):地藏菩薩智證大師作の不動明王及ひ法譽上人の像
0000_,20,403b34(00):を安す。後門の釋尊及ひ天井の蟠龍は專譽傳故の
0000_,20,404a01(00):畵く所。
0000_,20,404a02(00):○經藏 御影堂の前面觀音堂の西に在り。方五間重
0000_,20,404a03(00):層寶形北面瓧葺也。元祿二年稱悅法師諸方を勸進
0000_,20,404a04(00):して之を建つ。納むる所の黄檗版一切經は中島良
0000_,20,404a05(00):喜の寄進にかかり。前面には釋迦牟尼佛座像を安
0000_,20,404a06(00):置す側の傅大士は人見某の寄する所なり。
0000_,20,404a07(00):○觀音堂 阿彌陀堂の南經藏の東に在り。桁行四間
0000_,20,404a08(00):五分梁行三間西面瓧葺也。行基菩薩作の觀世音菩
0000_,20,404a09(00):薩を安置す。往時は吉田郷中近衞坂の邊に在て吉
0000_,20,404a10(00):田寺と號し吉備大臣の創立に係る。寬文八年住侶
0000_,20,404a11(00):不義の事あり官之を闕所として尊像を當山に移
0000_,20,404a12(00):す。依て寬文十年之を建つ廣譽上人の時なり。
0000_,20,404a13(00):○鐘樓 御影堂の前庭西南に在り。方二間半瓧葺也。
0000_,20,404a14(00):元和九年於六局之を建つ。懸くる所の洪鐘は大龍
0000_,20,404a15(00):寺寶譽四方を勸進して其前年之を鑄る。了的上人
0000_,20,404a16(00):の銘あり撰文は法林寺袋中上人なり
0000_,20,404a17(00):○大方丈 また講堂ともいふ。御影堂の東に在り渡
0000_,20,404b18(00):廊によりて通す。桁行十三間梁行十一間寢殿造南
0000_,20,404b19(00):面瓧葺也。安永災後の再建にして享和二年上棟式
0000_,20,404b20(00):を行ひ文化三年十一月入佛式を擧く。本尊阿彌陀
0000_,20,404b21(00):如來座像は慈覺大師の作にして開祖大師の持尊な
0000_,20,404b22(00):り。左右の脇壇には歷朝の尊牌並に德川氏の靈牌。
0000_,20,404b23(00):東照公雲光院尼公及ひ了的上人の像等を安す。
0000_,20,404b24(00):前面の額『白河禪房』は淨土門主尊超法親王の染
0000_,20,404b25(00):翰。各室金襖の鳳凰龍虎獅子は久保田米僊の畵く
0000_,20,404b26(00):ところ。楊柳の繪は今尾景年の筆なり。
0000_,20,404b27(00):前庭の唐門は文政四年の再建。其左右の灰筋塀は
0000_,20,404b28(00):智恩院門主の寄進といふ。門外に鎧掛の松あり熊
0000_,20,404b29(00):谷蓮生法師初登山の行實に關す。
0000_,20,404b30(00):○小方丈 大方丈の東に連接す。書院ともいふ。桁
0000_,20,404b31(00):行六間八分梁行六間瓧葺也。寬政五年の上棟にか
0000_,20,404b32(00):かる。各室襖の繪は山田介堂の筆にして。庭園に
0000_,20,404b33(00):鎧の池あり戀西樓觀水亭今日庵等其内に在り閑雅
0000_,20,404b34(00):幽邃實に京都有數の林泉なり。
0000_,20,405a01(00):○庫裡 小方丈の南大方丈の東南に在り。桁行十二
0000_,20,405a02(00):間梁行十一間南面瓧葺也。安永八年の建立なり。
0000_,20,405a03(00):○其他 御居間。客間。事務所。表帳塲。玄關等の建物
0000_,20,405a04(00):小方丈庫裡の中に介在す。共に文政年中の再建に
0000_,20,405a05(00):かかる中に於て御居間は法主の依止處なり佛間に
0000_,20,405a06(00):頰燒阿彌陀佛を安置す。
0000_,20,405a07(00):○極樂橋 總門通の東端玄關正面の磴道を下りし處
0000_,20,405a08(00):兜之池に架す。寬永五年春日局麟祥院殿寄進の時は木
0000_,20,405a09(00):造なりしも。同十八年豐永竪齊之を石橋に改む。
0000_,20,405a10(00):○開祖大師本廟 又勢至堂といふ極樂橋の東に在
0000_,20,405a11(00):り。方三間寶形西面瓧葺也。初め第二世信空上人
0000_,20,405a12(00):常に大師の芳骨を護持して身邊を放たさりしが。
0000_,20,405a13(00):往生の後ち此地に葬る。然に應仁の役兵馬に蹂躝
0000_,20,405a14(00):せられて其所在を知るものなし。廿一世法山上人
0000_,20,405a15(00):の時善香法師靈夢を感して此地の廟跡なるを知り
0000_,20,405a16(00):五輪を安し卵塔を築く。延寶四年金屋友竹等發起
0000_,20,405a17(00):して今の堂宇を營み本地勢至菩薩の像を塔上の厨
0000_,20,405b18(00):子に安置す。『勢至堂』の額は曼珠院門跡良尚法親
0000_,20,405b19(00):王の筆なり。今の庫裡は元の法泉庵にして安永六
0000_,20,405b20(00):年別院格とす。
0000_,20,405b21(00):○文殊塔 勢至堂の後山に在り。方二間五分三層
0000_,20,405b22(00):高五丈三尺五寸西面瓧葺也。第二十八世往譽上人の時寬永
0000_,20,405b23(00):十年豐永堅齊德川秀忠公菩提の爲に建つる所にし
0000_,20,405b24(00):て寬文三年修理を加ふ。
0000_,20,405b25(00):本尊文殊菩薩及ひ脇侍は佛師運慶の作。日本三文
0000_,20,405b26(00):殊の一と稱し。徃時中山寶幢寺足利義滿公の建立の本尊なり
0000_,20,405b27(00):しが同寺廢壞の後ち久しく民屋に在りしを移して
0000_,20,405b28(00):本尊となす。
0000_,20,405b29(00):○紫雲石 文殊塔の北一町西雲院の門内に在り。開
0000_,20,405b30(00):祖大師紫雲光明の奇瑞を感見したまひし靈蹟にし
0000_,20,405b31(00):て。石上の小堂は初め元和九年中坊長兵衞之を立
0000_,20,405b32(00):て後ち延寶八年宗信法師之を再興す。『紫雲石』の
0000_,20,405b33(00):額は照高院道晃法親王の染筆なり。
0000_,20,405b34(00):今の西雲院は元の不斷念佛堂にして。寬永十一年
0000_,20,406a01(00):雲光院尼公權大納言局及ひ宮女達の創する所。
0000_,20,406a02(00):○蓮華堂 御影堂の北に在り桁行二間梁行一間二尺
0000_,20,406a03(00):南面瓧葺也。元と羅漢堂と稱し延寶年中三門發願
0000_,20,406a04(00):の時釋尊を始め羅漢の像を刻して此に安置せしが
0000_,20,406a05(00):三門落成し其像を樓上に移すに及ひ之を門末信徒
0000_,20,406a06(00):の納骨所と定め蓮華堂と改む。
0000_,20,406a07(00):○茶所 御影堂の前庭西邊にあり桁行四間梁行三間
0000_,20,406a08(00):五分東面瓧葺也。萬延元年の建立なり。
0000_,20,406a09(00):○浴室 西門通北側にあり。桁行五間半梁行三間南
0000_,20,406a10(00):面瓧葺也。元と經藏の下金光院の前にあり後ち今
0000_,20,406a11(00):の地に移す。今の建物は萬延元年の改修なり。
0000_,20,406a12(00):○塔頭 德川氏の中世には當山塔頭三十二格庵十八
0000_,20,406a13(00):を算す。其後ち廢絶若くは合併移轉せるものあり
0000_,20,406a14(00):て現存するもの二十宇あり。即ち西總門通の南側
0000_,20,406a15(00):に上雲院光安軒善敎院淨源院。北側に超覺院西住
0000_,20,406a16(00):院(浴室)瑞泉院長安院あり。超覺西住の後ろに西
0000_,20,406a17(00):翁院永運院あり。中に於て西翁院には藤村庸軒建
0000_,20,406b18(00):つる所の淀看茶席あり。長安院には桃山城の遺物
0000_,20,406b19(00):手洗鉢石井筒を存す。又三門の東に常光院金光院あり。
0000_,20,406b20(00):兜之池の南に蓮池院あり熊谷蓮生法師止住念佛の
0000_,20,406b21(00):舊跡といふ。又勢至堂の南に松樹軒淸心院。紫雲
0000_,20,406b22(00):石の傍に西雲院あり。北門通の東側に榮攝院。西
0000_,20,406b23(00):側に顯岑院龍光院あり。
0000_,20,406b24(00):○墓地 當山の境域は元と中山と稱し。其の北境を
0000_,20,406b25(00):栗原と呼ひ本朝最古の荼毘所文武帝の時道照和尚を此地は火葬すたるを
0000_,20,406b26(00):以て古來此附近に墳墓を定むるもの多し。其荼毘
0000_,20,406b27(00):所俗に三昧場といふは元と北門の外眞如堂に通する所に在り
0000_,20,406b28(00):當山の子院之を管す。寬文十年官命により山東
0000_,20,406b29(00):文殊塔の東北に移し。明治三年之を廢す。
0000_,20,406b30(00):現今極樂橋の東より御影堂の北に至る全山は殆ん
0000_,20,406b31(00):と墓石を以て充塞せらる。中に於て貴族名家の墳
0000_,20,406b32(00):墓亦尠からす今繁を恐れて此に載せす。
0000_,20,407a01(00):第四 古文書類
0000_,20,407a02(00):一理聖上人當寺再建勸進狀(永正九年七月)
0000_,20,407a03(00):勸進沙門理聖敬白
0000_,20,407a04(00):請特扣十方檀門蒙四衆助力洛陽東山再建新黑谷金
0000_,20,407a05(00):戒光明寺專緇素結縁之狀
0000_,20,407a06(00):右靈寺者法然上人勸化之地淨土門宗最初之處也
0000_,20,407a07(00):惟彼境地者東岡遶而松桂支梢山頂見如意寺北路
0000_,20,407a08(00):高而諸木交枝鬼門峙比叡山西小屋并軒爲門外南
0000_,20,407a09(00):大虚拂雲及千里又堂前有蓮池上人自堀之北邊有閼伽井同之八功
0000_,20,407a10(00):德池水色遮眼焉寺中滋林樹七重寶樹風聲在耳矣
0000_,20,407a11(00):然而往應仁之逆亂爲灰燼及四十餘年今永正之治
0000_,20,407a12(00):世欲再興勸五畿七道而已抑彼上人者 崇德院御
0000_,20,407a13(00):宇長承二年誕生美作國久米南條稻岡北庄之人也
0000_,20,407a14(00):父久米押領使漆時國母秦氏也彌陀右脇大士大勢至菩薩反作故現
0000_,20,407a15(00):身三昧發得四代之戒師一天之師範爰十三歳時初
0000_,20,407a16(00):登叡山悟四明之奧義究三學之妙理師匠功德院肥後阿闍梨皇圓雖
0000_,20,407a17(00):然一十八歳春辭師席厭名利蟄居黑谷叡空上人座
0000_,20,407b18(00):下隨人大藏披閲一切經及五返達自他宗之章疏悟
0000_,20,407b19(00):權實義之奧旨加之法華三昧會塲白象現華嚴講讀
0000_,20,407b20(00):法席靑龍降如此奇瑞不可稱計然而諸敎修行雖法
0000_,20,407b21(00):深妙也末代機性少其得益之故上人四十三歳秋善
0000_,20,407b22(00):導和尚觀經疏一心專念彌陀名號行住座臥不問時
0000_,20,407b23(00):節久近念念不捨者是名正定之業順彼佛願故文披
0000_,20,407b24(00):覽此高判如闇得燈如渡得船忽以閣多年修練行入
0000_,20,407b25(00):一向專修門兆載永劫之悲願者不嫌惡人女人攝取
0000_,20,407b26(00):不捨之引接者不擇十惡五逆仍承安五年草創東山
0000_,20,407b27(00):靈崛興基西土化導即移叡山黑谷靈寶號新黑谷此
0000_,20,407b28(00):時九野之道俗差肩八埏之男女頎首威光月明利生
0000_,20,407b29(00):花鮮爰知此地者開淨土宗敎初門是凡夫往生元基
0000_,20,407b30(00):也熊谷直實詣此所謁上人出家發心號蓮生法師雖武勇
0000_,20,407b31(00):猛將終遂上品得生惡人徃生證跡上人勸化高德也
0000_,20,407b32(00):凡古德多雖弘通念佛一門本願深意不顯誠上人此
0000_,20,407b33(00):宗獨步者也就中爲圓頓妙戒之梵塲案置釋尊譜代
0000_,20,407b34(00):之靈寶一得永不失之戒力一念彌陀佛之本誓誰不
0000_,20,408a01(00):持之何不歸之仍勸一百萬遍念佛摺寫一人交名念
0000_,20,408a02(00):佛一反誌回向發願若爾者至尊至卑莫憚施一粒半
0000_,20,408a03(00):錢微塵不輕集之爲華岳信男信女莫泥投寸金尺木
0000_,20,408a04(00):細流無厭納之爲蓬海唯以少施之發露宜畢大廈之
0000_,20,408a05(00):成風也再興當寺精舍弘通念佛圓戒結縁之輩奉加
0000_,20,408a06(00):之族現世無比樂後生淸淨土仍勸進趣如件
0000_,20,408a07(00):永正九年七月 日
0000_,20,408a08(00):勸進沙門理聖敬白
0000_,20,408a09(00):當寺安置
0000_,20,408a10(00):本尊 阿彌陀三尊 慈覺大師御作法然上人持尊 方丈
0000_,20,408a11(00):阿彌陀如來 惠心院源信僧都彫刻像證名在之 奧院
0000_,20,408a12(00):鎭守 山王權現 稻荷大明神 氣比大明神
0000_,20,408a13(00):前天台座主准三宮尊應八十一歳 書之(花押)
0000_,20,408a14(00):一鏡之御影添狀(大永四年三月)
0000_,20,408a15(00):此尊影者法然上人御眞筆云云雖爲西光寺住持宗
0000_,20,408a16(00):壽大德相傳彼本堂爲上葺離身之間東山新黑谷金
0000_,20,408a17(00):戒光明寺賣得之畢可爲當寺永代常住物者也
0000_,20,408b18(00):大永第四三月十三日
0000_,20,408b19(00):金戒光明寺本願理聖(花押)
0000_,20,408b20(00):當寺住務沙門稱念(花押)
0000_,20,408b21(00):一當寺制法(天文十年十月)
0000_,20,408b22(00):定
0000_,20,408b23(00):金戒光明寺制法之事
0000_,20,408b24(00):一勤行不退之事法度如前前
0000_,20,408b25(00):一於口論之軰者双方共可令離寺事
0000_,20,408b26(00):一不可令客僧居住之事
0000_,20,408b27(00):一不可他宿事
0000_,20,408b28(00):一不可令女人通夜之事
0000_,20,408b29(00):一從他所之引導可停止事
0000_,20,408b30(00):一葬禮並作善等常住之外唯爲一人不可執行之事
0000_,20,408b31(00):一見物可停止之事
0000_,20,408b32(00):一出月忌等日中已前可歸寺事
0000_,20,408b33(00):一内外共可着用袈裟事
0000_,20,408b34(00):一於諸事可啓案内本寺事
0000_,20,409a01(00):右件之條條於違背之輩者爲役者早可令注進若不
0000_,20,409a02(00):然者可爲同罪者也
0000_,20,409a03(00):天文十辛丑年十月廿六日
0000_,20,409a04(00):一織田信長公下知狀(天正二年十一月)
0000_,20,409a05(00):金戒光明寺
0000_,20,409a06(00):定
0000_,20,409a07(00):一軍勢甲乙人不可陣取濫妨狼藉事
0000_,20,409a08(00):一不可伐採山林竹木事
0000_,20,409a09(00):一臨時之諸役令免除畢并靈供米不可違亂事
0000_,20,409a10(00):右條條於違背之族者速可處嚴科者也仍下知
0000_,20,409a11(00):如件
0000_,20,409a12(00):天正二年十一月 日 信長(朱印)
0000_,20,409a13(00):一織田信長公書狀(年號未詳)十一月
0000_,20,409a14(00):火筋贈給候寔寔是程見事に可有之とは不寄思事
0000_,20,409a15(00):に候自愛祝着不斜候只今下向途中之儀候間不及
0000_,20,409a16(00):是非候來春上洛之節遂面謁可申候條不具謹言
0000_,20,409a17(00):十一月二十六日 信長(黑印)
0000_,20,409b18(00):黑谷上人
0000_,20,409b19(00):一豐臣秀吉公領知朱印狀(天正十三年十一月)
0000_,20,409b20(00):城州岡崎内百五石淨土寺内貳拾五石事合百三拾
0000_,20,409b21(00):石無相違可有寺納然者可令專勤行候也
0000_,20,409b22(00):天正十三十一月二十一日 (朱印)
0000_,20,409b23(00):黑谷
0000_,20,409b24(00):一同公地子免除狀(天正十七年十二月)
0000_,20,409b25(00):當寺門前境内地子以下事令免除訖永不可有相違
0000_,20,409b26(00):候也
0000_,20,409b27(00):天正十七十二月朔日 (朱印)
0000_,20,409b28(00):一同公書狀(天正十八年歟)七月
0000_,20,409b29(00):就關東御動座帷三到來誠遠路之懇志悅思食候猶
0000_,20,409b30(00):施藥院可申候也
0000_,20,409b31(00):七月二十二日 (朱印)
0000_,20,409b32(00):黑谷
0000_,20,409b33(00):一道殘上人當寺法度(天正十七年六月)
0000_,20,409b34(00):定
0000_,20,410a01(00):金戒光明寺法度之事
0000_,20,410a02(00):一六時勤行一時も不可懈怠之事付於用所者方丈へ可得案内者也
0000_,20,410a03(00):一毎月六度之掃除不可闕如事
0000_,20,410a04(00):一初夜後門之鎻堅可指之事
0000_,20,410a05(00):一至亂行之僧者袈裟衣を取可致追放也若臨其期他
0000_,20,410a06(00):人之是非を云者彌可爲重過之事
0000_,20,410a07(00):一於口論者雙方共可離寺事
0000_,20,410a08(00):一於月忌等俗家宿不可闕勤行之事
0000_,20,410a09(00):一宗旨之威儀并老若之次第少モ不可亂之事
0000_,20,410a10(00):一作善之時者可爲酒一返之事
0000_,20,410a11(00):一謌舞吹物等遊之藝能堅可停止之事但於方丈除珍客
0000_,20,410a12(00):一施入寄進物等之事者如先法度於有司道錢は住
0000_,20,410a13(00):持衆僧以相談無相違樣ニ可有取沙汰一期錢は
0000_,20,410a14(00):其人在世之間は一錢も不可被遣命終以後可令
0000_,20,410a15(00):爲興隆之事
0000_,20,410a16(00):一住持申付儀聊不可有違背之事
0000_,20,410a17(00):右條目前法度之趣を以爲衆中相談定上者條數
0000_,20,410b18(00):之内於相背輩者本寺淨華院へ得案内急度可令
0000_,20,410b19(00):追放□不可及一言之子細者也仍如件
0000_,20,410b20(00):天正拾七曆六月廿五日 道 殘
0000_,20,410b21(00):右裏書
0000_,20,410b22(00):此法度之次第者天正十七年に淨花院與黑谷本
0000_,20,410b23(00):末相論之御公事民部卿法印度度之裁許之上當
0000_,20,410b24(00):院理運に付者則爲當住役道殘新黑谷へ令入院
0000_,20,410b25(00):畢然間先窺諸法度旨を以申定所爲後證如此
0000_,20,410b26(00):于時天正十七曆六月廿五日
0000_,20,410b27(00):前住淨花院當住金戒光明寺道殘(花押)
0000_,20,410b28(00):一道殘上人書狀(天正十八年四月)
0000_,20,410b29(00):衆中疑心之旨可有之候條及一筆候
0000_,20,410b30(00):一黑谷相承之譜之事當寺之付法末代爲相續候得
0000_,20,410b31(00):者堅認可令收定候并淨花院與當寺入魂之旨無
0000_,20,410b32(00):違背樣に可令異見候左樣候へ者向後之儀は彌彌
0000_,20,410b33(00):如在有間敷候へ者可御心易候右に如申當寺え相
0000_,20,410b34(00):移儀茂開山上人仁御報謝と存候へ者如斯候
0000_,20,411a01(00):卯月五日 道殘(花押)
0000_,20,411a02(00):衆中え
0000_,20,411a03(00):一淨華院寺官書狀(天正十八年四月)
0000_,20,411a04(00):當住道殘和尚任御異見於向後者本末并住持職之
0000_,20,411a05(00):取沙汰申出儀曾以有之間敷候此上者衆僧旦方有
0000_,20,411a06(00):相談可然住持可被相居候此般之儀者法山上人之
0000_,20,411a07(00):弟分之中道殘和尚如御異見被居候て尤候偏に祖
0000_,20,411a08(00):師上人爲御報謝ト被仰候間一筆如此候仍如件
0000_,20,411a09(00):天正十八年卯月六日 淨花院寺官
0000_,20,411a10(00):永玉(花押)
0000_,20,411a11(00):休閑(花押) 宗順(花押)
0000_,20,411a12(00):玉芳(花押) 性心(花押)
0000_,20,411a13(00):宗珍(花押) 壽信(花押)
0000_,20,411a14(00):全隆(花押)
0000_,20,411a15(00):金戒寺 衆中
0000_,20,411a16(00):一道殘上人當山縁起 (年月未詳) (本書行書體)
0000_,20,411a17(00):東山黑谷
0000_,20,411b18(00):紫雲山金戒光明寺 縁起事
0000_,20,411b19(00):抑當山者究竟一乘圓頓妙戒之正燈淸淨國土敎宗之
0000_,20,411b20(00):本源也夫明建立之濫觴爰元祖源空上人始學而攀
0000_,20,411b21(00):登于叡峯大乘妙法之蓮華開西北之谷三諦即是之
0000_,20,411b22(00):心月澄自然智之水兮爾間三春之花根者明本迹一
0000_,20,411b23(00):門之妙義一實窓前窮十界一如之淵底兮雖然深
0000_,20,411b24(00):猒名聞之權雺偏欣濟度之敎風給故二九而籠居
0000_,20,411b25(00):黑谷則慈眼房叡空上人之玉几而决台宗奧術殊者
0000_,20,411b26(00):相繼圓戒之眽譜畢而猶爲伺試諸宗宗骨法相之
0000_,20,411b27(00):藏俊三島之寬雅華嚴之慶雅等之謁于宗宗之名匠
0000_,20,411b28(00):傳於家家之秘决肆達南三北七之玄旨磨南都北
0000_,20,411b29(00):京之幽鏡兮就之彌汲於流尋於源之謂即開
0000_,20,411b30(00):靑冷之大藏經悉細覽一代諸經給事五返終畢其間
0000_,20,411b31(00):之數曆既送廿六之春秋速琢半滿之兩璞宛得事
0000_,20,411b32(00):理之一玉給以於自己之心鏡雖無曇爲濁世愚
0000_,20,411b33(00):鈍之凡衆輙有可遂成佛法哉重而高覽給頗大
0000_,20,411b34(00):唐終南山悟眞光明寺善導大師觀無量壽經之疏散善
0000_,20,412a01(00):義之文云一心專念彌陀名號行住坐臥不問時節久近
0000_,20,412a02(00):念念不捨者是名正定之業順彼佛願故矣此釋有御
0000_,20,412a03(00):覽時不覺涙浮雙眼本願易行之貴事誠如得闇
0000_,20,412a04(00):燈得渡船隨喜感歎給自其閣餘敎修學之難行
0000_,20,412a05(00):偏信淨敎弘誓之易行專勵自勸他然於本谷萬
0000_,20,412a06(00):民之勸化不自由事歎深思惟之給其唐朝之釋少
0000_,20,412a07(00):康法師於洛京白馬寺之大藏經之中莫之宇之函
0000_,20,412a08(00):見放光給今淨土往生禮讃之偈是也探得之以
0000_,20,412a09(00):來捨本宗歸依淨敎專念佛弘通發心念給先長
0000_,20,412a10(00):安城詣果願寺祈念佛機縁之地處善導大師影像
0000_,20,412a11(00):忽然化而成佛身示康曰汝欲化人者徑行新定
0000_,20,412a12(00):之郷縁在彼示畢不見于時少康猶增信敬之色
0000_,20,412a13(00):宛得本誓之驗隨敎至彼處勸念佛給歸依尤
0000_,20,412a14(00):盛也故稱名彌弘震旦兮上代既如此况乎末世之
0000_,20,412a15(00):我等何不仰佛祖之加祐乎但如何令請加靈像
0000_,20,412a16(00):案得給其眞如堂之本尊者慈覺大師渡唐之時傳短
0000_,20,412a17(00):聲之阿彌陀經歸朝之船中而吟之給時自虚空正
0000_,20,412b18(00):來現生身彌陀如來ニテ御座セバ此レニテ念佛弘通
0000_,20,412b19(00):之縁熟地祈誓申サントテ彼參籠給夢中示曰タタ賴
0000_,20,412b20(00):ヨロツノ罪ハフカクトモ我カ本願ノアランカキリ
0000_,20,412b21(00):ハト敎給難有貴涙裹法衣越當山之後給林中
0000_,20,412b22(00):有大石石上暫息洛中洛外有御覽案思如何靈地
0000_,20,412b23(00):居住普念佛弘通稱名若叶時機者一之見靈瑞給
0000_,20,412b24(00):願心中處忽從此谷聳紫雲立金色之光于
0000_,20,412b25(00):時上人靈瑞染肝感應隨喜給即居被卜此地也
0000_,20,412b26(00):然彼腰息之石見紫雲石ナレバトテ名紫雲石當
0000_,20,412b27(00):山之上從昔于今在之故山號即令任靈地之瑞
0000_,20,412b28(00):相勅而號紫雲山亦上人御誕生之時紫雲于天端
0000_,20,412b29(00):引幡二旒天降庭前之椋木覆見是權化再誕之靈瑞ナ
0000_,20,412b30(00):リトテ世言事思召出給如此歟殊者上人得一心專
0000_,20,412b31(00):念之釋自之出離必定勸他事叶佛意歟不叶哉
0000_,20,412b32(00):暫思惟給其夜之夢紫雲覆日本國其中放出無量
0000_,20,412b33(00):之光明正有御覽故左念佛弘通之心願叶佛意
0000_,20,412b34(00):之靈夢深信給以令建立精舍ナレバ用紫雲之二
0000_,20,413a01(00):字也次寺號被名金戒光明寺金者從此谷立
0000_,20,413a02(00):金色之光任瑞置金之字殊可談金剛寶戒之法
0000_,20,413a03(00):門靈塲ナレバ如此故ニ金剛寶戒章之相傳在之戒者圓頓一乘之
0000_,20,413a04(00):妙戒嫡嫡相承而傳受之處故也光明寺者此林中放光
0000_,20,413a05(00):之依奇瑞殊者大唐終南山悟眞光明寺善導和尚安
0000_,20,413a06(00):住御座弘念佛念佛之御口放光明息上化佛來現
0000_,20,413a07(00):靈驗無陰乾坤四海聞充兮肆高宗皇帝信敬殊深
0000_,20,413a08(00):而改悟眞寺勅而打光明寺額師之德號勅光明
0000_,20,413a09(00):大師則此大師御作之疏一心專念之文故建立移彼
0000_,20,413a10(00):寺號今勅而被名光明寺爰以淨宗弘敎之始惣門
0000_,20,413a11(00):之額淨土眞宗最初門云云亦叡岳黑谷之靈寶移此
0000_,20,413a12(00):地給于世云新黑谷也誠靈崛自然哉前朱雀之地
0000_,20,413a13(00):反反而平安城アリ咸陽宮花之色接兮後 玄武之山
0000_,20,413a14(00):巍巍而涅槃之岸アリ不生不滅之月澄左靑龍之池冷
0000_,20,413a15(00):冷而功德水アリ白蓮潔自薰 右白虎之岡郁郁而雙
0000_,20,413a16(00):樹林アリ七重寶樹之本疑兮尤四神相應之處天龍慈
0000_,20,413a17(00):守之露貫松葉玉地祇悲護之氣增梅花色兮肆運
0000_,20,413b18(00):步人除三毒七難身上致誠輩滿二世兩願心中
0000_,20,413b19(00):兮是天地神之感通處ナリトテ即令建立精舍企
0000_,20,413b20(00):給其曆承安五年乙未之草創也爾佛閣無程甍琢蓮社
0000_,20,413b21(00):即時檐並兮賴哉京色自然之莊嚴者第一義天之
0000_,20,413b22(00):空彩謂應化利物之西嵐者颯颯而拂煩惱之霧五劫
0000_,20,413b23(00):思惟之寒梅者芬芬而開東山之麓兮寔有由乎三
0000_,20,413b24(00):身常用之春尤有賴乎不取正覺之節頗諸法之流至
0000_,20,413b25(00):于濁瀨之岸既雖乾淨敎之智水者末流猶潤而未
0000_,20,413b26(00):竭依之五逆之枯木縁稱名之一露十惡之泥濁澄
0000_,20,413b27(00):念佛之一玉以之佛感之法幡者翻于庭上勤行之
0000_,20,413b28(00):鐘聲者響于雲中不斷香之煙昇而薰非相之空定
0000_,20,413b29(00):燈明之光者下而照黄泉之底兮濟度至時哉荒谷
0000_,20,413b30(00):忽成梵宮勸化得折本誓廣弘萬機兮故一念信
0000_,20,413b31(00):心之輩者治煩惱之病十聲稱佛之人者滅無量之
0000_,20,413b32(00):罪即得遂往生也是偏上人弘敎之悲恩ナリ自
0000_,20,413b33(00):元開山上人者雖爲安養之大士暫陰薩埵之本
0000_,20,413b34(00):質假交閻浮之凡衆給事此本高迹下之謂歟貴者
0000_,20,414a01(00):行德者法爾天然之智水湛慈悲之胸七千餘軸之寶
0000_,20,414a02(00):玉含廣長舌上兮然間本源空寂之月澄意底攝取
0000_,20,414a03(00):不捨之光顯唇端給儀寧哀迷徒爲弘本誓當
0000_,20,414a04(00):座道塲也故淨敎弘通于一天念佛廣唱于四海兮
0000_,20,414a05(00):爰以君臣貴敬之色深而結於戒師之縁給月卿雲客
0000_,20,414a06(00):歸依尤盛而都鄙之貴賤門前成市遠近之道俗寺中
0000_,20,414a07(00):塞踵兮誠於深信之人或拜來迎或感光明事
0000_,20,414a08(00):是本誓之現證也諸佛護念之驗化益既及劫末正特
0000_,20,414a09(00):留此經之金文可仰可信云云依之開山上人者久
0000_,20,414a10(00):當寺住留御座談淨土之法門製安心之决集給故
0000_,20,414a11(00):四派六流之法水皆從此谷流流出而滿四方不
0000_,20,414a12(00):勸賢聖之道俗悉入淨土之一門不敎三歳之少兒
0000_,20,414a13(00):自唱名號遂往生事偏此靈場之故也賴本願信
0000_,20,414a14(00):念佛行者專當山可爲歸依者也就中當寺靈寶
0000_,20,414a15(00):之次第深秘廣長者略之具記別卷間信心之輩者
0000_,20,414a16(00):是可有聽拜云云
0000_,20,414a17(00):殊者當寺傳法之儀他異圓頓一乘妙戒之譜一得永不
0000_,20,414b18(00):失之戒脈別而淨敎傳受之宗脈始本不二之成道之口
0000_,20,414b19(00):傳一念十念之切紙代代相傳之裏書卷物多端ナリ唯
0000_,20,414b20(00):受一人之附法ナレハ不傳之人者不審秘傳ナレハ不
0000_,20,414b21(00):書物乎爾應仁之逆亂東山悉燒破其刻當寺上人御建
0000_,20,414b22(00):立之殿堂僧房忽成灰燼經論聖敎悉令紛失徒衆
0000_,20,414b23(00):歎有餘悲無窮實有爲轉變之境盛者必衰之理觸
0000_,20,414b24(00):目是ナリ傳聞靈山之法林今荒野之庶宿タリ况乎劫
0000_,20,414b25(00):末謂邊難謂不足恨歟然殘靈寶以爲現證宗脈
0000_,20,414b26(00):之不絶以爲證範則永正九曆之秋令再興今寺
0000_,20,414b27(00):院是也雖然末法之驗者貴賤之志薄施善之便淺者
0000_,20,414b28(00):終堂塔不成如本也左不違于昔靈寶傳法于
0000_,20,414b29(00):今殘而其瑞應行行誰不貴敬當山乎悲哉正像滅
0000_,20,414b30(00):盡之故權化之舊跡衰邪侶之新門昌也悃者改失寄
0000_,20,414b31(00):進之田代勤行之僧侶少燈明之光用幽也依之宗趣
0000_,20,414b32(00):之作法皆廢上人之御掟悉背然間僧俗不分之蝙蝠之
0000_,20,414b33(00):輩巷盈可耻可耻而共末法之中餘經悉滅彌陀一敎
0000_,20,414b34(00):利物偏增之眞記有賴乎淨敎追日繁榮念佛隨時
0000_,20,415a01(00):弘通依之感奇瑞得往生人多端也欲知其源
0000_,20,415a02(00):不變色之黑谷ヨリ出ルト辨ヘテ一度參詣給自來迎
0000_,20,415a03(00):之粧可拜紫雲山之峰一禮稱名之輩者徑無明之
0000_,20,415a04(00):闇照光明寺之臺給也况哉檀越寄進之人者現受
0000_,20,415a05(00):無比之樂後生淸淨之土事無疑尤歸依可有信
0000_,20,415a06(00):敬云云
0000_,20,415a07(00):當山傳法中興然蓮社道殘源立 謹而記之
0000_,20,415a08(00):昔之縁起一亂令紛失之條傳來處之任書物
0000_,20,415a09(00):述之畢於寺建立之次第少不可有相違
0000_,20,415a10(00):於文章文字之謬者後學加慈斧
0000_,20,415a11(00):愚同沙彌道殘源立(華押)
0000_,20,415a12(00):一前田德善院書狀(年未詳)七月
0000_,20,415a13(00):當寺門徒中大佛御齋に不參候出家候者急度此方
0000_,20,415a14(00):江可被申越候惣而本寺へ出仕等之時不可
0000_,20,415a15(00):有懈怠事候若於油斷之寺者可承候恐恐
0000_,20,415a16(00):謹言
0000_,20,415a17(00):七月二十一日 德善院 玄以(華押)
0000_,20,415b18(00):黑谷金戒光明寺
0000_,20,415b19(00):一同 書狀(年未詳)五月
0000_,20,415b20(00):今度南禪寺へ爲諷經御出之由御苦身共に候爲其
0000_,20,415b21(00):以使札申候恐恐謹言
0000_,20,415b22(00):五月十八日 德善院 玄以(花押)
0000_,20,415b23(00):金戒光明寺座下
0000_,20,415b24(00):一同上竹免除折紙(慶長三年九月)
0000_,20,415b25(00):當寺境内公儀毎年上竹事自今以後御免之上者竹
0000_,20,415b26(00):木等一切不可掘採伐採縱誰誰雖爲所望不可有同
0000_,20,415b27(00):心况令估却儀於在之者可爲曲事爲修理用所時者
0000_,20,415b28(00):遂案内可被隨其者也
0000_,20,415b29(00):慶長三九月十八日 德善院 玄以(花押)
0000_,20,415b30(00):黑谷金戒光明寺
0000_,20,415b31(00):一松田勝右衞門添狀(慶長三年九月)
0000_,20,415b32(00):態申入候 仍當寺竹木之折紙請取持せ進之候慥
0000_,20,415b33(00):可有御請取候猶追而可申入候恐恐謹言
0000_,20,415b34(00):松田勝右衞門
0000_,20,416a01(00):九月廿二日 政○(花押)
0000_,20,416a02(00):黑谷
0000_,20,416a03(00):侍者中
0000_,20,416a04(00):一總門棟札(慶長十一年六月)
0000_,20,416a05(00):慶長十一歳 信心施主 德蓮社
0000_,20,416a06(00):當寺舊住僧德蓮社芳譽栖久數歳想絶(惣イ)總門忽嚫造(然イ)
0000_,20,416a07(00):資門戸新成從是轉安養去此不遠依之今門建之濫
0000_,20,416a08(00):觴者昔大聖給孤獨園寺院一百九億佛閣中大門出
0000_,20,416a09(00):入賢聖冥衆自在往還遊戯棲室(樓イ)有此門去淨土宗旨
0000_,20,416a10(00):一路堮徑又在此故證定判微塵劫隨(故イ)智滅不覺轉入
0000_,20,416a11(00):眞如門或廣開淨土門去娑婆東門入極樂西門寔以
0000_,20,416a12(00):易往出入聖自在之門自他法界一佛淨土之縁在于
0000_,20,416a13(00):此而已
0000_,20,416a14(00):六月二十七日 芳譽栖久敬白
0000_,20,416a15(00):〔札裏〕
0000_,20,416a16(00):經曰天下和順日月淸明風雨以時災厲不起以上
0000_,20,416a17(00):一傳奏勸修寺光豐廣 橋兼勝書狀(慶長十五年六月)
0000_,20,416b18(00):新黑谷琴譽上人紫衣之事從駿府依御執奏
0000_,20,416b19(00):勅許候之間則 綸旨相調遣之候委曲使者可申候
0000_,20,416b20(00):恐恐謹言
0000_,20,416b21(00):光豐
0000_,20,416b22(00):六月朔日 兼勝
0000_,20,416b23(00):板倉伊賀守殿
0000_,20,416b24(00):一後陽成天皇紫衣綸旨(慶長十五年六月 淸閑寺共房奉)
0000_,20,416b25(00):着紫衣令參 内宜奉祈 寶祚延長者依 天氣執
0000_,20,416b26(00):達如件
0000_,20,416b27(00):慶長十五年六月十六日 左少辨
0000_,20,416b28(00):新黑谷金戒光明寺琴譽上人御房
0000_,20,416b29(00):〔包紙〕
0000_,20,416b30(00):新黑谷金戒光明寺琴譽上人御房 左少辨共房
0000_,20,416b31(00):一普光觀智國師書狀(慶長十五年七月)
0000_,20,416b32(00):先日御下之時分者萬方取紛故馳走も不申背本意
0000_,20,416b33(00):候仍了的公之儀如約束差越申候其元可然樣御指
0000_,20,416b34(00):引尤に候紫衣之參内之儀も遂御披露自年寄衆伊
0000_,20,417a01(00):賀守殿へ一書を被進候御心得候御心得候而急速
0000_,20,417a02(00):に紫衣之參内有之樣に御取成尤候委細之儀者了
0000_,20,417a03(00):的に申含候間不能具候恐恐謹言
0000_,20,417a04(00):普光觀智國師
0000_,20,417a05(00):七月十二日 源譽(花押)
0000_,20,417a06(00):一德川家康公領知朱印狀 (慶長十八年九月)
0000_,20,417a07(00):當寺領城州岡崎之内百五石同淨土寺之内貳拾五
0000_,20,417a08(00):石都合百三拾石任先規全可有寺納并門前境
0000_,20,417a09(00):内山林竹木等免除不可有相違者也者守此旨佛
0000_,20,417a10(00):事勤行修造等不可怠慢之狀如件
0000_,20,417a11(00):慶長拾八年九月三日(御判)
0000_,20,417a12(00):金戒光明寺
0000_,20,417a13(00):一觀智國師書狀 (慶長十七年十一月)
0000_,20,417a14(00):猶以申入候黑谷之事兩上樣へ取成申一段之仕合
0000_,20,417a15(00):にて歸洛候次彼門徒中出仕無之仁も有之由被申
0000_,20,417a16(00):事候間急度被仰付賴入候先例も御座候間申屆候
0000_,20,417a17(00):委細者黑谷直に可被申述候已上
0000_,20,417b18(00):觀智國師
0000_,20,417b19(00):霜月十一日 源譽(花押)
0000_,20,417b20(00):增 上 寺
0000_,20,417b21(00):板倉伊賀守殿
0000_,20,417b22(00):一德川家康公御忌奉書 (慶長十九年三月)
0000_,20,417b23(00):當寺諸末寺如先規有來令出仕御忌寺役無懈怠可
0000_,20,417b24(00):相勤旨被仰出候以此旨可被相觸者也
0000_,20,417b25(00):慶長十九年 板倉伊賀守
0000_,20,417b26(00):三月廿四日 勝重(花押)
0000_,20,417b27(00):本多上野介
0000_,20,417b28(00):正純(花押)
0000_,20,417b29(00):金 地 院
0000_,20,417b30(00):崇傳(花押)
0000_,20,417b31(00):新黑谷
0000_,20,417b32(00):金戒光明寺
0000_,20,417b33(00):一寺中知行指出 (元和元年八月)
0000_,20,417b34(00):黑谷寺領指出之事
0000_,20,418a01(00):一高合四拾石參斗四升壹合壹勺 方丈分
0000_,20,418a02(00):一高合拾六石 栖松院
0000_,20,418a03(00):一高合參石七斗五升 英春院
0000_,20,418a04(00):一高合五石 淨專菴
0000_,20,418a05(00):一高合七石參斗八升六合三勺 玅蓮院
0000_,20,418a06(00):一高合六石八斗八升六合三勺 金光院
0000_,20,418a07(00):一高合五石七斗七升 明壽院
0000_,20,418a08(00):一高合八石壹斗壹升 善正院
0000_,20,418a09(00):一高合七石參斗壹升 永運院
0000_,20,418a10(00):一高合七石參斗七升四合 正福菴
0000_,20,418a11(00):一高合八石四斗參升六合 長性院
0000_,20,418a12(00):一高合八石六斗參升六合參勺 西翁院
0000_,20,418a13(00):一高合五石 瑞泉院
0000_,20,418a14(00):岡崎村にて合百五石但百石に付拾八石つつ道成
0000_,20,418a15(00):川成にて地無御座候
0000_,20,418a16(00):淨土寺村にて合貳拾五石
0000_,20,418a17(00):都合百參拾石
0000_,20,418b18(00):元和元年八月十四日 林勝
0000_,20,418b19(00):壽玄
0000_,20,418b20(00):御奉行樣
0000_,20,418b21(00):一後水尾天皇紫衣綸旨 (元和二年八月 廣橋兼賢奉)
0000_,20,418b22(00):着紫衣令 參内宜奉祈 寶祚延長者依 天氣執
0000_,20,418b23(00):達如件
0000_,20,418b24(00):元和二年八月二十二日 頭右大弁
0000_,20,418b25(00):新黑谷金戒光明寺桑譽上人御房
0000_,20,418b26(00):〔包紙〕 新黑谷金戒光明寺桑譽上人御房
0000_,20,418b27(00):頭右大弁兼賢
0000_,20,418b28(00):一觀智國師書狀 (元和二年十月)
0000_,20,418b29(00):態預飛脚候其元居住猶以紫衣之參内外聞實儀大
0000_,20,418b30(00):慶に候彌眞俗之繁昌可然候爲愚老にも都鄙之覺
0000_,20,418b31(00):不過之候來春者早早有下向公方樣へ御禮尤候殊
0000_,20,418b32(00):更息災に有之由肝要に候吾吾も一段氣相好候相
0000_,20,418b33(00):國樣之御卵塔も普請半に候下向之時分可有參詣
0000_,20,418b34(00):候萬事期後音之節候之間不能具候恐恐謹言
0000_,20,419a01(00):普光觀智國師
0000_,20,419a02(00):十月廿七日 源譽(花押)
0000_,20,419a03(00):一板倉伊賀守書狀 (元和三年七月)
0000_,20,419a04(00):尊書拜見仕候只今次目之御朱印儀御次而次第取
0000_,20,419a05(00):候て可進之候又寺領儀は先年相國樣如被仰出候
0000_,20,419a06(00):少も相違御座有間敷候間其御心得可被成候手前
0000_,20,419a07(00):取紛候間不能詳候恐惶謹言
0000_,20,419a08(00):板倉伊賀守
0000_,20,419a09(00):七月十二日 勝重(花押)
0000_,20,419a10(00):黑谷寺 御報
0000_,20,419a11(00):一德川秀忠公領知朱印狀 (元和三年七月)
0000_,20,419a12(00):當寺領山城國岡崎之内百五石同淨土寺之内二拾
0000_,20,419a13(00):五石都合百參拾石事並門前境内山林竹木等任去
0000_,20,419a14(00):慶長拾八年九月三日先判之旨不可有相違者也
0000_,20,419a15(00):元和三年七月二十一日 (御朱印)
0000_,20,419a16(00):金戒光明寺
0000_,20,419a17(00):一淺野但馬守寺領寄進狀 (元和四年四月)
0000_,20,419b18(00):令 寄進寺領之事
0000_,20,419b19(00):高百石者 但物成米納升五拾石也
0000_,20,419b20(00):右爲正淸院殿菩提永代令寄附訖年年可運
0000_,20,419b21(00):送之然者毎月忌日之吊勤行等不可有懈怠
0000_,20,419b22(00):者也仍狀如件
0000_,20,419b23(00):淺野但馬守
0000_,20,419b24(00):元和四戊午年卯月晦日 長晟(花押)
0000_,20,419b25(00):黑谷
0000_,20,419b26(00):紫雲山金戒光明寺御方丈
0000_,20,419b27(00):一了的上人鐘銘 (元和八年六月)
0000_,20,419b28(00):洛陽東山黑谷奉鑄洪鐘一輪序曰
0000_,20,419b29(00):愼惟此靈塲者眞宗本山元祖源空上人台嶺而卷舒
0000_,20,419b30(00):積年鑚仰累月智行稍闌雖然自力得度難解難入故
0000_,20,419b31(00):哀愍遐代歸伏他力頓敎退洛東洞山頭有石方坐而
0000_,20,419b32(00):思惟大隱安居地東嶂起紫雲此是證瑞終住持化導
0000_,20,419b33(00):徧日域矣爾當山昔無此樂器因玆予弘願命門派大
0000_,20,419b34(00):龍寺令勸化花洛貴賤邊鄙上下依諸人芳助二年一
0000_,20,420a01(00):迴梵鐘一時新成矣夫鐘形相者甲金輪珠寶雙龍顯
0000_,20,420a02(00):備吐裡呑虚空容受於萬衆無欠無餘矣論其德者一
0000_,20,420a03(00):聽鐘聲脱三界加之摩訶陀國鐵鐘響震三千祗園精
0000_,20,420a04(00):舍轉法光傳億州故制波旬屈伏魔外爲之三寶照見
0000_,20,420a05(00):諸天納受約今時者聞黄昏響運心於紫雲山得晨朝
0000_,20,420a06(00):音傾耳金戒光明凡聖出要豈非蒲窂一聲耶與力衆
0000_,20,420a07(00):可謂各人各鐘德傳子孫矣第一義諦聞縁共空盡聞
0000_,20,420a08(00):不住寂滅現前云云雖爾眞宗秘頥稍異古今躰用宛
0000_,20,420a09(00):然果分不可説也寔以終窮極談濟凡秘術豈以涓流
0000_,20,420a10(00):抒眼可窺之耶矣
0000_,20,420a11(00):仰冀此功資益
0000_,20,420a12(00):金輪聖王寶祚萬歳天長地久
0000_,20,420a13(00):萬乘職位不亂幕府威治塞外黎民快樂永永矣
0000_,20,420a14(00):銘曰
0000_,20,420a15(00):東山秀逸 孤嶺嵯峨 玲瓏八面 露露堂堂 諸
0000_,20,420a16(00):佛法王 光嚴住持 洪鐘高掛 晝夜應時 響徹
0000_,20,420a17(00):九天 聲震輪際 所庶幾者 日月淸明 家國安
0000_,20,420b18(00):寧 能所二和 師檀殷昌 百世萬代 克赴易行
0000_,20,420b19(00):二諦雙修 誇無極證
0000_,20,420b20(00):旹元和八壬戌歳黄鐘廿五日
0000_,20,420b21(00):願主 四條大龍寺寶譽
0000_,20,420b22(00):冶工 三條釜座近藤美濃少掾藤原宗久
0000_,20,420b23(00):近藤宗右衞門藤原吉久
0000_,20,420b24(00):洛陽紫雲山金戒光明寺中興桑譽了的叟謹書
0000_,20,420b25(00):一永喜齊書狀 (元和九年八月)
0000_,20,420b26(00):爾來不得貴意候扨法然上人之一枚起請并一休之
0000_,20,420b27(00):賛 公方樣可爲御覽候由御意に候十七日に二條
0000_,20,420b28(00):之御城へ御持參可被致候其外靈寶も御座候はは
0000_,20,420b29(00):可被懸御目候尚得貴面可申上候恐惶謹言
0000_,20,420b30(00):尚以無御失念來十七日に御登城尤に存候以上
0000_,20,420b31(00):八月十日 永喜齊(花押)
0000_,20,420b32(00):金戒光明寺
0000_,20,420b33(00):侍者御中
0000_,20,420b34(00):一板倉周防守書狀 (年未詳)十月
0000_,20,421a01(00):尊札令拜見候此御書中之趣興を口に御書可被成
0000_,20,421a02(00):候前に申渡候通增上寺并其談議所添狀次第學問
0000_,20,421a03(00):所折帋致穿鑿年老之儀無相違先年之守御法度之
0000_,20,421a04(00):旨急度可申付候併黑谷之樣子此如御狀趣從是御
0000_,20,421a05(00):書付候て從先年至今迄知恩院へ申通義無御座候
0000_,20,421a06(00):間如前前申通無之樣江戸御年寄衆へ可然樣之仰
0000_,20,421a07(00):入可給候如此心に御狀遊可給候猶面上可申達候
0000_,20,421a08(00):恐惶謹言
0000_,20,421a09(00):板倉周防守
0000_,20,421a10(00):十月廿日 重宗(花押)
0000_,20,421a11(00):金戒光明寺
0000_,20,421a12(00):貴 答
0000_,20,421a13(00):一酒井讃岐守書狀 (寬永十年十一月)
0000_,20,421a14(00):貴札之趣具致拜見候先日も被仰候貴寺御綸旨御
0000_,20,421a15(00):取次之儀重而蒙仰候各相談可仕候併私者本を不
0000_,20,421a16(00):存候間大炊頭雅樂頭へ能能可被仰達候猶期拜顏
0000_,20,421a17(00):之時候恐惶謹言
0000_,20,421b18(00):酒井讃岐守
0000_,20,421b19(00):卯月廿七日 忠勝(花押)
0000_,20,421b20(00):金戒光明寺 貴報
0000_,20,421b21(00):一酒井雅樂頭書狀 (寬永十年五月)
0000_,20,421b22(00):芳札令披見候黑谷末寺綸旨之取次未落着申候由
0000_,20,421b23(00):被仰越候趣令得其意候拙者も未御前不罷出候之
0000_,20,421b24(00):間何も其段彌可被仰入候少も御無沙汰申間敷候
0000_,20,421b25(00):恐恐謹言
0000_,20,421b26(00):酒井雅樂頭
0000_,20,421b27(00):五月九日 忠世(印)
0000_,20,421b28(00):金戒光明寺 御報
0000_,20,421b29(00):尚以來手振申候間印判を以申入候以上
0000_,20,421b30(00):一岡崎庄屋狀 (寬永十一年二月)
0000_,20,421b31(00):黑谷寺領 御朱印之指出
0000_,20,421b32(00):合百三拾石之内
0000_,20,421b33(00):一 岡崎にて百五石之内
0000_,20,421b34(00):不足之分
0000_,20,422a01(00):一 拾五石壹升五合 新道荒川成
0000_,20,422a02(00):一 貳石壹斗九升四合五勺 無主田地不足
0000_,20,422a03(00):二口合拾七石貳斗九合五勺
0000_,20,422a04(00):一 淨土寺村之内貳拾五石
0000_,20,422a05(00):合百三拾石也
0000_,20,422a06(00):寬永拾一年 岡崎庄屋
0000_,20,422a07(00):二月廿九日 忠右衞門(華押)
0000_,20,422a08(00):黑谷
0000_,20,422a09(00):御納所
0000_,20,422a10(00):一往譽上人寺内法度
0000_,20,422a11(00):掟
0000_,20,422a12(00):一勤行掃除懈怠之事
0000_,20,422a13(00):一門外白衣之事
0000_,20,422a14(00):一且那座敷借り振舞有之時分魚鳥之事
0000_,20,422a15(00):一他宿之事但待夜除之
0000_,20,422a16(00):一遊女之儀は不及申女房衆酒盛歌舞之事
0000_,20,422a17(00):右從前前雖爲法度彌以可相守者也
0000_,20,422b18(00):往 譽
0000_,20,422b19(00):一東山黑谷建塔記 (寬永十一年十月)
0000_,20,422b20(00):東山黑谷建塔記
0000_,20,422b21(00):洛陽東山黑谷者淨宗元祖源空上人之靈塲也上人
0000_,20,422b22(00):者作州稻岡人也玅齡而登台嶠悟一乘圓頓歸
0000_,20,422b23(00):彌陀本性承安五年乙未相攸洛東移台嶠黑谷
0000_,20,422b24(00):經藏靈物草創精舍世謂之新黑谷此山紫雲
0000_,20,422b25(00):常覆上人降誕之初紫雲靉靆庭樹天瑞靈應華
0000_,20,422b26(00):夷符合故山號紫雲雲中時時現金色光明故
0000_,20,422b27(00):寺號金戒光明從是專念之宗盛行遠境遐壤皆
0000_,20,422b28(00):搆道塲緇素老少齊唱六字不幸而遭應仁之騷
0000_,20,422b29(00):亂罹兵燹之餘殃堂舍佛閣爲焦土矣數十年
0000_,20,422b30(00):之間棘露霑衣永正九年佛日文耀漸尋舊趾纔
0000_,20,422b31(00):復堂舍然而悲願未遍弘通未達慶長五年前源
0000_,20,422b32(00):相國握天下權傾心此宗專修之法瀰淪而淨刹
0000_,20,422b33(00):之興倍古矣二十六世上人源蓮社往譽潮呑者宗
0000_,20,422b34(00):門之義虎也寬永三年特受後大相國之台命忝
0000_,20,423a01(00):謁龍顏視篆當寺大檀越伊丹重好與上人
0000_,20,423a02(00):有舊幸而遇於洛陽伊丹氏者多田源氏之後也
0000_,20,423a03(00):居攝州伊丹郷數十世至父秀虎壯而有志于
0000_,20,423a04(00):四方聞今川氏之作興往駿州歸今川氏爲
0000_,20,423a05(00):戰艦惣將積功累勞補大隅守今川氏國除武
0000_,20,423a06(00):田信玄見其驍勇令侍幄中秀虎不肯仕前
0000_,20,423a07(00):大相國勃興三遠都督甲駿秀虎又爲戰艦惣
0000_,20,423a08(00):將其後前大相國領東關八州秀虎年近致仕
0000_,20,423a09(00):使義嗣喜介康勝代之前大相國混一海内命
0000_,20,423a10(00):康勝考勘天下諸道刺吏椽吏之理務以庸補播
0000_,20,423a11(00):磨守後大相國受讓特命康勝與松平正次主
0000_,20,423a12(00):管軍國之出納與聞天下之政事寬永九年令大
0000_,20,423a13(00):樹受讓職掌如故翌十年增秩賜甲府城爲一
0000_,20,423a14(00):國郡代子新藏人勝興繼焉重好小字長作十一歳
0000_,20,423a15(00):而近仕前相國十二歳改仕後大相國十六歳而
0000_,20,423a16(00):從關原之役經東山道之艱險徒步扈從到大
0000_,20,423a17(00):阪以勤勞賜金銀十九歳而與小栗氏有隙
0000_,20,423b18(00):遂斬之亡命而流落薩摩顚沛豐州潜跡名
0000_,20,423b19(00):改氏豐永名宗如號堅齊因豐國主之知己居
0000_,20,423b20(00):六年而往大阪來洛陽常恨身居遠境不遇
0000_,20,423b21(00):難波之役而空素志居諸推移後大相國薨哀慟
0000_,20,423b22(00):呑聲獨歎不再拜台顏於是翻然而悟曰成就
0000_,20,423b23(00):後世之悉地欲謝當時之君恩與上人謀點
0000_,20,423b24(00):黑谷地建三重塔安後大相國位牌命緇徒
0000_,20,423b25(00):令修長日之勤行與上人往來自供香花昔
0000_,20,423b26(00):日締交今日接眉機縁純熟値遇不虚宿習之所
0000_,20,423b27(00):致乎上人勸之塔背安皇考秀虎牌號榮源院佛
0000_,20,423b28(00):譽阿徹居士母岡部氏年較八秩于今康寧爲之又
0000_,20,423b29(00):開壽藏號長壽院光譽阿蓮宗如亦逆修善所
0000_,20,423b30(00):號長昌院覺譽泰安有三男二女長曰重利
0000_,20,423b31(00):依母姓改岡部顯仕列國補木工助次淸左
0000_,20,423b32(00):衞門尉重時次金彌重長生長于洛陽有祖父之
0000_,20,423b33(00):風惟孝友于兄弟是人之謂歟
0000_,20,423b34(00):寬永十一年甲戌冬十月
0000_,20,424a01(00):尾陽路醫官法眼杏庵正意謹記
0000_,20,424a02(00):一德川家光公奉書 (寬永十二年十月)
0000_,20,424a03(00):天德寺源受儀黑谷金戒光明寺被 仰付被罷上候
0000_,20,424a04(00):黑谷住職之内紫衣 勅許候樣傳奏衆江可被申入
0000_,20,424a05(00):候恐恐謹言
0000_,20,424a06(00):寬永十二年十月四日 土井大炊頭(花押)
0000_,20,424a07(00):酒井讃岐守(花押)
0000_,20,424a08(00):板倉周防守殿
0000_,20,424a09(00):一酒井讃岐守書狀 (寬永十二年十一月)
0000_,20,424a10(00):御狀令拜見候如仰當御地長長御逗留候之處に御
0000_,20,424a11(00):訴訟之儀相濟御望之後住被仰付候儀忝思召之由
0000_,20,424a12(00):尤存候就中當月五日後住被遂參内候處に首尾能
0000_,20,424a13(00):く御座候由目出度存候誠遠路之所被入御念預示
0000_,20,424a14(00):忝存候尚期後音之節候恐惶謹言
0000_,20,424a15(00):酒井讃岐守
0000_,20,424a16(00):霜月廿日 忠勝(花押)
0000_,20,424a17(00):黑谷
0000_,20,424b18(00):御隱居 御報
0000_,20,424b19(00):一德川家光公領知朱印狀 (寬永十三年十一月)
0000_,20,424b20(00):當山領山城國岡崎之内百五石同淨土寺之内二拾
0000_,20,424b21(00):五石都合百三十石事並門前境内山林竹木等免除
0000_,20,424b22(00):任慶長十八年九月三日元和三年七月廿一日兩先
0000_,20,424b23(00):判旨彌不可有相違之狀如件。
0000_,20,424b24(00):寬永十三年十一月九日(朱印)
0000_,20,424b25(00):金戒光明寺
0000_,20,424b26(00):一堀市正書狀 (寬永十二年十一月)
0000_,20,424b27(00):御僧札致拜見候仍御寺領御朱印之儀被仰下候趣
0000_,20,424b28(00):達上聞候處無相違御代僧御朱印頂戴被仕可爲御
0000_,20,424b29(00):大慶と存候貴僧御病氣に付而無御下旨得其意存
0000_,20,424b30(00):候猶御使僧へ申達候恐惶謹言
0000_,20,424b31(00):堀 市 正(花押)
0000_,20,424b32(00):十一月九日
0000_,20,424b33(00):新黑谷
0000_,20,424b34(00):金戒光明寺 貴報
0000_,20,425a01(00):一增上寺南譽上人書狀 (寬永十六年六月)
0000_,20,425a02(00):便縁喜一書令啓上候春中御左右承候以後者音信
0000_,20,425a03(00):不通之故御堅固歟無心元存計候愚老事者當夏無
0000_,20,425a04(00):何事法門談塲一日も無懈怠成就仕候爰元へ御下
0000_,20,425a05(00):向候得かし當寺國師之如御代仕置漸漸佛法盛に
0000_,20,425a06(00):成懸申候近代法領衰微之躰笑止に思召候はん此
0000_,20,425a07(00):度報謝□□□躰に候就其當寺先年之口傳相承貴
0000_,20,425a08(00):老之御前に可有存候間哀御下向候得かし樣子承
0000_,20,425a09(00):度念願迄に候委細期其節候恐惶謹言
0000_,20,425a10(00):增 上 寺
0000_,20,425a11(00):林鐘廿五日 南譽(花押)
0000_,20,425a12(00):黑谷之閑居往譽上人
0000_,20,425a13(00):返返雲光院無事に繁昌被仕候間可有御心易
0000_,20,425a14(00):候以上
0000_,20,425a15(00):一同 上人書狀 (寬永十六年閏十一月)
0000_,20,425a16(00):今度山上檢校便宜に當寺代代就中從國師之口傳
0000_,20,425a17(00):無殘附與之壹卷慥請取申幸觀智大和尚え直授存
0000_,20,425b18(00):難有存候扨扨自他共に老筆者眼力勞候處に直書
0000_,20,425b19(00):及事當寺之報謝不徹心肝者不可有此儀候野僧も
0000_,20,425b20(00):翻鳩眼具に他人に令傳授之條可有御心易候若來
0000_,20,425b21(00):春於御下向者期其節候恐惶謹言
0000_,20,425b22(00):追而貴寺當住より念珠貳連送被下候此度禮
0000_,20,425b23(00):書を可進候得共御心得賴申候隨而當座下之
0000_,20,425b24(00):儀國師以來者修行も衰微之躰に聞候處を再
0000_,20,425b25(00):興之起志弘法無懈怠候然共末世之故及料簡
0000_,20,425b26(00):候以上
0000_,20,425b27(00):閏霜月十六日 增上寺 南譽(花押)
0000_,20,425b28(00):黑谷 閑居老
0000_,20,425b29(00):一增上寺業譽上人書狀 (正保二年十月)
0000_,20,425b30(00):便書恐入候へ共餘令無沙汰候條一書令啓上候尊
0000_,20,425b31(00):躰御勇健に被成御座候哉仍愚老夏中上洛之節は
0000_,20,425b32(00):無御隔心御別懇之至辱次第難盡筆紙候然者去五
0000_,20,425b33(00):月廿五日之尊書其後七月五日之尊書并了譽酉譽
0000_,20,425b34(00):兩師之御判形被成候重書五卷御瑞夢候に付增上
0000_,20,426a01(00):寺爲什物被爲下候誠に難有奉存候尤先年之秘傳
0000_,20,426a02(00):書に相添候て重寶に可仕候互に存命候而今一度
0000_,20,426a03(00):遂尊面度念望無他事候尚期後音之時候條不能詳
0000_,20,426a04(00):候恐惶頓首
0000_,20,426a05(00):增 上 寺
0000_,20,426a06(00):十月二日 業譽(花押)
0000_,20,426a07(00):黑谷隱居
0000_,20,426a08(00):往譽上人 御侍者中
0000_,20,426a09(00):尚尚先年之秘傳書并今度之五通之重書爲相
0000_,20,426a10(00):續被思召此方へ被下候事誠以難有奉存候將
0000_,20,426a11(00):又黑谷後住名護屋相應寺之儀尾州大納言樣
0000_,20,426a12(00):へ直に得貴意候處に少も相違無御座候其上
0000_,20,426a13(00):去七月十五日に御佛殿へ公方樣被爲成候而
0000_,20,426a14(00):無住之寺寺後住之儀申上候へ共御直に被仰
0000_,20,426a15(00):付候間七日廿三日に寺社御奉行衆迄書立上
0000_,20,426a16(00):申候然共于今不被仰付迷惑仕候其地計に而
0000_,20,426a17(00):も無之傳通院大巖寺なども于今濟不申候定
0000_,20,426b18(00):而一度に相濟可申と存候其地より之御使僧
0000_,20,426b19(00):長長在江戸笑止存候以上
0000_,20,426b20(00):一同 上人書狀 (正保二年十月)
0000_,20,426b21(00):去五日之御飛札令拜見候先以尊躰彌御安全之由
0000_,20,426b22(00):珍重令存候然者貴山後住之義無御心元由被仰越
0000_,20,426b23(00):候尤奉存候切切預尊書候へ共便書憚に存候に付
0000_,20,426b24(00):而不能尊報背本意候餘令無沙汰候條當月二日に
0000_,20,426b25(00):便書進上申候定而屆可申候先書に如申上候公方
0000_,20,426b26(00):樣去七月十五日に御佛殿へ御參詣之節御近邊へ
0000_,20,426b27(00):酒井讃岐守殿愚老兩人を被召寄無住之地數多候
0000_,20,426b28(00):條愚老内内存寄候後住之僧可申上由御直に被仰
0000_,20,426b29(00):付候條辱由御請申上候而同廿三日に貴山後住に
0000_,20,426b30(00):は名古屋相應寺呑屋老可然由書立仕候而寺社御
0000_,20,426b31(00):奉行衆へ進上申候其後も油斷不仕候へ共御事多
0000_,20,426b32(00):故歟于今不被仰付候貴寺之後住計に而も無之傳
0000_,20,426b33(00):通院大巖寺同前に御座候委細者先書に申上候條
0000_,20,426b34(00):不能審候將又夏中被爲下候卷物慥に請取申候由
0000_,20,427a01(00):是又先書に申上候尚期後音之時候恐惶頓首
0000_,20,427a02(00):增 上 寺
0000_,20,427a03(00):十月十四日 業譽(花押)
0000_,20,427a04(00):黑谷御隱居
0000_,20,427a05(00):往譽上人 尊答
0000_,20,427a06(00):猶以妙蓮院此地に永く滯留に候へ共能所に
0000_,20,427a07(00):宿被致候條心易存又は手前取紛候て御馳走
0000_,20,427a08(00):不申候處に御慇懇に被仰越忝存候將又夏中
0000_,20,427a09(00):愚老上洛之節は御別懇之至忝奉存候愚老在
0000_,20,427a10(00):命中に今一度得尊意度念願迄に候返返切切
0000_,20,427a11(00):之尊書恐悅之至候以上
0000_,20,427a12(00):一同 上人書狀 (正保三年五月)
0000_,20,427a13(00):尊墨令拜見候先以尊老御堅固に候由承太慶に存
0000_,20,427a14(00):候仍其地當住先月廿一日に入院被成今月朔日に
0000_,20,427a15(00):參内相濟候由珍重存候此地に而も首尾能御目見
0000_,20,427a16(00):相濟萬端殘所無之如御本望相調候而可爲御滿足
0000_,20,427a17(00):與存候愚老茂太慶に存候彌尊老被加御異見寺家
0000_,20,427b18(00):末寺萬事違却無之樣に奉賴候猶期後音之節候恐
0000_,20,427b19(00):惶謹言
0000_,20,427b20(00):增 上 寺
0000_,20,427b21(00):五月八日 業譽(花押)
0000_,20,427b22(00):黑谷御隱居
0000_,20,427b23(00):往譽上人 尊答
0000_,20,427b24(00):猶以妙蓮院永永此地に逗留候得共雲光院被
0000_,20,427b25(00):居候而宿結構に御座候條懇志茂不仕候處に
0000_,20,427b26(00):御慇懃に被仰越候還而無面目存候將又如尊
0000_,20,427b27(00):書去年今程者在京仕節節得尊意種種種種御
0000_,20,427b28(00):親切之御馳走之儀共存出し御床敷存候哀今
0000_,20,427b29(00):度遂向顏度念望迄に候將又雲光院彌繁榮に
0000_,20,427b30(00):御座候條御心安可被思召候以上
0000_,20,427b31(00):一同 上人書狀
0000_,20,427b32(00):以傳老迄去る卯月十五日之尊書令拜見驚入文庫
0000_,20,427b33(00):尋候得者如尊意傳脉之一卷御座候寔成闇夜得燈
0000_,20,427b34(00):之思令拜見忝存候即傳於後代自家之珍財不可過
0000_,20,428a01(00):之候此上猶深意候者以老婆心被仰下候者彌以可
0000_,20,428a02(00):忝存候今程不得手透候而具に不令拜見候儘後日
0000_,20,428a03(00):に令拜見不得心儀候者自是可申上候間具に被仰
0000_,20,428a04(00):下可給候願佛祖以冥感令直傳度念望海山に存候
0000_,20,428a05(00):猶期後音之時候恐惶敬白
0000_,20,428a06(00):增 上 寺
0000_,20,428a07(00):五月十四日 業譽(花押)
0000_,20,428a08(00):往譽上人 御禪室
0000_,20,428a09(00):一吉田寺濫觴記 (寬文元年冬)
0000_,20,428a10(00):洛東中山吉田寺濫觴記
0000_,20,428a11(00):夫當寺は人皇第四十五代のみかど 聖武天皇の
0000_,20,428a12(00):御宇天平年中に吉備大臣基をひらき給へり大臣
0000_,20,428a13(00):むかし在唐の日たまたま靈材をかんとくしてお
0000_,20,428a14(00):もへらくねがはくは持還りて千手の像をつくり
0000_,20,428a15(00):とり營搆して群生の福をゆたかにせんと遂に彼
0000_,20,428a16(00):木を大洋にうかへてちかつていはく我願もしむ
0000_,20,428a17(00):なしからずば此木ただちに本國に至らんといひ
0000_,20,428b18(00):をはりて浮査裔裔として波にしたがつて東しぬ
0000_,20,428b19(00):歸朝の後果して難波の浦におゐて是を得たり大
0000_,20,428b20(00):臣喜感肝に銘してすなはち行基菩薩とともに像
0000_,20,428b21(00):の事をはかり給ふ菩薩手つから彫刻し給へば大
0000_,20,428b22(00):悲の容たまの如くになれり大臣大によろこんで
0000_,20,428b23(00):奏し請てみことのりをうけ彼を今の洛東吉田の
0000_,20,428b24(00):さかひ中山に相て一宇の淨刹をしめし吉田寺觀
0000_,20,428b25(00):音院と號して彼像を安置し給ふ是に依て 勅願
0000_,20,428b26(00):の寺になずらふまことに所以あり大臣髮を剪て
0000_,20,428b27(00):鏡にそへ石塔の中に納めて寺鎭とす然則靈域玉
0000_,20,428b28(00):の如くに曜ひて補陀落の月はしめて此山に光り
0000_,20,428b29(00):僧院棊の如くに布て祗陀園の風ふたたび我寺に
0000_,20,428b30(00):あふく爾しよりこのかた利生日日にあらたに靈
0000_,20,428b31(00):驗月月に盛なり遠近あゆみをはこび道俗肩を摩
0000_,20,428b32(00):す曆應の頃征夷大將軍源尊氏公此地の靈此尊の
0000_,20,428b33(00):異ある事を聞てそこばくの莊園を寄附してなが
0000_,20,428b34(00):く家門の護持を托せらるしかりと雖も星うつり
0000_,20,429a01(00):物かはりて堂舍荒凉す且又應仁の兵亂にこと
0000_,20,429a02(00):ことく堂宇をこほち永正の盛時にやや柱石をた
0000_,20,429a03(00):つ然も經營いまだをはらさりし故に大永のとし
0000_,20,429a04(00):沙門聖見隆興のこころざしをたて化縁の手をの
0000_,20,429a05(00):へてあまねく十方につのり一塵嶽をたかふし一
0000_,20,429a06(00):滴海をふかふするわざをなせり爾の後亦歳月を
0000_,20,429a07(00):積みて堂宇磨滅しぬわつかに大悲堂のみ殘れり
0000_,20,429a08(00):と雖もむな木朽いりくたけて上漏り下濕ふ兩慈
0000_,20,429a09(00):眼にそそげば聖者も亦かなしみの涙をたれたま
0000_,20,429a10(00):ふに似たり靈像頭を侵せは菩薩たちまちに老の
0000_,20,429a11(00):すがたに變せるかとあやしまる正保三年の頃
0000_,20,429a12(00):今上いまだ親王にておはしませし時御立願の事
0000_,20,429a13(00):ありて佛德をあふき給はんか爲めに當堂御再興
0000_,20,429a14(00):あり是佛力のかんする所御信心の應する所也豈
0000_,20,429a15(00):天下國家の幸にあらすや伏以 帝道彌さかんに
0000_,20,429a16(00):佛日常にかかやき萬民業をたのしみ四海長久な
0000_,20,429a17(00):らんこと疑あるへからさる者なり古記をかんが
0000_,20,429b18(00):へ同書を拾ふて記する所大概かくの如し
0000_,20,429b19(00):右一卷寬文元年冬依當住由仙所望書寫之訖
0000_,20,429b20(00):内 大 臣(久我内大臣源廣通公)
0000_,20,429b21(00):一德川家綱公領知朱印狀 (寬文五年七月)
0000_,20,429b22(00):當山領山城國愛宕郡岡崎村之内百五石淨土寺村
0000_,20,429b23(00):之内二拾五石事並門前境内山林竹木諸役免除任
0000_,20,429b24(00):慶長十八年九月三日元和三年七月廿一日寬永十
0000_,20,429b25(00):三年十一月九日先判旨進上永不可有相違者也仍
0000_,20,429b26(00):而如件
0000_,20,429b27(00):寬文五年七月十一日(御朱印)
0000_,20,429b28(00):金戒光明寺
0000_,20,429b29(00):一當山役者預狀 (寬文九年十一月)
0000_,20,429b30(00):覺
0000_,20,429b31(00):一觀音假屋四間五間立具共ニ
0000_,20,429b32(00):一材木三十八本内三十一本平七本
0000_,20,429b33(00):一古材木古竹少古瓧居石三十五
0000_,20,429b34(00):右者岡崎村吉田寺觀音並佛像等諸道具黑谷え御
0000_,20,430a01(00):預ケ被成候ニ付爲御給使桂庄兵衞服部又右衞門
0000_,20,430a02(00):殿松井三郞右衞門殿御出岡崎村庄屋年寄立合改
0000_,20,430a03(00):右之品品預置申候處實正也仍如件
0000_,20,430a04(00):酉十一月七日 役者 淨 源 院
0000_,20,430a05(00):常 光 院
0000_,20,430a06(00):御奉行樣
0000_,20,430a07(00):一廣譽上人預狀 (寬永九年十一月)
0000_,20,430a08(00):岡崎村吉田寺御闕所ニ付觀音尊像並佛像目祿慥
0000_,20,430a09(00):預申處實正也爲其如斯御座候
0000_,20,430a10(00):黑谷金戒光明寺
0000_,20,430a11(00):寬文九年十一月七日 廣譽
0000_,20,430a12(00):雨宮對馬守樣
0000_,20,430a13(00):一德川綱吉公領知朱印狀 (貞享二年六月)
0000_,20,430a14(00):當寺領山城國愛宕郡岡崎村之内百石四斗七舛淨
0000_,20,430a15(00):土寺村之内貳拾五石田中村之内四石五斗貳舛餘
0000_,20,430a16(00):都合百三十石内四石五斗二升餘先規於岡崎村之内雖令收納田中村改替事并門前境
0000_,20,430a17(00):内山林竹木諸役等免除任慶長十八年九月三日元
0000_,20,430b18(00):和三年七月二十一日寬永十三年十一月九日寬文
0000_,20,430b19(00):五年七月十一日先判之旨令收納永不可有相違者
0000_,20,430b20(00):也仍如件
0000_,20,430b21(00):貞享二年六月十一日(御朱印)
0000_,20,430b22(00):金戒光明寺
0000_,20,430b23(00):○寺領朱印狀ハ前揭ノ外德川吉宗家重家治家齊
0000_,20,430b24(00):家慶家定家茂諸公ノ分アリト雖モ之ヲ略ス
0000_,20,430b25(00):一當山通譽上人願書 (元祿二年四月)
0000_,20,430b26(00):黑谷山北續に荒芝之地御座候則繪圖仕申上候口
0000_,20,430b27(00):上之覺
0000_,20,430b28(00):一此芝之内に元火屋之跡御座候其より東に從前
0000_,20,430b29(00):前黑谷檀方之墓共少少有之候處近年は何方共
0000_,20,430b30(00):不知無斷むさと土葬多仕候此土葬如何樣之者
0000_,20,430b31(00):に而可有之哉氣遣奉存候御事
0000_,20,430b32(00):一此芝原に萬日之回向度度相勤申候處近年之通
0000_,20,430b33(00):猥に墓土葬仕候得者重而回向可仕塲所無御座
0000_,20,430b34(00):迷惑に奉存候御事
0000_,20,431a01(00):一右回向塲之近所無常堀與申候而從古來人畜之
0000_,20,431a02(00):死骸捨申處御座候唯今は無斷捨申に付以來如
0000_,20,431a03(00):何樣成者捨可申哉と無心元奉存候御事
0000_,20,431a04(00):右之荒地無心元儀共數多御座候間從黑谷進退
0000_,20,431a05(00):仕候樣に乍恐被爲仰付被下候はは忝可奉存候
0000_,20,431a06(00):以上
0000_,20,431a07(00):黑谷金戒光明寺
0000_,20,431a08(00):元祿貳己巳年四月十四日 通譽(印)
0000_,20,431a09(00):同役者
0000_,20,431a10(00):常 光 院
0000_,20,431a11(00):雲良(印)
0000_,20,431a12(00):同
0000_,20,431a13(00):榮 攝 院
0000_,20,431a14(00):琴達(印)
0000_,20,431a15(00):御奉行所
0000_,20,431a16(00):一小堀仁右衞門 狀
0000_,20,431a17(00):山城國愛宕郡之内千本廻高辻目錄
0000_,20,431b18(00):一高七石五斗九升五合 山城國愛宕郡 千本廻
0000_,20,431b19(00):内貳斗九升三合壹勺 物成詰込高
0000_,20,431b20(00):子年高五ツ壹分五厘
0000_,20,431b21(00):亥年高五ツ貳分五厘
0000_,20,431b22(00):戍年高五ツ五分
0000_,20,431b23(00):酉年高五ツ三分
0000_,20,431b24(00):申年高五ツ五分
0000_,20,431b25(00):右者御寺領之内御用地相渡り候代知並込高郷村
0000_,20,431b26(00):高辻如斯候以上
0000_,20,431b27(00):寶永六年丑八月 小堀仁右衞門(印)
0000_,20,431b28(00):黑谷
0000_,20,431b29(00):金戒光明寺
0000_,20,431b30(00):一松平伊賀守米糓寄進狀 享保十三年六月
0000_,20,431b31(00):令寄附米糓之事
0000_,20,431b32(00):高百五拾石者 但四ツ物成現米六拾石也
0000_,20,431b33(00):右者善德院前伊賀守忠山普光院前伊賀守存秀歡喜院
0000_,20,431b34(00):前伊賀守圓心光壽院貞松并深光院宗恩爲佛供料歡
0000_,20,432a01(00):喜院前伊質守存生之日令進附之終焉之時猶被
0000_,20,432a02(00):及其事候因玆隨遺言到後孫迄代代無違變
0000_,20,432a03(00):令寄附候於然者日日進齋膳年年勤祥忌無荒
0000_,20,432a04(00):怠當于年忌佛事者靈供法會讀經追福不可有怠
0000_,20,432a05(00):慢仍後證如件
0000_,20,432a06(00):享保十三年戊申六月 橫 田 地 主 水
0000_,20,432a07(00):久 松 主 馬
0000_,20,432a08(00):岡 部 九郞兵衞
0000_,20,432a09(00):洛東紫雲山
0000_,20,432a10(00):金戒光明寺方丈
0000_,20,432a11(00):〔同裏書〕
0000_,20,432a12(00):表書之寄附米高百五拾石之事當家代代至子孫相違
0000_,20,432a13(00):有之間舖者也
0000_,20,432a14(00):松 平 伊 賀 守
0000_,20,432a15(00):一本堂上棟細見圖 天明五年四月
0000_,20,432a16(00):黑谷 本堂 御上棟細見圖 天明五乙巳年四月二十四日巳刻 同日音樂 大工棟梁 三輪兵庫河合宗兵衞 西木修理三輪九郞兵衞 木挽棟梁甲賀權兵衞 大工世詁方木村平兵衞 同井上淸兵衞 手傳頭三文字歷與兵衞 同惣肝煎忰善次郞
0000_,20,432b17(00):導師方丈大和尚其外衆僧數多にて御經終り音樂あ
0000_,20,432b18(00):り其後大工の棟梁神酒の式あり又柱元の役は洗
0000_,20,432b19(00):米を捧く次に幣振の役玉女神に奉幣して神拜をな
0000_,20,432b20(00):す扨又聲かけの役は千歳萬歳永永打の槌をあはす
0000_,20,432b21(00):此相圖に縁道の鈴をならす其後淸鉋の式ありて棟
0000_,20,432b22(00):上の餠を蒔く上棟の式は木のたくみの家に秘する
0000_,20,432b23(00):所とかや今は繪圖を略す
0000_,20,432b24(00):一俵藤太秀郷畵軸來由
0000_,20,432b25(00):上野州佐野辛澤山城主佐野小太郞宗綱同蒲生氏郷
0000_,20,432b26(00):爲俵藤秀郷後裔天正十二年十二月戰死無子女子
0000_,20,432b27(00):二人皆適他及議家督舊臣悉奉盟書於北條氏政
0000_,20,432b28(00):乞其弟氏忠以欲爲嗣當斯之時宗綱伯父入道
0000_,20,432b29(00):號了伯住持佐野天德寺了伯一人欲乞佐竹氏
0000_,20,432b30(00):群議不决時竊聞有欲害了伯之企而出奔寄寓
0000_,20,432b31(00):洛東黑谷寺主法山大和尚欵待友善天正十八年豐太
0000_,20,432b32(00):閤討北條氏聞了伯諳相州地理召爲郷導又聽
0000_,20,432b33(00):其所以淪落且憐且怒既而北條氏亡豐公又頒付軍
0000_,20,433a01(00):於了伯以攻佐野城城陷氏忠自盡家臣奔潰遂復佐
0000_,20,433a02(00):野城於是豐公命而具髮欲令食舊領了伯固辭
0000_,20,433a03(00):因使佐竹某繼佐野家云後有數歳寄附先祖藤太
0000_,20,433a04(00):秀郷射殪蜈蚣之圖三軸於黑谷聊以酬疇昔之恩
0000_,20,433a05(00):誼也
0000_,20,433a06(00):右三軸筆者土佐光信外題守信也
0000_,20,433a07(00):本山黑谷 幹事誌
0000_,20,433a08(00):
0000_,20,433a09(00):第五 靈寳什器
0000_,20,433a10(00):○佛像肖像
0000_,20,433a11(00):一阿彌陀佛座像 大方丈本尊 木製丈三尺 慈覺大師作 一軀
0000_,20,433a12(00):一彌陀三尊立像 同中尊二尺四寸脇士一尺七寸 同作傳後白河法皇所賜 三軀
0000_,20,433a13(00):一阿彌陀佛座像 同壹尺七寸 作者未詳 一軀
0000_,20,433a14(00):一頰燒彌陀佛立像 同壹尺七寸 同 一軀
0000_,20,433a15(00):一阿彌陀佛立像 枕之本尊 同二寸五分 開祖大師念持佛 一軀
0000_,20,433a16(00):一阿彌陀佛立像 堅田千體佛 同 惠心僧都作 一軀
0000_,20,433a17(00):一釋迦佛座像 經藏本尊 同二尺五寸 作者不詳 一軀
0000_,20,433b18(00):一同 三門本尊 同三尺 同 一軀
0000_,20,433b19(00):一阿彌陀佛座像 銅製六尺 和田氏國作 一軀
0000_,20,433b20(00):一同 同七尺三寸 信濃大掾國次作 一軀
0000_,20,433b21(00):一同 同八尺 作者不詳 一軀
0000_,20,433b22(00):一同 同七尺六寸 筑後大掾常味作 一軀
0000_,20,433b23(00):一文殊普賢座像 三門脇土 木製二尺 作者未詳 一軀
0000_,20,433b24(00):一十六羅漢座像 同 同二尺五寸 同 一軀
0000_,20,433b25(00):一文殊菩薩座像 三重塔本尊 同二尺五寸 運慶作 一軀
0000_,20,433b26(00):一無盡意菩薩立像 同脇士 同四尺八寸 同 一軀
0000_,20,433b27(00):一須菩提尊者立像 同 同四尺五寸 同 一軀
0000_,20,433b28(00):一那羅延天立像 同 同五尺 同 一軀
0000_,20,433b29(00):一善財童子立像 同 同三尺 同 一軀
0000_,20,433b30(00):一地藏菩薩立像 同六尺 同 一軀
0000_,20,433b31(00):一不動明王立像 同二尺五寸 智證大師作 一軀
0000_,20,433b32(00):一信空上人座像 同二尺八寸 作者未詳 一軀
0000_,20,433b33(00):一了的上人座像 同二尺 同 一軀
0000_,20,433b34(00):一潮呑上人座像 同二尺 同 一軀
0000_,20,434a01(00):○佛畫圖畫
0000_,20,434a02(00):一山越彌陀三尊圖國寶 絹本着色 三尺三寸一尺三寸九分 惠心僧都筆 一幅
0000_,20,434a03(00):屏風三枚折一彌陀三尊圖 絹本着色 三尺八寸一尺四寸五分 同 一幅
0000_,20,434a04(00):一阿彌陀立像圖 絹本着色 三尺二尺五寸 同 一幅
0000_,20,434a05(00):一釋迦三聖圖 絹本着色 三尺七寸一尺三寸五分 兆殿司筆 一幅
0000_,20,434a06(00):一釋迦墨畵 絹本着色 二尺七寸一尺一寸 張思恭筆 一幅
0000_,20,434a07(00):一釋尊並十六善神圖 絹本着色 三尺六寸一尺五寸 張思恭筆 一幅
0000_,20,434a08(00):一釋迦三聖左右十六善神圖 絹本着色 三尺二寸三分一尺三寸 張思恭筆 三幅
0000_,20,434a09(00):一繡大涅槃像 絹本着色 竪二間三尺一寸五分橫一間五尺四寸 下繪狩野求馬繡師秀山有欵 一幅
0000_,20,434a10(00):一地藏菩薩圖 絹本着色 二尺九寸二尺七寸五分 金岡筆 一幅
0000_,20,434a11(00):一出海文殊圖 絹本着色 五尺一寸二尺九寸 唐畵 一幅
0000_,20,434a12(00):一文殊圖像左右松龍柏龍 絹本着色 五尺五寸二尺四寸 狩野探信筆 一幅
0000_,20,434a13(00):一蒲衣文殊圖 紙本着色 二尺五寸一尺五寸 雪磵筆 一幅
0000_,20,434a14(00):一文殊普賢對圖 絹本着色 二尺七寸一尺一寸 安民筆 一幅
0000_,20,434a15(00):一千躰地藏彩畵 絹本着色 五尺三寸一尺三寸五分 小野篁筆 一幅
0000_,20,434a16(00):一不動明王圖 絹本着色 二尺七寸一尺二寸三分 智證大師筆 一幅
0000_,20,434a17(00):一十六羅漢圖 絹本着色 三尺五寸一尺三寸三分 金岡筆 一幅
0000_,20,434b18(00):一五百羅漢圖 絹本着色 三尺四寸一尺三寸 唐畵 一幅
0000_,20,434b19(00):一地獄極樂圖 絹本着色 二幅
0000_,20,434b20(00):同左右一同 絹本着色 三尺五寸一尺三寸 明寧雲鵬筆 一幅
0000_,20,434b21(00):一十三佛彩畵 絹本着色 三尺八寸一尺四寸 宋畵 一幅
0000_,20,434b22(00):一二十五菩薩變相曼荼羅 絹本着色 四尺八寸五 尺 唐畵 一幅
0000_,20,434b23(00):一二十五菩薩曼荼羅 絹本着色 八尺一尺八寸 唐畵 一幅
0000_,20,434b24(00):一善導曼荼羅圖 絹本着色 二尺二寸一尺二分 和光同密善筆 一幅
0000_,20,434b25(00):一三寶荒神圖 絹本着色 二尺八寸五分一尺一寸五分 秀海筆 一幅
0000_,20,434b26(00):一善導大師圖像 絹本着色 二尺一寸二分二尺二寸 作者未詳 一幅
0000_,20,434b27(00):一圓光大師鏡御影 絹本着色 三尺七寸二尺七寸 御自筆 一幅
0000_,20,434b28(00):一圓光大師御影 絹本着色 一尺三寸一尺五寸 一幅
0000_,20,434b29(00):一圓光大師御影 絹本着色 二尺四寸一尺二寸 聖光上人筆 一幅
0000_,20,434b30(00):一中興理聖上人圖 絹本着色 二尺三寸一尺四寸五分 筆者未詳 一幅
0000_,20,434b31(00):一俵藤太繪卷物三卷 紙本着色 一尺八寸紙數十四枚 土佐光信筆 一幅
0000_,20,434b32(00):一秀吉公圖像 絹本着色 二尺三寸三分一尺七寸八分 小野お通筆 一幅
0000_,20,434b33(00):一東照公圖像 絹本着色 印籠形厨子入身長五寸 一幅
0000_,20,434b34(00):一同 絹本着色 三尺七寸一尺八寸 筆者不詳 一幅
0000_,20,435a01(00):一台德公圖像 紙本着色 四寸一尺八寸 大猷公筆 一幅
0000_,20,435a02(00):一熊谷蓮生圖 絹本着色 四尺一寸五分一尺七寸 自筆 一幅
0000_,20,435a03(00):一同 同 三尺七寸一尺八寸七分 探幽筆 一幅
0000_,20,435a04(00):一熊谷初登山圖 絹本着色 三尺七寸一尺五寸 探幽筆 一幅
0000_,20,435a05(00):一雲光院光守院有識圖 土佐光起筆德大寺光月賛 三尺六寸 一幅
0000_,20,435a06(00):一渡唐天神圖 紙本墨畵 二尺九寸一尺七寸 近衛三藐院筆 一幅
0000_,20,435a07(00):○舍利塔
0000_,20,435a08(00):一佛舍利塔 上部水晶 下部大理石 一尺八寸量二貫八百目
0000_,20,435a09(00):一筒形舍利塔 高八寸八分徑三寸五分 納大師荼毘灰及舍利焉
0000_,20,435a10(00):一舍利寶塔 木製 高四尺幅一尺四寸
0000_,20,435a11(00):一圓光大師御骨函 納御骨
0000_,20,435a12(00):○眞蹟古書
0000_,20,435a13(00):一寶號 紙本 後陽成帝宸翰 一軸
0000_,20,435a14(00):一同 同 同 一軸
0000_,20,435a15(00):一同 同 後水尾帝宸翰 一軸
0000_,20,435a16(00):一淨土三部經 紙本絹裝 四軸
0000_,20,435a17(00):一法華經 紺紙金泥 高松宮好仁親王御息所筆 八軸
0000_,20,435b18(00):一一枚起請文 紙本竪八寸橫一尺二寸八分 圓光大師筆勢觀房奧書 一軸
0000_,20,435b19(00):外題 後柏原天皇宸翰
0000_,20,435b20(00):一同賛 紙本一尺一寸一尺五寸 一休禪師筆 一軸
0000_,20,435b21(00):一開祖大師御消息
0000_,20,435b22(00):一同 添翰 紙本九寸四分二尺八寸 獨湛筆
0000_,20,435b23(00):一抄物草稿 安樂房筆 紙本
0000_,20,435b24(00):一御和歌 紙本一尺二寸三尺一寸 後陽成帝宸翰
0000_,20,435b25(00):一黑谷勸進帳 紙本 尊應法親王筆
0000_,20,435b26(00):一光明遍照文 紙本 尊圓親王筆
0000_,20,435b27(00):一紫雲山詩 絹本 尊峰法親王筆
0000_,20,435b28(00):一白河禪房額面 紙本一尺九寸五尺九寸 尊超法親王筆
0000_,20,435b29(00):一制狀 織田信長公 天正二年十一月
0000_,20,435b30(00):一火筋謝狀 絹本一尺九寸一尺七寸 織田信長筆
0000_,20,435b31(00):一吉田寺縁起 沙門聖見筆 紙本大永三年九寸
0000_,20,435b32(00):一黑谷紫雲縁起 中興道殘上人筆 紙本九寸
0000_,20,435b33(00):一吉田寺觀音縁起 久我内大臣廣通筆 紙本
0000_,20,435b34(00):一白河禪房縁起 從一位亞相重綱筆 二尺一尺三寸
0000_,20,436a01(00):一御忌奉書 慶長十九年三月二十四日 德川幕府
0000_,20,436a02(00):一御朱印拾一通 豐德二氏歷代
0000_,20,436a03(00):○什器
0000_,20,436a04(00):一山門竪額 後小松帝宸翰 高八尺 一枚
0000_,20,436a05(00):一御錫杖 圓光大師御持品 三尺七寸 一本
0000_,20,436a06(00):一御茶碗 圓光大師御持品 一個
0000_,20,436a07(00):一持蓮華 唐木圓形五寸五分 圓光大師御持品 一個
0000_,20,436a08(00):一同 同 六寸 兼實公御持品 一個
0000_,20,436a09(00):一同 同 五寸 熊谷蓮生所持品 一個
0000_,20,436a10(00):一描金硯筥木製高蒔繪花靑貝中央鎡角形六寸八分四寸五分 一合
0000_,20,436a11(00):一御所文庫木製高蒔繪 一尺三寸五分一尺二寸深五寸 一合
0000_,20,436a12(00):以上二點足利義政公寄附之
0000_,20,436a13(00):(淺井法順編)
0000_,20,436a14(00):&
0000_,20,436a15(00):黑谷誌要終