0000_,20,470a01(00):淨土宗史 0000_,20,470a02(00): 0000_,20,470a03(00):目 次 0000_,20,470a04(00):第一期 開創時代 0000_,20,470a05(00):第一章 立敎開宗 0000_,20,470a06(00):一 開宗 0000_,20,470a07(00):二 宗祖の生涯 0000_,20,470a08(00):(一)求道開宗―(二)宣法敎化―(三)選擇述 0000_,20,470a09(00):作―(四)元久建永の厄難―(五)入滅、遺跡、 0000_,20,470a10(00):諡號 0000_,20,470a11(00):第二章 宗祖門下 0000_,20,470a12(00):一 門下の人數及種別 0000_,20,470a13(00):二 成覺房幸西 0000_,20,470a14(00):三 善慧房證空 0000_,20,470a15(00):四 隆寬律師 0000_,20,470a16(00):五 覺明房長西 0000_,20,470a17(00):六 善信房親鸞 0000_,20,470a18(00):第三章 二祖三祖の禀承弘敷 0000_,20,470b19(00):一 二祖の嗣法 0000_,20,470b20(00):二 二祖の弘法 0000_,20,470b21(00):(一)伊豫の遊化―(二)中國の敎化―(三)筑 0000_,20,470b22(00):肥の弘敷―(四)著書 0000_,20,470b23(00):三 二祖の門下 0000_,20,470b24(00):四 三祖の受法 0000_,20,470b25(00):五 三祖の傳道 0000_,20,470b26(00):(一)中國及び京都―(二)信濃及兩總―(三) 0000_,20,470b27(00):鎌倉―(四)足立及び京都 0000_,20,470b28(00):第二期 持續時代 0000_,20,470b29(00):第一章 三祖門下の異流 0000_,20,470b30(00):一 藤田派 0000_,20,470b31(00):二 名越派 0000_,20,470b32(00):三 三條派 0000_,20,470b33(00):四 一條派 0000_,20,470b34(00):五 木幡派 0000_,20,470b35(00):第二章 白旗正統の消長 0000_,20,470b36(00):一 鎌倉と箕田 0000_,20,471a01(00):二 太田と瓜連 0000_,20,471a02(00):第三章 冏酉兩師の宣揚 0000_,20,471a03(00):一 聖冏の時代と其事業 0000_,20,471a04(00):二 聖聰の繼承 0000_,20,471a05(00):第四章 聖聰門下の繁興 0000_,20,471a06(00):一 增上寺 0000_,20,471a07(00):二 弘經寺 0000_,20,471a08(00):三 三河 0000_,20,471a09(00):四 京都 0000_,20,471a10(00):第五章 道感二師の對揚 0000_,20,471a11(00):一 道譽流 0000_,20,471a12(00):二 感譽流 0000_,20,471a13(00):第三期 大成時代 0000_,20,471a14(00):第一章 概觀 0000_,20,471a15(00):第二章 法度制規 0000_,20,471a16(00):第三章 統治機關 0000_,20,471a17(00):一 宮門跡と總本山 0000_,20,471b18(00):二 總錄所 0000_,20,471b19(00):第四章 寺院 0000_,20,471b20(00):一 本山 0000_,20,471b21(00):二 檀林 0000_,20,471b22(00):三 紫衣地 0000_,20,471b23(00):四 格寺 0000_,20,471b24(00):五 能分地、西堂地、平僧地、別當、塔頭 0000_,20,471b25(00):六 捨世地 0000_,20,471b26(00):七 律院 0000_,20,471b27(00):八 住職 0000_,20,471b28(00):(一)香衣檀林―(二)紫衣檀林―(三)總錄所 0000_,20,471b29(00):總本山―(四)引込紫衣―(四)紫衣地菩提所 0000_,20,471b30(00):及其他の格寺 0000_,20,471b31(00):第五章 宗侶養成 0000_,20,471b32(00):一 入寺 0000_,20,471b33(00):(一)資格―(二)時期と員數―(三)手續― 0000_,20,471b34(00):(四)改名―(五)他山 0000_,20,471b35(00):二 消帳 0000_,20,472a01(00):三 傳法 0000_,20,472a02(00):四 拜綸 0000_,20,472a03(00):(一)年―(二)添狀と執奏―(三)謝金― 0000_,20,472a04(00):(四)開衣式―(五)拜綸者數 0000_,20,472a05(00):五 被位鴻漸 0000_,20,472a06(00):(一)被位―(二)鴻漸 0000_,20,472a07(00):第六章 講學 0000_,20,472a08(00):一 檀林の學問 0000_,20,472a09(00):(一)學寮―(二)學課及學期―(三)法問及講 0000_,20,472a10(00):釋―一、法問―二、講釋 0000_,20,472a11(00):二 專門的研究 0000_,20,472a12(00):(一)初期―(二)中期―(三)後期 0000_,20,472a13(00):第七章 布敎 0000_,20,472a14(00):第四期 改新時代 0000_,20,472a15(00):第一章 一般制度の變遷 0000_,20,472a16(00):第二章 敎育 0000_,20,472a17(00):第三章 布敎 0000_,20,473a01(00):淨 土 宗 史 0000_,20,473a02(00): 0000_,20,473a03(00):第一期 開創時代 0000_,20,473a04(00): 0000_,20,473a05(00):第一章 立敎開宗 0000_,20,473a06(00):一 開宗 0000_,20,473a07(00):時は是れ高倉天皇承安五年七月安元ト改元西紀一一七五春某日。 0000_,20,473a08(00):所は比叡峯頭樹幽に流寂たる黑谷の邊學窓の下。淨 0000_,20,473a09(00):机に對して端坐し。今しも讀書三昧に餘念なき一沙 0000_,20,473a10(00):門あり。頭頂少圩にして稜角あり。眼眸黄色にして 0000_,20,473a11(00):光彩あり。身には黑色の素絹と鈍色の袈裟とを着け 0000_,20,473a12(00):たり。倐忽見る。紫電閃閃一道の靈光は沙門の心臟 0000_,20,473a13(00):を貫き。歡喜の熱涙は沙門の兩頰に滂沱たるを。嗚 0000_,20,473a14(00):呼其沙門とは誰ぞ。吾宗祖法然房源空上人なり。其 0000_,20,473a15(00):耽讀せられたる書籍は何ぞ。善導觀經證定疏なり。 0000_,20,473a16(00):二十有五年間の刻苦奮勵の効空しからず。多年胸裡 0000_,20,473a17(00):に盤窟せる疑團は忽然として氷解し。日夕惝怳せら 0000_,20,473b18(00):れたる靈光は懷裡のものとなりぬ。其疑團とは何ぞ。 0000_,20,473b19(00):罪惡の塊子たる凡夫人がいかにして微妙莊嚴の報土 0000_,20,473b20(00):に往生しうるかにあり。靈光とは何ぞ。稱念は彌陀 0000_,20,473b21(00):覺王の本願正定業にして凡入報土の左券たること是 0000_,20,473b22(00):れなり。彼疑團を碎破し此左券を握りて歡喜落涙せ 0000_,20,473b23(00):る上人は。又昨日の煩悶子に非らざるなり。今や上 0000_,20,473b24(00):人の眼中には。八家九宗の敎行も無用の贅疣なり。 0000_,20,473b25(00):捨閉閣抛するに些の愛惜の心に殘るなし。止觀遮那 0000_,20,473b26(00):の靈峰も易行坦途に比すべくもあらず。居りて益な 0000_,20,473b27(00):ければ速かに降るに如かず。玆に三十年來の山僧生 0000_,20,473b28(00):活を廢め。比叡山を出でて西山廣谷に草庵を結び。 0000_,20,473b29(00):專ら口稱三昧を事とし。來りて敎を乞ふ人人には。 0000_,20,473b30(00):唯淨土の一行を勸進し。自行化他偏に稱名念佛の餘 0000_,20,473b31(00):事なかりき。是れ實に口稱念佛宗たる本宗の開立な 0000_,20,473b32(00):り創建なり。日本に於ける平民的佛敎の提唱なり。 0000_,20,473b33(00):上人が採られし此の行動の中。自然獨特の敎相判釋 0000_,20,473b34(00):あり。宗旨の建立あり。故に承安五年春を以て本宗 0000_,20,474a01(00):開立の年とするも。若し夫れ本宗獨特の敎相判釋を 0000_,20,474a02(00):形式的に公表し。廢立取捨を世に宣言するを以て。 0000_,20,474a03(00):宗旨建立とするに至りては。尚二十餘年後の選擇集 0000_,20,474a04(00):述作を竢たざるべからず。凝然の淨土源流章は。後 0000_,20,474a05(00):者によりて建久九年を以て本宗開立の年とするも。 0000_,20,474a06(00):本宗に於ては前者によるを普通とす。 0000_,20,474a07(00):抑宗祖開宗の直接の動因は。善導觀經疏第四散善 0000_,20,474a08(00):義の。三心釋の下に於ける一心專念の文にありと云 0000_,20,474a09(00):ひ。或は同疏附屬釋の上來雖説の文と云ひ。異説不 0000_,20,474a10(00):同なりと雖も。要は稱名念佛が彌陀覺王の本願行な 0000_,20,474a11(00):りとの定説にあり。由來稱名念佛が往生の要行たる 0000_,20,474a12(00):こと。淨土敎の發達と共に漸次に提唱せられ。本邦 0000_,20,474a13(00):に於ても平安朝已後漸次其傾向を強くし。開宗前後 0000_,20,474a14(00):には稱名念佛の流行盛なりしも。諸行の中に於て取 0000_,20,474a15(00):捨選擇を明確に宣言し。且其理由を直截に説明せる 0000_,20,474a16(00):は唯獨吾善導の觀經疏なり。而して此簡明なる釋文 0000_,20,474a17(00):を看破して一宗を建立したるは吾宗祖を嚆矢とす。 0000_,20,474b18(00):宗祖以前の諸師も又之を見ざりしに非らざるべき 0000_,20,474b19(00):も。遂に其眞意に想到すること能はざりし所以のも 0000_,20,474b20(00):のは何故ぞ。是れ其人が淨土に專らなる能はざりし 0000_,20,474b21(00):は其主因たるべきも。機運の熟不も亦看過すべから 0000_,20,474b22(00):ざる原因なりしなるべし。 0000_,20,474b23(00):二 宗祖の生涯 0000_,20,474b24(00):(一) 求道開宗 0000_,20,474b25(00):宗祖。諱は源空法然房と號す。崇德天皇長承二年 0000_,20,474b26(00):(西紀一一三三)四月七日。美作國久米南條稻岡庄(今 0000_,20,474b27(00):粂南條稻岡南北庄里方誕生寺の地)に誕生す。父は 0000_,20,474b28(00):漆(或は漆間)時國。母は秦氏なり。幼名を勢至丸と 0000_,20,474b29(00):稱す(又定明を射たるにより小矢兒の稱あり或は佛 0000_,20,474b30(00):名御前文殊御前の稱ありしと云ふ)。保延七年春(一 0000_,20,474b31(00):書に三月十九日或書に十三日とす)當庄の預所源内 0000_,20,474b32(00):武者定明の夜襲する所となり。父時國重傷を負ひて 0000_,20,474b33(00):卒す。其將に死せんとするに臨み。當時九歳の幼兒 0000_,20,474b34(00):たりし宗祖を枕頭に招き。復讎を斷念して出家得度 0000_,20,475a01(00):し自の菩提を求め。兼て父の冥福を祈るべきを遺囑 0000_,20,475a02(00):す。是上人生涯の第一轉機なり。 0000_,20,475a03(00):同年冬。同國菩提寺觀覺得業の室に入る。得業は 0000_,20,475a04(00):母秦氏の弟にして。曾て延曆寺の學徒なりしも。後南 0000_,20,475a05(00):都に移り法相宗に入りて得業を得たる人。得業指導 0000_,20,475a06(00):の下に。内外典籍を稽古すること七年の後。得業の指 0000_,20,475a07(00):揮により慈母と離れて比叡山に登ることとなりぬ。 0000_,20,475a08(00):時に久安三年春二月上人十五歳(或は久安元年十三 0000_,20,475a09(00):歳といひ或は久安二年十四歳といふ)の年なりき。 0000_,20,475a10(00):比叡山に於て最初得業が依托したる師主は西塔北谷 0000_,20,475a11(00):持寶房源光なりき。源光は又當時叡山に於て明匠の 0000_,20,475a12(00):評高かりし功德院の肥後阿闍梨皇圓に之が敎育を委 0000_,20,475a13(00):托す。皇圓は椙生皇覺の法嗣にして台學に精通し。 0000_,20,475a14(00):扶桑略記の作者として史文に堪能なる學者たりし上 0000_,20,475a15(00):に。殊勝なる道心を有せし人なるが如し。彼の龍華 0000_,20,475a16(00):三會の敎化に逢遭せんとして。遠江國櫻池に沈み蛇 0000_,20,475a17(00):身となりしとの傳説の如き。其決して輕薄なる人に 0000_,20,475b18(00):非ざりしを想はしむ。故に其宗祖に及せる感化も少 0000_,20,475b19(00):からざりしなるべし。同年冬十一月八日戒壇院に登 0000_,20,475b20(00):りて圓頓戒を受く(或傳には其際の出家名は圓明房 0000_,20,475b21(00):善弘なりしと云ふ)。爾後皇圓の下にありて。天台三 0000_,20,475b22(00):大部を受學すること三年なりしが。久安六年九月十 0000_,20,475b23(00):二日皇圓の座下を辭し。山門大衆の交際を謝して。 0000_,20,475b24(00):黑谷慈眼房叡空の室に隱遁す。是實に上人生涯の第 0000_,20,475b25(00):二轉機也。 0000_,20,475b26(00):黑谷隱遁の理由は。諸傳多く宗祖の天性求道心強 0000_,20,475b27(00):かりしと。此傾向を一層強からしめたる保延七年の 0000_,20,475b28(00):家庭の慘事と。其際に於ける嚴父の訓誡とにありと 0000_,20,475b29(00):す。勿論此等は其主因たりしに相違なきも。當時比 0000_,20,475b30(00):叡山に澎湃せる墮落腐敗の僧風。如上の理由に基け 0000_,20,475b31(00):る上人の求道心と背馳し。郷里に於て畫かれたる比 0000_,20,475b32(00):叡山と。現實の比叡山とが。雲泥の間隔あるを發見 0000_,20,475b33(00):して失望せられたるも。又其理由たらずんばあらず。 0000_,20,475b34(00):故に宗祖は受戒後間もなく隱遁の意志を皇圓に語ら 0000_,20,476a01(00):れしも。皇圓の切なる諫止により暫く交衆生活を續 0000_,20,476a02(00):けられたるも。益其醜汚に堪ふること能はずして這 0000_,20,476a03(00):回の隱遁を斷行せられしなり。 0000_,20,476a04(00):叡空は。大原良忍上人の高弟にして。圓頓戒の嫡 0000_,20,476a05(00):統を受け。又其融通念佛をも相承せられたるべく。 0000_,20,476a06(00):其他眞言秘密の法にも精通して。當時叡山にては學 0000_,20,476a07(00):德兼備の英匠として名聲甚高かりし人なり。宗祖は 0000_,20,476a08(00):戒體の色心。念佛の觀稱等の問題に關して。彼と意 0000_,20,476a09(00):見を異にし。屢屢激論を交へられしことあり。其他 0000_,20,476a10(00):にも學問上には意見の相違せる點少からざりしも。 0000_,20,476a11(00):其德操に於ては深く信賴せられたり。叡空また宗祖 0000_,20,476a12(00):を益友良伴として之を好遇し。宗祖が山上に在住の 0000_,20,476a13(00):間は。常に生活の資糧を供給して。求道に專注する 0000_,20,476a14(00):ことを得せしめたるが故に。物質精神兩面に於て宗 0000_,20,476a15(00):祖の恩人なり。 0000_,20,476a16(00):叡空は。宗祖が其庵に來れるを歡迎し。其道心の 0000_,20,476a17(00):切實なるを感歎して。房號を法然。諱を源空と命名 0000_,20,476b18(00):せり。蓋源空の源の字は叡山に於ける最初の師源光 0000_,20,476b19(00):に取り。空の字は叡空自己に取れりと云ふ。爾來孜 0000_,20,476b20(00):孜として聖敎を披閲し。時時瞑目思索し。時に叡空 0000_,20,476b21(00):と論談して。年を黑谷に過ごされしも。未だ安住の 0000_,20,476b22(00):地を發見するに至る能はず。 0000_,20,476b23(00):二十四歳以後。南都北京に於ける諸宗の碩學を歷 0000_,20,476b24(00):訪して。家家の信行を敲く。即法相宗には南都興福 0000_,20,476b25(00):寺の藏俊僧都を。三論宗には醍醐寺の寬雅權律師を。 0000_,20,476b26(00):華嚴宗には仁和寺の慶雅法橋を訪ふ。此等の人人孰 0000_,20,476b27(00):れも自家の蘊奧を披歷して之を示せるも。宗祖の求 0000_,20,476b28(00):めらるる所と吻合するものなかりき。其他律宗の中 0000_,20,476b29(00):河寺の實範上人に諮決せられたりと傳へらるるも實 0000_,20,476b30(00):否定かならず。かく叡山山外の諸宗の高僧を歷訪の 0000_,20,476b31(00):結果も餘り得る所なかりしかば。又も黑谷に歸り報 0000_,20,476b32(00):恩藏(經藏)に入りて。金典祖賁を研覈し。自己の 0000_,20,476b33(00):求むる所を自己に發見するの外途なきを覺悟した 0000_,20,476b34(00):り。 0000_,20,477a01(00):宗祖が。一切經を翻讀せられたるは前後五回に及 0000_,20,477a02(00):べりと傳ふ。一切經と共に支那日本に於ける人師の 0000_,20,477a03(00):章疏。就中淨土敎に關する章疏は。數回乃至十數回 0000_,20,477a04(00):熟讀せられたるや言ふまでもなし。此等章疏の中。 0000_,20,477a05(00):宗祖が特に最精讀深究せられたるは慧心僧都の往生 0000_,20,477a06(00):要集なりき。這は當時。就中叡山山上に於ける求道 0000_,20,477a07(00):者の採れる一般の針路なるか。宗祖は要集によりて 0000_,20,477a08(00):善導觀經疏の其途に於て重大なる價値を有すること 0000_,20,477a09(00):を指唆せられ。進て同疏を熟讀翫味せられたり。此 0000_,20,477a10(00):書の指示する所は。實に宗祖が多年夢寐にも追求し 0000_,20,477a11(00):て忘れられざりし所と吻合し。此に捨聖歸淨の大決 0000_,20,477a12(00):心を得て。專修一行の專傳を始められたり。是れ實 0000_,20,477a13(00):に承安五年春三月。宗祖四十三歳の時のことにして。 0000_,20,477a14(00):これを宗祖生涯の第三轉機となす。 0000_,20,477a15(00):(二) 宣法敎化 0000_,20,477a16(00):宗祖。專修一行の門に入りてより間もなく叡山を 0000_,20,477a17(00):降りて。初は西山廣谷(粟生光明寺山後にあたると 0000_,20,477b18(00):云ふ)に住し。次で東山吉水(今知恩院の墳域の内 0000_,20,477b19(00):に屬す)に移り。吉水には中ノ房。西ノ本房。東ノ新房等 0000_,20,477b20(00):所を替へ。建久年中小松殿(今小松谷松林寺の所在 0000_,20,477b21(00):地)に住し。其他白河禪房。加茂河原屋等諸處に寓 0000_,20,477b22(00):居せられたるも。其居處は孰れも狹隘粗朴なる草菴 0000_,20,477b23(00):にして。此處に二三の常隨給仕の弟子と共に。一向 0000_,20,477b24(00):に念佛し自行薰修に餘念なかりしも。其聲を聞き德 0000_,20,477b25(00):を慕ひ來り集る。道俗の爲には諄諄として自證の法 0000_,20,477b26(00):門を語り。其人をして自己の信仰に共鳴せしめずん 0000_,20,477b27(00):ば休まず。故に淨土の一門數年を出でざるに都鄙に 0000_,20,477b28(00):遍く。念佛の聲幾ならざるに邊隅に充ちぬ。 0000_,20,477b29(00):かくの如く。宗祖一代の敎化は。多く京都及其近 0000_,20,477b30(00):郊に於ける草菴に行はれ。其方法も甚消極的なりし 0000_,20,477b31(00):も。稀には請に應じて寺院に説法し。或は個人の邸 0000_,20,477b32(00):宅に赴き法話せられたることなきにあらず。文治二 0000_,20,477b33(00):年秋。比叡山の顯眞法印發起となり。南都北嶺の求 0000_,20,477b34(00):道者數十人。大原勝林院に會し。宗祖を請じて淨土 0000_,20,478a01(00):の法要を聽き。且各疑問を提出して往復徴決す。此 0000_,20,478a02(00):際宗祖語あり。曰く「法門は牛角なれども機根較べ 0000_,20,478a03(00):には源空勝ちたり」と。顯眞をはじめ諸德また。口 0000_,20,478a04(00):をそろへて「形を見れば源空上人まことには彌陀如 0000_,20,478a05(00):來の應現か」と感歎したりと傳へらるるによりても。 0000_,20,478a06(00):其時の法話の殊勝なりしを想像すべし。是れ世に謂 0000_,20,478a07(00):ゆる大原談義なり。世に大原談義聽書とて。聖覺法 0000_,20,478a08(00):印が此時の問答を筆記せるものなりと云ひ。又問答 0000_,20,478a09(00):に關し種種滑稽奇拔なる説話を傳ふるものあるも。 0000_,20,478a10(00):多くは後人の假託揑造にして。其眞相を傳ふるもの 0000_,20,478a11(00):にあらざるべし。又建久元年春。俊乘房重源の請に 0000_,20,478a12(00):應じ。奈良に赴き東大寺大佛殿に淨土三部經を講説 0000_,20,478a13(00):し。一山の大衆を説服せられたり。漢語燈錄に收む 0000_,20,478a14(00):る所の三部經釋(或は三經私記と稱す)は此講説の筆 0000_,20,478a15(00):記なりと云ふ。此際にも。南都の大衆が宗祖に對し 0000_,20,478a16(00):不穩の企圖をなしたりと傳ふるも。果して事實なり 0000_,20,478a17(00):しや疑はし。此他文治四年五月十五日。淸水寺の印 0000_,20,478b18(00):藏と云ふ者の請に應じ。寺中の瀧山寺に不斷念佛を 0000_,20,478b19(00):開白し。建久三年秋。大和入道見佛の請に應じ。八 0000_,20,478b20(00):坂引導寺に七日の別時念佛を修行し。説戒法話を試 0000_,20,478b21(00):みられたり。文治四年八月。後白川法皇河東押小路 0000_,20,478b22(00):仙洞御所に於て如法經の法事を營み給ふや。宗祖を 0000_,20,478b23(00):以て先達としたまへり。是より先。承安四年。法皇宗 0000_,20,478b24(00):祖を請じて受戒し。且往生要集の講説を聽聞して御 0000_,20,478b25(00):感斜ならざりしと云ひ。又建久三年二月。御臨終に 0000_,20,478b26(00):先ち。特に宗祖を召して法要を諮問したまひし等。 0000_,20,478b27(00):歸信淺からざりしが。高倉天皇も。安元元年宗祖を 0000_,20,478b28(00):召して受戒したまひ。其他上西門院。宜秋門院。修 0000_,20,478b29(00):明門院等。貴人の宗祖に歸依し受戒したまふあり。 0000_,20,478b30(00):從て縉紳公卿の間にも。宗祖に歸依し。其邸に招請 0000_,20,478b31(00):して聽法し。念佛の行者となれる者少からず。公卿 0000_,20,478b32(00):の宗祖に歸依したる者多かりし中に。月輪禪閤九條 0000_,20,478b33(00):兼實公は最も熱心なる信者なりき。上人が九條邸に 0000_,20,478b34(00):赴かれしことの玉葉(兼實公日記)に記されたるは。 0000_,20,479a01(00):文治五年八月五日を以て始めとすれども。兼實公の 0000_,20,479a02(00):別時念佛修行は。安元二年即淨土開宗の翌年以來の 0000_,20,479a03(00):ことにして。此別時念佛が。佛嚴聖人と云ふ一无名 0000_,20,479a04(00):の高僧の勸に基き。宗祖には關係なきが如きも。か 0000_,20,479a05(00):れが如き熱心なる念佛者が。開宗以後十五年を空過 0000_,20,479a06(00):して。始て宗祖を請ぜりとも思惟すべからざれば。 0000_,20,479a07(00):其以前。公が屢或聖人の來談せることを記せるもの 0000_,20,479a08(00):の宗祖なりしも知るべからず。そはともあれ。九條 0000_,20,479a09(00):公夫妻は屢宗祖を其邸に請じ。戒を受け法話を聽け 0000_,20,479a10(00):り。宗祖が小松殿に寓居せられたる理由不明なるも。 0000_,20,479a11(00):或は公が其月輪邸に近く。往返に便利なるが故に。 0000_,20,479a12(00):特に請じて玆に居らしめたるにあらざるか。故に建 0000_,20,479a13(00):久九年以後他邸の招請を辭せられし後も。月輪邸 0000_,20,479a14(00):のみは敢て拒まれざりしと云ひ。選擇集の述作が公 0000_,20,479a15(00):の願に起因せりと云ひ。又元久元年。山門の囂囂に 0000_,20,479a16(00):對し。宗祖辨護の書を座主に寄せ。承元元年。流罪 0000_,20,479a17(00):の際に之が赦免の爲に種種奔走し。其奔走の効空し 0000_,20,479b18(00):くして宗祖の土佐に赴かるるに方りて別離の情に禁 0000_,20,479b19(00):へず。宗祖の歸洛を見る能はずして其年四月五日薨 0000_,20,479b20(00):去せられしが。死に臨みても尚光親に囑して歸洛に 0000_,20,479b21(00):盡力せしめたるが如き。宗祖に對する信仰の尋常な 0000_,20,479b22(00):らざりしを知るべし。然れども宗祖を招請して聽法 0000_,20,479b23(00):歸信したる人人は比較的少數なるも。其草菴を敲き 0000_,20,479b24(00):聞法入信せる者甚多く。中には鬼神をも挫く荒武者 0000_,20,479b25(00):あり。王法を恐れざる強盜の張本あり。一文不知の 0000_,20,479b26(00):愚鈍の骨頂ありて。諸有階級の諸有種類の人人を網 0000_,20,479b27(00):羅したり。以て其信仰の平民的にして敎化の普遍的 0000_,20,479b28(00):なりしを知るべし。 0000_,20,479b29(00):(三) 選擇述作 0000_,20,479b30(00):宗祖一代の述作は。收めて望西樓了惠輯錄の漢和 0000_,20,479b31(00):兩語燈錄にあり。其中宗祖が最も周到なる注意を以 0000_,20,479b32(00):て著述せられしは選擇集なりき。此書述作の因由は 0000_,20,479b33(00):九條公の懇請にして。時に建久九年(或は八年とし 0000_,20,479b34(00):或は元久元年とす)の春のこととす。前年宗祖微恙あ 0000_,20,480a01(00):り。幾もなく癒えしも。翌年正月元日より別請を辭 0000_,20,480a02(00):して草菴に籠居し。別時念佛を修行して遂に三昧を 0000_,20,480a03(00):發得し。種種の好相を感見せらる。是より彌陀經三 0000_,20,480a04(00):卷の日課讀誦をも廢し。六萬の日課を七萬に增加し 0000_,20,480a05(00):て。念佛以外餘事餘行を雜へざるに至られたり。是 0000_,20,480a06(00):實に宗祖生涯に於ける第四轉機なり。九條家は特別 0000_,20,480a07(00):として此後も稀には參向せられしも。以前の如く頻 0000_,20,480a08(00):繁なる能はざるが故に。始終の對面に代るべきもの 0000_,20,480a09(00):の必要なるは第一の理由なるべく。又當世並に將來 0000_,20,480a10(00):に垂るるには書籍に如くはなきが第二の理由なり。 0000_,20,480a11(00):此二理由を以て九條公は使を以て宗要を記述せられ 0000_,20,480a12(00):んことを宗祖に懇請せられたり。此懇請辞するによ 0000_,20,480a13(00):しなく。眞觀房感西。安樂房遵西。善慧房證空等數 0000_,20,480a14(00):人の門弟と共に。之を編輯せられたり。此により。 0000_,20,480a15(00):一宗敎相の建立。行儀の解釋は。確定宣明せられた 0000_,20,480a16(00):り。是實に形式的に本宗の開立を宣布したるものに 0000_,20,480a17(00):して。淨土源流章が以て淨土開宗と見做せる所以な 0000_,20,480b18(00):り。選擇集は九條公の請によりて。宗祖在世の間は 0000_,20,480b19(00):世間に披露することを遠慮せられ。唯親しき門弟の 0000_,20,480b20(00):みに。披閲書寫を許されしに過ぎざりしも。數年を 0000_,20,480b21(00):出でざるに廣く世間に傳寫流布したり。之により往 0000_,20,480b22(00):生の直路を會得せる者少からざるべきも。又之に對 0000_,20,480b23(00):して疑難を懷き難破を試みし人も間間之ありき。園 0000_,20,480b24(00):城寺の公胤は後者に屬せる一人にして。淨土決疑鈔 0000_,20,480b25(00):三卷を造り此集を難破し宗祖の下に送りしも。後其 0000_,20,480b26(00):非を悔ひ。宗祖滅後七七日の法事には自ら請ひて導 0000_,20,480b27(00):師たりしとの傳説あり。建曆元年宗祖勝尾より歸洛 0000_,20,480b28(00):を祝し。門弟發起して之が刊行を企て。翌二年に成 0000_,20,480b29(00):就したり。是謂ゆる建曆本なり。かく書寫して流布 0000_,20,480b30(00):したる外に印行して頒布さるるに及びては。之に對 0000_,20,480b31(00):する信謗の論。在世に增して紛然たりしは已むをえ 0000_,20,480b32(00):ざる所なり。於是宗祖入滅後幾もなく。栂尾の高辨 0000_,20,480b33(00):は摧邪輪三卷(建曆二年十一月)。及同莊嚴記一卷(同 0000_,20,480b34(00):三年六月)を作りて猛烈に之を破せり。此二書に對 0000_,20,481a01(00):して。當時朝日山信寂は慧命義を作り。次て中道寺 0000_,20,481a02(00):覺性は扶選擇論七卷護源報恩論一卷を著し。中世望 0000_,20,481a03(00):西樓了慧は新扶選擇報恩集二卷扶選擇正輪通義一卷 0000_,20,481a04(00):を作り。德川の初期に方り。袋中は評摧邪輪一卷。 0000_,20,481a05(00):眞迢は念佛選摧評一卷を著し。各反駁を試みたり。 0000_,20,481a06(00):高辨の後。叡山の隆眞法橋(或は上野並榎竪者定照と 0000_,20,481a07(00):云ふ)は彈選擇なる書を著して此集を難破せしが。 0000_,20,481a08(00):隆寬律師顯選擇を作りて之を反駁したるにより。遂 0000_,20,481a09(00):に嘉祿三年の法難を誘致せり。正元文應の交。日蓮 0000_,20,481a10(00):守護國家論。立正安國論等を作りて又此集を難ぜり。 0000_,20,481a11(00):かく難破の頻出するは。軈て此集の内外に向ひて保 0000_,20,481a12(00):有する價値の重大なるを語るものならずんばあら 0000_,20,481a13(00):ず。 0000_,20,481a14(00):(四) 元久建永の厄難 0000_,20,481a15(00):宗祖が叡山を降り西山に居り。東山に移られし當 0000_,20,481a16(00):初に於ては。南都北京の諸宗の人人は勿論。叡山に 0000_,20,481a17(00):於ける大衆の多數も。風馬相關せず。叡山に於ける少 0000_,20,481b18(00):數の知己も。空也良忍兩人の運動ほどにも考へず。極 0000_,20,481b19(00):めて輕視したるが如きも。開宗數年を出でざるに。燎 0000_,20,481b20(00):原の勢を以て天下を風靡せる宗祖の運動を目睹し。 0000_,20,481b21(00):少數の識者は其信仰の偉大なるに驚歎して之に隨喜 0000_,20,481b22(00):せしも。多數の瞶瞶者流は嫉視反目して之に妨害を 0000_,20,481b23(00):加へんと企てたり。元久元年十一月。比叡山三塔の 0000_,20,481b24(00):大衆大講堂に會し。宗祖勸進の念佛を禁止せんこと 0000_,20,481b25(00):を座主に迫る。翌年。南都興福寺衆徒同樣のことを 0000_,20,481b26(00):朝廷に囂訴す。此等訴訟の動機が。念佛興隆に對す 0000_,20,481b27(00):る嫉妬にあるは明なるも。宗祖門下にも南都北嶺の 0000_,20,481b28(00):衆徒に訴訟の口實を供給せる不逞非違の徒少からざ 0000_,20,481b29(00):りしなり。即宗祖門下の繁昌に從ひ。無智無愧の輩 0000_,20,481b30(00):侵入し來り。宗祖の敎旨を識らずして誤解し。或は 0000_,20,481b31(00):識りて故意に曲解して。或は諸宗を讒謗罵詈し。或 0000_,20,481b32(00):は放逸無慚僧風を破壞したり。故に南都北嶺の憤恚 0000_,20,481b33(00):を鎭め宗門の安全を謀るには。此等不逞の門弟を誡 0000_,20,481b34(00):飭することが第一の要件なり。故に宗祖は七箇條の 0000_,20,482a01(00):制誡文を製して門弟一同に示して署名せしめ。別に 0000_,20,482a02(00):起請文一通を添へて比叡山座主に呈せらる。尚月輪 0000_,20,482a03(00):禪閤は長文一通を座主に寄せ。宗祖に罪なく念佛の 0000_,20,482a04(00):禁ずべからざることを辨ぜらる。此により三塔の大 0000_,20,482a05(00):衆は僅に鎭靜に歸したり。南都の訴訟も次で熄み。 0000_,20,482a06(00):暫く少康を得たるも。建永二年二月に至り一大災厄 0000_,20,482a07(00):は降下せり。 0000_,20,482a08(00):建永二年(十月廿五日承元と改元)二月九日。門弟 0000_,20,482a09(00):住蓮房安樂房の兩人は死刑に處せられ。宗祖は土佐 0000_,20,482a10(00):國幡に配流の宣下ありたり。是又南北の訴訟が遠因 0000_,20,482a11(00):たりしこと明なるも。門弟の放逸無慚の行動が此災 0000_,20,482a12(00):厄を促したることも拒むべからず。宗祖の念佛が善 0000_,20,482a13(00):導の六時禮讚の優雅なる歌調により流行を助けられ 0000_,20,482a14(00):しことは事實なり。而して宗祖門弟中蓮樂兩人は特 0000_,20,482a15(00):に微妙なる聲調を有し。禮讚聲明の妙手なりしを以 0000_,20,482a16(00):て。宗祖の敎化を賛翼することも少からざりしなら 0000_,20,482a17(00):んも。餘に其特技を誇りて之を濫用したることが。 0000_,20,482b18(00):適此災厄を招く近因たりしも知るべからず。 0000_,20,482b19(00):宗祖が。七十五歳の高齡を以て門弟の罪に連座し 0000_,20,482b20(00):て。邊鄙なる土佐に赴かるることは。日夕其敎を受け 0000_,20,482b21(00):たる門弟並に信徒の悲嘆したる所にして。九條公の 0000_,20,482b22(00):如き。種種の方面に運動して。罪科を免れしめんこ 0000_,20,482b23(00):とに努力せられたるも其効なく。門弟等も。師をして 0000_,20,482b24(00):暫く法話を禁止し。念佛を中止せしめて。赦免を得 0000_,20,482b25(00):んと焦慮したるも。宗祖自身は。何等悲觀する所な 0000_,20,482b26(00):く。常の如く念佛し。些も顧慮する所なく。盛に淨 0000_,20,482b27(00):土の法門を談じ。門弟の強ひて之を止めんとするや。 0000_,20,482b28(00):『吾たとひ死刑にをこなはるともこの事いはずばあ 0000_,20,482b29(00):るべからず』と語り敢て之を肯ぜず。又門弟の別離 0000_,20,482b30(00):を喞ち遠流を悲むや。之を慰諭して『流刑さらにう 0000_,20,482b31(00):らみとすべからず。そのゆへは齡すでに八旬にせま 0000_,20,482b32(00):りぬ。たとひ師弟おなじみやこに住すとも。娑婆の 0000_,20,482b33(00):離別ちかきにあるべし。たとひ山海をへだつとも。 0000_,20,482b34(00):淨土の再會なんぞうたがはん。又いとうといへども 0000_,20,483a01(00):存するは人の身なり。おしむといへども死するは人 0000_,20,483a02(00):のいのちなり。なんぞかならずしもところによらん 0000_,20,483a03(00):や。しかのみならず。念佛の興行洛陽にして年ひさ 0000_,20,483a04(00):し。邊鄙におもむきて田夫野人をすすめんこと。年來 0000_,20,483a05(00):の本意なり。しかれども時いたらずして素意いまだ 0000_,20,483a06(00):はたさず。いま事の縁によりて年來の本意を遂んこと。 0000_,20,483a07(00):すこぶる朝恩ともいふべし」とて。配處に赴くこと恰 0000_,20,483a08(00):も家郷に歸るが如く樂邦に往くが如くなりき。斯て 0000_,20,483a09(00):度牒を召上げられ。俗名を賜ひ。三月十六日。京 0000_,20,483a10(00):都を出で鳥羽南門より川船にて攝津經島(兵庫北濱 0000_,20,483a11(00):地)に至り。播磨國高砂浦。同國室泊等を經て。同 0000_,20,483a12(00):月廿六日。讚岐國鹽飽島に著し。遂に同國子松庄に 0000_,20,483a13(00):落居せらる。讚岐に在りて弘法大師の遺跡等を遍歷 0000_,20,483a14(00):し。施化利生せられしも。而も土佐國に赴かれざり 0000_,20,483a15(00):き。 0000_,20,483a16(00):讚岐在住數ケ月にして遠流を赦免せられたるも。 0000_,20,483a17(00):京洛に入るを許されざりしかば。暫く攝津國勝尾寺 0000_,20,483b18(00):に假寓せられき。勝尾寺に在りては。寺僧に法衣を 0000_,20,483b19(00):供養し。又一切經を寄附せられたる等の事あり。勝 0000_,20,483b20(00):尾寺在住五年に及びしが。建曆元年十一月十七日。 0000_,20,483b21(00):歸洛の許可あり。同廿六日。漸く歸洛せられたるも。 0000_,20,483b22(00):吉水の三坊。小松殿の菴室も。最早膝を容るに堪え 0000_,20,483b23(00):ざりしと見え。靑蓮院の慈鎭和尚の好意に依り。大 0000_,20,483b24(00):谷禪房に歸住せられたり。大谷禪房は即今知恩院勢 0000_,20,483b25(00):至堂の所在地なり。 0000_,20,483b26(00):(五) 入滅遺跡諡號 0000_,20,483b27(00):建曆二年正月二日。平素不食の所勞(冑病か)增進 0000_,20,483b28(00):し病褥の人となられたり。同三日。弟子法蓮房滅後 0000_,20,483b29(00):遺跡を何處に定むべきやを問ふ。宗祖之に答へて。 0000_,20,483b30(00):「跡を一廟に占むれば遺法遍からず。予が遺跡は諸 0000_,20,483b31(00):州に遍滿すべし。ゆへいかんとなれば。念佛の興行 0000_,20,483b32(00):は愚老一期の勸化也。されば念佛を修せん所は。貴 0000_,20,483b33(00):賤を論ぜず。海人漁人がとまやまでも。みなこれ予 0000_,20,483b34(00):が遺跡なるべし」と。二十日。門弟坊の上に紫雲た 0000_,20,484a01(00):なびくにより。往生の近きかを問へるに對し。『あは 0000_,20,484a02(00):れなるかなや。わが往生は一切衆生のためなり。念 0000_,20,484a03(00):佛の信をとらしめんがために。瑞相を現ずるなり』 0000_,20,484a04(00):と答へられき。二十三日。勢觀房の請により。一枚 0000_,20,484a05(00):起請文を書き與へらる。二十五日正午。高聲念佛の 0000_,20,484a06(00):後。安祥として入寂せらる。世壽八十歳なり。禪房 0000_,20,484a07(00):東岸の上に窆葬す。 0000_,20,484a08(00):滅後十六年を經て。嘉祿三年六月に至り。宗祖の 0000_,20,484a09(00):廟所並遺弟の上に一大災厄は起れり。山門三塔大衆 0000_,20,484a10(00):は大講堂に集合し。念佛の禁止運動を決議し。先づ 0000_,20,484a11(00):念佛の本典たる選擇集の版木を押收して之を燒毀 0000_,20,484a12(00):し。念佛の根本祖師たる宗祖の廟所を發堀して遺骸 0000_,20,484a13(00):に毀辱を加へ。念佛の巨魁三人を遠國に配流せんこと 0000_,20,484a14(00):を訴訟す。第一第三は實行することを得たるも。宗祖 0000_,20,484a15(00):の遺骸は。法蓮房。覺阿彌陀佛等。妙香院僧正と謀 0000_,20,484a16(00):議し。廿三日夜中窃に發堀して之を嵯峨に遷し。廿 0000_,20,484a17(00):八日の夜更に廣隆寺圓空の處に隱慝したるを以て。 0000_,20,484b18(00):山徒の毀辱を蒙ることなく。翌年正月廿五日。粟生野 0000_,20,484b19(00):に荼毘し。貞永二年正月廿五日。正信房湛空遺骨を 0000_,20,484b20(00):嵯峨二尊院に收め雁塔を建立す。 0000_,20,484b21(00):宗祖滅後。念佛を停止せられ。淨土宗徒の迫害せ 0000_,20,484b22(00):られしことは(一)建保五年三月十八日。(二)同七年二月。 0000_,20,484b23(00):(三)天福二年六月晦日。(四)延應二年五月十四日。(五)正 0000_,20,484b24(00):治二年五月十二日等一再に留らず。然れども嘉祿三 0000_,20,484b25(00):年の如く強烈ならざりき。此時に選擇集の建曆本は 0000_,20,484b26(00):破却せられ。隆寬律師。成覺房幸西。空阿彌陀佛等 0000_,20,484b27(00):の宗祖門下は。陸奧(後對島)壹岐薩摩等に夫夫配流 0000_,20,484b28(00):に處せられ。其他の者も洛外に放逐せられて。宗門 0000_,20,484b29(00):は非常なる打擊を蒙りしが。迫害は却て活氣を增す 0000_,20,484b30(00):所以にして。決して信仰を撲滅すること能はざることは。 0000_,20,484b31(00):宗門其後の運動に由りても立證せられたり。 0000_,20,484b32(00):宗祖の遺誡。跡を一廟に占むるの不可なりしにも 0000_,20,484b33(00):拘らず。遺弟末徒の知恩報德の情禁じがたく。大谷 0000_,20,484b34(00):廟所を始として。加茂河原屋。白河禪房。粟生野等 0000_,20,485a01(00):には。漸次伽藍を建立して。一宗信仰の根本を玆に 0000_,20,485a02(00):置くに至れると同時に。此等を中心として祖訓遺誥 0000_,20,485a03(00):を遠近に普及し。海人漁夫の苫屋に至るまで。念佛 0000_,20,485a04(00):の道場宗祖の遺跡たらしむるに努力せり。 0000_,20,485a05(00):宗祖の德業を宸念あらせられ。代代の天皇諡號を 0000_,20,485a06(00):賜へり。慧光菩薩(後白河院の御院宣)。華頂尊者(四 0000_,20,485a07(00):條院の御世)。通明國師(後嵯峨院の御世)。天下上 0000_,20,485a08(00):人無極道心者。(後花園院の御世)の四諡號は。事往 0000_,20,485a09(00):古に屬して記錄の徴すべきものなきも。後柏原天皇 0000_,20,485a10(00):天文十八年十月。光照菩薩號を敕賜せられしことは。 0000_,20,485a11(00):明かに記錄の傳ふる所なり。是靑蓮院宮尊鎭法親王 0000_,20,485a12(00):の執奏による。然るに延曆寺の僧徒は。其當時に至 0000_,20,485a13(00):るまで尚祖德を嫉視し。朝廷に向ひ之が撤回を囂訴 0000_,20,485a14(00):して已まず。因りて翌月宣旨を召返されたりと傳ふ 0000_,20,485a15(00):るも。敕諡の事實は昭昭として爭ふべからず。此の 0000_,20,485a16(00):事ありてより百五十九年を經過し。東山天皇元祿十 0000_,20,485a17(00):年正月十八日。圓光大師の敕諡を賜ひ。中御門天皇 0000_,20,485b18(00):寶永八年正月十八日。更に東漸大師の號を下賜せら 0000_,20,485b19(00):れ。次後五十年毎に諡號を宣下せらるること常例と 0000_,20,485b20(00):なり。桃園天皇寶曆十一年には慧成大師。光格天皇 0000_,20,485b21(00):文化八年には弘覺大師。孝明天皇萬延二年には慈敎 0000_,20,485b22(00):大師號を賜ひ。明治四十四年四月二十七日。七百回 0000_,20,485b23(00):御忌に際しては。先帝陛下より明照大師を敕諡した 0000_,20,485b24(00):まへり。朝恩の優渥なる諸宗祖に見ざる所なり。 0000_,20,485b25(00): 0000_,20,485b26(00):第二章 宗祖門下 0000_,20,485b27(00):一 門下の人數及種別 0000_,20,485b28(00):宗祖。黑谷に隱遁より。西山吉水小松殿の隱棲を 0000_,20,485b29(00):經て。大谷入寂に至るまで。五十餘年を通じて。常 0000_,20,485b30(00):隨給仕し或は受敎傳法せる門弟數百を降らざること 0000_,20,485b31(00):は。諸種の事實よりして想像するに難からずと雖も。 0000_,20,485b32(00):宗祖傳記等記錄の傳ふる所は。二百餘人に過ぎず。 0000_,20,485b33(00):就中最も多數の人名を列擧せるは。二尊院所藏七箇 0000_,20,485b34(00):條制誡文の原本と稱するもの是なり。是には信空を 0000_,20,486a01(00):始め百九十名の署名あるも。三日に亘りて記名せる 0000_,20,486a02(00):ものとて。再出三出等重復あれば百七十餘名を出で 0000_,20,486a03(00):ざるべし。此外祖傳其他書中に出づるもの三四十名 0000_,20,486a04(00):あり。合して二百餘名なるも。中に於て多少傳記事 0000_,20,486a05(00):跡の尋ぬべきは四十餘人に過ぎざるなり。 0000_,20,486a06(00):これ等諸弟子の間には幾多の種類あり。これを分 0000_,20,486a07(00):類することは種種の點に於いて便宜尠からず。即ち 0000_,20,486a08(00):宗祖の菴室に同居し。或は近傍に住居して。宗祖の 0000_,20,486a09(00):起居寢食等日常の用務を辨じ。内に在りて宗祖の傳 0000_,20,486a10(00):敎弘通を助成したる者は。常隨給仕の弟子とも稱す 0000_,20,486a11(00):べく。時時菴室を訪ひて法話を聽聞し。或は終始宗 0000_,20,486a12(00):祖に隨從すれども他宗の寺院或は別處に住して。日 0000_,20,486a13(00):夕其菴に在ざる者は。受法問道の弟子とも稱すべく。 0000_,20,486a14(00):而して此等受法問道の弟子の中にも。宗祖の信德を 0000_,20,486a15(00):敬慕し。法義を承問することあるも。依然本宗本寺を 0000_,20,486a16(00):離れざる者は。之を客弟子とも名くべく。其宗祖の 0000_,20,486a17(00):門下に在りて出家し。或は他宗より來るも全く宗徒 0000_,20,486b18(00):となれるは。之を直弟子とも稱すべし。 0000_,20,486b19(00):常隨給仕の弟子として知らる人は。法蓮房信空。 0000_,20,486b20(00):眞觀房感西。勢觀房源智等前後數人に過ぎざりしが 0000_,20,486b21(00):如し。就中法蓮房信空は初叡空の弟子なりしも。叡 0000_,20,486b22(00):空滅後宗祖の門に入る。然れども同菴のことなれば。 0000_,20,486b23(00):最初より師資と同じかりしかば。隨從の年月最も長 0000_,20,486b24(00):く。宗祖の親任門弟の心服も甚深厚なりしが如し。彼 0000_,20,486b25(00):が宗祖七七忌日の諷誦文に。『先師廿五歳の昔。弟子 0000_,20,486b26(00):十二歳の時。忝なくも師資の契約を結び。久しく五十 0000_,20,486b27(00):の年序を積めり』と云ひ。又『北嶺黑谷の草菴に宿 0000_,20,486b28(00):せしより。東都白河の禪房に移りしに至るまで。其 0000_,20,486b29(00):間撫育の恩といひ。提撕の志といひ。報謝の恩昊天 0000_,20,486b30(00):窮りなし』と云へるによれば。彼は宗祖廿五歳の時 0000_,20,486b31(00):入門し。叡山黑谷より諸處に隨從して。五十六年の久 0000_,20,486b32(00):しきに及び。宗祖の撫育提撕を受くること莫大なりし 0000_,20,486b33(00):が。彼も亦よく宗祖に奉事したることは。沒後遺誡文 0000_,20,486b34(00):に。『門徒雖多信空實是多年給仕弟子因爲表懇志 0000_,20,487a01(00):聊有遺囑謂黑谷本坊寢殿雜舍白川本坊寢殿雜舍坂下園一所洛 0000_,20,487a02(00):中領地一所此外本尊三尺彌陀立像定朝聖敎摺寫六十卷等付屬之了其書在 0000_,20,487a03(00):別紙」とあるによりて知るべし。かく彼が宗祖に親近 0000_,20,487a04(00):せしが故に。其不思議の靈相等に就ても目睹せること 0000_,20,487a05(00):多く。且つ重大事件惹起する毎に。彼は門弟の上首 0000_,20,487a06(00):として先ちて宗祖に請問し。門弟を指揮せるが如し。 0000_,20,487a07(00):其の流罪に際し宗祖を諫め。入滅に臨み遺跡を尋ね。 0000_,20,487a08(00):勝尾寺に衣を施されし際には。彼之れを支辨し。七 0000_,20,487a09(00):箇條制誡文を製せらるるや彼筆を執り之を書記し。 0000_,20,487a10(00):且其名を第一に署せるが如き。孰れも其然ることを證 0000_,20,487a11(00):せざるなし。宗祖臨終に。孝養の爲に精舍建立の營 0000_,20,487a12(00):をなすなく。志あらば各群集せずして念佛すべしと 0000_,20,487a13(00):命ぜられしにも拘らず。彼は世間の風儀に順じて。 0000_,20,487a14(00):念佛の外七七日の佛事を修すべきを主張せしかば。 0000_,20,487a15(00):諸人も之に從ひて佛事を營みたり。嘉祿三年六月の 0000_,20,487a16(00):法難にも。彼主として夜中發堀移他の議を立て。幸 0000_,20,487a17(00):に遺骸の耻辱を免れしめたり。安貞二年九月九日八 0000_,20,487b18(00):十三歳を以て寂す。眞觀房感西は法蓮房に次で門弟 0000_,20,487b19(00):中の古參なり。承安元年十九歳を以て入門せしが。 0000_,20,487b20(00):入門以後常に隨從して。法要を諮詢し。給仕して他念 0000_,20,487b21(00):なかりしかば。遺誡文に。『又吉水中坊舊在西山廣谷高畠領 0000_,20,487b22(00):地一所付屬之感西也……感西長尊是又年來常隨弟子 0000_,20,487b23(00):故付與之者也』とあり。長尊は同文によれば。吉 0000_,20,487b24(00):水西舊房の本主なりとあるも。其他に傳へらるる所 0000_,20,487b25(00):なしと雖も。感西と彼とは信空に次ぐべき常隨給事 0000_,20,487b26(00):の弟子たりしこと明なり。感西は正治二年閏二月六日。 0000_,20,487b27(00):四十八歳を以て師に先ちて往生せしかば。宗祖は我 0000_,20,487b28(00):を棄てておはすることよとて。涙をおとされしと云ふ 0000_,20,487b29(00):に見るも。其關係の甚親密なりしを察すべし。彼又 0000_,20,487b30(00):文筆に長じたりしかば。選擇集述作の座に侍し。後 0000_,20,487b31(00):安樂房に代りて執筆の任に當らしめらる。又唱導に 0000_,20,487b32(00):も長じたりしとみえ。外記入道逆修説法を宗祖に請 0000_,20,487b33(00):ひし時。宗祖は一日の唱導を彼に讓られしと云ふ。 0000_,20,487b34(00):勢觀房源智は信空感西等に次ぎて。宗祖の晩年最も 0000_,20,488a01(00):親しく給仕したる門弟なり。平家の遺孤にして。建 0000_,20,488a02(00):久六年十三歳を以て宗祖の門に投ぜしが。宗祖之れ 0000_,20,488a03(00):を慈鎭和尚に進じ。其の門室に出家せしも幾もなく 0000_,20,488a04(00):宗祖の禪室に歸參し。爾後宗祖入滅に至るまで十八 0000_,20,488a05(00):年間常隨給事し。宗祖も之れを愛撫し。道具本尊房舍 0000_,20,488a06(00):聖敎(感西の分と其他の殘餘なるべし)を彼れに附屬 0000_,20,488a07(00):せられ。入滅に先ち一枚起請文を彼に授けられしと 0000_,20,488a08(00):傳ふ。宗祖滅後は隱遁を好み。自行に專にして衆人群 0000_,20,488a09(00):集の中に説法談話することを嫌忌せり。曆仁元年十二 0000_,20,488a10(00):月十二日。五十六歳を以て功德院賀茂神宮堂也の廊に寂す。 0000_,20,488a11(00):知恩院百萬遍は共に源智を以て第二祖となす。然ら 0000_,20,488a12(00):ば伽藍相承の上よりすれば。彼は宗祖の正統を承繼 0000_,20,488a13(00):せるものと謂ふべきなり。 0000_,20,488a14(00):客弟のことは別に説を須ゐず。直弟と稱せらるべき 0000_,20,488a15(00):人人は其數最も多し。聖光房辨長。善慧房證空。隆 0000_,20,488a16(00):寬律師。聖覺法印。正信房湛空。俊乘房重源。覺明 0000_,20,488a17(00):房長西。成覺房幸西。法本房行空。善信房親鸞。西 0000_,20,488b18(00):仙房信寂。朝日山信寂。金光坊。空阿彌陀佛。乘願 0000_,20,488b19(00):房宗源。淨蓮房源延等は其後世に知らるる重なる人 0000_,20,488b20(00):人なり。中に於て聖光房辨阿は傳法の正統なれば別 0000_,20,488b21(00):に之を詳説すべく。其餘の人人の中。證空。幸西。 0000_,20,488b22(00):行空。親鸞。隆寬。長西は正統以外に一流を樹立し 0000_,20,488b23(00):たるを以て。殊に注意に値す。 0000_,20,488b24(00):普通宗祖門下の別義を建立し一派を形成したる者 0000_,20,488b25(00):を筭へて四流となす。即辨阿。證空。隆寬。長西是 0000_,20,488b26(00):なり。而して幸西。行空。親鸞は。其主張が餘りに 0000_,20,488b27(00):祖説に相違せるを以て。宗祖在世に異端として。門 0000_,20,488b28(00):下を擯斥せられたりとの理由を以て。之を加へざら 0000_,20,488b29(00):んとするにあり。然れども此説は啻に事實に反する 0000_,20,488b30(00):のみならず。理論の上に鉾楯を有す。行空。親鸞は且 0000_,20,488b31(00):く之を措くも。幸西が門下を擯斥せられたりとは後 0000_,20,488b32(00):に辨ずる如く事實に反す。又彼が唱へたりと云ふ一 0000_,20,488b33(00):念義を云云すれども。源流章等により其主張を窺ふ 0000_,20,488b34(00):に。常途解せらるる所とは大に異にして。彼の主張 0000_,20,489a01(00):と。證空の主張と相距ること決して遠きものにあらず。 0000_,20,489a02(00):若一念義の故を以て門下に列せずとならば。證空を 0000_,20,489a03(00):も除くべきなり。且幸西・行空・證空・親鸞の主張 0000_,20,489a04(00):は。何れも一系の上に立ちて。唯程度を異にするの 0000_,20,489a05(00):み。故に若證空を除かずとすれば。幸西。行空。親 0000_,20,489a06(00):鸞も排す可らず。彼等を除くべしとせば。證空も門 0000_,20,489a07(00):下に留むべからず。又幸西一系の主張が。宗祖の敎 0000_,20,489a08(00):に背反するが故に。門下に列せずとすれば。長西の 0000_,20,489a09(00):如きも同理由により排斥せざるべからず。加尚此 0000_,20,489a10(00):四流の説の宗史上より見て許すべからざるは。辨阿 0000_,20,489a11(00):を以て他の三人と同列に置くことなり。辨阿は正統第 0000_,20,489a12(00):二祖なり豈他の三人と同一視すべけんや。故に宗祖 0000_,20,489a13(00):門下に於て異説を唱へ。一派を樹立したる者として 0000_,20,489a14(00):は。隆寬・長西・幸西・證空・行空・親鸞の六人を 0000_,20,489a15(00):列擧するを妥當とすべし。而も行空は其主張殆んど 0000_,20,489a16(00):幸西と一致し一の流派と見做す程の價値なしとすれ 0000_,20,489a17(00):ば。結局宗祖門下の異流は五ありしと云ふべきなり。 0000_,20,489b18(00):二 成覺房幸西 0000_,20,489b19(00):幸西。族姓郷貫を詳にせず。或は云ふ物部氏と戈 0000_,20,489b20(00):遺古德傳七)。或は云ふ平資盛遺腹の子にして江州津 0000_,20,489b21(00):田莊津田親冬に成育せられ。津田先生權太郞親實或作 0000_,20,489b22(00):親眞と稱せしが。後比叡山に出家して覺盛と號し。更 0000_,20,489b23(00):に成覺と改めたりと(御傳翼賛遺事)。織田系圖を見 0000_,20,489b24(00):るに。資盛の遺子に三郞權太夫親眞あるも權太郞に 0000_,20,489b25(00):非ず。又出家のことなし。或宗脈に建曆二年彼五十歳 0000_,20,489b26(00):なりしと云ふを眞とせば。二條天皇長寬元年は其生 0000_,20,489b27(00):年なるが如し。 0000_,20,489b28(00):彼少壯の頃比叡山西塔南谷に住し鐘本房(或鐘下 0000_,20,489b29(00):房カネモト房鐘月房に作る)少輔と號し。山中に於 0000_,20,489b30(00):ても聰敏の譽高かりしが。事縁にふれ厭世隱遁の情 0000_,20,489b31(00):禁じがたく。遂に叡山を下りて宗祖の門に投じ。成 0000_,20,489b32(00):覺房(或成覺坊成學坊淨覺法師に作る)幸西と改名 0000_,20,489b33(00):す。是彼三十六歳の時なりと云ふ。前に擧げし或宗 0000_,20,489b34(00):脈の説によれば。建久九年選擇述作の年なり。爾來 0000_,20,490a01(00):宗祖門下にあり宗乘を修學せしが。宗祖の單信口稱 0000_,20,490a02(00):の敎訓に滿足せずして。一念の新義を主張するに至 0000_,20,490a03(00):れり。 0000_,20,490a04(00):彼れの一念義は宗祖の敎旨を極端に推演したるも 0000_,20,490a05(00):のにして。宗祖門下にも之れに雷同する者少からざ 0000_,20,490a06(00):りしが如きも。又之に反對して辯難攻擊を加へたる 0000_,20,490a07(00):人も多かりしが如し。或時平基親彼と一念多念の是 0000_,20,490a08(00):非を諍論し。宗祖に其裁斷を仰ぎ。又承元三年。越 0000_,20,490a09(00):後國に彼門弟(或は云ふ親鸞なりと)一念義を弘通せ 0000_,20,490a10(00):しに。宗祖門弟光明房も彼地にあり。彼等の説の宗 0000_,20,490a11(00):祖の敎旨と頗る相違するを見て。當時攝津國勝尾寺 0000_,20,490a12(00):に寓居せられし宗祖の下に書を上り。一念義の眞僞 0000_,20,490a13(00):を質せしに。宗祖は其妄説たるを證し。且つ之が停 0000_,20,490a14(00):止の起請文を賜へりと云ふ(行狀畫圖廿九)。 0000_,20,490a15(00):かく幸西が一念義を主張するを聞き。宗祖は屢彼 0000_,20,490a16(00):に訓誡を與へられしに。彼師訓に服從せず。尚ほ其 0000_,20,490a17(00):の義を骨張したるにより。宗祖は遂にわが弟子にあ 0000_,20,490b18(00):らずとて。門下を擯出せられたりと云ふ(行狀畫圖 0000_,20,490b19(00):廿九)然れども彼が宗祖門下を擯斥せられたりとの 0000_,20,490b20(00):傳説には考慮すべきものあり。 0000_,20,490b21(00):何となれば。元久元年の七箇條制誡文に。幸西は 0000_,20,490b22(00):第十五位に署名せり。故に排斥のことが假令事實と 0000_,20,490b23(00):するも。元久元年十一月以前に非らず。又建永二年 0000_,20,490b24(00):宗祖土佐に配謫の際。彼れが阿波國に流されたりと 0000_,20,490b25(00):の説あり戈遺古德傳七)。彼の流義が宗祖滅後百年 0000_,20,490b26(00):應長元年頃。尚波州に流行せし事實ある(淨土源流 0000_,20,490b27(00):章)に徴すれば。此の説も強ち否定し去るべからす。 0000_,20,490b28(00):加之宗祖滅後十六年。嘉祿三年六月に於ける法難に 0000_,20,490b29(00):は。彼は隆寬律師。空阿彌陀佛とともに。當時の念佛 0000_,20,490b30(00):弘通の張本人として遠流に處せられ(皇帝抄八)成 0000_,20,490b31(00):覺房なる僧名を改め枝重とし壹岐島配流に定められ 0000_,20,490b32(00):たり(百鍊抄十三)。或は云ふ伊豫國に流さると(十 0000_,20,490b33(00):卷傳十)。然れども其の年十月に至るも讚岐國大手島 0000_,20,490b34(00):邊を經囘して配處に赴かざりし(念佛者追放宣狀事) 0000_,20,491a01(00):との説によるに。當時彼が宗祖門下に於ける地位察 0000_,20,491a02(00):すべきなり。是を宗祖滅後に至りて。彼が門弟を籠 0000_,20,491a03(00):絡して此の位地を成せしと説かんは。彼と運命を共 0000_,20,491a04(00):にしたる隆寬。空阿彌陀佛の人格と併せ考へて。餘 0000_,20,491a05(00):りに酷なる解釋と云はざるを得ず。 0000_,20,491a06(00):彼が嘉祿三年以後の運命は甚漠然たり。或説に建 0000_,20,491a07(00):永二年宗祖配流の後。綽空後號親鸞と相伴ひ越後國に下 0000_,20,491a08(00):向し。國司城小太郞隼人佐基親に據り念佛宗を興隆 0000_,20,491a09(00):せんと欲せしが。歳餘にして兩人共に捨戒師敎に違 0000_,20,491a10(00):し門下を放たれ。覺盛(後成覺)獨り越前國に赴き。 0000_,20,491a11(00):遂に還俗して織田大明神神職の家に入婿し神官と成 0000_,20,491a12(00):り。其第十八世の後孫は織田信長なりと云ふ(御傳 0000_,20,491a13(00):翼賛遺事)も。前に述べし如く織田系譜中親眞に出 0000_,20,491a14(00):家の記事なきのみならず。嘉祿三年の事實と相違す 0000_,20,491a15(00):るを以て決して信ずべからず。或は云ふ彼宗祖門下 0000_,20,491a16(00):を放逐せらるる後。下總國栗原郷に赴き。道場を建 0000_,20,491a17(00):て道俗を勸化し。其門人永く此に止住せりと(五重 0000_,20,491b18(00):拾遺鈔中、五重拾遺見聞)。而して彼は寶治元年丁未 0000_,20,491b19(00):四月十四日八十五歳入滅とす(或宗脈)。 0000_,20,491b20(00):彼れの著書は。淨土源流章には。略料簡。一渧記。 0000_,20,491b21(00):稱佛記の三書を引用し。最須敬重繪詞五には。凡頓 0000_,20,491b22(00):一乘。略觀經義。略料簡。措心偈。持玄鈔の五書目 0000_,20,491b23(00):を擧ぐるも。何れも今や散逸して傳はらず。 0000_,20,491b24(00):幸西門下は。淨土源流章によるに。正定。正縁。 0000_,20,491b25(00):後投長西明信。入信。善性。勤信住于木幡の六人あり。善性の 0000_,20,491b26(00):門人に。永信。仙才あり。淨土傳燈總系譜によるに。 0000_,20,491b27(00):前八人の外了智。明敎。淨信。敎眞。證慧。了敎。 0000_,20,491b28(00):了圓。承眞の八人。及び了智の門人に。了敎。證慧 0000_,20,491b29(00):(前と同異不明)。敎信の三人。淨信門下に。慈道。 0000_,20,491b30(00):承眞(前と同異不明)。尊眞。了眞の四人を擧げ。入 0000_,20,491b31(00):信を入眞とし。其下に傾心を擧げ。正縁を正圓とす。 0000_,20,491b32(00):此等門人がいかに散在し。師敎をいかに弘通したる 0000_,20,491b33(00):かは。今多く知るに由なし。淨土源流章には。並弘 0000_,20,491b34(00):所承流通遐邇。洛陽波州阿波于今有之とあれば。 0000_,20,492a01(00):京都と阿波とは尤も長く此派の流行せし所なるを知 0000_,20,492a02(00):るべし。又最須敬重繪詞五には。『又慈光寺ノ勝縁上 0000_,20,492a03(00):人ニ對シテ一念ノ流ヲモ習學アリケリコレモ凡頓一 0000_,20,492a04(00):乘略觀經義略料簡措心偈持玄鈔ナドイフ幸西上人ノ 0000_,20,492a05(00):製作ユルサレニヨリテカキトリ給ケリ』とあり。勝 0000_,20,492a06(00):縁上人とは源流章の正縁總系譜の正圓なるが如し。 0000_,20,492a07(00):三 善慧房證空 0000_,20,492a08(00):證空は。加賀權守親季の子にして。久我内大臣通 0000_,20,492a09(00):親の猶子たり。治承元年十一月九日誕生す。建久元 0000_,20,492a10(00):年四月十四歳にして宗祖の門に投じ。次で登壇出家 0000_,20,492a11(00):して解脱房證空と號せしが。後善慧房と改む。建久 0000_,20,492a12(00):九年宗祖選擇集述作の際勘文役を命ぜられたり(密 0000_,20,492a13(00):要決一、選擇集祕鈔一、淨土源流章)と傳ふるも。 0000_,20,492a14(00):宗祖門下人物に乏しからず。曷ぞ特に二十二歳(源 0000_,20,492a15(00):流章二十三とするは誤)の靑年を選び此重任を負は 0000_,20,492a16(00):しむべき。惟ふに彼門に於て其祖を高くせんとする 0000_,20,492a17(00):より出でし説に過ぎざるべく。源流章は傳説を其ま 0000_,20,492b18(00):ま記せしものに外ならざるべし。然れども彼の元久 0000_,20,492b19(00):元年七箇條制誡文の第四位に彼れが署名せるを見れ 0000_,20,492b20(00):ば。宗祖門下に於ける彼の位地は決して輕からざり 0000_,20,492b21(00):しを知り得べし。建永二年宗祖流罪の際。彼も亦流 0000_,20,492b22(00):罪に定められしも。無動寺前大僧正(慈圓)の辨護に 0000_,20,492b23(00):よりて配處に赴かざりしといふ戈遺古德傳七)。 0000_,20,492b24(00):宗祖滅後に於ても。宗祖門下の頭目の一人と認め 0000_,20,492b25(00):られしと見え。念佛者追放宣狀事には。『專修念佛張 0000_,20,492b26(00):本之事。唯佛。鏡佛。智願。定眞。圓眞。正阿彌陀 0000_,20,492b27(00):佛。名阿彌陀佛。善慧。道辨ハ眞如堂狼籍張本也已 0000_,20,492b28(00):上』とあり。嘉祿三年六月の法難には。彼も隆寬。幸 0000_,20,492b29(00):西。空阿彌陀佛とともに流罪に處せらるべかりしも。 0000_,20,492b30(00):兄叡山東塔西谷持敎房僧都が。彼の專修念佛徒に非 0000_,20,492b31(00):る由を辨じ。且つ天台六十卷の印版を開き。山門の 0000_,20,492b32(00):流通物たらしむべき宿願ありとの事を山上に披露せ 0000_,20,492b33(00):しを以て。之を免れたりと云ふ(十卷傳十)。若し之 0000_,20,492b34(00):を事實とせば。彼の性格が。宗祖の如き。信仰に殉 0000_,20,493a01(00):じて悔いざる底のものならざりしは察するに難から 0000_,20,493a02(00):ず。 0000_,20,493a03(00):彼が宗祖に隨從すること。廿三年なれば。時日短 0000_,20,493a04(00):しとすべからざるも。宗祖晩年の門弟として。諸宗 0000_,20,493a05(00):の敎義に於ては餘り多く敎授を蒙ること能はず。故 0000_,20,493a06(00):に宗祖滅後に至りて。當時天台學匠たりし日野(後 0000_,20,493a07(00):河内國太子御廟の處に住せしと云ふ)願蓮に從ひて 0000_,20,493a08(00):天台宗を研究したり。彼の敎義が天台的色彩に富む 0000_,20,493a09(00):は之が爲なりと云ふ(淨土源流章)。或宗脈に『太子墳 0000_,20,493a10(00):陵立三重雁塔被始置法華問答講舍利講定置於結 0000_,20,493a11(00):番僧令勤行不斷念佛』とあり。太子墳陵とは河内 0000_,20,493a12(00):國南河内郡(元石川郡)磯長太子陵にして。源流章に云 0000_,20,493a13(00):ふ證空の天台の師。願蓮の後に住せし所なり。此の 0000_,20,493a14(00):説といひ。上揭の三大部開版の宿願を有せしといひ。 0000_,20,493a15(00):又先亡の爲めに毎月十五日に廿五三昧を修し。入寂 0000_,20,493a16(00):に先ち天台大師講を修行したり(行狀畫圖)とのことを 0000_,20,493a17(00):合せ考ふるに。彼が願蓮に私淑し。宗祖滅後天台の 0000_,20,493b18(00):宗風に影響せられたること大なりしは諍ふべから 0000_,20,493b19(00):ず。 0000_,20,493b20(00):彼後には小坂洛東綾小路末に居り宗風を弘通せしによ 0000_,20,493b21(00):り。小坂證空。小坂義の名あり。或宗脈によるに。 0000_,20,493b22(00):西山善峰寺北尾往生院(後三鈷寺と稱す今天台宗に 0000_,20,493b23(00):屬す)を復興し。塔堂經藏鐘樓食堂溫屋坊十餘宇を 0000_,20,493b24(00):建立し。古佛新佛影像等聖容數十餘體を修覆し。四 0000_,20,493b25(00):箇の行法を始めたりと云ふ。後世彼を西山善慧房西 0000_,20,493b26(00):山上人と云ひ。彼流義を西山義。西山流と稱するは 0000_,20,493b27(00):之が爲なり。尚同宗脈に。彼は白河歡喜心院に三重 0000_,20,493b28(00):塔を立て。二階連舍(長屋歟)を造り。京東南(東福 0000_,20,493b29(00):寺門前。後一條北廬山寺南に移る)に遣迎院を立て。 0000_,20,493b30(00):坊舍等を建造し。攝津國武庫川に橋を架し。又同所 0000_,20,493b31(00):に淨橋寺を立て。又當麻曼陀羅數十鋪を圖繪して。 0000_,20,493b32(00):善光寺已下諸所の道場に施入し。五部大乘經。天台 0000_,20,493b33(00):六十卷。淨名。涅槃等疏。梵網經。同義疏。顯揚論。顯 0000_,20,493b34(00):揚大戒論等の印版を開彫せりと云ふ。是等諸種の事 0000_,20,494a01(00):業をなしたることは。念佛主義の彼としては甚だ信 0000_,20,494a02(00):じ難きことなれども。諸行も念佛に開會すればまた淨 0000_,20,494a03(00):土の行たりとの主張に思ひ合す時は。決して怪しむ 0000_,20,494a04(00):に足らざるなり。幸西と同年の寶治元年十一月二十 0000_,20,494a05(00):六日。七十一歳を以て西山往生院に入寂す。遺身を 0000_,20,494a06(00):寺中に歛め。塔を立て華臺廟と稱す。 0000_,20,494a07(00):證空の著書には。觀經疏秘決集二十卷。他筆鈔十 0000_,20,494a08(00):卷。觀門要義鈔四十三卷(薄墨鈔)。曼陀羅註記十 0000_,20,494a09(00):卷。當麻曼陀羅供養式一卷。同八講論義鈔一卷。選擇 0000_,20,494a10(00):密要決五卷。四十八願鈔。修行要決等あり。 0000_,20,494a11(00):證空の門下。多士濟濟たるも。就中最も顯はれた 0000_,20,494a12(00):るは。淨音法興。圓空立信。證入觀鏡。道觀證慧の 0000_,20,494a13(00):四人にして。淨音の流派を西谷流。圓空の流派を深 0000_,20,494a14(00):草流。證入の流派を東山流。道觀の流派を嵯峨流と云 0000_,20,494a15(00):ふ。 0000_,20,494a16(00):一、西谷流 淨音は洛西仁和寺の西谷に光明寺を 0000_,20,494a17(00):建て。宗乘を敷演せるによりて此名あり。後洛東禪林 0000_,20,494b18(00):寺に住し。文永八年五月二十二日寂す。著す所。愚 0000_,20,494b19(00):要鈔等若干卷あり。淨音の門下。觀智。了音顯る。 0000_,20,494b20(00):觀智は淨音に繼ぎ禪林寺に住し。又武藏國荏原郡鵜 0000_,20,494b21(00):木光明寺に住して所承を弘む。觀智の下道空。行觀 0000_,20,494b22(00):著る。行觀は觀智に繼ぎ鵜木に居り寶幢院(後眞言 0000_,20,494b23(00):宗と成る)に住し。歷代祖師章鈔に註釋三十五卷を 0000_,20,494b24(00):著す。此等は何れも祕鈔と號すれども。又鵜木鈔。 0000_,20,494b25(00):或は寶幢院私記と稱す。正中二年五月九日寂す。行 0000_,20,494b26(00):觀門下觀敎あり。武藏國神奈川に住す。觀敎の弟子に 0000_,20,494b27(00):道覺あり。上野國吾妻に住す。其弟子識阿は貞治元 0000_,20,494b28(00):年吾妻郡原に善導寺を開く。道覺の弟子に圓光あ 0000_,20,494b29(00):り。識阿に繼ぎて善導寺第二世と成る。圓光の門下に 0000_,20,494b30(00):光雲あり。寶德二年紀伊國海草郡梶取に總持寺を開 0000_,20,494b31(00):く。是南海に於ける西山流の本山なり。文明年中寂 0000_,20,494b32(00):せり。著す所大經鈔。祕決集鈔。變相鈔。安養報身 0000_,20,494b33(00):報土義。淨土名目。選擇私鈔等數部あり。光雲門下 0000_,20,494b34(00):に乘運あり。尾張國葉栗郡飛保に曼陀羅寺(開創當 0000_,20,495a01(00):時は圓福寺と稱せしが寬正三年改號す)を開き。又 0000_,20,495a02(00):粟生野光明寺に住す。 0000_,20,495a03(00):了音は山城國八幡に住し。又京都六角に住して其 0000_,20,495a04(00):所承を弘通せるが故に。彼を八幡了音。或は六角了 0000_,20,495a05(00):音と呼び。其著す所の觀經疏鈔等を八幡鈔。或は六 0000_,20,495a06(00):角鈔と號す。又了音より義勝。永覺を經て智通あり。 0000_,20,495a07(00):美濃國市橋に立政寺を開く。道德高尚にして朝廷の 0000_,20,495a08(00):歸崇頗る厚く。紫衣並に菩薩號を下賜せらる。應永 0000_,20,495a09(00):十年五月朔日九十歳を以て寂す。著書に觀經口筆鈔。 0000_,20,495a10(00):論註口筆鈔。選擇口筆鈔等二十餘卷ありと云ふ。智 0000_,20,495a11(00):通門下に達智あり。嘉曆元年。尾張國愛知郡部田に 0000_,20,495a12(00):祐福寺を開く。達智の弟子に融傳あり。同國熱田に 0000_,20,495a13(00):正覺寺を創む。祐福寺。正覺寺は曼陀羅寺と共に尾 0000_,20,495a14(00):張に於ける西山派の檀林なり。此等の外融舜。南楚。 0000_,20,495a15(00):鐵空。貞準等知名の學者德家尠からず。西山四流中最 0000_,20,495a16(00):も繁榮し。光明寺。禪林寺等の諸本寺及諸大寺は多 0000_,20,495a17(00):く此門徒の支配相續する所なり。 0000_,20,495b18(00):二、深草流 圓空は洛南深草に眞宗院を開き。此 0000_,20,495b19(00):に流義を弘通す。故に此名あり。後證空に繼で西 0000_,20,495b20(00):山。遣迎の諸大寺を董し。龍護殿に補せらる。著す 0000_,20,495b21(00):所觀經疏記十卷等あり。弘安七年四月十八日寂す。 0000_,20,495b22(00):圓空の門下には顯意最著る。初筑紫の聖達に從ひし 0000_,20,495b23(00):も後圓空の弟子と成る。洛西釋迦院。竹林寺に住し 0000_,20,495b24(00):て法幢を建て。又眞宗院龍護殿に住す。著書には觀 0000_,20,495b25(00):經疏楷定記三十六卷。淨土疑端三卷等數部あり。嘉 0000_,20,495b26(00):元二年五月十九日寂す。顯意の門下道意あり。洛東 0000_,20,495b27(00):に圓福寺を開く。道意の弟子頓乘は圓福寺に住し。又 0000_,20,495b28(00):綾小路猪熊に住して弘通し。頓乘の弟子堯慧は圓福 0000_,20,495b29(00):寺に住し。論註。選擇集等の私集鈔を作る。堯慧の弟 0000_,20,495b30(00):子に龍藝あり。至德年中。三河國額田郡山中法藏寺を 0000_,20,495b31(00):再興す。龍藝の法孫敎然は。同國額田郡岩津に妙心 0000_,20,495b32(00):寺を開く。中古法藏。妙心兩寺は深草檀林として有 0000_,20,495b33(00):名なり。此流は西谷に次ぎ隆盛にして。誓願寺。圓 0000_,20,495b34(00):福寺等の本山は。其末葉の支配する所なり。 0000_,20,496a01(00):三、東山流 證入。洛東宮辻子に阿彌陀院を開き 0000_,20,496a02(00):住す。故に東山流或は宮辻子義と稱す。寬元二年七 0000_,20,496a03(00):月七日寂す。彼門人中觀日は阿彌陀院を繼承し。智 0000_,20,496a04(00):道は鎌倉新善光寺に住し。證佛は證入に淨敎を禀承 0000_,20,496a05(00):したる後。密敎を高野道範に習ひ。戒律を東大の圓 0000_,20,496a06(00):照に受け。洛東安養寺を中興し。又八幡に住して所 0000_,20,496a07(00):承を弘む。 0000_,20,496a08(00):四、嵯峨流 道觀は初證入に從ひ後證空に學ぶ。 0000_,20,496a09(00):後嵯峨院深く彼に歸依し。洛西嵯峨小倉山に淨金剛 0000_,20,496a10(00):院を建て開山とし給ふ。彼此に所承を弘通せしが故 0000_,20,496a11(00):に。嵯峨流の名あり。文永元年五月三日寂す。 0000_,20,496a12(00):以上東山。嵯峨二流は。西谷。深草に比すれば。 0000_,20,496a13(00):門葉甚寂莫を極め。且つ其存續も甚短かく。之を前 0000_,20,496a14(00):二流と並列するは不倫の觀なきに非るも。這は末葉 0000_,20,496a15(00):のことに屬し。流祖當時に於ては拮抗して相降らざり 0000_,20,496a16(00):しものならん。 0000_,20,496a17(00):以上四流の外。遊觀の法統は三鈷寺を相續して繁 0000_,20,496b18(00):昌し。聖達は肥前國藤津郡八木本村原山知恩寺を開 0000_,20,496b19(00):き。道化一隅に普及し。其門下に時宗の開祖一遍上 0000_,20,496b20(00):人を出せり。一説には親鸞をも西山門下に屬せしむ。 0000_,20,496b21(00):是其敎義の似たるより來れる説歟。 0000_,20,496b22(00):四 隆寬律師 0000_,20,496b23(00):隆寬は無我或は皆空と號す。粟田道兼五代孫資隆 0000_,20,496b24(00):の三男にして。皇圓阿闍梨は其叔父なり。出家して 0000_,20,496b25(00):皇圓の法兄範源法印に受法し。後吉水慈圓僧正の門 0000_,20,496b26(00):弟たり。比叡山に於ける彼位地は。其權律師に任ぜ 0000_,20,496b27(00):られ。又建久三年根本中堂安居の結願導師に推され 0000_,20,496b28(00):たりと云ふ傳説に徴するに。甚輕からざりしを知る 0000_,20,496b29(00):に足るべし。後淨土門を欣慕し宗祖の門に入る。其 0000_,20,496b30(00):入門の年月は不明なるも。建久三年導師に推薦せら 0000_,20,496b31(00):れし時。宗祖門下に出入するの理由を以て。衆徒が 0000_,20,496b32(00):反對を唱へしとの説を眞とすれば。其以前に屬する 0000_,20,496b33(00):こと明なり。從て安貞元年八十歳入寂とすれば。四十 0000_,20,496b34(00):五歳已前のことなり。 0000_,20,497a01(00):吉水の南。圓山長樂寺の來迎房に住す。故に其流 0000_,20,497a02(00):義を長樂寺流と稱す。歸淨以後毎日阿彌陀經四十八 0000_,20,497a03(00):卷を讀み。念佛三萬五千遍の行者と成りしが。後六 0000_,20,497a04(00):萬遍に增加したり。其後又宗祖の彌陀經讀誦を廢し 0000_,20,497a05(00):て。一向稱名の外他事を行せずとの談を聞くに及び。 0000_,20,497a06(00):四十八卷彌陀經讀誦を止め。毎日八萬四千遍の稱名 0000_,20,497a07(00):を勤修するに至りしと云ふ。盖宗祖門下中最多の日 0000_,20,497a08(00):課稱名を勤めたる人。其流義を一念義に對して多念 0000_,20,497a09(00):義と稱するも。恐らく此事實に因づくものならん。 0000_,20,497a10(00):元久元年三月十四日。彼が宗祖の小松殿の菴居を 0000_,20,497a11(00):訪ひしに。宗祖選擇集を授けて書寫せしめ。不審を 0000_,20,497a12(00):質すべきを命ぜられしかば。尊性。昇蓮等に助筆せ 0000_,20,497a13(00):しめて。急ぎ之を書寫したりと云ふ。選擇集の授受 0000_,20,497a14(00):は。宗祖在世には嚴密なりしに拘はらず。彼が此殊 0000_,20,497a15(00):遇を蒙りしに徴するに。宗祖在世中。既に門下に於 0000_,20,497a16(00):ける位地の尋常ならざりしを知るべし。宗祖滅後彼 0000_,20,497a17(00):が宗祖門弟中に頭角を現せしことは。嘉祿三年の法難 0000_,20,497b18(00):に際して最も顯著なりき。 0000_,20,497b19(00):嘉祿三年の法難が。南都北嶺の念佛興隆に對す 0000_,20,497b20(00):る。怨嗟訴訟に因くは言迄もなし。然れども山門衆 0000_,20,497b21(00):徒の憤怒を激發したる直接原因は。律師にありとま 0000_,20,497b22(00):で傳へらる。盖當時叡山に。證眞法印の門弟に隆眞 0000_,20,497b23(00):法橋(並榎竪者定照と云ふものあるも疑し)と云ふ 0000_,20,497b24(00):者あり。彈選擇一卷(或は二卷)を作り。宗祖の選擇 0000_,20,497b25(00):集を彈劾す。律師顯選擇を造り彼を辨破し。尚彼の 0000_,20,497b26(00):彈劾の當らざるを。暗天の飛礫の如しと嘲笑せり。 0000_,20,497b27(00):之を見たる山門衆徒は。年來の積憤一時に破裂し。 0000_,20,497b28(00):隆眞の同法永尊竪者(定照或は定增とは永尊の訛傳 0000_,20,497b29(00):に非るか)。之が巨魁として朝廷に囂訴し。彼が如き 0000_,20,497b30(00):大慘劇を演ずるに至りしなり。 0000_,20,497b31(00):嘉祿三年七月七日(或は六日)。律師は幸西。空阿 0000_,20,497b32(00):彌陀佛と共に流刑に處せられ。度牒を召上げられ。 0000_,20,497b33(00):俗名を山遠里と賜ひ陸奧國に配せらる(百鍊鈔十 0000_,20,497b34(00):三)。同年九月二十六日。山門の訴訟により更に對 0000_,20,498a01(00):馬に改めらる(念佛者追放宣狀事)。律師がいかに山 0000_,20,498a02(00):門衆徒の憎惡する所なりしかを見るべし。 0000_,20,498a03(00):律師は配謫の宣命下るとききしも。些も驚く所な 0000_,20,498a04(00):く。長樂寺來迎房に。最後の七日如法念佛を修行し 0000_,20,498a05(00):たる後悠悠として配處に下向せり。 0000_,20,498a06(00):律師東送の役を命ぜられしは森入道西阿(大江廣 0000_,20,498a07(00):元息季光)なり。然るに西阿は熱心なる念佛者にし 0000_,20,498a08(00):て。寶治元年六月五日三浦泰村の叛亂に加り。戰利 0000_,20,498a09(00):あらず自殺せんとするに臨み。諸衆を勸請し。一佛 0000_,20,498a10(00):淨土之因を傾けんが爲に。法事讚を修行し之を廻向 0000_,20,498a11(00):したる(東鑑卅八)程の人なり。或は京都にて師弟 0000_,20,498a12(00):の契ありしも知るべからず。故に律師の老邁の身に 0000_,20,498a13(00):して。遠寒の地に赴くを見るに忍びず。策を搆へて 0000_,20,498a14(00):律師の代理として其門弟實成房を配處に遣し。律師 0000_,20,498a15(00):は自己の領地相模飯山(愛甲郡に在り今小鮎村と改 0000_,20,498a16(00):む。眞宗光福寺あり律師を開基とす)に置き。欵待崇 0000_,20,498a17(00):敬を盡せり。かくて律師は後配所對馬に赴かざりし 0000_,20,498b18(00):のみならず。初の配處たる陸奧にも赴かずして。相 0000_,20,498b19(00):模飯山に止りしが。而も老衰に加ふるに風痾に冐か 0000_,20,498b20(00):され。同年仲冬病床の人となり。西阿の看病も効な 0000_,20,498b21(00):く。十二月十三日。高聲念佛二百餘遍。又彌陀身色 0000_,20,498b22(00):如金山の讚文を唱へ。門弟正智。唯願等に看護せら 0000_,20,498b23(00):れて入寂せり。春秋八十なりしと云ふ。彼の著述と 0000_,20,498b24(00):して傳へらるるものに捨子問答二卷。閑亭後世物語 0000_,20,498b25(00):二卷。宗祖祕傳三卷。一念多念分別事一卷。自力他 0000_,20,498b26(00):力事一卷等あり。 0000_,20,498b27(00):隆寬律師の門下に就ては。淨土源流章は。敬日 0000_,20,498b28(00):最須敬重繪詞敬日房圓海。智慶道號南無。信阿。聖實。理觀。如性六人を 0000_,20,498b29(00):擧げ。敬日門下に慈信最須敬重繪詞慈信房澄海。慈信門下に。唯性 0000_,20,498b30(00):を出し。智慶門下に。隆慶道號敬願。信樂。信承の三人。 0000_,20,498b31(00):隆慶門下に。長空道號信敎隆慶甥也。能念。長空門下に。寬海 0000_,20,498b32(00):道號空藏。能念門下に。觀念。了念兩人を出す。 0000_,20,498b33(00):敬日は師承に違し。諸行は非本願なれども報土に 0000_,20,498b34(00):生ず。觀經九品の中上上品は報土。餘は邊地なりと主 0000_,20,499a01(00):張せり(源流章)。又圓宗の要文を集め。簡要なる説 0000_,20,499a02(00):明を記し。初心集と題せる五卷の秘鈔を造れり(最 0000_,20,499a03(00):須敬重繪詞二)。慈信はもと比叡山の學侶にして。 0000_,20,499a04(00):侍從竪者貞舜と號せしが。淨土に歸入の後。慈信房 0000_,20,499a05(00):澄海と改めたり(最須敬重繪詞二)。彼また異義を主 0000_,20,499a06(00):張して。念佛諸行共に本願にして。共に報土に往生 0000_,20,499a07(00):するを説けり(源流章)。唯性の外最須敬重繪詞五 0000_,20,499a08(00):に。慈信の眞弟として禪日房良海を擧げ。存覺一期 0000_,20,499a09(00):記上には。正安元年大谷南敷地は。直法萬疋を以て 0000_,20,499a10(00):彼より買求めたりと云ふ。敬日。慈信。禪日は相次 0000_,20,499a11(00):て洛東に於ける律師の舊跡或は其附近に止住し。京 0000_,20,499a12(00):都に於ける一流の中心たりしが如し、故に本願寺覺 0000_,20,499a13(00):如は。文永十一年(九才)秋より慈信の門下にあり 0000_,20,499a14(00):て。内外典の素讀を受け。又成人の後。禪日より敬 0000_,20,499a15(00):日慈信相傳の鈔物祕書等を。彼地所買受の際讓受け 0000_,20,499a16(00):たりと云ふ(最須敬重繪詞二、五、)。 0000_,20,499a17(00):智慶は關東の人。初め天台を學びしが。後上洛し 0000_,20,499b18(00):て隆寬に就き淨敎を禀け。又關東に下り鎌倉に長樂 0000_,20,499b19(00):寺を開き(總系譜)。所承を弘通す。東土に淨敎の興 0000_,20,499b20(00):起したるは彼の力與て大なりしと云ふ(源流章)。隆 0000_,20,499b21(00):慶も亦關東人にして。智慶と同師の下に於ける天台 0000_,20,499b22(00):宗の學者なりしが。隆寬に從ひ。又智慶に就き淨土 0000_,20,499b23(00):敎を學び。智慶に繼ぎ長樂寺に住し所承を弘敷した 0000_,20,499b24(00):り。信樂も初めは隆寬に學び。後智慶に從ひしと云 0000_,20,499b25(00):ふ。信承は延曆寺法印權大僧都にして。天台の學匠 0000_,20,499b26(00):なりしが。智慶に從ひ淨土門に歸入したり。寬海は 0000_,20,499b27(00):圓照上人傳に於ける觀海と同人なるべし。關東人に 0000_,20,499b28(00):して長空に從ひ淨敎を學びしが。文永の頃洛陽に大 0000_,20,499b29(00):光明寺を建て。又戒壇院圓照に從ひ比丘戒を受け眞 0000_,20,499b30(00):言を相傳す。 0000_,20,499b31(00):淨土傳燈總系譜下には尚多數の門葉を附加す。就 0000_,20,499b32(00):中最注意すべきは願行なり。願行諱は憲靜。圓滿と 0000_,20,499b33(00):號す。業を南都の智鏡に受け。密灌を醍醐の賴賢に 0000_,20,499b34(00):傳受す。後隆寬に從ひ淨敎を禀く。初京都泉涌寺に 0000_,20,500a01(00):住し、後鎌倉に赴き理智光寺を開き。又名越安養院 0000_,20,500a02(00):を創む。或時常州阿彌陀山に到り專心念佛を策修し 0000_,20,500a03(00):たりと云ふ。晩年西に歸り東寺を再興し。又高野山 0000_,20,500a04(00):を修補し。建治二年(宗祖滅後六十五年)八月廿九 0000_,20,500a05(00):日寂(總系譜下)。或は永仁三年(宗祖滅後八十四年) 0000_,20,500a06(00):寂と(大山不動靈記)。安養院は元長谷の前稻瀨川邊 0000_,20,500a07(00):に在りしが。高時滅亡の後今地に移すと云へば(新 0000_,20,500a08(00):編鎌倉誌)。其際善導寺と合併したるものか。第二世 0000_,20,500a09(00):は蓮念(律師の弟子)にして。第三世は尊觀とす。 0000_,20,500a10(00):五 覺明房長西 0000_,20,500a11(00):覺明房長西は。讚岐國西三谷の人。建久三年九歳 0000_,20,500a12(00):にして上洛し。菅家の長者に從ひ俗典を學び。建仁 0000_,20,500a13(00):二年十九歳にして宗祖門下に投じ出家す。爾後宗祖 0000_,20,500a14(00):に給事すること十一年なりしが。建曆二年宗祖入滅の 0000_,20,500a15(00):後は。四方に遊學し諸宗を研究せしが。就中出雲路 0000_,20,500a16(00):住心房覺瑜及俊芿法師に天台摩訶止觀を學び。佛法 0000_,20,500a17(00):禪師に參し禪旨を禀け。其他起信釋論等をも暗鍊せ 0000_,20,500b18(00):り(源流章)。故に長西の淨土敎も。此等諸宗就中 0000_,20,500b19(00):天台の敎義の影響を蒙ること甚しく。念佛本願の外 0000_,20,500b20(00):に。或は念佛本願と倶に。諸行亦本願行なりとの異 0000_,20,500b21(00):義を主張し。當時宗祖唱道の本願念佛主義と別立し 0000_,20,500b22(00):て。諸行本願を主張せる出雲路住心。生馬良遍。木 0000_,20,500b23(00):幡眞空。知足院悟阿等の天台三論法相の人師に雷同 0000_,20,500b24(00):せり。成業の後。暫く郷里西三谷に歸りて念佛宗を 0000_,20,500b25(00):弘通せしが。幾もなく此地を上足覺心に附し。再び 0000_,20,500b26(00):上洛して郊北に九品寺を立て。此に其主張の淨土敎 0000_,20,500b27(00):を宣説したり。其滅年は明ならざるも。凝然大德の 0000_,20,500b28(00):維摩經疏菴羅記第九卷に昔北洛九品寺長西上人淨土 0000_,20,500b29(00):法門之先德也。予齡居二十二往詣彼寺聽講善導 0000_,20,500b30(00):和尚觀經義疏于時長西大德年齡七十八。即弘長元年 0000_,20,500b31(00):辛酉七月自恣竟也云云。と云ふ記事あり。之により 0000_,20,500b32(00):て弘長元年七十八歳にして尚九品寺に住し。善導觀 0000_,20,500b33(00):經疏を講じ。四來の學生を敎授したるを見るべし。 0000_,20,500b34(00):長西の著述として今日流傳するものに。選擇本願 0000_,20,501a01(00):念佛集名體決。念佛本願義(全書第八卷)。淨土依憑 0000_,20,501a02(00):經論章疏目錄(又長西錄と稱す)あり。淨土源流章 0000_,20,501a03(00):には。此外に彼が門弟澄空。理圓兩人の論諍を決判 0000_,20,501a04(00):する爲に著せる五劫思惟諍論鈔と稱する書ありと傳 0000_,20,501a05(00):ふるも。散逸して傳はらず。 0000_,20,501a06(00):長西門下は源流章に澄空。理圓。覺心。阿彌陀 0000_,20,501a07(00):房。空寂。十地。道敎。上衍。證忍を列す。澄空。 0000_,20,501a08(00):理圓は共に天台の學匠たりしが。後に長西に從ひ淨 0000_,20,501a09(00):敎を習ひ。曾て法藏比丘の五劫思惟は。思行何れな 0000_,20,501a10(00):るかを諍論し。長西五劫思惟諍論鈔を造りて之を決 0000_,20,501a11(00):判せりと云ふ。覺心は倶舍論釋論に精通したりし 0000_,20,501a12(00):が。師跡を禀けて讚岐西三谷の寺に住し所承を弘む。 0000_,20,501a13(00):泉涌寺覺阿之に從ひ淨敎並に倶舍を學ぶ。覺心門下 0000_,20,501a14(00):又西覺あり。兼て證忍に學ぶ。阿彌陀の下禪信あ 0000_,20,501a15(00):り。知足院了敏又阿彌陀に從ひ淨敎を學ぶ。空寂は 0000_,20,501a16(00):著述多く。大日經疏五卷。觀經疏記八卷。元照彌陀 0000_,20,501a17(00):經疏鈔三卷等ありしと云ふ。道敎は關東に於て講布 0000_,20,501b18(00):し末葉連綿たりしと云ふ。上衍。證忍は師跡九品寺 0000_,20,501b19(00):に住し所承を弘め其感化大なりしと云ふ。 0000_,20,501b20(00):六 善信房親鸞 0000_,20,501b21(00):親鸞は。日野有範の子。四歳父を喪ひ。八歳母を 0000_,20,501b22(00):亡ひて。後伯父範綱に養はる。養和元年春九歳にし 0000_,20,501b23(00):て。靑蓮院慈圓の門に投じて出家し。範宴と號し。其 0000_,20,501b24(00):冬登壇受戒す。建仁元年廿九歳にして宗祖の門に入 0000_,20,501b25(00):り。名を綽空と改め。宗要を學ぶ。或時九條公の 0000_,20,501b26(00):請。宗祖の命により妻帶するに至りたると傳ふるも。 0000_,20,501b27(00):妻帶は事實ならんも。公請祖命は信ずべからず。建 0000_,20,501b28(00):永二年蓮樂の事に坐して。宗祖と同時に越後に配流 0000_,20,501b29(00):せられたりと傳ふ。然るに其越後に布敎せるは事實 0000_,20,501b30(00):なるべきも。配流の事史實の徴すべきなし。後名を 0000_,20,501b31(00):善信と改めしが。更に親鸞と改めたり。建曆二年越 0000_,20,501b32(00):後より東北諸國に遊化すること二十餘年なりしが。其 0000_,20,501b33(00):間元仁元年常陸國茨城郡稻田に在りて敎行信證文類 0000_,20,501b34(00):六卷を著す。是彼が主張の宣言にして。彼宗の開創 0000_,20,502a01(00):なり。嘉祿元年。下野國芳賀郡高田に專修寺を創 0000_,20,502a02(00):む。貞永元年六十歳にして歸西の途に就き。京都に 0000_,20,502a03(00):歸り諸處に僑居せしが。弘長二年十一月廿八日。九 0000_,20,502a04(00):十歳を以て善法院に寂す。著す所。敎行信證文類の 0000_,20,502a05(00):外。淨土文類聚抄。愚禿抄。入出二門偈。三帖和 0000_,20,502a06(00):讚。三經往生文類。尊號眞像銘文。一念多念證文。 0000_,20,502a07(00):唯信抄文意等あり。 0000_,20,502a08(00):親鸞の流義を承繼するもの血統と法統とあり。蓋 0000_,20,502a09(00):彼は宗祖の敎義を極端に運ひ。且つ之を實行したる 0000_,20,502a10(00):人にして。肉食妻帶して半俗半僧の生活をなし。數 0000_,20,502a11(00):人の子女を有せり。季女日野廣綱に嫁せしが。廣綱 0000_,20,502a12(00):の沒後。其子覺慧と共に大谷に於ける親鸞の墳墓の 0000_,20,502a13(00):傍に廬を結び之を守る。是本願寺の起原なり。弘安 0000_,20,502a14(00):三年。親鸞の長子善鸞の子如信を奧州大網に迎へて 0000_,20,502a15(00):法嗣としたるも。後覺慧に之を附屬して東國に赴き 0000_,20,502a16(00):しかば。覺慧の子覺如宗昭次で本願寺第三世と成 0000_,20,502a17(00):る。覺如の長子存覺は。學問該博且文筆に長し。六 0000_,20,502b18(00):要鈔。選擇集註解鈔等著述非常に多く。其門徒間に 0000_,20,502b19(00):於ける輿望も大なりしが、父と宗義上意見の衝突あ 0000_,20,502b20(00):りしが爲に。常樂臺に別基を立て。其弟從覺の子善 0000_,20,502b21(00):如俊玄覺如の跡を襲ひて第四世と成りてより。綽如 0000_,20,502b22(00):時藝。巧如玄康。存如圓兼を經て。第八世蓮如兼壽 0000_,20,502b23(00):に及ぶ。蓮如は近畿北國東國を歷遊して。到處に深 0000_,20,502b24(00):厚なる感化を施し。祖風を發揚し。今日に於ける彼 0000_,20,502b25(00):門流隆盛の基礎を定めたり。蓮如の後實如光兼。證 0000_,20,502b26(00):如光敎を經て顯如光佐に至る。顯如の季子准如光昭 0000_,20,502b27(00):本願寺を相續し。長子敎如光壽別に本願寺を建つる 0000_,20,502b28(00):に及びて本願寺に東西の別あり。 0000_,20,502b29(00):親鸞の法統に屬するものは。眞佛。顯智。性信及 0000_,20,502b30(00):其門葉なり。顯智は眞佛の女婿にして。その子孫下 0000_,20,502b31(00):野國芳賀郡高田專修寺に居りしが故に。專修寺派。 0000_,20,502b32(00):或は高田派の稱あり。寬正六年。第十世眞慧之を伊 0000_,20,502b33(00):勢國奄藝郡一身田に移せしかば。適適一身田派の稱 0000_,20,502b34(00):なきに非るも。普通尚高田派と稱す。眞佛の弟子源 0000_,20,503a01(00):海。師の讓りを受けて山城國山科郷興正寺に住せし 0000_,20,503a02(00):が。七世了源の時之を京都に移し。且寺號を佛光寺と 0000_,20,503a03(00):改めしより。其門葉を佛光寺派と稱す。佛光寺第十 0000_,20,503a04(00):四世經豪。本願寺蓮如に歸し。名を蓮敎と改め。寺 0000_,20,503a05(00):を弟經譽に讓り。若干の門徒を率ひて。山科に赴 0000_,20,503a06(00):き。一寺を創め。舊號によりて興正寺と稱す。後又 0000_,20,503a07(00):京都に移る。此門葉を興正寺派と稱す。性信は親鸞 0000_,20,503a08(00):の讓を受け。近江國野洲木邊錦織寺に住し。相次ぎ 0000_,20,503a09(00):て慈空に至り。存覺の子綱嚴を以て其嗣とす。此門 0000_,20,503a10(00):葉を錦織寺派或は木邊派と稱す。其他越前には專照 0000_,20,503a11(00):寺・證誠寺・誠照寺・毫攝寺の四派あり。專照寺は 0000_,20,503a12(00):正應三年。如導が足羽郡大町に創立する所にして。 0000_,20,503a13(00):如覺道性の二弟子師化を輔翼して鼎足の形を成ぜし 0000_,20,503a14(00):により三門徒派の稱あり。寺は今福井市に在り。證 0000_,20,503a15(00):誠寺は如導の弟子道性が今立郡山元に開く所にし 0000_,20,503a16(00):て。其門葉を山元派と稱す。寺は今新橫江村橫越に 0000_,20,503a17(00):あり。誠照寺は道性の長子如覺の開く所にして。鯖 0000_,20,503b18(00):江町にありて誠照寺派の本山なり。毫攝寺は如導の 0000_,20,503b19(00):弟子。善智の開く所にして。元京都出雲路に在りし 0000_,20,503b20(00):との傳説により。其門葉を出雲路派と稱す。今本山 0000_,20,503b21(00):は今立郡味眞野村淸水頭にあり。 0000_,20,503b22(00):以上。親鸞の流派は非常に繁昌し。十派の多きに 0000_,20,503b23(00):及べり。其敎義儀禮には多少の相違あるは勿論なる 0000_,20,503b24(00):も。明治五年に至るまでは。總じて一向宗と稱せし 0000_,20,503b25(00):が。同年淨土眞宗號の公稱を許されたり 0000_,20,503b26(00): 0000_,20,503b27(00):第三章 二祖三祖の禀承弘敷 0000_,20,503b28(00): 0000_,20,503b29(00):一 二祖の嗣法 0000_,20,503b30(00):二祖。諱は辨長。又辨阿。聖光房と號す。又多く 0000_,20,503b31(00):鎭西に住し。其敎化が鎭西に渥かりしを以て。鎭西 0000_,20,503b32(00):上人の稱あり。仁孝天皇文政十年。大紹正宗國師の 0000_,20,503b33(00):敕諡を賜はる。應保二年(宗祖卅歳)五月六日。筑前 0000_,20,503b34(00):國遠賀郡香月(或加月勝木等に造る)庄楠橋邑古川館 0000_,20,504a01(00):に誕生す。父は香月氏の家臣。古川彈正左衞門則茂 0000_,20,504a02(00):入道順乘なり。仁安三年七歳にして。州の菩提寺 0000_,20,504a03(00):(宗祖入門の菩提寺と同じく香華院の意なるべく或 0000_,20,504a04(00):は後に出る白岩寺歟)妙法法師の門に投じ。安元元 0000_,20,504a05(00):年(開宗の年)十四歳にして登壇(壇の所在不明)受 0000_,20,504a06(00):戒す。爾後三箇年間。同州白岩寺(香月村に在り白 0000_,20,504a07(00):岩山勝福寺と稱し天台宗に屬す)唯心(或は云ふ唯 0000_,20,504a08(00):心も常寂と共に明星寺住と)に從ひ。後八箇年間同 0000_,20,504a09(00):州明星寺(嘉穗郡穗波郷に在りしも今頽廢して地名 0000_,20,504a10(00):に存するのみ)常寂に依りて。天台の宗義を學び。 0000_,20,504a11(00):壽永二年暮。二十二歳にして比叡山に遊學す。叡山 0000_,20,504a12(00):に於ては。初め唯心の指揮に從ひ。東塔南谷の學頭 0000_,20,504a13(00):觀叡法橋の室に宿せしが。觀叡の他國に去るに及 0000_,20,504a14(00):び。寶地房證眞の室に移る。證眞は慧檀兩流を兼學 0000_,20,504a15(00):して寶地房一流の學風を創めたる中古の明匠にし 0000_,20,504a16(00):て。宗祖に歸依篤かりし人なり。或は云ふ證眞の室 0000_,20,504a17(00):に入りしは觀叡の推薦によると(決疑鈔裏書、直牒 0000_,20,504b18(00):一)。叡山に在住すること前後八年。建久元年學成り 0000_,20,504b19(00):故郷に歸る。時に廿九歳なり。翌年油山(早良郡に 0000_,20,504b20(00):在り今寺廢絶す)の學頭に補せられ。其下に學徒雲 0000_,20,504b21(00):集せしが。建久四年某月日。舍弟三明房の卒倒せる 0000_,20,504b22(00):を見て。眼前の無常に驚き。頓に厭世の情を起し。 0000_,20,504b23(00):遁世の意を堅くせしが。疇昔修學の地たる明星寺の 0000_,20,504b24(00):浮圖が頽敗せしも。之を再興するに人なきを悲み。 0000_,20,504b25(00):衆徒強ひて之が勸進の任に膺らしむ。よつて遠近に 0000_,20,504b26(00):勸化し。又大日寺山に入りて用材を伐採す。建久八 0000_,20,504b27(00):年終に土木の功を竣り。該塔の本尊を奉迎せんが爲 0000_,20,504b28(00):に京都に上る。是實に二祖が宗祖に謁し。門下に入 0000_,20,504b29(00):るの好機會たりしなり。 0000_,20,504b30(00):二祖は叡山に在りて證眞門下に學びし際。證眞よ 0000_,20,504b31(00):り屢宗祖に關する物語を聞きて。窃に思慕の情を懷 0000_,20,504b32(00):き。隱遁を希望するに至り。益其情を高められし 0000_,20,504b33(00):に。這回上洛して。京極綾小路佛工の家に寓する 0000_,20,504b34(00):に及び。昔の記憶を回想し。佛像完成を待つの餘 0000_,20,505a01(00):暇。東山に於ける宗祖の禪房を訪問す。時に建久八 0000_,20,505a02(00):年五月上旬。宗祖六十五歳。二祖三十六歳なりき。 0000_,20,505a03(00):初謁の砌。宗祖は三重念佛の義を提唱し。台淨念佛 0000_,20,505a04(00):の差別を擧示せらる。爾後三箇月間。日日禪房に往 0000_,20,505a05(00):返し。淨敎を諮禀し。略宗要を領するに至る。然る 0000_,20,505a06(00):に佛像も完成せしかば。同年七月再會を約して郷里 0000_,20,505a07(00):に歸り。本尊を奉安し慶讚の式を擧げ。玆に世務を 0000_,20,505a08(00):果し。年來の素志たる隱遁生活を專にするを得る身 0000_,20,505a09(00):と成れり。 0000_,20,505a10(00):建久十年二月。再び上洛して宗祖門下の人と成 0000_,20,505a11(00):る。上洛幾ならずして選擇集の書寫を許され。元久 0000_,20,505a12(00):元年に至る迄六箇年間。日日禪房に參謁して提撕を 0000_,20,505a13(00):受け。三經一論の深義。列祖釋義の奧旨。宗祖己證 0000_,20,505a14(00):の幽玄を相承して。洩す所なく餘す所なし。傳燈遺 0000_,20,505a15(00):餘なきを證する爲め宗祖自筆の書あり『源空所存皆 0000_,20,505a16(00):申于御邊畢此外若有所存者以梵釋四王奉仰其 0000_,20,505a17(00):證在判』と。曾て大和入道見佛。宗祖に滅後法門の 0000_,20,505b18(00):疑難を決すべき人を尋ねしに。宗祖は『聖光及金光 0000_,20,505b19(00):精く我義を知るも遠國にありて面謁し難し聖覺も亦 0000_,20,505b20(00):我意を知り且洛中に在るが故に面謁し易し』と。又 0000_,20,505b21(00):或人竹谷乘願房に。誰人か宗祖の義を慥に述ぶるか 0000_,20,505b22(00):を尋ねしに。彼は聖覺法印。聖光上人也と答へたり 0000_,20,505b23(00):と云ふ。又勢觀房源智は。嘉禎三年九月廿一日。書 0000_,20,505b24(00):を善導寺に遣して云く。『抑先師念佛の義。末流濁 0000_,20,505b25(00):亂して。義道昔に似ざるは甚遺憾なり。但御邊一人 0000_,20,505b26(00):正義傳持の由。喜悅極り無し』と。正信房湛空云 0000_,20,505b27(00):く。『故上人の御義鎭西善導寺内に留る』と。又聖覺 0000_,20,505b28(00):法印説法の次に述べて云く。『京中興盛の義。共に全 0000_,20,505b29(00):く故上人の御義に非ず。但鎭西聖光房上人は數年稽 0000_,20,505b30(00):古せる人にして。故上人の御義に一分も違はず候云 0000_,20,505b31(00):云』と。幸西の弟子敬蓮社之を聞き。一念義を捨て 0000_,20,505b32(00):鎭西の門に入りしと云ふ。又三祖を二祖に紹介した 0000_,20,505b33(00):る生佛も。宗祖門下の異説多端にして去就に迷ひ。 0000_,20,505b34(00):信州善光寺の如來に之が指決を祈り。鎭西聖光房能 0000_,20,506a01(00):く往生の道を知るとの夢想を得たりと云ふ。 0000_,20,506a02(00):此等の傳説は。多く本宗所傳にして。門外者は我 0000_,20,506a03(00):田引水の證憑とせんも。選擇集と末代念佛授手印。 0000_,20,506a04(00):念佛名義集等を熟讀對照せば。此等の傳説も決して 0000_,20,506a05(00):妄浪虚僞の揑造説に非ず。聖光房辨阿が淨土宗第二 0000_,20,506a06(00):祖たることに。疑議を挿むの餘地あらざるべし。 0000_,20,506a07(00):二 二祖の弘法 0000_,20,506a08(00):(一) 伊豫の遊化 0000_,20,506a09(00):二祖は宗要を禀承せる後。第一に伊豫に行化せる 0000_,20,506a10(00):は。諸傳の一致する所なるも。其何處より赴き。其 0000_,20,506a11(00):が何年なりしかに就きては一樣ならず。本傳には 0000_,20,506a12(00):『建久九年到豫州勸念佛從八月至十二月道俗歸者如雲 0000_,20,506a13(00):也』と。而して之を鎭西歸郷と。建久十年再上洛と 0000_,20,506a14(00):の中間に置く。又行狀畫圖四十六には。『建久九年 0000_,20,506a15(00):八月に。上人の嚴命をうけて。豫州に下りて念佛を 0000_,20,506a16(00):すすむ。其化にしたがふものかずを知らず』と。是れ 0000_,20,506a17(00):歸國のことを記さず。直に京都より彼地に下向し。再び 0000_,20,506b18(00):京都に歸れりとするものの如し。本傳の傳ふる所の 0000_,20,506b19(00):如くならば。恐らく水路乘船の都合により。彼地に 0000_,20,506b20(00):上陸せるものにして。必ずしも宗祖の命令に非るが 0000_,20,506b21(00):如く見ゆるも。行狀畫圖の所説によれば。後年流罪に 0000_,20,506b22(00):處せられ。土佐の敎化を朝恩と喜ばれし。宗祖の心 0000_,20,506b23(00):狀より推するに。四國の開敎は。宗祖が餘程注意せら 0000_,20,506b24(00):れし結果とも見るべきか。かく二傳は伊豫の敎化を 0000_,20,506b25(00):建久九年とするも。傳法繪詞二には『弟子辨阿者。 0000_,20,506b26(00):上人入室後。先遣伊州弘通念佛。還鎭西建立於光 0000_,20,506b27(00):明寺。敎道一切衆生。遂往生宛如本望』(九卷傳第 0000_,20,506b28(00):三下、十卷傳第五之に同じ)とあるを見るに。先遣 0000_,20,506b29(00):と。還鎭西と引離して考ふれば。敕傳の如く解せら 0000_,20,506b30(00):れざるに非るも。此文は決して數年を其間に置きて 0000_,20,506b31(00):考ふべきものに非して。連續的事實と見るを穩當と 0000_,20,506b32(00):すれば。再度京都より歸國の途次のことなるが如し。 0000_,20,506b33(00):伊豫國に於ける敎化の事蹟が。如何なりしか今知 0000_,20,506b34(00):るの材料なし。後世二祖の遺跡と稱するもの二あ 0000_,20,507a01(00):り。一は松山市北京町正報寺(今正法寺に作る)な 0000_,20,507a02(00):り。學信和尚大林寺住職の頃。毎歳二月同門の僧を 0000_,20,507a03(00):率ひて。此寺に鎭西忌を修せしと云ふ。他は溫泉郡 0000_,20,507a04(00):久米村淨土寺なり。此寺眞言宗に屬し。栖林山三藏 0000_,20,507a05(00):院と號し。四國八十八箇所の第四十九番札所なり。 0000_,20,507a06(00):寺には宗祖二祖三祖各自作像を安置するが故に。亦 0000_,20,507a07(00):三像院と號せしが(大日本地名辭書)。後に松山侯之 0000_,20,507a08(00):を其香華院たる松山大林寺に移せりと云ふ(聖光上 0000_,20,507a09(00):人傳附錄)。要するに伊豫に於ける二祖の滯留は極 0000_,20,507a10(00):めて短時日なれば。其化迹の著大ならざりしことは想 0000_,20,507a11(00):像するに難からず。 0000_,20,507a12(00):(二) 中國の敎化 0000_,20,507a13(00):豫州遊化の前後は不明なるも。傳法相承の後石見 0000_,20,507a14(00):及備後に敎化せるが如し。即宗祖發祥地たる美作を 0000_,20,507a15(00):經て出雲大社に詣し。更に西して石見に到り。上野 0000_,20,507a16(00):圓應寺大悲殿に詣でしに。村民之に歸依し。爲に一 0000_,20,507a17(00):寺を創立せんと企て。地頭山野氏此擧を賛し。敷地 0000_,20,507b18(00):を寄附す。是れ大願寺なり。此寺後世安濃郡太田に 0000_,20,507b19(00):移る。備後に於ては。二祖遺跡として傳へらるるも 0000_,20,507b20(00):の。尾道に安養寺ありしも。德川時代既に廢絶し 0000_,20,507b21(00):て。其本尊は安藝國御調郡三原町大善寺に移安せら 0000_,20,507b22(00):れたりと云ふ(聖光上人傳附錄)。想ふに石見より伊 0000_,20,507b23(00):豫に赴く途中に於ける。休息所なりしならん歟。 0000_,20,507b24(00):(三) 筑肥の弘敷 0000_,20,507b25(00):二祖は。前述の如く。中國及び伊豫にも遊化せし 0000_,20,507b26(00):も。其感化の廣く且つ大なりしは。其郷里たる筑前 0000_,20,507b27(00):並に隣國筑後肥後にあり。故に鎭西聖光房。或は鎭 0000_,20,507b28(00):西上人の號は。決して虚名に非ず。此點は宗祖並に 0000_,20,507b29(00):三祖の敎化と趣を異にす。又豫言者は郷里に信ぜら 0000_,20,507b30(00):れずとの諺を。事實上に打消すものにして。是れ又 0000_,20,507b31(00):以て二祖の人格を窺ふべき一事實たらずんばあら 0000_,20,507b32(00):ず。 0000_,20,507b33(00):元久元年。歸郷に際して。二祖が何處に住し。如 0000_,20,507b34(00):何に敎化せしかは不明なるも。其郷里香月莊は。其 0000_,20,508a01(00):住處にして且敎化の根據地なりしことは。或傳説に 0000_,20,508a02(00):二祖の舊主香月則宗が。建保五年(歸郷十三年後) 0000_,20,508a03(00):同莊に吉祥寺を建立し。二祖棲居の地となせし(大 0000_,20,508a04(00):日本地名辭書)と云ふに徴して知るべし。又博多善 0000_,20,508a05(00):導寺。席田郡靑木村正定寺。光明寺(所在不明古跡 0000_,20,508a06(00):復興なりと云ふ)。嘉穗郡莊司村本誓寺。鞍手郡宮 0000_,20,508a07(00):田村極樂寺等を創剏したりとの傳説によれば。少く 0000_,20,508a08(00):とも建保五年頃までは。郷里にありて。一族郷黨並 0000_,20,508a09(00):に其附近の人人の化導に力めたるが如し。 0000_,20,508a10(00):筑後の敎化が。何年頃始まりしかは不明に屬すれ 0000_,20,508a11(00):ども。吉祥寺建立の傳説より考ふるに。建保五年上人 0000_,20,508a12(00):五十六歳以後なるが如し。此國敎化の根據中心は言 0000_,20,508a13(00):ふまでもなく三井郡山本郷に於ける善導寺なり。善 0000_,20,508a14(00):導寺は時の筑後國押領使たりし。草野太夫永平の敷 0000_,20,508a15(00):地を寄進して創建する所にして。始は光明寺と稱せ 0000_,20,508a16(00):しも。寺中唐土より渡來せしと傳へらるる。善導大 0000_,20,508a17(00):師像を奉安するによりて。通俗之を善導寺と稱せし 0000_,20,508b18(00):が。後には之が本號となり。光明は院號として保存 0000_,20,508b19(00):せらるるに至れり。永平夫妻共に二祖に歸向すること 0000_,20,508b20(00):厚く。後には二祖の弟子と成り。永平は要阿。妻は 0000_,20,508b21(00):作阿と稱し。專修念佛の行者と成れりと云ふ。 0000_,20,508b22(00):草野氏の歸依と外護は。物質的に伽藍の盛觀によ 0000_,20,508b23(00):り。又生活資料の豐富により。四方より多くの學徒 0000_,20,508b24(00):を誘致し。遠近の民衆を葵仰せしめしのみならず。 0000_,20,508b25(00):精神的にも之が模範を示し。下民をして之に倣ひ 0000_,20,508b26(00):て。二祖の德業に歸依せしむるに。與りて力ありし 0000_,20,508b27(00):こと明なり。 0000_,20,508b28(00):二祖は、善導寺を根據として。四方に敎化の羽翼 0000_,20,508b29(00):を張り。筑後は勿論肥後にまで飛錫せり。筑後國に 0000_,20,508b30(00):厨氏あり。高良山の麓に一寺を建て。丈六尊像を安 0000_,20,508b31(00):置し。之に二祖を請す。此寺施主の姓によりて俗に 0000_,20,508b32(00):厨寺と稱せしが。後世厨山聖光院安養寺と號す。二祖 0000_,20,508b33(00):此寺に在りて。千日を期し如法別時念佛を修行せし 0000_,20,508b34(00):が。中途に至り高良山寺(當時眞言宗醍醐所轄)の 0000_,20,509a01(00):衆徒等。眞言宗寺境に念佛を修するを嫌ひ。之を妨 0000_,20,509a02(00):害せんとしたるも。幸に事なきを得たり。此事善導 0000_,20,509a03(00):寺建立との前後知り難きも。敕傳等は此記事を善導 0000_,20,509a04(00):寺創立の前に措くより考ふるに。或は其前に非るか。 0000_,20,509a05(00):其他此國に於ては。山本郡吉木村陽善寺。八女郡上 0000_,20,509a06(00):妻村川崎莊馬場村天福寺・地福寺。同莊福島村光明 0000_,20,509a07(00):寺。無量壽院。下妻郡古島村常念寺等を開創せられ 0000_,20,509a08(00):たりと云ふ。 0000_,20,509a09(00):肥後國に於ける。敎化の事蹟の最顯著なるは。白 0000_,20,509a10(00):川往生院に於ける授手印の製作なり。往生院は舊飽 0000_,20,509a11(00):田郡白川河の上に在りしを以て。白川往生院と稱す 0000_,20,509a12(00):るも。中頃熊本中唐人町に移り。後更に今地に轉せ 0000_,20,509a13(00):り。安貞二年冬二祖六十七歳の時。此に四十八日別 0000_,20,509a14(00):時念佛を修行し。末代念佛授手印を製して。宗義の 0000_,20,509a15(00):正鵠を指示し。得往生等十數人の門弟をして署名せ 0000_,20,509a16(00):しむること。恰も元久元年七箇條制誡文の時の如し。 0000_,20,509a17(00):是より先。二祖門下修阿彌陀佛と敬蓮社とが。宗義 0000_,20,509b18(00):上の見解を異にし。修阿彌陀佛の弟子滿願社と云ふ 0000_,20,509b19(00):者。敬蓮社の説に賛し。却て師説を破したることあ 0000_,20,509b20(00):り。二祖は永く此等門下諍論の禍根を絶たんが爲に。 0000_,20,509b21(00):此擧ありしといふ。尚此國にも菊池郡五福寺。宇土 0000_,20,509b22(00):郡石橋村三寶院。同郡宇土町西光院等は其遺跡なり 0000_,20,509b23(00):と傳へらる。 0000_,20,509b24(00):嘉禎二年九月八日。三祖上妻天福寺に參謁す。是 0000_,20,509b25(00):より先。二祖は門下に傳法の器なく。窃に宗門の將 0000_,20,509b26(00):來に對して甚憂惧せしが。三祖の入門を見て大に喜 0000_,20,509b27(00):び。翌年八月に至る一年間。宗義の細大を口授し。 0000_,20,509b28(00):兩脉を傳附し。翌嘉禎四年閏二月廿九日善導寺に入 0000_,20,509b29(00):寂す。時に年七十六なりき。 0000_,20,509b30(00):(四) 著 書 0000_,20,509b31(00):二祖の著書は。前記授手印の外。徹選擇集二卷 0000_,20,509b32(00):(嘉禎三年六月)。淨土宗要集六卷(又鎭西宗要或は 0000_,20,509b33(00):單に西宗要と稱す嘉禎三年四月廿日三祖筆受)。識 0000_,20,509b34(00):知淨土論一卷。淨土名目問答三卷(又鎭西名目と云 0000_,20,510a01(00):ふ)。念佛名義集一卷。念佛三心要集。念佛往生修 0000_,20,510a02(00):行門(以上二書散逸して傳らず)等あり。就中最重要 0000_,20,510a03(00):なるは授手印。徹選擇。及淨土宗要集の三書なり。 0000_,20,510a04(00):三 二祖の門下 0000_,20,510a05(00):授手印の三祖傳承本には門弟十六人。博多善導寺 0000_,20,510a06(00):本には十七人。筑後善導寺本には三十六人の署名あ 0000_,20,510a07(00):り。徹定師は之によりて授手印に對して誓盟せしこと 0000_,20,510a08(00):前後三會ありしとす(正宗國師授手印跋)。事實の有 0000_,20,510a09(00):無は一一古文書の鑒定に竢たざるべからざるも。今 0000_,20,510a10(00):且く徹定師の推案に從へば。授手印三會の盟誓を通 0000_,20,510a11(00):算するに四十人を得べし。然るに總系譜は之を刪補 0000_,20,510a12(00):して四十二人を數ふ。然れども二祖門下は決して多 0000_,20,510a13(00):士濟濟なりしとはいふべからず。白蓮社・敬蓮社。 0000_,20,510a14(00):聖護等數人の見るべきものなきに非るも。多くは無 0000_,20,510a15(00):學の道心者に過ぎず。是れ三祖入謁に至るまでは。 0000_,20,510a16(00):年闌け齡頽て在世久からず。將來の癡闇を思ふ毎 0000_,20,510a17(00):に。二祖の肝腑の甚だ安からざりし所以なり。三祖 0000_,20,510b18(00):の爲人は後に讓り。其他の二三子に就きて少しく語 0000_,20,510b19(00):る所あらん。 0000_,20,510b20(00):白蓮社宗圓は。初天台宗に屬し。證眞の門下た 0000_,20,510b21(00):り。後二祖の門に入る。是昔の同學の因縁による 0000_,20,510b22(00):か。天福元年(南宋理宗紹定六年)師命を奉じて支那 0000_,20,510b23(00):に渡航し。善導の彌陀義を穿索す。其の目的は達せ 0000_,20,510b24(00):ざりしも。廬山の睿師(傳記不明)に就き。慧遠の 0000_,20,510b25(00):宗風を受け。梵書を文慧大師(傳記不明)に習ひ。歸 0000_,20,510b26(00):朝の後大に祖道を輔翼せり。彼蓮社の宗風を慕ひ。 0000_,20,510b27(00):自ら白蓮社と號し。同門之に做ひ某蓮社と稱する者 0000_,20,510b28(00):多く。永く本宗蓮社號の端を啓けりと云ふ。聖護は 0000_,20,510b29(00):二祖の大檀越草野氏の出にして。二祖の鍾愛する所 0000_,20,510b30(00):と成り。常に隨從給事して。身邊の勞務に服したる 0000_,20,510b31(00):こと。恰も宗祖門下の勢觀房の如し。然れども唯鎭西 0000_,20,510b32(00):略要傳を編して。師德を賛述したるの他。何等事蹟の 0000_,20,510b33(00):傳ふべきものなし。其他敬蓮社。修阿彌陀佛等宗義 0000_,20,510b34(00):上の諍論によりて。多少其名を知らるるも。決して 0000_,20,511a01(00):大なる人物に非ざりしことは。其諍論の内容及結末に 0000_,20,511a02(00):徴しても明なり。 0000_,20,511a03(00):四 三祖の受法 0000_,20,511a04(00):三祖。諱は良忠。然阿彌陀佛と號す。傳へ云ふ伏 0000_,20,511a05(00):見天皇永仁元年(寂後七年)七月記主禪師の敕諡を賜 0000_,20,511a06(00):ふと(貞享板然阿傳)。因りて通途記主。或は單に禪 0000_,20,511a07(00):師と呼ぶ。石見國三隅莊(那賀郡に在り明治十三年養 0000_,20,511a08(00):鸕徹定其遺跡に良忠寺を建つ)の人なり。父は京極師 0000_,20,511a09(00):實六世の孫。入道して比叡山東塔南谷大林房宣雲の 0000_,20,511a10(00):弟子と成り。圓尊(糅鈔一には圓實房)と稱せしが。 0000_,20,511a11(00):後石見國に移住して。正治元年七月廿七日三祖を生 0000_,20,511a12(00):む。 0000_,20,511a13(00):建曆元年二月十三歳にして。出雲鰐淵寺(簸川郡鰐 0000_,20,511a14(00):淵村に在り)に入り。月珠房信暹に就き讀書を習ひ。 0000_,20,511a15(00):建保二年十六歳にして。出家得度し。同年十一月。 0000_,20,511a16(00):登壇受戒せり(傳)と云ふも。受戒の地明ならず。糅 0000_,20,511a17(00):鈔一には幼にして寺門北山龍淵房に住し。二八にし 0000_,20,511b18(00):て登壇受戒すと云へば。園城寺戒壇に於てせるもの 0000_,20,511b19(00):の如し。然れども幼時より園城寺に留學せしことは本 0000_,20,511b20(00):傳に違するのみならず。北山龍淵房居住のことは。次 0000_,20,511b21(00):の圓信學系の記事を誤りたるものの如くなるが故 0000_,20,511b22(00):に。幼時は鰐淵寺に住せしが。受戒の爲に寺門に赴 0000_,20,511b23(00):きしなるべし。出家受戒の後。圓信信暹二師に就 0000_,20,511b24(00):き。天台倶舍を學ぶ。圓信の學統は。山門には寶地 0000_,20,511b25(00):房。竹林房の兩流を兼ね。寺門には北山龍淵房の流を 0000_,20,511b26(00):汲めるものにして。可なり博大なる學殖を有せし人 0000_,20,511b27(00):の如し。前述の如く。糅鈔は此事實を誤解して。龍 0000_,20,511b28(00):淵房居住とせしも。龍淵房は三祖幼時の居所に非し 0000_,20,511b29(00):て。圓信の學系を語るものなり。但圓信の居所は不 0000_,20,511b30(00):明なるも。月珠房信暹と同じく。鰐淵寺に住したる 0000_,20,511b31(00):に非るか。 0000_,20,511b32(00):密敎の學は。密藏。源朝二師に受學せられたり。 0000_,20,511b33(00):而して密藏諱は尊觀。鰐淵寺の住侶たりしと云へ 0000_,20,511b34(00):ば。其授けたる密敎は台密なるべく。源朝は高野 0000_,20,512a01(00):山明王院の學頭なりと云へば。其密敎の東密なること 0000_,20,512a02(00):言ふまでもなし。但源朝は本寺と傳法院との紛擾の 0000_,20,512a03(00):結果。謫せられて安藝國に在りしとあるも。高野春 0000_,20,512a04(00):秋を案ずるに。源朝安藝國に謫せらるる記事なし。 0000_,20,512a05(00):然れども其時本寺僧綱廿六人諸州に配せられしと云 0000_,20,512a06(00):へば。源朝も事實學頭として勢力家の一人なりしか 0000_,20,512a07(00):ば。其中に含まれしやも知るべからず。若し之を事 0000_,20,512a08(00):實とすれば。三祖が源朝に受法せしことは。寬元元年 0000_,20,512a09(00):(三祖四十五歳)九月十五日(僧綱等配流の日)より。 0000_,20,512a10(00):建長元年(五十一歳)五月廿一日(赦免の日)の間なり 0000_,20,512a11(00):とせざるべからず。三祖遙に山野を越えて安藝に赴 0000_,20,512a12(00):き。遷謫の高僧に敎授を乞ふ。源朝も其熱心に感 0000_,20,512a13(00):じ。奧義を傳授して遺漏なく。且秘書を贈與せりと 0000_,20,512a14(00):云ふ。尚別に高野山明王院淳顯僧正につき。起信釋 0000_,20,512a15(00):論の疏記鈔等並に私鈔物等を傳授せりと(糅鈔一)云 0000_,20,512a16(00):ふも。淳顯僧正の傳記不明なり。同じく高野山明王 0000_,20,512a17(00):院學頭と云へば。或は淳顯源朝同一人なるに非るか。 0000_,20,512b18(00):法相並に所謂諸師淨土敎の宗義は。南都勝願院良 0000_,20,512b19(00):遍僧都に學べり。良遍。字は信願。蓮阿と號す。光 0000_,20,512b20(00):明院覺遍に從ひ。法相宗を學び。又招提寺覺盛律師 0000_,20,512b21(00):(大悲菩薩)に就き受戒して。律門を研究し。毎に南 0000_,20,512b22(00):都興福寺内勝願院に住し。講肆を開き。又白毫寺に 0000_,20,512b23(00):於て講莚を敷きしが。貞永元年(總系譜下仁治の間 0000_,20,512b24(00):とす)四十九歳にして。河内國生馬(膽駒)山大聖竹 0000_,20,512b25(00):林寺に遁跡し。專ら淨業を修す。而して建長四年八 0000_,20,512b26(00):月廿八日壽五十九を以て寂す。著書若干あり。就中 0000_,20,512b27(00):淨土敎に關するものには。念佛往生決心記。善導大 0000_,20,512b28(00):意鈔。三心綱目等あり。其立脚地は。勿論諸師共通 0000_,20,512b29(00):の諸行往生にあるも。善導宗祖を齟嚼して發明する 0000_,20,512b30(00):所も多かりき。三祖が良遍に師事せる年時は不明な 0000_,20,512b31(00):るも。糅鈔一に『往至内州膽駒隨從南都勝願院良 0000_,20,512b32(00):遍僧都』と云ふによれば。貞永元年三祖三十五歳以 0000_,20,512b33(00):後のこととせざるを得ず。然れども同書に「良忠之良 0000_,20,512b34(00):字若是寫彼歟後造勝願寺亦是思彼歟」と云ふに徴 0000_,20,513a01(00):すれば。勝願院住居の頃とも思惟されざるにあら 0000_,20,513a02(00):ず。同書又『聞淨土傍出受法相正轍智解增長殆依 0000_,20,513a03(00):彼師。』と云ふによれば。法相宗及諸師の淨土敎を始 0000_,20,513a04(00):めとして。諸種の講義を聽き。大に學解を啓發せら 0000_,20,513a05(00):れたるが如し。 0000_,20,513a06(00):其他敎外別傳の宗旨。楞嚴圓覺の法門は。長樂寺 0000_,20,513a07(00):榮朝。永平寺道元に參訣し。律範は泉涌寺俊芿に問 0000_,20,513a08(00):ひ。又南都に赴き。華嚴法相三論の宗義を研覈せ 0000_,20,513a09(00):り。かくて一代佛敎通ぜざる所なく窮めざる所なか 0000_,20,513a10(00):りしといふ。 0000_,20,513a11(00):三祖が。良遍に就き淨土敎を學びし年月が。鎭西 0000_,20,513a12(00):に於ける受法と。前後孰れなりしかは不明なるも。 0000_,20,513a13(00):其幼時よりして淨土敎に親むの機會は少からざりし 0000_,20,513a14(00):が如し。傳によるに。十一歳の頃三智法師と云ふ 0000_,20,513a15(00):人。其家に來りて往生要集を講じ。惡趣の苦患と淨 0000_,20,513a16(00):土の快樂とを詳説せるをきき。童穉ながらに深く厭 0000_,20,513a17(00):欣の情を萠し。出家の翌年十四歳の春首にあたり。 0000_,20,513b18(00):『五濁の憂世に生れしは。恨かたがた多けれど。念 0000_,20,513b19(00):佛往生と聞く時は。還て嬉しく成りにける』てふ。 0000_,20,513b20(00):和讚を高吟して。老輩を動顚せしめたりと云ひ。又 0000_,20,513b21(00):十八歳の時。法照禪師の大聖竹林寺の記を讀み。益 0000_,20,513b22(00):淨土歸向の志を堅くせりと云ふ。かく歸淨の機會甚 0000_,20,513b23(00):多く。且之を欽ぶ心情切なりしも。一方諸宗研鑚に 0000_,20,513b24(00):繁忙なりしが爲め。未だ專修淨業の法悅を味ふの餘 0000_,20,513b25(00):暇を有せざりしに。諸宗の攻學も略一段落を告げし 0000_,20,513b26(00):かば。貞永元年三十四歳の三月。一旦歸省し。郷里 0000_,20,513b27(00):に近き多陀寺の。幽邃にして寂靜を樂むに。恰好の 0000_,20,513b28(00):處なるを見て。此に入り不斷念佛を修して多年の渴 0000_,20,513b29(00):望を醫せり。かく三祖の歸淨には。淵源あり根柢あ 0000_,20,513b30(00):り。準備に於て至れり盡せりと云ふべきなり。生佛 0000_,20,513b31(00):法師の一夕の物語により。遽然として鎭西に趨向せ 0000_,20,513b32(00):しも。決して偶然に非るなり。 0000_,20,513b33(00):多陀寺の隱棲に四箇の星霜は過ぎぬ。嘉禎二年九 0000_,20,513b34(00):月。生佛法師は三祖の隱棲を訪ひぬ。此行善光寺如 0000_,20,514a01(00):來の敕告によりて。筑紫善導寺に赴き。二祖に淨土 0000_,20,514a02(00):の宗義を諮決するにあることを語る。生佛の如何なる 0000_,20,514a03(00):人物なりしかは不明なるも。三祖と安心問題に關 0000_,20,514a04(00):し。深契ありたる人なること疑ふべからず。然らずん 0000_,20,514a05(00):ば信州より鎭西に赴くに。態態石見に立寄るべけん 0000_,20,514a06(00):や。生佛の物語を聞き。三祖も直に西下問道の意を 0000_,20,514a07(00):決し。生佛に遲るること一日。觀阿彌陀佛と云ふ者と 0000_,20,514a08(00):同道して。筑後國に出立せり。其善導寺に着せし 0000_,20,514a09(00):は。九月七日なりしも。此時恰も二祖は。同國上妻 0000_,20,514a10(00):天福寺に敎化中にて不在なりしかば。翌朝上妻に馳 0000_,20,514a11(00):參し。玆に初めて二祖に謁見し。師弟の契約を締結 0000_,20,514a12(00):せり。時に二祖七十五歳。三祖三十八歳なりき。 0000_,20,514a13(00):上述の如く。二祖門下全く人なきに非りしも。 0000_,20,514a14(00):多くは凡庸にして一宗の傳統を寄托するに足るべき 0000_,20,514a15(00):人材なく。宗門の將來に對し焦慮せしが。這回の進 0000_,20,514a16(00):謁により。傳法の適器をえたることを非常に歡喜 0000_,20,514a17(00):し。二祖は自ら法燈護持の至誠の爲に老衰の苦を忘 0000_,20,514b18(00):れ。三祖又求道解法の熱情の爲に疲惓の情なく。燈 0000_,20,514b19(00):以て昝に繼ぎ。師弟共に孜孜として奮勵せしかば。 0000_,20,514b20(00):其隨從の日子は僅に一ケ年に過ぎざりしも。觀經 0000_,20,514b21(00):疏・法事讚・觀念法門・禮讚・般舟讚・論註・安樂 0000_,20,514b22(00):集・選擇集・徹選擇集・往生要集・十二門戒儀等。 0000_,20,514b23(00):一一に讀み傳へ。傳傳相承の法義。祖祖己證の奧 0000_,20,514b24(00):旨。傳へて遺すことなく。恰も一器の水を一器に瀉す 0000_,20,514b25(00):が如くなりき。即嘉禎三年四月十日。善導寺に傳法 0000_,20,514b26(00):傳戒し。同月廿日。淨土宗要八十題の口訣を天福寺 0000_,20,514b27(00):に筆受し。同年八月一日附法の璽書を授けられ。同月 0000_,20,514b28(00):三日領解授手印鈔を草し之を呈す。二祖之を印可し 0000_,20,514b29(00):且曰く。『我法は然阿に授け畢りぬ。法燈何ぞ消ん。 0000_,20,514b30(00):然阿は是予が盛年に還れるなり。遺弟此人に對して 0000_,20,514b31(00):不審を決すべし』(決疑鈔五)と。かくて筑紫の義は 0000_,20,514b32(00):良忠これを領し。淨土宗第三代の正統は然阿彌陀佛 0000_,20,514b33(00):の承くる所となりぬ。 0000_,20,514b34(00):五 三祖の傳道 0000_,20,515a01(00):(一) 中國及京都 0000_,20,515a02(00):三祖が嘉禎三年八月初旬。傳法相承のこと完了し。 0000_,20,515a03(00):二祖の會下を辭し。將に歸程に就かんとするに臨み。 0000_,20,515a04(00):二祖之に諗げて曰く。「我恩を報ぜんと欲せば。都鄙 0000_,20,515a05(00):遠近に淨土敎を弘め。念佛の行を勸めよ」と。爾來 0000_,20,515a06(00):寶治二年に至る迄十年間。郷里石見と安藝との兩國 0000_,20,515a07(00):を往來し。敎化に盡瘁せしと傳へらるるも。此十年 0000_,20,515a08(00):間は。三祖生涯中。最も暗黑なる時代にして。其行 0000_,20,515a09(00):動に關しては一も傳ふる所無し。但前述の如く。源 0000_,20,515a10(00):朝に安藝の配處に就き。東密の奧義を傳受し。良遍 0000_,20,515a11(00):に生馬竹林寺の隱棲に謁し。法相宗及諸師の淨土敎 0000_,20,515a12(00):を受學せるは此間に於ける事實なりとすれば。嘉禎 0000_,20,515a13(00):三年。三祖三十九歳にして。漸く不惑に達し。本宗 0000_,20,515a14(00):の宗義に於ては相承印可の後なれば。最早何等の疑 0000_,20,515a15(00):端なかりしは明なり。然れども若欲學解從凡至 0000_,20,515a16(00):聖皆得學也の祖訓に隨ひ。隨他扶宗の資糧として。 0000_,20,515a17(00):猶諸宗の義理に於ては。研究の要ありしが故に。師 0000_,20,515b18(00):命を畏み布敎傳道の傍。隙を偸みて屢諸宗の碩學に 0000_,20,515b19(00):參謁し。諮決せられしが如し。 0000_,20,515b20(00):寶治二年季春。滿五十歳にして。藝石の敎化を中 0000_,20,515b21(00):止し。京都に上らる。這回上京の動機は不明なるも。 0000_,20,515b22(00):惟ふに中國敎化の一段落を告げたるも其一なるべ 0000_,20,515b23(00):く。又淨意尼の招請も其他の理由なりしなるべし。 0000_,20,515b24(00):淨意尼は聖覺法印の妹にして。出家して嵯峨大覺寺 0000_,20,515b25(00):の寺中に住せり。聖覺法印は既に嘉禎元年に入寂せ 0000_,20,515b26(00):しも。二祖が宗祖の正統なることを信じたる人なれ 0000_,20,515b27(00):ば。其存生中。二祖の人物に就き。淨意に物語りた 0000_,20,515b28(00):ることあるべく。其法資たるによりて三祖の上京を促 0000_,20,515b29(00):したるやも知るべからず。上京の初。淨意尼の請に 0000_,20,515b30(00):應じて。其菴居に選擇集を講ぜり。 0000_,20,515b31(00):在京の時日は不明なるも。決して長からざりしが 0000_,20,515b32(00):如し。然れども此間に勉めて祖跡に詣で。在世敎化 0000_,20,515b33(00):の跡を偲び。又當時尚生存せる宗祖の門弟を訪ひ。宗 0000_,20,515b34(00):義上の意見を交換せることもあるべし。而も蓮寂と宗 0000_,20,516a01(00):義校合の一事を除きては。全く傳聞する所なし。蓮 0000_,20,516a02(00):寂との校合のことは。敕修傳四十六には『文永の頃』 0000_,20,516a03(00):とするも。此時のこととするが隱當なるが如し。何と 0000_,20,516a04(00):なれば。かかる好機會を逸し。空しく二十年後に至 0000_,20,516a05(00):て。宗義校合の如き大事を成すべからざればなり。 0000_,20,516a06(00):遮莫。法蓮房信空は是より先二十年。安貞二年九月 0000_,20,516a07(00):九日入寂し。勢觀房源智も亦二祖と同年。嘉禎四年 0000_,20,516a08(00):十二月十二日西化し。京都に於ける宗祖門下は。漸 0000_,20,516a09(00):漸に落謝し。僅に乘願房・念佛房・正信房等數人を餘 0000_,20,516a10(00):すのみ。此等門弟も極めて頽齡にして。餘命幾ばく 0000_,20,516a11(00):も期すべからず。於是三祖は勢觀房の弟子蓮寂と宗 0000_,20,516a12(00):義校合の事を思ひ立ち。東山赤築地に於て。四十八 0000_,20,516a13(00):日の別時念佛を修行し。蓮寂と兩流の義を比較した 0000_,20,516a14(00):るに。全く符合一致したるにより。蓮寂は鎭西の義 0000_,20,516a15(00):を以て己流と定め。法孫に於て別に流義を立つ可ら 0000_,20,516a16(00):ざるの旨を宣言せりと云ふ。淨意尼深く三祖に歸依 0000_,20,516a17(00):し。檀那を募り資具を備へて。後顧の憂なからしむ 0000_,20,516b18(00):べければ。永く京都に在住して。弘法施化せられんこと 0000_,20,516b19(00):を懇願せるも。再會を約して幾もなく東國敎化の途 0000_,20,516b20(00):に上れり。かく速に三祖が京都を離れし動機不明な 0000_,20,516b21(00):るも。強ひて想像すれば京都は宗祖一代の化跡にし 0000_,20,516b22(00):て。又多くの門弟諸處に散在したるが故に。淨土敎 0000_,20,516b23(00):の敎化は略洽ねかりしなるべし。故に二祖の訓誡に 0000_,20,516b24(00):膺へ。敎化の恩を報ぜんには。寧宗祖及二祖が未だ 0000_,20,516b25(00):敎化に指を染めざりし。東國に敎化することを以て。 0000_,20,516b26(00):一層適切なることを考へしによるに非るか。 0000_,20,516b27(00):(二) 信濃及兩總 0000_,20,516b28(00):京都を出て。伊勢尾張等を經て。信濃の善光寺に 0000_,20,516b29(00):詣でたるは。寶治二年中にありしか。其の翌建長元 0000_,20,516b30(00):年なりしか不明なり。三祖が善光寺如來に參詣せる 0000_,20,516b31(00):は。日本最初の古佛として。はた淨土敎の本尊たる 0000_,20,516b32(00):を以て。一は未來の引接を祈り。一は東國敎化に對 0000_,20,516b33(00):し冥祐加護を禱らんとの。淨土敎信者に共通なる理 0000_,20,516b34(00):由のほか特別の理由あり。そは西下傳法の事跡によ 0000_,20,517a01(00):り。誰人も首肯する所なるべし。三祖をして筑紫に 0000_,20,517a02(00):赴き。二祖に謁せしめたる。直接の原因は生佛の物 0000_,20,517a03(00):語なるも。生佛の西下が善光寺如來の敕告によるを 0000_,20,517a04(00):思はば。三祖相承の間接。否根本原因は如來の敕告 0000_,20,517a05(00):にありと云はざるべからず。這回の參詣は實に此佛 0000_,20,517a06(00):恩報謝の爲なりと見ざるべからず。 0000_,20,517a07(00):善光寺に於ては。或人の屈請に應じて四十八日間 0000_,20,517a08(00):善導の觀經疏を講説せり。該疏は前に述べし如く本 0000_,20,517a09(00):宗開立の根源なり。宗祖一代敎化の依憑とせられし 0000_,20,517a10(00):所なり。而して三祖が東國敎化の二十九年間。最も 0000_,20,517a11(00):精力を盡して講説せし書物なりき。此書の講演を東 0000_,20,517a12(00):國遊化の首途に。或人の懇請したること偶然なるが如 0000_,20,517a13(00):くにして決して然らざるに似たり。善光寺滯在が四 0000_,20,517a14(00):十八日講演後幾何なりしか。又信濃國内に於ける敎 0000_,20,517a15(00):化が奈邊に及びしか。今殆んど之を知るに由なし。 0000_,20,517a16(00):唯寺院名鑑により之を見るに。三祖を開山とする寺 0000_,20,517a17(00):院。國内二三に止まらず。即ち上氷内郡長沼村大町 0000_,20,517b18(00):善導寺。更級郡稻荷山町極樂寺。更級郡御厨村法藏 0000_,20,517b19(00):寺更級郡村土村上五明西敎寺等是なり。想ふに善光 0000_,20,517b20(00):寺參詣講説の後。尚暫く其近傍を敎化し。更級郡の 0000_,20,517b21(00):各地を遊化しつつ。上野國に路程を進めたるに非る 0000_,20,517b22(00):か。信濃を去り。路を上野下野に取り。途中諸處に 0000_,20,517b23(00):施化しながら。下總に到り此に東國敎化の基礎を定 0000_,20,517b24(00):められたるものの如し。 0000_,20,517b25(00):是より先き。成覺房幸西が下總栗原郷に赴き。敎 0000_,20,517b26(00):化を試みたりとの傳説あるも。其以外宗祖或は二祖 0000_,20,517b27(00):門下にして。兩總の地に敎化したる者あることを聞か 0000_,20,517b28(00):ず。然れども國司千葉胤賴は甞て宗祖の化を蒙り入 0000_,20,517b29(00):道して法阿と號し。嘉祿三年の法難には宇都宮。鹽 0000_,20,517b30(00):屋。澁谷。頓宮等の武家入道と共に。宗祖の遺骸を 0000_,20,517b31(00):保護したることあり。此因縁によるものか。千葉氏の宗 0000_,20,517b32(00):家支族多く本宗に歸依せり。三祖の下總上總の敎化 0000_,20,517b33(00):も千葉氏の懇請外護によること少からざりしが如し。 0000_,20,517b34(00):今日千葉縣下に三祖を開山とする寺院は。香取郡豐 0000_,20,518a01(00):浦村下小堀淨福寺。同郡森山村下飯田西音寺。同郡 0000_,20,518a02(00):古城村鏑木光明寺。匝瑳郡白濱村水戸光泉寺。同郡 0000_,20,518a03(00):豐岡村金尾金照寺。海上郡豐浦村邊田淨國寺。山武 0000_,20,518a04(00):郡蓮沼村蓮沼極樂寺なるが。此等が悉く實際三祖の 0000_,20,518a05(00):開創或遺跡なるかは疑問に屬し。又此以外に明に三 0000_,20,518a06(00):祖の居住せられし寺院の今日廢頽せるもの少から 0000_,20,518a07(00):ずと雖も。此によりて其敎化の範域を大體想像する 0000_,20,518a08(00):に難からず。即三祖下總の敎化は。香取。匝瑳。海 0000_,20,518a09(00):上。山武の四郡が主要部にして。時に他郡に遊化し。 0000_,20,518a10(00):或は上總其他の隣國にも飛錫せられたるべし。又下 0000_,20,518a11(00):總四郡の中に於ても。今日正確に知られたる敎化の 0000_,20,518a12(00):根據地は。香取郡鏑木光明寺。同郡(今印旛郡に屬 0000_,20,518a13(00):す)飯岡光明寺。及匝瑳郡福岡西福寺の三箇所なり。 0000_,20,518a14(00):鏑木は決疑鈔述作に關聯し。飯岡福岡は傳通記著 0000_,20,518a15(00):述に關係して其事實を傳へらる。決疑鈔述作は。其 0000_,20,518a16(00):序に或賓客の請に因ることを記し。大澤見聞は賓客を 0000_,20,518a17(00):鏑木九郞入道とす。鏑木九郞は千葉系圖に「常胤曾 0000_,20,518b18(00):孫胤定鳴矢木九郞鏑木郷に居る」とあるもの是なり。 0000_,20,518b19(00):胤定深く三祖に歸依して其領土に招請し。後三祖に 0000_,20,518b20(00):つき入道して法阿と號せし人。光明寺は鏑木山胤定 0000_,20,518b21(00):院と號し。胤定三祖に歸依の餘り。此寺を建て三祖 0000_,20,518b22(00):を開山に請したりとは。同寺寺記に傳ふる所なり。 0000_,20,518b23(00):鏑木に於ける三祖在住の年月は確ならずと雖も。決 0000_,20,518b24(00):疑鈔述作が建長六年なりと云へば。寶治二年以後建 0000_,20,518b25(00):長六年頃迄は此所を以て住處として。其附近の地を 0000_,20,518b26(00):敎化せられしならんか。 0000_,20,518b27(00):福岡は今匝瑳郡福岡町に屬し。略千葉銚子佐原を 0000_,20,518b28(00):頂點とする三角形の中心點に位し。鏑木の西南二里 0000_,20,518b29(00):の所にあり。此地に於ける三祖の住處は西福寺なり 0000_,20,518b30(00):しと傳へらるるも。此寺今廢絶してなし。飯岡と云 0000_,20,518b31(00):ふ地名千葉縣に兩所あり。一は海上郡飯岡町。他は 0000_,20,518b32(00):印旛郡(元香取郡)久住村の大字飯岡是なり。前者 0000_,20,518b33(00):は福岡に接近し。福岡と往來するには比較的便宜の 0000_,20,518b34(00):地なれども。三祖の住處後者なることは。糅鈔四十八 0000_,20,519a01(00):に。光明寺者在大須賀郷飯岡と云ひ。受決鈔に後 0000_,20,519a02(00):依荒見彌四郞千葉一門也福岡荒見中間四十里請往彼其所有別所云 0000_,20,519a03(00):飯岡とある。荒見は大須賀に隣接し。荒見小四郞 0000_,20,519a04(00):胤村は大須賀四郞胤信の子なること千葉系圖の示す所 0000_,20,519a05(00):なれば。大須賀氏の支族荒見氏の領地飯岡は。印旛 0000_,20,519a06(00):郡久住村飯岡なること疑ふべからざればなり。然るに 0000_,20,519a07(00):匝瑳郡福岡と。印旛郡飯岡とは其距離受決鈔の記す 0000_,20,519a08(00):る如く。四十里は錯誤或は誇大なるも。二十里に近 0000_,20,519a09(00):かるべし。福岡飯岡住居の前後は。地理的關係より 0000_,20,519a10(00):云へば。鏑木より福岡に。福岡より飯岡に移轉する 0000_,20,519a11(00):を最も便宜とすべく。受決鈔又上人初住福岡後依 0000_,20,519a12(00):荒見彌四郞請往彼其所有別所云飯岡と云ひ。福 0000_,20,519a13(00):岡より飯岡に移れる如く記するも。其次傳通記述作 0000_,20,519a14(00):の記事には。飯岡始之福岡終之と云ひ。傳通散記三 0000_,20,519a15(00):にも。抑去康元二年丁巳三月二十一日於下總光明 0000_,20,519a16(00):寺始書。正嘉二年戊午三月二十九日於同國西福寺 0000_,20,519a17(00):終功とありて。傳通記は飯岡に於て著手せられ。 0000_,20,519b18(00):福岡に完成せられたること爭ふべからず。然らば鏑木 0000_,20,519b19(00):より福岡に移り。福岡より飯岡に移りしも。又福岡 0000_,20,519b20(00):に歸りたるものにして。此兩地の間は度度往返せし 0000_,20,519b21(00):ものの如し。 0000_,20,519b22(00):飯岡に於ける三祖の檀那は。上に云へる如く大須 0000_,20,519b23(00):賀氏の支族荒見彌四郞なり。而して大須賀四郞胤信 0000_,20,519b24(00):は千葉常胤の四男なり。福岡に於ける施主は。椎名 0000_,20,519b25(00):八郞入道なりしとは。又受決鈔の傳ふる所にして。 0000_,20,519b26(00):椎名氏は又千葉氏の支族なれば。下總に於ける三祖 0000_,20,519b27(00):の外護者は。鏑木。椎名。荒見共に千葉の一族にし 0000_,20,519b28(00):て。千葉氏との關係甚淺からざりしを見るべし。然 0000_,20,519b29(00):れども鏑木。椎名。荒見三氏は。いづれも微微たる 0000_,20,519b30(00):一小地頭にして決して富裕の家にあらず。故に招請 0000_,20,519b31(00):の當初には。三祖に歸依し之を擁護して講肆を開張 0000_,20,519b32(00):せしめたるも。時日の重り且つ其門下聽講學生の增 0000_,20,519b33(00):加するに及び。充分之が資糧を供給する能はざるの 0000_,20,519b34(00):みならず。却て三祖の些細なる財囊を誅求するの已 0000_,20,520a01(00):むなきに至れり。於是三祖も千葉支族の賴み難く。 0000_,20,520a02(00):兩總敎化も容易ならずとして。遂に鎌倉に移住せし 0000_,20,520a03(00):なるべし。 0000_,20,520a04(00):受決鈔によるに。福岡に於て椎名八郞入道は。坊 0000_,20,520a05(00):一宇。田一町を寄附したるも。後屢三祖より借金を 0000_,20,520a06(00):なし。結局。坊宇田地を賣付けたる結果を呈した 0000_,20,520a07(00):るを以て。三祖も歉焉の情にたへざりし際。荒見彌 0000_,20,520a08(00):四郞は飯岡に於て。一町五段の田地を寄附し。猶不 0000_,20,520a09(00):斷念佛の料として三町の田地を寄附すべきを約束し 0000_,20,520a10(00):たるを以て。三祖は大に喜び其請に應じ。舊家を破 0000_,20,520a11(00):壞し假御堂を造り。大門の左右に六箇の坊地を分 0000_,20,520a12(00):ち。大寺の規模を立てられ。門弟中性心。釋阿彌陀 0000_,20,520a13(00):佛の如きは。直に其坊地に菴室を建立せり。三祖は約 0000_,20,520a14(00):束の地を不斷念佛の時衆に分配せんとせしも。下種 0000_,20,520a15(00):時に至り尚約束の履行なく。門弟乘圓理眞の從父舅 0000_,20,520a16(00):たる蓮光房と云ふ者の言に從ひ。地主政所等に賄賂 0000_,20,520a17(00):を贈與せしも。尚施主は約束を履行せざりしかば。 0000_,20,520b18(00):遂に此地を去るの決心をなせしものなりと云ふ。 0000_,20,520b19(00):三祖一代に於ける。最重要なる著書たる決疑鈔及 0000_,20,520b20(00):傳通記の二書は。孰も其草案を下總敎化中に造られ 0000_,20,520b21(00):たるものなり。決疑鈔は建長六年八月。鏑木胤定の 0000_,20,520b22(00):勸請により起稿せしこと。其序文。直牒。大澤見聞等の 0000_,20,520b23(00):記する所により明なり。即決疑鈔序文に。談語之次賓 0000_,20,520b24(00):客勸云若不染翰叵納心府且示一隅早叩三端此 0000_,20,520b25(00):公特授精靈歸心正法家雖繼脂兵車之跡身猶訪 0000_,20,520b26(00):艤法船之路因有請焉中略建長六年仲秋上旬始添 0000_,20,520b27(00):露點漸作艸篇云爾と。直牒一に賓客者師仰云是千 0000_,20,520b28(00):葉一門鏑木九郞入道法名在阿云者有之當流相傳慥聞無二 0000_,20,520b29(00):心歸依餘依請此鈔於下總國鏑木此鈔被書云云。 0000_,20,520b30(00):傳通記が屢屢校正せられ。又改定せられしことは。 0000_,20,520b31(00):糅鈔序文に。三校一覆符師傳三十滿迴決所記と云 0000_,20,520b32(00):ふに徴して知るべし。故に福岡廿五帖鈔。足立鈔等の 0000_,20,520b33(00):異本あり。現今世に流布する所の本は。建治元年に 0000_,20,520b34(00):重ねて治定せられたる十五卷傳通記なるも。其以前 0000_,20,521a01(00):の卷數は種種ありしが如し。然るに此書最初の稿本 0000_,20,521a02(00):は。傳通記散記三に。仰去康元二年丁巳三月二十一日 0000_,20,521a03(00):於下總光明寺始書正嘉二年戊午三月二十九日於同 0000_,20,521a04(00):國西福寺終功とあり。受決鈔も飯岡始之福岡終之 0000_,20,521a05(00):とすれども。其始の月は稍異なり。即ち從初春比 0000_,20,521a06(00):始興起傳通記とあり。惟ふに受決鈔は講義開始を 0000_,20,521a07(00):記し。傳通記は講錄整頓の初を記せしものならん。 0000_,20,521a08(00):決疑鈔。傳通記の外。尚下總滯在中に若干の著述あ 0000_,20,521a09(00):りしが如し。即決疑鈔と同年十月。江禪門の請に應 0000_,20,521a10(00):じて三心私記を著し。傳通記講述中。上總周東郡在 0000_,20,521a11(00):阿の請に應じて。授手印決答疑問鈔二卷を著はせ 0000_,20,521a12(00):り。尚受決鈔によるに。康元二年七月頃相模國石川 0000_,20,521a13(00):(大庭御厨内郷)禪門道辨の請に應じて彼地に赴き。 0000_,20,521a14(00):十四五日間滯在せりと云ふ。 0000_,20,521a15(00):(三) 鎌倉 0000_,20,521a16(00):源賴朝天下の政權を掌握し。幕府を鎌倉に開く 0000_,20,521a17(00):に及び。政治の中心が玆に移ると共に。佛敎諸宗も 0000_,20,521b18(00):漸くその下に馳參し。勢力をここに扶植するに腐心 0000_,20,521b19(00):せり。天台。眞言等の諸宗は祈禱の事務を擔當し。 0000_,20,521b20(00):鶴岡別當を始め重要の位置を占有し。臨濟榮西禪師 0000_,20,521b21(00):の如きも。京都に在りて南都北嶺の壓迫に困まんよ 0000_,20,521b22(00):りは。此等舊勢力の比較的薄弱なる鎌倉において。 0000_,20,521b23(00):新宗を弘布するの容易にして且つ有利なるに著眼 0000_,20,521b24(00):し。夙に此地に入りて賴家。政子等の歸仰を得。壽福 0000_,20,521b25(00):寺の成るや請せられて開山となり。爾後鎌倉に於け 0000_,20,521b26(00):る禪宗旺盛の礎地を造れり。宗祖門下にも此に著目 0000_,20,521b27(00):して。早く念佛の弘通を試みたる者少からず。又鎌 0000_,20,521b28(00):倉武士の京都守衞の間を偸み。宗祖門下に出入し熱 0000_,20,521b29(00):心なる念佛信者となりて。其信仰を歸國の後郷黨の 0000_,20,521b30(00):間に皷吹したる者多數なりしを以て。宗祖自身は此 0000_,20,521b31(00):地に遊化せられざりしも。其敎訓は開宗後數年を出 0000_,20,521b32(00):でずして。鎌倉を中心として關東諸國に流行を見る 0000_,20,521b33(00):に至れり。 0000_,20,521b34(00):東鑑建久五年五月二日の項に。由比浦邊漁父今晩 0000_,20,522a01(00):無病而頓死有往生之瑞相諸人擧而觀之端坐合掌 0000_,20,522a02(00):無聊動搖將軍家隨喜之餘以梶原三郞兵衞令尋給 0000_,20,522a03(00):之處此男日者以漁釣爲世渡之計但其間唱彌陀寶 0000_,20,522a04(00):號營後事之由申云云と云へるには。尚宗祖勸化の 0000_,20,522a05(00):念佛が鎌倉に行はれたるや否やの疑を容るる餘地あ 0000_,20,522a06(00):るも。同建久六年八月十日の條に。熊谷二郞直實法 0000_,20,522a07(00):師自京都參向辭往日之武道求來世之佛縁以降偏 0000_,20,522a08(00):繫心於西刹終晦跡於東山中略仍召御前、先申厭離 0000_,20,522a09(00):穢土欣求淨土旨趣次奉談兵法用意干戈故實等今 0000_,20,522a10(00):雖法躰心猶兼眞俗聞者莫不感歎云云といふに至 0000_,20,522a11(00):りては。宗祖の敎訓の鎌倉に演説せられたることの明 0000_,20,522a12(00):白なる事實なり。是より六年後。正治元年十月廿五 0000_,20,522a13(00):日。結城七郞朝光於御所侍稱有夢告奉爲幕下將 0000_,20,522a14(00):軍勸人別一萬反彌陀名號於傍輩等各擧奉唱之と 0000_,20,522a15(00):同書に記するが如きも。恐くは宗祖の感化の遙に鎌 0000_,20,522a16(00):倉に及びたる結果に他ならざるべし。而して其翌正 0000_,20,522a17(00):治二年五月十二日の條下に。羽林令禁斷念佛名僧 0000_,20,522b18(00):等給是令應恩喚云云然間比企彌四郞奉仰相具 0000_,20,522b19(00):之行向政所橋邊剝取袈裟燒之見者如堵皆莫不 0000_,20,522b20(00):彈指僧之中有伊勢稱念者進于御使之前申云俗 0000_,20,522b21(00):之束帶僧之黑衣各爲同色所用來也何可令禁之 0000_,20,522b22(00):給哉凡當時案御釐務之體佛法世法共以可謂滅亡 0000_,20,522b23(00):之期於稱念衣者更不可燒云云而至彼分衣其火自 0000_,20,522b24(00):消不燒則取之如元著逐電云云と云へるが如き。當 0000_,20,522b25(00):時既に鎌倉には多數の念佛僧の徘徊したること。及念 0000_,20,522b26(00):佛僧の迫害が行はれたる證左とすべし。 0000_,20,522b27(00):宗祖門下の鎌倉に遊化せし者。在世には安樂房一 0000_,20,522b28(00):人なりしが如きも。滅後には聖覺。隆寬等續續此地に 0000_,20,522b29(00):入り。その法孫の鎌倉を根據として各地に弘通を試 0000_,20,522b30(00):みたる者枚擧に遑あらず。安樂房遊化のことは決答授 0000_,20,522b31(00):手印疑問鈔縁起(全書十)に石河禪門の語として。又上 0000_,20,522b32(00):人門人安樂房下向鎌倉而勸化人之後欲歸上都予 0000_,20,522b33(00):請曰暫有逗留蒙敎化者所望也云云即被敎念佛往 0000_,20,522b34(00):生之道理于時石垣金光房爲所領沙汰於鎌倉致訴 0000_,20,523a01(00):訟依此人爲學者亦請之爲同聞衆領解并聞書等同 0000_,20,523a02(00):誂此人此人聞之忽以發心捨世間訴訟即附安樂房 0000_,20,523a03(00):永成上人門徒畢とあり。安樂遊化の年月は不明な 0000_,20,523a04(00):るも。其建永二年以前なること言までもなし。是によ 0000_,20,523a05(00):りて見るに。石河道辨(澁谷道遍と同異可考)。石垣 0000_,20,523a06(00):金光房が淨土宗に入れるは。彼が鎌倉敎化の結果の 0000_,20,523a07(00):一なりしこと明なり。 0000_,20,523a08(00):宗祖滅後十六年。嘉祿三年七月廿五日。入道行然 0000_,20,523a09(00):二位禪尼追福の爲に梵宇を建立し。其慶讚導師とし 0000_,20,523a10(00):て聖覺法印を請す。聖覺其請に應じて鎌倉に法雷を 0000_,20,523a11(00):震ふ。其表白花を餝り。啓白玉を貫き。聽聞の尊卑 0000_,20,523a12(00):隨喜渴仰せりと云ふ。法印は宗祖在世の時。常に宗 0000_,20,523a13(00):祖に隨行し。諸處に唱導開説して。宗祖の化導を翼 0000_,20,523a14(00):賛したる人。此時鎌倉に於ける唱導の結果が僅少な 0000_,20,523a15(00):らざりしこと想像に餘あり。法印は其後直に歸京した 0000_,20,523a16(00):るか。或は尚暫く鎌倉に滯在して敎化を續けたるか 0000_,20,523a17(00):不明なるも。法印下鎌間もなく。隆寬律師も。念佛 0000_,20,523b18(00):者の首魁として陸奧國に流罪の宣旨を蒙り。鎌倉に 0000_,20,523b19(00):下向し。毛利入道西阿の好意により。弟子實成房を 0000_,20,523b20(00):陸奧國に遣し。自身は西阿の領地相模飯山に居住 0000_,20,523b21(00):し。此年の暮同地に入寂せしが。鎌倉にも暫く居住 0000_,20,523b22(00):し。多少在鎌の關東武士を攝化せしやも知るべから 0000_,20,523b23(00):ず。加之律師の上足智慶。隆慶相繼ぎて鎌倉に師説 0000_,20,523b24(00):を弘通し。眞言の碩德にして律師淨門弟子たる願行 0000_,20,523b25(00):上人も。名越安養院を開き律師の義を弘通し。律師 0000_,20,523b26(00):弟子蓮念相次で安養院第二世として。師風を闡揚し 0000_,20,523b27(00):たりと云ひ。又初め律師の門下なりしが。後法蓮房 0000_,20,523b28(00):信空の弟子となりし。敬西房信瑞も弘長二年鎌倉に 0000_,20,523b29(00):下り。北條時賴に謁し。自作宗祖傳を呈し。又その 0000_,20,523b30(00):請に對し淨土宗要を錄して贈れりと云ひ(敕傳二十 0000_,20,523b31(00):六卷)。又初成覺房の弟子なりしが。後には聖覺法印 0000_,20,523b32(00):の説を聞き。二祖の門に入りたる敬蓮社も。暫く鎌倉 0000_,20,523b33(00):に住したることありと云ふ(決答疑問鈔縁起)。其他親 0000_,20,523b34(00):鸞が東國宣敎の歸途鎌倉に立寄り。西山の門弟宗觀 0000_,20,524a01(00):が極樂寺に住したりと云ふ(傳燈總系譜下)が如き。 0000_,20,524a02(00):宗祖の化風が鎌倉に於て三祖以前に業に已に洽かり 0000_,20,524a03(00):しを察すべきなり。 0000_,20,524a04(00):三祖が下總を去り鎌倉に移住せられしには。種種 0000_,20,524a05(00):の事情ありしを前に述べしも。其根本原因は上に述 0000_,20,524a06(00):べし如き。諸宗の人師と同く。政治中心たる此地に 0000_,20,524a07(00):一宗の根柢を定むることの必要を認めたるによるなる 0000_,20,524a08(00):べし。 0000_,20,524a09(00):三祖鎌倉移住の年は不明なるも。正嘉二年三月六 0000_,20,524a10(00):十歳以後のことなるは傳通記述作の歷史に徴して疑ふ 0000_,20,524a11(00):可らず。移住の際隨從せる門弟は。性心。理眞。明 0000_,20,524a12(00):阿等の關東人。及西國有志の學徒若干人にして。鎌倉 0000_,20,524a13(00):に入るに先ち玉繩(高座郡大船驛の西)に一泊し。鎌 0000_,20,524a14(00):倉に入りては最初に慈恩(或は慈忍と云ふ)房の菴室 0000_,20,524a15(00):を訪問す。是慈恩房は三祖下總在住の頃。其名を聞き 0000_,20,524a16(00):一兩度音信を通し文書上の知己なりしが故なり。然 0000_,20,524a17(00):ども彼は三祖並に其門弟に衣食を支給する程の力あ 0000_,20,524b18(00):りし者に非りしが故に。彼は三祖を伴ひて大佛の勸 0000_,20,524b19(00):進淨光聖人の所に至り其援助を請ふ。聖人は曆仁元 0000_,20,524b20(00):年八丈阿彌陀佛大像建立の大願を發し。寬元元年六 0000_,20,524b21(00):月に至り堂宇佛像成就して。十六日落慶供養を執行 0000_,20,524b22(00):せしこと東鑑に見ゆるも。其造作莊嚴等は之を完成す 0000_,20,524b23(00):ること容易ならざりしと見え。三祖を供養して講肆を 0000_,20,524b24(00):開張せしむるには賛成なりしも。只僅に一宇の坊を 0000_,20,524b25(00):造り其居所に充て。師弟四人の食糧を供養せられし 0000_,20,524b26(00):のみ。故に極親密なる門弟のみ其坊に同居し。他は鎌 0000_,20,524b27(00):倉市中に散在し。小家を造り賣買を營みて衣食の資 0000_,20,524b28(00):に充て。辛くにして講莚に侍しえたるものの如し。か 0000_,20,524b29(00):くて大佛に止住せしこと幾年なりしかは不明なるも。 0000_,20,524b30(00):後神六入道と云ふ者。無常堂に菴室を造り。此に上 0000_,20,524b31(00):人を請し法談を聞けりと云ふ(決答受決鈔)も。神六 0000_,20,524b32(00):入道の爲人も無常堂の所在も明ならず。或は北條經 0000_,20,524b33(00):時の佐佐目谷の墳墓にあらざるか。光明寺傳に經時 0000_,20,524b34(00):と三祖との關係を云云するも。又此と關係する所あ 0000_,20,525a01(00):るが如し。而して此無常堂の菴室より佐介谷悟眞寺 0000_,20,525a02(00):に移住したるか。或は佐佐目谷は佐介谷の中に於け 0000_,20,525a03(00):る地名なりしと云へば。無常堂の菴室が後に悟眞寺 0000_,20,525a04(00):と改められしかは不明なるも。弘安十年入寂に至る 0000_,20,525a05(00):までは概ね玆に居住せるが如し。傳には初住大佛谷 0000_,20,525a06(00):後住悟眞寺在佐介谷として。無常堂菴居のことを記さず。是 0000_,20,525a07(00):れ傳文簡單にして無常堂菴居を略したりとも。又無 0000_,20,525a08(00):常堂菴居即悟眞寺と解せられざるにもあらず。とに 0000_,20,525a09(00):かく佐介谷の住居は悟眞寺と號し。建治元年傳通記 0000_,20,525a10(00):の再治は此寺に於てせられたること。同記跋文に見 0000_,20,525a11(00):え。弘安十年入寂も此寺なりしこと傳に示す所なる 0000_,20,525a12(00):も。糅鈔四十八卷には。此寺後に蓮華寺と改め。其檀 0000_,20,525a13(00):那は大佛殿なりし由を記す。大佛殿は北條時房の三 0000_,20,525a14(00):子朝直の系統大佛谷に住せしが故に此稱あり。然ら 0000_,20,525a15(00):ば經時は其檀主ならざりしことを知るべし。此蓮華寺 0000_,20,525a16(00):は後更に光明寺と改め。佐介谷より今の材木座に移 0000_,20,525a17(00):轉せしものなるも。其改稱移轉の年代は不明なり。 0000_,20,525b18(00):下總に於ける三舊跡の二箇寺迄光明寺と號すること。 0000_,20,525b19(00):及筑後善導寺の本名が光明寺なりしことを合せ考ふる 0000_,20,525b20(00):に。悟眞寺も三祖在世より光明寺の別號を有し。後 0000_,20,525b21(00):に至り別號が本稱と成りしに非るか。尚鎌倉に於て 0000_,20,525b22(00):は極樂寺内にも住せられしとの傳説あるも。何年頃 0000_,20,525b23(00):なりしかは明ならず。又石川禪門の館には屢屢往訪 0000_,20,525b24(00):せられ。門弟等も時時行き。禪門存生中は勿論。卒 0000_,20,525b25(00):後にも子孫其遺命により薪炭を供給したりと云ふ。 0000_,20,525b26(00):鎌倉在住中に於ける三祖の活動に關して史實の示す 0000_,20,525b27(00):所は甚少し。當時鎌倉に於て活動せし傑僧には。建 0000_,20,525b28(00):長寺開山大覺禪師道隆。極樂寺中興忍性菩薩良觀。 0000_,20,525b29(00):圓覺寺開山佛光禪師祖元。日蓮上人の四人なり。此 0000_,20,525b30(00):等の人人は熟れも三祖よりは十歳以上の弱齡なりし 0000_,20,525b31(00):によることならんも。三祖が彼等と交涉關係せられた 0000_,20,525b32(00):る事實なく。日蓮上人の如き道隆。忍性の兩師に對し 0000_,20,525b33(00):ては。猛烈に攻擊の戟を向けつつあるも。三祖に向 0000_,20,525b34(00):ひては片言隻句言及する所なし。是甚怪訝に堪へざ 0000_,20,526a01(00):る所なり。是盖三祖の活動は極めて質素着實にして。 0000_,20,526a02(00):名聞を求むるに冷淡なりしが故に。世間の注意を惹 0000_,20,526a03(00):くなかりしによることならん。即大佛谷。佐介谷等 0000_,20,526a04(00):の草菴に蟄居して。念佛の餘暇。祖典の講義及之が 0000_,20,526a05(00):註釋書の述作を事とし。前陳諸師の如く。世間的活 0000_,20,526a06(00):動を試らるること少かりしは。其名の當時に知られ 0000_,20,526a07(00):ざりし重なる理由なるべし。 0000_,20,526a08(00):(四) 足立及京都 0000_,20,526a09(00):三祖は法相宗並に傍出淨土敎の師たる南都興福寺 0000_,20,526a10(00):勝願院良遍僧都報恩の爲に。武藏國足立郡箕田の地 0000_,20,526a11(00):に一宇を建立し勝願寺と號す。何故にかかる地に之 0000_,20,526a12(00):を創建せしかは不明なるも。光明寺傳には北條經時 0000_,20,526a13(00):寄附武州安達郡内箕田郷以爲寺領充行三寶衆供 0000_,20,526a14(00):養于時武州二四郡爲經時私領とあり。經時が寄 0000_,20,526a15(00):附したりとの記事には疑あるも。何人かの寄附に 0000_,20,526a16(00):より此地が三祖の領有に屬したるを以て。玆に道場 0000_,20,526a17(00):を營み講肆としたるものの如し。而して勝願寺營建 0000_,20,526b18(00):の事實が何年頃にありしかは不明なり。寺傳には建 0000_,20,526b19(00):長三四年頃とし。或は建長四年とするも。當時は下總 0000_,20,526b20(00):に在住なりしこと上述の如くなれば信ずべからず。諸 0000_,20,526b21(00):記類聚に。觀經疏足立鈔に關して。聞書曰師云足立 0000_,20,526b22(00):文永御談義聞書也諍忍房口筆也の記事あり。足立に 0000_,20,526b23(00):於て談義の聞書なるが故に足立鈔と云ふ。然るに足 0000_,20,526b24(00):立とは武藏足立郡のことにして。足立郡に於ける三祖 0000_,20,526b25(00):の舊跡は箕田に他ならざれば。文永年中箕田に在住 0000_,20,526b26(00):せられしと云はざるべからず。然らば足立の傳道は 0000_,20,526b27(00):鎌倉移住以後のことに屬し。恐らくは鎌倉と此地とを 0000_,20,526b28(00):往復談義せしなるべし。寶治二年淨意尼の懇請を辞 0000_,20,526b29(00):し。再會を約して東國遊化の路程に就きしより。信 0000_,20,526b30(00):濃。兩總。相武諸處の敎化談義に星霜は意外に遷り 0000_,20,526b31(00):ぬ。淨意尼は既に故人となり再會の約果すに由なか 0000_,20,526b32(00):りしも。祖山の風物も慕はしく一蓮の友も懷かしき 0000_,20,526b33(00):に加へて。關東に受學し今は京都にある禮阿。慈心等 0000_,20,526b34(00):の弟子の懇請あり。建治二年九月。二十九年目に再び 0000_,20,527a01(00):京洛のを分くることとなりぬ。這回京都に於ける住 0000_,20,527a02(00):處も。菴主淨意尼は沒して在らざりしも。其故居たる 0000_,20,527a03(00):嵯峨大覺寺山内なりしが如し。又仁和寺西谷の禮阿 0000_,20,527a04(00):の菴居にも往來せられたるべし。滯京十一年間の事 0000_,20,527a05(00):跡も後世に傳へらるる所極めて少なし。建治二年上 0000_,20,527a06(00):京間もなく淨土宗要集を口述し(要集述作には異説 0000_,20,527a07(00):あるも今一説に從ふ)。翌建治三年閏三月(或弘安五 0000_,20,527a08(00):年十二月)安樂集私記を造り。同年九月毘沙門堂阿彌 0000_,20,527a09(00):の問に答ふるため選擇疑問答を著せるが如きは著し 0000_,20,527a10(00):き事實なるも。其他の消息に關しては殆んど何等傳 0000_,20,527a11(00):ふる所なし。但光明寺傳には。上京を寶治二年より建 0000_,20,527a12(00):長元年六月に至ると。建治二年より弘安九年に至る 0000_,20,527a13(00):二回とし。前回には後嵯峨上皇の仙洞御所に參し。 0000_,20,527a14(00):淨土三部經を講説し。一乘佛戒を授け上り。香衣上 0000_,20,527a15(00):人號を賜はり。次回には後宇多天皇の請により宮中 0000_,20,527a16(00):に參し。淨土宗義を進講し。淨土宗本有眞實一乘佛 0000_,20,527a17(00):戒を授け上り。紫衣法具等を賜はり。洛陽の貴賤多 0000_,20,527b18(00):く宗門に歸し戒を受け專修念佛する者甚多く。一條 0000_,20,527b19(00):法然寺。三條十念寺。小幡山高勝寺三箇の寺院を建 0000_,20,527b20(00):立したりと云へど。前後の文に鉾楯あれば一概に從 0000_,20,527b21(00):ふをえず。かくて京都の宣敎も十一箇年に及び。鎌 0000_,20,527b22(00):倉に於ける敎田の漸次荒廢の虞なきに非ず。遂に弘 0000_,20,527b23(00):安九年十月鎌倉に還り悟眞寺の舊廬に入る。翌弘安 0000_,20,527b24(00):十年六月十六日より痢病の冐す所となり。門弟看護 0000_,20,527b25(00):其効なく七月六日入寂す。壽八十九歳にして本宗列 0000_,20,527b26(00):祖の中稀に見る高齡なり。 0000_,20,527b27(00):三祖一代の著書は。鸞綽導空及源信諸祖の章疏の 0000_,20,527b28(00):注釋を始とし。二祖の章疏の注釋領解及別章を合し 0000_,20,527b29(00):て。五十餘卷あり。之を總稱して報夢鈔と云ふ。其 0000_,20,527b30(00):縁由は決答疑問鈔。及望西樓編纂の本傳に記する所 0000_,20,527b31(00):の如し。五十帖とは。往生論註記五卷。安樂集私記 0000_,20,527b32(00):二卷。觀經疏傳通記十五卷。同略鈔八卷。法事讚私 0000_,20,527b33(00):記三卷。觀念法門私記二卷。往生禮讚私記二卷。般 0000_,20,527b34(00):舟讚私記一卷。往生要集義記八卷。選擇傳弘決疑鈔 0000_,20,528a01(00):五卷。同裏書一卷。選擇疑問答一卷。徹選擇鈔二 0000_,20,528a02(00):卷。領解末代念佛授手印鈔一卷。決答授手印疑問鈔 0000_,20,528a03(00):二卷。淨土宗要集聽書二卷。三心私記一卷。淨土宗 0000_,20,528a04(00):行者用意問答一卷。淨土大意鈔一卷。淨土宗要集五 0000_,20,528a05(00):卷にして此等はいづれも本宗宗徒の證憑とする所な 0000_,20,528a06(00):り。 0000_,20,529a01(00):第二期 持續時代 0000_,20,529a02(00): 0000_,20,529a03(00):第一章 三祖門下の異流 0000_,20,529a04(00): 0000_,20,529a05(00):三祖門下に於て頭角を顯し。主張に多少の特色を 0000_,20,529a06(00):有し。若干の衆を領して一方に割據せる者六人あ 0000_,20,529a07(00):り。即良曉。性心。尊觀。道光。然空。慈心是な 0000_,20,529a08(00):り。中古以來宗祖門下の四流に倣ひ。之を三祖門下 0000_,20,529a09(00):の六派と稱す。即ち 0000_,20,529a10(00):關東三派 良曉―白旗派 性心―藤田派 尊觀―名越派 0000_,20,529a11(00):京畿三派 道光―三條派 然空―一條派 慈心―木幡派 0000_,20,529a12(00):なり。然れども正統鎭西を宗祖門下の異流とするの 0000_,20,529a13(00):妥當ならざるが如く。正統白旗は當然異流より區別 0000_,20,529b14(00):すべきが故に。異流としては性心以下の五人の流派 0000_,20,529b15(00):を算ふべきなり。 0000_,20,529b16(00):一 藤田派 0000_,20,529b17(00):派祖性心(或は性眞に作る)は。性阿(或は唱阿) 0000_,20,529b18(00):と號し。武藏國藤田郷(今埼玉縣大里郡寄居町地方) 0000_,20,529b19(00):の領主。藤田民部丞利貞の息なり。初叡山に登りて 0000_,20,529b20(00):出家し台學を研究せしが。後三祖に歸依し淨土門を 0000_,20,529b21(00):修學せり。彼が三祖に歸したる因縁と年月とは不 0000_,20,529b22(00):明なるも。其下總敎化中のことなりしは明なり。即福 0000_,20,529b23(00):岡飯岡に於て傳通記講述の際には。彼は始終講席に 0000_,20,529b24(00):侍り之を筆記せり。而して此筆記を三校一覆せられ 0000_,20,529b25(00):たるものが。今日の傳通記なり。故に當時既に彼の 0000_,20,529b26(00):三祖門下に於ける位置相當に高かりしを見るべし。 0000_,20,529b27(00):三祖の鎌倉移錫の際にも。理眞。明阿等と共に隨從 0000_,20,529b28(00):し。困厄の裡にも絶えず給仕して受學聽法したるが 0000_,20,529b29(00):如し。されば三祖に隨從の年月より云へば。六人中最 0000_,20,529b30(00):も古參の門下にして。恰も宗祖門下に於ける法蓮房 0000_,20,530a01(00):信空の位置にありし人とも云ふべきなり。而も後に 0000_,20,530a02(00):至りては祖跡の相續者たる能はざりしのみならず。 0000_,20,530a03(00):法脉相承の上にも。慈心良曉の爲に先んぜられし所 0000_,20,530a04(00):以のものは。甚怪むべきに似たりと雖も。其人物信 0000_,20,530a05(00):仰に於て。三祖と相容れざりしものありしを想はざ 0000_,20,530a06(00):るべからず。 0000_,20,530a07(00):遮莫。三祖入滅の翌年。即正應元年。彼は下總國 0000_,20,530a08(00):猿島郡岩井に高聲寺を開き。其義を弘通せり。總系 0000_,20,530a09(00):譜には岩井を藤田庄にあり。故に其流義を藤田派と 0000_,20,530a10(00):稱する由を記するも。下總に藤田庄名ありしや疑は 0000_,20,530a11(00):しきのみならず。藤田派の稱は彼の生地にして。且 0000_,20,530a12(00):同派二世持阿の此に住し。善導寺を開き其流義を弘 0000_,20,530a13(00):通したることは。次に記する如くなれば。寧武藏國藤 0000_,20,530a14(00):田郷に起因せりとするを穩當とすべし。又此派を秩 0000_,20,530a15(00):父派と稱することあり。秩父は藤田と接し。藤田氏の 0000_,20,530a16(00):領所内に含まれ。藤田氏を秩父藤田と稱せしと云へ 0000_,20,530a17(00):ば(地名辭書)。性心の流義にも之を適用したるなる 0000_,20,530b18(00):べし。又性心を水沼上人と稱す(授手印決答見聞同 0000_,20,530b19(00):受決鈔奧書)。水沼は秩父の内なりと云へば(聖聰註 0000_,20,530b20(00):記見聞一)。藤田と同處或は其近所なるべく。而し 0000_,20,530b21(00):て彼は此所にも住したるものなるべし。其の著述は 0000_,20,530b22(00):若干卷ありしと傳ふるも。現存するは授手印決答見 0000_,20,530b23(00):聞のみなるが如し。性心は藤田派の開祖なるも。之 0000_,20,530b24(00):を大成擴張したるは其法嗣良心なり。 0000_,20,530b25(00):良心字は持阿彌陀佛。或は單に持阿と稱す。或は 0000_,20,530b26(00):持阿と性心を混同し同一人とするものあり。鎭流祖 0000_,20,530b27(00):傳の如き其一なるも。別人にして決して同一人にあ 0000_,20,530b28(00):らず。彼は武藏國藤田郷(總系譜下總州藤田の人な 0000_,20,530b29(00):りと云ふも下總に藤田なきは上述の如くなれば恐ら 0000_,20,530b30(00):く誤ならん)の産にして。藤田小太郞刑部行重の子 0000_,20,530b31(00):なり。弱齡同郷同族の關係よりして性心の弟子と成 0000_,20,530b32(00):り。弘安六年名越尊觀に就き宗乘を學び。同九年上 0000_,20,530b33(00):洛して親しく三祖の示敎を受けしが。三祖滅後性心 0000_,20,530b34(00):に嗣法し。後高聲寺第二世と成る。又下總國葛飾郡 0000_,20,531a01(00):(今猿島郡)小福田に無量壽寺を開き。寺中に土塔を 0000_,20,531a02(00):造りて相傳の祕書を藏す。故に人其流を土塔派と呼 0000_,20,531a03(00):びしと云ふ。又郷里藤田(今寄居町末野)に善導寺を 0000_,20,531a04(00):開き。武藏に於ける流義弘通の中心とせり。此等の 0000_,20,531a05(00):外。無量壽寺の近傍には。櫻井村下大野正定寺。長 0000_,20,531a06(00):田村西泉田西光寺。森戸村伏木專修寺。猿島村内門 0000_,20,531a07(00):大翁寺あり。善導寺の近邊には。用土村用土蓮光 0000_,20,531a08(00):寺。花岡村武藏野常光寺あり。上野國邑樂郡中野村 0000_,20,531a09(00):神光寺あり。此れ等は皆持阿を以て開山となす。以 0000_,20,531a10(00):て彼が寺院の開創經營に努力したるの一端を想像す 0000_,20,531a11(00):べし。かく彼は事業家たりしのみならず。三祖の著 0000_,20,531a12(00):書に種種の註釋を施せり。即傳通記受決鈔十八卷。 0000_,20,531a13(00):決疑鈔見聞十卷。往生論註記見聞五卷。授手印決答 0000_,20,531a14(00):受決鈔二卷。往生十因糅要鈔三卷等是なり。此等を 0000_,20,531a15(00):藤田見聞。或は持阿見聞と稱す。然るに後年名越法 0000_,20,531a16(00):孫大澤良榮。此等の多くを刪補修正したるにより。 0000_,20,531a17(00):良榮見聞。或は大澤見聞として世に行はるるに至れ 0000_,20,531b18(00):り。是前に述べし如く。良心が尊觀に受法したる事 0000_,20,531b19(00):實に關聯する所あるべく。かくして藤田派は後に名 0000_,20,531b20(00):越派と親密なる關係を結び。名越傳法中別に藤田の 0000_,20,531b21(00):傳法ある所以なるべし。元亨三年六月五日寂す。 0000_,20,531b22(00):持阿の弟子に持名あり。持名の弟子に唱名あり。 0000_,20,531b23(00):相繼ぎて高聲寺に住したり。唱名の弟子に善忠。敎 0000_,20,531b24(00):藏。理覺。感誓あり。善忠は上生寂翁と號し。貞和 0000_,20,531b25(00):五年三河國渥美郡今橋(吉田今豐橋)に悟眞寺をひら 0000_,20,531b26(00):き所承を弘通し。應永二年八月二十八日寂せしが。 0000_,20,531b27(00):其近傍に於ける感化甚大なりしが如し。敎藏は慈智 0000_,20,531b28(00):翁と號し。文和四年武藏國埼玉郡三俣龍藏寺を開 0000_,20,531b29(00):き。明德元年正月二日に寂せり(總系譜)とするも 0000_,20,531b30(00):のあるも誤にして。彼は後善忠に次ぎ悟眞寺第二世 0000_,20,531b31(00):の住持と成り。應永十六年尚存命せしを證するもの 0000_,20,531b32(00):あり。即御津神社古經卷の奧書に。於三州今橋悟 0000_,20,531b33(00):眞寺住持比丘慈智翁中略應永十六年十二月廿九日申 0000_,20,531b34(00):刻畢(地名辭書)とある是なり。理覺は下總國猿島 0000_,20,532a01(00):龍福寺を開き。感誓(或は感生に作る)は貞治年中 0000_,20,532a02(00):奧州會津津川新善光寺を開けり。此寺五世梅岌に至 0000_,20,532a03(00):りて非常に繁昌し。境内廣闊伽藍完備したりしが。 0000_,20,532a04(00):永正年間兵燹に罹り寺領を掠められ衰微せるも。德 0000_,20,532a05(00):川初期に於て尚地方の中本寺たりしことは寺記の示す 0000_,20,532a06(00):所なり。理覺の門下良岌あり。下總國大野正定寺。 0000_,20,532a07(00):奧州田村郡三春紫雲寺。信夫郡松川村常念寺。安積 0000_,20,532a08(00):郡郡山善導寺。岩瀨郡須賀川十念寺。岩城郡下小川 0000_,20,532a09(00):遍照寺等を開く。其弟子に岌傳あり。初は土塔に住 0000_,20,532a10(00):し。後會津黑河郷に隱遁す。其下に岌天あり。會津 0000_,20,532a11(00):高巖寺を開き。天文六年九月廿八日に寂す。 0000_,20,532a12(00):百萬遍知恩寺の住職には。第廿七世岌翁以下岌長。 0000_,20,532a13(00):岌善。岌州。岌興あり。岌翁は天文十二年。岌長は天 0000_,20,532a14(00):文廿二年共に越後高田善導寺より晋山し。岌州は石 0000_,20,532a15(00):州銀山極樂寺より。或は悟眞寺より入院せりと云ひ。 0000_,20,532a16(00):岌興は天文十三年越前西方寺より入院せるよしを。 0000_,20,532a17(00):同寺歷志略に載せて。此等五人の師弟關係に就て云 0000_,20,532b18(00):ふ所なしと雖も。共に岌字を冠するを見れば。必ず 0000_,20,532b19(00):其間に法脉關係あるのみならず。又良岌以下の人人。 0000_,20,532b20(00):或は其他の藤田派の人に關係あるを想像せしむるの 0000_,20,532b21(00):みならず。彼の東蒲原郡津川新善光寺の繁昌と共に。 0000_,20,532b22(00):藤田派の越後に蔓延し。全國に同派の寺院勃興した 0000_,20,532b23(00):るが故に。善導寺も其勢力範圍にありて。翁長二師 0000_,20,532b24(00):も其流を汲める人なるを推想すべく。就中岌州が元 0000_,20,532b25(00):龜三年頃まで堺旭蓮社に住し。藤田派の傳書を護持 0000_,20,532b26(00):したることは。決答受決鈔の奧書の明示する所なり。新 0000_,20,532b27(00):撰往生傳第三岌州傳には。註に按入會津高巖寺開山 0000_,20,532b28(00):岌天上人之室剃染乎冠岌字之故可思之と云ひ。 0000_,20,532b29(00):次に後登洛長德山禀敎嗣法貫首岌長公第廿八世號天蓮社第廿 0000_,20,532b30(00):七世心蓮社岌翁公之資と云ふ。前者は岌字より來れる想像説なる 0000_,20,532b31(00):も。後者は何かの根據あるべし。同傳は又岌善岌州の 0000_,20,532b32(00):順序を顚倒し。又岌州が晩歳泉州堺旭蓮社に住せし 0000_,20,532b33(00):ことを記するも。事實に錯誤あること。前の元龜三年彼 0000_,20,532b34(00):が旭蓮社に在りし事實により知るべし。新撰傳によ 0000_,20,533a01(00):りては未だ百萬遍五代の住持が藤田派に關係ある確 0000_,20,533a02(00):説をえざるも。五人承繼の關係と。岌州によりて藤 0000_,20,533a03(00):田派の關係事實を略想像せしむるに足るものなり。 0000_,20,533a04(00):又岌長は。天文三年尾張國中島郡刈安賀鎭西寺を 0000_,20,533a05(00):開きたりと云へば。尾張より越後に轉じ。更に京都 0000_,20,533a06(00):に移りしが如し。而して岌淸といふ人あり。天文九 0000_,20,533a07(00):年尾張國海東郡葉苅長福寺を開き。同年中同國同郡 0000_,20,533a08(00):蛭間大德寺を開き。岌潜と云ふ人。天文九年同國同郡 0000_,20,533a09(00):宇治光明寺を開きたりと傳ふるを見れば。此等も岌 0000_,20,533a10(00):長に關係ありしことを想像しうべし。又天正文祿の 0000_,20,533a11(00):交。岌徃あり。甲斐信濃に於て數箇寺を開創せり。 0000_,20,533a12(00):即甲斐國西山梨郡里垣村歸命院(天正十八年)。同國 0000_,20,533a13(00):東八代郡錦村西念寺。同國同郡淸野村瑞蓮寺(天正 0000_,20,533a14(00):九年)。信濃國北佐久郡岩村田町西念寺(天正八年)。 0000_,20,533a15(00):同國諏訪郡四賀村稱故院(文祿二年)。同郡米澤村鹽 0000_,20,533a16(00):澤寺(天正五年)。同郡北山村泉澁院(天正年中)。同 0000_,20,533a17(00):國上伊那郡高遠滿光寺(天正元年)。同郡伊那富村長 0000_,20,533b18(00):久寺(天正十年)等是なり。其他奧州越後には岌字を 0000_,20,533b19(00):冠する人を開山とする寺院甚多し。 0000_,20,533b20(00):以上の事實を綜合して考ふるに。天文より文祿慶 0000_,20,533b21(00):長に亙り。奧州・越後・信濃・甲斐・三河・尾張等 0000_,20,533b22(00):の諸國には。藤田或は藤田名越混合の法系非常に繁 0000_,20,533b23(00):茂し其勢力も餘程強大なりしが如し。而し岌翁。岌 0000_,20,533b24(00):長が敕請により百萬遍に住せしが如きも。全く其結 0000_,20,533b25(00):果ならずんばあらず。然れども德川時代に至り。奧 0000_,20,533b26(00):羽に於けるものは名越に吸收せられ。其他は正統白 0000_,20,533b27(00):旗に併合せられたり。 0000_,20,533b28(00):二 名越派 0000_,20,533b29(00):派祖尊觀は。字を良辨と云ひ。父は北條義時の次 0000_,20,533b30(00):男名越遠江守朝時にして。延應元年下總國香取郡鏑 0000_,20,533b31(00):木村に誕生せりと云ふ。而して少時三祖門下に入り 0000_,20,533b32(00):しと云へば。恐らく三祖が下總在住の頃なるべし。 0000_,20,533b33(00):後常に隨從して宗要を受學したりしが。鎌倉に於て 0000_,20,533b34(00):は名越谷に居住し。此に善導寺を開き其所承の法を 0000_,20,534a01(00):弘通したり。其流義を名越派。或は善導寺流と稱す 0000_,20,534a02(00):るは是に因づく。其名越に住するに至りしは。盖血 0000_,20,534a03(00):族の關係によるものならんか。後安養院の名越に移 0000_,20,534a04(00):るや。善導寺は之に合したりと見え。尊觀は安養院 0000_,20,534a05(00):第三世とせられ。安養院は後世鎌倉に於ける斯流の 0000_,20,534a06(00):本山となれり。彼一念業成義を立てて。三祖滅後屢 0000_,20,534a07(00):白旗寂慧と議論を戰はし。正和三年寂慧の口傳鈔を 0000_,20,534a08(00):造るや。彼は其翌年十一月。十六箇條の疑問並に五 0000_,20,534a09(00):箇條の決答を附錄として。淨土十六箇條疑問答一卷 0000_,20,534a10(00):となし。寂慧を難破し自義を出張せり。其他迷悟問 0000_,20,534a11(00):答鈔。四家大乘論義。群蒙樹動集等の著述ありと云 0000_,20,534a12(00):ふ。正和五年三月十四日。七十八歳を以て寂す。彼 0000_,20,534a13(00):は多く鎌倉に住し。若干の門徒を聚めて其所承を敎 0000_,20,534a14(00):授したる外。他に遊化或は活動したる形迹なし。然 0000_,20,534a15(00):れども其門下法孫に俊傑多く。三祖門下の五派中に 0000_,20,534a16(00):は最も隆盛を極めたり。 0000_,20,534a17(00):尊觀門下の上足に慈觀。慧觀。明心あり。慈觀字 0000_,20,534b18(00):は良嚴。名越宗要一卷を著す。慧觀字は良然。澆末 0000_,20,534b19(00):無證論一卷を作る。此兩人は共に鎌倉に在住したり 0000_,20,534b20(00):と見え。元應元年三祖三十三回の忌辰に方り。佐介 0000_,20,534b21(00):谷に於ける講論の際には彼等も出席したりと云ふ 0000_,20,534b22(00):(述聞口決上、疑問答見聞一)。明心字は良慶。月形 0000_,20,534b23(00):房と號す。幼時近江國石山寺に出家し。後尊觀に從 0000_,20,534b24(00):ひ淨土敎を學ぶ。後信濃善光寺南大門に赴き。流義 0000_,20,534b25(00):を弘宣し。且心具不生の異義を立つ。師尊觀之を聞 0000_,20,534b26(00):き此玉疵哉と評し。後鎌倉慈觀。善光寺參詣の序でに 0000_,20,534b27(00):之につき問答對辨したるも。別に呵責を加へざりし 0000_,20,534b28(00):と云ふ(涇渭文流集)。建武三年六月廿七日。六十八 0000_,20,534b29(00):歳を以て寂す。著書果分不可説一卷あり。 0000_,20,534b30(00):明心の門下に妙觀あり。高蓮社良山と號し。奧州石 0000_,20,534b31(00):川郡の人なり。始め密敎を學びしが。後淨土に歸す。 0000_,20,534b32(00):明師に就き弘願の要旨を探らんとして。元亨三年信 0000_,20,534b33(00):州に赴き善光寺如來に祈請して靈告を感じ。遂に明 0000_,20,534b34(00):心に師事するに至れり。其善光寺に留りし年月は明 0000_,20,535a01(00):ならざるも。翌正中元年三月には尚此に在りしこと。 0000_,20,535a02(00):涇渭分流集所引の彼の筆記文に見るべし。『問答等鎌 0000_,20,535a03(00):倉慈觀和尚意也委細可考經釋之旨勿擧私情正中 0000_,20,535a04(00):元年三月十三日南大門談義所申時計口筆良山春秋三 0000_,20,535a05(00):十二後見念佛十遍』と是なり。是より先元亨二年。 0000_,20,535a06(00):山名行阿の請に應じ。奧州矢ノ目(磐城國石城郡夏 0000_,20,535a07(00):井村山崎)に如來寺を開きしが。信濃より歸りて 0000_,20,535a08(00):後。此に其流義を弘通す。是奧州に於ける淨土宗特 0000_,20,535a09(00):に名越派流行の淵源なり。故に妙觀は奧羽淨土宗の 0000_,20,535a10(00):開拓者にして。如來寺は其本山として十七代に及び 0000_,20,535a11(00):しが。永正年中專稱寺繁昌し。遂に之に本山檀林の 0000_,20,535a12(00):資格を讓り。本寺却て末院たるの奇觀を呈せり。妙 0000_,20,535a13(00):觀の著書は決疑鈔裏書。題額集六卷。開題考文鈔三 0000_,20,535a14(00):卷。同口筆一卷。果分述傳初心示六端明中抄。十劫成 0000_,20,535a15(00):道口筆。略論裏書。十六箇條口筆。選擇口筆。四部 0000_,20,535a16(00):口筆。彌陀授記。經藏本尊行法次第。三國傳記。黑 0000_,20,535a17(00):衣相傳。玄義口筆。果分考文抄助證。口傳抄。疑問 0000_,20,535b18(00):抄掟條等なり。派祖尊觀。二世明心の著書と合し 0000_,20,535b19(00):て。此等を一函に藏めて相傳の祕書とし。其函を月 0000_,20,535b20(00):形函と稱し。如來寺の重寶となせしと云ふ。康安元 0000_,20,535b21(00):年六月十六日に寂す。世壽は上揭分流集の所記によ 0000_,20,535b22(00):れば六十九なれども。月形凾藏果分不可説の奧書に。 0000_,20,535b23(00):『貞和二年八月比一室同朋夜中に但二人して此相傳 0000_,20,535b24(00):祕而談話の時令問彼人其時良山不答之後令考今 0000_,20,535b25(00):義于時春秋五十二良山在判』とあるによれば。六十 0000_,20,535b26(00):七歳を越ゆること能はず。而して四流六派梗概(安田健 0000_,20,535b27(00):導著芹葉集收)に八十歳とあるは誤なるべし。 0000_,20,535b28(00):妙觀の門下には。聖觀。十聲最も聞ゆ。聖觀字は 0000_,20,535b29(00):良天。眞蓮社法阿と號す。下總源氏某の子。妙觀に 0000_,20,535b30(00):師事して嗣法せる後。四方に遊化せしが。元德二年 0000_,20,535b31(00):奧州楢葉郡折木(磐城國雙葉郡廣野村折木)に成德寺 0000_,20,535b32(00):を開く。成德寺又折木談所と號す。如來寺月形函開 0000_,20,535b33(00):題考文抄跋に。『應永五年戊寅小楢葉折木談所書之 0000_,20,535b34(00):筆者通慶覺天生年三十五才』とあるによりて知るべ 0000_,20,536a01(00):し。此寺奧州名越派一方の檀林として學徒の淵叢な 0000_,20,536a02(00):りしが。慶長元年。淺見川村高倉山城主猪狩下野守 0000_,20,536a03(00):伊達家へ隨仕の時。寺僧之に隨從して信夫郡に去り 0000_,20,536a04(00):て廢絶し。新邑主大塚氏其趾に東漸寺を建立したる 0000_,20,536a05(00):により。數年後良薰寺名を今地に再興せしも。又舊 0000_,20,536a06(00):時の盛觀なきに至れり。應安二年六月朔日折木に寂 0000_,20,536a07(00):す。世壽八十一歳と傳へらるるも。師妙觀よりも四 0000_,20,536a08(00):才或は六才の年長者なりとは考へられず。故に師の 0000_,20,536a09(00):年と同じく舛誤あるものの如し。其著書には領解見 0000_,20,536a10(00):聞。同口筆。式掟授決抄。果分考文抄末疏。口傳 0000_,20,536a11(00):抄・略論見聞・題額見聞・開題見聞・良天口筆・選 0000_,20,536a12(00):擇口筆見聞等あり。 0000_,20,536a13(00):十聲又證賢と稱し。字は良就。成蓮社と號す。又 0000_,20,536a14(00):別に榮傳の名ありしこと下に擧ぐる臺座裏書に見るべ 0000_,20,536a15(00):し。山城國八幡の人にして。妙觀に從ひ宗要を學 0000_,20,536a16(00):び。後如來寺の西方に專稱寺を剏む。專稱寺の開創 0000_,20,536a17(00):は或は應永二年とするも。實は其より以前なるが如 0000_,20,536b18(00):し。即同寺本尊如來臺座裏書に『好島庄山崎村梅福 0000_,20,536b19(00):山專稱寺一光三尊如來奉修覆願主期淨國榮傳十聲上 0000_,20,536b20(00):人眞筆寫申候同大工次郞兵衞入道至德元年甲子霜月 0000_,20,536b21(00):云云』とあり。至德元年は應永二年に先つ十一年な 0000_,20,536b22(00):り。應永三十四年十一月廿四日。七十九歳を以て寂 0000_,20,536b23(00):せしと云ふ。專稱寺は後大澤良榮の法孫入りて相續 0000_,20,536b24(00):し。第六世仰觀良大に至り。寺の規模を擴張し。永 0000_,20,536b25(00):正年中後柏原天皇より敕願所の額を賜はり。如來寺 0000_,20,536b26(00):より本山檀林の資格を奪ひ。德川時代に至りては。 0000_,20,536b27(00):大澤圓通寺と相並びて名越檀林と稱せらる。 0000_,20,536b28(00):聖觀の法資に理本あり。字は良榮。高蓮社と號 0000_,20,536b29(00):す。名越第五代の法嗣にして。又斯流の中興者な 0000_,20,536b30(00):り。康永元年(聖冏誕生の翌年)奧州磐前郡小川村に 0000_,20,536b31(00):生れ。石川冠者光之が後裔なりと云ふ。初喜圓良尊 0000_,20,536b32(00):に投じて出家したるも。後聖觀の門に入りて嗣法 0000_,20,536b33(00):す。應永九年六十一歳にして下野國芳賀郡大澤村 0000_,20,536b34(00):(寺傳には初船橋郷に開かれしが永祿二年今の大澤 0000_,20,537a01(00):に移されたりと云ふ)に圓通寺を開く。是れ下野に於 0000_,20,537a02(00):ける名越派の本山にして。大澤檀林の淵源なり。理 0000_,20,537a03(00):本は聖冏と交り。正流の義にも通し。藤田の流義に 0000_,20,537a04(00):は特に委しかりしが如し。彼亦聖冏と同じく宗門の 0000_,20,537a05(00):事業家としてよりは。學者著述家を以て自任し。此 0000_,20,537a06(00):方面に於て派風を煽起すること大なりしが如し。其 0000_,20,537a07(00):著述には望西見聞八卷。往生要集記見聞八卷。十六 0000_,20,537a08(00):箇條疑問答見聞四卷。決答疑問鈔見聞二卷。傳通記 0000_,20,537a09(00):見聞廿六卷。授手印口筆。法事讚記見聞三卷。往生 0000_,20,537a10(00):禮讚記見聞三卷。般舟讚記見聞一卷。觀念法門記見 0000_,20,537a11(00):聞二卷。註記見聞五卷。決疑鈔見聞十卷。宗要見聞 0000_,20,537a12(00):十卷。安樂集見聞二卷等あり。此等は多く見聞と稱 0000_,20,537a13(00):するが故に。普通大澤見聞。或は良榮見聞と稱す。 0000_,20,537a14(00):中に於て。藤田持阿の著書に刪補を加へて。自著と 0000_,20,537a15(00):したるもの少からざること前述の如しと雖も。別に 0000_,20,537a16(00):一家の見を持し。必しも剽窃を以て滿足せざりしこ 0000_,20,537a17(00):とは。其書の内容に見て知るべし。理本は聖冏に後 0000_,20,537b18(00):るること四年。應永三十年六月八十二歳を以て寂 0000_,20,537b19(00):す。 0000_,20,537b20(00):理本の法孫は非常に繁茂して。先師乃祖の諸法孫 0000_,20,537b21(00):を壓倒し。圓通寺は勿論。如來寺・專稱寺・成德寺 0000_,20,537b22(00):等の諸大寺を奄有し。奧羽野州に於ける各地の布 0000_,20,537b23(00):敎。寺院興立等も多く彼等の手により成就せられた 0000_,20,537b24(00):るが故に。後世名越派を又大澤流と稱する場合少か 0000_,20,537b25(00):らず。 0000_,20,537b26(00):名越派。或は大澤流は。主として奧羽野常等の東 0000_,20,537b27(00):北の地に滋蔓し。本宗分布圖の一角に據有するに過 0000_,20,537b28(00):ぎざりしが。元龜天正の交より關西に法翼を振ふ者 0000_,20,537b29(00):を輩出したり。即理本九代の法孫にして。圓通寺中興 0000_,20,537b30(00):十世性海良迦の弟子に道殘あり。道殘源立と稱し。 0000_,20,537b31(00):然蓮社良智と號す。性海に嗣法の後。天下を周遊 0000_,20,537b32(00):し。越前國敦賀に至るや。西福寺亮叡。其學解德操 0000_,20,537b33(00):を欽び。延いて寺の補處となす。寺は應安年中良如 0000_,20,537b34(00):智水の開くところ。良如は下に述ぶるごとく淨華院 0000_,20,538a01(00):の第八世敬法の資とせられ。寺又淨華院の末院なり 0000_,20,538a02(00):しが。其良字は名越の良號に何等かの關係を有せざ 0000_,20,538a03(00):りしか疑なきに非ず。若し關係ありとせば道殘が西 0000_,20,538a04(00):福寺に住職せるも偶然にあらずと云ふべし。遮莫彼 0000_,20,538a05(00):は西福寺を中興し。寺觀を改めたるが。專譽良休の 0000_,20,538a06(00):後を襲ひ淨華院に晋山し第三十二世と成る。是より 0000_,20,538a07(00):先。黑谷は常に淨華院の兼帶するところなりしを以 0000_,20,538a08(00):て。彼も亦これを兼管せしが。其の間に黑谷の規模 0000_,20,538a09(00):を擴張して。今の金戒光明寺の基を開き。西福寺を 0000_,20,538a10(00):始め從來淨華院の末寺たりしものを黑谷に移したる 0000_,20,538a11(00):こと多きを以て。黑谷に於ては大に之を德とするも。 0000_,20,538a12(00):淨華院に於ては『山荒の道殘』と稱して憎惡せられた 0000_,20,538a13(00):りと云ふ。彼はかく檀興の能手たりしのみならず。 0000_,20,538a14(00):又學問にも長じ。和風安心鈔一卷の作あり。文祿二 0000_,20,538a15(00):年九月廿三日寂す。 0000_,20,538a16(00):理本六代の法孫に仰觀良大あり。專稱寺六世とし 0000_,20,538a17(00):て該寺を中興し。敕願所の綸旨を拜し。名越派本山 0000_,20,538b18(00):たらしめたること前に之を記せしが。其四代の法孫に 0000_,20,538b19(00):袋中あり。天蓮社良定と號し。奧州菊多郡岩岡(磐 0000_,20,538b20(00):城國石城郡磐崎村)佐藤修理亮定衡の子にして。光 0000_,20,538b21(00):明院以八上人の同母弟なりと云ふ。幼にして西郷 0000_,20,538b22(00):(磐崎村の内)能滿寺に入り。存洞に就きて出家し。 0000_,20,538b23(00):如來寺。專稱寺。圓通寺等の諸檀林に遊學し。二十三 0000_,20,538b24(00):歳の時。大澤檀林に宗徒敎養の任務を托せられ。學 0000_,20,538b25(00):徒敎養の傍ら古記錄の蒐集整理に盡力せり。後世古 0000_,20,538b26(00):書祕錄。宗門口決故實。藤田傳法等を圓通寺に傳え 0000_,20,538b27(00):たるには彼の勞與りて大なり。二十五歳江戸增上寺 0000_,20,538b28(00):に遊び白旗の正傳を相承し。次で良鄭に嗣法して成 0000_,20,538b29(00):德寺第十三世と成る。又奧州に於ては菩提院等の寺 0000_,20,538b30(00):院を開きしが。五十二歳の時渡支の大志を懷き西行 0000_,20,538b31(00):せしも。時恰も支那に騷亂ありて渡航をえざりしか 0000_,20,538b32(00):ば。南航して琉球に至り。城外桂林寺に宿し留ること 0000_,20,538b33(00):三箇年なりしが。其間國主の請により琉球神道記。 0000_,20,538b34(00):琉球往來記を製す。慶長十六年六十歳にして京都に 0000_,20,539a01(00):歸り。三條法林寺を復興す。是れ望西樓了慧悟眞寺 0000_,20,539a02(00):の遺跡なりと云ふ。後洛北氷室山。東山菊ケ谷(今 0000_,20,539a03(00):袋中菴の地)。南都念佛寺。山城國相樂郡瓶原心光 0000_,20,539a04(00):菴。同國綴喜郡飯岡西方寺等に菴を結び寺を開き。 0000_,20,539a05(00):化導頻なりしが。寬永十六年正月廿一日八十八歳を 0000_,20,539a06(00):以て飯岡に寂す。一代の著述は血脉論一卷。麒鱗聖 0000_,20,539a07(00):財論私釋一卷。大原端書一卷。梵漢對映集二卷。啓 0000_,20,539a08(00):袋中一卷。大澤文庫一卷(以上奧州に於て)。明眼論 0000_,20,539a09(00):記一卷(九州に於て)。琉球神道記五卷。琉球往來記 0000_,20,539a10(00):一卷(琉球に於て)。天竺往生記抄。臨終要決抄。聖 0000_,20,539a11(00):鬮賛十六卷。曼陀羅白記十二卷。元亨釋書略頌(以 0000_,20,539a12(00):上京都に於て)。靈地集二卷。選擇之傳一卷。(南都 0000_,20,539a13(00):に於て)。四十二章經註一卷。涅槃考文鈔一卷。泥 0000_,20,539a14(00):洹之道一卷。彌陀偈抄一卷。五百誓願記三卷。舍利 0000_,20,539a15(00):禮文記一卷、(以上瓶原に於て)。評摧邪輪一卷。淨 0000_,20,539a16(00):土最初曼陀羅略記。淨土第三曼陀羅略記。五重要 0000_,20,539a17(00):釋。袋中名目一卷。同科。諸上善人詠畧釋。隨聞記 0000_,20,539b18(00):等あり。實際と學問とを兼備へたる人なるを見るべ 0000_,20,539b19(00):し。 0000_,20,539b20(00):袋中門下俊髦少からず。隨道・良隨・覺殘・良 0000_,20,539b21(00):奯・住關等は奧州野州等に在りて獅子吼し。就中住 0000_,20,539b22(00):關の下には多數の人物を輩出し。益法翼を張れり。 0000_,20,539b23(00):團雄。貞龍。呈觀。空山。東暉は京都に在り。雄龍 0000_,20,539b24(00):暉は相次で法林寺を董し。山は袋中菴を開く。特に 0000_,20,539b25(00):東暉は宗學に精通して。淨土略名目圖首書。同見 0000_,20,539b26(00):聞。選擇首書。同科。袋中傳記等の著書あり。 0000_,20,539b27(00):東暉の門下に聞證あり。聞證の下に義山。圓智あ 0000_,20,539b28(00):り。師弟相繼ぎ德川時代本宗宗學の策進に與りて力 0000_,20,539b29(00):ありしことは後に之を述ぶべし。 0000_,20,539b30(00):三 三條派 0000_,20,539b31(00):派祖道光。字は了慧。望西樓或は蓮華堂と號す。 0000_,20,539b32(00):盖其居の稱に基けりと云ふ。相模國鎌倉の人にし 0000_,20,539b33(00):て。幼時比叡山に登り。尊慧に就き出家して顯密を 0000_,20,539b34(00):受學せしが。後三祖の門に投じて宗乘を學ぶ。文永 0000_,20,540a01(00):九年洛東三條に悟眞寺を開創して。所承を弘通せし 0000_,20,540a02(00):により。三條派の稱あり。同十一年十二月。漢語燈 0000_,20,540a03(00):錄十卷。同拾遺十卷を輯錄し。翌年二月。和語燈錄 0000_,20,540a04(00):五卷。同拾遺二卷を輯錄して。宗祖一代の講説。手 0000_,20,540a05(00):記の漢和文。一切の文章を網羅す。後世に至るま 0000_,20,540a06(00):で。宗祖の著述が散逸の厄を免れしは。偏に彼の輯 0000_,20,540a07(00):集の結果なることを思へば。彼の功績は偉大なりと云 0000_,20,540a08(00):はざるべからず。弘安七年十二月。二祖別傳を。同 0000_,20,540a09(00):十年八月。三祖別傳を編す。又慈心の勸請により。 0000_,20,540a10(00):永仁三年四月廿五日より翌年正月十三日に至る間 0000_,20,540a11(00):に。無量壽經鈔七卷を起稿し。同五年二月。彼慈心 0000_,20,540a12(00):禮阿と相會して。此書に就き問難往復して漸く之を 0000_,20,540a13(00):治定す。永仁四年五月。選擇集大綱鈔三卷を作り。 0000_,20,540a14(00):元亨二年十月。新扶選擇報恩集二卷。扶選擇正輪通 0000_,20,540a15(00):義一卷を著し。中道寺覺性に繼ぎ。明惠上人摧邪輪 0000_,20,540a16(00):及莊嚴記を反駁す。又花園天皇の四十八條の勅問に 0000_,20,540a17(00):對し。尊問愚答記を撰進せりと云ふ。此外天台戒疏 0000_,20,540b18(00):見聞八卷。往生拾因私記二卷等あり。 0000_,20,540b19(00):道光は。宗要を三祖に禀承せりと雖も。圓頓戒は 0000_,20,540b20(00):他より之を禀傳せり。即戒疏見聞の序によるに。彼 0000_,20,540b21(00):は弘安三年四月十七日より一夏の間。京都六條萬壽 0000_,20,540b22(00):寺方丈覺空に就き。天台戒疏の講義を聽き。同七年 0000_,20,540b23(00):七月廿九日。萬壽寺方丈佛前に圓頓戒を受得せり。 0000_,20,540b24(00):而して覺空は建仁寺第八世長老圓琳に就き圓頓戒 0000_,20,540b25(00):を受け。圓琳は又建久元年八月。戒疏私記。戒儀等 0000_,20,540b26(00):を叡山寶地房證眞に受け。建保二年三月。泉涌寺我 0000_,20,540b27(00):禪律德に就き戒疏を受學したる人なり。覺空は又正 0000_,20,540b28(00):信房湛空を二尊院に訪ひ。湛空が宗祖より傳受せし 0000_,20,540b29(00):圓頓戒の血脉を授けたりと云へば。其系統が一部宗 0000_,20,540b30(00):祖に關係あるは事實なるも。二祖三祖には全く無關 0000_,20,540b31(00):係たりしなり。 0000_,20,540b32(00):元德二年三月廿九日。八十八歳を以て寂す。後醍 0000_,20,540b33(00):醐天皇廣濟和尚の諡號を賜ひしと云ふ。悟眞寺に塔 0000_,20,540b34(00):を立てしが。寺は兵燹に罹り四條北大宮西に移り。 0000_,20,541a01(00):趾には德川初年。袋中法林寺を興起し。名越の道場 0000_,20,541a02(00):となしたること上述の如し。其門下寂莫を極め。總系 0000_,20,541a03(00):譜僅に三人を列するも。其事蹟や聞知する所なし。 0000_,20,541a04(00):故に五派の中最振はざる派たりしを知るべし。 0000_,20,541a05(00):四 一條派 0000_,20,541a06(00):禮阿の法統を。一條派と稱するは。流派の本山淨 0000_,20,541a07(00):華院の所在に基く。若禮阿の所居に從はば。西谷派 0000_,20,541a08(00):と稱すべきも。西谷は既に西山派中の一流の名なる 0000_,20,541a09(00):が故に。之と區別せん爲にかく改めしものか。 0000_,20,541a10(00):禮阿諱は然空。郷族を詳にせず。初叡山に在りて 0000_,20,541a11(00):永存に師事し天台を學せしが。後三祖の門に入りて 0000_,20,541a12(00):宗要を禀けたり。彼が三祖門下に投じたる年月には 0000_,20,541a13(00):異説あり。或は曰く寶治二年三祖石見より上洛の際 0000_,20,541a14(00):と。或は曰く文永九年慈心と共に鎌倉に來謁すと。 0000_,20,541a15(00):而も建治二年三祖の上洛は。彼及慈心の屈請に起因 0000_,20,541a16(00):することは事實なれば。其以前にありたること疑を容れ 0000_,20,541a17(00):ず。多く仁和寺西谷法光明院に住して所承を弘通せ 0000_,20,541b18(00):しが。永仁五年八月十一日入寂す。平生述作する 0000_,20,541b19(00):所。大經聞書八卷。淨土要略鈔。心行雜決各一卷あ 0000_,20,541b20(00):り。 0000_,20,541b21(00):禮阿の門人數人あり。就中向阿は最も著名にし 0000_,20,541b22(00):て。禮阿の法統を隆昌したるは專ら彼の力にあり。 0000_,20,541b23(00):向阿諱は證賢。是心と號す。初園城寺の學僧なりし 0000_,20,541b24(00):が。後淨土敎に歸し禮阿の門に入る。後淨華院を開 0000_,20,541b25(00):き所承を弘む。よりて淨華院流の稱あり。又淨華院 0000_,20,541b26(00):は最初三條に在りしを以て。三條流の名あり。後淨 0000_,20,541b27(00):華院の今地に移るに及び。一條流と稱せらる。故に 0000_,20,541b28(00):一條流の名が起りしは餘程後のことに屬す。後雙岡の 0000_,20,541b29(00):東池上の邊に住し(其跡今西光菴)念佛を專にす。 0000_,20,541b30(00):平時詠あり曰く『池上にわれたにすまは吉水のなか 0000_,20,541b31(00):れのすゑはたえしとそ思ふ』と。以て其抱負を見る 0000_,20,541b32(00):べし。貞和元年六月二日八十三歳を以て菴に寂す。 0000_,20,541b33(00):平生著す所。歸命本願鈔三卷。西要鈔二卷。父子相 0000_,20,541b34(00):迎二卷。及往生至要訣一卷。淨土四要義一卷あり。 0000_,20,542a01(00):就中前三部七卷は。和字の書にして。文章優麗。義理 0000_,20,542a02(00):精深なるが故に。三部假名帖。或は松筆御抄と稱し 0000_,20,542a03(00):て珍敬せらる。 0000_,20,542a04(00):向阿の門下。玄心(或は玄眞)。證阿。圓寂等あ 0000_,20,542a05(00):り。玄心の弟子に證法。證法の後に敬法あり。相次 0000_,20,542a06(00):で淨華院に住す。寺傳によるに敬法は慧鎭坊貞熙僧 0000_,20,542a07(00):全と號し。伏見天皇の皇孫にして。叡山黑谷傳信に 0000_,20,542a08(00):就き得度受戒す。傳信は法蓮房信空。信覺房蓮空。 0000_,20,542a09(00):求道房慧尋。惠顗房圓智を通じて。黑谷並に松林房 0000_,20,542a10(00):に於て。叡空。宗祖の圓頓戒を相承せる人なり。傳 0000_,20,542a11(00):信に繼ぎ。黑谷並に松林房(法蓮房入寂の地)に住 0000_,20,542a12(00):し圓戒を弘通せしが。他方專修念佛の奧旨を玄心に 0000_,20,542a13(00):受く(傳信は禮阿に受く)。後黑谷は山徒の迫害燒毀 0000_,20,542a14(00):する所となりしかば高野に遁れ。延文三年兩部灌頂 0000_,20,542a15(00):を禀傳せしが。貞治二年玄心の寂するや。門人に擁 0000_,20,542a16(00):せられて法光明院に住すること二年にして。去りて河 0000_,20,542a17(00):東中山に柴菴を結びて居住す。至德二年證法の後を 0000_,20,542b18(00):襲ひ淨華院の寺務を管せしが。應永五年二月九日。 0000_,20,542b19(00):淨華院長老職を定玄に附屬し。同七年三月廿八日。 0000_,20,542b20(00):良忍上人所傳の融通念佛を弟子良如に附與し。八十 0000_,20,542b21(00):一歳を以て入寂す。 0000_,20,542b22(00):良如字は智水。越前の人大町氏の子なり。初平泉 0000_,20,542b23(00):寺に入り出家し。年長じて叡山に學びしが。後敬法 0000_,20,542b24(00):に師事して。宗要並に良忍上人の融通念佛の祕訣を 0000_,20,542b25(00):禀承し。歸國の後敦賀西福寺。武生正覺寺等を始め 0000_,20,542b26(00):とし。越前。近江。若狹の三國に。一百餘箇の寺院 0000_,20,542b27(00):を開創し。北國淨土宗の地盤を開拓せり。定玄字は 0000_,20,542b28(00):僧然。萬里小路家の出なり。敬法に次ぎ淨華院並に 0000_,20,542b29(00):松林房を兼管し。又近江國坂下法藏寺を開けり。定 0000_,20,542b30(00):玄の門下隆堯。等熈あり。共に一代の明匠たり。 0000_,20,542b31(00):隆堯は近江國栗太郡河邊佐佐木義成の嫡男なり。 0000_,20,542b32(00):永和三年九歳にして。叡山に登り出家受戒し。遂に 0000_,20,542b33(00):法印大和尚位に叙せられしが。性世榮を好まず。出 0000_,20,542b34(00):要を石山觀音に祈りて。向阿の三部假名抄を得た 0000_,20,543a01(00):り。於是淨土門に歸し。又向阿の遺跡淨華院に至 0000_,20,543a02(00):り。定玄に謁して宗要を受く。應永十一年三十六歳 0000_,20,543a03(00):の冬。郷里金勝山に隱遁し。淨嚴坊を營み念佛を事 0000_,20,543a04(00):とす。應永廿六年三部假名抄を彫刻し世に流布す。 0000_,20,543a05(00):別に念佛安心大要。稱名念佛奇特現證集。十王修善 0000_,20,543a06(00):抄等の著述ありて世に行る。寶德元年十二月十二日。 0000_,20,543a07(00):八十一歳を以て寂す。隆堯の後堯譽隆阿あり。淨嚴 0000_,20,543a08(00):坊を相續せしが。後又知恩院に住して第十九世たり 0000_,20,543a09(00):しことあり。文明十三年九月七日。淨嚴坊に寂す。年 0000_,20,543a10(00):六十九なり。隆阿の弟子に嚴譽宗眞あり。文明十八 0000_,20,543a11(00):年淨嚴坊を擴張修築して巨刹となし。金勝山淨嚴院 0000_,20,543a12(00):阿彌陀寺と號す。其他國内に寺院を開起すること甚多 0000_,20,543a13(00):く。地方に於ける感化著大にして。門弟數千餘に及 0000_,20,543a14(00):びしと云ふ。永正十五年十二月廿九日寂す。其後阿 0000_,20,543a15(00):彌陀寺は。第八世應譽明感に至りて。信長の歸依す 0000_,20,543a16(00):る所となり。安土に淨嚴院を造營し。天正五年彼地 0000_,20,543a17(00):に移轉せしが。後舊地に阿彌陀寺を起せり。 0000_,20,543b18(00):等熈字は僧任。萬里小路嗣房の息なり。應永十三 0000_,20,543b19(00):年十一歳にして定玄の門に入る。二十三歳にして叡 0000_,20,543b20(00):山に登り台學を窮め。更に南都に遊び法相三論を學 0000_,20,543b21(00):び。應永三十年松林院及淸淨華院を兼管す。主上。 0000_,20,543b22(00):將軍等の歸仰甚厚く。文安三年正月十一日。特に佛 0000_,20,543b23(00):立慧照國師の敕號を賜ふ。是より先。永享二年の 0000_,20,543b24(00):頃。叡山西塔黑谷の祖跡が。山僧の壓迫により衰微 0000_,20,543b25(00):せるを中山の北溪に移し。幕府に請ひて規模を開創 0000_,20,543b26(00):す。是新黑谷金戒光明寺なり。寬正三年六月十一日 0000_,20,543b27(00):六十六歳を以て寂す。 0000_,20,543b28(00):かく京都四本山中。淨華院。金戒光明寺は。足利 0000_,20,543b29(00):末葉に至るまでは。禮阿の法統の支配する所なりし 0000_,20,543b30(00):が。元龜天正の頃。道殘の兩山を管するに及び。一 0000_,20,543b31(00):條派は名越派に壓せられたるも。名越派も道殘一世 0000_,20,543b32(00):に過ぎずして。其後は正統の配下に歸するに至れ 0000_,20,543b33(00):り。 0000_,20,543b34(00):五 木幡派 0000_,20,544a01(00):派祖慈心。字は良空と號し。山城國宇治郡木幡尊 0000_,20,544a02(00):勝寺(今願行寺)に住し。所承を弘通せしにより。 0000_,20,544a03(00):木幡派の稱あり。慈心の前半生は全く不明なるも。 0000_,20,544a04(00):禮阿とは舊友なりしが如し。其三祖門下に入りし年 0000_,20,544a05(00):時は禮阿と同じく不明に屬す。彼が三祖門下に於て 0000_,20,544a06(00):受學の歳月は長からざりしも。三祖の親任は他と異 0000_,20,544a07(00):なるものありしが如し。故に最初は一宗傳法の後繼 0000_,20,544a08(00):者に擬せられ。既に附法傳衣せられしも。後三祖に 0000_,20,544a09(00):寂慧を以て正統相續者とするの意あるを察し。之を 0000_,20,544a10(00):返還したりとも傳ふるものあり。道光又其大經鈔跋 0000_,20,544a11(00):文に。先師和上有嗣法上足諱良空と云へり。東宗要 0000_,20,544a12(00):は。彼と禮阿とが。傳通記等の鈔記より拔萃編纂し 0000_,20,544a13(00):て。師の校閲を請へるものなりと云ひ。或は彼等の 0000_,20,544a14(00):請に應じて三祖が執筆せられたりと云ひ異説ある 0000_,20,544a15(00):も。其東宗要述作に關係ありしことは諍ふべからず。 0000_,20,544a16(00):永仁五年禮阿。道光と共に大經鈔を治定し。同年七 0000_,20,544a17(00):月八日入寂す。著作多かりしと傳ふるも。現存する 0000_,20,544b18(00):ものなし。木幡近傍に數箇寺を開創し。其邊に感化 0000_,20,544b19(00):洽かりしが如し。 0000_,20,544b20(00):慈心門下も。道光門下と同く寂寞たり。唯如一は 0000_,20,544b21(00):知恩寺並に知恩院に住し。後醍醐天皇之に歸依し給 0000_,20,544b22(00):ひ。佛元眞應智慧如一國師の號を賜ひたりと云ふ。 0000_,20,544b23(00):但彼は後三祖にも師事したりと云へば。純粹慈心門 0000_,20,544b24(00):下に非るなり。 0000_,20,544b25(00):以上三祖門下五派消長の大略を述べしが。要する 0000_,20,544b26(00):に五派の中。道光。慈心の三條木幡二派は。存續極 0000_,20,544b27(00):めて短期にして。且つ其行はれし範圍も局限せられ 0000_,20,544b28(00):たるを以て。殆んど一派と見做す價値なきが如し。 0000_,20,544b29(00):但派祖の人格或學識が優に他三派祖に拮抗したるの 0000_,20,544b30(00):みならず。寧優越したることが。彼等に對して一派と 0000_,20,544b31(00):見做されたる理由なるべし。 0000_,20,544b32(00):又別派を立つるに至らざりしも。理心房源忠。乘 0000_,20,544b33(00):圓房道忠の如きは。三祖門下の鏘鏘たるものなりし 0000_,20,544b34(00):が如し。共に唯識研究の爲に南都に遊學し。道忠は 0000_,20,545a01(00):歸東の後群疑論探要記十四卷を著せり。但彼は後三 0000_,20,545a02(00):祖の意に乖背したることありて。離弟せられたりと傳 0000_,20,545a03(00):へらる。其他時宗一向派の開祖俊性(號一向)も。曾 0000_,20,545a04(00):て三祖門下の人たりしと云ふ。 0000_,20,545a05(00): 0000_,20,545a06(00):第二章 白旗正統の消長 0000_,20,545a07(00): 0000_,20,545a08(00):一 鎌倉と箕田 0000_,20,545a09(00):三祖門下多士濟濟たりしが。一宗の正統血脉を稟 0000_,20,545a10(00):傳し。鎌倉箕田の師跡を相續せるは。良曉及其法孫 0000_,20,545a11(00):なり。三祖が何故に性心。尊觀。禮阿。慈心。道光 0000_,20,545a12(00):等の諸高弟を閣き。比較的若輩なる良曉を選びて。 0000_,20,545a13(00):附屬傳法の人とせられしかは疑問なり。或は云ふ良 0000_,20,545a14(00):曉は三祖の肉弟なり。血肉の關係上愛顧諸弟に異な 0000_,20,545a15(00):りしかば。慈心は前に附法せられ。傳具までも授與 0000_,20,545a16(00):せられたるに拘らず。之を返却して良曉に與へられ 0000_,20,545a17(00):んことを請へりと。然れども法門の授受には決してさ 0000_,20,545b18(00):る私情偏頗を許すべきに非ず。三祖の賢明なる又決 0000_,20,545b19(00):してかかる處置に出づべき人に非ず。況んや良曉と 0000_,20,545b20(00):三祖とは年齡に五十三の差違あり。圓尊いかに長壽 0000_,20,545b21(00):にして勢力家なりと雖も。三祖良曉兩人の父たること 0000_,20,545b22(00):能はざるべし。故に骨肉關係が附法の原因なりしと 0000_,20,545b23(00):は信ずべからず。恐らくは良曉は年齡受學に於て諸 0000_,20,545b24(00):高弟には遠く及ばざりしも。其爲人溫順にして師命 0000_,20,545b25(00):に違はず。其識見高邁と云ふ程に非ずと雖も。思想 0000_,20,545b26(00):穩健にして師説を祖述するには最も適任者なりしこと 0000_,20,545b27(00):が。其主なる原因たりしなるべし。 0000_,20,545b28(00):良曉字は寂慧。智慧光と號す。又白旗上人。坂下 0000_,20,545b29(00):上人の稱あり。建長三年某月日誕生。文永五年十八 0000_,20,545b30(00):歳の秋比叡山に登り。東塔南谷極樂房仙曉法印に師 0000_,20,545b31(00):事し。翌年登壇受戒し。天台並に諸宗の敎義を研覈 0000_,20,545b32(00):す。これより以前彼が三祖といかなる關係にありし 0000_,20,545b33(00):かは不明なるも。其名に良字を冠し。また文永七年 0000_,20,545b34(00):二十歳にして。三祖座下に招還されたりとの事實に 0000_,20,546a01(00):徴するに。登山以前既に師弟の契約ありて。ただ其 0000_,20,546a02(00):時代の風に從ひ登山受戒せしに他ならざりしが如 0000_,20,546a03(00):し。爾來鎌倉に在りて。天台の學は雪下に住せし山 0000_,20,546a04(00):僧觀學得業に受け。淨土の宗要は三祖の凾仗に侍し 0000_,20,546a05(00):て幽微を窮めたり。文永九年二十二歳にして。鎌倉 0000_,20,546a06(00):悟眞寺の房地及免田。武州鳩井庄の讓券を受け。且 0000_,20,546a07(00):宗義相承の秘訣を授けられ。建治二年九月三祖上洛 0000_,20,546a08(00):の際。強ひて隨從せんとせしも。同門並に信徒の切 0000_,20,546a09(00):諫により。鎌倉に留り師に代りて衆徒を領し。弘安 0000_,20,546a10(00):九年三祖鎌倉に還るや。傳戒の證衣宗脈の璽書を賜 0000_,20,546a11(00):はり。同十年七月三祖入寂せらるるや。悟眞寺並に 0000_,20,546a12(00):箕田勝願寺を兼職し。淨土宗正統の貫主となる。 0000_,20,546a13(00):良曉の主なる居所は。固より鎌倉佐介谷悟眞寺及 0000_,20,546a14(00):箕田勝願寺なりしも。又其他諸所に寄寓留錫せしが 0000_,20,546a15(00):如し。即鎌倉坂下。甲州遲澤。下總海上郡船木稱名 0000_,20,546a16(00):寺。相州白旗郷等是なり。正應三年(三祖滅後四年) 0000_,20,546a17(00):十二月廿日。三祖門弟實道房は。三祖が文永十一年 0000_,20,546b18(00):十一月十日に自筆せられたる文書を佐介谷に發見 0000_,20,546b19(00):す。是れ三心業成前後の問題を解決すべき究竟の材 0000_,20,546b20(00):料なり。於是尊觀の主張により。日を期して良曉の 0000_,20,546b21(00):佐介住坊に門人を會し。諍議を決せんとし。定日尊 0000_,20,546b22(00):觀。實道・大淵・良曉等相會し。先の自筆狀を出し 0000_,20,546b23(00):て之を讀上げしに。孰れも白旗正義に承伏したりし 0000_,20,546b24(00):が。翌日に至り尊觀は先の決議を破り。再會を請求 0000_,20,546b25(00):せるにより。前の人人皆再び集りしが。尊觀の主張 0000_,20,546b26(00):不條理なりしが故に。議合はずして別れたりと云ふ 0000_,20,546b27(00):(述聞口決鈔上)。嘉元二年決疑鈔見聞五卷を著す。世 0000_,20,546b28(00):に之を白旗見聞。或は坂下見聞と云ふ。延慶三年六 0000_,20,546b29(00):十歳甲州遲澤草菴に僑居し。傳通記見聞十卷を著し。 0000_,20,546b30(00):同年十二月二日著手し正和元年に功を竣ふ。よりて 0000_,20,546b31(00):門人之を遲澤鈔と云ふ。正和二年千葉の支族船木中 0000_,20,546b32(00):務禪門の請に應じ。下總國海上郡船木郷に赴き稱名 0000_,20,546b33(00):寺に住し。宗義を講敷す。講餘口傳鈔一卷を造りて 0000_,20,546b34(00):相承の正義を述ぶ。禪門寫し取りて之を名越尊觀の 0000_,20,547a01(00):直弟南無阿彌陀佛に示す。南無又書寫して之を師の 0000_,20,547a02(00):許に遣す。尊觀之を見て疑問鈔一卷を造り。十六箇 0000_,20,547a03(00):條の疑難を擧げ。弟子盛蓮房(後良曉の弟子と成る) 0000_,20,547a04(00):に之を示す。盛蓮師の許を得て之を良曉に呈せしか 0000_,20,547a05(00):ば。良曉は彼疑難を會通せんが爲に十箇條の相傳の 0000_,20,547a06(00):正義を叙べて。更に一卷の書を製す。述聞鈔是な 0000_,20,547a07(00):り。船木郷に留ること三箇年にして鎌倉に還る。坂下 0000_,20,547a08(00):僑居は是後のことか。元應元年三祖の三十三囘忌には 0000_,20,547a09(00):良曉發起と成り法會を修し。十日十座の講莚を開 0000_,20,547a10(00):き。忌辰に結願論義を催し。業成問題を討論す。講 0000_,20,547a11(00):師は盛蓮房。問者は善知房。良曉は精義者にして。 0000_,20,547a12(00):名越善導寺の慈觀。惠觀等も參詣聽聞せりと云ふ。正 0000_,20,547a13(00):中二年三月十五日。述聞制文を造り。白旗名越法脉 0000_,20,547a14(00):の嫡傍を論述し之を鈔の卷頭に揭げ。元亨二年十月 0000_,20,547a15(00):八日。十箇條の口傳を述べて述聞追加一卷とし。更 0000_,20,547a16(00):に元亨四年九月四日。門人源淸に口授して相傳の義 0000_,20,547a17(00):三十箇條を筆記せしめ。之を述聞見聞一卷となす。此 0000_,20,547b18(00):外尚其口傳の祕決十一箇條を集めたるものを。淨土 0000_,20,547b19(00):述聞口傳切紙と名け。一卷となし世に行ふ。又念佛 0000_,20,547b20(00):安心起行略要一卷を著せりと傳へらるるも今之を見 0000_,20,547b21(00):ず(述聞口決鈔上)。晩年鎌倉祖跡並に箕田の事務を 0000_,20,547b22(00):高弟定慧に讓り。相州白旗郷(所在異説あれども今 0000_,20,547b23(00):は一説に從ふ)に隱遁し。專修念佛を縡とせが。 0000_,20,547b24(00):嘉曆三年三月朔日七十八歳(鎭流祖傳第二には七十 0000_,20,547b25(00):四歳。記主禪師行狀繪詞傳第六には七十七歳。本朝 0000_,20,547b26(00):高僧傳第十六及天保版記主傳附錄には正慶元年八十 0000_,20,547b27(00):一歳とするも。今新撰往生傳に從ふ)にて入寂す。 0000_,20,547b28(00):良曉門下には。總系譜は定慧を除き三十一人を數 0000_,20,547b29(00):ふ。中に於て慧光なる者を擧げ。定慧の同胞にして 0000_,20,547b30(00):藤澤山の開山とすれども。淸淨光寺は一遍四世の法 0000_,20,547b31(00):孫呑海の開く所にして。呑海に慧光の別名ありとも 0000_,20,547b32(00):傳へられざれば恐らく訛誤なるべし。新撰往生傳 0000_,20,547b33(00):は。和泉國堺旭蓮社開山澄圓菩薩智演が其門下に出 0000_,20,547b34(00):でしことを記す。智演始は東大寺圓雅に就き出家し。 0000_,20,548a01(00):諸宗の學を研覈し。又西山九品寺等の淨土の異流を 0000_,20,548a02(00):も受學せしが。後鎌倉に來り良曉に謁し。又定慧に 0000_,20,548a03(00):師事し宗要を聽き。文保元年支那に赴き。廬山に登 0000_,20,548a04(00):り優曇普度に就きて。慧遠の宗風を傳へ。元亨元年 0000_,20,548a05(00):歸朝して堺に旭蓮社を開き。廬山風の淨敎を敷く。 0000_,20,548a06(00):嚮に二祖門下に宗圓ありて蓮社の宗風を傳へたる 0000_,20,548a07(00):が。此に至りて再び輸入せられ。廬山流の淨土敎は 0000_,20,548a08(00):本宗に少からざる影響を與へたることと想像せらる。 0000_,20,548a09(00):應安五年七月廿五日寂す。壽九十有餘。著す所夢中 0000_,20,548a10(00):松風論十卷。及附錄一卷。淨土十勝論十四卷。同輔助 0000_,20,548a11(00):集五卷。驚覺論三卷。獅子伏象論六卷等あり。其他 0000_,20,548a12(00):酉願は業成記一卷を造り。盛蓮は始め尊觀に從ひ後 0000_,20,548a13(00):良曉に歸し。領解業成圖一卷を造りたりと傳へらる 0000_,20,548a14(00):(述聞口決鈔上)。然れども智演以外に左程注意すべ 0000_,20,548a15(00):き人物なかりしが如し。 0000_,20,548a16(00):定慧は佛蓮社良譽と號す。本宗譽號の嚆矢なり。 0000_,20,548a17(00):嘉曆三年良曉の寂後は。鎌倉箕田の祖跡に宗光を闡 0000_,20,548b18(00):揚せしが。就中箕田の興隆に努め。又多く箕田に住 0000_,20,548b19(00):せしと見え。箕田定慧上人の稱あり。文和以降鎌倉 0000_,20,548b20(00):及箕田の幹事を高弟聖滿に托して。相州足柄郡桑原 0000_,20,548b21(00):郷に退き淨業を專修す。世に之を桑原道場と稱し。 0000_,20,548b22(00):其跡今淨蓮寺と號す。延文四年七月十八日。述聞口 0000_,20,548b23(00):決鈔二卷を作り。述聞鈔の意を敷演し。之を聖冏に 0000_,20,548b24(00):授く。聖冏は康安元年十月七日。私の勘文を附して 0000_,20,548b25(00):之を後世に貽せり。應安三年十二月二十六日七十五 0000_,20,548b26(00):歳を以て箕田に入寂し。其近郷松岡山中に埋葬す。 0000_,20,548b27(00):塔を鎌倉及桑原に置く。 0000_,20,548b28(00):定慧寂後。聖滿鎌倉箕田の兩席を兼帶せり。聖滿 0000_,20,548b29(00):圓蓮社と號し。良順は其字なり。應永十六年五月廿 0000_,20,548b30(00):六日入寂す。聖滿滅後。箕田は酉性良意之を相續せ 0000_,20,548b31(00):しが。永享元年九月十一日。良意入滅以後適當なる 0000_,20,548b32(00):相續者を得ずして眞言宗に屬す。故に總譽淸巖が天 0000_,20,548b33(00):正中興には。箕田の南半里鴻巢に寺地を求めたり。 0000_,20,548b34(00):故に後世鴻巢勝願寺と稱して。又箕田或は松岡と云 0000_,20,549a01(00):はず。鎌倉は聖滿の後。順譽了專。常譽良吽。聖譽慶 0000_,20,549a02(00):順と師資相繼ぎ。觀譽祐崇に至る。慶順には諸記類聚 0000_,20,549a03(00):の著あり。簡單の書なれども有力なる史料たるを失 0000_,20,549a04(00):はず。佐介谷悟眞寺が材木座の今地に移轉し。光明 0000_,20,549a05(00):寺と改められしは。恐らく祐崇時代のことなるべ 0000_,20,549a06(00):く。而して祐崇は光明寺を恢宏し。關東總本山の規 0000_,20,549a07(00):模を整備したる人なり。即ち明應四年敕召により上 0000_,20,549a08(00):洛し。淸凉殿に宗要を上講し。恩賞として眞如堂の 0000_,20,549a09(00):引聲念佛を鎌倉に移し修することを許さる。これ本 0000_,20,549a10(00):宗十夜法要の濫觴をなせり又光明寺に敕願所關東總 0000_,20,549a11(00):本山の號を賜ふ。彼また上總國木更津選擇寺。武藏 0000_,20,549a12(00):國品川願行寺。駿河國府中龍泉寺(後德川家の菩提 0000_,20,549a13(00):所となり寶臺院と改む)。同國江尻江淨寺等諸處に 0000_,20,549a14(00):伽藍を開創し。また著作の書數部ありて。敎義と實 0000_,20,549a15(00):行兩方面に於て宗光を闡揚するに與りて力ありき。 0000_,20,549a16(00):祐崇の法嗣並に其法統には注目すべき人物鮮から 0000_,20,549a17(00):ず。其法流を酌む者にして最著名なるは牛秀。幡隨 0000_,20,549b18(00):意なり。牛秀は讚譽と號し。祐崇の弟子智聰の法孫 0000_,20,549b19(00):にして。忍譽貞安の資なり。川越に赴き感譽に嗣法 0000_,20,549b20(00):し。天正十三年。武藏國瀧山に大善寺を開く。之れ 0000_,20,549b21(00):瀧山檀林の起原なり。大善寺建立には。慈根寺城主 0000_,20,549b22(00):北條氏照の賛助與りて力ありしかば。幾もなく之を 0000_,20,549b23(00):慈根寺城下に移し。四方より學徒の集るもの甚多か 0000_,20,549b24(00):りしが。天正十八年小田原北條氏の敗亡するや。氏 0000_,20,549b25(00):照も之に參加して自殺し。慈根寺並大善寺も。前田 0000_,20,549b26(00):上杉等の燒毀する所となるによりて。更に之を八王 0000_,20,549b27(00):子の現地に移轉す。幡隨意は智譽と號し。智聰の弟子 0000_,20,549b28(00):然譽禪芳の法孫たり。始め禪芳の弟子範譽義順に就 0000_,20,549b29(00):き出家得度せしが。後に其法弟奉譽聖傳に從ひ嗣法 0000_,20,549b30(00):し。更に璽書を川越感譽に受けたりと云ふ。成業後 0000_,20,549b31(00):武藏國幡羅郡熊谷寺を再興し之に住し。天正十九年 0000_,20,549b32(00):上野國館林に善導寺を開く。檀主は城主榊原康政な 0000_,20,549b33(00):り。或は云ふ此寺は寂慧良曉の創立にかかり。館林 0000_,20,549b34(00):の東北外加法師村に在りしを。幡隨意が再建したる 0000_,20,550a01(00):ものにして。再建起工は天正十二年にして。榊原氏 0000_,20,550a02(00):入城以前にありと。慶長の初年善導寺を弟子明譽阿 0000_,20,550a03(00):山に付し。百萬遍第三十三世の住職と成る。是れ其 0000_,20,550a04(00):師奉譽聖傳が先代なりし關係によるなり。百萬遍に 0000_,20,550a05(00):住する數年にして之を辭し。慶長九年江戸駿河臺に 0000_,20,550a06(00):神田山幡隨院新知恩寺を草建す。是れ京都に於ける 0000_,20,550a07(00):舊住に因めること言ふまでもなし。此寺後本郷湯島に 0000_,20,550a08(00):移り。後又下谷の今の地に移轉せしが。常に府内に 0000_,20,550a09(00):於ける一方の叢林たりき。幡隨意又曾て幕命を奉じ 0000_,20,550a10(00):て長崎に赴き。耶蘇敎徒を訓誡し。捨邪歸正せしむ 0000_,20,550a11(00):るに努力したりと云ふ。晩年郷里紀伊國和歌山に歸 0000_,20,550a12(00):り萬松寺を開き。元和元年正月五日七十四歳を以て 0000_,20,550a13(00):彼寺に寂す。 0000_,20,550a14(00):幡隨意の門人枚擧に遑あらぎるも。阿譽隨巖。明 0000_,20,550a15(00):譽阿山。德譽魯公。正譽意天等は注目すべき人物な 0000_,20,550a16(00):り。隨巖は幡隨院第二世の住持となり。阿山は善導 0000_,20,550a17(00):寺第二世と成り。意天は靈巖の依囑により靈巖寺第 0000_,20,550b18(00):二世の住持と成り。魯公は師に次ぎ百萬遍第三十四 0000_,20,550b19(00):世たり 0000_,20,550b20(00):以上牛秀。幡隨意は共に鎌倉檀林の法流を酌む者 0000_,20,550b21(00):にして。所謂本山傳の正統を承繼するものなれども。 0000_,20,550b22(00):時勢は彼等を驅りて川越に赴かしめ。末山傳(聖冏 0000_,20,550b23(00):兩傳を綜合したること下に述るが如しと雖も若本山傳 0000_,20,550b24(00):なるものあらば伽藍と結合して鎌倉にあらざるべか 0000_,20,550b25(00):らず)を感譽に禀承せしめたるなり。故に瀧山。下谷。 0000_,20,550b26(00):館林も遂に感譽流の影響の下に立てることを否むべか 0000_,20,550b27(00):らず。 0000_,20,550b28(00):二 太田と瓜連 0000_,20,550b29(00):寂慧良曉の法脈が。良譽定慧。及良順聖滿を通じ 0000_,20,550b30(00):て。箕田及鎌倉に傳へられしことは前述の如し。兩寺 0000_,20,550b31(00):の中箕田は早く廢絶せしも。鎌倉は長く白旗流の總 0000_,20,550b32(00):本寺として其法統を傳へ。之を本山傳と稱したるに 0000_,20,550b33(00):對し。鎌倉以外に別に良曉の法脉を傳へ。宗風を一 0000_,20,550b34(00):方に煽ける者あり。即常陸太田の蓮勝及法資瓜連了 0000_,20,551a01(00):實の末山傳是なり。 0000_,20,551a02(00):蓮勝字は永慶。常陸の産なりと傳へらるるも。里 0000_,20,551a03(00):族は不明なり。鎌倉良曉に投じて剃髮出家し。永く 0000_,20,551a04(00):隨從して備さに宗要を禀け。元應二年四月十三日。 0000_,20,551a05(00):宗脉相承の璽書を受く。後去りて郷國に還り遊履念 0000_,20,551a06(00):佛を勸進し。延元元年同國久慈郡太田に一宇を開創 0000_,20,551a07(00):す。法然寺是なり。寺宇一時廢絶せしが。慶長元年 0000_,20,551a08(00):佐竹義重家臣田中越中守檀越となり。香譽之を再興 0000_,20,551a09(00):す。蓮勝玆に在りて念佛を事とす。遠近其德風を望 0000_,20,551a10(00):みて化を請ふ者少からず。文保年中成阿了實來り宗 0000_,20,551a11(00):要を諮禀し。文和四年其弟子了譽聖冏も瓜連より來 0000_,20,551a12(00):りて宗義を受學す。向きに三祖禪師兩總の地に遊化 0000_,20,551a13(00):し。適適常陸に施化せられし形迹なきに非るも其事 0000_,20,551a14(00):跡の明なるものなく。親鸞門下特り此の地に繁昌し 0000_,20,551a15(00):たるに。蓮勝始めて本宗をこの國に弘通し。自家は 0000_,20,551a16(00):自行に急にして敎化の跡大に見るべきものなかりし 0000_,20,551a17(00):も。同州人了實。聖冏を喚起し。常總武の淨敎興隆の 0000_,20,551b18(00):端を開きたるの功績は。宗徒の感銘して遺るべから 0000_,20,551b19(00):ざる所なり。貞治元年二月二十二日太田に示寂す。 0000_,20,551b20(00):壽八十なりしと云ふ。 0000_,20,551b21(00):了實は盛蓮社成阿と號す。郷族不明なるも。少年 0000_,20,551b22(00):蓮勝の門に入りしとの傳説によれば。常陸或は其近 0000_,20,551b23(00):國の人なるべし。即文保年中十七歳にして蓮勝に歸 0000_,20,551b24(00):し。爾來從學すること凡十三年。元德二年六月二十九 0000_,20,551b25(00):日宗義相承の璽書を受け。玆に末山傳の正統を繼承 0000_,20,551b26(00):したるも。尚本山傳に非るを以て。後箕田定慧に從 0000_,20,551b27(00):ひ。更に本山傳法並に圓戒の相傳を受け。本山末山 0000_,20,551b28(00):の兩傳を完備したりと云ふ。爾後笈を負ひて四方に 0000_,20,551b29(00):遊化せしが。延文三年國主佐竹義敦入道淨喜を檀主 0000_,20,551b30(00):として。當國那珂郡瓜連郷に一宇を草剏し。常福寺 0000_,20,551b31(00):と號し。法幢を玆に建つ。是より先十年貞和四年聖 0000_,20,551b32(00):冏來り投じ弟子と成る。至德二年常福寺を聖冏に附 0000_,20,551b33(00):屬し。寺内に隱居して一向稱名せしが。翌三年十一 0000_,20,551b34(00):月三日寂す。壽八十有餘なりしと云ふ。 0000_,20,552a01(00):以上弘安十年三祖入滅より。聖冏出世に至る一百 0000_,20,552a02(00):餘年間は。本宗の最衰微の時代にして。元亨釋書に 0000_,20,552a03(00):寓宗と輕んじ附庸宗と蔑みたるも。實際之を反破す 0000_,20,552a04(00):るを得ざる狀態にありしが。聖冏の出世により漸く 0000_,20,552a05(00):此屈辱より免るる端を開かれたり。 0000_,20,552a06(00): 0000_,20,552a07(00):第三章 冏酉兩師の宣揚 0000_,20,552a08(00): 0000_,20,552a09(00):一 冏師の時代と其事業 0000_,20,552a10(00):本宗宗義の綱格は。宗祖二祖三祖の三代により略 0000_,20,552a11(00):確定せられたり。然れども三代は所謂隨自顯宗門の 0000_,20,552a12(00):方面を主とせられたるものにして。自宗の義を顯彰 0000_,20,552a13(00):するには遺憾無かりしとするも。所謂隨他扶宗門の 0000_,20,552a14(00):方面には未だ著手せられず。諸宗に對抗して自義を 0000_,20,552a15(00):主張し。又彼等の難鋒に對して自家を辯護するに於 0000_,20,552a16(00):ては。甚疎漏たるを免れざりき。二祖三祖の人格にし 0000_,20,552a17(00):て比較的當世の學者の識認する所とならず。其法資 0000_,20,552b18(00):法孫亦華嚴天台眞言等の顯密實大乘の諸敎と抗諍す 0000_,20,552b19(00):る能はず。特に當時京鎌倉を風靡したる禪家の威勢 0000_,20,552b20(00):に應酬するに於ては極めて不用意の狀態に在り。か 0000_,20,552b21(00):の虎關禪師師鍊が。其著元亨釋書に。倶舍成實と共に 0000_,20,552b22(00):本宗を寓宗となし國の附庸に譬へたるが如き。遺憾 0000_,20,552b23(00):ながら當時本宗實際の狀態なりしなり。聖冏此狀を 0000_,20,552b24(00):見て憤慨に堪へず。蓮勝定慧二師に謁して宗要を聽 0000_,20,552b25(00):き。列祖相傳の祕訣を禀承し。隨自顯宗門に遺漏なき 0000_,20,552b26(00):に及び。各宗の碩學を訪問して權實漸頓の奧義を窮 0000_,20,552b27(00):めしのみならず。更に神道國學をも學び其の幽旨を 0000_,20,552b28(00):領得し。隨他扶宗門の準備に注意を怠らざりき。故 0000_,20,552b29(00):に學成り業遂げて宗法興隆の大任に膺るや。講演に 0000_,20,552b30(00):著述に。固より隨自顯宗を遺れざるも。表面は隨他 0000_,20,552b31(00):扶宗を主として猛進せり。其論陣の雄壯なる其詞鋒 0000_,20,552b32(00):の鋭利なる。諸宗の學者をして趦趄逡巡せしめた 0000_,20,552b33(00):り。其論調奔逸の結果。動もすれば三代の綱格を離 0000_,20,552b34(00):脱せりとの譏あるも。境遇時勢に應適する爲には強 0000_,20,553a01(00):ち咎むべきに非るのみならず。かくして本宗の諸宗 0000_,20,553a02(00):に對する位地を明にし。宗徒をして因循固陋の風を 0000_,20,553a03(00):棄てて。進取獨立の態度を取るに至らしめたるの功 0000_,20,553a04(00):績は何人も拒む能はざるべし。 0000_,20,553a05(00):聖冏は敎義上。隨他扶宗門によりて諸宗と折衝 0000_,20,553a06(00):し。宗徒をして不覊獨立の精神を奮起せしめたるの 0000_,20,553a07(00):みならず。實際上に於ても。宗戒兩脈を制定して宗 0000_,20,553a08(00):徒の養成統一に確固たる基礎を造れり。宗祖は開宗 0000_,20,553a09(00):以來聖道自力の諸行を閣きて。專修一行に入られし 0000_,20,553a10(00):こと既に述ぶる所の如し。然れども親鸞の如く出家の 0000_,20,553a11(00):行相までも止められざりき。從て自身天台宗に於て 0000_,20,553a12(00):出家のままなるのみならず。其門弟も慈圓僧正等 0000_,20,553a13(00):に附屬して叡山に於て受戒せしめられしことは。證 0000_,20,553a14(00):空源智等の場合に徴して明なり。啻に宗祖が然るの 0000_,20,553a15(00):みならず。二祖三祖又然り。四祖良曉の如きも受戒 0000_,20,553a16(00):の爲に態態比叡山に登りたり。かくて冏師以前に於 0000_,20,553a17(00):て。獨立の僧侶たらんには比叡山或は他の諸大寺に 0000_,20,553b18(00):入り。夫夫の宗旨の作法に從はざるべからず。然ら 0000_,20,553b19(00):ざるものは獨立の僧侶と見做されず。單に道心者と 0000_,20,553b20(00):せられたり。此點に於ても虎關が淨土を寓宗とせし 0000_,20,553b21(00):は。事實を語るものにして必しも誣いたりと云ふべ 0000_,20,553b22(00):からず。冏師の宗戒兩脉傳承形式の制定は。實に此 0000_,20,553b23(00):欠點を補。本宗獨立の僧侶を作り。又同一形式に 0000_,20,553b24(00):より宗侶の統一を計れるものに外ならず。 0000_,20,553b25(00):聖冏。酉蓮社了譽と號す。後世宗徒尊稱して冏師 0000_,20,553b26(00):或は冏公と云ふ。又眉間に半月痕ありしを以て。三 0000_,20,553b27(00):ケ月上人とも稱す。常陸國久慈郡岩瀨城主白吉志摩 0000_,20,553b28(00):守義光の息にして。曆應四年正月二十五日誕生す。 0000_,20,553b29(00):五歳父を喪ひ。貞和四年八歳にして了實の門に入り 0000_,20,553b30(00):出家す。幾もなく了實之を蓮勝の下に送り宗學を受 0000_,20,553b31(00):けしむ。後又蓮勝之を定慧の下に遣し宗戒の奧義を 0000_,20,553b32(00):諮稟せしむ。始箕田を訪ひ。次に鎌倉を尋ね。最後 0000_,20,553b33(00):桑原に於て定慧に謁す。定慧其器を偉とし。蘊蓄を 0000_,20,553b34(00):傾倒し相傳の奧義を瀉瓶相承す。是より先。了實も 0000_,20,554a01(00):蓮勝並に定慧に就き。末山本山兩傳を具承せりとの 0000_,20,554a02(00):傳説あることを述べしが。其には多少疑なきにあらざ 0000_,20,554a03(00):るも。聖冏が末山傳に本山傳を加へ。兩傳を具備せる 0000_,20,554a04(00):ことに關しては疑ふべからず。定慧の會下に留ること數 0000_,20,554a05(00):年にして宗義に精通せしが。隨他扶宗の爲には佛敎 0000_,20,554a06(00):各宗の敎義は勿論異道俗典も該博するの必要あり。 0000_,20,554a07(00):因りて諸處を遍歷して。各宗の碩學斯道大家の門を 0000_,20,554a08(00):敲き其の蘊奧を研尋せり。即同國小松村法幢院祐存 0000_,20,554a09(00):に從ひ密敎の祕訣を聽き。眞源法印に就き天台六十 0000_,20,554a10(00):卷を研究し。但馬國大明寺月菴宗光茂古林派月察天 0000_,20,554a11(00):命の二和尚に參して禪旨を聞き。倶舍唯識等は下野 0000_,20,554a12(00):國宇都宮塙田の明哲に學ぶ。且同國芳賀郡大羽山往 0000_,20,554a13(00):生寺の南瀧房に寄寓して大藏經を披閲す。神道の深 0000_,20,554a14(00):祕は治部大輔某に聞き。和歌正風は頓阿法師に學 0000_,20,554a15(00):ぶ。かくて四方に遊學すること前後十三年に及び。内 0000_,20,554a16(00):外の諸學貫練博綜し欝として大家を成したるを以 0000_,20,554a17(00):て。永和四年瓜連に歸り了實に謁す。了實喜び迎へ 0000_,20,554b18(00):て璽書を授け。且つ自ら老齡職に堪へざるを以て代 0000_,20,554b19(00):りて瓜連の事務を管掌せんことを勸めしが。前に遊學 0000_,20,554b20(00):中一時帶留せし野州尾羽(今大庭)山南瀧房主との約 0000_,20,554b21(00):束ありしを以て。再彼地に赴き宗旨を弘通し。老若 0000_,20,554b22(00):を攝化す。此に居ること五年なりしが。永德三年四十三 0000_,20,554b23(00):歳にして千葉氏胤(或は貞胤)の請に應じて其の城下 0000_,20,554b24(00):に赴き。明見寺(通稱千葉寺眞言宗に屬す)に寓し法 0000_,20,554b25(00):雷を震ふ。時に氏胤の息德壽丸師の道風を慕ひ出家 0000_,20,554b26(00):入門し聖聰と號す。其後下總國(今下野)北相馬郡(今 0000_,20,554b27(00):結城)橫曾根に菴居して學徒を敎養す。之を橫曾根 0000_,20,554b28(00):談所と稱し。後世檀林の沿源とす。至德二年此に於 0000_,20,554b29(00):て二藏頌義本末卅一卷を著し之を聖聰に授く。翌三 0000_,20,554b30(00):年瓜連に歸り老師を省す。了實悅びて瓜連の法席を 0000_,20,554b31(00):讓り代りて衆を領せしむ。同年十一月三日了實入寂 0000_,20,554b32(00):す。翌嘉慶元年淨土傳戒論を著し本宗圓頓戒の正脈 0000_,20,554b33(00):を指示し。嘉慶二年本宗傳法十八通を輯錄し列祖相 0000_,20,554b34(00):承の正宗を發揮す。同年二月廿一日福寺類燒の厄 0000_,20,555a01(00):に遭ひ。伽藍器具什寶等擧て烏有に歸す。起立塔像も 0000_,20,555a02(00):さることながら。彼に取りては之よりも尚緊急なるも 0000_,20,555a03(00):のあり。即學徒の敎養と鈔疏の撰述是なり。是を以 0000_,20,555a04(00):て瓜連の復興事業は末葉に讓り。爾後講學述作を以 0000_,20,555a05(00):て專務とせり。然るに當時干戈相接し。屢師が講學 0000_,20,555a06(00):を妨げ述作を障へたり。即應永三年直牒述作の際に 0000_,20,555a07(00):は。佐竹氏の亂により郡中の緇素四方に逃散した 0000_,20,555a08(00):るを以て。師も亦久慈郡川島村阿彌陀山に隱遁し。 0000_,20,555a09(00):山中の巖穴に蟄居し。乾柿飢餓を凌ぎ巖滴渴を醫し。 0000_,20,555a10(00):刻苦辛うじて之を大成したり。直牒の引文に間間訛 0000_,20,555a11(00):誤あるは盖參考書なく。暗記により成されたるによ 0000_,20,555a12(00):ると云ふ。 0000_,20,555a13(00):是より先。明德四年十二月五重宗脉を立て之を弟 0000_,20,555a14(00):子聖聰に授く。是本宗五重相傳の濫觴なり。此年聖 0000_,20,555a15(00):聰武州貝塚に增上寺を開き。一方の叢林となせし 0000_,20,555a16(00):が。應永二十二年小石川に小菴を構へ師を請す。師瓜 0000_,20,555a17(00):連の寺務を弟子明譽了智に附して之に赴く。時に年 0000_,20,555b18(00):七十五なり。其菴は聖冏菴と稱し。今極樂水宗慶寺 0000_,20,555b19(00):の故地なり。德川時代に至り東照公の生母水野氏の 0000_,20,555b20(00):遺骸を此近地に埋窆し。傳通院を營建して香華院と 0000_,20,555b21(00):なすに及び。師を以て開山と定む。小石川の菴居にあ 0000_,20,555b22(00):りて日夕稱名講學述作を事としたりしが。應永二十 0000_,20,555b23(00):七年九月二十七日。聖冏菴に示寂す。壽滿八十。遺偈 0000_,20,555b24(00):あり云く。放行把住滿八十年即今端的知不識日輝東 0000_,20,555b25(00):山月西天と。著す所傳通記糅鈔四十八卷。決疑鈔直牒 0000_,20,555b26(00):十卷。往生禮讚見聞二卷。一枚起請文註解一卷。顯淨 0000_,20,555b27(00):土傳戒論一卷。淨土付法傳一卷。略名目圖一卷。淨土 0000_,20,555b28(00):名目圖見聞二卷。往生記投機鈔一卷。授手印傳心鈔 0000_,20,555b29(00):一卷。領解授手印徹心鈔一卷。決答疑問銘心鈔二 0000_,20,555b30(00):卷。五重指南目錄一卷。十八通二卷。同裏書一卷。 0000_,20,555b31(00):淨土二藏二敎略頌一卷。同頌義三十卷。頌義見聞八 0000_,20,555b32(00):卷。心具決定往生義一卷。報恩謝德鈔一卷。鹿島問 0000_,20,555b33(00):答一卷。隼疑冏決集一卷。觀心要決集一卷。不思議 0000_,20,555b34(00):鈔一卷。佛像幖幟義一卷。勸心往生論慈訓鈔一卷等 0000_,20,556a01(00):あり。就中糅鈔。直牒。頌義は最も精力を費したる 0000_,20,556a02(00):著述にして。頌義は名目とともに德川時代檀林學の 0000_,20,556a03(00):敎科書として非常に尊重せられたり。 0000_,20,556a04(00):門下數人あり。就中了智は瓜連を相續し。聖聰 0000_,20,556a05(00):は增上寺を開創したりしが。他は餘り聞ゆる所な 0000_,20,556a06(00):し。 0000_,20,556a07(00):二 聖聰の繼承 0000_,20,556a08(00):聖冏は講學著作に忙はしく。從つて門弟の見るべ 0000_,20,556a09(00):きもの衆からず。瓜連の法席を相續せる明譽了智 0000_,20,556a10(00):も。大原談義十二通一卷を作り。常福寺の燒跡を經 0000_,20,556a11(00):營し。阿彌陀山に不輕山高仙寺をひらきたりと云ふ 0000_,20,556a12(00):ことの外。事業の見るべきものなく。有譽明貞に貞 0000_,20,556a13(00):傳集一部ありて。多少傳法に關する史實をあたふる 0000_,20,556a14(00):も。一宗の大勢に關しては何等寄與するところある 0000_,20,556a15(00):を見ず。獨り酉譽聖聰あり。冏師が口に筆に大に主 0000_,20,556a16(00):張したりし所を。實際に施し本宗の獨立擴張に向て 0000_,20,556a17(00):努力したり。 0000_,20,556b18(00):聖聰は大蓮社酉譽と號し。後世宗徒尊んで酉師と 0000_,20,556b19(00):稱す。千葉氏胤の息にして。貞治五年七月十日千葉 0000_,20,556b20(00):城に生る。至德二年二月二十歳にして始めて冏師に 0000_,20,556b21(00):橫曾根の談所に謁し本宗に歸す。一説によれば是 0000_,20,556b22(00):より先眞言宗千葉寺に入りて出家し。かの宗の敎相 0000_,20,556b23(00):事相の法門に於て造詣する所深かりしかども。父兄 0000_,20,556b24(00):が冏師に歸依し屢屢其所領に請して法門を聽聞せし 0000_,20,556b25(00):を以て。かれも直接間接に淨土の法門を聞きて。漸 0000_,20,556b26(00):次往生淨土の法門に心を傾けつつありしが。機縁玆 0000_,20,556b27(00):に醇熟して全く言家を棄てて本宗に歸入し。冏師と 0000_,20,556b28(00):師資の約を締せしなりと。入門幾もなく頌義本末三 0000_,20,556b29(00):十一卷の書を授けられ。爾來常隨給事して法要を諮 0000_,20,556b30(00):禀すること九年。明德四年十二月五重宗脉を授與せ 0000_,20,556b31(00):らる。 0000_,20,556b32(00):五重相傳を受けたる同年に。師の座下を辞して武 0000_,20,556b33(00):藏國豐島郡貝塚(今麴町區紀尾井町邊)に赴き。一寺 0000_,20,556b34(00):を開創して叢林と成す增上寺これなり。一説によれ 0000_,20,557a01(00):ば增上寺は元光明寺と號し。眞言宗に屬せしに。聖 0000_,20,557a02(00):聰歸淨の後本宗に改めたりと。彼れが元眞言宗の僧 0000_,20,557a03(00):侶なりしとの前の傳説と合せ考ふるに。或ひは新創 0000_,20,557a04(00):にあらずして替宗再興なりしやも知るべからず。然 0000_,20,557a05(00):るにここに考ふべきは。明德四年受法ののち。岩殿 0000_,20,557a06(00):の大藏に入りて群經を周覽し。倍倍智性を磨きしと 0000_,20,557a07(00):の傳説是れなり。岩殿の所在詳らかならざるも。地 0000_,20,557a08(00):誌を檢するに武藏國比企郡に岩殿と稱するところ二 0000_,20,557a09(00):あり。一は地名にして一は山名なり。共に觀音の靈 0000_,20,557a10(00):場にして阪東札所の十番十一番に配せられ眞言宗に 0000_,20,557a11(00):屬す。而してその單に岩殿と稱するところは光明院 0000_,20,557a12(00):或は光明寺と呼ぶ。故に增上寺の舊名を光明寺と稱 0000_,20,557a13(00):し眞言宗なりしとの傳説は。この岩殿光明院修學の 0000_,20,557a14(00):訛傳にあらざるなき歟。增上寺開興ののちも。屢瓜 0000_,20,557a15(00):連或はその他に冏師を訪問し。不審を質問したる 0000_,20,557a16(00):が。應永二十二年には小石川に師を請し。一には孝 0000_,20,557a17(00):養に便し一には諮訣に益せんとせり。應永三十四年 0000_,20,557b18(00):の頃。京畿を歷遊し祖跡を尋ね靈場に詣てたることも 0000_,20,557b19(00):ありしが。多くは增上寺に在りて四來の雲衲を攝化 0000_,20,557b20(00):し。永享十二年七月十八日七十五歳を以て入寂す。 0000_,20,557b21(00):當時增上寺は既に關東に於ける。本宗屈指の大叢林 0000_,20,557b22(00):となりしものの如し。 0000_,20,557b23(00):著述には大經直談要註記廿四卷。觀經直談要註記 0000_,20,557b24(00):若干卷。小經直談要註記八卷。註記見聞十卷。同私 0000_,20,557b25(00):鈔一卷。法事讚記見聞二卷。觀念法門記見聞(或相 0000_,20,557b26(00):續鈔)二卷。般舟讚記見聞一卷。選擇口傳口筆一卷。 0000_,20,557b27(00):徹選擇本末口傳鈔二卷。敎相切紙拾遺徹二卷。決疑 0000_,20,557b28(00):鈔不審請決一卷。大綱鈔口筆十卷。大原談義聞書鈔 0000_,20,557b29(00):見聞一卷。一枚起請見聞一卷。曼陀羅鈔四十八卷。 0000_,20,557b30(00):淨土名目(或三卷名目)問答不審請決一卷。五重拾遺 0000_,20,557b31(00):鈔三卷。淨土宗要不審請決一卷。二藏頌義本末不審 0000_,20,557b32(00):請決二卷。同綱維義一卷。糅鈔米金抄一卷。淨土論 0000_,20,557b33(00):藏集一卷。徹髓鈔一卷。念佛萬德集一卷。淨土金明 0000_,20,557b34(00):集一卷。三重劫量圖記一卷。往生十因見聞一卷等あ 0000_,20,558a01(00):り。外に三國佛祖傳集三卷を以て彼の作とするもの 0000_,20,558a02(00):あるも。後人の假託なること其内容によりて明なり。 0000_,20,558a03(00):總系譜が之に批評を加へずして。引用せるは無識も 0000_,20,558a04(00):甚しと云はざるをえず。 0000_,20,558a05(00): 0000_,20,558a06(00):第四章 聖聰門下の繁興 0000_,20,558a07(00): 0000_,20,558a08(00):聖聰の會下には。高才逸足の士に乏しからず。就 0000_,20,558a09(00):中聰譽酉仰。慶譽了曉。大譽慶竺。釋譽存冏等は最も 0000_,20,558a10(00):注意すべき人物なり。即ち酉仰は師席を董して其の 0000_,20,558a11(00):第二世となり。所謂縁山一流の法燈をかかげ。了曉 0000_,20,558a12(00):は良肇の後を受けて飯沼弘經寺を相續して其法孫繁 0000_,20,558a13(00):茂し。所謂飯沼一派の系統をひらき。慶竺は京都に赴 0000_,20,558a14(00):き百萬遍並に知恩院に住職し。關東流が京畿に滋蔓 0000_,20,558a15(00):すべき端を啓き。存冏は松平信光の請に應じて。三州 0000_,20,558a16(00):岩津信光明寺の開山と成りて。三河に於ける淨土宗 0000_,20,558a17(00):の根柢を植えたるのみならず。德川氏と淨土宗との 0000_,20,558b18(00):關係を結び次期に於て本宗が空前の大雄飛をなすべ 0000_,20,558b19(00):き素地を造れり。即ち此等の人人の行跡事業は。孰 0000_,20,558b20(00):れものちに本宗が大に發展するに與りて力ありしこ 0000_,20,558b21(00):とは爭ふべからず。故に項を分ち少しく其概略を記 0000_,20,558b22(00):すべし。 0000_,20,558b23(00):一 增上寺 0000_,20,558b24(00):酉仰の爲人は明ならず。彼が增上寺に住職せし 0000_,20,558b25(00):は。固より彼の人物が其適任なりしによるべきも。 0000_,20,558b26(00):彼が千葉氏の出にして聖聰の血族なりしことも。全 0000_,20,558b27(00):く之に無關係の事實に非りしなるべし。酉仰に次ぎ 0000_,20,558b28(00):て音譽聖觀增上寺第三世と成る。聖觀學德ともに高 0000_,20,558b29(00):く。之により縁山には學徒蝟集し。また兼て國歌を 0000_,20,558b30(00):善くし。江戸城主太田道灌とも風月應酬の交友た 0000_,20,558b31(00):り。神奈川慶運寺。神戸藤之寺も其の開創するとこ 0000_,20,558b32(00):ろなりと云ふ。聖觀の門下經譽愚底。隆譽光冏。城 0000_,20,558b33(00):譽榮久あり。光冏は增上寺に住して第四世と成り。 0000_,20,558b34(00):而して愚底は下總國東葛飾郡小金城主高城(或は木) 0000_,20,559a01(00):氏の請により彼の地に赴き。文明十三年根木内に東 0000_,20,559a02(00):漸寺を開創す。是れ佛法山法幢の沿源となす。この 0000_,20,559a03(00):寺第五世行譽の時に今の地に移轉し。のちに十八檀 0000_,20,559a04(00):林の一員に列せらるること。後に記するところのご 0000_,20,559a05(00):とし。榮久は京師の人にして知恩寺傳譽の弟子なり 0000_,20,559a06(00):しが。關東に下りて音譽に嗣法し。明應三年宇治平 0000_,20,559a07(00):等院に入り。同院に於ける本宗の勢力を扶植したる 0000_,20,559a08(00):は此人の力なりと云ふ。 0000_,20,559a09(00):光冏ののち增上寺は。天譽了聞。僧譽智雲。親譽 0000_,20,559a10(00):周仰等相次で住職せしが。周仰門下には縁譽稱念。 0000_,20,559a11(00):杲譽天啓あり。稱念は周仰の弟子なるも。後に飯沼 0000_,20,559a12(00):の鎭譽祖洞に師事したりと云へば。純粹增上寺系 0000_,20,559a13(00):統の人にあらず。眞面目なる道心者にして。世榮を 0000_,20,559a14(00):厭忌し隱遁念佛を主となせり。其の開創する所の寺 0000_,20,559a15(00):院。江戸天智菴(今の天德寺)。京都一心院等數箇寺 0000_,20,559a16(00):に及びしが。多くは嚴制を設けて淸肅淨業の道場た 0000_,20,559a17(00):らしめたり。就中一心院は祖廟の傍にありて彼が終 0000_,20,559b18(00):焉のところと定めたるだけに。其制規最も嚴肅にし 0000_,20,559b19(00):て。本宗捨世地の開祖たりしことは下に述ぶる所の 0000_,20,559b20(00):如し。天啓は增上寺に住し第八世と成りしが。其門 0000_,20,559b21(00):下に有名なる感譽存貞あり。存貞の下に俊秀多く。 0000_,20,559b22(00):德川時代に至りて非常に活動して。本宗を盛大なら 0000_,20,559b23(00):しめたることは後に之を述ぶべし。 0000_,20,559b24(00):二 弘經寺 0000_,20,559b25(00):良肇は冏師の橫曾根の談所を相續し。ここに講肆 0000_,20,559b26(00):を張り學徒を敎養せしが。應永二十一年橫曾根城主 0000_,20,559b27(00):羽生經貞。羽生城主羽生吉定等を檀主として。橫曾 0000_,20,559b28(00):根に接近せる飯沼の地に一寺を草剏す。これ弘經寺 0000_,20,559b29(00):にして飯沼檀林の起原なり。良肇寂後法弟了曉入り 0000_,20,559b30(00):て飯沼を相續す。その門下に英傑多く輩出せり。而 0000_,20,559b31(00):して周譽珠琳。勢譽愚底。肇譽訓公。曜譽酉冏等は 0000_,20,559b32(00):その最も著名なるものとす。珠琳は京都に赴き大譽 0000_,20,559b33(00):の跡を襲ひて知恩院に住し。愚底。訓公は釋譽の跡 0000_,20,559b34(00):を逐ひて三河に遊化し。又相次で知恩院に晋山せり。 0000_,20,560a01(00):酉冏は飯沼の師跡を相續し第三世たり。酉冏の後飯 0000_,20,560a02(00):沼檀林は一譽宗悅。鎭譽祖洞相繼ぎ四世五世たり。 0000_,20,560a03(00):祖洞は本と禪僧なりしが。のち本宗に歸入して宗悅 0000_,20,560a04(00):の弟子と成る。或は云ふ彼れ歸淨の後も尚禪服を襲 0000_,20,560a05(00):用せしが。たまたま禪徒の之を詰るに逢ひ。五條の 0000_,20,560a06(00):掛絡を脱して之を投與し。その他は依然舊の如し。 0000_,20,560a07(00):本宗の禪服を用ゐる多きは彼れに淵源すと。惟ふに 0000_,20,560a08(00):當時禪風の天下を風靡せしかば。本宗宗侶のこれを 0000_,20,560a09(00):摸倣したるは勿論なるも。祖洞のごとき人ありて彼 0000_,20,560a10(00):宗の服制をそのまま依用したるも。本宗に禪風を輸 0000_,20,560a11(00):入したる重なる原因なりしなるべし。 0000_,20,560a12(00):祖洞は又永正年中下野中里龍門寺及び宇都宮慈光 0000_,20,560a13(00):寺を開き。後に德川廣忠の請に應じて。三河に赴き大 0000_,20,560a14(00):樹寺に住し。弘始三年正月二十五日彼地に入寂せり 0000_,20,560a15(00):と云ふ。祖洞の門下には堯譽還魯。見譽善悅。隣譽 0000_,20,560a16(00):貞鈍。宣譽祖白。道譽貞把等あり。還魯は祖洞に繼 0000_,20,560a17(00):ぎて飯沼第六世たり。還魯の下に聖譽貞安あり。織 0000_,20,560b18(00):田信長の命により近江國安土城下に日蓮宗徒を論折 0000_,20,560b19(00):し。同地に西光寺を開き。又京都に織田信忠追福の 0000_,20,560b20(00):爲に大雲院を剏めたる傑僧なり。善悅祖白相繼ぎて 0000_,20,560b21(00):飯沼第七第八世たり。貞鈍は大樹寺を繼席し。又岡 0000_,20,560b22(00):崎松應寺の開山たり。貞把が增上寺派の存貞と對抗 0000_,20,560b23(00):し。飯沼流の爲めに氣勢を張りしことは。之を次節に 0000_,20,560b24(00):讓る。祖白の後飯沼の法席は。貞把の弟子團譽存把 0000_,20,560b25(00):之を相續したりしも。天正の初年適小田原北條氏の 0000_,20,560b26(00):軍勢此地方に侵入せる際。寺僧多賀谷氏に黨したる 0000_,20,560b27(00):ため。伽藍兵火のために烏有に歸し。大衆四散せし 0000_,20,560b28(00):かば。下妻に赴き城主多賀谷氏に依りて之が恢復を 0000_,20,560b29(00):謀りしも成らず。退きて結城に隱遁し專ら念佛三昧 0000_,20,560b30(00):に耽りしが。後德川家康の長子秀康の結城に治する 0000_,20,560b31(00):や。之に歸依し結城に一寺を草創し香華院となし。 0000_,20,560b32(00):存把を以て開山とし。飯沼の舊名により弘經寺と號 0000_,20,560b33(00):せり。是れ實に文祿四年のことなり。之を結城檀林 0000_,20,560b34(00):の起原とす。是に因り飯沼の法幢暫時中絶せしが。 0000_,20,561a01(00):次期に至りて增上寺觀智國師の門下。照譽了學之を 0000_,20,561a02(00):復興するに及び。所謂飯沼流の本據は縁山流の占有 0000_,20,561a03(00):する所となりしなり。 0000_,20,561a04(00):三 三河 0000_,20,561a05(00):縁山飯沼の叢林が。本宗學徒の養成に盡力し。次 0000_,20,561a06(00):期に於ける活動的人物を輩出せしむるに與りて力あ 0000_,20,561a07(00):りしがごとく。三河に於ける敎化は。德川氏と世世 0000_,20,561a08(00):親縁を結び。次期に於ける本宗雄飛の外護者たらし 0000_,20,561a09(00):むるに欠くべからざる準備をなせり。本宗僧侶にし 0000_,20,561a10(00):て參河に遊び。始めて德川氏の祖先と師檀の約束を 0000_,20,561a11(00):堅めたる者を釋譽存冏となす。存冏以前了曉も東三 0000_,20,561a12(00):河に入り大音寺を開きたるも。德川氏と結ぶに至ら 0000_,20,561a13(00):ず。存冏は聖聰の資にして良肇に嗣法せる人。寶德 0000_,20,561a14(00):三年(宗祖滅後二百四十年)三河に遊化せしが。松平 0000_,20,561a15(00):信光の請に應じて其城下岩津に一寺を開く。信光の 0000_,20,561a16(00):名に因み信光明寺と號す。信光存冏に歸し本宗を信 0000_,20,561a17(00):ぜしより。その子孫相繼ぎて本宗を崇信し。信光の孫 0000_,20,561b18(00):親忠の男は存冏に就き出家して超譽存牛と號し。法 0000_,20,561b19(00):從兄訓公に次ぎ信光明寺に住せしが。後知恩院に昇 0000_,20,561b20(00):住し第二十五世と成る。德川家康が知恩院を擴張完 0000_,20,561b21(00):備したるは。親縁存牛董職地なりしことも其一因なり。 0000_,20,561b22(00):安政四年德川氏の奏請により高顯眞宗國師の敕諡を 0000_,20,561b23(00):賜はる。 0000_,20,561b24(00):存冏に次ぎ。三河に遊び彼よりも深大なる歸仰を 0000_,20,561b25(00):博せし者を勢譽愚底となす。愚底は了曉に從ひ嗣法 0000_,20,561b26(00):せる人にして存冏の法叔なり。彼が三河に遊錫せる 0000_,20,561b27(00):動機は明ならざるも。師了曉並法叔存冏の遊化に因 0000_,20,561b28(00):夤するは想像するに難からず。愚底始は宇禰部(今畝 0000_,20,561b29(00):部に造り碧海郡に屬す)阿彌陀院に留錫し。のち鴨田 0000_,20,561b30(00):(額田郡大樹寺村)西光寺に移住す。西光寺の艸立と 0000_,20,561b31(00):彼が移住の理由は不明なるも。寺は松平氏の創建に 0000_,20,561b32(00):して。親忠の請によりて此に移りしもののごとし。親 0000_,20,561b33(00):忠は信光の男にして松平家の正宗なり。深く愚底に 0000_,20,561b34(00):歸依し。屢就きて本宗の法要を聽受して徹底せる所 0000_,20,562a01(00):あり。文明七年西光寺の近地に一寺を艸建し。大樹寺 0000_,20,562a02(00):と稱し松平家の香華院となし。愚底を請して開山第 0000_,20,562a03(00):一世となす。是より大樹寺は松平家の家運と共に消 0000_,20,562a04(00):長し。三河に於ける本宗寺院の首座統領となれり。 0000_,20,562a05(00):愚底は永正元年知恩院に住し第二十三代の住持たり 0000_,20,562a06(00):しが。八箇年を經て辞退す。是より先愚底の法弟肇 0000_,20,562a07(00):譽訓公又三河に來り。存冏に繼ぎ信光明寺第二世住 0000_,20,562a08(00):持となり。また御津大恩寺を隆昌にせしが。愚底の 0000_,20,562a09(00):辞退するや代りて第二十四代の住持となる。かく聖 0000_,20,562a10(00):聰門下。更に適切に云へば了曉の飯沼法流が。三河 0000_,20,562a11(00):に漲溢したるのみならず。又相繼ぎて京都祖山に董 0000_,20,562a12(00):跡したる所以は。恐らく三河に於ける財力を以て 0000_,20,562a13(00):祖山の貧弱を補給するの必要に應じたるものの如 0000_,20,562a14(00):し。 0000_,20,562a15(00):四 京都 0000_,20,562a16(00):三祖の宗風を京都に煽ぎたるもの。嚮には禮阿。 0000_,20,562a17(00):慈心。道光の三師ありしも。禮阿の一流のみ淨華院 0000_,20,562b18(00):に存續して。多少祖光を揚ぐるに力めたるが如き 0000_,20,562b19(00):も。其他は殆んど見るに足るものなく。又知恩寺第 0000_,20,562b20(00):六世にして知恩院第八世たる如一は。慈心に從ひ又 0000_,20,562b21(00):關東に來りて三祖に宗要を習ひ。知恩寺第八世善阿 0000_,20,562b22(00):空圓も三祖に就き剃染受業したりと傳へらるるも明 0000_,20,562b23(00):據なきのみならず。其後の兩山は決して正統の下に 0000_,20,562b24(00):屬せざりしが如し。後堺旭蓮社開山澄圓菩薩も鎌倉 0000_,20,562b25(00):に來り。良曉に受敎したるも。其影響は左程大なら 0000_,20,562b26(00):ざりしが如し。故に京師三山は全く其勢力環外に在 0000_,20,562b27(00):り。從て京畿には殆んど及ばざりしと云ふも可な 0000_,20,562b28(00):り。況んや永享年中に至りては。京都に於ける本宗 0000_,20,562b29(00):の勢力極めて微微として振はず。一大豪傑の來りて 0000_,20,562b30(00):惰眠を覺醒し。刺戟を與ふるに非るよりは。祖山並 0000_,20,562b31(00):に京畿の本宗の運命岌岌乎として危嶮の狀に瀕せ 0000_,20,562b32(00):り。此の時に方りて大譽慶竺は京都に入り。百萬遍 0000_,20,562b33(00):並に知恩院の貫主となれり。 0000_,20,562b34(00):慶竺が京都に入りし直接の原因は明ならず。然れ 0000_,20,563a01(00):ども聖聰に嗣法する以前に蓮譽に師事したりと云 0000_,20,563a02(00):ふ。蓮譽の行跡は不明なるも。同じく聖聰の弟子に 0000_,20,563a03(00):して。且其法嗣善譽良敏。其法孫法譽が相繼ぎて百 0000_,20,563a04(00):萬遍の廿世廿一世たる事實に考合すれば。京都殊に 0000_,20,563a05(00):百萬遍に深縁ありし人たりしが如し。從て慶竺の入 0000_,20,563a06(00):洛も蓮譽に關聯する所あるが如し。彼が入洛の年月 0000_,20,563a07(00):不明なるも。永享七年七月に三經直談要註記を筆受 0000_,20,563a08(00):し。其翌年六月當麻曼陀羅疏の聖聰の草稿を淨寫し 0000_,20,563a09(00):たりと云ひ。又彼が知恩寺に住し。後花園天皇より 0000_,20,563a10(00):知恩寺は淨土宗第一たるにより香衣被着參内敕許の 0000_,20,563a11(00):宣旨を賜はりしは。嘉吉三年正月十一日にありしを 0000_,20,563a12(00):以て。永享七年より嘉吉三年の間にあるや明なり。 0000_,20,563a13(00):慶竺は尚文安六年五月二十一日。朝家千載の榮運を 0000_,20,563a14(00):祈るべき綸旨を賜はる等。朝廷の覺え甚目出度。より 0000_,20,563a15(00):て以て宗運を隆にしたること甚大なりしが如し。彼 0000_,20,563a16(00):始めは知恩寺に住し第十九世の住持たりしが。後に 0000_,20,563a17(00):知恩院を兼帶し第二十一世の住持たり。從來祖忌を 0000_,20,563b18(00):修する年久しかりしも未だ一定せる法式なく。各山 0000_,20,563b19(00):及末寺夫夫區區たりしが。慶竺深く之を憂ひ。諷誦 0000_,20,563b20(00):法則を制定して之を各山に示し。末寺に及ぼし。本 0000_,20,563b21(00):宗祖忌の永式となれり。 0000_,20,563b22(00):慶竺以前譽號を有するもの。百萬遍第十世に信譽 0000_,20,563b23(00):善久あり。知恩院第十九世に堯譽隆阿ありと雖も。其 0000_,20,563b24(00):譽號が關東の譽號と同一なる否やは不明なり。故に 0000_,20,563b25(00):史上明に關東系統にして京都本山に董職したる最初 0000_,20,563b26(00):の人は慶竺なりと云はざるべからず。慶竺一たび京 0000_,20,563b27(00):都に入りてより關東の法流は滔滔として京畿に漲溢 0000_,20,563b28(00):するに至れり。即ち百萬遍は聖聰門下蓮譽の弟子善 0000_,20,563b29(00):譽良敏。善譽の弟子法譽相次ぎ第二十世第二十一 0000_,20,563b30(00):世となり。其後も然譽・眞譽・聖譽・傳譽・賀譽等相 0000_,20,563b31(00):次ぎて帶譽號の住持たり。同時に黑谷にも西譽。弘 0000_,20,563b32(00):譽。性譽等の住持あり。淨華院にも定譽・專譽・潮 0000_,20,563b33(00):譽・信譽等の名世代中に散見するに至り。遂に四箇本 0000_,20,563b34(00):山は白旗正統の領有に歸せり。 0000_,20,564a01(00):知恩院に於ては。慶竺の次に周譽珠琳あり。珠琳 0000_,20,564a02(00):は了曉の資にして大譽の法姪たり。慶竺に繼ぎ知恩 0000_,20,564a03(00):院第二十二世の住持たりしが。彼の住職中には應仁 0000_,20,564a04(00):の大亂あり。知恩院も百萬遍等と同じく兵燹に罹 0000_,20,564a05(00):り。堂宇擧げて烏有に歸せしかば。宗祖の影像並に 0000_,20,564a06(00):什寶を奉じて近江國伊香立に難を避け。新知恩院を 0000_,20,564a07(00):建立す。此に在ること八年なりしが。亂後京都に還り 0000_,20,564a08(00):堂宇を再構し祖影をも修覆したる等。興復に力あり 0000_,20,564a09(00):しのみならず。尚蔭凉日錄によるに。足利將軍義政 0000_,20,564a10(00):に親近し。適には義政の參詣を請ひ。知恩院の勢力 0000_,20,564a11(00):を扶植するに力めたるもののごとし。故に知恩院に 0000_,20,564a12(00):は中興の稱あり。 0000_,20,564a13(00):珠琳辭退ののち。珠琳の法弟たる勢譽愚底入りて 0000_,20,564a14(00):相續し。愚底辭退の後(又其法弟)にして三河大恩寺 0000_,20,564a15(00):中興たる肇譽訓公之に代り。訓公の後釋譽存冏の資 0000_,20,564a16(00):超譽存牛入りて住し。存牛の後勢譽愚底の資保譽源 0000_,20,564a17(00):派之に住したり。かくして一時知恩院は全く信光明 0000_,20,564b18(00):寺及大樹寺等の。三河に於ける飯沼法統の左右する 0000_,20,564b19(00):所たりしを見るべし。 0000_,20,564b20(00): 0000_,20,564b21(00):第五章 道感二師の對揚 0000_,20,564b22(00): 0000_,20,564b23(00):酉譽聖聰の門下は。關東三河京都等各地に遊化割 0000_,20,564b24(00):據して。各宗風の宣揚に努めたるも。就中關東に於 0000_,20,564b25(00):ける縁山と飯沼との二法統の對立は。最も注目すべ 0000_,20,564b26(00):きものたることは前の記述により知るべし。然るに此 0000_,20,564b27(00):兩流の對立は道譽。感譽によりて代表せらるるに至 0000_,20,564b28(00):り。一層其色彩を鮮にせり。即道譽は飯沼第五世鎭 0000_,20,564b29(00):譽祖洞の弟子にして。感譽は增上寺第八世杲譽天啓 0000_,20,564b30(00):の法資なり。兩人略時代を同うし。其人物學識等に 0000_,20,564b31(00):於ても拮抗して相下らざるものあり。道譽も杲譽に 0000_,20,564b32(00):次ぎ感譽に先だち增上寺に入り。縁山第九世の位置 0000_,20,564b33(00):を領有し。縁山系統以外の人に非るがごとき觀を呈 0000_,20,564b34(00):するも。感譽の縁山に入り其法資存應の次で之に住 0000_,20,565a01(00):するや。縁山は全く感譽系統の獨占する所となり。 0000_,20,565a02(00):道譽は飯沼系統を代表して。感譽に對抗して。其系 0000_,20,565a03(00):統は飯沼生實等に據りて感譽系統に對峙するに至 0000_,20,565a04(00):れり。 0000_,20,565a05(00):一 道譽流 0000_,20,565a06(00):道譽 諱は貞把。馨蓮社と號す。永正十二年和泉 0000_,20,565a07(00):國日根郡鳥取庄波宇手村に生る。大永七年十三歳に 0000_,20,565a08(00):して同庄寶福寺貞也に就き出家得度す。享祿四年 0000_,20,565a09(00):十七歳にして關東に笈を負ひ飯沼に掛錫し鎭譽に嗣 0000_,20,565a10(00):法し。數年にして歸郷せしも學解の足らざるを憾み 0000_,20,565a11(00):再たび東遊して飯沼に寓す。飯沼に在りて切差琢磨 0000_,20,565a12(00):し。學成りて受法餘り無きに及び四方に遊化す。天 0000_,20,565a13(00):文二十年頃下總國千葉郡生實郷に施化したるに。土 0000_,20,565a14(00):地の領主原式部少輔胤榮(千葉氏の支族)夫妻の深く 0000_,20,565a15(00):歸依する所となり。彼等檀主と成り生實郷の沼澤を 0000_,20,565a16(00):塡め僧伽藍を草創し。道譽を以て開山となす。是龍 0000_,20,565a17(00):澤山玄忠院大巖寺なり。創立幾ならざるに彼の德風 0000_,20,565b18(00):を望みて。四方の學徒此に輻輳し遂に一大叢林と成 0000_,20,565b19(00):り。後飯沼寶幢の中絶するに及びて終に一流の本山 0000_,20,565b20(00):と成れり。弘始元年七月杲譽天啓の招に應じて。璽 0000_,20,565b21(00):書を縁山に承襲し增上寺第九世と成る。縁山を管す 0000_,20,565b22(00):る九年永祿六年辭して生實に歸住す。是より先高弟 0000_,20,565b23(00):安譽虎角師の跡を守り。雲衲を接化する傍。伽藍の 0000_,20,565b24(00):完備增築に盡瘁し。龍澤叢林の規模を大成するに與 0000_,20,565b25(00):りて力あり。故に歸住後幾もなく叢林の師職を之に 0000_,20,565b26(00):讓り。同國印旛郡臼井村に長源寺を創立し之に隱棲 0000_,20,565b27(00):し。一向に念佛しつつありしが。天正二年十二月七 0000_,20,565b28(00):日長源寺に入寂す。世壽六十なり。 0000_,20,565b29(00):道譽の門下俊秀尠からず。諸國に遊化して新寺を 0000_,20,565b30(00):創め廢院復興したる者數十に及ぶ。就中最も卓絶せ 0000_,20,565b31(00):るは安譽虎角。檀譽存把の兩人なり。虎角諱は雲 0000_,20,565b32(00):潮。道譽門下の顏回として師の信任太だ厚く。初岩 0000_,20,565b33(00):築淨安寺に住せしが。師の縁山に住するや。生實の 0000_,20,565b34(00):叢林を守り且其大成には彼が努力與りて大なりしを 0000_,20,566a01(00):以て。道譽讓りて第二世となし衆を領せしむ。存把 0000_,20,566a02(00):は前に述べしごとく飯沼檀林に第九世の住持たりし 0000_,20,566a03(00):が。飯沼の兵燹に罹るや結城に退居し。此に結城秀康 0000_,20,566a04(00):を檀主として弘經寺をひらき。飯沼の規模を移して 0000_,20,566a05(00):結城檀林の基礎を定めたる人。飯沼に於ては後縁山 0000_,20,566a06(00):系の照譽了學來りて之を復興し。存把が廢を興さざ 0000_,20,566a07(00):りしを誹り。之を世代より除却するも。時機實に可 0000_,20,566a08(00):ならざるものあり。強ちに之を責むるは酷と云はざ 0000_,20,566a09(00):るべからず。慶長八年九月十一日武田萬千代丸(信 0000_,20,566a10(00):忠家康の第四子にして水戸城主たり)の薨ずるや。 0000_,20,566a11(00):家康の命により彼地に赴き下炬の導師と成り。其翌 0000_,20,566a12(00):年また命により結城より瓜連に轉住して第十三世た 0000_,20,566a13(00):り。其德望衆に超へしにあらずんばいかにしてかか 0000_,20,566a14(00):る厚遇を蒙らんや。 0000_,20,566a15(00):虎角の門下また鳳雛に乏しからず。滿譽尊照。琴 0000_,20,566a16(00):譽盛林。雄譽靈巖。源譽隨流。圓譽潮流等は其最も 0000_,20,566a17(00):卓絶せる者なり。尊照は飯沼鎭譽祖洞の弟子にして 0000_,20,566b18(00):知恩院第二十八世たりし浩譽宗甫の門弟なりしが。 0000_,20,566b19(00):關東檀林に學ぶに方りて虎角に嗣法す。是れ元來其 0000_,20,566b20(00):飯沼の系統に屬したるが故なること明なり。嗣法西歸 0000_,20,566b21(00):ののち宗甫に次ぎて知恩院第二十九世の住持と成り 0000_,20,566b22(00):しが。時恰も德川氏幕府創草に際し。家康の歸信を 0000_,20,566b23(00):博し。知恩院をして今日の雄大をなさしめたる英傑 0000_,20,566b24(00):なり。 0000_,20,566b25(00):かくて次期の最初に於ても。知恩院は飯沼系の勢 0000_,20,566b26(00):力範圍に屬し。良純法親王を始め華頂宮は多く生實 0000_,20,566b27(00):深川等の飯沼流。適切に云へば道譽流の檀林に於て 0000_,20,566b28(00):加行嗣法し給ひしなり。盛林(或は西林に造る)は道 0000_,20,566b29(00):殘源立以後黑谷金戒光明寺の頽廢せるを起したる 0000_,20,566b30(00):人。廓山。了的等と共に家康に愛せられ。慶長十八 0000_,20,566b31(00):年九月百三十石の朱印並に門前境内地の判物を賜は 0000_,20,566b32(00):り。又家康に乞ひて備後國瀨戸田の遺跡に傳へられ 0000_,20,566b33(00):し。宗祖の影像並に聖經を黑谷に收めたるも彼の盡 0000_,20,566b34(00):力によると云ふ。靈巖。隨流。潮流相承けて大巖寺 0000_,20,567a01(00):の三四五世たり。靈巖は慶長十年三十二歳にして生 0000_,20,567a02(00):實の法席を相續したるも。故ありて奈良に赴き。靈 0000_,20,567a03(00):巖院を開き之に住す。少時にして生實に歸りたるも 0000_,20,567a04(00):將軍の命に忤ふことあり(其理由は明ならず)。生實を 0000_,20,567a05(00):退き房州に赴く。彼地に於ては大網に大巖院を開 0000_,20,567a06(00):き。地方淨土敎の本山となす。盖し生實叢林に擬せ 0000_,20,567a07(00):しものならん歟。また上總國佐貫善昌寺。湊宗濟 0000_,20,567a08(00):寺(今湊濟寺)等を開創す。殊に善昌寺は學徒群集し。 0000_,20,567a09(00):一時は一方の叢林をなせしと云ふ。また房總敎化の 0000_,20,567a10(00):餘暇。伊勢國山田に到り靈巖寺を開きしと云ふ。後 0000_,20,567a11(00):には將軍の機嫌も柔ぎ。城中法問などある場合には 0000_,20,567a12(00):多く出府して。其員に加はりて縱橫の機鋒を振ひた 0000_,20,567a13(00):りしが。寬永元年には江戸京橋の東南に在りし蘆澤 0000_,20,567a14(00):を埋めて靈巖寺を創立す。該地は今の靈岸島にして。 0000_,20,567a15(00):寺は明曆の大火に類燒したるを以て。二世珂山之を 0000_,20,567a16(00):深川の今地に移せり。寬永六年十月二十五日知恩院 0000_,20,567a17(00):第三十二代の住持に補せらる。是浩譽。滿譽の生實 0000_,20,567b18(00):系統に屬したる夤縁によること明なり。同十年正月九 0000_,20,567b19(00):日知恩院火を失し。慶長年度再建の大殿諸堂を灰燼 0000_,20,567b20(00):し僅に三門經藏を餘すのみ。よりて直に江戸に赴き 0000_,20,567b21(00):幕府に再建を乞ふ。同十三年九月十五日洪鐘を鑄成 0000_,20,567b22(00):し。同十六年(或云十八年と)五月再建成り。大殿諸 0000_,20,567b23(00):堂を落慶供養す。其規模壯麗舊に倍せり。之れ現今 0000_,20,567b24(00):の堂宇なり。同十八年九月朔日江戸の靈巖寺に寂す。 0000_,20,567b25(00):彼は實に飯沼流。別して道譽流の大成者なりき。道 0000_,20,567b26(00):譽流は生實を本據とすれども。彼が靈巖寺を建て叢 0000_,20,567b27(00):林と成すや。中心は玆に移りて生實は却て其支林た 0000_,20,567b28(00):るの觀を呈せり。靈巖寺が道本山と號する洵に所以 0000_,20,567b29(00):なきに非ず。 0000_,20,567b30(00):二 感譽流 0000_,20,567b31(00):感譽 諱は存貞。鎭蓮社又願故と號す。相模國小 0000_,20,567b32(00):田原の人にして。北條家臣大道寺某の甥なり。初め 0000_,20,567b33(00):は同所傳肇寺に入り出家得度せしが。後江戸に出で 0000_,20,567b34(00):增上寺杲譽天啓に受業嗣法す。成業ののち師跡傳肇 0000_,20,568a01(00):寺に住せしが。親戚大道寺駿河守。武藏國川越に蓮 0000_,20,568a02(00):馨寺を營建し請して開山第一世となす。之れ實に天 0000_,20,568a03(00):文十八年にして二十八歳の時のことなりと云ふ。數 0000_,20,568a04(00):年ならずして一方の叢林と成り。學徒蝟集す。永祿 0000_,20,568a05(00):六年四十三歳にして璽書を道譽に禀け。增上寺第十 0000_,20,568a06(00):世の住持となる。居ること四年。其間生實の虎角と 0000_,20,568a07(00):謀り。檀林淸規三十三箇條を制定して。學徒釐正の方 0000_,20,568a08(00):針となせしと云ふ。永祿九年縁山を辭し川越に隱退 0000_,20,568a09(00):するに及び。其近郊に平方馬蹄寺を始めとし數寺を 0000_,20,568a10(00):開創せしが。天正の初年檀主大導寺氏の請によりて。 0000_,20,568a11(00):相模國鎌倉郡岩瀨大長寺及び深谷專念寺の開祖と成 0000_,20,568a12(00):る。天正三年五月十八日示寂す。壽五十三なりき。 0000_,20,568a13(00):感譽の門下にも人物少からず。而して雲譽圓也。 0000_,20,568a14(00):總譽淸巖。源譽存應。圓譽廓源。專譽大超等は其最 0000_,20,568a15(00):も著名なる人人なり。圓也は感譽に次ぎて大長寺に 0000_,20,568a16(00):住し。又增上寺第十一世に補せられたる人なり。淸 0000_,20,568a17(00):巖は鎌倉光明寺看譽に受法し。又感譽に嗣法したる 0000_,20,568b18(00):人なり。始め感譽の後を襲ひ馬蹄寺に住し。兼ねて 0000_,20,568b19(00):川越の學頭たりしが。元龜元年上野國高崎に大信寺 0000_,20,568b20(00):を開き。天正十五年武藏國埼玉郡岩槻に淨國寺を剏 0000_,20,568b21(00):む。是岩槻檀林の起原なり。淸巖の下又大器に乏し 0000_,20,568b22(00):からず。就中圓譽不殘は箕田の祖跡を今鴻巢の地に 0000_,20,568b23(00):復興し鴻巢檀林の始をなし。且家康の歸崇厚くして 0000_,20,568b24(00):其保護の下に南都に唯識因明を學び。又其奏薦によ 0000_,20,568b25(00):りて慶長十一年八月二十三日紫衣被着の綸旨を賜へ 0000_,20,568b26(00):り。深譽傳察は淨國寺。光明寺を經て增上寺第十六世 0000_,20,568b27(00):に補せらる。就中光明寺は含牛が幹事したりし以後。 0000_,20,568b28(00):非常に廢頽したるが。彼の盡力によりて面目を一新 0000_,20,568b29(00):せられたり。故に鎌倉に於ては彼を以て中興開山 0000_,20,568b30(00):として尊崇す。廓源は初蓮馨寺に住し。次に光明寺 0000_,20,568b31(00):に移り。再轉して本山或は錄所に住すべかりしに。 0000_,20,568b32(00):事情ありて退きて伊勢國山田靑雲院に閑居せしが。 0000_,20,568b33(00):寬永十九年二月靈巖の後を襲ひ知恩院第三十三世に 0000_,20,568b34(00):補せらる。大超は江戸湯島に靈山寺をひらき叢林の 0000_,20,569a01(00):一員に加へらる。存應は觀智國師として其中興の偉 0000_,20,569a02(00):業は次期に入りて述ることとせん。存應の下照譽了 0000_,20,569a03(00):學。然譽呑龍。曉譽源榮。定譽隨波。源譽慶巖。 0000_,20,569a04(00):桑譽了的。正譽廓山。團譽聞諦。登譽智童。南譽雪 0000_,20,569a05(00):念。往譽潮呑等を始めとし。受學嗣法して法幢を建 0000_,20,569a06(00):て敎化を敷き一方の法將たりしもの。系譜記傳等の 0000_,20,569a07(00):傳ふるところのみにても百を以て算ふべし。況んや 0000_,20,569a08(00):無名不知の人人に於てをや。これ等の人人の中廓山。 0000_,20,569a09(00):了的。了學。隨波。智童。雪念は相繼ぎて增上寺住 0000_,20,569a10(00):職に補せられ。其間了的の後了學の前に生實虎角 0000_,20,569a11(00):の門下たる潮流の橫入せるほか。全く存應門下の獨 0000_,20,569a12(00):占するところたり。以て存應の勢力のいかに大なり 0000_,20,569a13(00):しかを察すべし。また了學は飯沼の廢跡を復興し。 0000_,20,569a14(00):呑龍は新田大光院の開山とせられ。慶巖は江戸崎大 0000_,20,569a15(00):念寺を開創し。廓山は傳通院の中興と稱せらるるも 0000_,20,569a16(00):實は開山なり。かくて十八檀林の四箇寺は存應門下 0000_,20,569a17(00):の開創又は復興するところにかかる。更に遡りて十 0000_,20,569b18(00):八檀林の本期より次期に亙り。剏立せられ或は復興 0000_,20,569b19(00):せられたる事跡を見るに。生實・結城・瓜連・深川 0000_,20,569b20(00):の四箇山が道譽系統の法將の事業なるに對し。川越・ 0000_,20,569b21(00):鴻巢・岩槻・芝・鎌倉・飯沼・新田・江戸崎・礫 0000_,20,569b22(00):川・本所の十箇所は悉く感譽法系の義虎の經營振起 0000_,20,569b23(00):する所たり。其他八王子・館林・下谷の如きも。感 0000_,20,569b24(00):譽系に親縁ある人人の營建相續する所たり。 0000_,20,569b25(00):初めには。關東は勿論。三河京都を風靡し。遙に縁 0000_,20,569b26(00):山を凌駕するの概ありし飯沼の法流が。道譽並びに 0000_,20,569b27(00):其法子孫の努力奮勵にも拘はらず。かくの如く不振 0000_,20,569b28(00):に陷ゐり。增上寺一派のために壓倒せらるるに至り 0000_,20,569b29(00):し原因は。一概に斷ずべからざるも。德川幕府成立 0000_,20,569b30(00):の際に風雲に乘ずべき謀將鬪士に乏しく。あたら自 0000_,20,569b31(00):家の三河に播きたる種を。江戸において他人に苅り 0000_,20,569b32(00):取らるるをも悟らざりし迂闊は。其一原因たるを拒 0000_,20,569b33(00):むを得ざるべし。 0000_,20,570a01(00):第三期 大成時代 0000_,20,570a02(00): 0000_,20,570a03(00):第一章 概觀 0000_,20,570a04(00): 0000_,20,570a05(00):德川以前の本宗は。遺憾ながら虎關が評せし如 0000_,20,570a06(00):く。寓宗たるを免かれざりしなり。宗祖は承安五年 0000_,20,570a07(00):に聖道門を擱き淨土門を採り。南北八宗以外に淨土 0000_,20,570a08(00):宗の建立を宣言せられたりと雖ども。其衣體行儀に 0000_,20,570a09(00):於ては。本の天台宗の其れと何等異なる所なかり 0000_,20,570a10(00):き。故に天台宗より見れば尚惠心。空也等が。念佛を 0000_,20,570a11(00):唱へたると同一にして差別なかりき。二祖三祖また 0000_,20,570a12(00):然り。宗祖二祖三祖の門下の多くもまた然り。故に 0000_,20,570a13(00):天台宗にありて自門中の一異分子と見做して。宗祖 0000_,20,570a14(00):門下が天台宗の寺院に寓居するを怪まざりき。此狀 0000_,20,570a15(00):態は單に天台宗に限らず。其他の眞言。三論。華嚴。 0000_,20,570a16(00):法相の諸宗もまた然り。故に高野に俊乘房重源の念 0000_,20,570a17(00):佛堂を寬容し。禪林寺に善慧房證空の門徒の棲居を 0000_,20,570b18(00):許し。東大寺には圓照凝然師資相ひ次いで宗祖專念 0000_,20,570b19(00):の流義を高唱したり。專修念佛の宗徒は。宗祖滅後 0000_,20,570b20(00):日を趁ひて增加し。日本全國に瀰漫したりと雖とも。 0000_,20,570b21(00):其依止する所は概ね如上諸宗の寺院或は其境内な 0000_,20,570b22(00):り。是れ當時の淨土宗侶は。多分此等諸宗に成人し 0000_,20,570b23(00):たる人人に非れば。此等諸宗出の人人の下に於て出 0000_,20,570b24(00):家し敎養せられたるが故に。自然其本所に依止し。 0000_,20,570b25(00):或は之れに侵入したるものならずんばあらず。是れ 0000_,20,570b26(00):は今日本宗に屬する舊院古寺の來歷の語る所に徴 0000_,20,570b27(00):しても昭かなり。故に德川以前の本宗は。多くは 0000_,20,570b28(00):諸宗僧侶の旁賛に非れば。諸宗寺院に寄寓せし同居 0000_,20,570b29(00):人の唱道する所なりしと云ふも過言にあらざるな 0000_,20,570b30(00):り。 0000_,20,570b31(00):然るに德川時代に至りては。如上の形勢は全く一 0000_,20,570b32(00):變せり。從來諸宗に寄寓せる本宗は。全然獨立し 0000_,20,570b33(00):て。專修念佛の宗侶は。其所住の諸宗寺院を改めて 0000_,20,570b34(00):本宗とするに非ざれば。此等寺院を出でで獨立の寺 0000_,20,571a01(00):院を建立せり。此機運に乘じて。從來念佛者が棲遲 0000_,20,571a02(00):せる草菴茅宇も。擴張增築せられて。嚴然たる大地 0000_,20,571a03(00):巨刹と成れるもの又尠からず。勿論此形勢は足利幕 0000_,20,571a04(00):府中世以後漸次發生進展しつつありし所なるも。德 0000_,20,571a05(00):川氏の保護は此形勢を躍進せしめたり。 0000_,20,571a06(00):知恩院は本。粟田靑蓮院門跡の慈鎭和尚が宗祖に 0000_,20,571a07(00):歸依せられ居りし關係上。建曆元年冬宗祖攝州よ 0000_,20,571a08(00):り歸洛の際。宗祖の住居に宛てられし大谷禪房に起 0000_,20,571a09(00):由せり。故に當に靑門の支配に屬し。滿譽尊照に 0000_,20,571a10(00):至るまでは。其の住職も粟田門跡の直接の任命或 0000_,20,571a11(00):は推選により敕命せられたり。故に靑蓮院にては 0000_,20,571a12(00):之れを自己の支院末寺と見做して決して獨立視せざ 0000_,20,571a13(00):りしなり。彼の大永三年知恩院が百萬遍と本末を爭 0000_,20,571a14(00):ひ。朝廷の裁判百萬遍に偏して知恩院に不利なる 0000_,20,571a15(00):や。時の靑蓮院門跡にして天台座主たる尊鎭法親王 0000_,20,571a16(00):は。之れを不當として朝廷に辨訴せられ。其の訴の 0000_,20,571a17(00):聽れざるや遂に高野に隱遁し給ひ。叡山三塔大衆は 0000_,20,571b18(00):之れにより朝廷幕府に嗷訴し。向の裁斷が撤去せら 0000_,20,571b19(00):れて親王漸く歸座し給ひしが如き。之れは單に隣寺 0000_,20,571b20(00):の好意に基くものとするは皮相の見にして。實はこ 0000_,20,571b21(00):れを末院視し。末院の屈辱は即本寺の屈辱なり。單 0000_,20,571b22(00):に屈辱なるのみならず利害の關する所大なりしに因 0000_,20,571b23(00):らずんばあらず。這は山門の奏狀に『抑淨土一宗 0000_,20,571b24(00):者。吾朝之弘通。以法然爲元基。以稱名爲行 0000_,20,571b25(00):業。屢案其由來。彼然公者。叡峰住侶。台敎修練淨 0000_,20,571b26(00):德也。然間扇靑蓮院御門葉。卜居於東山之衢。寄 0000_,20,571b27(00):望於西刹之雲。因玆構知恩窻之一宇。爲諸德之本 0000_,20,571b28(00):寺。專念不退之一行。定衆中之法度』とあるに徴し 0000_,20,571b29(00):て疑ふべからざる所なり。かくて知恩院は足利中葉 0000_,20,571b30(00):以降。漸次寺域を擴張し。末寺を增加し。勢力を扶 0000_,20,571b31(00):植しつつありしとは云へ。事實上靑蓮院に隷屬し。 0000_,20,571b32(00):宗侶の香衣綸旨の執奏の如きも門跡の手を經由し。 0000_,20,571b33(00):それが爲に少からざる冥加金を納め。靑蓮院門跡の 0000_,20,571b34(00):收入を助けつつありしなり。 0000_,20,572a01(00):知恩院の靑門に對する關係かくの如くなりしも。 0000_,20,572a02(00):慶長の初年に至り。滿譽尊照德川家康の歸依を得 0000_,20,572a03(00):て。境域を擴張し伽藍を營築して。靑蓮院を瞰下す 0000_,20,572a04(00):ると同時に。從來隷屬の因縁を斷絶し。次で知恩院 0000_,20,572a05(00):宮門跡の設置を奏請裁可せらるるに及びては。朝廷 0000_,20,572a06(00):に對する事件も總て直接に奏請するを得るが故に。 0000_,20,572a07(00):玆に靑門の手を離れて全く獨立せるのみならず。 0000_,20,572a08(00):同一宮門跡として隣接拮抗し相降らざるの形勢を致 0000_,20,572a09(00):せり。 0000_,20,572a10(00):かくて總本山たる知恩院が天台靑蓮院門跡の配下 0000_,20,572a11(00):を脱却せると同時に。其支配に屬する本宗寺院は當 0000_,20,572a12(00):然獨立することとなりしのみならず。元和元年淨土宗 0000_,20,572a13(00):法度成りて。本末の關係。僧侶の養成等の制規確定 0000_,20,572a14(00):せらるるに及び。本宗は名實共に獨立の宗門とし 0000_,20,572a15(00):て。諸宗の間に存立するに至れり。殊に獨立宗侶養 0000_,20,572a16(00):成の企圖は。冏師の傳法傳戒の形式を制定したるに 0000_,20,572a17(00):より略ぼ緖に就き。道感二師の對揚。關東學林の繁 0000_,20,572b18(00):昌により漸次其完成に邇きつつありしが。玆に全く 0000_,20,572b19(00):完成せられて一宗の飛躍に大なる力を與へたり。 0000_,20,572b20(00):本宗を獨立せしむるに。知恩院の滿譽尊照の力與 0000_,20,572b21(00):りて大なりしことは勿論なるも。僧正にもまして有 0000_,20,572b22(00):力なりしは增上寺の源譽存應なり。存應は天正十八 0000_,20,572b23(00):年德川家康の江戸城に入るや。直に師檀の約束を締 0000_,20,572b24(00):結して。本宗と德川氏との關係を確立したる人なり。 0000_,20,572b25(00):本宗と德川氏との關係は。酉譽の徒弟存冏が松 0000_,20,572b26(00):平信光の請に應じて信光明寺の開山と成り。愚底が 0000_,20,572b27(00):親忠を勸めて大樹寺を創建せしめたる以來のことに屬 0000_,20,572b28(00):し。決して昨今のことに非ず。家康が增上寺を以て 0000_,20,572b29(00):菩提所と定めたるも此因縁によること勿論なり。 0000_,20,572b30(00):然れども存應にして時世を達觀して進退するの明な 0000_,20,572b31(00):く。機會を捕捉して活動するの勇斷なき一迂僧なり 0000_,20,572b32(00):しならんか。此舊關係を利用して宗門の飛躍に資す 0000_,20,572b33(00):ること。彼が如くなる能はざりしは知者を俟ちて後 0000_,20,572b34(00):知らざるなり。 0000_,20,573a01(00):存應の下には廓山。了的。源榮。淸巖。呑龍。慶 0000_,20,573a02(00):巖等智謀善策の偉才に乏しからず。此等が國師を輔 0000_,20,573a03(00):翼して。機に應じ變に處して宗門の發展擴張に資し 0000_,20,573a04(00):たることは論を俟たず。知恩院の造營のごときも。 0000_,20,573a05(00):超譽存牛の住職したる關係を云云する者あるも。增 0000_,20,573a06(00):上寺の本寺にして。又一宗の總本山たるを以て。之 0000_,20,573a07(00):を完備することが一宗の威嚴を發揚すると同時に。 0000_,20,573a08(00):菩提所の威嚴を增大するとの理由により。存應の慫 0000_,20,573a09(00):慂に負ふ所多きは想像するに餘あり。存應は知恩院 0000_,20,573a10(00):を始め京都四箇山を擴大し。一宗の本山として尊崇 0000_,20,573a11(00):すると同時に。關東には增上寺を始め。三代以下列 0000_,20,573a12(00):祖の遺跡。及び德川氏の墳寺として由緖ある寺院十 0000_,20,573a13(00):八箇の員數を定め。一宗學徒の敎養場とし。傳法傳 0000_,20,573a14(00):戒の常法幢たらしめ。宗侶なる者の必ず之に入らざ 0000_,20,573a15(00):るべからざるのみならず。香衣綸旨の執奏は知恩院 0000_,20,573a16(00):が司れる所なるに拘はらず。檀林能化及增上寺方丈 0000_,20,573a17(00):の署名調印あるに非れば無効なることを規定せり。 0000_,20,573b18(00):單に一般宗侶が檀林にて養成せらるるのみならず。 0000_,20,573b19(00):四箇本山を始め檀林紫衣地及高等の寺院は。檀林の 0000_,20,573b20(00):學席にありて多年稽古の僧ならざれば。住職するこ 0000_,20,573b21(00):と能はざることを規定したり。故に一宗の實權主力 0000_,20,573b22(00):は關東檀林。就中錄所たる增上寺に收め。京都の他 0000_,20,573b23(00):三箇山は勿論。知恩院も本山たる虚名を擁することと 0000_,20,573b24(00):なれり。 0000_,20,573b25(00):かくて知恩院が靑蓮院より獨立し。寺院關係に於 0000_,20,573b26(00):て一宗を獨立せしめたると同樣に。增上寺は檀林の 0000_,20,573b27(00):定立によりて。僧侶關係に於て一宗を獨立せしめた 0000_,20,573b28(00):り。即ち滿譽尊照と源譽存應と。東西相呼應して一 0000_,20,573b29(00):宗の獨立は成就大成せられたり。 0000_,20,573b30(00):滿譽は。慶長十四年僧正法印に叙せられ。源譽 0000_,20,573b31(00):は。同十五年七月從來に例なき普光觀智の國師號を 0000_,20,573b32(00):敕賜せられ。光榮を一身に集めたるのみならず。京 0000_,20,573b33(00):都四本山を始め。關東檀林德川氏菩提所には紫衣を 0000_,20,573b34(00):賜ひ。一宗の光輝赫赫たるものありき。僧正。國師 0000_,20,574a01(00):ともに元和六年に寂せしが。其滅後の本宗は極めて 0000_,20,574a02(00):平穩無事なりき。他宗に對しては。曾て天正七年五 0000_,20,574a03(00):月。貞安織田信長の命を受け。日蓮僧日珖と安土に 0000_,20,574a04(00):宗論し大に宗光を發揮し。慶長十三年十一月十五 0000_,20,574a05(00):日。江戸城に於て廓山が常樂院日經と對論して彼を 0000_,20,574a06(00):挫きたる以來。宗論の沙汰曾て聞かず。是れ一は幕 0000_,20,574a07(00):府の監視嚴重にして。外よりの挑戰を許さざりしに 0000_,20,574a08(00):よるべきも。宗門に於ても自讚毀他を嚴禁して。内 0000_,20,574a09(00):より諍を惹起するの機會をあたへしめざりしによる 0000_,20,574a10(00):べし。安永三年本願寺より一向宗を改め淨土眞宗と 0000_,20,574a11(00):稱せんことを幕府に請ひしにより。幕府之を錄所增 0000_,20,574a12(00):上寺に謀りしが。錄所は檀林會議に附し其の是非を 0000_,20,574a13(00):討議し。五箇條の理由を擧げて反對書を呈す。その 0000_,20,574a14(00):後本願寺と問難往復數回に及びしも。錄所前議を固 0000_,20,574a15(00):執して動かざりしかば。遂に未解決に終れることあ 0000_,20,574a16(00):りし外。對外交涉の無事なると同樣に。内部も極め 0000_,20,574a17(00):て無異なりき。 0000_,20,574b18(00):元祿十年正月十八日。宗祖に圓光大師を敕諡せら 0000_,20,574b19(00):れ。正德元年四百回忌に際し。又東漸大師號を賜 0000_,20,574b20(00):ひ。爾後五十年毎に諡號宣下の例の開かれたるが如 0000_,20,574b21(00):き。諸宗の中に類例なき光榮なり。此等の光榮も餘 0000_,20,574b22(00):り多く宗侶を刺戟するの力なく。無爲の結果僧侶は 0000_,20,574b23(00):安逸に耽り。萬事形式に流れ。また往日の元氣活力 0000_,20,574b24(00):を有せざるに至れり。三十五箇條の法度は。德川三 0000_,20,574b25(00):百年を通して本宗宗侶が金科玉條とせるところなる 0000_,20,574b26(00):も。法度の明文次第に曲解せられ。除外例に除外例 0000_,20,574b27(00):の設けられて。此等が一種の習慣故例と成り。これに 0000_,20,574b28(00):よりて宗侶の養成。學席の昇降。住職の進退を拘束 0000_,20,574b29(00):したるを以て。檀林に在りて規則に遵由して昇進出 0000_,20,574b30(00):世する者は。概して平凡軟骨の僧にして。氣慨あり 0000_,20,574b31(00):識見あるの士は。多く檀林を遁れて山野に放浪する 0000_,20,574b32(00):に至れり。故に德川中世以後に於ては。學問の研究 0000_,20,574b33(00):も。布敎感化等の事業も。本山檀林及高等寺院の住 0000_,20,574b34(00):職者の間に存せずして。概して早く檀林を辭して。 0000_,20,575a01(00):京都或は邊鄙の寒寺に隱遁せるか。或は始より檀林 0000_,20,575a02(00):生活に入らざる。所謂無位平僧の手に移れるは奇怪 0000_,20,575a03(00):なる現象と云はざるをえず。 0000_,20,575a04(00): 0000_,20,575a05(00):第二章 法度制規 0000_,20,575a06(00): 0000_,20,575a07(00):一定の法度制規を設けて。社會の秩序を維持し。 0000_,20,575a08(00):社會の活動を圓滑ならしむることは。其社會が或程 0000_,20,575a09(00):度の發達を遂げたる後に至りて始て起る現象なり。 0000_,20,575a10(00):本宗開立以來德川時代に至るまで。凡そ四百有餘年 0000_,20,575a11(00):を經過せり。其間冏師が兩脉相傳の形式を定め。白旗 0000_,20,575a12(00):一流の所化は檀林に掛錫して。自他兩宗を研鑽し兩 0000_,20,575a13(00):脉を相承せざるべからざることを規定せりと云ふも。 0000_,20,575a14(00):其規定が白旗流一般に對しても。幾干の權威を有せ 0000_,20,575a15(00):しかば盖し疑問なり。況んや他五流に對してをや。 0000_,20,575a16(00):縱令之が一般に遵守せられたりとするも。これだけ 0000_,20,575a17(00):にては一宗團體の百般の規律たる能はざるや勿論な 0000_,20,575b18(00):り。然れども德川幕府創立以前の本宗の狀態は。既 0000_,20,575b19(00):に述べしが如く極めて混沌の中にあり。寺院僧侶の 0000_,20,575b20(00):數極めて少く。且つ其等少數寺院僧侶は。多くは各 0000_,20,575b21(00):地に分散して一定の脉絡交通の機會を有することなか 0000_,20,575b22(00):りき。故に此等を統一規定すべき法度の起るに由な 0000_,20,575b23(00):く。縱令之を造ることあるも。之を一樣に行はしむる 0000_,20,575b24(00):ことは到底不可能なりき。然るに今期に於ては一宗の 0000_,20,575b25(00):狀勢又從來のごとくならず。且德川幕府の宗敎政策 0000_,20,575b26(00):は。法度なく制規なき宗旨の存立を許さざるに至ら 0000_,20,575b27(00):しめたり。即ち從來數百に過きざりし本宗寺院は一 0000_,20,575b28(00):時に增加して數千の多きに達し。僧侶の數も之に從 0000_,20,575b29(00):ひ激增したるを以て。此等寺院と僧侶を統轄して一 0000_,20,575b30(00):宗の體面を維持するには。法度制規の制定の必要な 0000_,20,575b31(00):るは言ふまでもなし。加之德川幕府は前代に於ける 0000_,20,575b32(00):諸宗僧兵一揆の弊害に鑑み。諸宗を劃一の法度によ 0000_,20,575b33(00):り取締り。支配統御を容易にせんとし。各宗の有力者 0000_,20,575b34(00):に命じて之が案文を提出せしめ。自家に都合よく之 0000_,20,576a01(00):を訂正して。夫夫永世の法度たらしめたり。本宗の 0000_,20,576a02(00):法度も一面かかる要求に促がされて出來たれるもの 0000_,20,576a03(00):なり。 0000_,20,576a04(00):本宗最初の一般法規と見るべきものは。慶長二年 0000_,20,576a05(00):に知恩院滿譽により制せられ。家康の署名を以て發 0000_,20,576a06(00):布せられたる。關東諸寺院掟なり。同掟は五箇條よ 0000_,20,576a07(00):り成る。 0000_,20,576a08(00):一、從前之本末以當位之意趣不可背本寺之 0000_,20,576a09(00):事 0000_,20,576a10(00):一、諸檀所之學徒歸當流以後相成他門他流者可 0000_,20,576a11(00):被處嚴科之旨入寺之時一紙可被申付之事 0000_,20,576a12(00):附從古有由緖本末申掠當院直末之望禁制事 0000_,20,576a13(00):一、同寺出世之時日之前後不可有相違之事 0000_,20,576a14(00):一、去時分如内府仰出致公事徒は餘檀林え不 0000_,20,576a15(00):可有許容之事 0000_,20,576a16(00):一、不至年臘而致出世事並其所之門中え不屆 0000_,20,576a17(00):而致相談儀禁制之事 0000_,20,576b18(00):右之條條得國主尊意相定所也諸檀林被得其意 0000_,20,576b19(00):若於違背之輩は可被處嚴科者也仍如件 0000_,20,576b20(00):慶長二年九月廿五日 知恩院 滿譽在判 0000_,20,576b21(00):諸檀林住持 0000_,20,576b22(00):然れども德川幕府時代を通じて。本宗上下一般を 0000_,20,576b23(00):支配したる根本法規は。元和元年認可公布せられた 0000_,20,576b24(00):る三十五箇條の法度なり。此法度は諸宗の法度に對 0000_,20,576b25(00):しては淨土宗法度と云ひ。其公布の年に從ひ元和條 0000_,20,576b26(00):目と呼び。又其箇條數により三十五箇條法度と云 0000_,20,576b27(00):ふ。 0000_,20,576b28(00):元和條目の制定に關しては。正譽廓山は之が草案 0000_,20,576b29(00):者なりしが。桑譽了的もまた之に與り。且之が成案 0000_,20,576b30(00):となりしには觀智國師と滿譽僧正との協議による。 0000_,20,576b31(00):即國師は元和元年六月十四日。廓山了的を從へて上 0000_,20,576b32(00):洛し。僧正と協定の上。閏六月二十八日歸東して直 0000_,20,576b33(00):に幕府に提出し。七月二十四日幕府之を認可して。 0000_,20,576b34(00):其認可書を知恩院並に增上寺に下附せらる。 0000_,20,577a01(00):其三十五條法度の條文は左の如し 0000_,20,577a02(00):一知恩院之事 建置宮門跡門領各別相定上者不 0000_,20,577a03(00):可混雜寺家引導佛事等定脇住持如先規可 0000_,20,577a04(00):被執行於十念者爲結縁門主自身可有授 0000_,20,577a05(00):與事 0000_,20,577a06(00):一於京都門中選器量之仁六人爲役者可致諸 0000_,20,577a07(00):沙汰曾不可有贔負偏頗事 0000_,20,577a08(00):一碩學衆於圓戒傳授者調道場之規式可令執 0000_,20,577a09(00):行淺學之輩猥不可授與事 0000_,20,577a10(00):一對在家之人不可令相傳五重血脈事 0000_,20,577a11(00):一淨土修學不至十五年者不可有兩脈傳授於 0000_,20,577a12(00):璽書許可者雖爲器量之仁不滿二十年者堅 0000_,20,577a13(00):不可令相傳事 0000_,20,577a14(00):一糺明學問之年增上寺當住並其談義所之能化以 0000_,20,577a15(00):兩判之副狀可啓本寺於令滿足二十年之稽 0000_,20,577a16(00):古者可令頂戴正上人之綸旨不至二十年 0000_,20,577a17(00):者可爲權上人事 0000_,20,577b18(00):附十五年以來之出世之座次可有權正分別事 0000_,20,577b19(00):一非古來之學席者私不可建常法幢事 0000_,20,577b20(00):一不解事理縱橫之深義著相憑文之族貪著名利 0000_,20,577b21(00):不可致法談縱亦蒙尊宿之許可雖令勸化 0000_,20,577b22(00):空閣佛經祖釋偏事狂言綺語妄莊愚夫之耳剩 0000_,20,577b23(00):自讚毀他尤是爲法衰之因諍論之縁堅可制止 0000_,20,577b24(00):事 0000_,20,577b25(00):一往來之知識等其所之門中無許容聊爾不可致 0000_,20,577b26(00):法談事 0000_,20,577b27(00):一若輩之砌及十ケ年致學問其後令退轉之僧望 0000_,20,577b28(00):色袈裟者就其人體六十以後可許之但於上人 0000_,20,577b29(00):之儀者不可有斟酌事 0000_,20,577b30(00):一爲平僧分縱雖老年不可致引導事 0000_,20,577b31(00):一於淨土宗諸寺家者縱雖爲師匠之附屬恣不 0000_,20,577b32(00):可住職事 0000_,20,577b33(00):一古跡之住持就相替者可令血脈相續若於爲 0000_,20,577b34(00):前住沒後之入院者至流義之源可致傳授事 0000_,20,578a01(00):一紫衣之諸寺住持致隱居之時可脱紫衣事 0000_,20,578a02(00):一大小之新寺爲私不可致建立事 0000_,20,578a03(00):一借在家搆佛前不可求利養事 0000_,20,578a04(00):一於知識分座次者以血脉綸旨之次第上下之品 0000_,20,578a05(00):可相定之事 0000_,20,578a06(00):一於法問商量之座布者以學問之戒臘可定上下 0000_,20,578a07(00):別其外之衆會者以出世之前後可著座事 0000_,20,578a08(00):一所化寺僧於會合者選擇以上者可列座平僧之 0000_,20,578a09(00):上事 0000_,20,578a10(00):一平僧分中聲明法事等之役儀有其嗜輩者同之中 0000_,20,578a11(00):可居上座事 0000_,20,578a12(00):一不辨階級之淺深恣高擧自身對上座致緩 0000_,20,578a13(00):怠輩者永不可會合事 0000_,20,578a14(00):一諸寺家之住持任自己之分別背出世之法儀者 0000_,20,578a15(00):爲寺中之老僧兼日可加意見不然者可屬同 0000_,20,578a16(00):罪事 0000_,20,578a17(00):一白旗流義諸國之末寺隨其大小集調報謝錢三ケ 0000_,20,578b18(00):年一度宛以使僧可備影前事 0000_,20,578b19(00):一出世之官物之事綸旨之分銀子二百文目參内之分五 0000_,20,578b20(00):百文目若爲兩樣同時者七百文目相定上者不可 0000_,20,578b21(00):論米糓之高下事 0000_,20,578b22(00):一末末諸寺家者從其本寺可致仕置若有理不盡 0000_,20,578b23(00):之沙汰可爲本寺私曲事 0000_,20,578b24(00):一一向無智之道心者等對道俗授十念勸男女 0000_,20,578b25(00):與血脉誠以法賊也自今以後堅可停止事 0000_,20,578b26(00):一惡徒出來近年興邪敎違經文釋義勸安心闕 0000_,20,578b27(00):六字名號唯稱三字廻種種謀計令誑惑衆生 0000_,20,578b28(00):是順魔之所行速可令追拂事 0000_,20,578b29(00):一號靈佛靈地之修理不可諸國勸進事 0000_,20,578b30(00):一如舊例之夏安居從四月十五日期六月二十九 0000_,20,578b31(00):日冬安居從十月十五日可至極月十五日聊不 0000_,20,578b32(00):可有延促事 0000_,20,578b33(00):一於一夏中客殿之法問十則下讀法問十一則無闕 0000_,20,578b34(00):減可令決擇湯日之外不可有談場懈怠冬 0000_,20,579a01(00):安居可爲同前事 0000_,20,579a02(00):一解間之事春從二月朔日期三月二十九日秋從 0000_,20,579a03(00):八月朔日可至九月二十七日如兩安居惣而不 0000_,20,579a04(00):可有物讀法問懈怠事 0000_,20,579a05(00):一頌義十人衆以下之僧不可爲寮坊主事 0000_,20,579a06(00):一諸談所之所化自今以後縱雖令他山老若共不可 0000_,20,579a07(00):付替同名事 0000_,20,579a08(00):一於一寺追放之所化者談所之會合不可有之事 0000_,20,579a09(00):寺僧同宿等可爲同前事 0000_,20,579a10(00):一諸檀林所化法度悉以可復從上事 0000_,20,579a11(00):右三十五箇條條永代可守此旨若於有違背之仁 0000_,20,579a12(00):者隨科之輕重或令流罪或可脱却三衣者也 0000_,20,579a13(00):元和元乙卯七月家康印 0000_,20,579a14(00):右の條目は本宗の憲法にして。之が違背變更を許さ 0000_,20,579a15(00):ざるものなれども。時世の變遷に應じて必要なる事 0000_,20,579a16(00):項は時時の條目により規定せられ。尚之が實施に伴 0000_,20,579a17(00):ふ細項小目は。錄所或は本山より時時發布せられた 0000_,20,579b18(00):り。今其等の重要なるものを擧ぐべし 0000_,20,579b19(00):(一) 寬文五年に諸宗一般に對して發布せられた 0000_,20,579b20(00):る條目 0000_,20,579b21(00):一、諸宗法式不可相亂若不行儀之輩於有之者 0000_,20,579b22(00):急度不及沙汰事 0000_,20,579b23(00):一、不存一宗法式之僧侶不可爲寺院住持事 0000_,20,579b24(00):立新儀不可説奇怪之法事 0000_,20,579b25(00):一、本末之規式不可亂之縱雖爲本寺對末寺 0000_,20,579b26(00):不可有理不盡之沙汰事 0000_,20,579b27(00):一、檀越之輩雖爲何寺可任其心從僧侶方不 0000_,20,579b28(00):可相爭事 0000_,20,579b29(00):一、結徒黨企鬪諍不似合事業不可仕事 0000_,20,579b30(00):一、背國法輩到來之節於有其屆無意義可返 0000_,20,579b31(00):之事 0000_,20,579b32(00):一、寺院佛閣修覆之時不可及美麗事 0000_,20,579b33(00):佛閣無懈怠掃除可申付事 0000_,20,579b34(00):一、寺領一切不可賣買之並不可入于質物事 0000_,20,580a01(00):一、無由緖者雖有弟子之望猥不可令出家 0000_,20,580a02(00):若無據子細有之者其所之領主代官え相斷可任 0000_,20,580a03(00):其意事 0000_,20,580a04(00):右條條諸宗共堅可守之此外先判之條彌不可相背 0000_,20,580a05(00):之若於違犯者隨科之輕重可沙汰之猶裁下知 0000_,20,580a06(00):狀者也 寬文五年七月十一日 0000_,20,580a07(00):下知狀 條條 0000_,20,580a08(00):一、僧侶之衣體應其分際可着之佛事作善之儀 0000_,20,580a09(00):式檀越雖望之相應輕可仕事 0000_,20,580a10(00):一、檀方建立之由緖有之寺院住職之儀者爲其檀那 0000_,20,580a11(00):斗之條自本寺遂相談可任其意事 0000_,20,580a12(00):一、以金銀不可致後住之契約事 0000_,20,580a13(00):一、借在家搆佛壇不可求利養事 0000_,20,580a14(00):一、他人者勿論親類之好雖有之寺院坊舍女人不 0000_,20,580a15(00):可抱置之 但有來妻帶者可爲格別事 0000_,20,580a16(00):右條條可相守之若於違犯者隨科輕重可有御 0000_,20,580a17(00):沙汰之旨依仰執達如件 寬文五年七月十一日 0000_,20,580b18(00):大和守美濃守豐後守雅樂守 0000_,20,580b19(00):(二) 延寶四年に發布せられたる定書 0000_,20,580b20(00):一、增上寺方丈入院之時附來上座之僧於被列之 0000_,20,580b21(00):者不可過二人座配者月行事中遂僉議可 0000_,20,580b22(00):定之事 他山之所化入寺又者歸山之僧有之者 0000_,20,580b23(00):選其器量障儀於無之者糺座配可有許容 0000_,20,580b24(00):事 0000_,20,580b25(00):一、黄衣檀林十二箇所後住御吟味之時增上寺月行事 0000_,20,580b26(00):十二人檀林十二箇所之伴頭都合二十八僧之内不 0000_,20,580b27(00):依座之高下器量相應之僧以入札書出之其 0000_,20,580b28(00):上增上寺被遂僉議兩人可被書上之事 0000_,20,580b29(00):一、黄衣檀林十二箇所之外後住之儀戒次第是又兩 0000_,20,580b30(00):人書注可被上之事 0000_,20,580b31(00):右條條向後不可有違背者也延寶三年閏四月廿日 0000_,20,580b32(00):播磨守判但馬守判大和守判美濃守判雅樂守判 0000_,20,580b33(00):同條目追加之事 0000_,20,580b34(00):一、延寶九辛酉年七月十二日申刻水野右衞門大夫殿 0000_,20,581a01(00):稻葉丹後守殿松平山城守殿三寺社奉行丹後守殿え 0000_,20,581a02(00):御寄合被成候而增上寺信譽上人傳通院春岳和尚 0000_,20,581a03(00):靈巖寺連的和尚幡隨院岳翁和尚當寺番頭智讚和尚 0000_,20,581a04(00):二白玄和尚三遵策和尚役者秀道岳雲德水院源 0000_,20,581a05(00):興院右之衆中御呼寄於書院仰渡之覺 先丹後守 0000_,20,581a06(00):殿御月番役にて候へば傳通院より隨身之儀被仰 0000_,20,581a07(00):渡次水野右衞門大夫殿被仰渡 以前御條目附 0000_,20,581a08(00):來上座之僧二人有之付上座之指所不分明候之 0000_,20,581a09(00):故義理區區に候此上座と申者增上寺五十僧以上を 0000_,20,581a10(00):上座と申之儀にて候間左樣に可被相心得候 0000_,20,581a11(00):同七月十三日 當月行事 天澤 0000_,20,581a12(00):(三) 貞享二年の定書及下知狀 0000_,20,581a13(00):定 0000_,20,581a14(00):一、毎歳於增上寺諸檀林之住持各令會合元和元 0000_,20,581a15(00):年以來被仰出以御條目糺淨土一宗之法式學 0000_,20,581a16(00):問無懈怠樣可有沙汰事 0000_,20,581a17(00):一、黄衣檀林住職御吟味之儀先規御條目雖有之今 0000_,20,581b18(00):後御僉議之上諸檀林之住持並江戸檀林四箇所之二 0000_,20,581b19(00):相加可選之旨被仰出候事 0000_,20,581b20(00):一、淺草靈山寺爲檀林所之處就令斷絶此度再 0000_,20,581b21(00):興被仰付之條諸檀林如法式可相勤事 0000_,20,581b22(00):一、增上寺方丈入院之時以先例上座之僧兩人宛 0000_,20,581b23(00):於隨身者彌器量吟味之上可被連之尤寺法等 0000_,20,581b24(00):無障樣可被致之且亦諸檀林之所化增上寺え入 0000_,20,581b25(00):寺歸山之儀正路可被申付事 增上寺傳通院 0000_,20,581b26(00):靈巖寺幡隨院靈山寺へ新來之所化減之人數可相 0000_,20,581b27(00):定事 0000_,20,581b28(00):一、正月五月九月廿四日於增上寺法問之節四箇所 0000_,20,581b29(00):之檀林伴頭指添參堂可致聽聞但遠境檀 0000_,20,581b30(00):林伴頭二之儀可爲志次第事 0000_,20,581b31(00):右條條可被守之 委細寺社奉行中可被相達者 0000_,20,581b32(00):也 貞享二年乙丑十一月廿九日 日向守判山城守判 0000_,20,581b33(00):豐後守判加賀守判 0000_,20,581b34(00):覺(上の條目の下知狀) 0000_,20,582a01(00):一、毎歳正月六日御年禮相勤候以後增上寺へ十七檀 0000_,20,582a02(00):林之住持不殘令會合淨土一宗之僧侶彌學問勵 0000_,20,582a03(00):之諸法式無混雜可有評定候 次に黄衣檀林 0000_,20,582a04(00):住職之事增上寺月行事十二人諸檀林伴頭十七人都 0000_,20,582a05(00):合廿九僧之中(但解間寺持之僧除之)檀林住持相 0000_,20,582a06(00):應之器量選之能化中銘銘致入札則以封印箱 0000_,20,582a07(00):納其箱之上封諸能化令合判預置增上寺其年中 0000_,20,582a08(00):檀林住持替之節如例增上寺上座三十八僧所化役 0000_,20,582a09(00):者兩人並江戸檀林四箇所之二四人相加右廿九僧 0000_,20,582a10(00):之中不依座之高下可爲能化之僧入札致之 0000_,20,582a11(00):方丈被遂披見吟味之上兩人書付可被差出其 0000_,20,582a12(00):刻增上寺役者並上座之所化檀林二老之入札取揃最 0000_,20,582a13(00):前檀所住持中認置候入札差添寺社奉行所え役者可 0000_,20,582a14(00):致持參候 尤其年中住持選於無之は翌年之 0000_,20,582a15(00):正月檀林住持中參會之節右之通入札改替可申候 0000_,20,582a16(00):向後法式不可有懈怠事 0000_,20,582a17(00):一、正五九月廿四日於增上寺御報謝法問之節諸檀 0000_,20,582b18(00):林伴頭二令參堂聽聞之時分座席之儀 高座 0000_,20,582b19(00):左右搆縱席左方伴頭右方二尤戒次第可爲 0000_,20,582b20(00):着座事 0000_,20,582b21(00):一、增上寺方丈入院之時以先例上座之所化兩人 0000_,20,582b22(00):於隨身は選器量增上寺にて諸事不障樣可被 0000_,20,582b23(00):致之上座以下之所化隨從之儀は不可過五十 0000_,20,582b24(00):人候且又十七檀所相勤秀學器用之僧後來可入 0000_,20,582b25(00):能化之選所化廿年より廿五年迄之法壹人廿五 0000_,20,582b26(00):年より三十年迄之法壹人以上兩僧其檀所に住職 0000_,20,582b27(00):之中從一箇所二人宛能化斷次第增上寺え入寺歸 0000_,20,582b28(00):山可有許容候 但座席之儀縱戒者上座或は 0000_,20,582b29(00):扇間或縁頰之列に相當候共其席之人數闕如無之 0000_,20,582b30(00):内は先無部之上座列之戒相當之座明候節可 0000_,20,582b31(00):令轉席若同法之所化從諸檀所同時入寺於 0000_,20,582b32(00):有之は增上寺え申屆候帳面の先次第着座可相 0000_,20,582b33(00):定候雖爲右兩僧之外前前入寺歸山仕來候所化 0000_,20,582b34(00):可准舊例就中檀林能化御菩提所並四箇本寺へ 0000_,20,583a01(00):移住或於檀所住持遷化之節此等之弟子は任願 0000_,20,583a02(00):可爲致入寺歸山候 但解間寺持退轉之僧戒臘 0000_,20,583a03(00):年數並部轉不分明之所化如有來寺法可停止 0000_,20,583a04(00):事 0000_,20,583a05(00):一、江戸五箇所之檀林へ新來之所化員數 增上寺へ 0000_,20,583a06(00):七拾人傳通院へ五拾人靈巖寺幡隨院靈山寺へ三拾 0000_,20,583a07(00):人宛可限之事 0000_,20,583a08(00):一、十七檀林之伴頭銘銘法俗年可書出之勿論 0000_,20,583a09(00):秀學器量可爲能化僧侶於有之は明直に書付 0000_,20,583a10(00):增上寺へ指出之帳面記置右書出之趣寺社奉行所へ 0000_,20,583a11(00):も相達檀林住持選入札之人數可相加事 0000_,20,583a12(00):一、先年巖宿和尚如被相極檀林之所化大老殊其 0000_,20,583a13(00):器量於有之は檀林住職之外紫衣寺或四箇本寺之 0000_,20,583a14(00):末寺へ可爲入院事 0000_,20,583a15(00):一、檀林所伴頭闕之時最前斷を以增上寺上座に入置 0000_,20,583a16(00):候所化其出所之檀林え令歸山爲伴頭儀可爲 0000_,20,583a17(00):檀所住持之心次第事 0000_,20,583b18(00):一、部轉之儀如有來法式一部三年宛勤學之以後可 0000_,20,583b19(00):轉之縱雖爲老僧初學之所化者名目之席三年 0000_,20,583b20(00):指置頌義之座可移之不滿年席僧致部轉儀 0000_,20,583b21(00):堅可爲無用事 0000_,20,583b22(00):一、田舍檀林十三箇寺近邊有之知恩院增上寺兩末 0000_,20,583b23(00):寺之分其檀所之或末寺或支配相附可申候 但無 0000_,20,583b24(00):據由緖寺院有之者被遂穿鑿於無其謂は急 0000_,20,583b25(00):度可被申付事 0000_,20,583b26(00):一、月行事は令指南初學之所化之間彼席明候節 0000_,20,583b27(00):轉席之增上座三十八人之内不依座之高下右役 0000_,20,583b28(00):儀相勤器量之所化月行事中致入札方丈吟味之上 0000_,20,583b29(00):可被申付候事 0000_,20,583b30(00):一、檀林住持十七人增上寺月行事十二人役者兩人並 0000_,20,583b31(00):上座三十八人江戸檀林之二老誓詞案文之趣一人一 0000_,20,583b32(00):紙銘銘相認入札箱之内へ一所可納置候勿論自今 0000_,20,583b33(00):以後右誓詞一列之面面其職分或座席相替之度度 0000_,20,583b34(00):無斷絶誓詞可仕置事 0000_,20,584a01(00):右十一箇條者今度以御條目之旨趣委細令演達者 0000_,20,584a02(00):也 貞享二乙丑年十一月 本多淡路守 坂本内記 0000_,20,584a03(00):大久保安藝守 0000_,20,584a04(00):(四) 貞享三年寺社奉行加判增上寺發布の定書 0000_,20,584a05(00):定 0000_,20,584a06(00):一、仰先規之御條目寺院之作法不可混亂就中 0000_,20,584a07(00):長時之勤行不可有懈怠事 0000_,20,584a08(00):一、僧侶衣體致過奢或好異體不可失宗旨之 0000_,20,584a09(00):風儀事 0000_,20,584a10(00):一、對在家人猥不可五重相傳所化或隱者之輩 0000_,20,584a11(00):密許之聞有之間其人露顯次第急度可爲曲事 0000_,20,584a12(00):事 0000_,20,584a13(00):一、閣所依之經論等以他經致訓讀且以奇怪 0000_,20,584a14(00):不可集道俗自元世出之諍論不可仕樣可相 0000_,20,584a15(00):警事 附住持並直弟之説法者各別所化或隱者之 0000_,20,584a16(00):助説堅停止事 0000_,20,584a17(00):一、佛閣建立並修覆等應其寺分際不及後來之難 0000_,20,584b18(00):儀樣可令經營若不加相應之修覆於致在 0000_,20,584b19(00):堪者是又可爲越度事 0000_,20,584b20(00):一、私用者勿論縱雖爲寺院建立不可致借金 0000_,20,584b21(00):並門前屋敷質物入置事向後可爲無用若掠此定 0000_,20,584b22(00):法僞檀那致借用及出入者急度可令追院若 0000_,20,584b23(00):至沒後借金令露顯者可爲弟子之償事 0000_,20,584b24(00):一、一寺建立由緖有之檀那地者各別其外住職之儀 0000_,20,584b25(00):向後不可致訴訟縱雖爲直弟年席未滿不相 0000_,20,584b26(00):應之住持は不致許容事 附惣而寮舍之輩催諸 0000_,20,584b27(00):檀那不可致理不盡之訴訟事 0000_,20,584b28(00):右之趣雖爲先規之定法寺院之作法粗就令混亂 0000_,20,584b29(00):永代爲無違變此度寺社御奉行所へ申達請加判 0000_,20,584b30(00):別而相定作間此旨急度可相守者也 貞享三寅年霜月 0000_,20,584b31(00):朔日 增上寺三十一代流譽在判 0000_,20,584b32(00):表書之條條門末之寺院え觸置當山不變之寺法相定度 0000_,20,584b33(00):旨公儀え申達處就宜任其意彌後代爲令無改 0000_,20,584b34(00):變請求寺社御奉行之加判者也 貞享三寅年霜月 0000_,20,585a01(00):十八日 增上寺右岩在判 0000_,20,585a02(00):本文並裏書之趣致承知令加印畢彌右之定法後 0000_,20,585a03(00):代之方丈相違有間敷候以上 本多淡路守在印 坂本 0000_,20,585a04(00):内記在印 大久保安藝守(湯治御越付無加印) 0000_,20,585a05(00):此寺法之條目本紙之通寫取候間月箱被納置若及 0000_,20,585a06(00):後代違變候はは以此條目寺法相違樣可被申立 0000_,20,585a07(00):候此趣從寺社御奉行衆被仰渡候付要期候以上 0000_,20,585a08(00):寅霜月十八日 貞松院印 源興院印 圓量印 淳甫 0000_,20,585a09(00):印 惣月行事中 0000_,20,585a10(00):(五) 寶永四年の定書 0000_,20,585a11(00):一、前前被仰出御條目堅相守之寺法先規之通萬 0000_,20,585a12(00):事受增上寺方丈之下知可任月行事之指揮者 0000_,20,585a13(00):也爲下座企我意不可致法外之働事 0000_,20,585a14(00):一、一山之大衆學業專一勤之講釋法問等不可懈 0000_,20,585a15(00):怠縱雖有學才於挾邪心好諍論者檀林住 0000_,20,585a16(00):職之選者不及申不可入月行事席一文字座 0000_,20,585a17(00):事 0000_,20,585b18(00):一、結徒黨之儀堅令停止隱密無用之會合禁制 0000_,20,585b19(00):之若無據儀於有之者其子細達月行事許容之 0000_,20,585b20(00):上一文字之席より五人扇間椽ケ輪より三人宛可 0000_,20,585b21(00):會合一番輪以下八部之所化者不可會合候若無 0000_,20,585b22(00):據之願者是又達月行事部一人可被罷出事 0000_,20,585b23(00):一、住持替之節獨禮寺院遠近不論一分は方丈二分 0000_,20,585b24(00):は大衆方之僧住持可申付之尤獨禮之寺えは可 0000_,20,585b25(00):選器量人體事 附内禮之寺院は月行事望無之 0000_,20,585b26(00):を一文字之僧可申付事 0000_,20,585b27(00):一、檀越之由緖有之寺院並内寺等可任其檀越之 0000_,20,585b28(00):望又年臘法相應之直弟有之者可任師匠之願 0000_,20,585b29(00):外人不可相爭事 附雖爲檀越之望師匠之願 0000_,20,585b30(00):於他山之僧者不可有許容事 0000_,20,585b31(00):右條條可相守之若令違犯者可爲曲事者也 0000_,20,585b32(00):寶永四年八月九日 河内守判 加賀守判 但馬守判 0000_,20,585b33(00):相模守判 0000_,20,585b34(00):(六) 寬文九年增上寺より發布せる覺書 0000_,20,586a01(00):覺 0000_,20,586a02(00):一、法事之儀千部讀經或は五百部三百部等又別時念 0000_,20,586a03(00):佛は四十八日或は七日等之念佛其外頓寫施餓鬼等 0000_,20,586a04(00):何も檀方之心次第可有執行就夫佛前之莊嚴飾 0000_,20,586a05(00):金銀美麗可爲無用附調菜二汁三菜酒三返客人 0000_,20,586a06(00):之節は公儀之御定を守輕可被致事 0000_,20,586a07(00):一、勸化所之住持如先規金入之袈裟彌堅停止之 0000_,20,586a08(00):並寺僧平常絹類之衣可爲無用布衣細美可着之 0000_,20,586a09(00):但法事之節は如作法可被致着之事 0000_,20,586a10(00):一、所化月行事以上絹類之衣此人以下布衣細美可 0000_,20,586a11(00):着之 但大寺之役者は格別之事 0000_,20,586a12(00):一、寺持並所化寺僧衣類綸子縮緬可爲無用法事 0000_,20,586a13(00):之節は可爲羽二重絹之白衣平常は可隨其分 0000_,20,586a14(00):限 但今迄持來衣並衣裳は可爲其分重而仕 0000_,20,586a15(00):立候節右之通可相守之事 0000_,20,586a16(00):一、勸化所之住持總而對之挾筥立傘可爲無用 0000_,20,586a17(00):附乘物並六尺之單物目に不立樣可有其心得 0000_,20,586b18(00):事 0000_,20,586b19(00):右之條條公儀え伺候而申渡候堅相守之若違背之仁於 0000_,20,586b20(00):有之者可爲曲事者也 寬文九年四月日 知哲 0000_,20,586b21(00):和尚代 增上寺 0000_,20,586b22(00):(七) 寬文十一年檀林會議の決議により發布せ 0000_,20,586b23(00):し定書 0000_,20,586b24(00):定 0000_,20,586b25(00):一、從前前被仰出候公儀之諸法度並佛家之法義 0000_,20,586b26(00):堅可相守附名聞利養之事業卑劣之働停止之事 0000_,20,586b27(00):一、權現樣如御條目權之綸旨修學十五年正之綸旨 0000_,20,586b28(00):二十年堅相究可出添狀事但無據成就之僧は 0000_,20,586b29(00):立證人少分可有宥免歟 0000_,20,586b30(00):一、他山之所化綸旨添狀不可出事 0000_,20,586b31(00):一、爲綸旨添狀他人之血脈不可借事若左樣之者 0000_,20,586b32(00):於有之者血脈之本主可爲同罪事 0000_,20,586b33(00):一、綸旨添狀不可有賣買事若致賣買者雙方共 0000_,20,586b34(00):に可爲同罪事 0000_,20,587a01(00):一、五重は修學五年血脈は十年相究可致傳授 0000_,20,587a02(00):但無據成就之仁者立證人少分可有宥免歟 0000_,20,587a03(00):一、對他山之所化不可令傳法事 但自山にて 0000_,20,587a04(00):傳授已後他山之再傳は各別之事 0000_,20,587a05(00):一、背古來之壁書加部加年仕者急度可申付事 0000_,20,587a06(00):但中二年過可致部轉事 0000_,20,587a07(00):一、於諸山毎年初入寺之僧致着帳正月參府之節 0000_,20,587a08(00):增上寺え可被收之事 0000_,20,587a09(00):一、初入寺之僧は十五歳已前不可有許容事 0000_,20,587a10(00):一、諸山追放之所化名を替他山え可紛入候他山僧 0000_,20,587a11(00):可被入念事 0000_,20,587a12(00):一、諸山之所化令他山時何方え致入寺之旨能化 0000_,20,587a13(00):え慇可相屆若不沙汰令離山者可搆諸山事 0000_,20,587a14(00):一、一向宗強可有吟味事 附件之者於宗門中 0000_,20,587a15(00):僞號弟子所化出候者顯露次第急度法度可申付 0000_,20,587a16(00):事 0000_,20,587a17(00):一、諸山之所化無差と他宗之物讀不可聞之事 0000_,20,587b18(00):一、爲所化分對在家五重相傳從古來停止之儀 0000_,20,587b19(00):候得共于今猥免之候自今以後急度可申付事 0000_,20,587b20(00):附於在在所所隱遁之上人或道心者對在家五重 0000_,20,587b21(00):令相傳之聞有之候各強可有僉議事 0000_,20,587b22(00):一、在家搆佛前別時念佛之導師座鋪談義並道心者 0000_,20,587b23(00):寮にて不可致説法事 0000_,20,587b24(00):一、諸寺院代替之節什物其外萬事寺を不可荒事 0000_,20,587b25(00):右十七箇條諸能化遂相談相定上者永可相守此 0000_,20,587b26(00):旨若令違犯者急度可及曲事縱令雖爲名家之 0000_,20,587b27(00):一族聊不可有依怙者也仍爲後證連判如左 0000_,20,587b28(00):寬文十一辛亥年正月十二日 諸能化連判 增上寺歷 0000_,20,587b29(00):天判 0000_,20,587b30(00):以上の外。錄所增上寺より時時發布したる定書覺書 0000_,20,587b31(00):等枚擧に遑あらす。收めて山門通規。御定書制條合 0000_,20,587b32(00):糅等にあり。部分或は特別の事項に關するものは夫 0000_,20,587b33(00):夫其下に出すべし。 0000_,20,587b34(00):(八) 享保七年知恩院より末山に與へたる法度 0000_,20,588a01(00):元和年中被成下候御條目不可違背候凡釋門之 0000_,20,588a02(00):徒者内外眞實にして名利を離るるを詮とす然に謟 0000_,20,588a03(00):曲にして實義等を失ひ華奢を好みて外を飾り作法正 0000_,20,588a04(00):しからざる事は作事に懶うして世縁に奔走する故也 0000_,20,588a05(00):若學業を勵み行業を怠らざるときは其非をなすの暇 0000_,20,588a06(00):なく又好みも有間敷候自今學徒は彌能化の指揮を仰 0000_,20,588a07(00):ぎ學業を勵み宗要を究むべし可選法燈之器量は 0000_,20,588a08(00):勿論縱ひ師跡相續すべき僧たり共怠慢なく修學し其 0000_,20,588a09(00):功を積て他を利益すべし寺院を帶する輩は專ら行業 0000_,20,588a10(00):を修して怠ることなく内外相應に可被自利利他候 0000_,20,588a11(00):今度申渡條條左の如し 0000_,20,588a12(00):一、法事齋會之事 若は他の請に赴き若は寺院に於 0000_,20,588a13(00):て檀家より施會を設くること施主の志は皆是冥福を 0000_,20,588a14(00):祈るを以て本とす然るに本院に於て相營候節偏に 0000_,20,588a15(00):施主の饗應に心を盡し或は檀那用を表として不似 0000_,20,588a16(00):合事に僧を使ひ候の類宜からす候又或は施主より 0000_,20,588a17(00):其具を贈り心に背き難きとても牌前へ酒など供し 0000_,20,588b18(00):候事非法に候總て實義を失はざる樣に向後屹度 0000_,20,588b19(00):可相愼候且又雖爲施主の懇望齋會の饗應輕 0000_,20,588b20(00):く致し若は他の請に赴き候砌も右之趣申諭し輕く 0000_,20,588b21(00):爲相營可申候尤可爲禁酒施主之饗應に酒出 0000_,20,588b22(00):し候とも不可過三献候入院嘉義等の饗應尚以 0000_,20,588b23(00):輕可仕事 0000_,20,588b24(00):一、説法敎化之事 元祖大師遺誡の箇條を守り律儀 0000_,20,588b25(00):に應じ候樣に相勤むべし立新義奇怪の法を説 0000_,20,588b26(00):く可らす候近來寺院建立に事よせ卑劣の勸化致 0000_,20,588b27(00):す輩有之宗門之瑕瑾不過之候若無據事にて 0000_,20,588b28(00):他の僧を賴み候はば門中へ相斷本寺許容之上は 0000_,20,588b29(00):依其人體可有用捨候猥に他の僧を賴候に付 0000_,20,588b30(00):營活命之輩多く空しく佛經祖釋を擱き偏に事 0000_,20,588b31(00):狂言綺語妄莊愚夫耳誑惑世人之過甚重し向 0000_,20,588b32(00):後門中相互に急度可吟味事 0000_,20,588b33(00):一、五重血脈相傳之事 最是宗門之一大事にて縱令 0000_,20,588b34(00):學匠たりと雖其功を積て令相傳事に候對在家 0000_,20,589a01(00):不可相承之儀御條目顯然たる上は諸寺家之住 0000_,20,589a02(00):持可相守之候然に隱者或は往來の僧徒在家に寄 0000_,20,589a03(00):寓し猥に令相傳事法中之大賊也右之族於有之 0000_,20,589a04(00):者近邊の寺院より本寺へ可申達若他所より露顯 0000_,20,589a05(00):に及はば可爲越度事 0000_,20,589a06(00):一、田畑山林等之事 御朱印等は勿論檀家より寄附 0000_,20,589a07(00):の山林田畑等は三寶物に候間大切に致すべし右之 0000_,20,589a08(00):産物其外檀家之外護を以つて相應に所用を辨じ平 0000_,20,589a09(00):日儉素を守るべし分限不相應の過奢を好み候故其 0000_,20,589a10(00):費多し依之無謂他借致し或は相續講などと名付 0000_,20,589a11(00):金銀之利倍を營候族まま有之由出塵の徒甚可耻 0000_,20,589a12(00):事に候向後自身の企はいふに不及他の連衆にも 0000_,20,589a13(00):加り申間敷候かくの如く資財等の出入に付世の 0000_,20,589a14(00):機嫌をも顧ず諍論いたし剩へ及公訴候儀不似合 0000_,20,589a15(00):事に候間屹度可相愼事 0000_,20,589a16(00):一、衣服之事 近來美麗を好みよろしからず候常常 0000_,20,589a17(00):敬上之誡めを守り涯分を忘れざるものは奢はおの 0000_,20,589b18(00):つから有間敷候然るに尊敬うすき者は或は紛はし 0000_,20,589b19(00):き法衣を著して混雜せしめ世服も人に越え過分な 0000_,20,589b20(00):る事多し剩へ質素を守る者を吝嗇の謗をなすは甚 0000_,20,589b21(00):俗情なる事に候向後の涯分を量り奢がま敷儀無之 0000_,20,589b22(00):樣にいたし末末迄屹度可申付事 0000_,20,589b23(00):一、佛閣建立之事 分限を越え間敷も廣く又華美を 0000_,20,589b24(00):好み後後の難儀を顧みざるは宜からず候向後其分 0000_,20,589b25(00):限に從ひ寺務調候ほどにいたし僧房寮舍も右に准 0000_,20,589b26(00):ずべし且又諸國に於て中絶の寺院再建候はば遠國 0000_,20,589b27(00):たり共成就之節屹度可相屆尤異體なる經營仕間 0000_,20,589b28(00):敷事 附故障有之寺院改め候はば可相屆事 0000_,20,589b29(00):一、諸國末山住持替之事 古來直參の面面は各別其 0000_,20,589b30(00):外本山へ不訴之寺院有之候縱蒙台命被致住 0000_,20,589b31(00):職候寺院或は國主の菩提所或は支配頭より其擇 0000_,20,589b32(00):有之住職候寺院も悉く本山へ訴へ可申候代替之 0000_,20,589b33(00):節は其頭又は先祖の廟へ訴へ候事緇素之通規に有 0000_,20,589b34(00):之候得ば本山影前へ可訴事必然也但遠方直參成 0000_,20,590a01(00):がたき面面は書付を以可屆之事 附住持替之節新 0000_,20,590a02(00):規に相屆候末山中禮式堅無用之事 0000_,20,590a03(00):一、乘輿之事 僧家は御免にて紫衣之寺院は網代又 0000_,20,590a04(00):格式各別之寺院は黑輿に乘り來候然に近來猥りに 0000_,20,590a05(00):黑輿に乘り差別無之不屆に候自今其分限に應じ 0000_,20,590a06(00):て乘輿候樣其寺より可遂吟味事 0000_,20,590a07(00):一、本山寺格之諸式並日用之事迄相改儉約申付今度 0000_,20,590a08(00):京都門中へは別紙書付を以て申渡候尤古來勤來候 0000_,20,590a09(00):初讚料にも減少且又入院禮式等は輕微之事に候へ 0000_,20,590a10(00):ども是又減少申付候間諸國末末之寺院迄其旨を守 0000_,20,590a11(00):可申事 0000_,20,590a12(00):右之條條古來よりの定法彌相守末末諸寺家へも可 0000_,20,590a13(00):被相約者也 享保七年寅十二月 總本山役者光 0000_,20,590a14(00):德寺印 常林寺印 大雲院印 天性寺印 專稱寺印 0000_,20,590a15(00):淨福寺印 0000_,20,590a16(00):(九) 享保十二年知恩院より末山に與へし定書及 0000_,20,590a17(00):覺書 0000_,20,590b18(00):定 0000_,20,590b19(00):一、於當山從來相勤候 綸旨弘開衣之式は雖爲累 0000_,20,590b20(00):代之定法當時相障儀有之に付向後令停止之事 0000_,20,590b21(00):一、開衣式令停止上者 綸旨頂戴以後速可着香 0000_,20,590b22(00):衣事 0000_,20,590b23(00):一、京都門末之一者金襴之五條十五箇寺並六役は 0000_,20,590b24(00):飛紋金入之五條各令免許之事 0000_,20,590b25(00):一、惣而都鄙大中格之門中入院之節十九箇寺並六役 0000_,20,590b26(00):え可有廻禮事 0000_,20,590b27(00):一、都鄙大中格之門中入院之節於當山内衆僧等之 0000_,20,590b28(00):禮式は隨役者之差圖而可相務事 0000_,20,590b29(00):右之條條此度令改格之間永不可有違亂委細者役 0000_,20,590b30(00):者可有下知者也 享保十二丁未十一月 惣本山 0000_,20,590b31(00):四十七世照譽御朱印 役者淨福寺信譽印 大雲院秀 0000_,20,590b32(00):譽印 光德寺等譽印 上善寺豐譽印 如來寺廓譽印 0000_,20,590b33(00):山役者源光院巖永印 忠岸院玄隆印 0000_,20,590b34(00):覺 0000_,20,591a01(00):一、第一第二條之趣前前は雖綸旨頂戴相濟開衣之 0000_,20,591a02(00):式不相勤者には香衣着用堅制禁にて候得共種種 0000_,20,591a03(00):相障儀有之に付今度此式永御停止之由被仰出 0000_,20,591a04(00):候然上は綸旨頂戴以後に者本山其外何國にても無 0000_,20,591a05(00):遠慮可着香衣事 0000_,20,591a06(00):一、第三條之趣京都御門中之一は金襴之五條十九 0000_,20,591a07(00):箇寺は往昔於御影前報恩之志不混餘寺依之 0000_,20,591a08(00):飛金之五條御免許六役准十九箇寺是又飛金之五 0000_,20,591a09(00):條御免被成候事但何も大中衣禁之 0000_,20,591a10(00):一、第四條之趣京都御門中入院之節道具九條にて十 0000_,20,591a11(00):九箇寺廻禮尤送迎之式可爲丁寧事亦田舍大中 0000_,20,591a12(00):格之御門中は常衣五條にて是又十九箇寺に廻禮右 0000_,20,591a13(00):何も不及祝儀物事但小寺格には廻禮之式無之 0000_,20,591a14(00):一、惣而都鄙御門中入院之節役寺六箇所え祝儀物持 0000_,20,591a15(00):參廻禮可有之事 0000_,20,591a16(00):一、第五條之趣都鄙御門中大中格之寺院住職之節は 0000_,20,591a17(00):當山内衆僧中並納所行者等爲祝儀大寺は銀壹 0000_,20,591b18(00):枚中寺は金貳百疋著帳所え可被相納事但小寺格除之 0000_,20,591b19(00):一、十九箇寺之入院之節は山内之衆僧其外銀壹枚 0000_,20,591b20(00):等之祝儀物無之事 0000_,20,591b21(00):一、都鄙御門中紫衣香衣參内之節は如先規祝儀物 0000_,20,591b22(00):令院納當山之規式相勤上十九箇之寺院え廻禮等 0000_,20,591b23(00):之式可有之事 0000_,20,591b24(00):右七箇條者本文之以餘意令演達者也可被得 0000_,20,591b25(00):其意候仍如件享保十二丁未十一月 惣本山役者淨 0000_,20,591b26(00):福寺信譽印 大雲院秀譽印 光德寺等譽印 上善寺 0000_,20,591b27(00):豐譽印 如來寺廓譽印法然寺忍譽印 山役者源光院 0000_,20,591b28(00):巖永印 忠岸院玄隆印 0000_,20,591b29(00):以上の外知恩院より門末に發せる布令も少からず 0000_,20,591b30(00):と雖も今之を略す。 0000_,20,591b31(00): 0000_,20,591b32(00):第三章 統治機關 0000_,20,591b33(00): 0000_,20,591b34(00):本期に至り始めて宗規法度の制定せられたるが如 0000_,20,592a01(00):く。一宗統治機關も此の時代に入りて始めて備はれ 0000_,20,592a02(00):り。其の機關配置の大體は。德川幕府の政治機關の 0000_,20,592a03(00):縮圖模寫と見るをうべし。德川氏が實權實力を其の 0000_,20,592a04(00):掌中に收めし如く。關東檀林就中增上寺は一宗の總 0000_,20,592a05(00):錄所として宗門全體に對する死活の權を握りたり。 0000_,20,592a06(00):德川氏が表面皇室を奉戴し崇敬したるも。其の實虚 0000_,20,592a07(00):器空名を京都に存續したるに過ぎざるが如く。增上 0000_,20,592a08(00):寺も知恩院を總本山と仰ぎ。且つ親王を奏請して門 0000_,20,592a09(00):主と崇敬したるも。一宗の大體に關することは渾て 0000_,20,592a10(00):之を自己掌中に有し。唯だ香衣綸旨執奏の特權を與 0000_,20,592a11(00):へしのみ。故に此の時代に於ける中心首腦の統治機 0000_,20,592a12(00):關は增上寺なりき。而して之れを輔翼賛助するは檀 0000_,20,592a13(00):林會議なるものにして。其の手足となりて全國に意 0000_,20,592a14(00):志命令を傳達するは。諸國に於ける觸頭と稱する大 0000_,20,592a15(00):寺院なりき。 0000_,20,592a16(00):一 華頂門主並に知恩院 0000_,20,592a17(00):華頂宮門主を奏請せる動機は。言ふまでもなく天 0000_,20,592b18(00):台眞言等の諸宗の例に倣ひ。彼等と拮抗して知恩院 0000_,20,592b19(00):の威嚴を高め。延いて一宗の光榮を縱にするにあ 0000_,20,592b20(00):り。山門通規には此の動機を露骨に陳べて次ぎの如 0000_,20,592b21(00):く云へり。知恩院被立置宮門跡候事知恩院滿譽 0000_,20,592b22(00):僧正之時權現樣爲御意諸宗皆宮門跡云事有之故 0000_,20,592b23(00):物氣高見へ候間淨土宗宮門跡可被立置被仰候 0000_,20,592b24(00):得者僧正御諚難有旨御請候云云と。之れが東照公 0000_,20,592b25(00):の發意なるや。或ひは滿譽の發意にて。東照公に奏 0000_,20,592b26(00):請を請願したるものなるや容易に斷言すべからず。 0000_,20,592b27(00):而してかかる希望は。元和元年よりも遙以前に在り 0000_,20,592b28(00):しも。是れが實現せられしは元和元年にあり。 0000_,20,592b29(00):後陽成天皇第八皇子直輔親王が。知恩院に入寺得 0000_,20,592b30(00):度し給ひしは。條目制定後五年。即ち元和五年九月 0000_,20,592b31(00):十七日なり。入寺五年前に知恩院宮設定を條目に揭 0000_,20,592b32(00):くるは稍や潜越の觀あれども。恰かも該條目裁可の 0000_,20,592b33(00):前月。即ち元和元年六月。八宮は十二歳を以つて東 0000_,20,592b34(00):照公の猶子に降下せられ。其の猶子とせられたるは 0000_,20,593a01(00):畢竟知恩院宮たらしめんがためなりしかば。必らず 0000_,20,593a02(00):しも僣越の處置とも云ふべからず。 0000_,20,593a03(00):元和五年直輔親王知恩院に入寺したまひ。滿譽尊 0000_,20,593a04(00):照に就き出家得度し。良純法親王と號し。門主と成 0000_,20,593a05(00):りたまふや。幕府は門跡料として千四十五石餘を寄 0000_,20,593a06(00):附したり。親王知恩院に在すこと二十五年なりし 0000_,20,593a07(00):が。寬永二十年十一月十一日。事故ありて甲斐國天目 0000_,20,593a08(00):山に謫遷せられ。萬治二年六月歸洛したまひしも。 0000_,20,593a09(00):泉涌寺中新善光寺に住し。寬文九年八月一日。北野 0000_,20,593a10(00):に薨じ玉ひ泉涌寺に葬り。知恩院とは關係なかりし 0000_,20,593a11(00):も。明和五年八月百年の御忌に當り。本位に復し無礙 0000_,20,593a12(00):光院宮と號す。良純親王退位の後十三年間空位なり 0000_,20,593a13(00):しが。明曆二年五月五日。後水尾院の皇子榮宮良賢 0000_,20,593a14(00):親王。知恩院に入り時の住持舊應に就き。得度出家 0000_,20,593a15(00):して尊光法親王と號したまひしが。延寶八年正月六 0000_,20,593a16(00):日薨御したまひ。一心院に葬り奉る。其のち二十八 0000_,20,593a17(00):年を經て。寶永四年六月十三日。靈元上皇皇子岡宮 0000_,20,593b18(00):良邦親王知恩院に入り。時の住持圓理に就き得度し 0000_,20,593b19(00):尊統法親王と號せしが。正德元年五月十八日入寂し 0000_,20,593b20(00):たまひ。後ち十六年を經て。享保十二年三月十九 0000_,20,593b21(00):日。靈元上皇の皇子悅宮榮貞親王入りて。ときの住 0000_,20,593b22(00):職了鑑に就き得度したまひ。尊胤法親王と號せし 0000_,20,593b23(00):が。元文四年十二月二十一日を以て入寂したまひ 0000_,20,593b24(00):て。後ち十五年を經て寶曆四年八月二十五日。櫻町 0000_,20,593b25(00):天皇皇子富貴宮和義親王入りて。ときの住職大僧正 0000_,20,593b26(00):了風に就き受戒したまひ。尊峰法親王と號す。親王天 0000_,20,593b27(00):明八年八月二十一日寂したまひてより二十二年を經 0000_,20,593b28(00):て。文化七年九月二十七日。光格天皇皇子(實は有 0000_,20,593b29(00):栖川織仁親王王子)種宮福道親王。入りて大僧正在 0000_,20,593b30(00):心に就き受戒したまひ。尊超法親王と號す。嘉永五 0000_,20,593b31(00):年八月二十一日(實は七月七日)寂したまふ。其の 0000_,20,593b32(00):後ち八年を經て萬延元年十二月。伏見宮一品邦家親 0000_,20,593b33(00):王第十二王子隆宮博經親王。大僧正淨嚴に就き受戒 0000_,20,593b34(00):し。尊秀法親王と號せしが。慶應三年十二月。復飾 0000_,20,594a01(00):して華頂宮と號したまひ。知恩院宮玆に廢絶す。宮 0000_,20,594a02(00):門跡は。知恩院正住職にして。また淨土門主なれ 0000_,20,594a03(00):ば。一宗の統領首腦に在はせども。實際の權力は關 0000_,20,594a04(00):東總錄所の占有するところなるのみならず。知恩院 0000_,20,594a05(00):が有する實權實務も。元和條目第一條に規定せる如 0000_,20,594a06(00):く。脇住持の掌中にありて。唯だ重要なる法會の導 0000_,20,594a07(00):師として大殿に出勤し。參詣の男女に十念を授與し 0000_,20,594a08(00):たまふのみ。また幕府の供給せる經費も。甚だ輕少 0000_,20,594a09(00):なりしかば常に不足勝なり。ゆゑに近古領帽許可の 0000_,20,594a10(00):制を設け。其の報謝を以つて宮の經費の不足を補ひ 0000_,20,594a11(00):たりと云ふ。 0000_,20,594a12(00):かく宮門跡は。淨土門主にして一宗の統領たるの 0000_,20,594a13(00):みならず。又知恩院の正住職にして。從來の住職は 0000_,20,594a14(00):脇住持と稱し。門主補佐の副住職に過ぎざるの觀あ 0000_,20,594a15(00):れども。知恩院に於ける實際の事務。即ち引導佛事 0000_,20,594a16(00):等は總て此の脇住職の司どる所なるのみならず。世 0000_,20,594a17(00):世の門主は何れも時の住職に就き受戒せられ。法門 0000_,20,594b18(00):の上に於いては弟子なるが故に。實際の權力は却つ 0000_,20,594b19(00):て副住職にありしなり。 0000_,20,594b20(00):滿譽尊照は。知恩院中興の碩德として。僧正法印 0000_,20,594b21(00):に叙せられしも。大僧正に非らざりしが如し。然る 0000_,20,594b22(00):に寶永四年九月三日四十三代應譽圓理の大僧正に叙 0000_,20,594b23(00):せられてより。二三の例を除き。歷代の住職大僧正 0000_,20,594b24(00):に叙せられ。緋衣を被着し。宗の内外に於ける名譽 0000_,20,594b25(00):無比なりしも。之を增上寺の住職に比するに。京都 0000_,20,594b26(00):公卿の江戸大老に對する如く。其の實際の權力威望 0000_,20,594b27(00):到底同日の談に非らず。故に礫鎌兩山より知恩院に 0000_,20,594b28(00):轉昇する者は。之れを謫還として嫌忌したりと云 0000_,20,594b29(00):ふ。 0000_,20,594b30(00):又知恩院通常の事務は。元和條目第二條に規定せ 0000_,20,594b31(00):る如く。京都門中に於ける法器量優越せる者六人 0000_,20,594b32(00):を選び。之れを六役或六老僧と稱し。此等と山内塔 0000_,20,594b33(00):頭の役者兩人との司管する所なり。 0000_,20,594b34(00):知恩院に於て取扱へる事務の最重大なるものは。 0000_,20,595a01(00):言ふまでもなく香衣綸旨の執奏なり。之が執奏には 0000_,20,595a02(00):檀林錄所の副狀を要せしが故に。他の三本山に對し 0000_,20,595a03(00):ては其が特權なかりしも。檀林錄所に對して單に取 0000_,20,595a04(00):次の器械的事務なりき。然れども享保十二年以前は 0000_,20,595a05(00):なほ開衣式と云ふこと知恩院に行はれ。縱令綸旨頂戴 0000_,20,595a06(00):の者と雖とも。上京して此式に列せざる者は。香衣 0000_,20,595a07(00):の被着を禁ぜられしが故に。宗侶をして一度は必ず 0000_,20,595a08(00):祖山に參詣して祖德を仰ぎ。總本山の尊嚴を感ぜし 0000_,20,595a09(00):むるの好機會なりしが。時世の推移變遷は之すらも 0000_,20,595a10(00):廢せざるべからざるに至れり。享保十二年改格の令 0000_,20,595a11(00):(九)により開衣式は廢せられ。宗侶は綸旨頂戴と共 0000_,20,595a12(00):に直ちに香衣被着を許され。又態京都に赴くの要な 0000_,20,595a13(00):きに至れり。 0000_,20,595a14(00):又淨土宗の寺院は。渾て總本山の末寺なれば。住職 0000_,20,595a15(00):交替の際には上洛して祖廟を拜し。又本山に挨拶す 0000_,20,595a16(00):べきを要求したることは。享保七年の法度(八)第七條。 0000_,20,595a17(00):及享保十二年の定書(九)の四五條に見るべきも。之れ 0000_,20,595b18(00):が全體に亘りて實行せられたりや否やは疑問なり。 0000_,20,595b19(00):其の外。元和條目第廿三條に規定せる。白旗流義 0000_,20,595b20(00):の諸國の末寺は。其大小に隨ひ報謝錢を集め調べ。 0000_,20,595b21(00):三箇年に一度づづ使僧を以つて祖師の影前に備ふべ 0000_,20,595b22(00):しとの定の如き。以つて知恩院の收入の一部に資す 0000_,20,595b23(00):るの考も多少含まれしに相違なきも。主として祖廟 0000_,20,595b24(00):を中心として宗侶の信仰統一を計るにありしこと疑を 0000_,20,595b25(00):容れず。然れども之れが果して關東にまで及び得し 0000_,20,595b26(00):やは疑問なり。 0000_,20,595b27(00):二 總錄所 0000_,20,595b28(00):德川時代に一宗の樞機を握り宗務を處理せる役所 0000_,20,595b29(00):即ち宗務所は。總錄所或ひは單に錄所と呼ばれぬ。 0000_,20,595b30(00):本宗の總錄所は關東十八檀林の首座たる增上寺にし 0000_,20,595b31(00):て。縁山貫主は實に其の總裁たり。此の總裁を輔翼 0000_,20,595b32(00):するものは檀林能化會議にして。事務の執行者は增 0000_,20,595b33(00):上寺役者なりき。 0000_,20,595b34(00):增上寺が一宗の總錄所たりしことは。別に幕府の 0000_,20,596a01(00):命に依れるにもあらず。又一宗門末の決議推擧によ 0000_,20,596a02(00):れるにもあらず。然れども同寺と德川氏との師檀關 0000_,20,596a03(00):係と。觀智國師並に其門下の實際的活動は。增上寺 0000_,20,596a04(00):をして自然に此位置を贏ちえしめたるものの如 0000_,20,596a05(00):し。 0000_,20,596a06(00):總錄所に於て取扱ふ主要なる事務は。(一)幕府の制 0000_,20,596a07(00):令を一宗寺院所化に傳達し。一宗に關する調査諮詢 0000_,20,596a08(00):に答申し。(二)宗門の政府に對する。請願伺屆等を傳 0000_,20,596a09(00):達周旋し。(三)法度制定の實行遵守を督勵し。必要に 0000_,20,596a10(00):應じ定書等を發布して一宗の秩序を維持し。(四)檀林 0000_,20,596a11(00):所化の名薄を整理し。進退黜陟を司り。(五)香衣綸旨 0000_,20,596a12(00):奏請に副狀を與へ。(六)本山檀林紫衣地由緖地格寺の 0000_,20,596a13(00):住職を推薦。或は任命する等なり。 0000_,20,596a14(00):此れ等の事務は增上寺方丈の總裁監督の下に行は 0000_,20,596a15(00):れしも。實際に事を執りしは月行事十二僧。山内寺 0000_,20,596a16(00):家役者兩名。所化役者兩名の司さどる所にして。就 0000_,20,596a17(00):中所化役者は最も其の要衝を占めたり。役者には三 0000_,20,596b18(00):席以上にして學問並びに才能の優秀なる者を選拔し 0000_,20,596b19(00):て之れに任ぜられ。普通の事務は概ね其の獨斷專行 0000_,20,596b20(00):する所なりき。彼等の權力強大にして種種の專恣な 0000_,20,596b21(00):る處置をなすに至りたることは。所化役者を勤めた 0000_,20,596b22(00):る者は。引込紫衣地に推薦せられざる内規を設け。 0000_,20,596b23(00):文化年中脇坂寺社奉行の爲め糺斷せられたりとの後 0000_,20,596b24(00):の記事に徴しても其の一端を窺ふべし。 0000_,20,596b25(00):慣例の變更。制度の新定。幕府よりの重大なる諮 0000_,20,596b26(00):詢ありたる際は勿論。常務に關し警告を與へ。建議 0000_,20,596b27(00):をなし。香衣檀林住職候補者を選定するは。檀林能 0000_,20,596b28(00):化會議の職權なりき。通常檀林會議は。貞享二年の 0000_,20,596b29(00):法度(三)定書第一條第二條及覺書第一條に示す如 0000_,20,596b30(00):く。毎年正月六日には檀林能化達が江戸城に參賀す 0000_,20,596b31(00):るの機會を利用して。正月八日增上寺に集合開催 0000_,20,596b32(00):す。之れを正八の會評と呼ぶ。此の定期會には通常 0000_,20,596b33(00):一宗僧侶の風儀。並びに制度法式の運用に關する事 0000_,20,596b34(00):柄を評議し。又香衣檀林住職の候補者の投票をなす 0000_,20,597a01(00):に止りしが。時として役者より提出する重要なる案 0000_,20,597a02(00):件を討議せることあり。即ち宗規の變更新定の如き 0000_,20,597a03(00):は。いづれも此の會議の決定を要し。重要なる決議 0000_,20,597a04(00):には。出席の能化夫夫に署名調印することを例とせ 0000_,20,597a05(00):り。尚ほ事件の重大にして且迅速を要し。定期會を 0000_,20,597a06(00):俟つを許ささる場合には。臨時に之れを招集せるこ 0000_,20,597a07(00):とも少からず。 0000_,20,597a08(00):檀林の所化衆に關する事務は。月行事の月番之れ 0000_,20,597a09(00):を擔當せり。即ち上よりの布令は月行事より概ねこ 0000_,20,597a10(00):れを谷頭に達し。谷頭より學寮主に觸れ。學寮主之 0000_,20,597a11(00):れを其の同菴に沙汰し。下よりする願屆書等は。學 0000_,20,597a12(00):寮主の手を經て谷頭を通じて月行事に至るを例と 0000_,20,597a13(00):し。寺院門末に對するものは。諸國に觸頭の寺院あ 0000_,20,597a14(00):りて。錄所より之れに布達し。觸頭より一般に傳達 0000_,20,597a15(00):し。又一般寺院より願屆等は。觸頭の手を經て錄所 0000_,20,597a16(00):に致されたり。 0000_,20,597a17(00): 0000_,20,597b18(00):第四章 寺院 0000_,20,597b19(00): 0000_,20,597b20(00):『跡を一廟に占むれば遺法あまねからず。念佛を修 0000_,20,597b21(00):せん所は貴賤を論ぜず。海人漁人が苫屋までも。み 0000_,20,597b22(00):なこれ予が遺跡なるべし』と宣言せられたる宗祖 0000_,20,597b23(00):は。一生の行跡に徴しても非伽藍主義の人なるが如 0000_,20,597b24(00):し。然れども遺弟思慕の情は其のままに止むべきに 0000_,20,597b25(00):非らずして。知恩院・百萬遍・黑谷・誕生寺等は祖 0000_,20,597b26(00):跡として又布敎傳道の依處の必要よりして漸次建興 0000_,20,597b27(00):せられ。筑後善導寺・鎌倉光明寺・瓜連常福寺・江 0000_,20,597b28(00):戸增上寺等も歷代祖師の弘法の道場として次第に 0000_,20,597b29(00):草剏せられ。其の他諸處に護法扶宗の諸高德の盡力 0000_,20,597b30(00):により。本宗寺院は徐徐に其の數を增加し。足利末 0000_,20,597b31(00):葉時代には數百には及びたるが如し。然れども德 0000_,20,597b32(00):川以前に於ては此れ等著名の寺院も。諸宗の其れに 0000_,20,597b33(00):較ぶれば洵に微弱なるを免かれず。其の他の寺院に 0000_,20,597b34(00):至りては概むね堂菴に過ぎざりしが。德川時代に至 0000_,20,598a01(00):り幕府の保護により。上の諸寺院は孰れも規模を擴 0000_,20,598a02(00):張し。堂宇を輪奐にしたるのみならず。德川氏は自 0000_,20,598a03(00):家祖先の香華院として。新に大藍巨刹を創立し。又 0000_,20,598a04(00):親藩及び譜代の國主大名も宗家に倣ひ。菩提所とし 0000_,20,598a05(00):て各城下に本宗寺院を建設するもの多く。上の爲す 0000_,20,598a06(00):ところに倣ひ一般民衆も本宗に歸依するもの多く。 0000_,20,598a07(00):都鄙到處に舊地を復興し。新寺を創立したるを以つ 0000_,20,598a08(00):て。其の數に於いても前代に十數倍するに至れり。 0000_,20,598a09(00):實に現今全國に碁列する本宗寺院の大多數は。殆ん 0000_,20,598a10(00):ど此の時代に至りて建立せられたるものなり。斯く 0000_,20,598a11(00):本宗寺院が本期に入りて頓に增加し且つ擴大せられ 0000_,20,598a12(00):たるは。德川氏の愛護と。其れに因つく社會一般の 0000_,20,598a13(00):信用に俟つこと多きは勿論なるも。此の機運に際會 0000_,20,598a14(00):して熱心に活動したる諸高僧の事業は。更に之れが 0000_,20,598a15(00):大なる原因をなせることを忘るべからず。新寺建立 0000_,20,598a16(00):は元和條目第十五條に。大小之新寺爲私不可致建立 0000_,20,598a17(00):事とあるも。元和以後寬永末年までは盛に建立せら 0000_,20,598b18(00):れ。其後も種種の理由を申立て續續建立せられた 0000_,20,598b19(00):り。 0000_,20,598b20(00):此れ等の寺院は之れを本末關係により分類すれば 0000_,20,598b21(00):本山(或は本寺と云ふ)と末寺(或は末山末院とも 0000_,20,598b22(00):云ふ)との二種となるも。本山には總本山(京都知 0000_,20,598b23(00):恩院)。本山(京都知恩寺。金戒光明寺。淨華院)。中 0000_,20,598b24(00):本寺。小本寺等の數種あり。中小本寺は上の二本山 0000_,20,598b25(00):に對すれば末寺に過ぎざれども。其の下に多數或は 0000_,20,598b26(00):若干の末寺を有するがゆえに。此れ等末寺に對して 0000_,20,598b27(00):本寺或は本山と稱す。本山にかく數種あるが故に。 0000_,20,598b28(00):末寺にも之れに對する關係よりして直末(總本山或 0000_,20,598b29(00):は本山末)。孫末(或は又末と云ふ、直末の末寺な 0000_,20,598b30(00):り)。曾孫末(孫末の末寺なり)等の別あり。又客末 0000_,20,598b31(00):と稱し本山に於いて普通末寺とは特別の待遇をなす 0000_,20,598b32(00):ものあり。又無本寺とて何れの本山にも隷屬せざる 0000_,20,598b33(00):ものあり。京都一心院・法然寺・松林寺・河内來迎 0000_,20,598b34(00):寺・堺大阿彌陀經寺等の如き是なり 0000_,20,599a01(00):又寺格により之れを區別すれば本山・檀林・紫衣 0000_,20,599a02(00):地・別格寺・能分地・西堂地・平僧寺・塔頭となす 0000_,20,599a03(00):をうべし。而して此れ等は孰れも官僧地と稱し。正 0000_,20,599a04(00):色衣を被着する寺院なるも。此れ等官僧地のほか 0000_,20,599a05(00):に。非正色の衣を着し。寺格に關せざる捨世地。律 0000_,20,599a06(00):院なるものあり。今此の區分に從ひ。本期に於ける 0000_,20,599a07(00):寺院の概略を述ぶべし。 0000_,20,599a08(00):一 本山 0000_,20,599a09(00):本山には總本山と單に本山との二種あり。總本山 0000_,20,599a10(00):は知恩院にして。本山は知恩寺。金戒光明寺。淨華院 0000_,20,599a11(00):の三箇寺なり。或は知恩院の總本山たるに對して。 0000_,20,599a12(00):三山或は三箇山と稱することあり。 0000_,20,599a13(00):知恩院は宗祖入滅の地にして一時遺骸を葬られし 0000_,20,599a14(00):所なれば。之を一宗の總本山とするは強ち理由なき 0000_,20,599a15(00):ことにあらずと雖も。嘉祿三年遺骸の他に移され。安 0000_,20,599a16(00):貞二年之が荼毘せられ分骨せらるるに及びては。廟 0000_,20,599a17(00):所は諸所に搆へられ。本所に關して多少歸趨に迷は 0000_,20,599b18(00):せしむる傾なきに非ず。加之祖跡を相續したる勢觀 0000_,20,599b19(00):房源智は。大谷禪房並に加茂河原屋の兩所に住した 0000_,20,599b20(00):るが故に。兩所によりて起れる知恩院と知恩寺と 0000_,20,599b21(00):は。往往住職を同くしたるも。兩者本末の爭は漸次 0000_,20,599b22(00):激烈となれり。即大譽慶竺は兩者兼管したる一人な 0000_,20,599b23(00):るが。而も知恩院よりも知恩寺に勢力を傾けしため 0000_,20,599b24(00):か。嘉吉三年正月十一日。知恩寺を以て淨土宗第一 0000_,20,599b25(00):となすの敕旨を賜ひ。香衣を大譽に賜ひ。且宗侶の 0000_,20,599b26(00):香衣綸旨の執奏も同寺よりするの例を開きたりと云 0000_,20,599b27(00):ふ。大譽の後。善譽。法譽等相繼ぎて朝廷の歸信厚 0000_,20,599b28(00):かりしかば。一時は知恩寺は知恩院を凌駕し。却て 0000_,20,599b29(00):總本山たるの形勢を呈せしが。知恩院に於ても前述 0000_,20,599b30(00):の如く。周譽・勢譽・肇譽・超譽等相繼ぎて關東三 0000_,20,599b31(00):河より晋山し。孜孜興隆に黽めたるを以て。容易に 0000_,20,599b32(00):彼が下風に立つを肯んぜず。爲に朝廷將軍家の葬儀 0000_,20,599b33(00):法會等の際には。諷經の席次の上下。納經の前後を 0000_,20,599b34(00):諍ひて相降らず。朝廷將軍家を勞したること一再に留 0000_,20,600a01(00):らず。此爭は大永元年正月。超譽が知恩院に住し。 0000_,20,600a02(00):同年七月傳譽慶秀が八幡正法寺より知恩寺に晉山す 0000_,20,600a03(00):るに及びて一層激烈となれり。大永三年遂に敕裁を 0000_,20,600a04(00):仰ぎしに。朝廷には知恩寺の主張を是とし。知恩院 0000_,20,600a05(00):を以て知恩寺の別院となすべき敕宣を下したまへ 0000_,20,600a06(00):り。於是靑蓮院尊鎭法親王は朝廷に抗議したまひし 0000_,20,600a07(00):も。其議の用ゐられざるを以て。高野に隱遁したま 0000_,20,600a08(00):ひ。山門の大衆は其敕宣の撤回を囂訴せしにより。 0000_,20,600a09(00):前の敕裁は取消され。兩寺の爭議は依然として繼續 0000_,20,600a10(00):し。香衣綸旨は兩寺並に黑谷。淨華院よりも執奏せ 0000_,20,600a11(00):り。 0000_,20,600a12(00):天正三年九月廿五日。正親町天皇知恩院浩譽に綸 0000_,20,600a13(00):旨を賜ふ中に。『自今以後門侶の香衣執奏は知恩院に 0000_,20,600a14(00):依らるべく他山よりするものは破毀すべし』との言 0000_,20,600a15(00):葉あり。是を破毀綸旨と稱す。是により多年の本末 0000_,20,600a16(00):問題も略ぼ決定せられたるが如きも。内密には綸旨 0000_,20,600a17(00):は他三山よりも尚行はれたり。 0000_,20,600b18(00):德川氏の勃興するに及び。知恩院は超譽以來の關 0000_,20,600b19(00):係を辿り。滿譽は頻りに家康に依賴し。寺域を擴め 0000_,20,600b20(00):伽藍を完備し。剩へ宮門跡を請置せらるるに及び。 0000_,20,600b21(00):全く總本山たるの資格を具備し。一宗に號令するの 0000_,20,600b22(00):形勢をなせり。宮門跡は知恩院の正住職にして。一 0000_,20,600b23(00):宗の門主統領に在せしと雖も。實務は從來の住職即 0000_,20,600b24(00):協住持の取扱ひしことは上に述べし所の如し。增上寺 0000_,20,600b25(00):は一宗の總錄所として實權を握りしが。知恩院は總 0000_,20,600b26(00):本山として一宗信仰の中心たり。はた香衣綸旨の執 0000_,20,600b27(00):奏所として名譽の源泉たり。加之第四十三世應譽圓 0000_,20,600b28(00):理が大僧正に任ぜられて以後。代代多く大僧正に任 0000_,20,600b29(00):ぜられ緋衣を着して。增上寺と共に一宗最高名譽の 0000_,20,600b30(00):地たりき。又朱印も七百三十石餘を與へられ。三山 0000_,20,600b31(00):と同日の比にあらざりしかば。名聞利養遙に三箇山 0000_,20,600b32(00):の上にありしなり。 0000_,20,600b33(00):德川時代に於ては。三箇本山中知恩寺は最も冷遇 0000_,20,600b34(00):せられたり。朱印の石高を見るに。知恩寺三拾石。 0000_,20,601a01(00):金戒光明寺百三拾石。淨華院五拾石なり。是前代の 0000_,20,601a02(00):反動として。知恩院の爲に壓迫せられたるにもよる 0000_,20,601a03(00):べく。又住職者に手腕家を缺きしも其一因たらずん 0000_,20,601a04(00):ばあらず。變遷の際幡隨意の彼寺に住せしも。期間短 0000_,20,601a05(00):かくして事を成すの遑なく。光譽滿靈が慶安二年に 0000_,20,601a06(00):晋山せしも。幕府完成の後なれば時既に遲くして手 0000_,20,601a07(00):腕を振ふの餘地なく。其道德により辛く現在の伽藍 0000_,20,601a08(00):を完成しえたるのみ。 0000_,20,601a09(00):金戒光明寺は。三山中最も幸運なりき。第廿六世 0000_,20,601a10(00):琴譽盛林は豐臣秀賴の歸依を得て。慶長十四年御影 0000_,20,601a11(00):堂並殿宇を再建し。又東照公の信任をえたるが故 0000_,20,601a12(00):に。藝州生口光明三昧院安置の宗祖の像を遷座し。寺 0000_,20,601a13(00):模を振興したりしが。次で元和二年桑譽了的來り住 0000_,20,601a14(00):す。彼は觀智國師の愛弟にして。且東照公の寵愛を 0000_,20,601a15(00):えたる人なり。其黑谷本山に有利なりしこと言を俟た 0000_,20,601a16(00):ず。此二代によりて黑谷は三山中伽藍も最完備し。 0000_,20,601a17(00):朱印石高も最多かりしなり。 0000_,20,601b18(00):淨華院は。伽藍に於ては三山中最小なれとも。朝 0000_,20,601b19(00):廷の内道場として特別の光輝を放てり。加之其構の 0000_,20,601b20(00):小なるに比して朱印石高も少からざれば。黑谷には 0000_,20,601b21(00):及ばざるも百萬遍に比べて安樂なりしこと明なり。 0000_,20,601b22(00):二 檀林 0000_,20,601b23(00):宗門學生の養成所即學校を檀林と稱せり。檀林詳 0000_,20,601b24(00):しくは栴檀林と云ふ。栴檀は香木にして善人德者に 0000_,20,601b25(00):譬喩せらるること諸經論に散見す。法將常に獅子吼攝 0000_,20,601b26(00):化し。雲衲負笈して輻湊する所なり。盖此に群集す 0000_,20,601b27(00):る衲子中には將來法龍義虎の雛子を包有し。雙葉既 0000_,20,601b28(00):に馨香芬烈たること恰も。栴檀の伊蘭林中に於けるが 0000_,20,601b29(00):如しとの譬に取れるなり。故に冏師十八通下(十二 0000_,20,601b30(00):七五九下)に請願淨土檀林衆努力莫殘無手愁と云ひ。 0000_,20,601b31(00):聖聰曼陀羅疏二十二(十三五五八下)に我等幸吉水正流 0000_,20,601b32(00):檀林末葉也と。以て冏聰二師の時既にこの稱呼の使 0000_,20,601b33(00):用せられしを見るべし。 0000_,20,601b34(00):然れども本宗叢林には。古來檀林の外尚一の稱呼 0000_,20,602a01(00):あり。談所或は談義所是なり。蓋講義法談所の意に 0000_,20,602a02(00):して。三祖の福岡。飯岡の談所。冏師の橫曾根の談 0000_,20,602a03(00):所。藤田性心の秩父水沼の談所。名越妙觀の矢目談 0000_,20,602a04(00):所。同聖觀の楢葉談所の如し。而して談所或は談義所 0000_,20,602a05(00):の方が。檀林よりも遙かに古く。且廣く使用せられ 0000_,20,602a06(00):たる稱呼たりしを知るべし。想ふに本宗に於て檀林 0000_,20,602a07(00):の稱呼が行はるるに至りし縁由は不明なるも。恐ら 0000_,20,602a08(00):くは談所が檀所と成り。遂に檀林と成りしものなら 0000_,20,602a09(00):ん。此等の稱呼は後世屢屢混用せられつつありて。 0000_,20,602a10(00):元和條目の如き嚴格なる文書にすら。檀林。談所。 0000_,20,602a11(00):談義所を併用せり。故に純粹檀林のみが使用せらる 0000_,20,602a12(00):るに至りしは。遙後世に屬するを知るべし。 0000_,20,602a13(00):其稱呼が示す如く。談所或は檀林は元來講義所に 0000_,20,602a14(00):して。一宗碩學の留錫せらるる所。學徒群集して宗 0000_,20,602a15(00):餘乘の講莚開設せられ。其久しきに及びて遂に一個 0000_,20,602a16(00):の僧伽藍を欝成したる者にして。最初よりの大地寺 0000_,20,602a17(00):院に非りしなり。關東十八箇寺は正に此意義に於け 0000_,20,602b18(00):る檀林たりしのみならず。元和條目第七條に規定せ 0000_,20,602b19(00):らるる常法幢なり。後此稱呼使用の範圍を擴張し。紫 0000_,20,602b20(00):衣永宣旨を賜はり。莫大の朱印を有する或大寺院を 0000_,20,602b21(00):も檀林と呼び。又十八檀林を出世檀林と稱するに對 0000_,20,602b22(00):して。引込檀林と呼べり。然れども這は檀林の名稱を 0000_,20,602b23(00):擴充したるものにして。本義に非ること勿論なり。又 0000_,20,602b24(00):十八檀林と其目的性質を同うして而も別の取扱を受 0000_,20,602b25(00):けたる者あり。即名越檀林是なり。名越檀林とは岩 0000_,20,602b26(00):城專稱寺。大澤圓通寺の兩所にして。名越一派の學徒 0000_,20,602b27(00):養成所たり。 0000_,20,602b28(00):關東十八檀林の員數を十八に定めたる理由とし 0000_,20,602b29(00):て。鎭流祖傳八(十七五〇〇上)には象王誓之員而乃 0000_,20,602b30(00):選定一十八檀林と云ひ淨宗護國篇(十七六一〇上)には 0000_,20,602b31(00):公姓十八公而資治國之法乎十八願王中略必建精 0000_,20,602b32(00):舍十八區永爲叢林多育英才以爲法運無窮之 0000_,20,602b33(00):謀也中略果於武總野等數州開創淨宗敎黌者凡 0000_,20,602b34(00):十八所今世呼謂十八檀林者是也此葢表示家姓十 0000_,20,603a01(00):八公云云と。即ち彌陀王本願の第十八位に相當す 0000_,20,603a02(00):るを以て其の十八を取り。又德川氏の本姓松平の松 0000_,20,603a03(00):字を解剖すれば十八公と成るを以て其十八に取ると 0000_,20,603a04(00):云ふにあり。十八檀林定立の年時は或は慶長七年と 0000_,20,603a05(00):云ひ。或は元和元年と云ひ確ならざるも。最初は十 0000_,20,603a06(00):八の員數を定めたるのみにして。此員數が滿たされ 0000_,20,603a07(00):しことは寬永元年靈巖寺創立以後のことに屬し。又此 0000_,20,603a08(00):員數が常に滿されざりしことは。寬永三年より貞享二 0000_,20,603a09(00):年まで六十年間。靈山寺法幢中絶したるによりて知 0000_,20,603a10(00):るべし。併指定せられたる檀林以外。別に私に檀林 0000_,20,603a11(00):& 0000_,20,603b12(00):を許されざりしことは。元和條目第七條に。非古來之 0000_,20,603b13(00):學席者私不可建常法幢事とあるに徴して明な 0000_,20,603b14(00):り。又關東十八檀林の配置に關し。檀林誌江戸崎志 0000_,20,603b15(00):(第十九卷)に。東照公が諸侯監視の爲にせるものな 0000_,20,603b16(00):りと云ふもいかがにや。 0000_,20,603b17(00):十八檀林の員數及其指定は德川幕府の命によれる 0000_,20,603b18(00):ことは明なるも。其十八箇寺は必しも德川時代の創立 0000_,20,603b19(00):に非ずして。多くは在來の舊地古跡を復興擴張した 0000_,20,603b20(00):るものなり。今此等十八檀林を草創の年代により次 0000_,20,603b21(00):第に配列すれば左の如し。 0000_,20,603b22(00):地名 開山 開創年 0000_,20,603b23(00):一、鎌 倉 天照山蓮華院光明寺 然阿良忠 寬元元年(?) 0000_,20,603b24(00):二、鴻 巢 天照山良忠院勝願寺 然阿良忠 建長四年(?) 0000_,20,603b25(00):三、瓜 連 草地山蓮華院常福寺 成阿了實 延文三年 0000_,20,603b26(00):四、芝 三縁山廣度院增上寺 酉譽聖聰 明德四年 0000_,20,603b27(00):五、飯 沼 壽龜山天樹院弘經寺 歎譽良肇 應永二十一年 0000_,20,603b28(00):六、小 金 佛法山一乘院東漸寺 經譽淸運 文明十三年 0000_,20,604a01(00):七、生 實 龍澤山玄忠院大巖寺 道譽貞把 天文二十二年 0000_,20,604a02(00):八、川 越 孤峯山寶池院蓮馨寺 感譽存貞 永祿元年 0000_,20,604a03(00):九、八王子 觀池山往生院大善寺 讚譽牛秀 天正十三年 0000_,20,604a04(00):一〇、岩 槻 佛眼山英隆院淨國寺 總譽淸巖 天正十五年 0000_,20,604a05(00):一一、江戸崎 正定山智光院大念寺 源譽慶巖 天正十九年 0000_,20,604a06(00):一二、舘 林 終南山見性院善導寺 智譽幡隨 天正十九年 0000_,20,604a07(00):一三、結 城 壽龜山楞嚴院弘經寺 檀譽存把 文祿四年 0000_,20,604a08(00):一四、本 所 常在山二尊敎院靈山寺 專譽大超 慶長六年 0000_,20,604a09(00):一五、下 谷 神田山幡隨院新知恩寺 智譽幡隨 慶長九年 0000_,20,604a10(00):一六、礫 川 無量山傳通院壽經寺 正譽廓山 慶長十三年 0000_,20,604a11(00):一七、新 田 義重山大光院新田寺 然譽呑龍 慶長十六年 0000_,20,604a12(00):一八、深 川 道本山東海院靈巖寺 雄譽靈巖 寬永元年 0000_,20,604a13(00):中に於て所在地は開創以來再轉或三轉せるもの少 0000_,20,604a14(00):からず。勝願寺が箕田より今地に、增上寺が貝塚より 0000_,20,604a15(00):芝に、東漸寺が根木内より小金に、靈巖寺か京橋よ 0000_,20,604a16(00):り深川に移りしが如く。大善寺が瀧山より慈根寺村 0000_,20,604a17(00):に移り更に八王子に轉じ。幡隨院が駿河台より湯島 0000_,20,604b18(00):& 0000_,20,604b19(00):に移り更に下谷に轉じたるが如き。又靈山寺が駿河 0000_,20,604b20(00):台より湯島淺草を經て本所に移轉せしが如き。一轉 0000_,20,604b21(00):再轉三轉せしものありと雖も、すべて最後現在の所 0000_,20,604b22(00):在地を擧ぐ。又開山に就きても善導寺は寂慧良曉と 0000_,20,604b23(00):し。傳通院は了譽聖冏とすれども、實際の開山は前 0000_,20,605a01(00):者は幡隨、後者は廓山なるが如し。又開創年時の如 0000_,20,605a02(00):きも傳説と事實と一致せざるものあり。光明寺。勝 0000_,20,605a03(00):願寺の如き是なり。此等は傳説に隨ひ疑點を附す。 0000_,20,605a04(00):其他異説あるもの多けれども。今は其一説を擧ぐる 0000_,20,605a05(00):のみ。前にも述べし如く。靈山寺は三世天嶺學德未 0000_,20,605a06(00):熟の爲學徒退散し。爾後適當なる能化をえざりしか 0000_,20,605a07(00):ば。寬永三年より六十年間法幢中絶せしが。貞享二 0000_,20,605a08(00):年十一月二十九日發布法度(三)により再興を允許せ 0000_,20,605a09(00):られたり。即第三條に淺草靈山寺爲檀林所之處 0000_,20,605a10(00):就令斷絶此度再興被仰付之條諸檀林如法式 0000_,20,605a11(00):可相勤事とあるこれなり。 0000_,20,605a12(00):十八檀林は。之を紫衣。香衣(或は黄衣とす)の 0000_,20,605a13(00):二種に大別す。常紫衣の宣旨を賜へるを紫衣檀林と 0000_,20,605a14(00):呼び。其他を總て香衣檀林とす。紫衣檀林は增上 0000_,20,605a15(00):寺。光明寺。傳通院。常福寺。弘經寺。大光院の五 0000_,20,605a16(00):箇寺なりしが。幕末に至り靈巖寺に紫衣を賜はりし 0000_,20,605a17(00):より六箇寺となれり。即光明寺は明應四年第八世觀 0000_,20,605b18(00):譽祐崇の代。增上寺は慶長十三年第十二世觀智國師 0000_,20,605b19(00):の代。大光院は元和八年開山然譽呑龍の代。傳通院 0000_,20,605b20(00):は同年開山正譽廓山の代。弘經寺は寬永十一年第十 0000_,20,605b21(00):一世南譽雪念代。常福寺は延寶四年第二十世淸譽林 0000_,20,605b22(00):作の代。靈巖寺は安政元年溫譽大宣の代に。夫夫紫衣 0000_,20,605b23(00):の永宣旨を賜へり。紫衣檀林の中。住職轉昇の順序 0000_,20,605b24(00):により。一命。再命。三命の別名を立ることあり。即常 0000_,20,605b25(00):福寺。弘經寺。大光院の三箇寺(靈巖寺は晩年にし 0000_,20,605b26(00):て幾もなく維新に入りしかば殆んど其數に加へず) 0000_,20,605b27(00):は。香衣檀林より初て轉昇すべき紫衣地なるが故 0000_,20,605b28(00):に。之を一命(或は一枚)或は初命紫衣地と云ひ。光明 0000_,20,605b29(00):寺。傳通院は一命紫衣地より轉昇すべき再度の紫衣 0000_,20,605b30(00):地なるか故に。再命紫衣地或は二命(或は二枚)紫衣 0000_,20,605b31(00):地と云ふ。增上寺(知恩院も同樣なれども檀林に非 0000_,20,605b32(00):れば今之を除く)は再命紫衣地より轉昇し紫衣地に 0000_,20,605b33(00):住する三回に及ぶ故に。三命(或は三枚)紫衣地と云 0000_,20,605b34(00):ふ。增上寺は三十二代貞譽了也が大僧正に補せられ 0000_,20,606a01(00):て以來。毎代大僧正に補せらるるを例とし緋衣を着 0000_,20,606a02(00):せしを以て。通途は紫衣檀林の中に算へざりしなる 0000_,20,606a03(00):べし。 0000_,20,606a04(00):檀林十八箇寺は。平等に傳法傳戒と。香衣綸旨添 0000_,20,606a05(00):狀との特權を有したりしが。上述の如く紫香の差別 0000_,20,606a06(00):あり。紫衣地中又一命再命三命の階級ありしのみな 0000_,20,606a07(00):らず。紫香の關係に於ては同等に位しながら。朱印 0000_,20,606a08(00):領地に多少あり。即左の如し。 0000_,20,606a09(00):增上寺 一萬七百四拾石 大巖寺 百石 0000_,20,606a10(00):傳通院 八百三拾石 勝願寺 三拾石 0000_,20,606a11(00):光明寺 百石永拾貫文 大念寺 五拾石 0000_,20,606a12(00):大光院 三百石 靈巖寺 五拾石 0000_,20,606a13(00):常福寺 百石 淨國寺 五拾石 0000_,20,606a14(00):弘經寺 百石 蓮馨寺 貳拾石 0000_,20,606a15(00):幡隨院 五拾石 靈山寺 五拾石 0000_,20,606a16(00):大善寺 拾石 弘經寺 五拾石 0000_,20,606a17(00):東漸寺 五拾石 善導寺 百石 0000_,20,606b18(00):這は舊來の所領と。德川氏に對する關係の親疎と。 0000_,20,606b19(00):檀林定立の際住職者の人物等の諸種の原因によるも 0000_,20,606b20(00):のの如し。 0000_,20,606b21(00):三 紫衣地 0000_,20,606b22(00):本宗紫衣地は、京都四箇本山。關東十八檀林の中 0000_,20,606b23(00):六箇寺(後に七箇寺)。及祖蹟由緖地として筑後善導 0000_,20,606b24(00):寺(元和九年三月十七日上譽大通代)。讃岐法然寺(延 0000_,20,606b25(00):寶三年閏四月廿四日)。堺旭蓮社。河内來迎寺(寶 0000_,20,606b26(00):永三年七月十六日)等あり。其他德川家の祖先及重 0000_,20,606b27(00):要なる靈位菩提所として。及支族の菩提所として。 0000_,20,606b28(00):常紫衣の宣旨を賜はりしもの甚多し。即三河國には 0000_,20,606b29(00):鴨田の大樹寺。松平の高月院。岩津の信光明寺。能 0000_,20,606b30(00):見の松應寺あり。駿河國駿府に寶臺院あり。尾張國 0000_,20,606b31(00):名古屋に建中寺あり。越前國福井に運正寺あり。紀 0000_,20,606b32(00):伊國和歌山に大智寺あり。江戸には西久保に天德 0000_,20,606b33(00):寺。淺草に誓願寺あり。孰れも德川氏の奏請により 0000_,20,606b34(00):紫衣の永宣旨を賜ひたり。 0000_,20,607a01(00):三河菩提所の中。松平高月院は。松平氏祖先親氏 0000_,20,607a02(00):泰親の菩提所たるのみならず。德川氏發祥地所在の 0000_,20,607a03(00):寺院として。德川氏の崇敬厚く、元祿十四年五月二 0000_,20,607a04(00):十一日宣旨を賜ふ。 0000_,20,607a05(00):岩津信光明寺は。泰親の子にして岩津城主たりし 0000_,20,607a06(00):信光の創建する所にして。其の墳寺たるが故に。寶 0000_,20,607a07(00):永三年十二日九日宣旨を賜ふ。大樹寺は信光の息親 0000_,20,607a08(00):忠の創立する所にして。親忠以後德川氏五世の香華 0000_,20,607a09(00):院として。家康の父廣忠の葬られしのみならず。寺 0000_,20,607a10(00):僧の家康を助け一向一揆等を擊退し其難を救ふこと一 0000_,20,607a11(00):再に止まらず。從て德川氏の崇敬は增上寺の上にあ 0000_,20,607a12(00):り。故に德川氏の奏請による紫衣永宣旨は此寺を以 0000_,20,607a13(00):て最初とす、即慶長十一年九月七日之を賜ふ。增上 0000_,20,607a14(00):寺は慶長十三年十一月十二日なり。松應寺は上の三 0000_,20,607a15(00):寺に比すれば其由緖甚薄く。只廣忠火葬の地なるに 0000_,20,607a16(00):よりて創立せられたるものにして。其紫衣の宣旨も 0000_,20,607a17(00):餘程後なるが如し。 0000_,20,607b18(00):駿府寶臺院は。二代將軍秀忠の生母寶臺院の香華 0000_,20,607b19(00):院なり。本鎌倉觀譽祐崇の開らく所に所にして龍泉 0000_,20,607b20(00):寺と號せしが。寬永五年五月十九日。三十三年忌正 0000_,20,607b21(00):當に際し敕使參向し贈位の宣命を讀み。且つ寺號を 0000_,20,607b22(00):今の如く改めて(院號を通稱とす)。常紫衣の綸旨を 0000_,20,607b23(00):賜ふ。故に大樹寺。傳通院に次ぎ尊崇せられたり。 0000_,20,607b24(00):福井運正寺は。家康の二男越前中納言秀康の香華 0000_,20,607b25(00):院なり。秀康は二代將軍秀忠の兄として威望あり。 0000_,20,607b26(00):幕府の待遇も尋常ならざりしが。慶長十二年閏四月 0000_,20,607b27(00):八日病て薨ずるや。始は其養家結城氏の宗旨たる曹 0000_,20,607b28(00):洞宗孝顯寺に葬りしも。東照公の命により知恩院滿 0000_,20,607b29(00):譽彼地に下り。改め葬儀を執行し。其埋葬地に一寺 0000_,20,607b30(00):を建立し。之を淨光院運正寺と號す。 0000_,20,607b31(00):名古屋建中寺は。尾張侯の香華院にして。慶安五 0000_,20,607b32(00):年五月。尾州侯光友が先考義直の爲に創建せる所に 0000_,20,607b33(00):して。結城弘經寺廓呑を請して開山となし。寺領五 0000_,20,607b34(00):百石を附す。同年六月廿二日廓呑參内して紫衣永宣 0000_,20,608a01(00):旨を賜ふ。 0000_,20,608a02(00):和歌山大智寺は。紀伊侯賴宣が寬永十一年台德院 0000_,20,608a03(00):の香華院として開創せる所にして。玄恕を以て開山 0000_,20,608a04(00):とす。 0000_,20,608a05(00):水戸侯は前國主武田萬千代の爲に。向山に淨鑑院 0000_,20,608a06(00):を營み。常福寺をして之を管せしめ。常福寺に紫衣 0000_,20,608a07(00):の永宣旨を奏請せられたるも。這は檀林中に數へた 0000_,20,608a08(00):れば今此に列せず。 0000_,20,608a09(00):以上諸種の紫衣寺の中。京都の知恩院を除きたる 0000_,20,608a10(00):三箇本山。及大樹寺。寶臺院。天德寺。誓願寺の七 0000_,20,608a11(00):箇寺を引込紫衣地。或は引込檀林と稱す。是れ紫衣 0000_,20,608a12(00):檀林の如く。香衣檀林能化より住職を任命せらるる 0000_,20,608a13(00):も。此に終局を告げ。紫衣檀林の如く進んで本山錄 0000_,20,608a14(00):所の住職たる能はざるを以てなり。 0000_,20,608a15(00):四 格寺 0000_,20,608a16(00):上に擧げし諸種寺院の外。入院の禮。年頭の禮等 0000_,20,608a17(00):に江戸城に於て。特別の待遇を與へられし寺院を格 0000_,20,608b18(00):寺と名く。即大廣間獨禮座。或は白書院に於て單獨 0000_,20,608b19(00):拜謁を許されし寺院は。寺格帳上によるに。江戸に 0000_,20,608b20(00):於ては目黑祐天寺。西久保大養寺。深川本誓寺(朱 0000_,20,608b21(00):印三拾石)(以上三箇寺は御内禮)。淺草西福寺(百 0000_,20,608b22(00):石)。深川雲光院(五拾石)。小石川無量院(貳拾石)。 0000_,20,608b23(00):芝西應寺戈石)。淺草淨念寺(三拾石)。同壽松院。 0000_,20,608b24(00):深川法禪寺。麴町栖岸院。同心法寺。駒込願行寺。 0000_,20,608b25(00):淺草龍寶寺(以上十一箇寺は御表獨禮)の十四箇にし 0000_,20,608b26(00):て。地方に於ては嵯峨淸凉寺(九拾七石)。尾州相應 0000_,20,608b27(00):寺。長崎大音寺。相州玉繩貞宗寺戈石)。武州熊谷熊 0000_,20,608b28(00):谷寺(三拾石)。上州高崎大信寺(百七石)。駿府花陽 0000_,20,608b29(00):院(三拾石)。遠州二俣淸瀧寺(五拾八石)。同橫須賀撰 0000_,20,608b30(00):要寺(六拾石)。同蒲西傳寺(八拾七石餘)。三州吉田 0000_,20,608b31(00):悟眞寺(八拾石)。上州白井源空寺(五拾石)。甲州尊 0000_,20,608b32(00):體寺(七石貳斗)。三州隨念寺(五拾石)。同御津大音 0000_,20,608b33(00):寺(百石)。此等の外大廣間惣御禮席に於て年頭の禮 0000_,20,608b34(00):を述べうる寺院は多數之ありしも。今之を擧ぐるに 0000_,20,609a01(00):遑あらず。此等高等寺院中。又番寺と稱するものあ 0000_,20,609a02(00):り。是其住職欠如の際には。檀林所化の内より順番 0000_,20,609a03(00):を以て任命住職せるを以てなり。 0000_,20,609a04(00):五 能分地、西堂地、平僧地、別當、塔頭 0000_,20,609a05(00):能分地とは能化分の住職すべき寺院の意にして。 0000_,20,609a06(00):引導布敎等をなす能化たる一分の資格ある者の住す 0000_,20,609a07(00):る寺院なり。故に此等寺院は兩脉璽書を相承し。香 0000_,20,609a08(00):衣綸旨頂戴の僧に非れば住職する能はず。故に廣く 0000_,20,609a09(00):云へば。檀林以外の西堂地。平僧地。塔頭を除きた 0000_,20,609a10(00):る一般寺院を含む筈なれども。本山。紫衣地。格寺 0000_,20,609a11(00):は別の資格を有するが故に。之を除きたる寺院を意 0000_,20,609a12(00):味すと知るべし。 0000_,20,609a13(00):西堂地とは。西堂の住する寺院にして。兩脉相承 0000_,20,609a14(00):すと雖も。香衣綸旨頂戴せざるが故に。純黑衣に色 0000_,20,609a15(00):袈裟を用ひ。引導燒香等化他の一分を許されたる僧 0000_,20,609a16(00):の住する所なり。 0000_,20,609a17(00):平僧地とは。單に五重を受けたるのみにして。兩 0000_,20,609b18(00):脉を相承せず。從て香衣綸旨も頂戴せざるが故に。 0000_,20,609b19(00):純黑の法衣袈裟を着する僧の住する寺院なり。此等 0000_,20,609b20(00):の寺院の僧侶は。説法は勿論引導燒香等の化他の一 0000_,20,609b21(00):分をも行ふを許されざるなり。 0000_,20,609b22(00):別當とは將軍及宗族の靈廟の奉仕守護を司る所に 0000_,20,609b23(00):して。增上寺の所轄たり。塔頭は又寺家或は子院或 0000_,20,609b24(00):は坊中と稱し。本山檀林等の大藍巨刹の境地内に在 0000_,20,609b25(00):る寺院にして。皆本院に隷屬し。本寺の梵唄諷誦を 0000_,20,609b26(00):掌り。葬祭の事務に從事す。然れども説法引導燒香 0000_,20,609b27(00):等の能化の職務を執ることを許されざりき。 0000_,20,609b28(00):六 捨世地 0000_,20,609b29(00):僧伽藍元來の意義よりすれば。俗塵と隔離し如法 0000_,20,609b30(00):持律の桑門の止住する處にして。別に捨世地。律院を 0000_,20,609b31(00):設くる必要なきも。時世の推移風習の變遷は。僧伽 0000_,20,609b32(00):藍を貴族富豪の祈禱場たらしめ。香華院たらしめ。 0000_,20,609b33(00):世俗との交通往來頻頻たるに至りしかば。僧伽も位 0000_,20,609b34(00):階を賜はり紫朱玄黄の服を纒ひて。世俗の顰に倣 0000_,20,610a01(00):ひ。本來桑門の意義と疎隔せる行動に出づるは。洵 0000_,20,610a02(00):に已むをえざる結果なり。德川時代に於ける本宗寺 0000_,20,610a03(00):院は。德川氏の香華院は勿論。然らざるも其香華宗 0000_,20,610a04(00):たる關係よりして。寺院の結構優美に流れ。僧侶も 0000_,20,610a05(00):一般に華奢に赴き。紫香の色に誇り。宗祖の隱遁質 0000_,20,610a06(00):素なる高風地を拂ひて空しく。佛陀の淸肅洒脱の律 0000_,20,610a07(00):儀捨てて顧られざるに至れり。是に於て一方に宗祖 0000_,20,610a08(00):の高風を惝怳し之を再現せんと企て。他方には佛陀 0000_,20,610a09(00):の淸律を敬慕して之を復興せんと試むる者あり。前 0000_,20,610a10(00):者は稱念を首唱とする捨世派にして。其主義により 0000_,20,610a11(00):て立つ寺院を捨世地と云ひ。後者は靈潭を先驅とす 0000_,20,610a12(00):る興律派にして。此主義によりて起れる寺院を律院 0000_,20,610a13(00):と云ふ。 0000_,20,610a14(00):捨世流とは。即隱遁主義專念主義なるも。唯宗祖 0000_,20,610a15(00):の遺風を固守すると云ふのみにして。一定の規律制 0000_,20,610a16(00):約あることなし。此流の首唱者は。增上寺七世親譽周 0000_,20,610a17(00):仰の弟子。縁譽稱念なり。師幼にして親譽に師事 0000_,20,610b18(00):し。親譽滅後飯沼鎭譽祖洞に受法す。嗣法の後岩槻 0000_,20,610b19(00):に學席を張りしも。夙に世の名利を嫌忌せしかば。 0000_,20,610b20(00):去りて江戸に天智菴を開く。此菴始めは櫻田邊に在 0000_,20,610b21(00):りしが。江戸開府の始西久保に移り天德寺と稱せる 0000_,20,610b22(00):もの之なり。居住僅に三年にして。天文十三年錫を 0000_,20,610b23(00):東海道に振ふ。行く行く法雷を震ひ伊勢に赴き太神 0000_,20,610b24(00):宮に詣じ。又松坂樹敬寺に止住し。近傍に施化する三 0000_,20,610b25(00):星霜。辭して京都に赴く。實に天文十六年春なりき。 0000_,20,610b26(00):最初黑谷に參じ後華頂に詣で。次で祖廟南隣の地に 0000_,20,610b27(00):草菴を結び專精念佛す。歸依の老若其門に蝟集し。 0000_,20,610b28(00):渴仰の貴賤踵を接して到り。喜捨の財積て草菴幾も 0000_,20,610b29(00):なく一大伽藍と成る。是捨世地の本山一心院なり。 0000_,20,610b30(00):其構造は門は北に設け南向して入り。佛殿西に在り 0000_,20,610b31(00):て東向す。此結構は師草創の何れの寺にも適用せら 0000_,20,610b32(00):れたり。 0000_,20,610b33(00):稱念の草創にかかる寺院。關の東西を通じて四十 0000_,20,610b34(00):七箇寺ありと傳へらるるも。其の京都近傍に於ける 0000_,20,611a01(00):ものは。知恩院山内一心院の外には愛宕郡鞍馬谷野 0000_,20,611a02(00):中村專稱菴。葛野郡下桂村極樂寺。乙訓郡塚原村稱念 0000_,20,611a03(00):寺。葛野郡御陵村廣見寺。紀伊郡淀納所念佛寺。久 0000_,20,611a04(00):世郡田井村專念寺。葛野郡北嵯峨稱念寺。葛野郡下 0000_,20,611a05(00):嵯峨川端正定院等なり。而して上人が此等寺院に於 0000_,20,611a06(00):て。遵守奉行すべきものとして定めたる所のものは 0000_,20,611a07(00):左の三種なり。 0000_,20,611a08(00):一、七箇條 通常念佛道場規律 0000_,20,611a09(00):一、十一箇條 別時念佛道場規律 0000_,20,611a10(00):一、九箇條 宗義安心起行作業の要旨 0000_,20,611a11(00):此等の條規が上揭の諸寺に遺憾なく行はれたるか 0000_,20,611a12(00):は疑問なるも。一心院に於ては永く確守せられ。此 0000_,20,611a13(00):等の上に尚種種の細規の附加せられ。淸肅なる華頂 0000_,20,611a14(00):山上更に淸肅なる風儀を發揮しつつありて。俗臭紛 0000_,20,611a15(00):紛たりし本期の淨土宗に一服の淸涼劑たりしことは 0000_,20,611a16(00):看過すべからず。 0000_,20,611a17(00):稱念は天文二十三年七月十九日。四十二歳の初老 0000_,20,611b18(00):を以て一心院に入寂せしが。之に先つこと三年天文二 0000_,20,611b19(00):十一年四月十五日。彈誓は誕生せり。幼少にして道 0000_,20,611b20(00):心内に萠し。家を出て四方に周遊し頗る奇蹟多し。 0000_,20,611b21(00):慶長八年夏幡隨意に相見して宗脉を傳受し。次で相 0000_,20,611b22(00):模塔峰に阿彌陀寺を創建し。又諸國を行化する數年 0000_,20,611b23(00):にして。慶長十三年京師の北。大原の奧なる古知谷に 0000_,20,611b24(00):分け入り一心念佛す。幾ならざるに念佛の聲を慕ひ 0000_,20,611b25(00):集り來る者群をなし。遂に佛閣僧房を營構す。上人之 0000_,20,611b26(00):に一心歸命決定光明山阿彌陀寺の名を命す。翌年三 0000_,20,611b27(00):月十五日常念佛を開白し。爾來專念の道場となる。 0000_,20,611b28(00):彈誓は慶長十八年五月廿五日古知谷に入寂せし 0000_,20,611b29(00):が。後殆ど六十年を經て澄禪あり。彈誓の跡を慕ひ 0000_,20,611b30(00):て天下を周遊し。塔峰阿彌陀寺に止住し。又古知谷 0000_,20,611b31(00):に住す。其行履頗る彈誓に似たるものあり。享保六 0000_,20,611b32(00):年二月四日古知谷に入寂す。爾後別に特色ある人を 0000_,20,611b33(00):出さざるも。彈誓。澄禪二師の道風は古知谷に保存せ 0000_,20,611b34(00):られ。捨世風の一派を形成せり。 0000_,20,612a01(00):澄禪が盛に天下を遊化したる頃。忍澂あり延寶九 0000_,20,612a02(00):年五月獅子谷に法然院を開く。師は學業精深。識見高 0000_,20,612a03(00):邁にして。特に宗乘に洞達せり。彼大藏經校合の事 0000_,20,612a04(00):業の如き。諸宗の學者の感歎措かざる所なるが。宗 0000_,20,612a05(00):乘に關する其著述の如き。文章調達條理明快にし 0000_,20,612a06(00):て。讀者をして首肯せしめずんば休まざるの概あ 0000_,20,612a07(00):り。故に稱念彈誓二師が單に實行により祖風を煽揚 0000_,20,612a08(00):せしとは趣きを異にし。宗義の究明を以て祖意を顯 0000_,20,612a09(00):彰するに黽めたり。獅溪に歷世宗乘學者の多く輩出 0000_,20,612a10(00):せるは之が爲にして。宗學の講究に寄與する所多か 0000_,20,612a11(00):りき。然れども世俗の名利を遠ざくる點に於ては。捨 0000_,20,612a12(00):世流たるを拒むべからず。 0000_,20,612a13(00):澄禪。忍澂と殆ど時代を同うし。奧羽の地に專念主 0000_,20,612a14(00):義の宗風を弘通したる良崇無能あり。師の居奧州桑 0000_,20,612a15(00):折の菴室は不能によりて擴張せられ。無能寺と號し 0000_,20,612a16(00):律院とせられたりと雖も。無能の捨世主義も併せ行 0000_,20,612a17(00):はれて近代に及べり。 0000_,20,612b18(00):忍澂。澄禪。無能三師と同時代の後輩に向譽關通 0000_,20,612b19(00):あり。尾張海西郡大成村の人。幼にして海東郡中一 0000_,20,612b20(00):色村西方寺の靈徹に就き得度す。忍澂の入寂せる正 0000_,20,612b21(00):德元年十六歳にして江戸に赴き縁山に掛錫し。其翌 0000_,20,612b22(00):年より祐天大僧正に就き三脉を相承し。又瓔珞菴敬 0000_,20,612b23(00):首和上に就き重ねて菩薩戒を受く。或時釋書宗祖傳 0000_,20,612b24(00):を閲し宗祖の要心を悟り。爾來宗乘を研究し日課稱 0000_,20,612b25(00):名三萬遍を勵む。增上寺に留錫する十三年にして。享 0000_,20,612b26(00):保八年西方寺に歸省す。同十年伊勢國長島光岳寺に 0000_,20,612b27(00):住し。次で師跡西方寺を董し近隣の道俗を攝化す。 0000_,20,612b28(00):元文年中西方寺を律院とし圓成寺と改め。義燈和上 0000_,20,612b29(00):を請して住職とす。後更に西方寺を造りて住す。延享 0000_,20,612b30(00):五年江戸に再遊し。淺草に獅子吼菴を建てて敎化す。 0000_,20,612b31(00):寬保元年京都に錫を飛ばし。四條金蓮寺に寓せしが。 0000_,20,612b32(00):明和七年二月二日北野轉法輪寺に示寂す。師の主義 0000_,20,612b33(00):は彈誓。忍澂の中庸を取り。實行に偏せず學問に局 0000_,20,612b34(00):らず。醇粹なる敎義の翫味より出立して。勇猛なる念 0000_,20,613a01(00):佛の修行者たるにあり。其敎化は江戸京都にも敷か 0000_,20,613a02(00):れざるに非るも。郷里たる尾張に最も深く洽かり 0000_,20,613a03(00):き。其質素淸洒なる風規は關通流として。宗門の一 0000_,20,613a04(00):部に淸健なる感化を與へたり。 0000_,20,613a05(00):關通の道風を傳承し。之を以て防長二州を風靡し 0000_,20,613a06(00):たるを大日比の三師とす。三師とは光譽法岸。承譽 0000_,20,613a07(00):法洲。元譽法道是なり。三師相繼ぎ長門國大日比西 0000_,20,613a08(00):圓寺に住し化を四方に布く。謂ゆる大日比一流の捨 0000_,20,613a09(00):世流を形成せり。尚法岸の先輩にして關通上人と同 0000_,20,613a10(00):年輩の連譽雲説あり。同國厚狹郡末益妙慶寺に住 0000_,20,613a11(00):し。道譽頗高く化導甚廣かりき。法岸は最初郷里に 0000_,20,613a12(00):於て此人の感化を受け。江戸に於て關通に聽法し。 0000_,20,613a13(00):京都に隨從して更に其敎を受けたり。故に單に關通 0000_,20,613a14(00):流とは多少異なる所あるは當然なり。 0000_,20,613a15(00):彈誓と殆んど時代を同うし以八あり。袋中良定の 0000_,20,613a16(00):異母兄にして道心非常に深く。名利を嫌惡すること蛇 0000_,20,613a17(00):蝎の如く。常に身を雲水に任せ心を往生にかけ。美 0000_,20,613b18(00):作。筑後等の祖跡に詣して之が復興に奔走せしが。 0000_,20,613b19(00):晩年安藝國宮島に至り嚴島神社の東岡に草菴を結び 0000_,20,613b20(00):て止住す。此菴後に光明院と稱す。此にありて慶長 0000_,20,613b21(00):十九年九月十四日入寂す。以八滅後百五十餘年にし 0000_,20,613b22(00):て行譽學信此に來住す。師は縁山に掛錫成業の後。 0000_,20,613b23(00):京都長時院湛慧律師に就き菩薩戒及八齋戒を受け。 0000_,20,613b24(00):筑紫に赴き二祖の舊跡を拜し。歸路長門に雲説に謁 0000_,20,613b25(00):す。明和三年六月推されて獅子谷法然院に住せし 0000_,20,613b26(00):が。同年十一月之を辭して嚴島光明院に來住す。數 0000_,20,613b27(00):年の後退きて同所加祐軒に住す。後郷里松山長建寺 0000_,20,613b28(00):に住し。更に太守の請に應じて大林寺に住せしが。 0000_,20,613b29(00):晩年加祐軒に歸り。寬政元年六月七日此に寂す。光 0000_,20,613b30(00):明院。加祐軒等は實に以八。學信の道風を傳ふる一 0000_,20,613b31(00):派の捨世寺なりき。 0000_,20,613b32(00):學信と時代を同うして三河に穩冏あり。鷲塚遍照 0000_,20,613b33(00):院響譽の弟子なりしが。寳曆年中西尾縁心寺。鷲塚 0000_,20,613b34(00):遍照院に住し。又中山貞照院に住す。院は曾て元祿 0000_,20,614a01(00):年中忍澂の中興捨世地となせし所なるが。此に住す 0000_,20,614a02(00):ること廿有五年にして大に古風を振起せり。寬政元年 0000_,20,614a03(00):片山某の請に應じて道智寺に住せしが。同年七月廿 0000_,20,614a04(00):七日示寂す。其歷住せる四寺は勿論。別に高濱に蓮 0000_,20,614a05(00):乘院。名古屋に阿彌陀院を復興して。何れも捨世の 0000_,20,614a06(00):道場たらしめたり。 0000_,20,614a07(00):大日比の法岸と前後して德本行者あり。紀伊國日 0000_,20,614a08(00):高郡久志村に誕生す。別に師敎を受くる所なかりし 0000_,20,614a09(00):も。苦修練行の結果堅固なる道念を得たり。説く所 0000_,20,614a10(00):權威あり。聽者歸伏せずと云ふことなし。郷里より京都 0000_,20,614a11(00):を經て江戸に出で。小石川傳通院山内に住し。上下の 0000_,20,614a12(00):歸崇を受け。後小石川に一宇を起し一行院と號す。 0000_,20,614a13(00):文政元年十月六日一行院に寂す。其弟子に高德多く 0000_,20,614a14(00):諸處に捨世道場を開けり。即德住は參河國に赴き荒 0000_,20,614a15(00):井山九品院を建て。又浪華源正寺。名古屋光照院等 0000_,20,614a16(00):を再興。捨世道場とし。尾三兩州に感化を施し。德因 0000_,20,614a17(00):は淺草稱往院。武州辰沼龍巖寺を改めて捨世道場と 0000_,20,614b18(00):なし。本察は信州唐澤阿彌陀寺を再興す。寺は曾て 0000_,20,614b19(00):彈誓の開く所なりしが。此に又捨世流を復興したる 0000_,20,614b20(00):なり。 0000_,20,614b21(00):七 律院 0000_,20,614b22(00):捨世が直接祖風の復興とすれば。律は佛制の興隆 0000_,20,614b23(00):とすべし。隱遁專念の祖風が時世の變遷に連れて廢 0000_,20,614b24(00):退したるが如く。五八十具の佛制も末代には之を護 0000_,20,614b25(00):持するに人なく。假名比丘のみ跳梁跋扈せり。故に 0000_,20,614b26(00):宗祖は當代の機根を三學無分と宣し。三學無分なる 0000_,20,614b27(00):が故に淨土念佛の敎行の必要を説かれぬ。然れども 0000_,20,614b28(00):宗祖御自身依然僧形を棄てられず。傳法の高僧又沙 0000_,20,614b29(00):門の威儀を喪はずとせば。沙門比丘と必然の關係を 0000_,20,614b30(00):有する律制はいかにすべき。滔滔たる天下僧形にし 0000_,20,614b31(00):て世俗も尚ほ耻辱とする行爲を敢てして顧ざる宗 0000_,20,614b32(00):門の狀況を見ては。志あるもの誰か「末世には名字比 0000_,20,614b33(00):丘あるのみ曷んぞ眞比丘あらんや」として晏如たる 0000_,20,614b34(00):をえんや。此に於てか宗門に於ても律制の興隆を呼 0000_,20,615a01(00):號する一派の人士を輩出せり。彼等の唱ふる所時に 0000_,20,615a02(00):膠柱彈吟の譏を免れざるも。紛紛たる腐敗濁亂の宗 0000_,20,615a03(00):門に對して。確に有力なる防腐劑たりしなり。 0000_,20,615a04(00):正德。享保の頃靈潭性澂あり。肥前の産にして少 0000_,20,615a05(00):壯江戸に遊學し。增上寺證譽雲臥に就き兩脉を相承 0000_,20,615a06(00):し。後湖西安養寺第一世戒山慧堅を拜して梵網の大 0000_,20,615a07(00):戒を受け。更に安養寺第二世湛堂慧淑を證明師とし 0000_,20,615a08(00):て瓔珞の羯磨によりて自誓受具す。寶永六年請に應 0000_,20,615a09(00):じて奧州相馬郡中村興仁寺に住し。東奧を慈潤する 0000_,20,615a10(00):九年なりしが。享保二年辭して京都に歸り。洛東聖 0000_,20,615a11(00):臨菴を開き持戒念佛を勸進し。享保十九年十一月三 0000_,20,615a12(00):日五十九歳を以て寂す。照臨菴は本宗最初の律院に 0000_,20,615a13(00):して。和上は實に淨土律の開祖たり。靈潭の門下に 0000_,20,615a14(00):湛慧信培。默龍性潜。德巖智高。義燈慧燃。體眞元 0000_,20,615a15(00):如尼。普俊元慧尼あり。 0000_,20,615a16(00):湛慧は洛西長時院中興奉律の祖なり。幼時法伯聞 0000_,20,615a17(00):證和尚に就き倶舍唯識性相の學を習ひ。壯年江戸に 0000_,20,615b18(00):留學し。靈山寺廓瑩に嗣法す。元祿十二年二十五歳に 0000_,20,615b19(00):して師跡華開院に住す。爾來道俗を集めて經論を講 0000_,20,615b20(00):説して殆ど餘日なし。享保八年四十九歳にして法席 0000_,20,615b21(00):を弟子素寂に讓り。洛西龍安寺の子院に寓居す。甞 0000_,20,615b22(00):て惟へらく。戒は沙門の本軌。佛法の生命と。即靈潭 0000_,20,615b23(00):に就き沙彌戒を受け。專ら戒律を研究し。又洛西槇尾 0000_,20,615b24(00):山及和泉大島山等の律院を周旋して其行事を暗悉 0000_,20,615b25(00):す。享和十年靈潭。玄門二師を請うて證明師とし。瓔 0000_,20,615b26(00):珞羯磨により自誓受戒す。爾後五衆禀戒を僧體と 0000_,20,615b27(00):し。止作二持を僧行とし。念佛を正因とし。性相弘 0000_,20,615b28(00):通を正見とす。享保十二年師命によりて洛西長時院 0000_,20,615b29(00):の廢趾を興し律院となす。之れ實に本宗律寺の嚆矢 0000_,20,615b30(00):なり。本山其功を賞して永世律院の規約を定め。宗 0000_,20,615b31(00):内の高德多く其擧を賛し。又請して菩薩戒を受くる 0000_,20,615b32(00):者多し。延享四年二月十九日長時院に寂す。壽七十 0000_,20,615b33(00):二。二十二なり。 0000_,20,615b34(00):默龍は靈潭に從ひ。受具の後。備後國尾道に至り安 0000_,20,616a01(00):養軒を開く。湛慧と同年三月寂す。其門下に義雲。 0000_,20,616a02(00):忍照。智寂あり。義雲は聖臨菴の開祖前に自誓受具 0000_,20,616a03(00):し。後尾道に歸り安養軒の主と成る。其下慧梁あり 0000_,20,616a04(00):又安養軒に住す。忍照は備後の産にして。默龍に從 0000_,20,616a05(00):ひ受具の後湖東に至り淨土寺を以て律院とす。其下 0000_,20,616a06(00):慧燈あり。後安養軒に往き受具し之に住す。 0000_,20,616a07(00):德巖は越中の人。增上寺に掛錫し。祐天大僧正に嗣 0000_,20,616a08(00):法の後。京都に赴き靈潭を證明として自誓進具し。 0000_,20,616a09(00):聖臨菴第二世に推さる。後三河國に赴き中山貞照院 0000_,20,616a10(00):に住して第五世となり。次で同國伊賀に昌光寺を開 0000_,20,616a11(00):き之に律制を布き大乘律苑となす。明和八年八月十 0000_,20,616a12(00):日昌光寺に寂す。壽七十七三十七。是れ三河に於 0000_,20,616a13(00):ける本宗律院の開祖とす。其門下には文海。玉淵慧 0000_,20,616a14(00):蟠。宣達元奧。忍道慧安。霽鳳性冲。萬宗慧朝。仰 0000_,20,616a15(00):信慧巖。德園智巖。僧玉智潤。大舟慧律。香洲慧戒 0000_,20,616a16(00):あり宣達。忍道。萬宗。仰信。大舟等相次で昌光寺 0000_,20,616a17(00):の住職たり。文海は西肥の人。江州守山淨土寺及聖 0000_,20,616b18(00):臨菴に住す。玉淵は貞照院第八世たりし人なり。靈 0000_,20,616b19(00):鳳は聖臨菴に住し第六世たりしが。後縁に遇ひ官僧 0000_,20,616b20(00):と成る。德園は聖臨菴第七世たりし人。其下に德潜 0000_,20,616b21(00):あり。潜の下に僧淵あり。僧玉は大舟。仰信兩和上 0000_,20,616b22(00):の證明により受具し。淨土寺に住す。香洲は大舟の 0000_,20,616b23(00):下にて受具し。後尾張國半田阿彌陀堂の主と成る。 0000_,20,616b24(00):又仰信の下靈門あり。門の下に靈一あり。大舟の下 0000_,20,616b25(00):慈舟及萬空慧性あり性は昌光寺第七世たり。 0000_,20,616b26(00):義燈は浪華の人。江戸に遊學し增上寺にて受法の 0000_,20,616b27(00):後。京都聖臨菴に行き。靈潭を證明師として自誓受具 0000_,20,616b28(00):す。進具の後。請に應じて三河國に赴き。深見崇福寺 0000_,20,616b29(00):に住せしが。後又關通の請によりて尾張國中一色村 0000_,20,616b30(00):圓成寺に轉住し奉律第二世と成る。是より先き關通 0000_,20,616b31(00):江戸にありて瓔珞菴敬首に就き菩薩戒を受く。故に 0000_,20,616b32(00):西方寺を改め圓成寺と號し之れを律院となすや。敬 0000_,20,616b33(00):首の肖像を迎へて開山第一祖とし。義燈を第二祖と 0000_,20,616b34(00):なせしなり。故に尾張に於ける律院の興起は專ら關 0000_,20,617a01(00):通の盡力最大なりき。義燈は延享二年六月十七日圓 0000_,20,617a02(00):成寺に寂す。壽五十二法臘十二なりき。和上の門下 0000_,20,617a03(00):に德門道光。可圓慧恭あり 0000_,20,617a04(00):德門は伊勢國桑名眞宗源流寺季寬の第一子なり。 0000_,20,617a05(00):少壯にして内外性相の學に精通したりしが。生家の 0000_,20,617a06(00):宗義に慊焉たらずして。享保十八年廿八歳にして眞 0000_,20,617a07(00):宗の法衣を脱し。河内國交野郡津田正應寺に寓す。 0000_,20,617a08(00):次で尾張國八事山に移り。前住高隣に就き菩薩戒及 0000_,20,617a09(00):盡形齋戒を受け晝夜の別なく念佛誦經苦修練行す。 0000_,20,617a10(00):關通之を聞き隨喜供養し且戒律の興隆を勸奬す。是 0000_,20,617a11(00):に於てか同上人の書を得て江戸に敬首を訪はんとせ 0000_,20,617a12(00):しが。敬首の勸によりて東下を中止し先づ義燈和上 0000_,20,617a13(00):に崇福寺に謁す。次で義燈と共に京都深草の玄門通 0000_,20,617a14(00):西に住し。其門に入り慧謙字は德門と號す。幾もな 0000_,20,617a15(00):く東歸し義燈に師事し。次で安樂律院の靈空に謁し 0000_,20,617a16(00):一門の律を受く。元文元年江戸に下り義燈と共に敬 0000_,20,617a17(00):首に就き天台戒疏の講を聽く。同年關通西方寺を律 0000_,20,617b18(00):院となし義燈を聘せしかば。之に隨從して尾張に赴 0000_,20,617b19(00):き。元文三年息慈法を受け。再上洛して聖臨菴に留 0000_,20,617b20(00):り。又守山淨土寺に住す。此に胸裡三大疑問を生ぜ 0000_,20,617b21(00):しかば。之を消却せんが爲に禪門に入り工夫參究 0000_,20,617b22(00):す。延享三年湛慧の慫慂により進具の準備をなせし 0000_,20,617b23(00):が。同年末より律師病重く翌年二月に寂せしかば。 0000_,20,617b24(00):同年六月十日律師肖像前に於て。法隆寺法澤深覺二 0000_,20,617b25(00):律師を證明として自誓受具す。是より長時院に留り 0000_,20,617b26(00):寺務を管せしが。寶曆元年檀主の強請により同院に 0000_,20,617b27(00):住し。法皷を敲く。同十二年江戸目黑長泉院成り。幹 0000_,20,617b28(00):事千如書を寄せて師の來住を懇請す。是より先增上 0000_,20,617b29(00):寺大玄大僧正。戒律興隆に焦慮し律院創立の希望あ 0000_,20,617b30(00):り。弟子千如をして工事を監督し。奧州無能寺第二 0000_,20,617b31(00):世不能律師の蟠龍寺に在るを迎へて律院を創剏せん 0000_,20,617b32(00):とせしも。幕府の許可を見るに至らずして僧正律師 0000_,20,617b33(00):相繼ぎて遷化し。千如其遺志を繼ぎ拮据經營し。奔 0000_,20,617b34(00):走周旋して遂に僧正の遺志を完成したるなり。故に 0000_,20,618a01(00):長泉院は大僧正を開山とし。不能を第二世とし。德 0000_,20,618a02(00):門和上を第三世とす。然れども事實上の開山殊に律 0000_,20,618a03(00):院としての開祖は和上を推さざるをえず。長泉院住 0000_,20,618a04(00):寺の後增上寺に於て經論章疏を講じ。又再度上洛し 0000_,20,618a05(00):初は長時院に。後は成等菴に講莚を張る。天明元年 0000_,20,618a06(00):十月十四日長泉院に寂す。壽七十五法臘三十六。 0000_,20,618a07(00):德門の門下戒如僧尾。大心僧暾。僧光旭忍あり戒 0000_,20,618a08(00):如は洛西成等菴三世たりしが。後東都惠照院に移住 0000_,20,618a09(00):す。當院は桂昌院の遺志により寶永二年に設立せら 0000_,20,618a10(00):れ。心岩檀智。心蓮。待蓮。蓮香。戒陣和上。智照 0000_,20,618a11(00):悅運和上等相次で住せしが。戒如其第七世なり。大 0000_,20,618a12(00):心は初長時院に住し後成等菴に遷り住す。其の門下 0000_,20,618a13(00):道性慧愷。慧梁大椿。性璞旭釧。白辨大愚等あり前 0000_,20,618a14(00):三人は相繼で惠照院に住し。白辨は靈門の證明によ 0000_,20,618a15(00):り進具し。後長時院に住せり。僧光は成等菴の住持 0000_,20,618a16(00):たりし人なり。 0000_,20,618a17(00):可圓は信濃國の人。東都深川靈巖寺に兩脉相承の 0000_,20,618b18(00):後ち。敬首に隨て菩薩戒を受く。次で義燈和上に隨て 0000_,20,618b19(00):沙彌戒を受け。圓成寺奉律第三世と成り。其後湛慧 0000_,20,618b20(00):に隨て律を學び。其滅後影前に於て自誓進具す。又 0000_,20,618b21(00):美濃國庭田圓滿寺。洛西北野西迎院。大阪龍興寺。 0000_,20,618b22(00):同深江法明寺等を再興し奉律の始祖と成れり。宇治 0000_,20,618b23(00):平等院。大和の東福寺。同吉田寺等も和上及其法孫 0000_,20,618b24(00):の感化により律院と成れりと云ふ。和上の門下海音 0000_,20,618b25(00):慧梵。松仙慧風。大圓慧融。大愍慧琢あり。海音は 0000_,20,618b26(00):圓成寺第四世となり。松仙は圓滿寺第二世と成り。 0000_,20,618b27(00):又美作國誕生寺奉律祖と成る。其下に闡瑞慧極。大 0000_,20,618b28(00):忍慧力あり。闡瑞は圓滿寺第三世と成り。大忍は誕 0000_,20,618b29(00):生寺第二世と成る。大圓は大阪龍興寺第二世とな 0000_,20,618b30(00):り。大愍は圓成寺第五世と成る。其下大法惠水は圓 0000_,20,618b31(00):成寺六世となる。 0000_,20,618b32(00):以上は靈潭に其源頭を有する淨土律院系統の梗概 0000_,20,618b33(00):なるが。此流派をして盛大ならしめたるは實に關通 0000_,20,618b34(00):の功與て大なり。上人自進具せずと雖も其器を見て 0000_,20,619a01(00):推挽助成し。先着手としてその居寺を律院に改めた 0000_,20,619a02(00):るが如き。其律の興隆に對する態度の尋常ならざり 0000_,20,619a03(00):しを見るべし。又宗門の人に非るも本宗律門の興隆 0000_,20,619a04(00):に大に助力したる人あり。即ち南都法隆寺法澤是な 0000_,20,619a05(00):り。律師は眞言宗の人。受具の後湛慧に依止して戒 0000_,20,619a06(00):律と華嚴とを學び。關通に從ひて淨土の法要をきき 0000_,20,619a07(00):一向稱名の行者となれり。かくて德門。可圓。稱察 0000_,20,619a08(00):等の沙彌自誓進具の時は喜んで證明師となり。行事 0000_,20,619a09(00):の口訣等懇切に敎授指導したり。 0000_,20,619a10(00):靈潭とは別に本宗に律門を興隆したる人あり。即 0000_,20,619a11(00):瓔珞菴敬首是なり。和上は近江國の人。幼少の時東 0000_,20,619a12(00):都湯島靈雲寺に詣し。僧侶の行儀淸肅なるを見て出 0000_,20,619a13(00):家の志を起し。元祿九年十五歳にして。增上寺岸了の 0000_,20,619a14(00):寮に入りて剃髮得度して祖海と稱す。後京都に上り 0000_,20,619a15(00):て獅子谷忍澂の下に修學せしが。其の指示によりて 0000_,20,619a16(00):湖西安養寺に到り慧堅律師に謁し。且證明によりて 0000_,20,619a17(00):自誓進具し。大乘菩薩比丘となり。名を敬首と改 0000_,20,619b18(00):む。寶永二年廿四歳にして岸了に歸省す。岸了時に 0000_,20,619b19(00):小金東漸寺の能化たりしが。增上寺大僧正祐天と謀 0000_,20,619b20(00):り。武藏花又正受院を以て律院となし。彼を開山と 0000_,20,619b21(00):なし律院の制を布く。是れ本宗律院の規則を制する 0000_,20,619b22(00):濫觴なり。享保の頃同院を弟子本明に讓り。江戸下 0000_,20,619b23(00):谷に隱遁し自ら草菴を作りて之を瓔珞菴と號し。別 0000_,20,619b24(00):に書庫を設け眞如院と云ふ。寬延元年九月二十日瓔 0000_,20,619b25(00):珞菴に示寂す。壽六十六法四十四。諸弟子相謀り 0000_,20,619b26(00):て遺骸を下谷壽永寺に葬る。增上寺大僧正連察幕府 0000_,20,619b27(00):に請ひて。壽永寺を改て律院となし彼を中興開山と 0000_,20,619b28(00):なす。弟子元皓次で住す。 0000_,20,619b29(00):以上關西東都に於ける諸律院の外。別に東奧に律 0000_,20,619b30(00):院を創めたる者あり。無能寺奉律第一祖良照不能是 0000_,20,619b31(00):なり。不能始め敬首に隨ひて通受從他の法によりて 0000_,20,619b32(00):具戒を容れ。更に京都に上りて忍照求寂と共に聖臨 0000_,20,619b33(00):菴に到りて通受自誓受の法によりて滿分戒を受く。 0000_,20,619b34(00):法澤。可圓。稱察。普寂の四師同座證明す。後奧州 0000_,20,620a01(00):無能寺を興立し奉律の開祖となり。後江戸に來り目 0000_,20,620a02(00):黑蟠龍寺に住し、長泉院の創立に盡力せしが。事業 0000_,20,620a03(00):の完成を見ずして寶曆十二年八月二十四日寂す。和 0000_,20,620a04(00):上の後良光。閑澄。光嚴。無住等相繼ぎて無能寺に 0000_,20,620a05(00):住し。奧羽淨土律の爲に勢焰を吐けり。 0000_,20,620a06(00):捨世地と律院とは密接なる關係あること上述により 0000_,20,620a07(00):て略想像するをうべきも。捨世地少しく進めば容易 0000_,20,620a08(00):に律院と成りしこと圓成寺。貞照院等に見るべし。又律 0000_,20,620a09(00):院には律院の規式ありて捨世地と同からざれども。 0000_,20,620a10(00):律師和上を缺如せる時は之を完全に實行すること能は 0000_,20,620a11(00):ざるが故に。勢ひ捨世地と相去ること遠からざるもの 0000_,20,620a12(00):となるは自然の結果なり。 0000_,20,620a13(00):八 住職 0000_,20,620a14(00):住職資格はその住職すべき寺院の格式により一樣 0000_,20,620a15(00):ならず。然れども本山檀林紫衣地及び別格寺院を除 0000_,20,620a16(00):き。一般寺院の中。能分地は兩脉璽書を相承し香衣 0000_,20,620a17(00):綸旨を頂戴せる權正の上人たるを要し。西堂地平僧 0000_,20,620b18(00):地塔頭は綸旨頂戴の資格なきか。或は報謝金を調達 0000_,20,620b19(00):する資力なくして。上人たること能はざるものも。 0000_,20,620b20(00):住職するを得たり。本山檀林紫衣地等は。兩脈璽書 0000_,20,620b21(00):を傳授せられ。香衣綸旨頂戴の上たるは勿論。檀林に 0000_,20,620b22(00):於ける學席年を積累したる者に非れば。住職に任 0000_,20,620b23(00):命すること能はざるなり。學席年積功して昇進す 0000_,20,620b24(00):るにも。香衣檀林紫衣檀林紫衣地本山錄所等。漸漸 0000_,20,620b25(00):轉昇の徑路を辿らざるをえず。今其等の次第を略述 0000_,20,620b26(00):すべし。 0000_,20,620b27(00):(一) 香衣檀林 關東十八檀林の中十二(後には十 0000_,20,620b28(00):一)の香衣檀林は。漸漸に轉進して遂に錄所本山に 0000_,20,620b29(00):登昇すべき出世の端緖にして。檀林被位の所化僧が 0000_,20,620b30(00):目的とする三百由旬の理想地たりき。故に香衣檀林 0000_,20,620b31(00):住職に任命せらるることを出世と稱せり。これ等香 0000_,20,620b32(00):衣檀林の住職も。當初においては人物本位にして多 0000_,20,620b33(00):少の年を超越し。所在檀林の奈何を問はず選拔任 0000_,20,620b34(00):命せられたるも。中古以來は殆んど縁山の學頭二 0000_,20,621a01(00):の獨占するところとなれり。幕府はこの弊を矯め各 0000_,20,621a02(00):檀林公平に人物を選擧せしめんとして。屢屢これに 0000_,20,621a03(00):關する法度を制定したり。即ち延寶三年條目(二) 0000_,20,621a04(00):第二條に。黄衣檀林十二箇所(瓜連常福寺はこの翌年 0000_,20,621a05(00):紫衣地となれり。故に此の年は尚此の十二箇寺中に 0000_,20,621a06(00):あり)後住御吟味之時增上寺月行事十二人檀林十六 0000_,20,621a07(00):箇所(靈山寺は中絶して此數に加はらず)之伴頭都 0000_,20,621a08(00):合二十八僧之内不依座之高下器量相應之僧以入 0000_,20,621a09(00):札書出之其上增上寺被遂僉議兩人可被書 0000_,20,621a10(00):上之事とあり。以て其選任の精神が人物本位にし 0000_,20,621a11(00):て法のみに依らざることを知るべし。此條目には尚 0000_,20,621a12(00):ほ選擧人を規定せざるも。其檀林能化たること略推 0000_,20,621a13(00):想するに難からず。貞享二年の條目(三)には。黄衣 0000_,20,621a14(00):檀林住職御吟味之儀先規御條目雖有之今度御僉議 0000_,20,621a15(00):之上諸檀林之住持並江戸檀林四箇所之二相加可 0000_,20,621a16(00):選之旨被仰出候事とありて。檀林能化に江戸四檀 0000_,20,621a17(00):林の二四人を加へて選擧人とせるが如きも。同條 0000_,20,621b18(00):目下知狀には尚ほ多數の選擧人を加ふ。即ち黄衣檀 0000_,20,621b19(00):林住職之事增上寺月行事十二人諸檀林伴頭十七人都 0000_,20,621b20(00):合二十九僧之中(但解間寺持之僧除之)檀林住持相 0000_,20,621b21(00):應之器量選之能化中銘銘致入札則以封印箱納 0000_,20,621b22(00):其箱之上封諸能化令合判預置增上寺其年中檀林 0000_,20,621b23(00):住持替之節如例增上寺上座三十八僧所化役者兩人 0000_,20,621b24(00):並江戸檀林四箇所之二四人相加右二十九僧之中不 0000_,20,621b25(00):依座之高下可爲能化之僧入札致之方丈被 0000_,20,621b26(00):遂披見吟味之兩人書付可被差出其刻增上寺役 0000_,20,621b27(00):者並上座之所化檀林二老之入札取揃最前檀所住持中 0000_,20,621b28(00):認置候入札箱差添寺社奉行所役者可致持參候尤 0000_,20,621b29(00):其年中住持選於無之翌年之正月檀林住持中參會 0000_,20,621b30(00):之節右之通入札改替可申候向後此法式不可有懈 0000_,20,621b31(00):怠事とあり。これによれば檀林能化(一組)と。增上 0000_,20,621b32(00):寺一文字席三十八僧。同役僧兩名。及び江戸檀林の 0000_,20,621b33(00):二四人都合四十四名(二組)と。增上寺方丈との三 0000_,20,621b34(00):組が二十九名の被選擧者より二名の候補者を推擧し 0000_,20,622a01(00):其の内より幕府の任命するところなり。かく選擧の 0000_,20,622a02(00):手續綿密にして增上寺の專橫を許さざるが如きも。 0000_,20,622a03(00):檀林能化は何れも曾て增上寺の所化たりしものなり 0000_,20,622a04(00):一組の意向察するに難からず。二組は無論增上寺所 0000_,20,622a05(00):化多數を占め。三組は增上寺方丈たり。此の選擧が增 0000_,20,622a06(00):上寺所化に九分以上の利益ありて。他檀林所化は一 0000_,20,622a07(00):分の利益をも有せざりしこと想像に難からず。尚ほ 0000_,20,622a08(00):他檀林所化中の人物が此選に洩れんことを恐れ。同下 0000_,20,622a09(00):知狀の第五條に左の如き規定あり。十七檀林之伴頭 0000_,20,622a10(00):銘銘法俗年可書出之勿論秀學器量可爲能化 0000_,20,622a11(00):僧侶於有之者明直書付增上寺指出之帳面記置右 0000_,20,622a12(00):書出之趣寺社奉行所へ相達檀林住持選入札之人數 0000_,20,622a13(00):可相加事と。然れども此規定が幾干の効果を將ら 0000_,20,622a14(00):せしかは甚疑問なり。これ等諸條目にも拘はらず。 0000_,20,622a15(00):本所牛島に隱居せる祐天が元祿十二年二月大巖寺住 0000_,20,622a16(00):職に拔擢せられ。貞享三年十月二十六日靈巖寺伴頭 0000_,20,622a17(00):覺道が鴻巢勝願寺住職に擧げられ。寶曆元年十一月 0000_,20,622b18(00):傳通院伴頭碩巖が同上寺に晋董したる以來。香衣檀 0000_,20,622b19(00):林住職は縁山伴頭二の獨占する所となりて寬政年 0000_,20,622b20(00):度に及べり。 0000_,20,622b21(00):寬政四年閏二月三日。寺社奉行脇坂淡路守は增上 0000_,20,622b22(00):寺役者法月寬靈に對し。左の直達の書付を交付せり。 0000_,20,622b23(00):『香衣檀林後住書上之儀增上寺山中月行事並諸檀林 0000_,20,622b24(00):之伴頭都合二十九人之内斗致入札來候得共以來ハ 0000_,20,622b25(00):右之外タリトモ相當之僧有之節ハ書上可申候自ラ 0000_,20,622b26(00):諸山策勵之基且ツ一宗衰微致スマシキ爲トモ可相 0000_,20,622b27(00):成候尤香衣檀林書上ノミニ限ラス總シテ此趣ヲ可 0000_,20,622b28(00):相心得候然共右は餘山に法德格別之僧有之節之事 0000_,20,622b29(00):ニテ候闕如スルモカナラス餘山ヲ可加トノ儀ニハ無 0000_,20,622b30(00):之候然ル上ハ常ニ無油斷廣ク諸山ヲ可致穿鑿 0000_,20,622b31(00):置儀專要ニ候右之趣者佛法之衰敗ヲ可被助被仰 0000_,20,622b32(00):出事ニ候條永不可遺失候』。此一片の達旨に就 0000_,20,622b33(00):き。增上寺においては上座大衆の會合を催し。また 0000_,20,622b34(00):特に檀林會議を開き種種評議を凝らし。其の命を命 0000_,20,623a01(00):とし。事實は從來の慣例を固執せんことに苦心せり。 0000_,20,623a02(00):故に此の際には脇坂寺社奉行の意見は行はれざりし 0000_,20,623a03(00):も。天保年度再び寺社奉行就職の際には。多少この 0000_,20,623a04(00):意見を實行したるが如し。然れども十八檀林以外の 0000_,20,623a05(00):人物を香衣檀林住職に任命することは。遂に實現せ 0000_,20,623a06(00):られずして只傳通院の所化を任命したるに過ぎざり 0000_,20,623a07(00):き。 0000_,20,623a08(00):名越兩檀林は。其寺の住職闕如の時は。增上寺よ 0000_,20,623a09(00):り其寺の伴頭に任命せらるるが故に。極めて簡單な 0000_,20,623a10(00):りしが如し。 0000_,20,623a11(00):(二) 紫衣檀林 一命紫衣地の住職欠如の際は。香 0000_,20,623a12(00):衣十二檀林能化の中より。法席順により增上寺方 0000_,20,623a13(00):丈二名を書上げ。兩名の中幕府これを任命す。再命 0000_,20,623a14(00):紫衣地欠職の際は。一命紫衣地の能化の法順序に 0000_,20,623a15(00):よりて。任命せらるることとなりしも。是れ又中古以 0000_,20,623a16(00):來の慣例にして。光明寺は三十八世大譽檀説(明曆二 0000_,20,623a17(00):年寂)に至るまで。傳通院は十世信譽巖宿(延寶八 0000_,20,623b18(00):年增上寺に轉住す)に至るまでは。一命紫衣地以外の 0000_,20,623b19(00):香衣檀林より超入せるもの少からず。寬政年中脇坂 0000_,20,623b20(00):淡路守寺社奉行たりし頃此慣例をも破壞し。寬政二 0000_,20,623b21(00):年十一月二日靈巖寺先住嶺譽智堂を傳通院住職に拔 0000_,20,623b22(00):抽し。智堂が寬政四年二月增上寺に移るや。引込紫 0000_,20,623b23(00):衣地たる淨華院の仰譽聖道を延いて其後住となせ 0000_,20,623b24(00):り。然れども此政策も脇坂の失脚と同時に廢れて又 0000_,20,623b25(00):舊慣によることとなれり。 0000_,20,623b26(00):(三) 總錄所總本山 增上寺知恩院の住職は。再命 0000_,20,623b27(00):紫衣地たる光明寺傳通院より任命せらるること。是 0000_,20,623b28(00):れまた中古以來動かすべからざる慣習となれり。增 0000_,20,623b29(00):上寺には三十四世證譽雲臥は元祿十三年八月飯沼よ 0000_,20,623b30(00):り超昇し。知恩院に五十世靈譽鸞宿延享二年五月瓜 0000_,20,623b31(00):連より超住したるを最後として。他山よりは全く轉 0000_,20,623b32(00):昇を許さざりしが。增上寺へは脇坂再度寺社奉行の 0000_,20,623b33(00):際。即ち天保十一年二月知恩院瑞譽巨東の任命を見 0000_,20,623b34(00):たり。這は前に智堂聖道が相次いで傳通院に拔抽せ 0000_,20,624a01(00):られたるとともに。異例の轉昇なるも。その前後に 0000_,20,624a02(00):於ては殆んどかかる例なく。香衣檀林以上は渾べて 0000_,20,624a03(00):法臘席を以て昇進し。全く破格の超越を見ず。是れ 0000_,20,624a04(00):非望不逞の徒の跳梁を防止し。秩序平和を維持する 0000_,20,624a05(00):には適當なる制度なりしならんも。非凡卓拔なる人 0000_,20,624a06(00):士の隱遁離山を促し。宗門の要衝を以て凡骨鈍才の 0000_,20,624a07(00):橫行に委し。一宗を沈滯不振ならしめたること。下 0000_,20,624a08(00):に述ぶる學席昇進制度と共に非常に大なりき。 0000_,20,624a09(00):(四) 引込紫衣地 紫衣檀林が本山錄所の極位に出 0000_,20,624a10(00):世すべき前途の冀望多き寺院なるに反して。金戒光 0000_,20,624a11(00):明寺・淸淨華院・知恩寺・大樹寺・寶臺院・天德 0000_,20,624a12(00):寺・誓願寺の七箇寺は。格式に於ては本山或は菩提 0000_,20,624a13(00):所にして紫衣地たるを以て。前紫衣檀林に勝るとも 0000_,20,624a14(00):劣ることなかりしも。其の處を以て出世の終局と 0000_,20,624a15(00):し。轉進して本山錄所に榮轉するの望なく。恰かも 0000_,20,624a16(00):菩薩が二乘地を畏忌したるが如く。香衣檀林能化者 0000_,20,624a17(00):は非常に之を嫌忌し。其當選を免るるが爲に種種苦 0000_,20,624b18(00):心せり。引込紫衣地の引込の文字の如きも。隱居閉 0000_,20,624b19(00):門等と同じく甚だ好ましからず。之を嫌忌するもの 0000_,20,624b20(00):の附與せる稱なるが故に。德川氏より之を見れば洵 0000_,20,624b21(00):に敬意を失へる稱呼なり。 0000_,20,624b22(00):かく引込紫衣地住職に任命せらるることは。香衣 0000_,20,624b23(00):檀林能化者が難有迷惑。否甚だ苦痛に感ずる所なれ 0000_,20,624b24(00):ば。種種の苦肉策を設け。これを逃れむと試みたる 0000_,20,624b25(00):例少からず。天明六年十二月駿府寶臺院の無住とな 0000_,20,624b26(00):るや。幕府は江戸崎大念寺奚疑を後住に擬して出府 0000_,20,624b27(00):を命ぜしに。奚疑中途其由を知り病と稱して江戸崎 0000_,20,624b28(00):に還りしかば。幕府之を罸し隱退を命じ。さらに川 0000_,20,624b29(00):越蓮馨寺祖秀を寶臺院住職に命じたることあり。ま 0000_,20,624b30(00):た文化八年七月淸淨華院の無住となるや。本所靈山 0000_,20,624b31(00):寺秀海に後住を命ぜられしも。曾て增上寺に於て役 0000_,20,624b32(00):僧を勤めたるものは。引込紫衣地に推薦せられざる 0000_,20,624b33(00):慣例ありと主張して命に從はず。時の增上寺役者祐 0000_,20,624b34(00):海在歡もこれに雷同せしが。幕府はその理由なきを 0000_,20,625a01(00):怒り秀海に隱居を命じ。役者兩人を押込めたること 0000_,20,625a02(00):あり。後の事例の如きは增上寺役者がその職權を利 0000_,20,625a03(00):用し。自己の將來に都合よき慣例を何時の頃よりか 0000_,20,625a04(00):造り出せるものなり。是より先享和元年十一月。增 0000_,20,625a05(00):上寺役者秀海察常が脇坂淡路守の尋により差出せる 0000_,20,625a06(00):學席階級には。 0000_,20,625a07(00):一引込紫衣七ケ寺(寺名略之) 0000_,20,625a08(00):右欠如之節は香衣檀林十二箇寺之内方丈書上之上 0000_,20,625a09(00):轉住被仰付候但右十二箇寺之内御當山役者相勤 0000_,20,625a10(00):候僧は爲役儀勤功引込紫衣七箇寺へは方丈書上 0000_,20,625a11(00):不被申仕來御座候但當人達而相願ひ書上候は格 0000_,20,625a12(00):別の義に御座候 0000_,20,625a13(00):とあり。秀海は自己が書上げたる此書面を證據とし 0000_,20,625a14(00):て淨華院轉住を拒みたるも。時の寺社奉行は強硬に 0000_,20,625a15(00):してこの狡策に瞞過せられず。彼等を責罸したるの 0000_,20,625a16(00):みならず。永くかかる惡慣例を矯正せんとして。增 0000_,20,625a17(00):上寺に日鑑の訂正を命ぜり。故に日鑑には上の但書 0000_,20,625b18(00):に朱括弧を施し。旦つ其冠註に左の文言あり。 0000_,20,625b19(00):此朱圍三行餘之文言は其時之役者便宜に乘じて取 0000_,20,625b20(00):拵候義にて不被書上仕來と申議決て無之事に 0000_,20,625b21(00):候爲將來致添書者也文化九壬申正月八日諸檀 0000_,20,625b22(00):林評決 0000_,20,625b23(00):此一策は幸か不幸か當路の爲に觀破せられ處罸せら 0000_,20,625b24(00):れたるも。其他に種種策を構へて此の厄を免れたる 0000_,20,625b25(00):者多かりしことも想像するに難からず。 0000_,20,625b26(00):(五) 紫衣地菩提所 紫衣地菩提所等は。資格及任 0000_,20,625b27(00):命者一樣ならず 0000_,20,625b28(00):一、參河松應寺。同國高月院。同國信光明寺。越 0000_,20,625b29(00):前運正寺。筑後善導寺以上五箇寺無住の際は。增上 0000_,20,625b30(00):寺月行事十二人。一文字席上座僧が。府内四檀林の 0000_,20,625b31(00):所化伴頭二中より希望者を募集し。其中に就き增 0000_,20,625b32(00):上寺方丈適任者を選定し。之を幕府に推薦し。幕府 0000_,20,625b33(00):之を任命するを例とせしが。之には增上寺所化より 0000_,20,625b34(00):他四檀林の所化に希望者多く。普通此等より其任命 0000_,20,626a01(00):を見たり。 0000_,20,626a02(00):一、讚岐法然寺 同じく紫衣地にして宗祖の遺跡 0000_,20,626a03(00):地なるが。高松侯の復興にかかるを以て。無住の際 0000_,20,626a04(00):は侯より增上寺に依賴し。同國淨願寺或は增上寺一 0000_,20,626a05(00):文字席の中に就て適任者を選び。之を推薦して任命 0000_,20,626a06(00):せらるる慣例なりき。 0000_,20,626a07(00):一、尾張建中寺・紀伊大智寺・尾張相應寺 此三 0000_,20,626a08(00):箇寺は尾紀兩家の菩提所なれば。無住の際は兩侯よ 0000_,20,626a09(00):り之を任命せらるるを例とせり。 0000_,20,626a10(00):以上の諸寺が孰れも任命の後。繼目御禮の爲に江 0000_,20,626a11(00):戸城に參内するを例とせり。 0000_,20,626a12(00):一、惠眼院・寳松院・眞乘院・安立院・通元院・ 0000_,20,626a13(00):最勝院・瑞蓮院・佛心院 以上別當八箇院缺職の際 0000_,20,626a14(00):は。增上寺月行事又は一文字席中の希望者。或は府 0000_,20,626a15(00):内寺院住職者中に適任者を求め。幕府の承認を得て 0000_,20,626a16(00):增上寺方丈之を任命するを例とせり。 0000_,20,626a17(00):一、岳蓮社・鑑蓮社・松蓮社 以上別當三箇院缺 0000_,20,626b18(00):職の際は。增上寺所化或は方丈隨身の僧の中に就き 0000_,20,626b19(00):適任者を求め方丈之を任命す。 0000_,20,626b20(00):以上本山。檀林。紫衣地。菩提所は夫夫資格順序 0000_,20,626b21(00):あり。其任命權も幕府或は增上寺にありて。紊りに 0000_,20,626b22(00):住職交替するをえざるは勿論なれど。其他の寺院に 0000_,20,626b23(00):於ても。單に師匠が弟子に附屬住職せしめ能はざる 0000_,20,626b24(00):ことは元和條目の規定する所なり。即其第十二條に 0000_,20,626b25(00):於淨土宗諸寺家者縱雖爲師匠之附屬恣不可 0000_,20,626b26(00):住職事とあり。又貞享三年定書(四)第七條にも。 0000_,20,626b27(00):一寺建立由緖有之檀那地者各別其外住職之儀向後 0000_,20,626b28(00):不可致訴訟縱雖爲直弟年席未滿不相應之住 0000_,20,626b29(00):持は不致許容事附總て寮舍之輩催諸檀那不可 0000_,20,626b30(00):致理不盡之訴訟事とあり。一寺建立の檀那ある 0000_,20,626b31(00):場合は。其住職交替は檀那の意見にあれば特別なれ 0000_,20,626b32(00):ども。其他の格寺即ち高等寺院にありては。其寺相 0000_,20,626b33(00):應の年席を滿足せる者に非ざれは。縱ひ直弟たりと 0000_,20,626b34(00):も住職するを得ず。若諸種の事情を具陳して哀願す 0000_,20,627a01(00):るも許容の限に非らずとなり。此制は寶永四年條目 0000_,20,627a02(00):(五)第五條に更に明にせらる。檀越之由緖有之寺 0000_,20,627a03(00):院並内寺等可任其檀越之望又年臘法臘相應之直 0000_,20,627a04(00):弟有之者可任師匠之願外人不可相爭事附雖 0000_,20,627a05(00):爲檀越之望師匠之願於他山之僧は不可有許 0000_,20,627a06(00):容事。即檀越の希望によれば年不足の者。師匠 0000_,20,627a07(00):の願によれば年相當の者は其寺院住職たることを 0000_,20,627a08(00):えて。誰人も之を爭ふことをえざるも。其僧にして 0000_,20,627a09(00):中途他檀林に轉席せるものなる場合には。增上寺は 0000_,20,627a10(00):之を任命することを拒まんとするものなり。尚ほ寶 0000_,20,627a11(00):曆二年定書には。上の年臘法相應の者と雖も席入 0000_,20,627a12(00):延引結夏不仕者は又資格なしとせり。かくて檀那 0000_,20,627a13(00):の希望もなくまた相當の直弟なき内禮或は獨禮寺院 0000_,20,627a14(00):住職の後任に關しては。前陳寶永四年の條目(五)第 0000_,20,627a15(00):四條に之を規定せり。住持替之節獨禮寺院不論遠 0000_,20,627a16(00):近一分は方丈二分は大衆方之僧住持可申付之尤 0000_,20,627a17(00):獨禮之寺へは可選器量人體事附内禮之寺院は月 0000_,20,627b18(00):行事望無之は一文字之僧可申付事。内禮獨禮の 0000_,20,627b19(00):寺院は何れも裕福なれば之が希望者も多く。其分配 0000_,20,627b20(00):に關しては諍論ありしを見るべし。 0000_,20,627b21(00):元祿十一年八月廿六日錄所の出せる覺書に。『惣而 0000_,20,627b22(00):寺院後住之願不可致之大寺者勿論各別其外之寺 0000_,20,627b23(00):院縱雖爲直弟廿年未滿之僧者住職堅不被仰付 0000_,20,627b24(00):候但田舍之小寺者可有用捨事附向後以内外之縁 0000_,20,627b25(00):怙後住願入堅可爲無用若相背於願入者可被 0000_,20,627b26(00):仰付譯合之僧も却而障と成不被仰付候事』と。 0000_,20,627b27(00):以て當時既に寺院住職の後任運動が激烈なりしを想 0000_,20,627b28(00):見すべし。 0000_,20,627b29(00):元祿十六年十月廿六日には。高等寺院住職任命の 0000_,20,627b30(00):件に關する定書及覺書發布せられたり。 0000_,20,627b31(00):定 0000_,20,627b32(00):一、寺院無住之節住職之儀閣上座僧於下座輩一 0000_,20,627b33(00):切不可競望大寺者勿論其餘寺院縱雖直弟於 0000_,20,627b34(00):廿年未滿之僧者彌住職堅不被仰付候事 0000_,20,628a01(00):一、住持之儀以内外之縁怙願入候事堅不可致 0000_,20,628a02(00):之若於相背此旨願入者可爲越度事 0000_,20,628a03(00):一、大小遠近之諸寺院無住之節從上座次第以回 0000_,20,628a04(00):書内意御聞尤點掛り候之内にて御吟味之上不 0000_,20,628a05(00):論座次住職可被仰付候事 0000_,20,628a06(00):右者前前之趣此度依三席中願重而末之一箇條御添 0000_,20,628a07(00):被仰出候間被得其意各互相愼急度可被守之 0000_,20,628a08(00):者也元祿十六癸未十月廿六日證譽大僧正代役者觀徹 0000_,20,628a09(00):印了海印 0000_,20,628a10(00):覺 0000_,20,628a11(00):一、寺院十箇寺漸次空所有之住持被仰付候之時三 0000_,20,628a12(00):分者方丈之御法類御隨身舊來御好身方丈内之役僧 0000_,20,628a13(00):七分者回書にて三席之衆中可被仰付候但被 0000_,20,628a14(00):仰付次第者三席願之通不依大小遠近二一三一 0000_,20,628a15(00):二一之次第住職可被仰付候 0000_,20,628a16(00):一、重御方直言之御賴難遁住持被仰付時三席以上 0000_,20,628a17(00):僧者回書七分之内にて可被仰付候 但一箇年之内 0000_,20,628b18(00):堅二箇寺に限若至三箇寺者三分之内にて可被 0000_,20,628b19(00):仰付候若一番輪以下滿廿年以上之僧者是亦三分 0000_,20,628b20(00):之内にて可被仰付候 但外内之縁怙御停止之 0000_,20,628b21(00):上は寺院住持被仰付候刻先達而從役者中三席 0000_,20,628b22(00):之頭爲御知於相違者可被仰付候 0000_,20,628b23(00):一、内禮獨禮之寺院は月行事之外は一文字以上別 0000_,20,628b24(00):回書にて可被付候或者内寺又大檀越由緖之寺又 0000_,20,628b25(00):滿廿年之直弟等者三分七分之外にて可被仰付候 0000_,20,628b26(00):右者御回書簡別書之儀衆中之願及難澁候付而府内四 0000_,20,628b27(00):箇之檀林會合惣月行事相談之上從方丈御許容永代格 0000_,20,628b28(00):式相定之候自今以後若於混亂有之者惣月行事急度可 0000_,20,628b29(00):遂穿鑿爲其連判如此候 元祿十六癸未年十月廿六日 0000_,20,628b30(00):縁輪中頭了雄。扇間中頭辨立。一文字中頭見超 方 0000_,20,628b31(00):丈御役者中 0000_,20,628b32(00):之を見るに住職希望者多く。其れがために種種の 0000_,20,628b33(00):運動行はれ。又依怙の沙汰多かりしを知るべく。三 0000_,20,628b34(00):席の大衆は自己の特權を擁護せんとしてかかる制條 0000_,20,629a01(00):を設けしめたるものなるを知るべし。 0000_,20,629a02(00):寶永四年安藤右京亮の菩提所たる糀町長福寺(後 0000_,20,629a03(00):に栖岸院)無住たりしにより。安藤家よりは扇間席 0000_,20,629a04(00):頭源的を後住たらしむるやう依賴せしかば。增上寺 0000_,20,629a05(00):方丈はこれを任命せしに。大衆は上の定覺書を楯と 0000_,20,629a06(00):し源的並法類をも擯出して騷亂をなせしにより。幕 0000_,20,629a07(00):府は其首長を追放し此定覺書を取上げ。且八月九日 0000_,20,629a08(00):定書(五)を下し大衆の集合結黨を戒餝せり。又古來 0000_,20,629a09(00):寺院住職交代に通談の窃に行はれたることは寬文五年 0000_,20,629a10(00):下知狀第三條に。以金銀不可致後住之約事とあるに 0000_,20,629a11(00):よりて知るべし。 0000_,20,629a12(00): 0000_,20,629a13(00):第五章 宗侶の養成 0000_,20,629a14(00): 0000_,20,629a15(00):德川時代以前においては。宗門僧侶養成に一定の 0000_,20,629a16(00):規則順序あることなく。辛く關東檀林の一部分にお 0000_,20,629a17(00):いては。聖冏師の兩脈相傳儀式制定以來。これが授 0000_,20,629b18(00):受を以つて宗門僧侶たる資格を定めたるも。其規則 0000_,20,629b19(00):を遵奉せしは極めて小一部分に疆られたり。故に或 0000_,20,629b20(00):は天台宗に入りて勤學修業し。或は眞言その他の宗 0000_,20,629b21(00):門に赴き。智解を磨勵したるものなきにあらざりし 0000_,20,629b22(00):も。多くは愚痴文盲の阿羊僧にして。不淨談義以 0000_,20,629b23(00):て田夫野人の歡心を求むるもの比比として然らざる 0000_,20,629b24(00):はなし。是れ本宗が附庸寓宗たりし時代に於ては洵 0000_,20,629b25(00):に已むをえざるところなりしなり。然れども伽藍完 0000_,20,629b26(00):備し資具充實して。嚴然たる一宗の體裁を有するに 0000_,20,629b27(00):至りては。かかる放漫不規律なる宗侶養成法を許す 0000_,20,629b28(00):べからず。此に於てか宗門僧侶養成法を一定し。こ 0000_,20,629b29(00):れに遵據せざるものは相當寺院に住するをえざるに 0000_,20,629b30(00):至れり。其主要なる事項を説明すること次の如し。 0000_,20,629b31(00):一 入寺 0000_,20,629b32(00):兒童寺院に入り住職に就きて出家得度し。洒掃應 0000_,20,629b33(00):對並びに日常勤行を習修し。三經一論五部九卷の要 0000_,20,629b34(00):文を暗誦し。年齒志學に達するときは笈を關東に負 0000_,20,630a01(00):ひ。十八檀林のいづれかに入り。名籍を其の檀林に 0000_,20,630a02(00):編入せられ。此に始めて宗門の人と成る。之を入寺 0000_,20,630a03(00):と稱す。 0000_,20,630a04(00):(一) 資格 苟も本宗寺院の子弟たる者は。誰人も 0000_,20,630a05(00):入寺しうべきは一般の原則なるも。之には多少の制 0000_,20,630a06(00):限あり。寬永九年九月廿九日增上寺照譽了學代に發 0000_,20,630a07(00):布せられたる。所化入寺掟なるものあり。 0000_,20,630a08(00):一、十五歳以前者無用之事 0000_,20,630a09(00):一、樣子見惡かたわもの 附三經不讀之僧者無用之事 0000_,20,630a10(00):一、他宗他門諸勸進之類縱歸依たるといふ共無用之 0000_,20,630a11(00):事 0000_,20,630a12(00):右之條條相背於爲入寺者寮坊主共急度可令追 0000_,20,630a13(00):放者也仍如件 寬永九年九月廿五日 團蓮社判所 0000_,20,630a14(00):化諸行事 0000_,20,630a15(00):故に寬文十一年檀林能化の會合に於て議決せられ 0000_,20,630a16(00):たる定書にも。 0000_,20,630a17(00):一、初入寺之僧十五歳以前不可有許容事 0000_,20,630b18(00):一、一向宗強可有吟味事件之者於宗門中僞 0000_,20,630b19(00):號弟子所化出候者露顯次第急度法度可申付事 0000_,20,630b20(00):の條項あり。但戸籍法不充分なる當時のことなれ 0000_,20,630b21(00):ば。往往年齡を詐稱して入寺したるものあるは言を 0000_,20,630b22(00):俟たず。甚しきは「下駄ハカセ」なる猾策行はる。增 0000_,20,630b23(00):上寺は入寺者の定員常に超過せるを以て。かかるこ 0000_,20,630b24(00):との行はるる餘地なかりし筈なるに尚此ことあり。況 0000_,20,630b25(00):や他山に於てをや。即ち正月十一日の入寺期に。學寮 0000_,20,630b26(00):主空名を揭げて之を大衆名簿に記入し。新來者に之 0000_,20,630b27(00):を賣與へて餘得としたること少からざりしこと云ふまで 0000_,20,630b28(00):もなし。故に十二三歳の少年も此の方便によれば容 0000_,20,630b29(00):易に入寺したるなるべく。下に揭くる高僧中。德巖 0000_,20,630b30(00):和上が十二歳にして入寺せられたるが如きも。此方 0000_,20,630b31(00):便によられしものか。他宗他門其他勸進者等は。宗 0000_,20,630b32(00):門の内事を漏洩し面目を毀損する等の惧あるが故 0000_,20,630b33(00):に。かくは禁令を設けたるなるべし。かく他より侵 0000_,20,630b34(00):入を防遏すると同時に。已入寺者の他宗他門に轉ず 0000_,20,631a01(00):ることをも嚴禁せり。慶長二年知恩院滿譽の發した 0000_,20,631a02(00):る關東諸寺家掟の第二條に。 0000_,20,631a03(00):一、諸檀所之學徒歸當流以後於成他門他流者 0000_,20,631a04(00):可被處嚴科之旨入寺之時一紙可被申付事 0000_,20,631a05(00):とありかく。出入に於て他宗他門を禁じたるを以 0000_,20,631a06(00):て。其弊害は極めて少かりしがごとし。然れども尚 0000_,20,631a07(00):一の困難なる入寺者あり。他山に於て排斥せられた 0000_,20,631a08(00):る者の入寺是なり。故に寬文十一年定書(六)の中 0000_,20,631a09(00):に。 0000_,20,631a10(00):一、諸山追放之所化名を替他山に可紛入候他山僧 0000_,20,631a11(00):可被入念事 0000_,20,631a12(00):一、諸山之所化令他山時何方致入寺之旨能化 0000_,20,631a13(00):慇懃可相屆若不沙汰令離山者可被構 0000_,20,631a14(00):諸山事 0000_,20,631a15(00):の條項あり。他山へ移席するを他山と云ふ。他山に 0000_,20,631a16(00):就ては後に辨ずべきも。擯斥せられたるものが。新 0000_,20,631a17(00):入寺の如く詐るに對せる用心を見るべし。 0000_,20,631b18(00):(二) 時期と員數 人數少き時代は。時期も一定せ 0000_,20,631b19(00):ず。員數にも制限なかりしも。多數輻輳するに至り 0000_,20,631b20(00):ては。時期を一定して先づ員數を限るの手段とし。 0000_,20,631b21(00):一定時に於ても尚多數なるが爲に。其時に採用すべ 0000_,20,631b22(00):き員數を定むることは。まことに已むをえざるに出 0000_,20,631b23(00):づ。 0000_,20,631b24(00):入寺の時期は。正月十一日と規定せられ。十八檀 0000_,20,631b25(00):林の子院末寺及び支配寺の子弟等は。該檀林に必然 0000_,20,631b26(00):入寺すべく規定せられあるも。それ以外の天下の寺 0000_,20,631b27(00):院の子弟は。いづれの檀林に入寺するも殆んど自由 0000_,20,631b28(00):なり。勿論其師僧が入寺出世せるか或はその法縁の 0000_,20,631b29(00):能化住職の檀林に入寺するは特別なるも。此等關係 0000_,20,631b30(00):を有せざる場合には。成るべく江戸檀林に入寺せん 0000_,20,631b31(00):とし。江戸檀林中にも。縁山に入寺せんと希望する 0000_,20,631b32(00):もの多きは人情の自然なり。田舍よりも都會に生活 0000_,20,631b33(00):せんとし。都會中にも特權の多大なる地位を望むは 0000_,20,631b34(00):一般の人情にして。增上寺はまさに此等人情の赴く 0000_,20,632a01(00):ところの。最大なる標的なりしが故なり。故に江戸檀 0000_,20,632a02(00):林には早く員數の制限を見るに至れり。即貞享二年 0000_,20,632a03(00):法度(三)の下知狀の第四項には。江戸五ケ所之檀林 0000_,20,632a04(00):新來之所化員數。增上寺七十人。傳通院五十 0000_,20,632a05(00):人。靈巖寺幡隨院靈山寺三十人宛可限之事とあ 0000_,20,632a06(00):り。其田舍檀林に及ぼさざるは制限の必要なきが 0000_,20,632a07(00):故なり。この制限の設けられしにも拘はらず。縁山 0000_,20,632a08(00):には三千の所化常在せり。入寺者の制限は必しも增 0000_,20,632a09(00):上寺の希望にあらずして。自家の入寺者を減少せざ 0000_,20,632a10(00):らしめんとの。田舍檀林の希望は其第一因たり。成 0000_,20,632a11(00):るべく入寺者の數をして各檀林に平均せしめ。縁山 0000_,20,632a12(00):のみに集中せざらしめんとの。幕府の政策はその第 0000_,20,632a13(00):二因たりしなるべし。正月定員の入寺者は抽籖によ 0000_,20,632a14(00):り採用するが故に之を籖入寺と稱せしが。增上寺に 0000_,20,632a15(00):おいては種種の口實を設けて。平時員外の入寺を許 0000_,20,632a16(00):可せり。即方丈役者。學寮主。及三席の直弟入寺 0000_,20,632a17(00):と。似我入寺これなり。 0000_,20,632b18(00):似我入寺とは蜾蠃か螟蛉の子を採りて我子となす 0000_,20,632b19(00):との傳説に基く。即他人の弟子を中途より自の弟子 0000_,20,632b20(00):とすることにして。謂ゆる假弟子附弟として臨時に 0000_,20,632b21(00):入寺せしむるなり。之をなしうる資格には無論制限 0000_,20,632b22(00):あり。而してその制限も漸次廣められしことは。寶 0000_,20,632b23(00):永五年七月廿四日縁山役者より月行事に與へたる定 0000_,20,632b24(00):書によりて知ることを得。即 0000_,20,632b25(00):一、新來入寺定數之外先年一文字席中壹人宛月行 0000_,20,632b26(00):事席中壹人宛役者中壹人宛只今迄御免許有來 0000_,20,632b27(00):候然處正月入寺之殘僧當山入寺願候者甚多寺内 0000_,20,632b28(00):致滯在何茂難儀仕候付達而願上有之故此度別 0000_,20,632b29(00):而伴頭者壹ケ年壹人宛五人以上者二迄之内席中 0000_,20,632b30(00):壹人兩役者壹ケ年壹人宛似我弟子御免被成候由 0000_,20,632b31(00):被仰出候間右之趣御仲間中え御通達可被成候 0000_,20,632b32(00):以上子七月廿四日 役者 當月行事靈雲和尚 0000_,20,632b33(00):と。然らば寶永五年以前。何時の頃よりか此似我入 0000_,20,632b34(00):寺のことが案出せられ。正月入寺の定員七十名の 0000_,20,633a01(00):外。一文字席に一人。月行事席に一人及役者中に一 0000_,20,633a02(00):人都合三人宛は臨時員外に入寺を許され。寶永五年 0000_,20,633a03(00):以後はさらに其數を增加したるを見るべし。而して 0000_,20,633a04(00):享保二年正月二十八日。上述の外更に似我弟子增加 0000_,20,633a05(00):の許可あり 0000_,20,633a06(00):一、十一谷頭菴主一代壹人之似我弟子入寺御免之願 0000_,20,633a07(00):顯譽大僧正御代より御當代に至迄被相願候得共 0000_,20,633a08(00):難被差免筋殊更諸檀林え之遠慮有之旁以御免 0000_,20,633a09(00):無之然此度谷頭中檀林報謝金等諸寺谷頭役繁多 0000_,20,633a10(00):而無人難儀付一度十一僧御免難被成候はは一年 0000_,20,633a11(00):十一僧之内五人宛一代一度之似我弟子に候得者何 0000_,20,633a12(00):とぞ御免被成下候樣依惣月行事願此度願之通御 0000_,20,633a13(00):免被成候 0000_,20,633a14(00):と。即三席以下にても十一谷頭たる寮主の中。一年 0000_,20,633a15(00):五人は一代一度の似我弟子を養ふことを得ることとなれ 0000_,20,633a16(00):り。其他似我弟子採用の特權は。單に上記のものの 0000_,20,633a17(00):外。縁山法主には更に多數の似我弟子採用の特權あ 0000_,20,633b18(00):りしが如し。 0000_,20,633b19(00):直弟入寺は。學寮主。及三席の所化の直弟たるも 0000_,20,633b20(00):のは。時期員數の奈何に拘はらず。剃髮の即日入寺 0000_,20,633b21(00):を許可せらるるの制なり。享保十九年正月二十日役 0000_,20,633b22(00):者より月行事に與へし定書に。 0000_,20,633b23(00):一、寮持直弟之分者剃髮之即日入寺御許容之儀同庵 0000_,20,633b24(00):者縁輪以上前前御免之通直弟有髮帳場え召連願出 0000_,20,633b25(00):候儀自今以後者前日右之者生國親元其者之俗名書 0000_,20,633b26(00):付手札を以組谷頭月番召連相屆置二十日程爲致 0000_,20,633b27(00):在寮重而願出候日限相定可申候右者有髮組中近 0000_,20,633b28(00):寮え爲見知候樣可致事 0000_,20,633b29(00):とあり。寮主の數は百に近く。三席以上は百五十僧 0000_,20,633b30(00):あり。是等か悉く直弟を養ふにあらざるも。一人が 0000_,20,633b31(00):養ふべき員數に制限なければ。財政豐富なる者は數 0000_,20,633b32(00):人を養ふこともありうべきが故に。此除外例によりて 0000_,20,633b33(00):入寺するものも決して少小にあらず。かくして入寺 0000_,20,633b34(00):定員七十名の縁山には。常に二千乃至三千の大衆をA 0000_,20,634a01(00):養成しつつありしなり。尤も此等除外例が時時緊縮 0000_,20,634a02(00):せられんとせしことなきに非ず。寬保三年正月十 0000_,20,634a03(00):日。所化月番演的に與へられし書付に。 0000_,20,634a04(00):一、三席にても借寮之僧者新弟子入寺御免無之旨 0000_,20,634a05(00):前前之御觸も有之候況直弟直は勿論に候但部頭 0000_,20,634a06(00):并諸役僧者各別 0000_,20,634a07(00):一、寺内入寺近來猥ケ間敷事粗相聞候各吟味之上可 0000_,20,634a08(00):被致加印候右之旨今般被仰出候間三谷御 0000_,20,634a09(00):觸可被成候以上 0000_,20,634a10(00):と。除外例に除外例を設け。而かも之を犯して幾多 0000_,20,634a11(00):の非違の演ぜられしこと。之によりても見るべし。 0000_,20,634a12(00):かかる觸書は屢ば出されたるが如きも。其が効力を 0000_,20,634a13(00):有するは當座少時にして。幾もなく弊害は前に倍蓰 0000_,20,634a14(00):する有樣なりき。 0000_,20,634a15(00):(三) 手續 入寺の際は。前に述べし如く。入寺以 0000_,20,634a16(00):後他門他流に轉ぜざるの誓書を差出し。檀林よりは 0000_,20,634a17(00):入寺證を交附し。其の名を一山の大衆帳に記入す。 0000_,20,634b18(00):而して縁山にはこれを役所に備へ。他の檀林には前 0000_,20,634b19(00):年入寺者の名簿を正月會合の際錄所に提出し。錄所 0000_,20,634b20(00):にては一括して之れを保存す。寬文十一年の法度 0000_,20,634b21(00):(七)第九條に。於諸山毎年初入寺之僧致着帳正 0000_,20,634b22(00):月參府之節增上寺え可被收事と規定せり。此の大 0000_,20,634b23(00):衆帳は檀林掛錫所化の學籍にして。檀林に於ける寮 0000_,20,634b24(00):舍の座次。法問講席の座次。及び部轉。轉席。五 0000_,20,634b25(00):重。兩脉。璽書の相承許可。香衣綸旨執奏等の基準 0000_,20,634b26(00):なるがゆゑに。非常に重大にして緊要なるものなり 0000_,20,634b27(00):き。 0000_,20,634b28(00):(四) 改名 入寺在籍以後の年限により。學席を昇 0000_,20,634b29(00):進し五重。兩脉。綸旨。璽書許可等が左右せらるる 0000_,20,634b30(00):規定なるがゆゑに。入籍當時の名を中途變更するこ 0000_,20,634b31(00):とは。如上の法規を混亂する惧れあるものとして。 0000_,20,634b32(00):萬已むをえざる事情ありて錄所の認可あるに非らざ 0000_,20,634b33(00):れば。決して之れを許さざるなりゆえに。元和條目 0000_,20,634b34(00):第三十三條に。諸談所之所化自今以後縱雖令他山 0000_,20,635a01(00):老若共不可付替同名事と規定し。また元祿十三 0000_,20,635a02(00):年正月八日。檀林會議の結果發布せられし。五箇條の 0000_,20,635a03(00):規定第三條には。諸化之改名諸山一同堅停止之但 0000_,20,635a04(00):し當山は一文字以上他山は月行事以上指合候儀可 0000_,20,635a05(00):爲各別之事と規定し。改名の許可せらるる場合 0000_,20,635a06(00):を。增上寺にては三席の一文字以上。他十七檀林に 0000_,20,635a07(00):ては月行事以上の大衆と。同名なるものとせり。然る 0000_,20,635a08(00):に寬政三年四月の同庵僧侶法制嚴重三箇條の第二條 0000_,20,635a09(00):には。同庵之僧改名之儀時時大僧正御方御直弟之節 0000_,20,635a10(00):思召を以改名被仰付候儀及其庵主之直弟改並上座 0000_,20,635a11(00):差合にて改名相願候分は前來之通被遊御免許候 0000_,20,635a12(00):其餘改名之儀は不相成尤無據顯露之譯合有之僧 0000_,20,635a13(00):えは思召を以改名被仰付候儀も可有之候但同聲 0000_,20,635a14(00):一字改名願且改名之後復本名度段願出候分は前來 0000_,20,635a15(00):之通可有許容事とありて。改名の許可せらるべき 0000_,20,635a16(00):範圍著るしく擴張せられしを見るべし。即ち上座と 0000_,20,635a17(00):同名差合の外。增上寺方丈の直弟と成り。或は寮主 0000_,20,635b18(00):の直弟と成りたる時は勿論。呼聲の同じき時は一字 0000_,20,635b19(00):を改め。本名に復することも許容せられ。其の上に 0000_,20,635b20(00):もよんどころなき顯露なる事情あるものは。方丈の 0000_,20,635b21(00):意見により改名を許可せらるべきこととなれり。 0000_,20,635b22(00):(五) 他山 一たび檀林に入寺掛錫したる後ち。他 0000_,20,635b23(00):の檀林に籍を移轉するを他山と云ふ。增上寺より他 0000_,20,635b24(00):の檀林に。或は府内檀林より田舍檀林に他山するに 0000_,20,635b25(00):は。不都合の行爲ありて破門せられたるに非らざる 0000_,20,635b26(00):以上は左程困難なかりしがごときも。他の檀林より 0000_,20,635b27(00):增上寺に他山する場合は非常に面倒なりき。是れ元 0000_,20,635b28(00):來增上寺には大衆多勢にして席入に困難なり。しが 0000_,20,635b29(00):るに他山のものも轉籍の場合は相當の席に組み入れ 0000_,20,635b30(00):ざるべからさるが故に。之れを容易に許す時は在山 0000_,20,635b31(00):者の昇席を益益困難ならしめ不平紛出するが故な 0000_,20,635b32(00):り。然れども事情によりては全く之れを許さざるを 0000_,20,635b33(00):えず。故に延寶三年の條目(二)第一條に。增上寺方丈 0000_,20,635b34(00):入院之時附來上座之僧於被列之者不可過二 0000_,20,636a01(00):人座配者月行事遂僉議可定之事附他山之所化 0000_,20,636a02(00):入寺又者歸山之僧有之者選其器量障儀於無之 0000_,20,636a03(00):者糺座配可有許容事と云ひ。此の中上座につ 0000_,20,636a04(00):きては。延寶九年御條目追加に。此の上座申者增上 0000_,20,636a05(00):寺五十僧以上上座申之儀而候間左樣可被相心得 0000_,20,636a06(00):候とあり。即ち一文字以上のことなるべし。また貞 0000_,20,636a07(00):享二年條目(三)第四條には。更に增上寺方丈入院 0000_,20,636a08(00):之時以先例上座之僧兩人宛於隨身者彌器量吟味 0000_,20,636a09(00):之上可被連之尤寺法等無障樣可被致之且亦 0000_,20,636a10(00):諸檀林之所化增上寺え入寺歸山之儀正路可被申 0000_,20,636a11(00):付事と云ひ。同條目下知狀第三條には之れを敷演 0000_,20,636a12(00):説明せり。即ち小石川或は鎌倉より增上寺へ入院の 0000_,20,636a13(00):際には。其の山に於ける一文字以上のもの二人。及 0000_,20,636a14(00):び其れ以下のもの五十人までは。隨從して入寺或は 0000_,20,636a15(00):歸山せしむることは法主當然の權利なりしが如し。 0000_,20,636a16(00):其の他の各檀林中。將來能化とも成る器量二人まで 0000_,20,636a17(00):は。各檀林の能化の推薦により。入寺或は歸山せし 0000_,20,636b18(00):め。或は檀林能化の菩提所に轉じ。四ケ本山に移住 0000_,20,636b19(00):し。或は檀林に遷化して。所化の增上寺に隨從入寺す 0000_,20,636b20(00):る能はざる場合にも。其の能化の直弟は願により入 0000_,20,636b21(00):寺或は歸山せしむることを規定したるものなるも。 0000_,20,636b22(00):これ等を實際に行はんには餘程の困難ありたるべ 0000_,20,636b23(00):く。就中能化推薦の兩名入寺の如き。諸檀林には熱 0000_,20,636b24(00):望するところなりしならんも。增上寺にては種種の 0000_,20,636b25(00):理由を設けて之れを實行せざりしが如し。 0000_,20,636b26(00):二 消帳 0000_,20,636b27(00):檀林備へ付の大衆帳より名籍を削除するを消帳と 0000_,20,636b28(00):云ふ。學籍除名なり。消帳には種種の理由あり。即 0000_,20,636b29(00):ち出世。寺持。病身。辭山。隨身。往生。不見屆等 0000_,20,636b30(00):是れなり。幕命により香衣檀林或は紫衣地に住職せ 0000_,20,636b31(00):る爲めに除籍せらるるを出世消帳と云ひ。檀林紫衣 0000_,20,636b32(00):地以外の寺院に住職せる爲めに除籍せらるるを寺持 0000_,20,636b33(00):消帳と云ひ。疾病により學業成就の見込みなき爲め 0000_,20,636b34(00):に除籍せらるるを病身消帳と云ひ。檀林能化の轉住 0000_,20,637a01(00):に隨從して他の檀林に轉籍し或は或は都合により他 0000_,20,637a02(00):の檀林に移りて除籍せらるるを隨身消帳と云ひ。死 0000_,20,637a03(00):亡の爲めに除籍せらるるを往生消帳と云ひ。放逸無 0000_,20,637a04(00):慚にして檀林の法規に違背し世間の法律に觸反せる 0000_,20,637a05(00):が爲めに寮主より寺社奉行に屆出て除籍するを不見 0000_,20,637a06(00):屆消帳と云ふ。是れ本人より除籍の請求を待たざる 0000_,20,637a07(00):が故なり。或は愚鈍無智にして檀林の交際に堪へ 0000_,20,637a08(00):ず。或は利智聰慧にして慣習的束縛に甘んぜず。或 0000_,20,637a09(00):は道念醇厚にして名利の驅使を厭ひて。半途檀林を 0000_,20,637a10(00):辭退して故國に歸息し。四方に遊學し林叢に念佛す 0000_,20,637a11(00):る者あり。此れ等を辭山消帳と云ふ。辭山消帳の第 0000_,20,637a12(00):二或は第三の理由に因づく者の數の決して尠少なら 0000_,20,637a13(00):ざりしこと事實にして。此の事實は德川時代の本宗 0000_,20,637a14(00):が幕府と同じく萬事形式に流れ慣習を固執し。高才 0000_,20,637a15(00):逸足の士摯實熱誠の人を容るるの餘地なく。腐膓愚 0000_,20,637a16(00):昧の人物を以て充滿せられしことを示すものにし 0000_,20,637a17(00):て。宗勢振はず敎化擧らざりし大原因實に玆に存 0000_,20,637b18(00):す。 0000_,20,637b19(00):三 傳法 0000_,20,637b20(00):宗門子弟が千里笈を負ひて檀林に入寺し。刻苦勉 0000_,20,637b21(00):勵する所以のものは。將來能化師となり。敎誡師と 0000_,20,637b22(00):なりて遺憾なき。自行化他の德業を積累するにあ 0000_,20,637b23(00):り。此德業の成熟を證明するに宗戒兩脈の傳授あり。 0000_,20,637b24(00):璽書の許可あり。中古以來此等の傳禀のほか五重 0000_,20,637b25(00):及び布薩戒の相傳ありと雖ども。五重と宗脈は本來 0000_,20,637b26(00):同一のものを二分したるもの。布薩戒は圓頓戒の變 0000_,20,637b27(00):化し之に代へられたるものなるが。元和條目には圓 0000_,20,637b28(00):戒五重兩脈及び璽書の名目あるも更らに布薩戒なる 0000_,20,637b29(00):名目なし。從つて之れを傳授すべき年限を規定する 0000_,20,637b30(00):にも兩脈と璽書とを出すのみ。該條目第五條に淨 0000_,20,637b31(00):土修學不至拾五年者不可有兩脈傳授於璽書 0000_,20,637b32(00):許可者雖爲器量之仁不滿二十年者堅不可 0000_,20,637b33(00):令相傳事とあり。即ち兩脈傳授は入寺以後十五年 0000_,20,637b34(00):を經過し。璽書許可は二十年を經過することを要す 0000_,20,638a01(00):とせるも。此の規定が漸次に破壞せられ其の年限の 0000_,20,638a02(00):短縮せられしことは。寬文十一年檀林決議(七)第 0000_,20,638a03(00):六條に。五重者修學五年血脈者十年相究可致傳 0000_,20,638a04(00):授事但無據成就之仁者立證人少分可有宥 0000_,20,638a05(00):免歟と云ひ。同十二年の決議第二條には。五重相 0000_,20,638a06(00):傳者五年血脈者十年相究候但無據子細在之者穿鑿 0000_,20,638a07(00):之上にて一年宛者可有宥免若宥免及二年能 0000_,20,638a08(00):化有之者中間可爲擯出事とあり。此れ等條目の 0000_,20,638a09(00):中に。五重と血脈とを區別したるは當時既に。宗脈 0000_,20,638a10(00):以外に五重の一目成立したる證左とすべく。而して 0000_,20,638a11(00):年限において血脈を十年とせるは既に五年の短縮な 0000_,20,638a12(00):るに拘はらず。尚ほ一箇年の短縮を許容して。五重 0000_,20,638a13(00):相傳に至りては單に五年とす。非常なる短縮と云は 0000_,20,638a14(00):ざるへからず。 0000_,20,638a15(00):然るに此の寬文年度の規定も。永く嚴守せられざ 0000_,20,638a16(00):りしことは。左の諸高僧の五重兩脈を受けし年限に 0000_,20,638a17(00):徴しても明なり。 0000_,20,638b18(00):入寺 入寺 自入寺 五重 自入寺 兩脉 自入寺 拜綸 年齡 年 至五重 年 至兩脉 年 至拜綸 年 0000_,20,638b19(00):靈潭 一七 元祿五年 六 元祿十年 七 元祿十一年 0000_,20,638b20(00):德巖 一二 寶永五年 六 正德三年 八 正德五年 一三 享保五年 0000_,20,638b21(00):關通 一六 寶永八年 二 正德二年 六 享保元年 一三 享保八年 0000_,20,638b22(00):雲説 一八 享保八年 四 享保十一年 九 享保十六年 0000_,20,638b23(00):佛定 二〇 寶曆四年 三 寶曆六年 七 寶曆十年 一二 明和二年 0000_,20,638b24(00):法岸 一八 寶曆十一年 二 寶曆十二年 五 明和八年 0000_,20,638b25(00):法洲 二六 寬政二年 二 寬政三年 三 寬政四年 0000_,20,638b26(00):法道 一四 文化十四年 四 文政三年 五 文政四年 0000_,20,638b27(00):大基 一八 享和二年 三 文化元年 四 文化二年 0000_,20,638b28(00):勢かくの如なるが故に制規も之に應ずるの要あり。 0000_,20,638b29(00):寬政三年四月の制條には。 0000_,20,638b30(00):同庵之僧初登山已來より大衆帳面に名前は相記有 0000_,20,638b31(00):之候得共正しく初登山より三箇年を不經間は向 0000_,20,638b32(00):後五重御傳法御免許不被遊且七箇年を不經間 0000_,20,638b33(00):は宗脈御傳法御免許無之候 0000_,20,638b34(00):とありて。五重三年兩脈七年と定められたり。 0000_,20,639a01(00):此の規定すら增上寺にては或程度まで守られたる 0000_,20,639a02(00):ならんも。他檀林にては果して如何なりしか疑はし 0000_,20,639a03(00):く。旦つ特殊なる人物に對しては此の年限も適用せ 0000_,20,639a04(00):ずして。隨宜五重兩脈の相傳を許されたるが如し。 0000_,20,639a05(00):即ち德本は享保三年江戸に來り。傳通院に於て其の 0000_,20,639a06(00):冬十二月兩脈を相傳せられたりと云ひ。又關通は可 0000_,20,639a07(00):圓と相謀り生實大巖寺貫主良義に請ひ。普寂の爲め 0000_,20,639a08(00):に宗戒兩脈の譜を傳授せられたりと云ふ。這は極端 0000_,20,639a09(00):なる二特例なるも。此等の特例に倣ひ。多くの除外 0000_,20,639a10(00):或は特別扱の之ありしは想像するに難からず。現に 0000_,20,639a11(00):余が郷國に於ける頃古老の物語には。江戸加行は三 0000_,20,639a12(00):年なりしと聞けり。さればにや前制條の後書には。 0000_,20,639a13(00):右三個條向後嚴重に法制相立候樣被仰出候御趣 0000_,20,639a14(00):意は於諸國不如法之僧初て檀林所に致登山僅 0000_,20,639a15(00):一兩年を經て兩脈相承致し直に綸旨頂戴之僧も間 0000_,20,639a16(00):間有之趣粗相聞種種差障候筋有之悲歎至極に被 0000_,20,639a17(00):思召候依之右之趣諸檀林一統に嚴制相立候樣有 0000_,20,639b18(00):之度思召に付當正月八日會談之節被仰出則檀 0000_,20,639b19(00):林方評議之上右之御趣意諸山一同後來堅相守可 0000_,20,639b20(00):申旨評決有之候前書之趣今般格別之御趣意を以 0000_,20,639b21(00):被仰出候間寮主之面面其旨被相心得候樣三谷え 0000_,20,639b22(00):御觸可被成候以上 寬政三亥年四月 0000_,20,639b23(00):とあり。前條五重三年兩脈七年制の由りて來る理由 0000_,20,639b24(00):なるも。他檀林に於て果して永く此定制を遵守せざ 0000_,20,639b25(00):りしは明なり。 0000_,20,639b26(00):五重兩脈がかく年限を短縮せられ其の傳受を急が 0000_,20,639b27(00):れしに反し。布薩璽書の傳受許可は左まで急がれざ 0000_,20,639b28(00):りしのみならず。往往之れを受くるを欲せざる傾向 0000_,20,639b29(00):を生ぜり。故に享保十八年十月縁山在籍の所化及び 0000_,20,639b30(00):府内の寺院に對し。法滿二十年以上の者は必らず 0000_,20,639b31(00):璽書布薩を相承すべく。若受くることを得ざるもの 0000_,20,639b32(00):は事由を屆出づべしと觸れられたり。其の所化に對 0000_,20,639b33(00):するものは左の如し。 0000_,20,639b34(00):法滿二十年之僧者如古來定法璽書布薩相承 0000_,20,640a01(00):究宗門之蘊奧隨縁於令寺院住職者應其請 0000_,20,640a02(00):對在家許化他五重且布薩之血脉候事爲寺院 0000_,20,640a03(00):住持之職分之處近來不守其法之僧間間有之 0000_,20,640a04(00):剩雖令寺院住職布薩未相傳殊不得璽書之 0000_,20,640a05(00):許可漫對他化他五重布薩之血脉相授候事甚以不 0000_,20,640a06(00):如法之至法賊之一人難遁候然二十年以上之僧者 0000_,20,640a07(00):寺院住職之法候間未相傳之僧者豫得其意古法 0000_,20,640a08(00):之通漸漸御附法可被致成就候 附年滿成就之 0000_,20,640a09(00):望無之學席永在堪之僧茂於其滿者可究宗 0000_,20,640a10(00):蘊事候但縁輪扇間兩席之間其心掛可有之候 0000_,20,640a11(00):寺院に對するものも大體は之に同じければ略す。 0000_,20,640a12(00):四 拜綸 0000_,20,640a13(00):學業成就し香衣上人號の綸旨を拜受するを。拜綸 0000_,20,640a14(00):とも出世とも云ふ。出世とは此の綸旨を拜戴すれば 0000_,20,640a15(00):中等以上の寺院に住職し香衣を著し。引導法話等化 0000_,20,640a16(00):他の資格を備ふるが故なり。 0000_,20,640a17(00):(一) 年 綸旨拜戴には入寺後學業の年限あり。 0000_,20,640b18(00):元和條目第六條には。糺明學問之年增上寺當住 0000_,20,640b19(00):並其談義所之能化以兩判之副狀可啓本寺於 0000_,20,640b20(00):令滿足二十年之稽古者可令頂戴正上人之綸 0000_,20,640b21(00):旨不至二十年者可爲權上人事附十五年以來 0000_,20,640b22(00):之出世之座次可有權正分別事とありて。即ち滿 0000_,20,640b23(00):二十年の者は正上人綸旨。十五年より十九年までは 0000_,20,640b24(00):權上人綸旨を頂戴すべき規定なり。然るに寬文十一 0000_,20,640b25(00):年檀林會議議決(七)第二條には。權現樣如御條目 0000_,20,640b26(00):權之綸旨修學十五年正之綸旨二十年堅相究可出添 0000_,20,640b27(00):狀事但無據成就之僧者立證人少分可有宥 0000_,20,640b28(00):免歟とあり。但書は元和條目に變更を試みたるも 0000_,20,640b29(00):の。併奈邊まで之れが變化せられしかは翌年の決議 0000_,20,640b30(00):に見ゆ。綸旨之副狀如御條目彌十五年相究候但無 0000_,20,640b31(00):據子細於有之者不論成就不成就穿鑿之上而 0000_,20,640b32(00):十三年以上者可有宥免縱令何樣之儀候共十二年 0000_,20,640b33(00):以下堅不可出副狀若此旨違背之能化者中間可 0000_,20,640b34(00):爲擯出事附正上人副狀二十年不滿者堅不可出 0000_,20,641a01(00):之事。即ち十三年以上は權上人綸旨拜戴するをうる 0000_,20,641a02(00):に至れり。此の制規は一般には遵守せられたるも。 0000_,20,641a03(00):下谷幡隨院だけは開山の意樂とて。晩年僧の爲に一 0000_,20,641a04(00):層短年月にて拜綸の手續をなしたりと云ふ。 0000_,20,641a05(00):(二) 添狀と執奏 以上の年に達すと雖も。所屬 0000_,20,641a06(00):檀林及增上寺の能化職の兩判の副狀を備へざれば。 0000_,20,641a07(00):本山之を執奏すること能はざること上述の如し。 0000_,20,641a08(00):(三) 謝金 綸旨を頂戴するには謝金を要すること元 0000_,20,641a09(00):和條目にも見ゆ。足利幕政の中葉以後。朝廷公卿の 0000_,20,641a10(00):式微甚しく。爲に紫香上人並に敕願所の綸旨を賜ひ 0000_,20,641a11(00):て。僧侶より報謝金を納めしめて辛うじて調度の補 0000_,20,641a12(00):足とし給ひしが故に。敕願所並に紫香上人の綸旨荐 0000_,20,641a13(00):りに濫受せられしか。德川幕府に至りては寺院僧侶 0000_,20,641a14(00):の資格を制限し。此資格を具備するに非れば朝廷に 0000_,20,641a15(00):も濫受なき樣禁中法度を以て之を規定し。且報謝金 0000_,20,641a16(00):にも一定の額を規定して其以外の收歛を禁じたり。 0000_,20,641a17(00):即同條目第二十四條に。出世之官物之事綸旨之分銀 0000_,20,641b18(00):子二百文目參内之分五百文目若爲兩樣同時者七百 0000_,20,641b19(00):文目相定上者不可論米糓之高下事と規定し。綸 0000_,20,641b20(00):旨拜戴のみなれば銀二百文目を奉献し。參内して之 0000_,20,641b21(00):を頂戴する場合には更に五百文目を增すのみにて足 0000_,20,641b22(00):りしが如きも。後には宮門跡に對する帽子料等諸雜 0000_,20,641b23(00):費を合して。十五兩前後の大金を要し。特に參内す 0000_,20,641b24(00):る場合は旅費宿泊料の外莫大の報謝料を要したりと 0000_,20,641b25(00):云ふ。 0000_,20,641b26(00):(四) 開衣式 香衣綸旨頂戴の上は直に香衣を被着 0000_,20,641b27(00):しても可なるべく。又享保十二年以後は直に被着を 0000_,20,641b28(00):許されたるも。其以前には知恩院に於て開衣式と稱 0000_,20,641b29(00):すること行はれ。此式を擧行したる後に非ざれば被着 0000_,20,641b30(00):を許されざりしこと上に述ぶる所の如し。 0000_,20,641b31(00):(五) 拜綸者數 香衣上人綸旨頂戴には種種の困難 0000_,20,641b32(00):なる規定と。復雜なる手續と。多額の報謝金とを要 0000_,20,641b33(00):せしが爲め。寬永正保年中迄は。之を頂戴する者 0000_,20,641b34(00):甚稀にして。三都以外の田舍にては。一國辛く兩三 0000_,20,642a01(00):僧に過ぎず。三都に於ける者も推して知るべきなる 0000_,20,642a02(00):も。漸次規定手續を簡易にしたる爲め。文化文政の 0000_,20,642a03(00):頃に至りては。年分の拜綸者二百名を降らざるに至 0000_,20,642a04(00):れりと云ふ。 0000_,20,642a05(00):五 被位鴻漸 0000_,20,642a06(00):(一) 被位 宗門子弟入寺以後檀林に籍を置くを被 0000_,20,642a07(00):位と云ひ。或は在席と云ふ。被位は被管の轉用にし 0000_,20,642a08(00):て檀林能化に直隷する所化の意なり。檀林に於ける 0000_,20,642a09(00):被位或在席者は。初入寺の極新來より二學頭の如 0000_,20,642a10(00):き年者をも包有するが故に。毎年入寺者の多き增 0000_,20,642a11(00):上寺にありては。其數實に三千有餘に達し。之が調 0000_,20,642a12(00):査も容易ならざりしが如し。 0000_,20,642a13(00):他檀林に於ては其數多からざるが故に之が調査容 0000_,20,642a14(00):易なりしも。增上寺にては被位見と稱し毎年一回在 0000_,20,642a15(00):席者の調査を行へり。調査には本坊に各寮在席者の 0000_,20,642a16(00):名札を揭列し。各寮主出頭して所屬被位者の名札を 0000_,20,642a17(00):持返り。殘餘は脱退者と見做す。此際被位見料とし 0000_,20,642b18(00):て各被位者より手數料若干金を徴收す。此手數料の 0000_,20,642b19(00):外毎年二回被位料として一分(二十五錢)づづを徴 0000_,20,642b20(00):收す。故に被位料及被位見料を納付すること能はざる 0000_,20,642b21(00):者は。自然被位を削除せらるるを以て。師僧或は父兄 0000_,20,642b22(00):より此等の資料を給與せらるるか。或は他に援護者 0000_,20,642b23(00):ありて之か支給を受ること能はさる者は解間僧と稱し 0000_,20,642b24(00):て兩安居の中間市内或は近傍の寺院に隨身して之を 0000_,20,642b25(00):儲蓄するの要あり。若然らずして寮主の一時取替ふ 0000_,20,642b26(00):ることあるも。出世の時は之を返償するに非ざれは。 0000_,20,642b27(00):檀林錄所の副書を得ること能はざるなり。 0000_,20,642b28(00):(二) 鴻漸 宗門子弟が被位料を納め被位見料まで 0000_,20,642b29(00):も拂ひて。檀林に在席する所以は。五重兩脈の相傳。 0000_,20,642b30(00):布薩璽書の許可。及香衣綸旨執奏の副狀等。一宗僧 0000_,20,642b31(00):侶としての資格を具備する上に必然なる年限を此に 0000_,20,642b32(00):經るを要するが故なり。是縁山のみにても常に三千 0000_,20,642b33(00):有餘の大衆が在席したる重なる理由なるも。尚他に 0000_,20,642b34(00):一の重大なる理由あり。即在席中。部を轉じ席を昇 0000_,20,643a01(00):進して。運よくは香衣檀林に出世し。或は紫衣の菩 0000_,20,643a02(00):提所に任命せられ。運拙くも市内或は地方格寺の住 0000_,20,643a03(00):職に特命せられんとの冀望是なり。此等部轉昇席を 0000_,20,643a04(00):鴻漸と稱す。 0000_,20,643a05(00):部轉 德川時代には宗學の課目を九部に分てり。 0000_,20,643a06(00):即名目。頌義。選擇。小玄義。大玄義。文句。禮讚。 0000_,20,643a07(00):論。無部是なり。各科講究して考試の上次部に轉ず 0000_,20,643a08(00):るが本旨なりしも。後には單に被位の年間を以て部 0000_,20,643a09(00):を轉じ。其實力の奈何を問はざるに至れり。貞享二 0000_,20,643a10(00):年法度(三)下知狀第八條に部轉之儀如有來法式一 0000_,20,643a11(00):部三年宛勤學之以後可轉之縱雖爲老僧初學之 0000_,20,643a12(00):所化者名目之席三年指置頌義之座可移之不滿 0000_,20,643a13(00):年席僧致部轉儀堅可爲無用事と。以て貞享以 0000_,20,643a14(00):前此因襲の既に久しきを見るべし。而して此一部三 0000_,20,643a15(00):年の制度は。種種の口實の下に破壞せられしこと前 0000_,20,643a16(00):後に屢之ありしが如し。即寬文十一年檀林決議(七) 0000_,20,643a17(00):第八條に。背古來之壁書加部加年仕者急度可申 0000_,20,643b18(00):付事附中二年過可致部轉事とあり。以て三年未 0000_,20,643b19(00):滿にして部轉せしめたる者ありしを見るべく。又貞 0000_,20,643b20(00):享三年檀林會議決議七箇條中に。就部轉三ケ年一 0000_,20,643b21(00):度被相定候從今年至卯之冬安居之終諸檀林同 0000_,20,643b22(00):時可轉之勿論臨終及入院部轉堅無用之事とあるは 0000_,20,643b23(00):檀林能化が遷化するか。或は晋山の際特別に三年未 0000_,20,643b24(00):滿者に部轉せしむることの行はれたるを見るべし。 0000_,20,643b25(00):課目九部ありと雖も第九無部は其名の示す如く定 0000_,20,643b26(00):れる學科あるに非ず。故に實際の學科は前八部のみ 0000_,20,643b27(00):なり。前八部二十四年にして宗學の蘊奧を窮盡し。 0000_,20,643b28(00):第九無部は智辯無窮にして能化の補處たる位置にあ 0000_,20,643b29(00):り。檀林能化職紫衣地別格寺の住職は。無部に遊戯 0000_,20,643b30(00):すること久しきに亘れる者に非ざれば其選に當るをえ 0000_,20,643b31(00):ず。無部に入り檀林能化職等を望まざる者も。五重 0000_,20,643b32(00):兩脈の傳受。布薩璽書の許可。香衣上人綸旨等。孰 0000_,20,643b33(00):れも相當の年限を經過し。八部の相當の部を修了し 0000_,20,643b34(00):たるものならざるべからず。八部の中名目頌義二部 0000_,20,644a01(00):を外座と呼び。選擇以上を内座と稱す。内座の中一 0000_,20,644a02(00):番輪より十四番輪までの階級あり。一番輪の上席は 0000_,20,644a03(00):三席の候補者なり。 0000_,20,644a04(00):轉席 縁山以外の檀林に於ては。大衆少數なれば 0000_,20,644a05(00):學席の如きも簡單にして。概ね部轉により學頭二 0000_,20,644a06(00):乃至月行事等を定めたるのみ。礫川深川の如き比較 0000_,20,644a07(00):的多數の所化を有する所に於ても。但下讀法問によ 0000_,20,644a08(00):り學席を定めたるのみなりしが。縁山に於ては下讀 0000_,20,644a09(00):法問席の外に上讀法問席ありて。長大衆の席を分 0000_,20,644a10(00):てり。此上讀法問席が增上寺に於ける表面の公席に 0000_,20,644a11(00):して。檀林能化職も紫衣住職も乃至別格寺の住職 0000_,20,644a12(00):も。皆此席を經歷したる老分を以てせり。 0000_,20,644a13(00):上讀法問席は之れを縁輪。扇間。一文字の三席に 0000_,20,644a14(00):大別す。凡上讀法問の席は橫長方形にして。内陣に 0000_,20,644a15(00):近き上座には貫主を中央にして五十僧一列に下に向 0000_,20,644a16(00):ひ坐し。外縁に近き下座には六十六僧上に向ひ列座 0000_,20,644a17(00):し。兩側には三十四僧兩分して對座す。下座六十六 0000_,20,644b18(00):僧を縁輪或縁側席と稱す。盖し其座の外縁側に接す 0000_,20,644b19(00):るが故なり。兩側の三十四僧を扇之間或は橫木間席 0000_,20,644b20(00):と稱す。之れ上下兩席の中間に橫座するが故なら 0000_,20,644b21(00):ん。上座五十僧を一文字席或は單に上座と稱す。一 0000_,20,644b22(00):文字とは貫主と一文字に列座するが故なり。此を三 0000_,20,644b23(00):席と稱す。三席合して百五十僧あり。其の席次は一 0000_,20,644b24(00):文字。扇間。縁輪と次第し。一文字は三席の最上位 0000_,20,644b25(00):なり。一文字席中上座十二僧を月行事或は月番或は 0000_,20,644b26(00):月役と稱し。他の三十八僧と區別す。此の十二僧は毎 0000_,20,644b27(00):月交番に大衆統率の事務に參與す。月行事の首座を 0000_,20,644b28(00):伴頭或は學頭と稱す。伴頭は幕府に對する公稱にし 0000_,20,644b29(00):て學頭は宗内に於ける私稱なり。享保十一年八月十 0000_,20,644b30(00):八日の觸書に。從古來學頭職之僧伴頭と呼來候然共 0000_,20,644b31(00):寺家之一老是又伴頭と申來候得者兩月行事列座之砌 0000_,20,644b32(00):相紛候間向後學席方者學頭と可被相改之旨大僧 0000_,20,644b33(00):正被仰出候以上とあるによれば。内部に於ける學頭 0000_,20,644b34(00):の稱は古きを知るべし。然れども寬政十一年十月之 0000_,20,645a01(00):が公稱を幕府に請願したるも。難成とて却下せられ 0000_,20,645a02(00):たりとは增上寺日鑑の記する所なり。伴頭の次席を 0000_,20,645a03(00):二と稱す。伴頭二は香衣檀林能化の候補者たる 0000_,20,645a04(00):こと上述の如し。月行事を除ける一文字席三十八僧は 0000_,20,645a05(00):又指南席と稱す。是れ論講とて法問論議の際。法則の 0000_,20,645a06(00):捌方を大衆に講釋し。また毎年十一月五重傳法並び 0000_,20,645a07(00):に宗戒相承の節方丈傳授の旨を新授者に復述再傳す 0000_,20,645a08(00):るが故なり。月行事に伴頭あるが如く。一文字以下 0000_,20,645a09(00):の三席には夫夫首座あり。一文字席には之れを大衆 0000_,20,645a10(00):頭と云ひ。扇縁兩席には席頭と云ふ。 0000_,20,645a11(00):三席以下の者を内外二座に大別す。内座は選擇部 0000_,20,645a12(00):以上の僧にして之を十四番輪に分つ。外座は頌義名 0000_,20,645a13(00):目二部の大衆なり。 一番輪の上席より縁輪席に入 0000_,20,645a14(00):るを席入と稱す。縁輪より扇之間に。扇之間より一 0000_,20,645a15(00):文字に昇進するを轉席と謂ふ。轉席の順序は下席の 0000_,20,645a16(00):最上位にある者之に當るを普通とすれども。扇之間 0000_,20,645a17(00):席には席役講。一文字席には内講再役講等あり。此 0000_,20,645b18(00):等は上昇の考試にして。此を通過せざる者は縱令首 0000_,20,645b19(00):座たりと雖も轉席の榮を得ること能はず。享和元年書 0000_,20,645b20(00):上の學席階級には。一文字席缺員ある場合には。扇 0000_,20,645b21(00):之間卅四僧の内。學業精勤にして人物篤實なる者 0000_,20,645b22(00):を。月行事十二人及所化役者兩僧入札の上。方丈意 0000_,20,645b23(00):見を加へ選定する規定なりとす。一文字より月行事 0000_,20,645b24(00):に成るを入月行事或は月成と稱す。入月行事には一 0000_,20,645b25(00):文字在席中。内講再役講を勤めざるべからざるのみ 0000_,20,645b26(00):ならず。貞享二年條目下知狀(三)に。月行事は令指 0000_,20,645b27(00):南初學之所化之間彼席明候節轉席之僧上座三十八 0000_,20,645b28(00):人之内不依座之高下右役儀相勤器量之所化月行 0000_,20,645b29(00):事中被入札方丈吟味之上可被申付候事とあ 0000_,20,645b30(00):り。又學席階級には。在席の月行事十一人及役者兩 0000_,20,645b31(00):名の入札により。方丈之を選任せらるる規定なりと 0000_,20,645b32(00):す。故に縱令大衆頭たりと雖も。其榮を荷ふことを必 0000_,20,645b33(00):しがたきに似たり。 0000_,20,645b34(00):以上三席の轉席昇進は增上寺に於けることなるが。 0000_,20,646a01(00):他檀林に於ては上讀法問なく。下讀法問のみなるが 0000_,20,646a02(00):故に。其席名も下讀法問に從ひ縁輪席なし。而して人 0000_,20,646a03(00):數少ければ其昇進も比較的容易なりしこと勿論なり。 0000_,20,646a04(00): 0000_,20,646a05(00):第六章 講 學 0000_,20,646a06(00): 0000_,20,646a07(00):檀林は本宗僧侶の養成所にして。洒掃進退應酬よ 0000_,20,646a08(00):り宗侶として日常必須なる訓練を與へ。勤行作法等 0000_,20,646a09(00):の法式行儀の修習に力めしむる等。單に學問研究を 0000_,20,646a10(00):目的とせざるは勿論なるも。而も檀林の主なる目的 0000_,20,646a11(00):が宗餘乘内外典の敎授研覈により。宗侶の智解を啓 0000_,20,646a12(00):發するにありしことは。其所化の寓居を學寮と呼び。 0000_,20,646a13(00):三席を學席と稱し。大衆の首座を學頭と名けしにて 0000_,20,646a14(00):も知るべきのみならず。檀林創定の當初に於ては。 0000_,20,646a15(00):潑溂たる生氣談場に橫溢し。智辯無窮の達士を輩出 0000_,20,646a16(00):したりしも。中古以來徒らに入寺の年によりて座 0000_,20,646a17(00):席の進退を決するに及び。學問知識の淺深は更に其 0000_,20,646b18(00):用を爲さざるのみならず。機械的形式的の學席には 0000_,20,646b19(00):却て障害と成るの奇觀を呈し。眞面目なる研究攻學 0000_,20,646b20(00):は地を拂ひて空しく。檀林に於ける學問は單に空名 0000_,20,646b21(00):虚聲に過ぎざるに至れり。然れども一宗の生命は斯 0000_,20,646b22(00):の如くにしてよく保持せらるべきに非ず。玆に於て 0000_,20,646b23(00):か檀林以外にありて鋭意宗餘乘を研覈する一派の學 0000_,20,646b24(00):者を輩出せり。德川時代就中其中葉以後の宗學は。 0000_,20,646b25(00):檀林よりも寧此等の特志家によりて維持せられ發揮 0000_,20,646b26(00):せられたり。吾人は先づ檀林に於ける學問の狀態を 0000_,20,646b27(00):述べ。次は檀林以外の特志家の研究に及ぶべし。 0000_,20,646b28(00):一 檀林の學問 0000_,20,646b29(00):(一) 學寮 0000_,20,646b30(00):檀林學問の根據は學寮にあり。學寮は本と衆寮と 0000_,20,646b31(00):稱し學生の宿泊所なると同時に日常の學問修養所な 0000_,20,646b32(00):り。學寮には寮坊主或は學寮主或は單に寮主と稱す 0000_,20,646b33(00):る者ありて。其寮菴の大衆を統率し之が敎育の任に 0000_,20,646b34(00):膺る。故に寮主は相當の能力ある者ならざるべから 0000_,20,647a01(00):す。是を以て元和條目第三十二條にも。頌義十人衆 0000_,20,647a02(00):以下之僧不可爲寮坊主事と規定せり。頌義十人 0000_,20,647a03(00):衆とは下讀法問の席に於て法問主の左右に列座する 0000_,20,647a04(00):十人にして。此席には頌義以上選擇文句小玄義部の 0000_,20,647a05(00):者も之に加るも。其場合選擇以上の高者も頌義の 0000_,20,647a06(00):席に歸るが故に又歸頌の名あり。要するに寮主たる 0000_,20,647a07(00):には此下讀法問の歸頌十人衆たり得る者ならざるべ 0000_,20,647a08(00):からずと云ふにあり。學寮に寄宿する大衆を同菴と 0000_,20,647a09(00):稱す。 0000_,20,647a10(00):學寮生即同菴が遵守すべき法規は。增上寺第十世 0000_,20,647a11(00):感譽上人の作定せられしものとして傳ふる談義所壁 0000_,20,647a12(00):書三十三箇條あり。左に之を揭げん。 0000_,20,647a13(00):一、歸敬三寶之事 0000_,20,647a14(00):一、敬上慈下之事 0000_,20,647a15(00):一、勤行番次位不可亂附香華燈明茶湯等可爲嚴 0000_,20,647a16(00):密致油斷者過料之事二十錢 0000_,20,647a17(00):一、日中當番之衆護念經之内可出不然者過料之事 0000_,20,647b18(00):二十錢 0000_,20,647b19(00):一、談場略頌之内可出不然者過料之事二十錢 0000_,20,647b20(00):一、着座之後及再三不可立事違背之仁者過錢料之事イ 0000_,20,647b21(00):二十錢 0000_,20,647b22(00):一、法問辯論並世話不可有事 0000_,20,647b23(00):一、法問之上同時之難者可讓下座事 0000_,20,647b24(00):一、法問之時頌義十人衆一不審選擇衆二不審小玄義 0000_,20,647b25(00):已上者可隨器量事但非輪番者可有遠慮 0000_,20,647b26(00):一、大衆列座之砌對上座吐惡口者可及追放 0000_,20,647b27(00):至違背之輩者大衆同心可追放之事 0000_,20,647b28(00):一、談場不可有懈怠若違背之仁者過料之事二十 0000_,20,647b29(00):錢 0000_,20,647b30(00):一、結安居之内高聲歌舞可停止事違背之人者過料 0000_,20,647b31(00):之事二十錢 0000_,20,647b32(00):一、結安居之内於小寮樂法問可令停止事但除 0000_,20,647b33(00):下讀法問 0000_,20,647b34(00):一、兩安居之内不可致他宿但無據仔細有之 0000_,20,648a01(00):者可屆當月行事不然者寺家追放之事 0000_,20,648a02(00):一、解夏已前恣不可離散至違背之僧者永會合 0000_,20,648a03(00):可停止事但於遠境歸國之人者少可有容赦 0000_,20,648a04(00):一、部超越不可有之事 0000_,20,648a05(00):一、頌義三十卷不讀選擇頂戴不可許之事 0000_,20,648a06(00):一、頭巾珠數頌義十人已上許之事 0000_,20,648a07(00):一、掃除之砌不出之人者過料之事二十錢 0000_,20,648a08(00):一、掃除之砌老若之上不可讒言之事違背之仁者 0000_,20,648a09(00):寺家追放 0000_,20,648a10(00):一、入寺之前後不可亂至退轉之僧者無異儀 0000_,20,648a11(00):可令下沉之事但近國之者一夏一人遠國之者一 0000_,20,648a12(00):年一人宛可爲下座 0000_,20,648a13(00):一、他寺相續之年數可立之事 0000_,20,648a14(00):一、他山之僧至于入寺者他寺可爲本部之事 0000_,20,648a15(00):一、以行燈可取火之事 0000_,20,648a16(00):一、落書不可立披見之輩者可爲同罪之事違背 0000_,20,648a17(00):之僧者寺家追放 0000_,20,648b18(00):一、飛礫不可打之事違背之人者寺家追放 0000_,20,648b19(00):一、旱地之木履可令停止事 0000_,20,648b20(00):一、公事出來之砌同國同部同寮同指南法眷是不是共 0000_,20,648b21(00):不可致贔負本人者雖及歸寺方人者永可追 0000_,20,648b22(00):放之事 0000_,20,648b23(00):一、寺内寺外白衣往行不可有之事 0000_,20,648b24(00):一、路次往來之砌取手大狂不可致之事違背之僧者 0000_,20,648b25(00):寺家追放 0000_,20,648b26(00):一、辻法問不可有之事違背之僧者寺家追放 0000_,20,648b27(00):一、對他宗世出世共不可致諍論之事違背之僧 0000_,20,648b28(00):者寺家追放 0000_,20,648b29(00):一、總而月事之指引不令違背之事 0000_,20,648b30(00):右學席之法度三十三箇條後代堅可守之者也仍如 0000_,20,648b31(00):件 0000_,20,648b32(00):此壁書は同菴所化の遵守すべき規約なるか。 0000_,20,648b33(00):又生實大巖寺行事法度中學寮に關する左の規定あ 0000_,20,648b34(00):り。 0000_,20,649a01(00):一、入寺錢 五十文 0000_,20,649a02(00):一、新來假名厥月日辰慥可書載此帳事 0000_,20,649a03(00):一、入寺錢不相濟者不可著大衣事 0000_,20,649a04(00):一、位牌入寺之事 入寺錢當位可書者也但一度相 0000_,20,649a05(00):□者座敷有間敷者也 0000_,20,649a06(00):一安居中位牌成者來安居前可書者也 0000_,20,649a07(00):此外尚增上寺に於ては。世世の貫主より發布せら 0000_,20,649a08(00):れし條規少からず。其二三を出さば。 0000_,20,649a09(00):(一)、寬永十六年三月十八日所化月行事に對し與 0000_,20,649a10(00):へられし條規 0000_,20,649a11(00):一、錢湯之往來不可致事 0000_,20,649a12(00):一、歌舞見物不可致事 0000_,20,649a13(00):一、衣を着せずして寺中寺外往來不可致事 0000_,20,649a14(00):一、惡黨人者勿論惣而諸牢人不可抱置事 0000_,20,649a15(00):一、行衞不知僧同寮不可致事 0000_,20,649a16(00):一、組中同寮衆縱雖爲知行勝不屆不覺語者をは 0000_,20,649a17(00):中間より致穿儀不可致同寮事若組中より壹 0000_,20,649b18(00):人惡儀出來せば五間之寮坊主衆共可致追放者 0000_,20,649b19(00):也 0000_,20,649b20(00):一、五人組不被入者は寺中追放可有事 0000_,20,649b21(00):一、萬事勝負之遊不可致事 0000_,20,649b22(00):一、不依僧俗寺外之人一宿申間敷事若無據者は 0000_,20,649b23(00):組中へ理可留者也 0000_,20,649b24(00):一、三箇條之中一箇條も露顯せば三衣剝取追放可 0000_,20,649b25(00):有之事 0000_,20,649b26(00):一、若輩衆指南坊主無而堪忍不可致事 0000_,20,649b27(00):一、指南揃人者新來二年之間者五部九條之要文一日 0000_,20,649b28(00):一宛無懈怠書可被敎事 0000_,20,649b29(00):一、談場にて頌義一部繰内見聞一部可被讀通事 0000_,20,649b30(00):其外書拔樣之部望次第可被讀事 0000_,20,649b31(00):一、所化衆成就中昇共方丈へ暇乞可有寮之儀向年 0000_,20,649b32(00):之月日迄留主を仕其月日過者可爲上寮事 0000_,20,649b33(00):右如件 0000_,20,649b34(00):(二)寶永二年正月發布せられし十九箇條の誡告の 0000_,20,650a01(00):中 0000_,20,650a02(00):一、所化學寮之儀唯重法義輕世義晨參暮詣不 0000_,20,650a03(00):舍寸陰不言世語樂在正論者佛祖之垂範也然世義 0000_,20,650a04(00):爲本莊俗眼義學徒甚爲不相應向後常常得其 0000_,20,650a05(00):義意可爲佛道力行專一事 0000_,20,650a06(00):一、學者艸菴之風儀者法衣世服世具等分限相應或者 0000_,20,650a07(00):從分限可被致輕不顧佛祖之遺誡留世俗 0000_,20,650a08(00):之作法美く華麗可爲無用事 0000_,20,650a09(00):(三)享保四年十月五日三箇條の誡告にも 0000_,20,650a10(00):一、律義勤行可爲如法尤學業專一勤之講釋法問 0000_,20,650a11(00):等不可有懈怠縱雖有學才於不行跡之族 0000_,20,650a12(00):者僉議之上當人者不及申庵主組中谷頭迄可 0000_,20,650a13(00):爲越度事 0000_,20,650a14(00):一、三席以上之老輩曁菴主職之僧侶者法衣内衣共 0000_,20,650a15(00):應其分限可令着用一番ケ輪以下借寮之面面 0000_,20,650a16(00):者木綿之服布細美之衣可爲常衣但御法事又者 0000_,20,650a17(00):祝儀之席會合等者其餘之衣類可有容赦事 0000_,20,650b18(00):十八檀林夫夫其當初に於ては。若干の學寮を有せ 0000_,20,650b19(00):しならんも。江戸府内の檀林。就中增上寺の學寮の 0000_,20,650b20(00):繁榮增加すると反比例に。或は其數を減じ。或は全 0000_,20,650b21(00):く廢滅に歸せるものあり。 0000_,20,650b22(00):生實大巖寺の如きは。永祿三年增建の際には。四 0000_,20,650b23(00):十餘の學寮を有し。文祿三年五月五日の寮主名簿に 0000_,20,650b24(00):は。三十八名を列し。甚盛大なりしが如きも。中古 0000_,20,650b25(00):以後殆んど聞く所なし。新田大光院は最初は五十一 0000_,20,650b26(00):宇ありしも。中古僅に九軒を餘すのみ。小金東漸寺 0000_,20,650b27(00):は文政三年には八寮を存し。瀧山大善寺は上古は七 0000_,20,650b28(00):宇ありしも。文政年中には唯南北の二寮を餘すの 0000_,20,650b29(00):み。瓜連常福寺は文政年中には八軒の學寮及別に二 0000_,20,650b30(00):坊を存せりと云ひ。結城弘經寺には十軒の學寮を同 0000_,20,650b31(00):年中に保存せりと云ふも。其他の府外檀林に於ては。 0000_,20,650b32(00):中古以後殆んど其形跡を留めざるに至れり。 0000_,20,650b33(00):府内の檀林中にも。本所靈山寺は最初より多く聞 0000_,20,650b34(00):くところなかりしが。下谷幡隨院は創立當時には四 0000_,20,651a01(00):十餘宇を有し。月行事も十二僧完備せしが。再三轉 0000_,20,651a02(00):地の爲め衰廢し。文政元年の寮主名簿には九名を連 0000_,20,651a03(00):ぬるのみ。深川靈巖寺と。小石川傳通院とは。稍や 0000_,20,651a04(00):其の勢力を維持することを得たり。靈巖寺は明曆大 0000_,20,651a05(00):火以前は百二十餘宇を有せしも。深川に移轉後は八 0000_,20,651a06(00):十寮に減じ。其の後も漸次減少するのみなりしが。 0000_,20,651a07(00):文政元年の調査によれば尚ほ七溪四十二寮を有せし 0000_,20,651a08(00):と云ふ。傳通院も當初より大いに其の數を減ぜし 0000_,20,651a09(00):も。文政五年の調査によれば尚ほ東西兩谷十七寮を 0000_,20,651a10(00):有したり。其の大衆標名は八九百に及び。百名ばか 0000_,20,651a11(00):りは常住せしと云ふ。增上寺にては數においては時 0000_,20,651a12(00):に增減あり。文政年中には八十三寮あり。往古百二 0000_,20,651a13(00):十寮ありしとの傳説を信なりとせば。其の數甚だ減 0000_,20,651a14(00):少せしが如きも。各寮の大は非常に增加せしこと。 0000_,20,651a15(00):其の地域より見るに明かなり。即ち往古は數人を容 0000_,20,651a16(00):るるに過ぎざりしものが。後世數十人を收容しえた 0000_,20,651a17(00):るや明かなり。故に其經過は他檀林と逆比例をなせ 0000_,20,651b18(00):しことを知るべし。 0000_,20,651b19(00):(二) 學課及學期 0000_,20,651b20(00):檀林の學課は之れを九部に分つ。名目。頌義。選 0000_,20,651b21(00):擇。小玄義。大玄義。文句。禮讚。論。無部是れな 0000_,20,651b22(00):り。無部は既に八部を卒業したる後にて定まれる課 0000_,20,651b23(00):目なく。八部は專ら宗乘に就て名を立つれども。有 0000_,20,651b24(00):志者は性相權實等の餘乘を研鑽し。諸子百家の俗典 0000_,20,651b25(00):を講習するも妨げなきのみならず。山内に於ても時 0000_,20,651b26(00):時餘乘の講席は開設せられて聽者の來るを俟ち。又 0000_,20,651b27(00):遙に上野湯島等に通學聽講せる特志家も尠からざり 0000_,20,651b28(00):しが如し。 0000_,20,651b29(00):然れども中古以往は萬事形式に流れたる結果。學 0000_,20,651b30(00):問の如きも學課名目のみありて眞面目に之れを研 0000_,20,651b31(00):究する者寥寥曉星の如く。多くは三年毎に部轉して 0000_,20,651b32(00):二十五年目に無部に入り。全課を卒業するも依然と 0000_,20,651b33(00):して吳下の阿蒙たり。部轉を云云し何部を喋喋する 0000_,20,651b34(00):も。其の實力を問ふに非らずして。年功の奈何を重 0000_,20,652a01(00):視するのみなり。 0000_,20,652a02(00):前揭寬永十六年の條規第十一、十二、十三條の示 0000_,20,652a03(00):す如く。新來若輩の同菴は指南者捌人に就き。五部九 0000_,20,652a04(00):帖等の宗學を日夕講習し。又餘暇には他の學問をも 0000_,20,652a05(00):好む所に從つて自由に爲すを得て。平時即ち學期な 0000_,20,652a06(00):れども。殊に兩安居は特別に設けられたる檀林の學 0000_,20,652a07(00):期なりき。兩安居とは冬夏の兩度安居にして。其の 0000_,20,652a08(00):期限は元和條目第二十九條に規定せらる。如舊例 0000_,20,652a09(00):夏安居從四月十五日期六月二十九日冬安居從 0000_,20,652a10(00):十月十五日可至極月十五日聊不可有延促事 0000_,20,652a11(00):と。即ち夏安居は約七十日にして。冬安居は六十日 0000_,20,652a12(00):なり。而して此の學期中の重なる科目は。同條目第 0000_,20,652a13(00):三十條に規定せらる於一夏中客殿之法問十則下讀 0000_,20,652a14(00):十一則無闕減可令決擇並湯日之外不可有談 0000_,20,652a15(00):場懈怠冬安居可爲同前事と。即ち一夏中上讀法 0000_,20,652a16(00):問十題。下讀法問十一題を論議し。入浴日以外は講義 0000_,20,652a17(00):聽問に出席するの義務あり。兩安居の中間を夏間 0000_,20,652b18(00):(或は解間)或は半夏と云ふ。兩安居の中間なるが故 0000_,20,652b19(00):に此の名ありて。其の終りの翌日より始めの前日に 0000_,20,652b20(00):至るまでを稱すべきも。休息期限の勉強時間として 0000_,20,652b21(00):特に期限を定めたり。元和條目第三十一條に解間之 0000_,20,652b22(00):事春從二月朔日期三月二十九日秋從八月朔日 0000_,20,652b23(00):可至九月二十七日如兩安居惣而不可有物讀 0000_,20,652b24(00):法問懈怠事とある是なり。然れども兩夏間は安居 0000_,20,652b25(00):期の如く勉學出席嚴重ならざるが故に。學資乏しく 0000_,20,652b26(00):且つ將來香衣綸旨頂戴の費用の支出者なき者は。府 0000_,20,652b27(00):内或は近在の寺院に隨身して此れ等の資金を調達す 0000_,20,652b28(00):ることあり。此れ等を夏間僧と稱し同菴中には一種 0000_,20,652b29(00):輕蔑の意味を有せり。夏間僧の橫着なる者は。寺院 0000_,20,652b30(00):に隨身せず市中に借家して。在家に讀經或は談義等 0000_,20,652b31(00):をなし利養を貪求せり。此れ等に對して檀林に於い 0000_,20,652b32(00):て嚴重なる制規を設け。顯露せる者は除籍追放の酷 0000_,20,652b33(00):罰を課せるも。巧みに制規を逸脱せる者も尠からざ 0000_,20,652b34(00):りしが如し。 0000_,20,653a01(00):(三) 法問及講釋 0000_,20,653a02(00):檀林に於て平素の勤學により蘊畜せるところを吐 0000_,20,653a03(00):露發表し。學識能力を試驗認識せらるる方法機會に 0000_,20,653a04(00):二種あり。即ち法問と講義と是なり。 0000_,20,653a05(00):一 法問 0000_,20,653a06(00):法問或は法門と書し又論議と稱す。宗義に關する 0000_,20,653a07(00):問題を提擧し之れに就き問答論議するを云ふ。法問 0000_,20,653a08(00):に定期と臨時との二種あり。定期法問は毎年定月日 0000_,20,653a09(00):に開設し。其問題の數及内容にも略ぼ一定の制限あ 0000_,20,653a10(00):りて。一山大衆の敎養訓練を以つて其の目的とす。之 0000_,20,653a11(00):れに上讀と下讀との二種あり。臨時法問は隨時開設 0000_,20,653a12(00):するものにして。檀越の請待により化他闡法の爲に 0000_,20,653a13(00):之れを執行す。之れに城中と報謝との二種あり 0000_,20,653a14(00):城中法問 將軍家の招請に應じ。增上寺貫主檀林 0000_,20,653a15(00):能化及び一山大衆を引率して。城中に於いて將軍及 0000_,20,653a16(00):び諸侯の面前に之れを行ふ。此の種の法問は三代將 0000_,20,653a17(00):軍迄は屢屢行はれ。東照公在世の頃は京都二條城或 0000_,20,653b18(00):は駿府城にまで出張して擧行したることありしが。 0000_,20,653b19(00):寬永以後暫時中絶したり。然るに五代將軍の時此の 0000_,20,653b20(00):儀復興せられ。元祿四年六月二十九日增上寺三十一 0000_,20,653b21(00):世流譽古巖府内宿老二十一人を引率して城中に此の 0000_,20,653b22(00):式を擧行し。爾後綱吉在世中は屢屢擧行せられしが。 0000_,20,653b23(00):其の薨後は此事又斷絶して聞く所なきに至れり。 0000_,20,653b24(00):報謝法問 德川氏祖宗の年忌祥月等に追善の爲め 0000_,20,653b25(00):に修する法問にして。其の主要なるは正五九月廿四 0000_,20,653b26(00):日台德公忌日に於いて修行するものなり。寬永十一 0000_,20,653b27(00):年五月二十日。增上寺法式の第一條に。正月五月九 0000_,20,653b28(00):月共に二十四日之法問可相勤之事とあり。又た貞 0000_,20,653b29(00):享二年條目(三)第五條には。正月五月九月二十四日 0000_,20,653b30(00):於增上寺法問之節四箇所之檀林伴頭並二指添參 0000_,20,653b31(00):堂可致聽聞但遠境檀林伴頭二之儀者可爲志 0000_,20,653b32(00):次第とある是れなり。 0000_,20,653b33(00):以上臨時二種の法問は。人數形式等に一定の規則 0000_,20,653b34(00):なく。且つ檀林としては左程重要なることにあら 0000_,20,654a01(00):ず。檀林に於て學生の方面に於て特に重要なるは定 0000_,20,654a02(00):期上下讀法問なり。 0000_,20,654a03(00):上讀法問 元和條目には客殿法問とあり。本坊に 0000_,20,654a04(00):於て方丈親から論主となり。自他宗敎義中難解難會 0000_,20,654a05(00):の文を算題即ち問題として提出するを上讀と云ふ。 0000_,20,654a06(00):讀は問題を讀むことにして。能化上より下の所化に 0000_,20,654a07(00):向て讀むが故に上讀の稱あり。此の場合には月行事 0000_,20,654a08(00):を始め三席百五十僧各各其の座席に就き。方丈提出 0000_,20,654a09(00):の問題に對し經論祖釋を引證し。種種の譬喩を擧 0000_,20,654a10(00):げ。和會通釋を試むるなり。其の時期と問題數と 0000_,20,654a11(00):は。元和條目第三十條に之れを規定す。一、於一夏 0000_,20,654a12(00):中客殿之法問十則……無闕減可令決擇と。即 0000_,20,654a13(00):ち一夏中に十問題を論議するを要し。其の回數は記 0000_,20,654a14(00):さざるも。中古以來は四月十八日より二十一日ま 0000_,20,654a15(00):で。十月十八日より二十一日まで各期二則づづ合し 0000_,20,654a16(00):て四則にして十問題の規則は遵守せられざりしとせ 0000_,20,654a17(00):ざるべからず。 0000_,20,654b18(00):下讀法問 下より上に向て筭題を朗讀するを下讀 0000_,20,654b19(00):法問と云ふ。此の法問は上讀法問が三席の老僧の學 0000_,20,654b20(00):解試驗の爲めなりしに反し。名目頌義二部の初學者 0000_,20,654b21(00):を所被とし。此れ等を提撕啓蒙するにあり。其の法問 0000_,20,654b22(00):主は月行事十二僧の中上席より順次に之れに當り。 0000_,20,654b23(00):法主に代りて論議の是非を批判決擇す。此の座にも 0000_,20,654b24(00):方丈を始め三席の僧も列座聽聞して其の決擇を監視 0000_,20,654b25(00):するがゆゑに。また月行事席に對する一種の試驗な 0000_,20,654b26(00):りと云ふべし。法門主の左右には歸頌十人衆兩分列 0000_,20,654b27(00):座す。歸頌の名は選擇以上の者も此の席に入れば頌 0000_,20,654b28(00):義部に復歸するの意にして。上讀席の月行事に相當 0000_,20,654b29(00):するものなり。此の内首長を部頭と云ひ。次席を上 0000_,20,654b30(00):座と云ふ。法門主及び歸頌と同列の僧を一文字と云 0000_,20,654b31(00):ひ。一文字に接して橫に相對座するを扇間席と稱 0000_,20,654b32(00):す。一文字扇間等は上讀席に同じけれども其の人員 0000_,20,654b33(00):は同からず。一文字扇間に出席すべき僧は法問熟達 0000_,20,654b34(00):の者ならざるべからず。此等の席に入るをえざる初 0000_,20,655a01(00):進者は揮て中座とす。 0000_,20,655a02(00):下讀法問は三五九霜の四回これを行ふ。其筭題は 0000_,20,655a03(00):元和條目には。四回合して二十二題に定められ。三 0000_,20,655a04(00):九を半夏として五題づづ。五霜を本夏と名づけ六題 0000_,20,655a05(00):づづ論議せしが。寶曆以後漸次衰へ十題に過きざり 0000_,20,655a06(00):しと云ふ。 0000_,20,655a07(00):法問に關して尚ほ説明を要するは筭題。捌。論講 0000_,20,655a08(00):なり。筭題は論議の問題なり。之れを筭題と稱する 0000_,20,655a09(00):は古來の慣習として多くの論題を筭(竹片)に書し之 0000_,20,655a10(00):れを箱に納め。論議に先だち振出して得たるものを 0000_,20,655a11(00):論題とするが故なり。捌は論議の前日筭題を出すの 0000_,20,655a12(00):後ち其の題意を説明し之れが問答往復の要點を指示 0000_,20,655a13(00):するを云ふ。上讀の捌は學頭之れに膺り。下讀の捌 0000_,20,655a14(00):は別に定りなかりしも。中世以後頌義部頭之れを行 0000_,20,655a15(00):へり。論講は筭題を解釋説明し法問下稽古を爲すを 0000_,20,655a16(00):云ふ。上讀には此ことなきも下讀には一文字大衆頭 0000_,20,655a17(00):より順次に筭題一則を二人づづ説明敎授す。其の際 0000_,20,655b18(00):歸頌十人衆聽聞し。名目頌義の學徒論議者となり論 0000_,20,655b19(00):議の豫習をなす。 0000_,20,655b20(00):二 講釋 0000_,20,655b21(00):講釋 講義の檀林に於て盛に行はれ又缺くべから 0000_,20,655b22(00):ざる行事たりしことは。檀林が其當初に談所談義所と 0000_,20,655b23(00):稱せられしにても知るべし。但三祖の福岡飯岡の談 0000_,20,655b24(00):所。冏師橫曾根の談義所の如き。三祖冏師が講師に 0000_,20,655b25(00):して其下に集れる者は聽衆に過ぎざりしが。德川時 0000_,20,655b26(00):代の檀林には能化も時に講説することなきに非るも。 0000_,20,655b27(00):多くは三席中に講師を求め。果上の能化が所化を接 0000_,20,655b28(00):得する爲よりも。寧因分所化の蘊蓄を披攊し技量を 0000_,20,655b29(00):發揮するの機關となれり。講釋には席役講。再役 0000_,20,655b30(00):講及内講の三種あり。之を三講と稱す。 0000_,20,655b31(00):席役講 三席中扇間席に進入せる者が席務として 0000_,20,655b32(00):新入者より行ふ講義にして。其の講書は自他宗を論 0000_,20,655b33(00):ぜず平素研究熟達のものを選び。五箇月以前に其書 0000_,20,655b34(00):目を書出し。谷頭より左右兩老に伺問して内認を 0000_,20,656a01(00):得。この書を精研したる後更に表面上の許可を得て 0000_,20,656a02(00):開講す。 0000_,20,656a03(00):開講に先だち綸旨頂戴の有無を檢め。また講場に 0000_,20,656a04(00):於ける威儀作法を練習するの要あり。開講第一日に 0000_,20,656a05(00):は其の書の玄譚三門分別を述ぶるを例とす。此の日 0000_,20,656a06(00):一文字席悉く出席聽聞し。谷頭班列の者之れを衞護 0000_,20,656a07(00):し。その儀式甚だ嚴重なり。入講十席を重ねたる 0000_,20,656a08(00):後。終講の日限を定めこれを左右に伺ひ。二十日を 0000_,20,656a09(00):經れば概ね講竟の許可あるを例とせり。 0000_,20,656a10(00):再役講 扇間席に於て席役講を務めたる者が。轉 0000_,20,656a11(00):席して一文字席に進入せる上務むべき講義にして。 0000_,20,656a12(00):二度目の講義なるが故に此の名あり。此講義は一文 0000_,20,656a13(00):字上席より順次に開講す。其書目は前と同く自他宗 0000_,20,656a14(00):に亙り自己得意のものを選ぶことを得。席役講及再役 0000_,20,656a15(00):講は古代は四時間斷なく增上寺三谷に開講せられし 0000_,20,656a16(00):が。中世嶺譽智堂の代より正月十八日。五月二十 0000_,20,656a17(00):日。七月二十日。十一月二十五日の四回に一定せら 0000_,20,656b18(00):れたり。此の講釋の玄譚は三段五段に分つを中世以 0000_,20,656b19(00):後の例とせり。此の講には前の如く終講に認可をう 0000_,20,656b20(00):る必要なかりき。 0000_,20,656b21(00):以上二講は其席に附隨する責務にして。之れを完 0000_,20,656b22(00):全に果遂するとせざるとは昇沈進退の岐るる所なれ 0000_,20,656b23(00):ば。在席者の難關なりしも漸次狡獪なる活路を案出 0000_,20,656b24(00):するに至れり。即ち少數有識者の講案或は其の講錄 0000_,20,656b25(00):は甲より乙に傳寫せられ。玄譚文釋の内容は勿論諸 0000_,20,656b26(00):所に挿入せらるる挿話地口に至るまで記錄せられ 0000_,20,656b27(00):て。苟も之れを讀むの文字眼と公衆の前に之れを覆 0000_,20,656b28(00):誦するだけの度胸ある者ならば。二講の關門を通過 0000_,20,656b29(00):すること左程困難にあらざりしなり。 0000_,20,656b30(00):内講 前兩講釋の表面公式なるに對して内面隨意 0000_,20,656b31(00):の講義にして。一文字大衆頭より順次に行ふべきも 0000_,20,656b32(00):のなるも。時として月行事席のものにても之れを行 0000_,20,656b33(00):ふことあり。這は前兩講が單に講者の試驗なりしに 0000_,20,656b34(00):異りて。學徒敎養の目的をも含めるがゆゑに。開講 0000_,20,657a01(00):終講に時日の制限なく。講書も自他宗長短任意にし 0000_,20,657a02(00):て。講場の儀式も一定の規則なく極めて自由なるも 0000_,20,657a03(00):のなりき。かく此講義は講者の隨自意に出でしもの 0000_,20,657a04(00):なれども。檀林にては之を奬勵するが爲に特に朔望 0000_,20,657a05(00):本坊に出勤するを免ぜられたり。 0000_,20,657a06(00):内内講 内講が講者の隨自意に出でしに對し。所 0000_,20,657a07(00):化衆中特志の發起者ありて懇望によりて開講するを 0000_,20,657a08(00):云ふ。故に其講書は發起者の依賴に應じ内外自他の 0000_,20,657a09(00):章疏に涉りて定なし。其講者が所化衆中の眞の學者 0000_,20,657a10(00):たること言ふまでもなし。 0000_,20,657a11(00):二 檀林外に於ける宗學 0000_,20,657a12(00):(一) 初期 0000_,20,657a13(00):檀林の學問は一宗僧侶の普通敎育なり義務敎育た 0000_,20,657a14(00):り。此に對し進みて專門的に深く宗乘を研き該く餘 0000_,20,657a15(00):乘を講ずる一派の起るべきは。自然の勢にして實際 0000_,20,657a16(00):かかる學者も決して尠少にあらざりき。 0000_,20,657a17(00):德川の初運に當り。不殘。廓山の兩師奈良に赴き唯 0000_,20,657b18(00):識因明を學び。歸りて之を鴻巢礫川に講ず。是關東檀 0000_,20,657b19(00):林に於ける性相研究の嚆矢なり。即不殘は鴻巢勝願 0000_,20,657b20(00):寺の能化職にして慶長十一年八月南都六宗長官一乘 0000_,20,657b21(00):院尊勢に就きて唯識因明の許可を受け。廓山は礫川 0000_,20,657b22(00):傳通院の開山にして慶長十三年の城中淨日法問には 0000_,20,657b23(00):本宗の代表者に選ばれたる人なるが。慶長十八年十 0000_,20,657b24(00):月東照公の命により南都に遊學して一乘院尊勢。喜 0000_,20,657b25(00):多院空慶に就き唯識を學ぶ。元來本宗は愚鈍無智を 0000_,20,657b26(00):正機とするが故に學問を輕蔑するの傾向を有するの 0000_,20,657b27(00):みならず。足利中世以後一定の檀主なくして唯談義 0000_,20,657b28(00):唱導愚夫愚婦の間に遊説せしが故に。一層此傾向を 0000_,20,657b29(00):增長し專門的研究の如きは之に携はるの餘裕を有せ 0000_,20,657b30(00):ざりしなり。然るに本期に入り一躍して性相台言禪 0000_,20,657b31(00):等の諸宗の班列に加はり。之と馳驅するに至れるを 0000_,20,657b32(00):以て。勢ひ愚鈍無智を文字通に固守するを許さざる 0000_,20,657b33(00):に至れり。故に宗侶も進みて學問研究に志し。德川 0000_,20,657b34(00):氏も成るべく之を奬勵援助したるが如し。然れども 0000_,20,658a01(00):這般の業はよく一朝夕の辨じうる所に非ず。故に初 0000_,20,658a02(00):一百年間には良定。東暉。聞證等師弟三人を出せし 0000_,20,658a03(00):外注目に値する程の人物を見ざるなり。三人共に諸 0000_,20,658a04(00):家に出入し各宗を綜習せしが。東暉。聞證は特に唯 0000_,20,658a05(00):識に精通せり。此點に於て彼等は不殘。廓山兩師の 0000_,20,658a06(00):後繼者と見るも強ち所以なきに非るなり。 0000_,20,658a07(00):袋中のことは上に名越派の下に述べしが。袋中の門 0000_,20,658a08(00):下人物尠からざるが中に。住閑良信。東暉良閑は最も 0000_,20,658a09(00):傑出せるものなり。住閑―一六三九は常陸國田木屋の 0000_,20,658a10(00):産にして袋中に嗣法し。又た江戸幡隨院の學頭とし 0000_,20,658a11(00):て大衆敎育の大任に膺り。のち下野國那須郡鳥山に 0000_,20,658a12(00):善念寺を開創し。又た圓通寺第十五世の能化と成れ 0000_,20,658a13(00):り。東暉一六二三 一六八二は京師の人團雄。貞龍の後を襲ひ 0000_,20,658a14(00):法林寺に住し。倶舍唯識の講肆を張り。關東の學子 0000_,20,658a15(00):負笈其の莚に與かる者尠からず。著はす所首書選擇 0000_,20,658a16(00):集二卷。首書名目圖見聞三卷あり。尚ほ師袋中の著 0000_,20,658a17(00):述の彼が修補せしものも少なからずと云ふ。東暉の 0000_,20,658b18(00):門下聞證あり。 0000_,20,658b19(00):聞證一六三五 一六八八字は良光又誠觀と號す。初良定の資 0000_,20,658b20(00):呈觀に就いて出家し。次いで呈觀の法弟空山に屬 0000_,20,658b21(00):し。更らに東暉に托せらる。のち關東に下り縁山に 0000_,20,658b22(00):掛錫し。居ること五年にして三界義略解を著し儕輩 0000_,20,658b23(00):を驚かし。尋で川越鎌倉の諸檀林を歷訪して宗門章 0000_,20,658b24(00):疏を精覈す。然れ共宗乘の學。相宗の義につまびらか 0000_,20,658b25(00):ならざれば澁滯する所多きを思ひ。南都に赴むき興 0000_,20,658b26(00):福寺久保院を訪ひ。時の唯識の洪匠を以つて許され 0000_,20,658b27(00):たる盛源に就き唯識を學ぶ。しかも盛源の造詣淺薄 0000_,20,658b28(00):にして彼れが疑滯を通ずるに足らずとして講席半途 0000_,20,658b29(00):にして去り。萬治三年冬大澤圓通寺に詣る。寺主鐵關 0000_,20,658b30(00):歡迎して學徒敎養のことを屬す。すなはち大原問答 0000_,20,658b31(00):を講じ辨釋を造り。唯識を説き百法問答の私考を著 0000_,20,658b32(00):す。鐵關大澤の法席をこれに附せんとせしも聽かず 0000_,20,658b33(00):して去る。時に岩槻淨國寺玄察彼れが令名を聞き禮 0000_,20,658b34(00):を厚うしこれを迎へて學頭となし大衆を統卒せし 0000_,20,659a01(00):む。岩槻に在るの日略述法相義わ著し唯識法相の講 0000_,20,659a02(00):本となす。後世檀林に於て唯識を學ぶもの之れを以 0000_,20,659a03(00):つて指針とせざるなきにいたれり。淨國寺に居るこ 0000_,20,659a04(00):と八年にして辭して京都に還る。爾來京都に閑居し 0000_,20,659a05(00):てときに或は禪門の名匠を敲き。時に或は請に應じ 0000_,20,659a06(00):て三論玄義。唯識等を講ず。貞享五年五月廿七日疾 0000_,20,659a07(00):みて寂す。 0000_,20,659a08(00):彼は法相。三論。華嚴。天台。禪。律の諸宗通達 0000_,20,659a09(00):せざる所なかりしも。唯識は最其の得意とするとこ 0000_,20,659a10(00):ろなりき。著す所三論玄義誘蒙四卷。唯識論玄譚一 0000_,20,659a11(00):卷。唯識三十頌略解一卷。唯識論略解三卷。百法問 0000_,20,659a12(00):答私考十二卷。略述法相義三卷。三界義略解三卷。 0000_,20,659a13(00):啓蒙雜記一卷。倶舍綱要二卷。小乘拔萃二卷。五敎 0000_,20,659a14(00):簡註一卷。科註往生論一卷。科註略論一卷。科註大 0000_,20,659a15(00):原問答一卷。同辨釋一卷。釋摩訶衍論梗概二卷。大 0000_,20,659a16(00):經異譯對映一卷。當麻曼陀羅變相便覽二卷。無門關 0000_,20,659a17(00):時習一卷。外宗義一卷。六即誘蒙一卷。發微事考一 0000_,20,659b18(00):卷。篇聚略解一卷。羯磨略解一卷。六物略解一卷。 0000_,20,659b19(00):淨土便蒙五卷。圓覺經略解三卷。四敎義略解三卷。 0000_,20,659b20(00):盂蘭盆經略解一卷等是なり。此他偈頌銘記題跋論辨 0000_,20,659b21(00):等の文字ありと雖も散佚して傳らず。其該博精深な 0000_,20,659b22(00):る遠く袋中東暉を凌駕せり。聞證門下俊英少から 0000_,20,659b23(00):ず而も義山。圓智は其上足なり。 0000_,20,659b24(00):(二) 中期 0000_,20,659b25(00):貞享元祿以後殆ど一百年間は比較的多くの專門學 0000_,20,659b26(00):者を輩出したる時代なり。宗乘の研究は從來甚だ等 0000_,20,659b27(00):閑に附せられしが。此の時代に至りて京都には忍澂。 0000_,20,659b28(00):湛澄。懷音。義山。盤察。寶洲。大我等あり。祖賁を 0000_,20,659b29(00):校正印刻し宗義の混亂を修整せるもの少なからず。 0000_,20,659b30(00):關東には觀徹。鸞宿。義海。貞極。大玄等あり。謬 0000_,20,659b31(00):傳を指摘し隱微を闡明するところ多し。史傳には心 0000_,20,659b32(00):阿。忍澂。義山。鸞宿。珂然等あり。宗門の先德高 0000_,20,659b33(00):僧の傳記を蒐集し。法脈系譜を攷覈して後昆をして 0000_,20,659b34(00):依るところあらしめたり。餘乘には湛慧。德門。冏 0000_,20,660a01(00):鑑あり。雜部には義海。文雄。慧頓等あり。諸方面 0000_,20,660a02(00):に亘りて蘭菊美を竸ふの盛觀を呈せり。 0000_,20,660a03(00):聞證門下の翹楚に圓智。義山ありしこと前に之を 0000_,20,660a04(00):述べぬ。圓智號は中阿。近江國大津の人常念寺圓立 0000_,20,660a05(00):に從ひ得度し。後ち岩槻に赴むき聞證に從ひ宗餘乘 0000_,20,660a06(00):を學す。業成るののち近江國草津正定寺に住す。曾て 0000_,20,660a07(00):義山と共に京都淨敎寺に聞證に謁す。證兩人に宗祖 0000_,20,660a08(00):傳記の校正註釋考證のことを依屬す。義山は專ら對 0000_,20,660a09(00):校の業に膺り。圓智は註釋考證の業に從ひ。文義の 0000_,20,660a10(00):注すべきもの事實の考ふべきもの略成就せりと雖も 0000_,20,660a11(00):未だ完結に至らずして逝く。義山之を修補整頓して 0000_,20,660a12(00):完成す。圓光大師行狀畫圖翼賛六十卷是なり。別に 0000_,20,660a13(00):西方要決略註。常麻曼陀羅捫象十四卷等あり。 0000_,20,660a14(00):義山一六四八 一七一七字は良照又圓觀と號す。京都の産な 0000_,20,660a15(00):り。十五歳にして大和國郡山城外光傳寺に入りて出 0000_,20,660a16(00):家し。翌年縁山に遊學し從法兄呑譽の室に入る。幾 0000_,20,660a17(00):ばくもなく呑譽これを大澤聞證の下に送る。のち聞 0000_,20,660b18(00):證に隨從して岩槻に赴き宗乘及び餘部を研鑽す。遂 0000_,20,660b19(00):に佛眼山學生の上首となり。師に代りて宗乘及倶舍 0000_,20,660b20(00):唯識因明等の諸書を敎授せり。三十六歳業林を辭し 0000_,20,660b21(00):て京都に還り。爾來縁に隨ひて居處を定めず講學を 0000_,20,660b22(00):こととす。常に宗籍の魚魯多くまた古書の隱沒する 0000_,20,660b23(00):ことを慨き。善本を諸方に索求して校正し論註。安樂 0000_,20,660b24(00):集。五部九帖。群疑論。選擇集。漢和燈錄等を校訂 0000_,20,660b25(00):梓行して學者に便宜を與へたること非常なり。又常 0000_,20,660b26(00):に學徒の啓發を樂とせしも名利のためには一句も講 0000_,20,660b27(00):ずることを肯んぜず。曾て水戸光圀公請して淨鑑院 0000_,20,660b28(00):に置かんとせしも。世務徒らに學道を曠廢せんこと 0000_,20,660b29(00):を惧れて辭して赴かず。一時知恩院別院入信院に群 0000_,20,660b30(00):疑論及び宗祖傳を講ずるや。門主親王入りて聽受し 0000_,20,660b31(00):たまひ。又た靈元上皇仙洞御所に召して宗要を問は 0000_,20,660b32(00):せたまふに對し三經釋を進講し且つ十念を授與し奉 0000_,20,660b33(00):る。その他貴顯の歸依し宗義を諮問するもの多し。 0000_,20,660b34(00):享保二年秋疾に罹り。十一月十三日洛西華開院に遷 0000_,20,661a01(00):化す。世壽七十歳なり。著すところ三部經隨聞講錄 0000_,20,661a02(00):十二卷。和語燈錄日講私記七卷。選擇集講錄三卷。 0000_,20,661a03(00):敕修御傳翼賛六十卷(圓智と共著)。同遺事一卷。鎭 0000_,20,661a04(00):西聖光上人香月系譜一卷。御傳隨聞記十卷。一枚起 0000_,20,661a05(00):請辨述一卷。三卷書隨聞記一卷。曼陀羅述弉記四 0000_,20,661a06(00):卷。授菩薩戒儀要解一卷等あり。但し義山が最精力 0000_,20,661a07(00):を傾倒したるは翼賛にして。其餘は概ね彼講義を門 0000_,20,661a08(00):弟極樂寺見阿の輯錄せるものにして治定せるものに 0000_,20,661a09(00):非ず。また宗義上の解釋が名越に黨し白旗正義に背 0000_,20,661a10(00):馳すとの非難なきに非ずと雖も。此微瑕を以て彼の 0000_,20,661a11(00):宗學上に於ける功績を沒却すべからず。 0000_,20,661a12(00):義山門下祖巖・素中・梁道・湛慧等あり。祖巖單 0000_,20,661a13(00):阿と號し入信院の後看たり。師の行業記は巖の錄せ 0000_,20,661a14(00):る所にして珂然之を修補し。要解を加へて刊行せる 0000_,20,661a15(00):ものなり。素中高譽見阿と號し。京都極樂寺に住せ 0000_,20,661a16(00):り。三部經講錄。選擇集講錄。御傳隨聞記等は何れも 0000_,20,661a17(00):彼の筆錄に係り。和語燈日講私記の如きは。一卷だ 0000_,20,661b18(00):けが山師の講述にして。二卷以下は全く彼の補講の 0000_,20,661b19(00):筆錄なり。梁道― 一七三一妙蓮社海譽と號し。小金東 0000_,20,661b20(00):漸寺第廿一代の能化なり。曾て華頂門主尊統法親王 0000_,20,661b21(00):の師範を命ぜられ。著述少からざりしが多く散迭し 0000_,20,661b22(00):て傳はらず。但科文阿彌陀經。科文稱讚淨土經。同 0000_,20,661b23(00):經疏三卷のみ梓行せらる。道の門下に定月。團智。 0000_,20,661b24(00):貞信等あり。湛慧は其門下普寂と共に淨土律の興隆 0000_,20,661b25(00):を以て著名なるも。性相華嚴等の餘乘に於て。却て 0000_,20,661b26(00):當時並に後世に其名を恣にす。慧寂兩師の律門に關 0000_,20,661b27(00):する事業は。上に既に之を辨ぜしを以て。玆には單 0000_,20,661b28(00):に講學の方面のことのみを略記すべし。 0000_,20,661b29(00):湛慧一六七七 一七四八諱は信培。澄蓮社忍譽と號す。以八上 0000_,20,661b30(00):人傳及三縁山誌十下卷には慧を以て義山嗣法の弟子 0000_,20,661b31(00):とすれども。行狀には聞證法弟息菴の弟子となす。然 0000_,20,661b32(00):れども息菴は義山の法叔父にして。慧二十五歳の時 0000_,20,661b33(00):は既に衰邁にして華開院の董職に堪へずして。之を 0000_,20,661b34(00):慧に附せしに徴するに。彼又義山に師事したるなる 0000_,20,662a01(00):べし。彼華開院に住すること元祿十二年より享保八年 0000_,20,662a02(00):に至る二十五年にして。恰も其間義山は同院に講莚 0000_,20,662a03(00):を敷くこと屢次にして。享保二年彼住寺に入寂せるを 0000_,20,662a04(00):見ば其の關係の尋常ならざりしを想見すべし。彼幼 0000_,20,662a05(00):時聞證に倶舍唯識性相の旨を聽き。十七歳にして江 0000_,20,662a06(00):戸に遊び靈山寺に掛席し。廓瑩に就き兩脈を相承す。 0000_,20,662a07(00):又東西に遊び諸宗の碩匠に謁し。餘暇には兼て世典 0000_,20,662a08(00):を物茂卿の塾に學び。書を雲竹に習ふ。學寮に在る 0000_,20,662a09(00):日徒を集め七十五法名目。倶舍論頌疏。略述法相 0000_,20,662a10(00):義。唯識論略解等を講じ。既に一家の體を成せし 0000_,20,662a11(00):が。元祿十二年二十五歳にして京都に還り。師跡華 0000_,20,662a12(00):開院を董するや。俗冗を遣去して專ら攷學に勵み。 0000_,20,662a13(00):四阿含。六足。發智より深密。瑜伽。攝大乘等の阿 0000_,20,662a14(00):毘達磨を研尋し。又古德先匠の鈔疏涉獵せざるな 0000_,20,662a15(00):し。就中慈恩。賢首の學を精究せり。屢宗門宗外の有 0000_,20,662a16(00):志の請に應じて論疏を講演せしが。該博深邃の學識 0000_,20,662a17(00):に加ふるに慧辯流るるが如なりしを以て。講席は常 0000_,20,662b18(00):に内外の學徒を以て滿されたりと云ふ。又機鋒鋭利 0000_,20,662b19(00):にして當時諸宗の碩學と辯難應酬して一步を假借せ 0000_,20,662b20(00):ず。華嚴宗の鳳潭は當時最も卓識なる學者として一 0000_,20,662b21(00):世を風靡せしが。正德元年公務により江戸に赴き。淺 0000_,20,662b22(00):草凉源寺に講席を開き。起信論義記を講じては潭の 0000_,20,662b23(00):幻虎錄を駁し。華嚴五敎章を講ずるや其匡眞鈔を破 0000_,20,662b24(00):して完膚なからしめ。天台靈空勿字解一篇を著し。彼 0000_,20,662b25(00):が勿字之説を難ずるや。一露濤一卷を造りて之を對 0000_,20,662b26(00):破せり。一代の著述は。享保十六年高野山學侶の請に 0000_,20,662b27(00):應じて泉北明王院に倶舍論を講せる際に指要鈔十卷 0000_,20,662b28(00):を撰し。翌年唯識論述記を講せる際には成篇四十五 0000_,20,662b29(00):卷を造り。長德院大起の請に應じ梵網法藏疏を講ぜ 0000_,20,662b30(00):し際に辯斷三卷を著し。元文四年興正菩薩四百五十 0000_,20,662b31(00):年忌に法苑表無表章を講じて報恩吼八卷を著し。同 0000_,20,662b32(00):五年貫練篇廿八卷を造り。延享二年華嚴經搜玄記を 0000_,20,662b33(00):京淨樂寺に講ずる後帝網鈔六卷を撰す。其他鳳潭の 0000_,20,662b34(00):金剛槌論に對し因陀羅手一卷を著す。之に一露濤を 0000_,20,663a01(00):加ふれば八部に及ぶと云ふべし。 0000_,20,663a02(00):普寂一七〇七 一七八一字は德門。後靈感によりて道光と號 0000_,20,663a03(00):す。伊勢國桑名郡增田村眞宗高田派源流寺秀寬の長 0000_,20,663a04(00):子なり。十四歳にして桑名光明寺主倶舍論頌疏の講 0000_,20,663a05(00):席に預り。十七歳にして美濃稱名寺圓澄の淨土論註 0000_,20,663a06(00):講義を聽き。其翌年又澄に從ひ大小兩經講義を聽 0000_,20,663a07(00):く。十九歳桑名天祥寺禎山禪師に就き起信論義記。 0000_,20,663a08(00):五敎章。圓覺略疏。因明纂解等の講義を聽き。隨聞 0000_,20,663a09(00):記錄して性相の大献略梗概を領し。衷懷大に學敎に 0000_,20,663a10(00):勇み。廣く古今の典籍を涉獵し以て敎中の奧頥を究 0000_,20,663a11(00):めんことを志せり。因て郷關を辭して京都に赴き。十 0000_,20,663a12(00):玄講主に起信論義記。四敎儀集註。五敎章等を聽講 0000_,20,663a13(00):し。天旭講主に從ひ唯識述記を聽き。次て泉洲堺に 0000_,20,663a14(00):之き眞敎求寂に大日經住心品疏を聽き。同洲明王院 0000_,20,663a15(00):に於て湛慧和上の唯識述記を聽き。後浪華に赴き勝 0000_,20,663a16(00):鬘坂に鳳潭講主の法華徐註を聽講す。玆に至り想へ 0000_,20,663a17(00):らく聞薰漸く熟したれば向後は閑靜の地を卜して廣 0000_,20,663b18(00):く經論章疏を讀みて其義を研覈すべしと。時に河内 0000_,20,663b19(00):國雁屋村法然寺義雄其寺に於て結友修學せんことを勸 0000_,20,663b20(00):む。よりて即彼寺に赴き勵精倶舍論及其三大疏を披 0000_,20,663b21(00):閲せしが。苦學過度にして疲困甚しかりしかば。療養 0000_,20,663b22(00):の爲に堺に赴く。然るに當時專稱寺慧然唯識論及倶 0000_,20,663b23(00):舍論頌疏を講ぜしが。寂の來問を喜び頌疏の代講を 0000_,20,663b24(00):依囑す。講終らんとするに及び發病し體氣虚羸にし 0000_,20,663b25(00):て讀書に堪へず。生命の久しく保ち難きを想ひ出離 0000_,20,663b26(00):の難關に逢着して非常なる煩悶に陷れり。先づ眞宗 0000_,20,663b27(00):敎義が全く正法の藩籬を逸せるを想ひ。生家を棄て 0000_,20,663b28(00):て淨土宗入らんと志し。肉弟智圓が弟子たりし河内 0000_,20,663b29(00):國交野郡津田村正應寺に赴く。時に享保十九年四月 0000_,20,663b30(00):廿八日廿八歳の年なりき。此寺にありて一心念佛せ 0000_,20,663b31(00):しが伊勢國四日市に在りし肉弟乾雅の周旋により。 0000_,20,663b32(00):尾張國八事山に遷りて勵精念佛す。關通其道心に隨 0000_,20,663b33(00):喜し使を遣し慰問奬勸し。且つ缺乏を供給せんこと 0000_,20,663b34(00):を乞ひ。又明師に從ひ大器を完成せんことを勸む。然 0000_,20,664a01(00):れども初志を執りて動かず益勵精し稍自得する所あ 0000_,20,664a02(00):り。後諦忍律師に乞ひ八事山所藏の大藏經を閲せん 0000_,20,664a03(00):とし。最初探りて唐譯華嚴經を獲しかば。爾後一解 0000_,20,664a04(00):一行華嚴敎海に遊泳し。一止一作雜華法界に廻趣せ 0000_,20,664a05(00):んとの願を發せり。寶曆元年洛西長時院に住持し。 0000_,20,664a06(00):寶曆五年春より秋に亙り。禪林寺學衆の請に應じて 0000_,20,664a07(00):常樂寺に倶舍論を講じ。同十一年唯識述記を長講堂 0000_,20,664a08(00):に講じ。翌年長時院に倶舍論を講ず。同十三年五月上 0000_,20,664a09(00):旬請に應じて東都目黑長泉律院に住す。此秋縁山に 0000_,20,664a10(00):五敎章を講じ。翌明和元年縁山新谷雲察寮に倶舍論 0000_,20,664a11(00):を講じ。翌年縁山天神谷千如寮に探玄記を講ず。同三 0000_,20,664a12(00):年長泉院本尊を堺心蓮寺に請ぜんが爲に上都し。長 0000_,20,664a13(00):時院に法苑議林章を講じ。翌四年本尊を供奉して東 0000_,20,664a14(00):歸し。同五年秋縁山に唯識述記及法苑義林章を講ず。 0000_,20,664a15(00):同六年五敎章衍秘鈔五卷を上梓し。香海一渧を再治 0000_,20,664a16(00):し。華嚴玄玄章を製す。同七年成等菴に五敎章衍秘 0000_,20,664a17(00):鈔を講じ。翌年法華玄義及止觀を講じ。此秋無量院 0000_,20,664b18(00):本尊を知恩院勢至堂に請して東歸し。又縁山に五敎 0000_,20,664b19(00):章衍秘鈔及法華文句を講ず。安永二年心經略疏探要 0000_,20,664b20(00):鈔二卷を開版す。同三年探玄發揮鈔十卷を上梓し。 0000_,20,664b21(00):冬之を縁山周品寮に講ず。同五年起信論義記要決三 0000_,20,664b22(00):卷及天文辨惑一卷を開版す。翌年要決を縁山辨戒寮 0000_,20,664b23(00):に講ず。秋倶舍論を慈光寮に講ず。同七年四敎儀集 0000_,20,664b24(00):註詮要四卷刻成り。之を縁山辨戒寮に講ず。同八年 0000_,20,664b25(00):梵網戒經台疏辨要三卷を刊行し。復古集二卷を再治 0000_,20,664b26(00):し。首楞嚴經略疏四卷を撰す。同九年春華嚴探玄記 0000_,20,664b27(00):を講じ。夏遺敎經略疏一卷を製す。天明元年八月十 0000_,20,664b28(00):五日探玄記講了り微疾を現す。同年九月廿八日願生 0000_,20,664b29(00):淨土義二卷刊行成り。翌月十四日夜安祥として逝 0000_,20,664b30(00):く。世壽七十有五。著す所上陳の外勝鬘經顯宗鈔三 0000_,20,664b31(00):卷。法苑義林章分科二卷。梵網摘要一卷。梵網三聚 0000_,20,664b32(00):戒辨要一卷。梵網辨要略釋一卷。倶舍論要解十一 0000_,20,664b33(00):卷。唯識論述記纂解十四卷。攝大乘論略疏五卷。法 0000_,20,664b34(00):苑義林章纂解七卷。法華三大部復眞鈔十七卷。唯識 0000_,20,665a01(00):論略疏六卷。圓覺經義疏二卷。無差別論眞珠疏一 0000_,20,665a02(00):卷。遺敎經論疏一卷。六物綱要一卷。三大部並攝論分 0000_,20,665a03(00):科二卷。無差別論疏。雜集記。華嚴玄談。止觀四本 0000_,20,665a04(00):分科合一卷。見道辨。敎誡律儀玄談。四敎儀玄談。 0000_,20,665a05(00):七十五法玄談。淨宗兼學律儀辨。六物辨要。通別二 0000_,20,665a06(00):受律儀八本合一卷。大乘義章科圖五卷。四分行事抄 0000_,20,665a07(00):分科一卷等あり。 0000_,20,665a08(00):聞證・義山・湛慧・普寂・四人の中。義山は宗乘 0000_,20,665a09(00):宗史に力を須ゐたるも。前後三人は殆んど勢力を餘 0000_,20,665a10(00):乘に傾倒して宗乘には疎なりき。義山の宗乘も名越 0000_,20,665a11(00):臭を脱せずとの譏を免れずとすれば。彼等の系統は 0000_,20,665a12(00):宗乘の攻究闡明に對して關係薄かりしものと謂はざ 0000_,20,665a13(00):るべからす。然るに京都には此系統と相並行して摯 0000_,20,665a14(00):實穩健なる宗乘の攻究者ありき。即忍澂を唱首とす 0000_,20,665a15(00):る獅溪の一流也。 0000_,20,665a16(00):忍澂一六四五 一七一一字は信阿。白蓮社宣譽と號し。別に 0000_,20,665a17(00):葵翁と號し。又晩に金毛老人と稱せり。江戸の人幼 0000_,20,665b18(00):にして父を喪ひ。其遺志により縁山最勝院法譽直傳 0000_,20,665b19(00):に就き出家す。十五歳師を喪ひ法縁により岩槻檀林 0000_,20,665b20(00):の萬無玄に師事せしが。萬無の命により縁山林冏の 0000_,20,665b21(00):寮に入り宗乘を研覈す。同年林冏に從ひ鴻巢に赴き 0000_,20,665b22(00):居ること二年。寬文四年二十歳にして幡隨院に入り。上 0000_,20,665b23(00):首知闡に業を受く。同學雲臥と名を齊ふし且友とし 0000_,20,665b24(00):善し。元文七年廿三歳にして雲臥と共に上洛して香 0000_,20,665b25(00):衣綸旨を拜し。歸て江戸に在りしが。事により大に世 0000_,20,665b26(00):間無常を感じ。隱遁の志頓に發る。此に名を忍澂と改 0000_,20,665b27(00):め身を雲水に任せて念佛遊行す。同九年山城八幡正 0000_,20,665b28(00):法寺に止住し。内外典籍を閲覽する三年。同十二年 0000_,20,665b29(00):泉州堺阿彌陀寺含榮の請に應じて往きて住す。延寶 0000_,20,665b30(00):四年十月阿彌陀寺を遁れて吾孫子淨福寺に棲息す。 0000_,20,665b31(00):同五年堺法行尼の創建せる新寺に住す。同七年法行 0000_,20,665b32(00):寺に在りて諸傳を參考して宗祖善導の別傳を著は 0000_,20,665b33(00):し。光明大師別傳纂註と云ふ。盖來年大師一千年忌辰 0000_,20,665b34(00):報恩の爲なり。此歳より知恩院に師萬無玄に奉侍 0000_,20,666a01(00):す。或時師に啓し施主を募り幕府に請し獅溪の祖跡 0000_,20,666a02(00):に法然院興立の計畫を立つ。延寶八年工事に著手し 0000_,20,666a03(00):翌年五月殿宇莊嚴備足す。萬無創立の記を造り又寺 0000_,20,666a04(00):の規制十七條を定めて之に附與す。天和三年三十九 0000_,20,666a05(00):歳三心私記裒益三卷を撰し上梓す。元祿六年八月大 0000_,20,666a06(00):和國今井西光寺懷音を以て獅溪の主席となし。己れ 0000_,20,666a07(00):は山内影臨菴に隱居し。又時に八幡昌玉菴に閑居念 0000_,20,666a08(00):佛す。同十三年決疑鈔會本五卷を改刻す。是より先 0000_,20,666a09(00):決疑鈔世間流傳年淹しく手寫の間雜亂訛脱甚多し。 0000_,20,666a10(00):澂之を憂ひ善本を諸方に索求し。校合訂正三十星霜 0000_,20,666a11(00):を積みて此に至りて漸く成る。同十五年懷音獅溪を 0000_,20,666a12(00):辭し澂の上足澄隱之に代る。十六年寺法をして永世 0000_,20,666a13(00):に鞏固ならしめんが爲めに幕府に請ひて法然院を官 0000_,20,666a14(00):寺となす。翌年謝恩の爲に江戸に赴き將軍綱吉に謁 0000_,20,666a15(00):し選擇集大意を進講し。又桂昌院の爲めに法義を演 0000_,20,666a16(00):説し大に嘉賞を蒙る。寶永三年伊勢蓮華溪寅載の請 0000_,20,666a17(00):に應じて吉水遺誓諺論一卷を著し。宗義の骨髓を彰 0000_,20,666b18(00):明し異端邪謬を排斥す。かく獅溪を開きて宗門蘭若 0000_,20,666b19(00):の規模を範示し祖書の校正註解説明により宗學の研 0000_,20,666b20(00):究指針を明にする等。一宗刷新の上に功績鮮からざ 0000_,20,666b21(00):りしが。其一代に於ける最大にして且不朽の功績を 0000_,20,666b22(00):史上に止めたる事業は大藏經の對校なり。 0000_,20,666b23(00):大藏經對校のことは彼が壯年時代よりの宿願なりし 0000_,20,666b24(00):も。莫大の勞力と費用とを要することとて。著手の機 0000_,20,666b25(00):會を得ずして三十餘年を經過せしが。寶永三年に至 0000_,20,666b26(00):り漸く宿願を果すべき機運に際會したり。因りて江 0000_,20,666b27(00):戸縁山學生。道行才識兼備せるもの十餘輩を招致す。 0000_,20,666b28(00):直絃を上首として十餘輩招に應じて來り對校に從事 0000_,20,666b29(00):す。對校の方針は獅溪所藏の明藏と建仁寺の麗藏と 0000_,20,666b30(00):を校合するにありしが。建仁寺の藏規容易に他見を 0000_,20,666b31(00):許さず。近衞公に依り建仁寺に請ひ披見の許可をえ 0000_,20,666b32(00):しも寺外運出を許されざれば。風晨雨暮獅溪より建 0000_,20,666b33(00):仁に往返して校合に從事せしも。困難堪へ難きを以 0000_,20,666b34(00):て更に幕命を煩はして五十凾宛の搬出を許され。十 0000_,20,667a01(00):餘輩刻苦勉勵事に從ひ。寶永三年春二月十九日より 0000_,20,667a02(00):同七年夏四月に至る四年二ケ月を費して漸く業を竣 0000_,20,667a03(00):る。是に於いて大藏對校錄一百卷を撰せんとせし 0000_,20,667a04(00):が。疾に罹り果す能はざるを以て。別錄を撰輯せん 0000_,20,667a05(00):とせしが。之すら成す能はざるを見て之を後昆に屬 0000_,20,667a06(00):せり。二藏對校のこと是より後百十七年を經て越前國 0000_,20,667a07(00):絲生郷淨勝寺順慧も之を單獨にて成就し。明治十八 0000_,20,667a08(00):年弘經書院に麗宋元明四本對校本を出版せしも。其 0000_,20,667a09(00):濫觴は實に澂師にあり。又對校と共に明藏になくし 0000_,20,667a10(00):て麗藏にのみ存する慧琳音義一百卷を繕寫し之を出 0000_,20,667a11(00):版せんとし。十餘卷を上梓したるも疾により其業を 0000_,20,667a12(00):完成する能はざりき。 0000_,20,667a13(00):かくて多くの有益なる事業の完成を告るに遑あら 0000_,20,667a14(00):ずして。正德元年十一月十日獅溪の別房に遷化す。 0000_,20,667a15(00):世壽六十七法臘五十六。忍澂師に次ぎ獅溪を領し且 0000_,20,667a16(00):つ宗學に功ありしは懷音なり。 0000_,20,667a17(00):懷音― 一七一四字は玄阿。本蓮社眞譽と號す。大和 0000_,20,667b18(00):の産なれども其氏族生年を詳にせず。十六歳にして 0000_,20,667b19(00):江戸に赴き縁山に掛錫し。專ら宗乘を學び傍ら性相 0000_,20,667b20(00):を究む。後岩槻に往き聞證に師事す。故に義山とは 0000_,20,667b21(00):同學なり。學成り郷里に歸り今井西光寺に住し。化 0000_,20,667b22(00):導利生に勉め護法扶宗に勵む。特に一念義の邪謬を 0000_,20,667b23(00):彈斥し淨土考源錄を著す。忍澂之を見て其爲人を慕 0000_,20,667b24(00):ひ繼席の人に擬し之を義山に謀る。音は山と同學の 0000_,20,667b25(00):好を以て或時來りて山の房に宿せるを以て携へて澂 0000_,20,667b26(00):を訪ふ。其日恰も蓮華勝會にて信者雲集せしかば澂 0000_,20,667b27(00):公音の智辯を試んとして代説を囑す。音已をえず昇 0000_,20,667b28(00):座説法するに雄辯懸河四衆を驚かす。澂益其人物を 0000_,20,667b29(00):敬愛し補處たらんことを請ふ。固辭すれども許さず遂 0000_,20,667b30(00):に來りて席を董す。時に元祿六年八月廿五日のことな 0000_,20,667b31(00):り。爾後元祿十五年に至るまで十年間職に在りし 0000_,20,667b32(00):が。其間曾て大和に於て復興せる葛城稱念兩寺を獅 0000_,20,667b33(00):溪の末院に屬し。澂師制定の規式益嚴肅なりしが。元 0000_,20,667b34(00):祿十五年老を以て隱退し正德四年五月五日罹病入寂 0000_,20,668a01(00):す。著す所考源錄の外。往生禮讃纂釋。蘭盆會式略 0000_,20,668a02(00):解。諸家念佛集九卷あり。就中念佛集は諸宗の本經 0000_,20,668a03(00):末論人師の釋鈔に亙り。綿密に家家の念佛の意義を 0000_,20,668a04(00):開闡したるものにて。其學の該博にして其識見の洞 0000_,20,668a05(00):達なるを見るべし。懷音の後獅溪に住し學に名あり 0000_,20,668a06(00):しは寶洲とす。 0000_,20,668a07(00):寶洲― 一七三六好譽鶴阿と號す。其郷貫族籍を詳に 0000_,20,668a08(00):せず。始伊勢國白子悟眞寺に住せしが。享保二年の 0000_,20,668a09(00):春領主の招請に應じて磐城國相馬郡中村興仁寺に住 0000_,20,668a10(00):し。後獅溪に來住し元文二年寂す。曾て正德二年京 0000_,20,668a11(00):都報恩寺湛澄の遺囑を受けて隆堯法印の念佛奇特集 0000_,20,668a12(00):を校正出版し附するに或問を以てし。又享保五年奧 0000_,20,668a13(00):州に在りて無能和尚行業記二卷を著す。文辭典雅國 0000_,20,668a14(00):風に精かりしを見るべし。此外尚珍海の菩提心集夾 0000_,20,668a15(00):註三卷。孝感冥祥錄二卷。淨業課誦附錄一卷。日用 0000_,20,668a16(00):念誦一卷。待定法師利益傳二卷。貞傳上人東域念佛 0000_,20,668a17(00):利益傳二卷等の著書あり。 0000_,20,668b18(00):忍澂と交際したる人人の中には殆ど當時宗内の學 0000_,20,668b19(00):者道德家を網羅せしが。淨土律の開祖靈潭も其一人 0000_,20,668b20(00):なりしこと上に述べし如く。伊勢山田梅香寺寅載も餘 0000_,20,668b21(00):程親密なりしがごとし。寅載は奧州相馬の人にして 0000_,20,668b22(00):郡の興仁寺に入りて出家す。寺は靈潭。寶洲の往生 0000_,20,668b23(00):せる所なること上に述る所の如し。後縁山に掛席し遂 0000_,20,668b24(00):に藏司に拔擢せらる。寶永年中梅香寺に住し。或時 0000_,20,668b25(00):神官龍尚舍なるものを敎化す。尚舍邪見を翻し神國 0000_,20,668b26(00):決疑編を撰し。神佛一致の義を唱へたりと云ふ。 0000_,20,668b27(00):聞證一派。獅溪一派以外に京阪に於て宗學により 0000_,20,668b28(00):て一家を成せし者には報恩寺湛澄。了蓮寺文雄。法 0000_,20,668b29(00):泉寺珂然。正法寺大我等あり。 0000_,20,668b30(00):湛澄一六五一 一七一二字は染問向西子と號す。郷貫族姓を 0000_,20,668b31(00):詳にせず。京都報恩寺にありて講肆を敷く。智行兼 0000_,20,668b32(00):備せしが學は國書を最得意とし。國文宗書の註書及 0000_,20,668b33(00):著述尠からず。貞享三年三部假名鈔諺註十四卷を著 0000_,20,668b34(00):し。宗祖の和歌を註釋し空華和歌集と題し。其他頓 0000_,20,669a01(00):阿淨土長歌註。三部鈔要解。往生至要決要解。桑葉 0000_,20,669a02(00):和歌抄。女人往生傳。有鬼論等の著あり。就中諺註 0000_,20,669a03(00):は假名鈔を讀む者の必携の書たり。其他寶洲の請に 0000_,20,669a04(00):應じ病中念佛奇特集を訂正し。其序文及隆堯師略傳 0000_,20,669a05(00):を書し。門人信哲をして繕寫せしめ。後の完成出版 0000_,20,669a06(00):のことを寶洲に依囑し。正德二年二月六十二歳を以て 0000_,20,669a07(00):入寂す。 0000_,20,669a08(00):文雄一七〇〇 一七六三字は僧谿別に無相と號す。丹波國桑 0000_,20,669a09(00):田郡濃野村中西氏の子なり。幼にして郡の玉泉寺に 0000_,20,669a10(00):剃髮し。次で京都了蓮寺誓譽の弟子と成る。成年江 0000_,20,669a11(00):戸に赴き傳通院に掛席し。内外の學を究めしが。就 0000_,20,669a12(00):中太宰純に就き音韻を學び造詣甚だ深く。よりて磨 0000_,20,669a13(00):光韻鏡を著す。其他經史莊嶽音。和字大觀抄を著し。 0000_,20,669a14(00):發揮する所少からず。又蓮門類聚經籍錄一卷を著 0000_,20,669a15(00):し。長西に次ぎて宗書の目錄を整頓せり。此書後黑 0000_,20,669a16(00):谷天從重補し。養鸕徹定更に增補訂正して刊行し。 0000_,20,669a17(00):學徒を益すること多大なり。 0000_,20,669b18(00):珂然一六六一 一七三七字は眞阿別に寒叟と號す。大坂の人 0000_,20,669b19(00):なり。幼にして河内國玉手安福寺珂憶に就き得度 0000_,20,669b20(00):す。成年に及び東遊して縁山に掛錫し廓瑩に從ひて 0000_,20,669b21(00):宗乘を學ぶ。兩脈禀承の後叢林を退き四方に遊學し 0000_,20,669b22(00):て内外の學を窮盡す。後大坂生玉法泉寺に住して性 0000_,20,669b23(00):相經疏を講じ。傍孔老の學を談じ學徒を啓發す。其院 0000_,20,669b24(00):を大藏轉經院と號し。其居を脩史室と稱し。恒に鉛 0000_,20,669b25(00):槧を事とし著述する所多し。延享二年十月十一日寂 0000_,20,669b26(00):す。世壽七十七なりしと云ふ、著す所吉水實錄十五 0000_,20,669b27(00):卷。小閲藏知津。淨宗護國篇成語考三卷。珂碩。聞 0000_,20,669b28(00):證。義山。忍澂。澄禪等行業記。唯識論討要記。法 0000_,20,669b29(00):相義語筆成蠅。聖廟別傳。甘棠編。往生論纂要各三 0000_,20,669b30(00):卷。語燈錄燈枝五卷。元亨釋書索隱六卷。三部經。 0000_,20,669b31(00):安樂集。四帖疏。唯識百法等の講義數十卷。頌義會 0000_,20,669b32(00):蕞字典體製等二十餘部に及ぶ。就中彼が最も勢力を 0000_,20,669b33(00):傾倒したるは。吉水實錄を始め史傳の部類なり。德川 0000_,20,669b34(00):以前は勿論德川時代に於ても宗祖二祖三祖の傳を除 0000_,20,670a01(00):き他の宗侶の事跡を傳ふるもの極めて寥寥たり。元 0000_,20,670a02(00):祿年中京都綾小路歸命院懷山其門下靈山相次で。淨 0000_,20,670a03(00):統略讚及淨源脈譜を著し一宗の宗脈傳統を圖示し。 0000_,20,670a04(00):享保十二年鸞宿之を增補し且つ略傳を附して。宗脈 0000_,20,670a05(00):系圖と僧傳とを併せ知らしむるに足るべきもの三卷 0000_,20,670a06(00):とし之を淨土傳燈總系譜と題せり。又寶永元年近江 0000_,20,670a07(00):國松江稱名寺宣譽心阿。淨土本朝高僧傳八卷を著 0000_,20,670a08(00):す。或は淨土鎭流祖傳と號す。頗る誤謬多しと雖も 0000_,20,670a09(00):開宗より元祿頃に至るまでの著名なる高僧の傳記を 0000_,20,670a10(00):網羅せり。かくの如く史傳の攻究編纂に着目從事す 0000_,20,670a11(00):る者漸く輩出するの傾向を生じたるの際にあたり。 0000_,20,670a12(00):彼は此傾向を促進すべき抱負を以て起ちし者なる 0000_,20,670a13(00):が。其餘りに文章の華美を衒ひ。動もすれば其實を 0000_,20,670a14(00):遺るる傾あるは惜むべきなり。 0000_,20,670a15(00):大我一七〇七 一七八一字は孤立。白蓮社天譽と號す。赤穗藩 0000_,20,670a16(00):士某の子。故ありて乳母蓮心に養はれ。幼にして厭離 0000_,20,670a17(00):の情を催し。自ら髮を斷ち湯島靈雲寺に入り慧光和 0000_,20,670b18(00):上に禀戒す。靈雲寺に在りて内外諸典を學ぶこと殆ん 0000_,20,670b19(00):ど十二年なりしが。衆侶の嫉妬により寺を出て天下 0000_,20,670b20(00):の名山靈地を遊歷すること數年。遂に吉野西行菴に留 0000_,20,670b21(00):錫し。奧院に往詣して苦修練行す。一旦感ずる所あり 0000_,20,670b22(00):て密敎を廢めて淨土に歸す。是實に享保十六年廿三 0000_,20,670b23(00):歳のことなり。吉野を出て江戸に歸り明師を淺草大悲 0000_,20,670b24(00):閣に祈請す。啓示により鎌倉に赴き稱譽眞察に謁す。 0000_,20,670b25(00):爾來眞察に隨逐すること十年にして深く宗要を翫味 0000_,20,670b26(00):し。傍ら四方の學匠を訪ひ法華華嚴戒律禪等參究せ 0000_,20,670b27(00):ざるなく。其他儒敎國學武技諸禮に至るまで究めざ 0000_,20,670b28(00):るなし。眞察の知恩院に轉ずるや之に隨從し。延享 0000_,20,670b29(00):二年眞察寂後。知恩院を下り紫雲山下松風軒に隱れ 0000_,20,670b30(00):專ら道業を修し又藏經を閲す。寬延三年山城八幡正 0000_,20,670b31(00):法寺を董す。數年ならずして山務に倦み佯狂して寺 0000_,20,670b32(00):を出て。岡崎の地に菴を結び夢菴と號して居る。幾も 0000_,20,670b33(00):なく增上寺定月之を招き詩韻唱和の友とす。江戸に 0000_,20,670b34(00):ありては姥池愛蓮庵に寓し武藏野の草端房と稱す。 0000_,20,671a01(00):安永二年遊芝談を作り普寂を指彈し。又之より先性 0000_,20,671a02(00):惡論を述べて律師を破し。扶宗論を作りて關通を斥 0000_,20,671a03(00):く。其終る所を知らず。一説に天明二年八月十五日 0000_,20,671a04(00):七十四歳にして寂すと云ふ。著す所一枚起請辟邪 0000_,20,671a05(00):訓。眞察大僧正傳。新撰念佛和讚。專修祈禱辨。唯 0000_,20,671a06(00):稱辟魔訣。伏虎錄。紫朱論。降魔決。金鍮論。曇華 0000_,20,671a07(00):論。大學考。辯惑論。淨業論。獅蟲論。春遊興。性 0000_,20,671a08(00):惡論。唯稱安心鏡。遊芝談。圓敎論。愚考問。遊江 0000_,20,671a09(00):吟。俳諧論。風詠林。破二痴。釋敎論。眞宗論。僞 0000_,20,671a10(00):論解。善光寺縁起。淺草遊文。西路談。扶宗論。夢 0000_,20,671a11(00):菴戯歌集。三彛訓。辨正論各一卷。唯稱問津訣。楠 0000_,20,671a12(00):石論。玉石論。彌陀經略纂。各二卷。鼎足論四卷あ 0000_,20,671a13(00):り。 0000_,20,671a14(00):關東に於ては增上寺靈玄。雲臥。大玄。定月。靈 0000_,20,671a15(00):山寺廓瑩。光明寺觀徹。常福寺鸞宿。大光院義海等 0000_,20,671a16(00):の英傑ありて。檀林能化の高職に在りながら宗學を 0000_,20,671a17(00):講じ餘乘を談じ。述作以て當時並に後世を裨益せる 0000_,20,671b18(00):こと鮮からず。野に在りては敬首。貞極。普寂の三師 0000_,20,671b19(00):は最も傑出せる學者なりき。 0000_,20,671b20(00):靈玄一六一九 一六九八は生譽と號す。延寶二年幕命により 0000_,20,671b21(00):瀧山大善寺に住し。同九年八月增上寺に晋み住する 0000_,20,671b22(00):こと五年。疾を以て職を辭し伊勢國山田晴雲院に退隱 0000_,20,671b23(00):し。元祿十一年五月九日玆に寂す。壽八十。著すと 0000_,20,671b24(00):ころ彌陀經和字序。淨業圖記。眞宗七祖傳。糅鈔序 0000_,20,671b25(00):註。扶桑鐘銘集。將軍年譜。甲陽軍記。東鑑脱漏等 0000_,20,671b26(00):あり。 0000_,20,671b27(00):雲臥一六四二 一七一〇證譽と號す。幼にして增上寺快龍の 0000_,20,671b28(00):弟子と成り。聰慧夙に頭角を顯はし。一時下谷幡隨 0000_,20,671b29(00):院に在りて忍澂師と學友たりしが。元祿元年小金東 0000_,20,671b30(00):漸寺に住し。同十二年飯沼弘經寺に移り。同十三年 0000_,20,671b31(00):小石川慈雲。鎌倉意覺。新田門周。瓜連圓理の四老 0000_,20,671b32(00):を超越して飯沼より直に增上寺に轉昇す。寶永元年 0000_,20,671b33(00):辭職して麻布に退隱し。同七年五月六十五歳を以て 0000_,20,671b34(00):寂す。著す所淨土大綱鈔二卷あり。其他縁山大衆を 0000_,20,672a01(00):督して頌義底本を修成し。又頌義拔萃を刊行して學 0000_,20,672a02(00):徒に便せり。 0000_,20,672a03(00):大玄一六七七 一七五六成譽と號す。下野國氏家郷の人。十 0000_,20,672a04(00):五歳同國黑羽長松院俊能に就き得度す。次で飯沼に 0000_,20,672a05(00):於て祐天に師事す。同上人の傳通院に移るや又之に 0000_,20,672a06(00):隨從す。後京都奈良に遊學し性相を研覈し又戒範を 0000_,20,672a07(00):索究す。毎に宗門圓戒の廢退を慨き之が恢復を志 0000_,20,672a08(00):し。又冏師の頌義が二祖三代の定判と往往鉾楯する 0000_,20,672a09(00):を見て探玄鈔三卷を作りて之が通釋を試み。元文五 0000_,20,672a10(00):年始めて結城弘經寺に法幢を建て。延享二年新田大 0000_,20,672a11(00):光院に轉じ。寬延三年傳通院に再轉し。寶曆三年遂 0000_,20,672a12(00):に增上寺に晋山す。縁山董職以來圓布顯正記。圓戒 0000_,20,672a13(00):歸元鈔等を著し。圓戒羯磨の復興に盡瘁し。次で寶 0000_,20,672a14(00):曆五年正八の檀林會議に。十二門戒儀を以て圓戒傳 0000_,20,672a15(00):授すべきこと。璽書の傳受及布薩戒も日課增進の爲 0000_,20,672a16(00):に猶存すべきことを決議せり。此に多年の宿志を果遂 0000_,20,672a17(00):せしが。其翌六年八月四日七十七歳を以て入寂す。是 0000_,20,672b18(00):より先律院建立の願を發し。假に目黑蟠龍寺を經營 0000_,20,672b19(00):し。奧州の不能和尚を請して住せしめ。次で本院を 0000_,20,672b20(00):經營せんとして果さず。遺弟千如命を奉じて之を 0000_,20,672b21(00):經營す。即是目黑長泉院なり。平生著す所上揭の 0000_,20,672b22(00):外。蓮門學則。宗戒初學鈔。圓戒略撰。圓戒問答。 0000_,20,672b23(00):圓戒啓蒙。圓戒餘説。布薩料簡鈔。布薩初學鈔。布 0000_,20,672b24(00):薩戒講義。古本戒儀授法記。五重綱要義。十念辨等 0000_,20,672b25(00):あり。 0000_,20,672b26(00):定月一六六七 一七五〇妙譽と號す。伊勢國二見の人。十二 0000_,20,672b27(00):歳郷の西光寺定祐に投じて出家し。幾もなく東遊し 0000_,20,672b28(00):て縁山南溪梁道の寮に止住し。宗乘の傍餘乘外典を 0000_,20,672b29(00):研究す。梁道の小金東漸寺に住するや隨從して其敎 0000_,20,672b30(00):化を翼け。其沒後縁山に還り維摩倶舍唯識等を講 0000_,20,672b31(00):じ。又天台十不二門指要鈔を講ずる十數回に及ぶ。 0000_,20,672b32(00):寬保二年小金に出世し。常福寺傳通院を經昇して。 0000_,20,672b33(00):寶曆六年大玄の後を襲ひ縁山に晋む。在住十一年に 0000_,20,672b34(00):して明和三年辭退。麻布に隱居し。同八年八十四歳 0000_,20,673a01(00):を以て遷化す。甞て敬首が天台戒體訣を造り心法を 0000_,20,673a02(00):廢し色法戒體を主張するや。僧正明燈章二卷を著し 0000_,20,673a03(00):色心の偏廢すべからざることを説き。日蓮宗徒繫珠錄 0000_,20,673a04(00):を著し吾宗を攻擊するや。獅子絃十卷を作りて之に 0000_,20,673a05(00):應酬し。又倶舍講林折條。論註眼髓等の著あり。其 0000_,20,673a06(00):他師梁道の稱讚經疏三卷。不染居士の護法資治論五 0000_,20,673a07(00):卷も亦僧正の校正上梓する所なり。以て聞證。義山 0000_,20,673a08(00):等の法孫たるに耻ぢざる學者たりしを見るべし。 0000_,20,673a09(00):廓瑩― 一六九五明譽と號す。上野國小島の人なり。 0000_,20,673a10(00):十五歳縁山春岳に投じて出家し。後南都北京に遊學 0000_,20,673a11(00):し性相權實を尋究せしが。貞享三年幕命により靈山 0000_,20,673a12(00):寺に住す。寺は寬永年中法幢を中絶せしが去年再興 0000_,20,673a13(00):を許可せられたるものにして。再興の運に當り之が 0000_,20,673a14(00):經營の任を托されたるに見るも。其人物の決して凡 0000_,20,673a15(00):に非りしを知るべし。元祿元年寺を淺草より本所の 0000_,20,673a16(00):地に移し。同五年殿堂完備檀林の面目始めて全きを 0000_,20,673a17(00):えたり。翌六年瓜連に轉昇し。同八年正月十日江戸 0000_,20,673b18(00):の舘舍に寂す。著す所徃生要集指麾鈔二十五卷あ 0000_,20,673b19(00):り。 0000_,20,673b20(00):觀徹一六五七 一七三一義譽と號す。京都の人にして童稚の 0000_,20,673b21(00):時知恩院玄譽知鑑の高弟觀禪の徒弟となり。十五歳 0000_,20,673b22(00):東遊し唯識倶舍に精通す。雲臥小金にある時招きて 0000_,20,673b23(00):學頭となす。正德二年江戸崎大念寺に出世し。常福 0000_,20,673b24(00):寺を經て同十一年鎌倉光明寺に移り。同十六年十二 0000_,20,673b25(00):月十七日入寂す。享年七十五なり。資性道心に富み 0000_,20,673b26(00):日課念佛別時念佛を勤修策勵す。又護法扶宗の念淳 0000_,20,673b27(00):くして宗乘の正醇を發揮し。傳法の精髓を保持する 0000_,20,673b28(00):に熱心なりしことは。その江戸崎に在るの日。當時尚 0000_,20,673b29(00):所化の一分に過ぎざりし大玄を拜して授戒の師と仰 0000_,20,673b30(00):ぎ。鎌倉に在るの日湛慧が洛西長時院を興復し律院 0000_,20,673b31(00):の淸規を嚴備せるを聞き。遙に布薩法器を寄附して 0000_,20,673b32(00):其擧を翼賛せりと云ふに徴して知るべく。故に當時 0000_,20,673b33(00):の學德に名ある者にして千里を遠とせずして其座下 0000_,20,673b34(00):に集り其謦咳に接するを樂みし者非常に多く。關通 0000_,20,674a01(00):の如きも實に其一人なりしと云ふ。著す所三部經合 0000_,20,674a02(00):讚七卷。圓頓戒誘蒙一卷。智光淸海曼陀羅合讚二卷 0000_,20,674a03(00):等あり。何れも宗門學徒の指針たるを失はず。 0000_,20,674a04(00):鸞宿― 一七五〇靈譽と號す。伊勢國山田の人なり。 0000_,20,674a05(00):幼にして晴雲院に入り靈玄師に就き得度す。東遊錫 0000_,20,674a06(00):を縁山に懸くるや博聞強記にして論義講説玄師に讓 0000_,20,674a07(00):らず。後小金東漸寺に出世し。延享二年五月瓜連を 0000_,20,674a08(00):經て直に知恩院に住す。是第三十五世心譽文宗が飯 0000_,20,674a09(00):沼より超昇したる以來の異例なり。居ること六年にし 0000_,20,674a10(00):て寬延三年十月十五日華頂に寂す。曾て縁山の學侶 0000_,20,674a11(00):たりし頃淨土傳燈總系譜三卷を編し。開宗以後當時 0000_,20,674a12(00):に至る列祖の正系傍出を圖示し本支幹葉の關係を明 0000_,20,674a13(00):にし。且つ各人の下に小傳を附記して其事迹を知り 0000_,20,674a14(00):易からしむ。是より先京都綾小路大宮歸命院懷山。 0000_,20,674a15(00):敕修傳。淨土分流。蓮門流派。淨土血脉論。淨土源 0000_,20,674a16(00):流等に依り。一宗の系統を圖書し之を門弟靈山に授 0000_,20,674a17(00):く。靈山之を增修して淨土源流解蒙と名けて世に流 0000_,20,674b18(00):布し。後更に增補訂正して淨統略讚と題し世に行 0000_,20,674b19(00):ふ。宿師の總系譜は恐らく此を基礎とし更に增補し 0000_,20,674b20(00):且つ各人の下に小傳を附せしものなり。攝門が檀林 0000_,20,674b21(00):誌瓜連志の下に。總系譜は懷山の遺稿にして。鸞宿が 0000_,20,674b22(00):其儘自名を署して刊行し人の功を奪へるが如く記す 0000_,20,674b23(00):るは。誣ゆるの甚しきものと云はざるべからず。總系 0000_,20,674b24(00):譜の外有鬼論二卷。八宗綱要疏。選擇集玄譚一卷。 0000_,20,674b25(00):同講錄四卷。決疑鈔講錄七卷。同玄談一卷。廻瀾鈔 0000_,20,674b26(00):一卷等五十餘卷あり。 0000_,20,674b27(00):義海― 一七五五空譽と號す。別に冲默と號す。初增上 0000_,20,674b28(00):寺に掛錫し。岩槻淨國寺を經て寬延三年新田大光院 0000_,20,674b29(00):に住し。在住五年にして寶曆五年正月十日入寂す。著 0000_,20,674b30(00):す所大經義疏選要記二卷。論註輔正記十二卷。遊心 0000_,20,674b31(00):安樂道私記二卷。蕉窓漫筆三卷。佛像幖幟義箋註三 0000_,20,674b32(00):卷。同圖説二卷。蓮宗禦寇編三卷。雪鵞箋斷非一卷 0000_,20,674b33(00):等あり。禦寇編は華嚴鳳潭の念佛明導剳を駁擊し。 0000_,20,674b34(00):斷非は鳳潭蓮宗禦寇編雪鵞箋を反駁したるものな 0000_,20,675a01(00):り。當時鳳潭諸宗に對し論戰を挑み。天台日蓮眞宗 0000_,20,675a02(00):等の諸宗の學者筆鋒を並べて之に肉薄せしが。海は 0000_,20,675a03(00):本宗を代表して彼の鋭鋒に當り。宗の體面を保持す 0000_,20,675a04(00):るに力めたる功績偉なりと云はざるべからず。 0000_,20,675a05(00):野に於ける敬首・貞極・普寂三師は共に德川中世 0000_,20,675a06(00):の淨土宗の學者として内外に知らるるも敬首。普寂 0000_,20,675a07(00):に就ては既に述べしを以て此には貞極一人を叙ぶべ 0000_,20,675a08(00):し。 0000_,20,675a09(00):貞極一六七七 一七五六立譽と號す。京都の人にして元祿十 0000_,20,675a10(00):六年廿七歳を以て岡崎厭求貞憶に就き得度出家す。 0000_,20,675a11(00):師の座下に侍する四年にして關東に遊び。籍を傳通 0000_,20,675a12(00):院に懸け了因寮に入る。學寮に在ること三年專ら念佛 0000_,20,675a13(00):し傍宗乘を講究す。次で宗戒兩脉を禀承し京都に歸 0000_,20,675a14(00):省す。而も其解行の未だ熟せざるを慨し。再び東遊 0000_,20,675a15(00):し屏居楞嚴を讀むこと三年にして省悟する所あり。正 0000_,20,675a16(00):德三年世榮を辭して小石川に隱遁し。享保元年麻布 0000_,20,675a17(00):に卜居し。更に三河島通津菴。根岸四休庵等意に隨 0000_,20,675b18(00):ひ遊息す。かく隱遁生活をこととし自行に勵精せし 0000_,20,675b19(00):も。而も來りて道を訪ふ者を拒まず。從て道俗の來 0000_,20,675b20(00):訪問道する者常に其門に絶えざりしと云ふ。寶曆六 0000_,20,675b21(00):年六月二日八十歳を以て寂す。隱遁以來著す所本願 0000_,20,675b22(00):念佛感光章二卷。涅槃像隨文略賛三卷。法の道芝二 0000_,20,675b23(00):卷。三十二相顯要抄三卷。鎚砧抄十卷。兩脉自他二 0000_,20,675b24(00):要三卷。五重廢立抄三卷。六波羅蜜寶林抄四卷。同 0000_,20,675b25(00):拾玉抄三卷。廿五菩薩拾穗抄三卷。淨土回向要決。 0000_,20,675b26(00):如來十力得勝論。三心敎訓抄。深草問答。淨土八祖 0000_,20,675b27(00):略傳要註。淨土和語宗要增一法門等八十餘部あり。 0000_,20,675b28(00):其五重廢立抄の如き當時彼に非れば到底言ひえざる 0000_,20,675b29(00):所を道破せるもの。後年行誡が傳語を作りて傳法の 0000_,20,675b30(00):改革を企てしが如き。彼の言論に動かされたるもの 0000_,20,675b31(00):なり。 0000_,20,675b32(00):(三) 後期 0000_,20,675b33(00):天明元年普寂遷化し。其翌年大我寂せしより以降 0000_,20,675b34(00):は。宗學界頓に寂莫を感ぜしむるものなきにあらざ 0000_,20,676a01(00):るも。尚關東に妙瑞。存統。圓通。攝門あり。京阪 0000_,20,676a02(00):に經歷。了吟。典壽。恢麟。音澂。立道あり。伊勢 0000_,20,676a03(00):に大順。信冏あり。妙瑞立道大順信冏は宗乘を專攻 0000_,20,676a04(00):し。攝門了吟は宗史を穿鑿し。經歷典壽恢麟等は餘 0000_,20,676a05(00):乘に精進し。宗學の爲に氣焰を吐けり。 0000_,20,676a06(00):妙瑞― 一七八七性譽と號す。增上寺定月の法嗣にし 0000_,20,676a07(00):て。鴻巢檀林を經て飯沼に轉じ。天明七年寂す。宗 0000_,20,676a08(00):乘就中宗祖門下及三祖門下の異義に精通し。東宗要 0000_,20,676a09(00):玄談。同講錄。補訂徹選擇集私志記等。數部の著述 0000_,20,676a10(00):ありて後學を裨益する所尠からず。 0000_,20,676a11(00):存統圓通は佛敎天文學の研究を以て著名なり。存 0000_,20,676a12(00):統― 一八三〇轉譽と號し。靈巖寺に掛錫し眞梁に師事 0000_,20,676a13(00):し貞嚴に嗣法し。文化六年圓通窟に主とし累進して 0000_,20,676a14(00):學頭となりしが。天保元年幕命により三河松應寺に 0000_,20,676a15(00):住し。同三年七月十一日寂す。諸學に達せしも就中 0000_,20,676a16(00):天文地理を喜び。須彌山圖。世界大相圖。閻浮提日 0000_,20,676a17(00):宮圖は其最苦心の作なり。又道譽流の傳書及靈巖上 0000_,20,676b18(00):人傳を纂校せり。 0000_,20,676b19(00):圓通一七五四 一八三四字は珂月無外子と號し又普門と稱 0000_,20,676b20(00):す。因幡の人。七歳日蓮宗に入りて出家し。早く學 0000_,20,676b21(00):内外に通ぜしが。中頃天台宗に改め。伯州大山。叡 0000_,20,676b22(00):山安樂院等に住し。又京積善院豪潮に謁し久しく座 0000_,20,676b23(00):下に侍す。常に西洋天文學の佛敎の信仰を破壞する 0000_,20,676b24(00):を慨き。經論を涉獵し歷史百家書に及び。博引深究 0000_,20,676b25(00):すること三十餘年にして遂に佛國曆象篇五卷を著す。 0000_,20,676b26(00):後江戸に遊び芝山慧照律院に住し。天保五年九月四 0000_,20,676b27(00):日八十一歳を以て寂す。著す所曆象編の外。須彌山 0000_,20,676b28(00):儀圖。縮象儀。梵曆策進等あり。 0000_,20,676b29(00):攝門一七八二 一八三八は常譽と號す。江戸の人。十三四歳の 0000_,20,676b30(00):頃伊勢に赴き深野村に得度し察龍と改名す。居ること 0000_,20,676b31(00):四年にして歸東し縁山に掛錫す。是寬政八九年の交 0000_,20,676b32(00):なり。縁山典海より攝門の名を授與せらる。爾來文 0000_,20,676b33(00):政四年に至るまで在山殆んど廿五年なりしが。此間 0000_,20,676b34(00):孜孜として内外諸典を攻究し。諸史舊記を涉獵し。 0000_,20,677a01(00):九十七部二百十九卷の著述をなせり。然れども其書 0000_,20,677a02(00):の現存し或は其目の存するもの。三縁山誌十二卷。 0000_,20,677a03(00):續三縁山誌十卷(目錄存するも他は無し)。四本山誌 0000_,20,677a04(00):十卷(散迭)。檀林誌。無量山誌六卷。祝禱篇三卷。 0000_,20,677a05(00):新撰淨土源流譜十卷。廣濟和尚傳三卷。釋迦佛傳來 0000_,20,677a06(00):記三卷。善光寺如來渡證考二卷。原人論義解三卷。 0000_,20,677a07(00):妙俊尼傳一卷等なり。文政四年十月廿一日故ありて 0000_,20,677a08(00):辭山還俗す。其際進學日札三卷。同續編一卷を作り 0000_,20,677a09(00):て大衆に與へ。且置文一篇を殘して去る。歸俗の後 0000_,20,677a10(00):覺齋と號し湯島邊に隱栖し。當時の碩儒鴻學と交際 0000_,20,677a11(00):し。後幕府の侍讀に任ぜられ。天保八九年の交五十八 0000_,20,677a12(00):歳を以て卒せり。辭山後も淨宗先德奠香錄一卷を著 0000_,20,677a13(00):し。全く本宗と絶縁したるに非りき。彼の宗學に致し 0000_,20,677a14(00):たる貢献は專ら歷史の方面にあり。此の方面には從 0000_,20,677a15(00):來に見ざる廣さと實質を有し。且系統的なりしも之 0000_,20,677a16(00):を完成するに至らずして辭山したる爲め。縁山誌を 0000_,20,677a17(00):除きて外は概ね材料の蒐集に過ぎざりしは惜しむべ 0000_,20,677b18(00):きなり。 0000_,20,677b19(00):經歷一七四〇 一八一〇十譽と號す。下總大須賀村の人な 0000_,20,677b20(00):り。齠齓にして學を好み博覽強識にして傍ら野乘稗 0000_,20,677b21(00):史に通ぜり。十八歳小金東漸寺聞譽祐歷に就き出家 0000_,20,677b22(00):し。後縁山に掛錫し長泉院普寂の講莚に侍し千席に 0000_,20,677b23(00):及べりと云ふ。明和年祐歷に從ひ三河大樹寺に赴 0000_,20,677b24(00):き。師を輔翼する傍宗乘を研究し頌義を閲する十八 0000_,20,677b25(00):遍に及びしと云ふ。後西上して深草堪好に從ひ性相 0000_,20,677b26(00):を研覈し。其他禪密の諸宗を該羅したるが。其最も 0000_,20,677b27(00):得意とする所は華天一乘なりき。初京都聖光寺に住 0000_,20,677b28(00):し講肆を張りしが。天明三年大阪藤田某廢寺を復興 0000_,20,677b29(00):し藤田寺と號す。其來住を請ふにより之に移り。中 0000_,20,677b30(00):途細川侯の請に應じ熊本往生院に往住すること二年。 0000_,20,677b31(00):疾を以て辭して大阪に歸り住す。爾後廿餘年四方に 0000_,20,677b32(00):遊講せしが。文化七年十一月廿日七十一歳を以て寂 0000_,20,677b33(00):す。生平講ずる所の錄數十部ありしと雖も。上木秘 0000_,20,677b34(00):藏せざりしを以て。現存するもの極て稀にして。法 0000_,20,678a01(00):華入疏探玄記。識知淨土論私記一卷。淨土源流章私 0000_,20,678a02(00):記一卷等の錄數部のみ。 0000_,20,678a03(00):典壽― 一八一四江戸の人。縁山に掛錫せしも。訥辯 0000_,20,678a04(00):衆嘲を怒り。辭山京都に赴き。始め獅溪金毛窟に住 0000_,20,678a05(00):し後嵯峨寶筐庵に移り。文化十二年七月二十三日寂 0000_,20,678a06(00):す。識見高邁にして内外に博通せしが。就中華嚴に 0000_,20,678a07(00):精通し。又文字に委しく校讐に巧にして。寬政版觀 0000_,20,678a08(00):心覺夢鈔。新版傳通記等は其校訂する所なり。 0000_,20,678a09(00):恢麟― 一八二四國譽と號す。始三田濟海寺雲應の資 0000_,20,678a10(00):たりしが。後知恩院聖譽靈麟の資と成る。一時縁山 0000_,20,678a11(00):の學席に主たりしも。當時の縁山所化の學風萎微不 0000_,20,678a12(00):振を慨し。味噌蓋燒かずんば眞學起らずと絶叫した 0000_,20,678a13(00):り。是により衆侶の憎惡する所となり辭山して西遊 0000_,20,678a14(00):す。時に文化九年なり。當時智積院に海應。深慧二學 0000_,20,678a15(00):匠あり倶舍唯識の巨擘たり。麟。深慧に從ひ奈良に赴 0000_,20,678a16(00):き性相を練磨し。後一心院に住し。京都奈良の間を往 0000_,20,678a17(00):來して講筵虚日なし。從來唯識論述記は浩瀚なるが 0000_,20,678b18(00):爲に講者も聽者も卷を終らずして廢すること多かりし 0000_,20,678b19(00):が。鱗一夏九旬に講了して聽者を倦ましめざりしと 0000_,20,678b20(00):云ふ。以て其の機敏を見るべし。著す所法相伊呂波 0000_,20,678b21(00):名目四卷等あり。 0000_,20,678b22(00):音澂一七五七 一八三三忍譽と號す。三河の人にして同國遍 0000_,20,678b23(00):照院穩冏を師とす。關東遊學の後寬政元年京都に上 0000_,20,678b24(00):り華頂山内既成院に寓す。同年洛西池上西光庵に移 0000_,20,678b25(00):住し大乘義章及唯識述記を講ず。同三年京極勝圓寺 0000_,20,678b26(00):に轉じ獅溪金毛院に往返して典壽と大藏對校錄を校 0000_,20,678b27(00):正す。同四年衆請に應じて倶舍論を寺坊に講ず。同年 0000_,20,678b28(00):九月淨福寺に晋み倶舍論の講を續け。或時請により 0000_,20,678b29(00):維摩經を講ず。同八年義林表無表章を講じ。同九年 0000_,20,678b30(00):倶舍の續講を始め十月に畢る。同十年敎誡律儀及六 0000_,20,678b31(00):物圖等を。同十一年唯識述記を。同十二年華嚴五敎 0000_,20,678b32(00):章を講ず。享和三年三河に遊化し淨久寺に起信論を 0000_,20,678b33(00):講ず。同年十一月本山役者に任ぜられ宗鏡錄を講ず。 0000_,20,678b34(00):文政元年六月典壽の業を繼ぎ傳通記を校讐上梓す。 0000_,20,679a01(00):同十三年寺内に松聲院を營みて隱遁し。天保四年十 0000_,20,679a02(00):月十三日松聲院に寂す。其講義の多きに似ず淨業蓮 0000_,20,679a03(00):社小制規一卷を除きては著述の傳へらるるなし。攝 0000_,20,679a04(00):門は本山幹事と成りし以來財利を愛し。一期空しく 0000_,20,679a05(00):消光したる結果なりと評せるもいかにや。 0000_,20,679a06(00):立道一七五五 一八三六字は慧玄得譽と號す。京都の人な 0000_,20,679a07(00):り。幼にして聖光寺良瑞に投じて出家す。適學信來寓 0000_,20,679a08(00):するありて之に親炙す。志學の後東遊して縁山に留 0000_,20,679a09(00):錫すること八年なりしが。其間豐譽靈應に兩脉を禀承 0000_,20,679a10(00):し普寂に就き敎乘を講習し。西歸の後河内往生院に 0000_,20,679a11(00):住し幾ならずして嵯峨正定院に轉ず。天明三年二十 0000_,20,679a12(00):九歳の時なり。爾後五十餘年。嵯峨に隱遁して世塵に 0000_,20,679a13(00):交らず。故に當時嵯峨隱居の名天下に囂しかりしと 0000_,20,679a14(00):云ふ。平生聞證。湛慧の爲人を慕ふ。故に其學も唯識 0000_,20,679a15(00):華嚴起信等に精通せり。宗部の内には最も徹選擇に 0000_,20,679a16(00):思を覃め。其私言の如き一家の見識を見るべし。著す 0000_,20,679a17(00):所の疏鈔二十四部ありと傳へらるるも多く世に流布 0000_,20,679b18(00):せず。 0000_,20,679b19(00):伊勢の地。曼陀羅の研究者を輩出せり。即曼陀羅 0000_,20,679b20(00):寺演智一六三四 一七一二は椚象十四卷を著す。觀正庵一道は 0000_,20,679b21(00):搜玄八卷を作り。阿彌陀寺大順一七一一 一七七九又當麻曼陀 0000_,20,679b22(00):羅搜玄疏七卷。同圖本一卷。同縁起一卷。同口決細 0000_,20,679b23(00):辨一卷。善導大師曼陀羅略讚一卷等を造る。而して 0000_,20,679b24(00):三人の關係不明にして單獨の研究に因れるが如き觀 0000_,20,679b25(00):あるも。何等かの關係あるや疑ふべからず。 0000_,20,679b26(00):信冏一七五五 一八二〇徴譽と號す。尾張大成邑の人。寶曆 0000_,20,679b27(00):十三年九歳にして伊勢山田梅香院響譽に投じて出家 0000_,20,679b28(00):す。東都遊學の後西に歸り。寬政二年請に應じ近江 0000_,20,679b29(00):金勝阿彌陀寺に住し廢を興して功あり。同七年寺を 0000_,20,679b30(00):辭し。八年獅溪に鎭西法彙廿卷を校す。同十年請によ 0000_,20,679b31(00):り伏見誓願寺に住し。同十二年十一月伊勢淸光寺に 0000_,20,679b32(00):住す。爾來廿餘年同寺にあり自ら説敎し。或は他より 0000_,20,679b33(00):高德を請して講説せしめ。又請に應じて四方に遊説 0000_,20,679b34(00):して。化導甚敦し。化導の餘暇校書著作尠からず。 0000_,20,680a01(00):第七章 布 敎 0000_,20,680a02(00): 0000_,20,680a03(00):布敎を廣意に解して塔堂建立や葬式佛事をも之に 0000_,20,680a04(00):含ましむるときは。此時代の本宗の布敎も可なり盛 0000_,20,680a05(00):なりしとも云ひ得べけん。然れども之を以て一宗建 0000_,20,680a06(00):立の眞主義を宣傳し。之によりて宗徒の精神生活を 0000_,20,680a07(00):指導するにありとすれば。決して盛なりと云ふ能は 0000_,20,680a08(00):ざるのみならず。甚憫むべき狀態にありしと云はざ 0000_,20,680a09(00):るべからず。狂言綺語を弄して無智の老若男女を隨 0000_,20,680a10(00):喜せしめたる。謂はゆる談義説法は前期就中足利末 0000_,20,680a11(00):葉に於て天下を風靡したりき。這は勿論本宗に限ら 0000_,20,680a12(00):ざることなりしならんも。其の最も盛なりしは本宗に 0000_,20,680a13(00):して。淨土宗僧侶といへば直に談義僧を聯想せしむ 0000_,20,680a14(00):るほどなりしなり。かかる談義僧は此時代の初期に 0000_,20,680a15(00):於ては甚多く。一宗の體面を汚損すること少からず。單 0000_,20,680a16(00):に愚夫愚婦を迷惑せしむるのみならず。時としては 0000_,20,680a17(00):自讚毀他の結果宗論を惹起し。有司をして之が裁斷 0000_,20,680b18(00):に困ましめしこと少からざりしかば。元和條目第八 0000_,20,680b19(00):條にも此等不都合の徒を取締るの目的を以て。不 0000_,20,680b20(00):解事理縱橫之深義著相憑文之族貪着名利不 0000_,20,680b21(00):可致法談縱亦蒙尊宿之許可雖令勸化空閣佛 0000_,20,680b22(00):經祖釋偏事狂言綺語妄莊愚夫之耳剩自讚毀他 0000_,20,680b23(00):尤是爲法衰之因諍論之縁堅可制止事と云へり。 0000_,20,680b24(00):宗論の爲政者を困めたること。賢明なる政治家の之が 0000_,20,680b25(00):撲滅に苦心せしことは。天正七年五月安土問答に對す 0000_,20,680b26(00):る織田信長の態度。及慶長十三年十一月十五日江戸 0000_,20,680b27(00):城問答に對する德川幕府の處置によりて伺ふべし。 0000_,20,680b28(00):かかる宗論を未然に防止するは無智の談義僧の取締 0000_,20,680b29(00):が第一なりしなり。 0000_,20,680b30(00):無智の談義僧の狂言綺語的法談が。愚民を迷惑し 0000_,20,680b31(00):動もすれば宗論を惹起するの機會を與ふることあるは 0000_,20,680b32(00):爭ふべからず。然れども一定止住の者にありては其 0000_,20,680b33(00):弊左程大ならざるも。浮雲の如く流水の如く各地に 0000_,20,680b34(00):遊行往來して。愚民を迷惑し煽動する者に至りては 0000_,20,681a01(00):其弊害更に大なり。故に之を取締る目的を以て。條 0000_,20,681a02(00):目第九條には。往來之知識等其所之門中無許容聊 0000_,20,681a03(00):爾不可致法談事と規定せり。又關東檀林規約第 0000_,20,681a04(00):五條には。其所之門中え不屆而致法談之儀禁制之 0000_,20,681a05(00):事と云へり。盖旅僧には無責任なる者多く危險分子 0000_,20,681a06(00):多きが故に。門中寺院の中に知己を有するか。或は 0000_,20,681a07(00):大部分の者が之を承認するに非れば説法せしめざる 0000_,20,681a08(00):にあり。 0000_,20,681a09(00):狂言綺語愚人を迷惑し。往來説法愚民を煽動する 0000_,20,681a10(00):者の外に。尚宗義を曲解し新奇を標榜して信徒を集 0000_,20,681a11(00):むる者も。宗門の統治延いては一國の政治に危害を 0000_,20,681a12(00):與ふることあり。故に條目第二十七條に之を規定し 0000_,20,681a13(00):て。惡徒出來近年興邪敎違經文釋義勸安心 0000_,20,681a14(00):闕六字名號唯稱三字廻種種謀計令誑惑衆 0000_,20,681a15(00):生是順魔之所行速可令追拂事と云へり。 0000_,20,681a16(00):此外條目第十六條には。在家を借り佛前を搆へて 0000_,20,681a17(00):利養を求むべからずと云ひ。第二十八條には靈佛靈 0000_,20,681b18(00):地の建立修理と號し諸國に勸進すべからずと規定せ 0000_,20,681b19(00):るは。寺院以外に佛敎儀式の執行を禁じ。勸財民力 0000_,20,681b20(00):を疲弊せしむることを制したるものなり。又第二十六 0000_,20,681b21(00):條に一向无智之道心者等對道俗授十念勸男女 0000_,20,681b22(00):與血脉誠以法賊也自今以後堅可停止事と規定せ 0000_,20,681b23(00):るは。十念授與血脉授與は知德兼備の碩匠に非れば 0000_,20,681b24(00):却て信徒の信仰心を冷却せしむるの虞あるが故な 0000_,20,681b25(00):り。 0000_,20,681b26(00):以上は初期に於ける布敎に對する取締の大體なる 0000_,20,681b27(00):が。狂言綺語の不淨説法は助説と稱して元文年中に 0000_,20,681b28(00):も盛に行はれしと見え。山門通規には元文五年八月 0000_,20,681b29(00):錄所の之に對する禁條を載せり。其山内所化衆に對 0000_,20,681b30(00):するものは左の如し。 0000_,20,681b31(00):於寺院致助説候時は其寺院致同道當山へ相 0000_,20,681b32(00):願許容之上相勤候事は前前之定法也然に近歳百萬 0000_,20,681b33(00):遍になぞらへ或月並談義と號し又は少少の建立 0000_,20,681b34(00):佛事申立私に三日七日等之助説有之由相聞不 0000_,20,682a01(00):屆之至に思召され候此間も當山へ無斷致助説候 0000_,20,682a02(00):僧有之僉議之上向後於御府内寺院永助説停止 0000_,20,682a03(00):せしめ候間此旨能承知可有之事 0000_,20,682a04(00):右之趣無異亂急度相愼候樣大僧正被仰出候此 0000_,20,682a05(00):已後は廻り之者差出候間若相背輩於令露顯は 0000_,20,682a06(00):臨時之御咎可有之且其寮主は勿論組中谷頭迄 0000_,20,682a07(00):可爲無念候間後來急度可相守者也元文五申 0000_,20,682a08(00):年八月方丈役者 0000_,20,682a09(00):又寺院に對しても左の嚴達あり。 0000_,20,682a10(00):一於諸寺院猥助説相勤候寺院間間有之付被仰出 0000_,20,682a11(00):候觸書左之通 0000_,20,682a12(00):於寺院助説之儀は四十八夜並御忌十夜其外之助 0000_,20,682a13(00):説も當山え相願許容之上可相勤之左も無之猥 0000_,20,682a14(00):相勤候事は先規より停止之處近年百萬遍になぞら 0000_,20,682a15(00):へ或月次と號し又は少少之建立など申立三日七日 0000_,20,682a16(00):等之助説執行候寺院間有之由粗相聞不屆之至被 0000_,20,682a17(00):思召候此間も當山え不願出爲致助説候寺院 0000_,20,682b18(00):有之遂僉議誤證文申付住職之内助説停止申渡 0000_,20,682b19(00):候此已後は廻之者差出候間無斷助説相勤候寺院 0000_,20,682b20(00):於有之は其寺は勿論助説之僧且組寺迄急度御咎 0000_,20,682b21(00):可被仰付候間組寺互申合一座之助説も無之樣 0000_,20,682b22(00):可被致候末末之寺院えは其本寺より可被申 0000_,20,682b23(00):渡候以上增上寺役者 0000_,20,682b24(00):助説の漸時盛行し其弊害の小少ならざりしを察すべ 0000_,20,682b25(00):し。助説の名辭が何時頃より始まりしかは不明にし 0000_,20,682b26(00):て。且其意義も判然せざるも。恐くは所化因分の者 0000_,20,682b27(00):が能化果分の代理として説法するの意味ならん。そ 0000_,20,682b28(00):は前の觸書が學寮と寺院との兩者に對して發せられ 0000_,20,682b29(00):たるに徴しても想像せらるべく。學寮生が學資調達 0000_,20,682b30(00):の爲に。寺院に於て談義を試みたるは實に其一なる 0000_,20,682b31(00):べし。併助説者は學寮生のみに非ずして。專門に之 0000_,20,682b32(00):に從事したる者も尠からざりしことも。容易に想像す 0000_,20,682b33(00):るをうべし。 0000_,20,682b34(00):啻に助説のみに非ずして前に禁制せられたる。在 0000_,20,683a01(00):家を借り佛前を設け。衆を集め禮拜供養し。或は説 0000_,20,683a02(00):法談義したる者も。檀林學寮生中に少からざりし 0000_,20,683a03(00):こと。前記元文五年八月朔日の觸書第一條に見るべし。 0000_,20,683a04(00):即其文に 0000_,20,683a05(00):一自山他山之所化於町中致借宅搆佛前講釋仕 0000_,20,683a06(00):或對在家之人猥許五重相傳候儀堅停止之旨御 0000_,20,683a07(00):條目爲本元文二巳年十月通譽大僧正御敎誡被仰 0000_,20,683a08(00):出候所今以不得心之族有之候故歟間間相亂候沙 0000_,20,683a09(00):汰相聞不屆之至候右之輩は御制禁之通猶更令停 0000_,20,683a10(00):止候之間自今彌以嚴密可相愼事 0000_,20,683a11(00):とありかかる所業も檀林學生に限らず。否學生より 0000_,20,683a12(00):も專門的に從事したる者の多かりしこと想像するに 0000_,20,683a13(00):餘りあり。 0000_,20,683a14(00):五重を在家俗人に授くることは。元和條目第四條に 0000_,20,683a15(00):嚴禁する所なり。即其條文に『對在家之人不 0000_,20,683a16(00):可令相傳五重血脈事』とあり。然れども此條目 0000_,20,683a17(00):を犯して窃に之を傳授する檀林學生道心者隱者に多 0000_,20,683b18(00):かりしかば。錄所は屢之が制禁の觸書を發せり。即寬 0000_,20,683b19(00):文十一年定書(七)第十五條に。爲所化分對在家 0000_,20,683b20(00):五重相傳從古來停止之儀候得共于今猥免之候 0000_,20,683b21(00):自今以後急度可申付事付於在在所所隱遁之上人 0000_,20,683b22(00):或道心者對在家五重令相傳之聞有之候各強可 0000_,20,683b23(00):有僉議事とあり。同樣の禁制は貞享三年正月。享 0000_,20,683b24(00):保十八年十月。元文二年十月にも之あり。然るに所 0000_,20,683b25(00):化隱者道心者の密傳を禁ずると共に。璽書相承以上 0000_,20,683b26(00):の寺院住職者には。漸次之を公許するの傾向を生ぜ 0000_,20,683b27(00):り。享保十八平十月錄所より所化月行事貴順に與へ 0000_,20,683b28(00):し覺書に。 0000_,20,683b29(00):一、法滿二十年之僧は如古來定法璽書布薩致 0000_,20,683b30(00):相承究宗門之蘊奧隨縁於令寺院住職者應 0000_,20,683b31(00):其請對在家許化他五重且布薩之血脈候事爲 0000_,20,683b32(00):寺院住持之職分之處近來不守其法之僧間有 0000_,20,683b33(00):之剩雖令寺院住職布薩未相傳殊不得璽書之 0000_,20,683b34(00):許可漫對他化他五重布薩之血脈相授候事甚以不 0000_,20,684a01(00):如法之至法賊之一人難遁候然二十年以上之僧者 0000_,20,684a02(00):寺院住職之法候間未相傳之僧者豫得其意古法 0000_,20,684a03(00):之通漸漸御附法可被致成就候 0000_,20,684a04(00):とあり。當時既に化他五重は璽書布薩相承以上の住 0000_,20,684a05(00):職者には一種の權利たるのみならず。又其義務とな 0000_,20,684a06(00):りしを見るべし。然れども當時は尚受者の選機に關 0000_,20,684a07(00):して嚴重なる規定を有せり。即同年同月の觸書に。 0000_,20,684a08(00):一、寺院對在家化他五重結縁相承之儀者別而正德 0000_,20,684a09(00):六申年定法之通選老輩之信男信女壹ケ年之内 0000_,20,684a10(00):不可過二三輩事附布薩血脈授與之儀者尤不 0000_,20,684a11(00):及相承唯雖結縁授與而已候是亦選信心男 0000_,20,684a12(00):女猥不可令授與之 0000_,20,684a13(00):とあり。併かかる制令の發せらるるは畢竟當時既に 0000_,20,684a14(00):選機の濫雜に赴けるを證するものならずんばあら 0000_,20,684a15(00):ず。 0000_,20,684a16(00):總錄所に於ける布敎政策は。渾て消極的にして弊 0000_,20,684a17(00):害の防遏に忙殺せられ。積極的に奬勵指導するは甚 0000_,20,684b18(00):稀なりしも。又全く此等のことなかりしに非ず。即寬政 0000_,20,684b19(00):三年正月發布されたる助説如法觸十一箇條の如き其 0000_,20,684b20(00):一例にして。説法敎化者心懸を訓示して親切叮嚀を 0000_,20,684b21(00):極む。然れども檀林の性質が布敎には極めて冷淡 0000_,20,684b22(00):なりしかば。錄所の制令が多く消極的たりしは已む 0000_,20,684b23(00):をえざる所なり。故に民間布敎は錄所に關係なく。 0000_,20,684b24(00):名利の奴隷たる官僧に頓著なく。所謂捨世隱遁者に 0000_,20,684b25(00):よりて開拓し充實せられたり。即奧羽の無能。尾張 0000_,20,684b26(00):の關通。防長の大日比三師。伊豫の學信。紀伊の德 0000_,20,684b27(00):本。三河の穩冏。德住の如き。地方に牢として拔くべ 0000_,20,684b28(00):からざる宗門信仰の基礎を定めたり。其他各地に於 0000_,20,684b29(00):ける著實なる信仰が。孰れも此等捨世隱遁者の感化 0000_,20,684b30(00):に負ふ所多きは注意すべき事項ならずんばあらず。 0000_,20,685a01(00):第四期 改新時代 0000_,20,685a02(00): 0000_,20,685a03(00):第壹章 一般制度の變遷 0000_,20,685a04(00): 0000_,20,685a05(00):慶應三年十二月知恩院宮尊秀法親王復飾し給ひ。 0000_,20,685a06(00):明治維新と共に錄所の權限消失し。此に本宗は門主 0000_,20,685a07(00):宗務所を併せ喪ひ。頭腦なく肢體なき無形體無組織 0000_,20,685a08(00):の狀態に陷りしも。幾ならず知恩院門跡を立て一宗 0000_,20,685a09(00):の事務所とし。知恩院大僧正學天を總裁に東漸寺豐 0000_,20,685a10(00):舟を院家兼宗務取締に任ぜられ。稍一宗主權の所在 0000_,20,685a11(00):定れるが如きも。萬事更革の際のこととて擾擾として 0000_,20,685a12(00):歸一する所なし。 0000_,20,685a13(00):明治五年四月敎導職の制定まり。神官僧侶の之に 0000_,20,685a14(00):任ぜらるるや。本宗に於ては知恩院俊光權少敎正 0000_,20,685a15(00):に。增上寺明賢大講義に補せらる。次で同年七月十 0000_,20,685a16(00):一日俊光大敎正に補せられ。縁山歡苗寮にありて一 0000_,20,685a17(00):宗の敎務を處辨せしが。神佛各宗に管長の置かるる 0000_,20,685b18(00):や。同年十月十九日傳通院徹定本宗管長に補せら 0000_,20,685b19(00):る。かくて一宗の主權は知恩院或は傳通院に移りた 0000_,20,685b20(00):るも。宗務所は依然縁山内に在りしなり。 0000_,20,685b21(00):明治七年九月。檀林本山協議して傳法の特權を京 0000_,20,685b22(00):都四箇本山に割讓すると同時に。遠江以東の寺院を 0000_,20,685b23(00):都て增上寺の所轄とし。且增上寺を以て大本山と稱 0000_,20,685b24(00):することを約し。翌年一月十八日敎部省の認可をえた 0000_,20,685b25(00):り。是本宗制度の一大變革なり。是より先明治二年 0000_,20,685b26(00):十月防長の國外出遊を禁ずることあるや。同地方寺院 0000_,20,685b27(00):惣代報恩寺無關は錄所に傳燈師の派遣を請求せり。 0000_,20,685b28(00):錄所も最初は種種口實を設けて之を拒みしも。無關 0000_,20,685b29(00):の強談に餘儀なくせられて之を許可し。翌年十一月 0000_,20,685b30(00):山口に傳法道場を開き。大僧正明賢は淨國寺徹定を 0000_,20,685b31(00):して赴き代授せしめ。受者廿四名ありしと云ふ。是 0000_,20,685b32(00):既に三百年來の舊慣を破りて。十八檀林以外に於て 0000_,20,685b33(00):傳法を行ふの端を啓きしものなるも。地方制度に餘 0000_,20,685b34(00):儀なくせられし一時の權宜に出で。且つ其傳燈師は 0000_,20,686a01(00):依然檀林の能化なりしが。這囘の變革により檀林制 0000_,20,686a02(00):度は全く破壞せられたるものなり。 0000_,20,686a03(00):明治八年五月。合併大敎院廢せられ各宗に大敎院 0000_,20,686a04(00):を別置せらるるや。本宗大敎院は增上寺假本堂(去 0000_,20,686a05(00):る六年十二月三十一日合併大敎院設置中燒失)に置 0000_,20,686a06(00):き。各縣下に中敎院を開き。次で翌年三月諸本山檀 0000_,20,686a07(00):林合議し舊慣古規を參照し。宗規三章十八條を定 0000_,20,686a08(00):め。官の批準を得て發布す。之を鎭西派規則と稱 0000_,20,686a09(00):す。三章十八條とは。第一章第一弟子得度之事。第 0000_,20,686a10(00):二入寺編籍之事。第三學科之事。第四法脈傳承之 0000_,20,686a11(00):事。第五學席次序之事。第六學席課業之事。第七昇 0000_,20,686a12(00):進薦擧之事。第八出世拜命之事。第九住職任免之 0000_,20,686a13(00):事。第二章第一本寺末寺之事。第二總本山之事。第 0000_,20,686a14(00):三總錄所之事。第四檀林之事。第五學寮別當塔頭西 0000_,20,686a15(00):堂等之事。第六寺院區格之事。第七服制之事。第三 0000_,20,686a16(00):章第一法式之事。第二諸本山傳燈之事。別に附錄二 0000_,20,686a17(00):條あり。是により一宗の秩序やや定まれるも。之が 0000_,20,686b18(00):運用は決して容易なる事業にあらざりしなり。 0000_,20,686b19(00):明治十一年諸本山合議して一宗を兩分し。三河以 0000_,20,686b20(00):西を西部とし。遠江以東を東部とし。一宗に兩派管 0000_,20,686b21(00):長を置き之を統理することとす。三月十二日官之を認 0000_,20,686b22(00):可し。知恩院養鸕徹定西部管長を襲職し。增上寺石 0000_,20,686b23(00):井大宣東部管長に補せらる。是より東西の嫉視反目 0000_,20,686b24(00):甚しく絶えず紛擾を重ねしかば。十五年九月森亨誾 0000_,20,686b25(00):廣安眞隨等扶宗記事を印行して東西區分の解除を主 0000_,20,686b26(00):張せしが。遂に十八年二月に至り本山檀林合議して 0000_,20,686b27(00):東西の區分を撤廢し。五箇本山各一箇年交番を以て 0000_,20,686b28(00):管長に任ずることを定む。三月廿三日官この交番管長 0000_,20,686b29(00):制を認可す。宗務所を淺草誓願寺に置き。四月一日 0000_,20,686b30(00):知恩院養鸕徹定最初の管長に任ぜられ。翌年四月一 0000_,20,686b31(00):日增上寺日野靈瑞交替して管長に任ぜられしが。宗 0000_,20,686b32(00):制寺法の制定に際し五本山の議相協はず。終に闔宗 0000_,20,686b33(00):會議を開きて之を協定せんとせり。 0000_,20,686b34(00):闔宗會は知恩院三十員。增上寺十五員。他三箇山 0000_,20,687a01(00):合して十五員の議員より成る。六十の議員宗務所誓 0000_,20,687a02(00):願寺に會す。會議に先ち管長五本山住職は向に制定 0000_,20,687a03(00):したる交番管長制度には會議の容喙を許さざるべき 0000_,20,687a04(00):を約し。又管長より會議に對する説明委員にも同趣 0000_,20,687a05(00):意の指令ありしにも拘はらず。會議は管長の公選を 0000_,20,687a06(00):決議し。管長又前約及指令を無視し該決議の認可 0000_,20,687a07(00):を内務大臣に具申したり。内務大臣は其不當を認 0000_,20,687a08(00):め。五本山承諾の證書を添へて更に伺出づべしと指 0000_,20,687a09(00):令したり。其間管長は正當の手續を踏まずして知恩 0000_,20,687a10(00):院住職を罷免したるより。西京に於て兩黨對立して 0000_,20,687a11(00):一大葛藤を惹起し。遂に警察を煩はし。知恩院外の 0000_,20,687a12(00):三山又各管長を別置せんことを請願し。事件紛紏收拾 0000_,20,687a13(00):すべからざるに至れり。越て二十年三月に至り 0000_,20,687a14(00):内務大臣は廿四日廿六日の兩回に亙り。管長五本山 0000_,20,687a15(00):住職及宗務執事を召喚し。互に戳力協心一宗の安寧 0000_,20,687a16(00):を維持すべき旨を懇諭せしに。孰れも交番管長制度 0000_,20,687a17(00):は永く維持すべく。唯宗制寺法の議協はざるものに 0000_,20,687b18(00):つき。大臣の裁定を仰ぐ旨口頭並に書面を以て具申 0000_,20,687b19(00):したり。然るに管長增上寺住職は匇卒の際錯誤ある 0000_,20,687b20(00):につき該具申書より除名せられたく。並に管長は其 0000_,20,687b21(00):任に堪へざるを以て解職せられたき旨を屆出たり。 0000_,20,687b22(00):於是二十九日官交番管長の認可を取消し。光明寺玄 0000_,20,687b23(00):信。天德寺義應に事務取扱を命じて。宗制寺法を定め 0000_,20,687b24(00):其他の宗務を臨機處辨せしめしが。三十一日日野靈 0000_,20,687b25(00):瑞增上寺住職を辭し他四本山住職も同時に辭職し。 0000_,20,687b26(00):一時管長本山全く空職たるの奇觀を呈せり。同年 0000_,20,687b27(00):四月六日内務大臣は前增上寺福田行誡が隱遁して本 0000_,20,687b28(00):誓寺に在りしを起し。強ひて知恩院住職に補し。同 0000_,20,687b29(00):日宗制中永遠の法則とすべき五箇條を認可し。十六 0000_,20,687b30(00):日舊闔宗會員檀林總代各本山執事等を增上寺に招集 0000_,20,687b31(00):し。社寺局吏員臨場して宗制諮問會を開き。宗制を制 0000_,20,687b32(00):定し次で同會員をして四箇本山の後董を選擧せしめ 0000_,20,687b33(00):しに。光明寺玄信は增上寺に。大樹寺説門は金戒光 0000_,20,687b34(00):明寺に。圓成寺現有は知恩寺に。靈巖寺大周は淨華 0000_,20,688a01(00):院に當選し。夫夫住職に補せられ。十七日新宗制認 0000_,20,688a02(00):可せられ。知恩院住職福田行誡管長に任ぜられ。宗 0000_,20,688a03(00):務所を增上寺に置き。十八日新宗制を頒布し。全國 0000_,20,688a04(00):を四十大敎會に分ちたり。此に至りて多年の紛議擾 0000_,20,688a05(00):亂も廓淸せられ。一宗進步發展の基礎確定せられた 0000_,20,688a06(00):るなり。 0000_,20,688a07(00):諮問會制定の宗制は。敎旨・敎會・學事・僧侶・ 0000_,20,688a08(00):寺院・宗務・公會・懲戒の八章四十八箇條より成り。 0000_,20,688a09(00):極めて簡單なるものにして。複雜なる世態に應ずる 0000_,20,688a10(00):には尚不備なる點少からず。爲に漸次增補改訂せら 0000_,20,688a11(00):れたるも。大體に於ては變ることなく今日に及べり。 0000_,20,688a12(00):該宗制の約束に基き。明治廿二年三月七日第一期 0000_,20,688a13(00):公會は增上寺に開かれ。宗制を改正し敎旨・敎會・ 0000_,20,688a14(00):管長選定・管長職務權限・宗務所・公會・大敎會・ 0000_,20,688a15(00):中敎會・小敎會・別敎區・敎育・僧侶・寺院・住 0000_,20,688a16(00):職・寺務・什物・保存・敎學費・補則の十八章。百 0000_,20,688a17(00):廿一箇條とし。同年十二月廿三日内務大臣の認可を 0000_,20,688b18(00):得。同廿五日に發布せり。又公會の議決により全國 0000_,20,688b19(00):寺院を收入の多寡により三十の等級に區分し宗費の 0000_,20,688b20(00):賦課法を定めたり。 0000_,20,688b21(00):明治三十年三月一日。第三期公會を增上寺山内宗 0000_,20,688b22(00):務所に開く。議員は宗務提出の宗制更正案に對し全 0000_,20,688b23(00):部廢棄の決議をなせしを以て。執綱伊達靈堅並に宗 0000_,20,688b24(00):務職員其職を辭し。議會も唯宗務職員の選擧をなせ 0000_,20,688b25(00):しのみにて閉會し。翌年三月十五日第二臨時公會を 0000_,20,688b26(00):召集し宗制宗規の更正を議す。即宗制は敎旨・敎 0000_,20,688b27(00):式・管長・宗務所・宗會・敎區・僧侶・寺院・住職・ 0000_,20,688b28(00):檀徒信徒・寺院財産・宗費・補則の十三章六十七箇 0000_,20,688b29(00):條より成り。宗規は宗務所職制廿二箇條。敎學院規 0000_,20,688b30(00):則十五箇條。敎區制度三十三箇條。僧侶分限規則十 0000_,20,688b31(00):七箇條。寺格及等級規則。住職任免及寺務規則二十 0000_,20,688b32(00):二箇條。會計規則廿五箇條。宗費賦課徴收規則十九 0000_,20,688b33(00):箇條。宗務所會計監査員職制五箇條。改定宗制實施 0000_,20,688b34(00):法七箇條。寺院財産管理規則。本山住職選擧規則。 0000_,20,689a01(00):十八箇條僧侶懲戒規則十八箇條。敎師功績詮考及進 0000_,20,689a02(00):級規則。敎師檢定條規。宗會規則十五箇條。宗會議員 0000_,20,689a03(00):選擧規則十六箇條等なり。其從來の宗制宗規と著し 0000_,20,689a04(00):く異なる點は。管長は四箇本山住職中より選擧する 0000_,20,689a05(00):代りに。增上寺黑谷百萬遍淨華院の順序を以て主務 0000_,20,689a06(00):大臣の認可を得て上任することとし。別に選擧を須ゐ 0000_,20,689a07(00):ずとしたること。敎區制度に於て從來四十或は三十四 0000_,20,689a08(00):の多數ありし大敎區を八大敎區に纒め。敎育布敎財 0000_,20,689a09(00):政等の事務を集束したること等なり。 0000_,20,689a10(00):明治四十四年三月廿七日第十定期宗會を開き宗制 0000_,20,689a11(00):宗規を更定す。宗制は敎旨・敎式・管長・宗務所・ 0000_,20,689a12(00):宗會・敎區・僧侶・寺院・住職・檀徒信徒。寺院財 0000_,20,689a13(00):産・宗費補則の十三章六十八箇條にして。其著しく 0000_,20,689a14(00):從來と異なるは。增上寺を以て知恩院と共に管長住 0000_,20,689a15(00):職寺としたることと。大敎區を全廢し從來の小敎區を 0000_,20,689a16(00):以て敎區とし總て之を宗務に隷せしめ。頗る中央集 0000_,20,689a17(00):權に力めたる點にあれども。大正二年三月の第十一 0000_,20,689b18(00):宗會には。更に之を四十六大敎區に改め。殆ど三十 0000_,20,689b19(00):一年改正以前の狀態に復歸せり。 0000_,20,689b20(00): 0000_,20,689b21(00):第二章 敎育 0000_,20,689b22(00): 0000_,20,689b23(00):維新の當初は宗侶一般が進退に迷ひ五里霧中に彷 0000_,20,689b24(00):徨したるを以て。子弟敎育の如きは殆んど顧るの餘 0000_,20,689b25(00):裕だになかりしが。慶應四年七月淨國寺徹定。無量 0000_,20,689b26(00):覺院大雲等は大僧正等譽明賢の命を受けて縁山内源 0000_,20,689b27(00):興院に興學所を設置し。宗門靑年子弟を集め敎導せ 0000_,20,689b28(00):んとし。義應。龍成を以て講師となす。幾もなく勸 0000_,20,689b29(00):學院と改む。是實に東西學林一宗學校の濫觴也。次 0000_,20,689b30(00):で明治三年二月知恩院にも設置せられて。東西兩勸 0000_,20,689b31(00):學院の對峙を見るに至りたるのみならず。同年五月 0000_,20,689b32(00):山口にも講學場設けられ。錄所よりは淨國寺徹定及 0000_,20,689b33(00):現有恢嶺等を遣し。書籍三十六部金百圓を贈りて奬 0000_,20,689b34(00):勵せり。 0000_,20,689b35(00):勸學院創立當時の學則は不明なるも。明治九年淨 0000_,20,690a01(00):土宗規則に揭る所は。正宗乘餘乘外典二則に區分せら 0000_,20,690a02(00):る。 0000_,20,690a03(00):○學科正則 0000_,20,690a04(00):講義 論題 0000_,20,690a05(00):初 課 選擇集 宗義開出聖淨二門 0000_,20,690a06(00):二 課 往生禮讃般舟讚 法事讚 正雜二行治國利民 總別安心 0000_,20,690a07(00):三 課 觀念法門決疑鈔 四修大綱機法二信 一行三昧 0000_,20,690a08(00):四 課 三經合讚 十念異解超世發願 來迎引接 0000_,20,690a09(00):五 課 四帖疏 界内界外萬德所歸 讀誦大乘 0000_,20,690a10(00):六 課 傳通記 念聲是一付屬佛名 出世本懷 0000_,20,690a11(00):七 課 論註 三聚淨戒入一法句 凡入報土 0000_,20,690a12(00):○學科雜則 0000_,20,690a13(00):古事記 日本書紀 日本政記 日本外史 原人論 0000_,20,690a14(00):菩薩戒疏 起信論 成唯識論 萬國新史 國法汎 0000_,20,690a15(00):論 佛國民法 海國圖志 論語 文章軌範 綱鑑 0000_,20,690a16(00):易知錄 左傳 0000_,20,690a17(00):なり。 0000_,20,690b18(00):明治廿年の宗制更正により東西兩大學林を廢し。 0000_,20,690b19(00):一宗所設の學校を宗學本校。宗學支校。及普通學校 0000_,20,690b20(00):の三種とし。宗學本校は一宗共立。宗學支校は各地 0000_,20,690b21(00):方の共立。普通學校は共立或は私立とし。本校は高 0000_,20,690b22(00):等僧侶の養成所。支校は普通敎師の養成所。普通學 0000_,20,690b23(00):校は公衆の入學を許し普通各種の學科を敎授する所 0000_,20,690b24(00):なり。爾來名稱内容等幾多の變遷ありしも。三種の 0000_,20,690b25(00):學校系統は依然として今日に及べり。 0000_,20,690b26(00):(一) 高等敎育 0000_,20,690b27(00):宗學本校は一宗高等敎育機關なるが。其學制は高 0000_,20,690b28(00):等豫科五ケ年高等本科二ケ年にして。宗學尋常科卒 0000_,20,690b29(00):業の者は高等豫科に入り。豫科を卒へたる者は本科 0000_,20,690b30(00):に進むをえせしめ。豫科には廣く普通學を敎授すれ 0000_,20,690b31(00):ども。本科には專門に佛敎を研究せしむるを目的と 0000_,20,690b32(00):し。倶舍唯識華嚴天台の四部を分ち。其一部を專攻 0000_,20,690b33(00):せしむることとせり。最初の學監黑田眞洞專ら之が創 0000_,20,690b34(00):立組織の任に膺り。二十年七月廿八日東京芝公園地 0000_,20,691a01(00):七十三號に之を設け。同九月十二日開校の式を擧ぐ。 0000_,20,691a02(00):明治二十三年一月一宗敎育に關する規則の制定更 0000_,20,691a03(00):正其他敎育上重要事項を審議攻究せしむる機關とし 0000_,20,691a04(00):て宗學本校に敎育會を設け。同會に諮詢して學科其 0000_,20,691a05(00):他に更正を加へたり。二十三年九月。東京大敎會有 0000_,20,691a06(00):志總代茅根學順。越岡俊冏等校舍新築の業を企て。 0000_,20,691a07(00):小石川表町に工事を起し。翌廿四年一月廿六日落成 0000_,20,691a08(00):して此に移轉す。同年六月高等豫科を高等正科と改 0000_,20,691a09(00):め。高等本科を高等專門科と改稱し學科の變更を行 0000_,20,691a10(00):へり。明治廿五年七月七日高等正科卒業生十七名を 0000_,20,691a11(00):出す。是正科卒業者の嚆矢なり。此卒業者は專門科 0000_,20,691a12(00):に入りて二分し。一は華嚴部。一は唯識部を專攻 0000_,20,691a13(00):す。廿七年五月廿四日敎育會に諮詢して。高等正科 0000_,20,691a14(00):及專門科の學科を更正せり。同年七月專門科華嚴部 0000_,20,691a15(00):に十名。唯識部に八名の卒業者を出す。是第一回の 0000_,20,691a16(00):全科卒業者なり。 0000_,20,691a17(00):明治三十一年四月宗制の更正と共に。一宗の布敎 0000_,20,691b18(00):及學事は敎學院會の協賛議決を要することとなり。同 0000_,20,691b19(00):年八月四日同會の議決を經。内務大臣の認可を得て 0000_,20,691b20(00):學則を改正せり。此改正により宗學本校は分れて二 0000_,20,691b21(00):校と成る。一は高等專門科にして專門學院として京 0000_,20,691b22(00):都に移り。一は高等正科にして高等學院として東京 0000_,20,691b23(00):の本校舍に留まれり。 0000_,20,691b24(00):專門學院は三十一年九月京都移轉の際は百萬遍に 0000_,20,691b25(00):置かれしも。三十四年九月鹿谷新築校舍に移轉し。 0000_,20,691b26(00):三十七年五月には淨土宗敎大學院專門科と改名し宗 0000_,20,691b27(00):敎大學院分校となり。更に同年十月十五日淨土宗敎 0000_,20,691b28(00):大學專門科と改め。四十年三月宗敎大學分校と成り 0000_,20,691b29(00):專修部及研究科を併置せしが。四十四年七月敎學院 0000_,20,691b30(00):會決議により宗敎大學とは別立して高等學院と改稱 0000_,20,691b31(00):し。更に佛敎專門學校と改め。三學年程度の一宗宗 0000_,20,691b32(00):侶專門敎育機關と成れり。 0000_,20,691b33(00):高等學院は明治三十二年十一月十四日。三十三年 0000_,20,691b34(00):六月三十日。及同年十一月十三日學則の一部を改正 0000_,20,692a01(00):し。高等正科の豫備として別に豫科一學年を設け。 0000_,20,692a02(00):正科の修業年限を四年となす。三十三年十二月廿八 0000_,20,692a03(00):日文部省より專門學校等位認定を與へられ。明治三 0000_,20,692a04(00):十五年四月十七日文部大臣の認定を得て學則を更正 0000_,20,692a05(00):す。同年五月に至り前年敎學院の決議に基き。校内 0000_,20,692a06(00):に中等敎員養成の目的を以て文學專門の學校を設け 0000_,20,692a07(00):東京文學院と稱す。三十六年十月十三日文部大臣よ 0000_,20,692a08(00):り來年一月一日より專門學校令によるの件を認可せ 0000_,20,692a09(00):らる。三十七年五月四日文部大臣より私立淨土宗敎 0000_,20,692a10(00):大學院と改稱し。京都市上京區に私立淨土宗敎大學 0000_,20,692a11(00):專門科を東京芝區に淨土宗敎大學院傳道部を分校と 0000_,20,692a12(00):して設置するの件を認可せらる。傳道部は明治三十 0000_,20,692a13(00):一年九月高等布敎師養成の目的を以て開設せられ。 0000_,20,692a14(00):傳道講習院と稱し。初は小石川傳通院山内に在りし 0000_,20,692a15(00):が。後芝に移りたるも。此に至り京都專門學院と共 0000_,20,692a16(00):に淨土宗大學に統一せられたるなり。三十七年十月 0000_,20,692a17(00):十五日私立淨土宗敎大學と改稱の許可を得。三十八 0000_,20,692b18(00):年三月廿三日芝の傳道部を小石川の本校に合併の認 0000_,20,692b19(00):可を得たり。 0000_,20,692b20(00):宗敎大學は明治四十年三月廿九日淨土宗敎大學を 0000_,20,692b21(00):私立宗敎大學と改稱すの件認可せられ。四月一日よ 0000_,20,692b22(00):り改正新學則を施行し。豫科二年本科三年研究院二 0000_,20,692b23(00):年とし。本科を一部(布敎部)二部(諸宗部)三部(古典 0000_,20,692b24(00):部)に分ち隨意修學せしむることとせり。四十一年九月 0000_,20,692b25(00):十五日巢鴨新築校舍に移轉す。此に於て二十年來の 0000_,20,692b26(00):懸案たりし本宗大學建築の問題も實現せられしが。 0000_,20,692b27(00):新學制による本科卒業生を出さざるに先ち。四十四 0000_,20,692b28(00):年七月に至り敎學院の決議により學則變更せられ。 0000_,20,692b29(00):東京京都本分校の關係斷絶せられ。本科三部の區別 0000_,20,692b30(00):を廢し研究院は三學年に改められたり。 0000_,20,692b31(00):(二) 尋常敎育 0000_,20,692b32(00):宗學支校は佛敎の大本を領得せしめ及び之に相當 0000_,20,692b33(00):する普通學を敎授し宗門尋常敎師の養成を目的と 0000_,20,692b34(00):す。明治廿年の學則には。學科を宗乘。餘乘。國語 0000_,20,693a01(00):及漢文・英語・數學・地理・歷史・圖畫・體操の八 0000_,20,693a02(00):科とし。三學年に亙りて之を敎授す。別に豫備科あ 0000_,20,693a03(00):りて高等小學未卒業者の爲に普通學を授け。且内典 0000_,20,693a04(00):につき修身讀書講讀の三科を敎授せり。 0000_,20,693a05(00):支校共立の區域は。第一は東京神奈川埼玉千葉茨 0000_,20,693a06(00):城栃木の六大敎會。第二は京都大阪兵庫滋賀福井和 0000_,20,693a07(00):歌山德島の七大敎會。第三は愛知額田靜岡三重岐阜 0000_,20,693a08(00):の五大敎會。第四は長野新潟群馬山梨石川富山の六 0000_,20,693a09(00):大敎會。第五は宮城福島岩手靑森秋田山形北海道の 0000_,20,693a10(00):七大敎會。第六は廣島鳥取島根岡山愛媛の五大敎 0000_,20,693a11(00):會。第七は福岡長崎山口大分柳川の五大敎會聯合す 0000_,20,693a12(00):べく規定せられ。第一は東京に東京支校を。第二は 0000_,20,693a13(00):京都に京都支校を。第三は名古屋に愛知支校を。第 0000_,20,693a14(00):四は長野に長野支校を。第五は盛岡に東北支校を。 0000_,20,693a15(00):第七は箱崎に鎭西支校を漸次開設せしも。第七の中 0000_,20,693a16(00):の山口大敎會は獨立して山口支校を立て。廿三年七 0000_,20,693a17(00):月十日大阪大敎會は第二聯合より獨立して大阪支校 0000_,20,693b18(00):を開きしを以て。全國八聯合敎會に分れ。八宗學支 0000_,20,693b19(00):校の並立を見るに至れり。 0000_,20,693b20(00):明治二十七年五月廿四日敎育會に諮詢の結果學科 0000_,20,693b21(00):課程更正せられ。學科は宗乘・餘乘・國語・漢文・ 0000_,20,693b22(00):數學・地理・歷史・理科の八科とせられ。英語圖畫 0000_,20,693b23(00):體操が削除せられ理科が新加せらる。 0000_,20,693b24(00):明治三十一年九月全國八大敎區に統合せらるる 0000_,20,693b25(00):や。支校も敎校と改められ。且つ敎區名により第一 0000_,20,693b26(00):乃至第八敎校と稱せらるるに至れり。 0000_,20,693b27(00):明治三十八年三月十日。第七敎校は第六敎校に合 0000_,20,693b28(00):併の認可を得。四十年六月廿日第二第三敎校の合併 0000_,20,693b29(00):長野に存置の件認可せられ。遂に全國六敎校となり 0000_,20,693b30(00):しが。時世の進運は何時迄も敎校の存立を許さず。 0000_,20,693b31(00):各敎校競ひて中學等位認定を請願し進みて純粹中學 0000_,20,693b32(00):に改むるに至れり。即第一第五第六七聯合敎校は明 0000_,20,693b33(00):治三十九年三月二日及六日附を以て徴兵猶豫專門學 0000_,20,693b34(00):校入學の資格を認定せられ。第四敎校も四十二年五 0000_,20,694a01(00):月廿八日附を以て徴兵猶豫の特典を得たり。第八敎 0000_,20,694a02(00):校は三十八年四月廿二日諸校に先ちて中學組織に改 0000_,20,694a03(00):め鎭西中學校と改稱の認可を得。四十一年三月三日 0000_,20,694a04(00):徴兵猶豫の特典をえたるが。第一敎校も之に倣ひ三 0000_,20,694a05(00):十九年三月廿二日芝中學校と改稱し中學組織に改 0000_,20,694a06(00):め。第四敎校は四十二年九月七日東海中學校と改め 0000_,20,694a07(00):中學組織とせり。四十四年三月の宗制變更により敎 0000_,20,694a08(00):區聯合共立の制を廢し一宗共立宗務直轄となり。同 0000_,20,694a09(00):年七月敎學院に於て各敎校を中學組織に改むることに 0000_,20,694a10(00):決議せらるるに及び。四十五年三月廿六日第六七聯 0000_,20,694a11(00):合敎校は上宮中學校。同月廿七日第五敎校は東山中 0000_,20,694a12(00):學校と改むることを認可せられたり。かくて六敎校中 0000_,20,694a13(00):五敎校は中學校と成りしも。第二第三聯合敎校は徴 0000_,20,694a14(00):兵猶豫の特典等位認定をも得ざる唯一の敎校なりし 0000_,20,694a15(00):が。大正二年三月に至り名古屋に移され。東海中學 0000_,20,694a16(00):校に併置せられて殘餘の學年を了らしむることとなれ 0000_,20,694a17(00):り。 0000_,20,694b18(00):支校と共に尼衆校あり。尼僧の多き東京愛知京都 0000_,20,694b19(00):大阪に設置せられしも。四十四年の改正より一校に 0000_,20,694b20(00):統一し之を京都に置くこととせり。 0000_,20,694b21(00):(三) 普通敎育 0000_,20,694b22(00):普通發育とは文部省の規定による女學校。中學 0000_,20,694b23(00):校。專門學校等を意味し。前述尋常敎育の支校敎校 0000_,20,694b24(00):も。純粹中學校組織に改められたる以上は寧此部類 0000_,20,694b25(00):に屬すべきなれども。當初の目的は俗人敎育にして 0000_,20,694b26(00):世間に行はるる種類のものを。宗侶或は信徒の手に 0000_,20,694b27(00):より經營せんとするにあり。 0000_,20,694b28(00):此種類の學校は東京に淑德女學校あり。後高等女 0000_,20,694b29(00):學校に改め家政科を併置し。京都には家政女學校。 0000_,20,694b30(00):華頂女學校あり。 0000_,20,694b31(00):(四) 留學生研究生 0000_,20,694b32(00):宗學本校を卒業し學術優等品行方正の者を内國及 0000_,20,694b33(00):外國に留學せしむるの規則は明治廿七年五月廿四日 0000_,20,694b34(00):に發布せられ。同年九月全科卒業者岡村學順が之を 0000_,20,695a01(00):命ぜられたるは本宗最初の内地留學生なりき。次で 0000_,20,695a02(00):明治三十二年九月荻原雲來が獨逸に留學を命ぜられ 0000_,20,695a03(00):たるは本宗海外留學生の嚆矢とす。爾後内地研究生 0000_,20,695a04(00):は絶えず養成せられしも。海外は渡邊海旭の獨逸。 0000_,20,695a05(00):荻原得定の合衆國。概旭乘の暹羅に留學を命ぜられ 0000_,20,695a06(00):たる以後又其事なく。後には其費目をも削除せらる 0000_,20,695a07(00):るに至れり。 0000_,20,695a08(00):(五) 講習會 0000_,20,695a09(00):上述學校以外にありて宗侶の學識を增進し。堪能 0000_,20,695a10(00):なる傳道師を養成するの目的を以て。種種の講習會 0000_,20,695a11(00):は私人或一宗として設立開催せられたり。 0000_,20,695a12(00):淨土布敎會 明治廿三年三月吉岡呵成等發起協議 0000_,20,695a13(00):員として設立に盡力し京都寺町天性寺に設立し。堀 0000_,20,695a14(00):尾貫務等講師たり。廿六年第二公會の決議により一 0000_,20,695a15(00):年の共立となり。六月三日淨土布敎講習會發布せら 0000_,20,695a16(00):るるに及び。益益隆盛に赴き多くの布敎者を輩出し 0000_,20,695a17(00):たりしが。三十一年敎學院の決議により。傳道講習 0000_,20,695b18(00):院の東京に設立せらるるに及び其職能を之に讓れ 0000_,20,695b19(00):り。 0000_,20,695b20(00):傳敎講習會 明治三十一年傳道講習院の設立せら 0000_,20,695b21(00):るるや。彼が高等布敎師の養成を目的とするに對し。 0000_,20,695b22(00):尋常布敎師養成の目的を以て設けられたるものにし 0000_,20,695b23(00):て。同年七月十二日講習會規則發布せられ。宗乘餘 0000_,20,695b24(00):乘練習の三目につき講習せしむるにあり。而して各 0000_,20,695b25(00):大敎區毎歳二期に六十日づづ開催し六期を以て終了 0000_,20,695b26(00):とせり。 0000_,20,695b27(00):傳敎講習支會 傳敎講習の普及と地方傳道の實を 0000_,20,695b28(00):擧ぐる爲。講師を派遣巡囘せしめ便宜地方に開催せ 0000_,20,695b29(00):しむ。其講話は成るべく論題を用ゐ。期限は一回十 0000_,20,695b30(00):日間とすること。明治三十九年五月廿一日の訓示の示 0000_,20,695b31(00):す所なり。 0000_,20,695b32(00):高等講習會 宗義の蘊奧を究め敎範の成立に勉む 0000_,20,695b33(00):るを以て目的とし。毎歳一回以上十日間づづ宗學校 0000_,20,695b34(00):所在地又は適宜の場所に開くべく。明治四十一年五 0000_,20,696a01(00):月廿五日發布の規則により定められたり。次で同年 0000_,20,696a02(00):七月第一回を京都知恩院に。同八月第二回を東京增 0000_,20,696a03(00):上寺に開き。第三囘を四十二年七月筑後善導寺に。第 0000_,20,696a04(00):四回を同八月東京第一敎區宗學校内に開き。第五回 0000_,20,696a05(00):を四十三年七月大阪に。第六回を同月東京芝中學校 0000_,20,696a06(00):内に開き。第七回を四十四年八月名古屋光明寺に開 0000_,20,696a07(00):きしが。同年七月敎學院の決議により敎學講習會と 0000_,20,696a08(00):改稱し。前には單に學階所有者を正會員としたるに 0000_,20,696a09(00):對し。敎階所有者を加へ且懸席料壹圓づづを會員よ 0000_,20,696a10(00):り徴收するを變革とす。然れども懸席料は大正二年 0000_,20,696a11(00):三月の宗會に異論ありて之を止め其費用を豫算に計 0000_,20,696a12(00):上せり。 0000_,20,696a13(00):宗學講習會 高等講習會が一宗の大講習會になる 0000_,20,696a14(00):に對し。地方小敎區等に開かるる小講習會を云ふ。 0000_,20,696a15(00):其規則は四十一年五月廿五日。高等講習の其と同時 0000_,20,696a16(00):に發布せられ。其會期は十日間にして。會員は地方 0000_,20,696a17(00):寺院住職者或は宗侶也。 0000_,20,696b18(00):第三章 布 敎 0000_,20,696b19(00): 0000_,20,696b20(00):前期の本宗は德川氏の菩提所香花院が高等寺院の 0000_,20,696b21(00):大部を占めしが故に。德川氏の靈位の葬式法事を主 0000_,20,696b22(00):なる仕事としたるは言ふ迄もなし。其他の寺院に於 0000_,20,696b23(00):ても多くは檀那の葬式法事の外殆んど用務なかりし 0000_,20,696b24(00):なり。然れども維新の變革泰西文明の壓迫はかかる 0000_,20,696b25(00):宗旨の存在を許さざるを以て。敎育と共に布敎の方 0000_,20,696b26(00):面にも注意を拂ふに至り。明治廿年の宗制には敎會 0000_,20,696b27(00):の一章を設け。檀信徒を以て其一員となし。各寺院説 0000_,20,696b28(00):敎所を小敎會。寺院若干の集を中敎會。中敎會若干 0000_,20,696b29(00):を集めたるものを大敎會とし。宗務所は之を統ぶる 0000_,20,696b30(00):所にして。管長は淨土一大敎會の統御者なりとし。 0000_,20,696b31(00):全く檀信徒を本位としたるなり。 0000_,20,696b32(00):然れども實際に於ては二十年前後は尚德川時代と 0000_,20,696b33(00):異なることなかりしのみならず。僧侶の保守と社會の 0000_,20,696b34(00):進步とより來る知識上の差異徑庭は。却て從前の信 0000_,20,697a01(00):仰を冷却失墜しつつありしなり。勿論少數の先覺者 0000_,20,697a02(00):ありて説敎に演説に於て時世に後れざらんことに努力 0000_,20,697a03(00):指導をなしたりと雖も。大多數は呆然自失の狀態に 0000_,20,697a04(00):ありし也。廿年一宗の秩序成立し。學校を設けて敎 0000_,20,697a05(00):育に力を用ひ。又布敎會等起りて布敎法を敎授した 0000_,20,697a06(00):るにより。漸次堪能なる布敎師を輩出し。漸次敎田 0000_,20,697a07(00):の耕耘に力を盡すに至り。殊に宗祖七百年の遠忌に 0000_,20,697a08(00):先ち。記念傳道隊の組織せられ。布敎的機運を昻進 0000_,20,697a09(00):せしが。遠忌經過と共に稍沈滯の觀なくんばあらず。 0000_,20,697a10(00):海外布敎には。明治二十六年有志相集り布哇宣敎 0000_,20,697a11(00):會を設け有志より寄附金を募集し。二十七年三月十 0000_,20,697a12(00):六日松尾諦定先づ渡航し。次で同年五月四日岡部學 0000_,20,697a13(00):應も渡航し布敎に從事す。是本宗最初の布哇布敎者 0000_,20,697a14(00):にして。從て又海外布敎の嚆矢なり。松尾はホノル 0000_,20,697a15(00):ルに。岡部はハマクワに根據を定め。明治廿九年十一 0000_,20,697a16(00):月に至り岡部は同所に布敎場を創立せり。 0000_,20,697a17(00):明治廿九年六月仲谷德念。武田興仁臺灣に赴き。 0000_,20,697b18(00):布敎に從事す。是れ本宗臺灣開敎の嚆矢なり。臺灣 0000_,20,697b19(00):傳道援護會之が後援をなせり。然に翌三十年六月十 0000_,20,697b20(00):九日武田興仁マラリヤ熱の爲に先づ倒れ。次で三十 0000_,20,697b21(00):一年五月三十一日仲谷德念又ベストの爲に寂したる 0000_,20,697b22(00):も。此二殉敎者の熱心に感じ。嶂癘の氣を冐して同 0000_,20,697b23(00):地に布敎するもの踵を接するに至れり。 0000_,20,697b24(00):朝鮮は明治三十年六月十二日。三隅田持門の渡航 0000_,20,697b25(00):により開敎の端を發せしが。七月十三日白石堯海、 0000_,20,697b26(00):岩井智海宗命を帶びて臺灣及朝鮮を視察し。其報告 0000_,20,697b27(00):に基づき。從來個人或は有志事業たりし海外開敎が。 0000_,20,697b28(00):三十一年五月第二臨時宗會には。開敎費に四千圓。 0000_,20,697b29(00):韓國開敎費に二千圓。布哇開敎費に六百圓を支出し。 0000_,20,697b30(00):一宗の事業となるに至れり。かくて宗務よりして布 0000_,20,697b31(00):敎使を任命派遣し。便宜の地方に布敎場を設置布敎 0000_,20,697b32(00):せしめしが。日露戰役後滿洲樺太淸國天津にも布敎 0000_,20,697b33(00):使を送り敎會場を建設せしが。天津の外孰れも漸次 0000_,20,697b34(00):擴張して諸宗と伍して敢て遜色なき狀態なり。 0000_,20,698a01(00):(大 島 泰 信 編) 0000_,20,698a02(00):後記 大正十二年の大震火災に宗史の紙型燒失 0000_,20,698a03(00):し。這回全書再刊に方り新に組版せらるるを以 0000_,20,698a04(00):て。全部を書き改めんかと考へしも。雜務其意に 0000_,20,698a05(00):任かせず。唯一二不足を補ひ重複を削り文章のい 0000_,20,698a06(00):かがはしきを改め誤字を訂すに止めたり。