0000_,31,910a01(00):法然上人秘傳遠流記 0000_,31,910a02(00):法然上人遠流記巻之上 0000_,31,910a03(00):目録 0000_,31,910a04(00):一 上人月輪殿奇瑞之事 0000_,31,910a05(00):二 山門衆徒訴訟之事 0000_,31,910a06(00):三 上人配所土佐国定事付俗名付奉事 0000_,31,910a07(00):四 月輪殿法性寺留給事 0000_,31,910a08(00):五 法性寺小御堂悪党入事 0000_,31,910a09(00):六 悪党等示御詞之事 0000_,31,910a10(00):七 上人御帰依人人法性寺集給事 0000_,31,910a11(00):八 月輪殿御名残惜給事并殿下示御詞 0000_,31,910a12(00):九 上人御出洛之事 0000_,31,910a13(00):十 同御船神崎着事 0000_,31,910a14(00):十一 室津傾城等御教化預事 0000_,31,910a15(00):十二 同上人依教化捨身事 0000_,31,910a16(00):十三 御船福原経嶋着事 0000_,31,910a17(00):十四 鬼神御船入父母長命法問奉事 0000_,31,910a18(00):十五 特意云唐人上人問答之事 0000_,31,910b19(00):十六 御船和田三崎付事 0000_,31,910b20(00):十七 御送人人別給事附名残詠歌 0000_,31,910b21(00):十八 同都帰★谷御坊参給事 0000_,31,910b22(00):元久二年乙丑四月五日上人月輪殿に参じて、浄土法門を 0000_,31,910b23(00):談じ給ひて退出の時、地より高き蓮華を踏み歩み給ふ 0000_,31,910b24(00):御後頭光輝けり。禅定殿下彌よ信敬涙を流し給ふ事千 0000_,31,910b25(00):行万行也。凡そ上人弘通の教文世に弘まり、日本一州 0000_,31,910b26(00):帰依最も深く、念仏の日高く晴れ衆機煩悩の雲を払ひ 0000_,31,910b27(00):鎮へに称名の風とをく扇ひて万類往生の花の芬ひ新 0000_,31,910b28(00):なり。一天真仏四海の独尊と仰ぎ給へる所、山門より 0000_,31,910b29(00):上人念仏弘通をそねみ法然坊是れ外道也、単へに念仏 0000_,31,910b30(00):一門停止し、其の身を配流せらるべし。不然、七社 0000_,31,910b31(00):の神輿を洛中へ奉入べき由、土御門院に訴へ申に依 0000_,31,910b32(00):て月輪殿より兎角諫め被申けれども、衆徒彌よ蜂起 0000_,31,910b33(00):す。此の故に建永二年丁卯二月廿七日に還俗の姓名を奉 0000_,31,910b34(00):り藤井の元彦と云へり。配所は土佐の国と定められ、 0000_,31,911a01(00):又月輪殿法性寺の小御堂に留奉り給ふ。或夜雨ふり風 0000_,31,911a02(00):騒がしかりけるに悪党五十余人御座所にをしよせたり 0000_,31,911a03(00):然れども戒行を先とし慈悲を宗とし給へる人人なれば 0000_,31,911a04(00):妨ぐるに及ばず、上人を始奉り御弟子六十余人の衣裳 0000_,31,911a05(00):を皆剥取り、其外仏具水瓶なんどの御重宝ありけるを 0000_,31,911a06(00):隆寛律師の計らいとして随身せられたりけるを皆取り 0000_,31,911a07(00):にけり。此悪党等、後の山を指して入にけり。隆寛律 0000_,31,911a08(00):師聖覚法印二十余人引具し追懸くるを上人努努其儀有 0000_,31,911a09(00):るべからずと仰ければ、皆帰りぬ。其後上人唯一人此 0000_,31,911a10(00):悪党のあとを尋ねて山に入り給ふ。律師も法印も見へ 0000_,31,911a11(00):隠れ見へ隠れ行く程に、法性寺より奥真澄の池のはた 0000_,31,911a12(00):に悪党等並び居、取る所の衣裳を配分しける所に、上 0000_,31,911a13(00):人御入り有て石のありける座し給て、彼の悪党等に向 0000_,31,911a14(00):て言はく、人人の有様を見るに或は諸大夫織蔵人皆皆 0000_,31,911a15(00):恥ある輩也。暫く心を閑め源空が一言を聞くべし。今 0000_,31,911a16(00):何ぞ電光朝露の須臾の身を以て盗業を犯し、長く永刧 0000_,31,911a17(00):の苦しみをうけんや。浮生は幻しの如し、朝に変じ夕 0000_,31,911b18(00):べに変ず。生死流転は昔も迷ひ今迷へり、病ひは死の 0000_,31,911b19(00):花なれば無常の風一度びあをいて本末に帰る色もなし 0000_,31,911b20(00):老ひは生の終りなれば有為の雲散じ峯に留り跡もなし 0000_,31,911b21(00):身を観ずれば岸の額に根を離れたる草、今日や今生の 0000_,31,911b22(00):終りならん。命を論ずれば江のほとりに繫がざる船、 0000_,31,911b23(00):明日や後生の始ならん。無常の殺鬼は高賢をも嫌はず 0000_,31,911b24(00):賢君をも明王をも何れか終に残らん。有為の怨賊は貴 0000_,31,911b25(00):賤をも不論、良臣をも黎民をも誰か独り留まらん。 0000_,31,911b26(00):古より今に至り凡より聖に及ぶまで人は異なれども、 0000_,31,911b27(00):此の理を変ぜず。世は移れども此の習ひは新たまらず 0000_,31,911b28(00):凡そ悪道苦患をうくる事専ら煩悩に依て妄執す。妄執 0000_,31,911b29(00):の故に煩悩を起す。煩悩の故に苦患をうく、三毒依て 0000_,31,911b30(00):銅柱鉄城に堕す。又寒氷紅蓮色は惑業の家より染め出 0000_,31,911b31(00):せり。悲哉夢の如くなる一旦の身を貪り永き世の苦因 0000_,31,911b32(00):を不顧、歎哉幻しに似たる片時の世を思ひて来報の 0000_,31,911b33(00):苦患を知ず。汝等が威勢にも憚からず、奪精の猛鬼は 0000_,31,911b34(00):汝等が弓箭にも恐るべからず。終に炎魔庁にひざまづ 0000_,31,912a01(00):かんとき自業自得果の涙を干すともかはくべからず。 0000_,31,912a02(00):願はくば今生一世の身を軽く思ひて後生永代の罪の重 0000_,31,912a03(00):き事を思べし。然るに彌陀の本願は十悪五逆をも不 0000_,31,912a04(00):嫌、超世の名号は謗法闡提をもゑらぶ事なし。一称な 0000_,31,912a05(00):れども尚を不捨、況んや十念行業をや、十方衆生の願 0000_,31,912a06(00):は広くして、道俗をも攝し、光明遍照攝取は遍くして 0000_,31,912a07(00):男女に及ぼす。相構へて此理を耳の底に留めて往生極 0000_,31,912a08(00):楽の素懐を遂ぐべしと、懇に教化し給へば五十余人の 0000_,31,912a09(00):悪党ら随喜をなし渇仰を致し、前の罪を恨み後悔の涙 0000_,31,912a10(00):せきあえず、面面合掌し十念を受く。上人如是の御 0000_,31,912a11(00):意に及ぶほど教訓して返り給ひぬ。隆寛聖覚御有様を 0000_,31,912a12(00):見奉り、涕慟悲涙きはまりなし。彼の俗仁等上人の御 0000_,31,912a13(00):心を恥て取る所の衣裳を皆持ち来り進せけり。于時 0000_,31,912a14(00):上人言はく、源空全く財宝を取んとて汝等を教訓する 0000_,31,912a15(00):に非ず、見苦しき仕態也。疾疾持返るべしと仰有けれ 0000_,31,912a16(00):ばカ不及、給りて返りぬ。さる程に山門の訴訟の趣 0000_,31,912a17(00):き頻りに依て諏訪判官実安、和泉判官助国二人両奏使 0000_,31,912b18(00):追い立ての官人として法性寺の小御堂に罷向ふ。上人 0000_,31,912b19(00):配所に移し給ふべき由し申すに依て、上人巳に出て給 0000_,31,912b20(00):ひ御輿に乘り給ふ。力者の棟梁には式部公西信入道信 0000_,31,912b21(00):濃州の住人に角張の成阿彌陀仏随蓮惣じて六十人なり 0000_,31,912b22(00):最後の御送し奉らんとて参り給ふ人人には月輪の禅定 0000_,31,912b23(00):殿下、堀川の右大臣入道殿、明兼三位の入道、大原の 0000_,31,912b24(00):顕真、天台の座主慈珍、凡そ薗城寺の人人、九重の内 0000_,31,912b25(00):上人の化導に預る輩ら一人も残らず参りけり。上人装 0000_,31,912b26(00):束し給へる御躰を見奉れば悲哉秘密灌頂の剃刀を当て 0000_,31,912b27(00):給へる御頂きには悪業俗塵の穢しき烏帽子を引き立て 0000_,31,912b28(00):召し、無漏解脱の御衣を剥取て有漏冥悪の直垂着せ奉 0000_,31,912b29(00):り、法徳高貴の御名を替え在纒業報の俗名を付け奉り 0000_,31,912b30(00):藤井の元彦と云名を付てよび奉る。有為世間の習ひは 0000_,31,912b31(00):春の花一日の友なを立ち離れば名残り惜しく、秋の月 0000_,31,912b32(00):片時の情け実とに曉の空に心苦しき事こそ侍べるに、 0000_,31,912b33(00):三句一偈の師にも非ず、永年数日の芳恩也。何なる木 0000_,31,912b34(00):石なり共、此の御姿見たてまつりて歎ざらんや。さる 0000_,31,913a01(00):にても若年異例の御事にも非ず、七十五の御老躰也、 0000_,31,913a02(00):見るに魂をけし思ふに涙せきあゑず。其の中にも月の 0000_,31,913a03(00):輪殿は老老として上人の御輿の長柄に取り付き給ひて 0000_,31,913a04(00):言く、哀れげに長命ほど心くるしき物は侍べらじ。丸 0000_,31,913a05(00):ろ上人に先き立ち進らせて訪ひ奉らんと存じ候ひつる 0000_,31,913a06(00):に、上人配所に移されましまさば再会何れの時ぞや。 0000_,31,913a07(00):罪無き上人を土佐の国まで移し奉りなば、愚老が悲泣 0000_,31,913a08(00):いかがせんと歎き給へば、上人涙を押えて言く、面面 0000_,31,913a09(00):の愁涙理り也といえども、別離有為の習ひ、生死もつ 0000_,31,913a10(00):て同じ再会期し難しと云へども、聞法結緣は累刧芳契 0000_,31,913a11(00):也。然れば行末たのもしく思給べし。各各心を閑め筆 0000_,31,913a12(00):を染めて源空が一言を書きとどめ給べし。縦ひ源空は 0000_,31,913a13(00):西海の波に携ると云ども一句法訓は留りて眼の前に形 0000_,31,913a14(00):見と可成。設ひ罪は十悪五逆すら往生す、況や善人 0000_,31,913a15(00):をや。念仏は一念十念も往生すと知て而も多念の業を 0000_,31,913a16(00):はげまして、一念十念の者往生す、何況んや多念をや 0000_,31,913a17(00):と心得て申べし。是れ源空に対面すると思て忘れ玉ふ 0000_,31,913b18(00):なと云云。御輿をすでにかき出し奉るに、上人向顔も 0000_,31,913b19(00):今日計り也、師匠の御躰もいつか見奉るべきと思へば 0000_,31,913b20(00):隆寛も聖覚も前後に随ひ、只だ顔を押へてかなしむ。 0000_,31,913b21(00):月の輸殿、堀川殿も後宮にして纔に教訓の昔を思ひ玉 0000_,31,913b22(00):ふ。然し配所土佐国と定められけるを月の輪殿彌よ遠 0000_,31,913b23(00):く成奉らん事を悲み、今少し近き所の讃岐の国に中郡 0000_,31,913b24(00):法性寺の庄誓福寺は兼実が所領也。其れへ移し奉らん 0000_,31,913b25(00):と思ふはいかんと言へば、両奏使等、縦ひ命失ひ頸を 0000_,31,913b26(00):めさるとも上人の御故ならば、恨む所有るべからず。 0000_,31,913b27(00):御仰に随ふべしと。鳥羽の草津より御船にめす。土仏 0000_,31,913b28(00):の津にて上人仰せに云く、源空今度の配所は海中四国 0000_,31,913b29(00):の利益あるべし。今夜其の注るしあるべしと言ふ。両 0000_,31,913b30(00):使此事を書き付け置く。かくて上人の御座船を神崎の 0000_,31,913b31(00):橋の上へ二町計り引き上げて付けたり。御送りの人人 0000_,31,913b32(00):の船六十余艘同じ所に繋ぎ、同じ暮れ程に傾城五人水 0000_,31,913b33(00):引きしたる唐傘ささせて従女に梠をさせて上人の御座 0000_,31,913b34(00):の御船近くこぎ寄せたり。参らすべき由を申す。隆寛 0000_,31,914a01(00):律師船の屋形遣戸を開いて言ひけるは、上人は名聞を 0000_,31,914a02(00):好み玉はねば、美麗の類もなし、貪欲もなき御身なれ 0000_,31,914a03(00):ば、絹布米糓の所持もなし、何に依てか望み玉ふべき 0000_,31,914a04(00):其上へ女人の御身、努努上人の御船には叶ふべからず 0000_,31,914a05(00):左様の事は近か通ひの商人船にて聞き玉ふべき由言へ 0000_,31,914a06(00):ば、傾城申けるは、惜しくもましますべき上人だにも 0000_,31,914a07(00):かく御いとひあり。増して商人なんど心なからん。船 0000_,31,914a08(00):には何にと可申とて、其後は音もせず良久しくあり 0000_,31,914a09(00):て、齢三十計なる傾城の船ばたをたたひて調子を取り 0000_,31,914a10(00):上人の御船より始めて東の船、西の船を始て是を聞く 0000_,31,914a11(00):に、三句の今様を詠じけり。慈悲の御無漏広くして人 0000_,31,914a12(00):を漏らさずとこそ聞け、何にとて女人を隔つらん、船 0000_,31,914a13(00):の内の人人恨めしさよと、二三返詠じ、其後申けるは 0000_,31,914a14(00):設ひ今生の御引出物こそ無くとも、我等耳底に留るほ 0000_,31,914a15(00):どの後生の御引き出物に預かりて、帰らんと申す。隆 0000_,31,914a16(00):寛律師是を聞て上人に申さん。昔叡然上人嵯峨の釈迦 0000_,31,914a17(00):如来を迎え奉り、帰朝の時、室津に着玉ひけるに、傾 0000_,31,914b18(00):城ども来り船に乗らんとす。叶ふまじき由、言ひけれ 0000_,31,914b19(00):ば、有漏路より無漏路に通ふ釈迦だにも、羅喉羅が母 0000_,31,914b20(00):は有りとこそきけと、うたひけるも、今こそ思ひ合せ 0000_,31,914b21(00):けれ。何にかは苦しかるべき。御ゆるされも有るべき 0000_,31,914b22(00):にやと被申ければ、上人聞こし召し、旁のはからひ 0000_,31,914b23(00):なるべきと仰せらる時、このよし傾城に言ひければ、 0000_,31,914b24(00):彼れら喜んで御船に参りける。其後、上人彼等が有様 0000_,31,914b25(00):を御覧じて、後生引出物を所望するこそ心憎けれ。さ 0000_,31,914b26(00):らぬだに、女人は極めて罪重き事あり。同じ女人と云 0000_,31,914b27(00):ながら、汝等は罪深き身也。船の内、波の上にして一 0000_,31,914b28(00):生の親会を恣にして明暮し只だ人の心をたぶらかし、 0000_,31,914b29(00):月の影に乗る船ばたをたたいて往還の客に心を懸け、 0000_,31,914b30(00):波の上にさほをさし、水の面てにうかびては身を上下 0000_,31,914b31(00):の人人に見へ、日西に傾きては何となく形をつくろひ 0000_,31,914b32(00):東に日の出れば契をさる。夜半の枕を待ち只だ身を上 0000_,31,914b33(00):下の輩に任せて夜ごとに香ほる異香を、身に留めて思 0000_,31,914b34(00):ひを費やす。心心手枕、袖に名残を惜みて胸をこがし 0000_,31,915a01(00):如此のつみ深き身と不知侍べる事、返返はかなし。 0000_,31,915a02(00):此の世はつねの栖かに非ず、草葉に結ぶ露よりはかな 0000_,31,915a03(00):く其の身ばかりの姿也。水に宿る月よりもあだ也。金 0000_,31,915a04(00):谷に花を詠ぜし客も花と共に無常の風に随ひ、南楼の 0000_,31,915a05(00):月を翫ぶ輩も月に先き立ちて有為の雲に隠れぬ。され 0000_,31,915a06(00):ば鳥部野の辺の朝の霞、有りはつまじき世を願ひ、船 0000_,31,915a07(00):岡山の夕部の煙、送れ先き立ち愁へを残し、花やかな 0000_,31,915a08(00):りし姿も、蓬が本に朽ぬ。厳しかりし姿も苦の底に埋 0000_,31,915a09(00):む。鳴呼はかなかるべき世の習ひ哉、不定なる人の命 0000_,31,915a10(00):也。各の夢の内のかりの栖かに心を留めずして浄刹の 0000_,31,915a11(00):蓮に思を懸くべしと言まへば、ある遊女涙をながし申 0000_,31,915a12(00):すやう、如此の浮世を離れはかなき身を捨て浄土に 0000_,31,915a13(00):参るべき行は、女人身に取りては何なる法力を勤め候 0000_,31,915a14(00):ふべきやと問ひ奉る。上人言く、女人は罪深ふして、 0000_,31,915a15(00):諸教の出離をゆるさず、彌陀如来の本願は殊に女人引 0000_,31,915a16(00):接の願深きなり。韋提希夫人は五障の人身たりしかど 0000_,31,915a17(00):も、往生を西方に証す、侍女が百悪なりしも往生の素 0000_,31,915b18(00):懐を浄域に顕はす。彌陀如来に憑みをかけ易行の名号 0000_,31,915b19(00):に志を運ぶ。今度難受人身を得たる思出には、心うか 0000_,31,915b20(00):りし歎きの衢をはなるべしと云云。遊女ども是を聴聞 0000_,31,915b21(00):して随喜して申す様、今生の御引出物は何かせん。只 0000_,31,915b22(00):今御法門を深く耳の底に留まり候ひぬと申し、御前を 0000_,31,915b23(00):立ち、我が船に乗り移つて大船の傍らに此船を指寄せ 0000_,31,915b24(00):又別の船に若き傾城を二人のせて上人の御船へ進する 0000_,31,915b25(00):彼の遊女ども先きより絹深く引きかつき脇の下より手 0000_,31,915b26(00):箱を取り出して上人の御ひざ近く指し寄せ申しけるは 0000_,31,915b27(00):莫大の御法門承り候ぬ。何をか御布施にと思ひまひら 0000_,31,915b28(00):せ候へども、聊か御用に立ち候べき物候らはねば、是 0000_,31,915b29(00):こそ何より御目に懸けたく覚へ候ふほどに、我等が中 0000_,31,915b30(00):より進ずるなりと申す。上人彼の箱を引き開きて御覧 0000_,31,915b31(00):せんとする所に、直垂の袖を髪に打ち懸けて、ほつか 0000_,31,915b32(00):いを片かたに持ち来りて、上人に進上して申しけるは 0000_,31,915b33(00):法性寺小御堂にて狼籍仕候ひしが是まで参りて侍る也 0000_,31,915b34(00):と申す。上人先づ傾城の参らせたる手箱の蓋を開きて 0000_,31,916a01(00):御覧ずれば、何とは不知、引き合せにて包みたる物 0000_,31,916a02(00):五あり。取り上げ御覧ずれば本結ぎわより髪を切て包 0000_,31,916a03(00):みたり。残り如前、思思本結を以て結ひたる髪を切 0000_,31,916a04(00):て奉る。上人彼れ等を取上てかきなでかきなで涙を流し、 0000_,31,916a05(00):是を御覧候へ、女人の身のかざりには高きも賤しきも 0000_,31,916a06(00):老ひたるも若きも皆髪を以て大切とす。長き髪をば末 0000_,31,916a07(00):を枯らさじと思ひ、短き髪をばかづらを懸けて、女人 0000_,31,916a08(00):の厳りには髪に過ぎたる物なし。されば盛者必衰の理 0000_,31,916a09(00):り爰に顕れ、会者定離のさかい彼等が有様也。されば 0000_,31,916a10(00):後生は能能大切なる物かなと御感あり。彼の者ども是 0000_,31,916a11(00):へ参るべしとて五人の傾城御前に参る。次に男の進ら 0000_,31,916a12(00):せたる行器を開て御覧ずれば、思思の水引にて取たる 0000_,31,916a13(00):もとどり五十余人まで進らせたり。上人彌よ御なみだ 0000_,31,916a14(00):万行して御手指し上げ玉ひて各是を見玉へや。昨日今 0000_,31,916a15(00):日に至るまで人の命を害するを能とし、山野のけだも 0000_,31,916a16(00):の江河のうろくづに至るまで、彼れ等が害し残せる物 0000_,31,916a17(00):なし。雖然、源空が一句の法門に依て加様に成ぬる事 0000_,31,916b18(00):こそ哀れなれ。去れば源空何と習ひ何と行しければ今 0000_,31,916b19(00):永刧の魂を養ふとは此の理也とて、書きくどき泣き玉 0000_,31,916b20(00):へば、見る人も哀しみ、聞く人も涕泣せり。此俗人を 0000_,31,916b21(00):も面面召寄せ出家受戒せさせて十念を授け玉ひて言く 0000_,31,916b22(00):いづくの波の上までも相具し度候へども、我れ流人の 0000_,31,916b23(00):身なり、伴に不及、何ならん。樹下石上にも籠居て 0000_,31,916b24(00):念仏申て素懐を遂ぐべしとて皆皆御前を立られけり。 0000_,31,916b25(00):次に傾城どもを出家せさせて、戒を授け、いみじくこ 0000_,31,916b26(00):そ思ひとりたる道心なれ、彌陀如来の六八の願の中に 0000_,31,916b27(00):卅五の願は女人引接せん誓ひ也。然者本願に任せて南 0000_,31,916b28(00):無阿彌陀仏と唱へて声の下たに気絶へなば、命欲終 0000_,31,916b29(00):らんと時の約束不違、火の中水の底までも観音蓮台 0000_,31,916b30(00):を傾け、彌陀如来は来迎し給ふべき也。此の旨を忘る 0000_,31,916b31(00):事なくして、往生を願ふべしと言へば、遊女も歓喜の 0000_,31,916b32(00):涙をながしけり。さて御前を立ち船に乗り移つて神崎 0000_,31,916b33(00):の橋柱に船をつなぎ、遙に西方を見送れば、月は淡路 0000_,31,916b34(00):島にかたぶき、帰雁の一音霞の中に音信れ、ゆうゆう 0000_,31,917a01(00):たる春風に折からをぼろ成る空もの哀れなるに、彼の 0000_,31,917a02(00):五人の新出家の尼、心を西方に傾き、憑みを彌陀に懸 0000_,31,917a03(00):け奉り、専称念仏する事数千返也。十念高声に唱へて 0000_,31,917a04(00):水の底に身を抛げ終りぬ。残留る従女二人ありけるが 0000_,31,917a05(00):是れ御覧ぜよや浮き世に厭ひ給ひぬる人人身を抛げ玉 0000_,31,917a06(00):ひぬと、声も惜まずさけべば、船の内の人人立出でみ 0000_,31,917a07(00):れば、紫雲空に靉き、水の面は紅也。在明の月西に傾 0000_,31,917a08(00):きて波の上明らか也ければ、水の底に飛び入り、此傾 0000_,31,917a09(00):城どもをかづき上たれば、合掌は未乱、左右の眼眠 0000_,31,917a10(00):るが如くにして、各往生を遂げにけり。無言量り道 0000_,31,917a11(00):心也とて、別所と云所に送り一片の煙とたち上りぬ。 0000_,31,917a12(00):さて上人御船は葦屋を指して出て三月十八日波閑かな 0000_,31,917a13(00):り。葦屋の浦雀の松原、生田のおきをもこぎ過ぎ、攝 0000_,31,917a14(00):津の国福原の経の島に付玉ふ。其の夜、今は半ばに深 0000_,31,917a15(00):けぬらんと覚へ更闌け閑か也。在明の月影さえて海上 0000_,31,917a16(00):波納まりて風閑か也。遙かにおきを見渡せば白浪高く 0000_,31,917a17(00):立ちなぎさに向ひ寄せ来る。上人の御船の舳に、左右 0000_,31,917b18(00):へ立ち別れてせかいに付なり。見るに其勢ひをびただ 0000_,31,917b19(00):しき鬼神、船の遣り戸より内へ覆ひ懸るやうに覚へけ 0000_,31,917b20(00):る間、角張の成阿彌陀仏西信等見ければ、波の底は不 0000_,31,917b21(00):知、立ち上りたる長五丈計りなる鬼神、其色赤く、一 0000_,31,917b22(00):入再入の紅の如し。上人の左の御膝を枕とし顔をもた 0000_,31,917b23(00):げて上人を守り奉り、右の方より覆ひ懸る者の長、前 0000_,31,917b24(00):の鬼より高して其色白き素雪に似たり。上人の右の膝 0000_,31,917b25(00):に顔をもたせて侍べり。をそろしき事はかりなし。船 0000_,31,917b26(00):の中の人、鬼の気に配せり。成阿彌陀仏西信に向つて 0000_,31,917b27(00):言ひけるは、是れロ惜しき事にこそ侍る。法然坊邪法 0000_,31,917b28(00):を行して洛中をも追ひ出され、配所に趣むきけるが、 0000_,31,917b29(00):海中にして鬼神の食と成りけるなんと、南都北嶺の嘲 0000_,31,917b30(00):りと成りなん事こそ悲しけれ。但し身は恩の為めに仕 0000_,31,917b31(00):ふるといふ事あり。何なる海中のもくづと成るとも、 0000_,31,917b32(00):師匠の御為めに捨つる命は惜しからじと云て、朴木柄 0000_,31,917b33(00):の刀の九寸余り有けるが、氷なんどのぞくなるを懐中 0000_,31,917b34(00):より抜き出て、上人の御そばに侍り、上人をあやまち 0000_,31,918a01(00):奉らば鬼神を一刀と心指し、彼の者ども目も離さず用 0000_,31,918a02(00):心す。彼の角張と申は、俗姓いやしからず、王家を守 0000_,31,918a03(00):り朝敵を取り意執の堅孫也。されば今如此の師匠に 0000_,31,918a04(00):命を奉んと思もことはり也。式部公西信思ひけるは、 0000_,31,918a05(00):上人も願はくは、身命を捨て彌陀に帰属せよとこそ教 0000_,31,918a06(00):へ玉へば、我れ師匠共に死せん。命は毛髪計りも惜か 0000_,31,918a07(00):らず。されば外伝にも身を全うする時は小児までも不 0000_,31,918a08(00):嘲、命を軽くする時は神なり共、物ともせずと云事あ 0000_,31,918a09(00):り。縦ひ身は何と成とも正中さしつらぬき師の御命に 0000_,31,918a10(00):代り奉んと思ひければ、紫檀の八角にしたりける刀一 0000_,31,918a11(00):尺もあるらんと見へけるを、柄もこぶしもおれよくだ 0000_,31,918a12(00):けよと拳りて、上人の左の御脇へまわる。然りと云へ 0000_,31,918a13(00):ども上人は敢へて事ともし給はず、御眼ねぶる如くし 0000_,31,918a14(00):て御心閑かに念仏し玉へり。かの鬼神等暫らく有て申 0000_,31,918a15(00):す樣、上人我等ほどにをそろしき物や見玉ひたるやと 0000_,31,918a16(00):申せば、其時上人御目を開き玉ひて源空は汝等よりも 0000_,31,918a17(00):遙かに怖しき物を身に随て持たる也と、仰有ければ、 0000_,31,918b18(00):鬼神等何なる物なるらんと申せば、悪業煩悩是也。其 0000_,31,918b19(00):故は無始広刧より已来、生死輪廻して成仏の本望を遂 0000_,31,918b20(00):げざるは、只源空が所持の煩悩の仕態也。汝等者、今 0000_,31,918b21(00):一旦の命を殺す計り也。煩悩のあだは過去遠遠にも我 0000_,31,918b22(00):が命を殺して、又未来永劫までも我を殺べし。煩悩の 0000_,31,918b23(00):あだを害せんものの為め、清浄の業を説くと言へり。 0000_,31,918b24(00):汝ぢ等さやうに悪躰を受たるも是れ煩悩の故也。汝等 0000_,31,918b25(00):を思へば不疎。広劫流転の間は己れの形を受たる時 0000_,31,918b26(00):あるべし。其の時は汝等をば父母兄弟とも親友所従共 0000_,31,918b27(00):なりぬらん。過去の宿因を思ふてをろそかならん。又 0000_,31,918b28(00):流来生死を案ずれば、己れもながし。去れば源空汝等 0000_,31,918b29(00):を父母兄弟としたりし時、恣に無量の罪業を作り更に 0000_,31,918b30(00):仏法の名字を不聞、其の罪業の余習猶を不尽、常没 0000_,31,918b31(00):流転の凡下となれり。されば汝等が有樣を見るにをそ 0000_,31,918b32(00):ろしからずとて、御心閑かに念誦し玉ふ。其の時鬼神 0000_,31,918b33(00):申けるは、上人は実に道心深き智者にて御座しけり。 0000_,31,918b34(00):我等が身にをきて悲しき事侍り。是を上人に尋申さん 0000_,31,919a01(00):為に参りたり。其故は我等は土佐の国にほづみ崎の上 0000_,31,919a02(00):の岩穴にすむ者也。然るに我等父母一千歳を経て必ず 0000_,31,919a03(00):死すべき也。今年三百歳に成る。彼の二親ともが我等 0000_,31,919a04(00):が行末を見はてずして死せん事をあながち歎き申す也 0000_,31,919a05(00):上人命長き法ばし知り玉はば示し玉へ。二親の命を今 0000_,31,919a06(00):七百年延て我等と共に死んと思候也。上人日域第一の 0000_,31,919a07(00):智者と承候を尋申さんために参たる由申しければ、上 0000_,31,919a08(00):人御涙を流し玉ひて命長き法こそ我れ知りたれ。汝等 0000_,31,919a09(00):が二親を具足して参るべしと仰有りければ鬼神等手を 0000_,31,919a10(00):合せて喜て帰りぬ。又其の比大唐より唐人渡りけるが 0000_,31,919a11(00):日本の名誉したらん明眼の人に逢ふて問答せばやと云 0000_,31,919a12(00):ける折り節、兵庫に有けるが、智恵第一の上人此嶋に 0000_,31,919a13(00):付き玉ひたり、人人申ければ、問答せんとて参りける 0000_,31,919a14(00):上人御髪めされけるに、彼の持意と云、唐人取あえず 0000_,31,919a15(00):爰をそるに何ぞ爰をばそらずと申す。心は、髪をばそ 0000_,31,919a16(00):るに何ぞ眉をばそらぬと不審す。上人此返答に爰に着 0000_,31,919a17(00):るに何ぞ爰にきぬと仰せらる。此の心は毛の有る所鳥 0000_,31,919b18(00):帽子を着るに、何ぞ鬚には鳥帽子をきぬぞと返帰し給 0000_,31,919b19(00):へり。其時、持意舌を巻て帰りぬ。三月廿日には経の 0000_,31,919b20(00):島に御逗留あり。同廿一日上人御船を出し奉る。御送 0000_,31,919b21(00):の人人の船、経の島より都へ、上人の御船は和田の三 0000_,31,919b22(00):崎をさして下たる。送りの人人船は葦屋のおきにして 0000_,31,919b23(00):うかみける。只だ行くも帰るも袖に余りし涙也ければ 0000_,31,919b24(00):慈鎮思召つづけてかくぞ詠じ玉ひける 0000_,31,919b25(00):別れ路やたらぬ浮き身にしたひ来て 0000_,31,919b26(00):かへるはつらき涙なりけり 0000_,31,919b27(00):慈円おぼしめし連ね給て 0000_,31,919b28(00):流れ行く人の別れをしたひきて 0000_,31,919b29(00):帰るはかゑる心ちこそせね 0000_,31,919b30(00):中にも聖覚船を留て泪のひまに上人の御船を見送り玉 0000_,31,919b31(00):へり。和田の三崎霞こめてそこともなくうかれ玉へば 0000_,31,919b32(00):慕ふべき甲斐もなぎさのいづち艘 0000_,31,919b33(00):いづちをさしてうかれ行くらん 0000_,31,919b34(00):斯くて御送の人人は都に帰りてせんかたなき余りに大 0000_,31,920a01(00):谷の御坊に参て、此れ彼を見廻はりければ、仏像経巻 0000_,31,920a02(00):かはらずと雖も、上人はましまさず、思ひの余りに其 0000_,31,920a03(00):夜は御坊に留り玉ひて、慈円僧正、醍醐の坊管上総の 0000_,31,920a04(00):法眼堯順、御室の坊管毫秀夜もすがら念仏して明くれ 0000_,31,920a05(00):ば帰んとし給ひけるが、大谷の上の松山なんどを見行 0000_,31,920a06(00):きける程に、有る所にたたみ一帖じきほどの大石あ 0000_,31,920a07(00):り。彼上に青蓮花四五本をい出たり。法橋不思議に思 0000_,31,920a08(00):ひて残りの人人に、此由を申、人人見るに花の茎文字 0000_,31,920a09(00):に似たる白すじあり。能能見れば文字也。其の文字に 0000_,31,920a10(00):云く、上人帰朝建暦元往生之台所と云文字也 0000_,31,920a11(00):上巻終 0000_,31,920a12(00):法然上人遠流記卷之下 0000_,31,920a13(00):目録 0000_,31,920a14(00):一 上人御歸洛瑞相之事 0000_,31,920a15(00):二 海中群類上人化導預事 0000_,31,920a16(00):三 高瀬奥龍神出現の事 附一行阿園梨事 0000_,31,920b17(00):四 讃岐国誓福寺入給事 0000_,31,920b18(00):五 同国善導寺僧夢告事 0000_,31,920b19(00):六 同金藏寺藏参事附諸獸上人送奉事弘法大師之事 0000_,31,920b20(00):七 崇徳院御廟参給事 0000_,31,920b21(00):八 白峯別当夢告之事 0000_,31,920b22(00):九 同五部大乗経供養導師上人請奉事 0000_,31,920b23(00):十 松崎長楽寺御参之事 0000_,31,920b24(00):十一 同律師母餓鬼在所教給事 0000_,31,920b25(00):十二 同餓鬼上人依教化成仏之 0000_,31,920b26(00):十三 件鬼神御船参事 0000_,31,920b27(00):十四 同命長法念仏授給事附鬼神等捨身事 0000_,31,920b28(00):十五 角張成阿爾陀仏父小虵偶事 0000_,31,920b29(00):十六 同為小虵一七日別時念仏事 0000_,31,920b30(00):十七 上人帰洛時節到来事并叡山不思議之事 0000_,31,920b31(00):十八 山王権現詫宣之事附御詠歌之事 0000_,31,920b32(00):十九 上人御歸洛之事 0000_,31,920b33(00):さて上人配所の波の上にて朽もし終はで御赫免可有 0000_,31,920b34(00):瑞相也。相構へて他に見すべからずとて能能こしらゑ 0000_,31,920b35(00):て慈珍尾張法橋毫秀に預け置玉ひぬ。さて上人御船は 0000_,31,921a01(00):淡路の瀬渡を過ぎさせ給ひたる。汰海の奥にて海上を 0000_,31,921a02(00):御覧ずれば、鯨鯢鰐なんどを始めとして海中の群類数 0000_,31,921a03(00):を不知大をあき塩を吹き白浪を立て御船近く成り 0000_,31,921a04(00):船のへさき左右のせかいにさざめきめぐり、海の面て 0000_,31,921a05(00):も静かならず、船既にくつがへるべきやと船子梶取り 0000_,31,921a06(00):もあはでさはぐ。上人立出給て魚類の白浪の中にくん 0000_,31,921a07(00):じゆするを御覧じて言く 0000_,31,921a08(00):有情輪廻生六道 猶如身輪無始終 0000_,31,921a09(00):或為父母為男女 生生世世互有恩 0000_,31,921a10(00):と唱へ給ひて念仏百返計り申させ給て、其後ちに光明 0000_,31,921a11(00):遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と誦し、高声に十念を 0000_,31,921a12(00):唱させ給へば、彼の魚類共波の底に入にけり。畜生の 0000_,31,921a13(00):業を免がれんが為に御舟近く参りけり。彌上人の法徳 0000_,31,921a14(00):を人人讃嘆し奉る。其日の晩程に高瀬の奥きに御船か 0000_,31,921a15(00):かりけり。春の晩の月なれば、未だ海上にも出ず、闇 0000_,31,921a16(00):かりけるに南方より帝王皇后の如くなる人を上首とし 0000_,31,921a17(00):て従類其数引具して上人の御舟に参る。誰れ人なるら 0000_,31,921b18(00):んと思ひて見る処に、彼の中の主人と覚しきは御舟に 0000_,31,921b19(00):乗り移り、残りの衆は海上にあり。彼人申す様、仏法 0000_,31,921b20(00):結緣の為と云ひ、又上人御配所御訪ひの為、彼れ是れ 0000_,31,921b21(00):参たる也と申給へば、上人言く、有難き御志し哉とて 0000_,31,921b22(00):暫く御法門ありて十念を授け給へば、各合掌して帰り 0000_,31,921b23(00):ぬ。海中の利益是れには限らず、度度に及びけれども 0000_,31,921b24(00):今に初めたる如く彌よ互に尊み奉る。是則竜王の化現 0000_,31,921b25(00):也。依之古へを案ずるに大唐の一行阿闍梨は光国に 0000_,31,921b26(00):趣給けるには九曜の光を放ち、闇穴道を照し給けり。 0000_,31,921b27(00):日本の法然上人は土佐国に移り給には八竜形を現じて 0000_,31,921b28(00):配所を訪ひ奉る。一行は山中の岩穴を歩ゆみ給へば、 0000_,31,921b29(00):上人は海上波路を行給ひ、阿闍梨は九曜の光に闇難を 0000_,31,921b30(00):助けられ、上人は八竜帰りて十念を授け給ひ、彼れは 0000_,31,921b31(00):大唐是は日域、彼れは上代此れは末代と云へども、上 0000_,31,921b32(00):人威徳は凡聖信謗あらまさるのみならず、海中の群類 0000_,31,921b33(00):までも一子慈悲是れ平等なる者なり。同三月廿二日無 0000_,31,921b34(00):路の津に付き給へば、諸人参会す。御法門いとめづら 0000_,31,922a01(00):しく侍べり。同廿三日順風来る間、御舟を出し、月輪 0000_,31,922a02(00):殿仰含めらるるに依て讃岐の国中郡小松庄誓福寺に入 0000_,31,922a03(00):れ奉る。初め配所は土佐国畠郡山影の庄に二条殿の御 0000_,31,922a04(00):領也と定められけれども改めて小松の庄へ入れ奉り。 0000_,31,922a05(00):小松の庄の領主は高橋権守入道西仏也。参向ひて上人 0000_,31,922a06(00):を請け取り申し観音寺へ入れ奉り、七日綺羅綺羅しく 0000_,31,922a07(00):もてなし奉り、其れより御弟子達心すこし取りしづめ 0000_,31,922a08(00):てぞ思ひける。其後ち誓福寺へ移し奉る。官人等各帰 0000_,31,922a09(00):洛す。此人人あかぬ御名残りに絶へずして各袖をぞし 0000_,31,922a10(00):ぼりあへる。承元二年十月に上人弘法大師の初生拝見 0000_,31,922a11(00):の為め善導寺の寺僧夢に見侍べり。明日勢至来り観音 0000_,31,922a12(00):に御対面可有と、十四五計なる童子の告と見たりけ 0000_,31,922a13(00):り。早旦に此由を寺の一和尚に寺僧語りければ寺僧の 0000_,31,922a14(00):中にも同じ如く夢を見たりけるに、上人御詣であれば 0000_,31,922a15(00):不思議の思ひをなして各十念を授かりける。同次に智 0000_,31,922a16(00):証大師の初生の所、金蔵寺に参りて下向の時、庭に兎、 0000_,31,922a17(00):鹿あまた出来る。少しも恐るる気色なくして上人に向 0000_,31,922b18(00):ひ奉る。上人かれらに向て十念し給へば暫く鹿も付き 0000_,31,922b19(00):奉りて下りけり。上人の御送りを申すにやと不思議に 0000_,31,922b20(00):ぞ侍べりける。昔、空海大師大唐に渡り大祖山に参り 0000_,31,922b21(00):けるに、千頭の虎大師に向ひ膝をおり、今の法然上人 0000_,31,922b22(00):は金蔵寺に参り給へば多くの獣上人を送り奉りけり。 0000_,31,922b23(00):阿波の国の目代は弘沢中将入道也。法名正進とぞ申け 0000_,31,922b24(00):る。件の正進は上人の出家の御弟子なり。上人讃州に 0000_,31,922b25(00):御座すの由聞ければ、使者を以て申けるは、身病の床 0000_,31,922b26(00):に臥し行歩に不足候、可然候は上人御来臨あつて臨 0000_,31,922b27(00):終正念御教化を示し玉へと申せと。上人哀れに思召し 0000_,31,922b28(00):御昇り有て崇徳院の御廟塔へ参り給ふ。此君は高松院 0000_,31,922b29(00):の第一の尊にて御座す。無故御合戦に依て此の島に 0000_,31,922b30(00):住守と成り給ひぬるこそ哀れなれと思召しつづけて御 0000_,31,922b31(00):念仏あり。干時鳥一つ飛び来り御墓の上にあり。人 0000_,31,922b32(00):人何鳥とも不知。上人は此鳥崇徳院と見知り給へり。 0000_,31,922b33(00):白峯の院主別当の夢に見ける様は、丸が書写し奉て海 0000_,31,922b34(00):底にしづむる所の五部の大乗経を明日法然上人此山に 0000_,31,923a01(00):登り給ふ次に、供養し奉るべしと夢想あり。夢覚めて 0000_,31,923a02(00):後、不思議に思ける間、早朝に白峯の院主別当のもと 0000_,31,923a03(00):へ使者をつかはす。別当は院主の坊へ人を立るに途中 0000_,31,923a04(00):にて行合ひ、互に状を取りちかへて帰りけり。依て鐘 0000_,31,923a05(00):を鳴して大衆会合有て披露す。則ち上人御詣であれば 0000_,31,923a06(00):五部大乘経を供養し奉るべきよし儀定し畢んぬ。上人 0000_,31,923a07(00):御夢に御覧じける様は、丸が自筆の五部の大乘経を海 0000_,31,923a08(00):中に沈め奉るを供養し給ふべきとて 0000_,31,923a09(00):流れきて身をうき島の子をぞなく 0000_,31,923a10(00):我がつみ深き事をしらばや 0000_,31,923a11(00):依て上人は請に趣き導師を唱へ、其日の説法の秀句に 0000_,31,923a12(00):君は是れ日本第一の種性、罪も又日域第一の悪王也と 0000_,31,923a13(00):言へば、金堂の上の松原に大きなる声を以て云ふ、生 0000_,31,923a14(00):ては主上として恥をさらし、死ては上人の為めに罪を 0000_,31,923a15(00):顕はすと院宣有ければ、堂内外法の人、皆皆泪を流し 0000_,31,923a16(00):けり。上人白峯を立給ひて志度の道場に参給ふに、浪 0000_,31,923a17(00):高くありければ、松崎の長楽寺と云ふ所へ参り給ふ。 0000_,31,923b18(00):其所の領主は治部の律師とて山の西堂法師也。上人に 0000_,31,923b19(00):対面申して是へあらでは争か入御可有とて慇ろに聞 0000_,31,923b20(00):へ申す。其夜上人と枕を並べて臥したり。其曉上人律 0000_,31,923b21(00):師に告げて言く律師の母儀他界して何年に成給ぞやと 0000_,31,923b22(00):問給へば、今は卅余年には成候らんと申す。さて上人 0000_,31,923b23(00):その母儀には見参し度くは思給はぬかと言ふ。律師こ 0000_,31,923b24(00):は何の次でぞと思けれども彼上人は権者にて御座す。 0000_,31,923b25(00):何なる不思議もや有覧と思て悲母他界にをもむきてよ 0000_,31,923b26(00):り以来、夢に不見より外は存生の姿を見る事なし。 0000_,31,923b27(00):通力に非れば、後生の果報をも不知、六道四生の内 0000_,31,923b28(00):には如何なる生をか受給ひぬらん。二十五有の間には 0000_,31,923b29(00):奈何なる所にか御座すらんと乍歎日を暮し、乍悲夜 0000_,31,923b30(00):は明かす。されば争か見んとは存じ候べきと云。其時 0000_,31,923b31(00):上人言くさやうに思給はば、明日人夫を廿余人鋤鍬な 0000_,31,923b32(00):んどを持ち聚め給ふべしと仰らる。律師の云く、何れ 0000_,31,923b33(00):の所に何やうなる者にて侍べるらんと申せば、松風を 0000_,31,923b34(00):とやみて閑かなる時、有隙にはさも物あはれなる躰 0000_,31,924a01(00):に吟ずる声あるをば聞給はずや否やと仰らるれば、律 0000_,31,924a02(00):師古しへよりさやうの声夜に聞候へども、奈何なる者 0000_,31,924a03(00):共不知過ぎ候ひきと申。其夜も明ければ人夫そろえ 0000_,31,924a04(00):て進ひらせけるに、上人長楽寺の辰巳の角の柱の下を 0000_,31,924a05(00):指て被掘ければ、一丈計りの深かさに掘りたりけれ 0000_,31,924a06(00):ば、石の如くなる物有り。取上げ見れば腹は太鼓の如 0000_,31,924a07(00):くなるが、足手なし。即ち仏前に置て上人呪願して云 0000_,31,924a08(00):く、餓鬼成仏躰念仏不思議一返能称念現世余業悩と誦 0000_,31,924a09(00):し給へば、彼の物漸く動きて手足出来ぬ。上人汝が名 0000_,31,924a10(00):を何と云ぞと問ひ給へば土虫鬼と答ふ。いつか飲食あ 0000_,31,924a11(00):りしと問ひ給へば、我が此の果報を受けしより以来、 0000_,31,924a12(00):食の名を不聞。仍急ぎ美膳を取り寄て与へ給ふに餓 0000_,31,924a13(00):鬼是を食んとするに頸細くして露ばかりも不通、依 0000_,31,924a14(00):て食する事不能、律師を見て彼の餓鬼申けるは人の 0000_,31,924a15(00):親の子を思故に三界の獄に入るとは我身の上にて侍べ 0000_,31,924a16(00):りけりとて泪を流し哭き臥す。時に律師此の有様を見 0000_,31,924a17(00):て上人の御袂にすがりて弟子行法の次には先母出離生 0000_,31,924b18(00):死頓証菩提と廻向して祈りし。其廻向の功徳は何也け 0000_,31,924b19(00):れば、今まで苦患を受給けるぞや。上人は天下の独尊 0000_,31,924b20(00):一天の導師にて御座せば、願くは母の苦患を助け給へ 0000_,31,924b21(00):や。上人の御力にて業報を救給はずば、又誰をか憑む 0000_,31,924b22(00):べきと歎き悲しめば、上人も泪をながし給て、七日別 0000_,31,924b23(00):時の念仏を始め上人と律師と共に餓鬼のまはりを行道 0000_,31,924b24(00):し、念仏し給ふ。餓鬼もと一人のまはり給ふに随て、 0000_,31,924b25(00):四方にくるくるとまはる。別時五日に当時雨ふりけれ 0000_,31,924b26(00):ば、あの雨を受けて我れに与へよと餓鬼申しければ、 0000_,31,924b27(00):則ち雨を受て与ふ。此水を受けて天に指し上げて四句 0000_,31,924b28(00):の文を誦す。其の時の文に云、餓鬼退生善報現天 0000_,31,924b29(00):身、清浄化楽不退と云ひ畢りぬ。上人を守り奉て申す 0000_,31,924b30(00):様善知識者是れ大悲因緣とは承りし事は、只今上人に 0000_,31,924b31(00):値ひ奉らん、同の事にこそ思ひしり侍べる。我れ天に 0000_,31,924b32(00):生んと思志に仍て雨を願ふ也。雨は是れ天上の水なれ 0000_,31,924b33(00):ば其の小因也と云へり。其の時上人、汝が願ふ所の天 0000_,31,924b34(00):上尚を是れ五衰あり。されば彼の餓鬼人間にて有りし 0000_,31,925a01(00):時富貴なりしかども、只我子同く妻子計を大切に思ひ 0000_,31,925a02(00):他人の目を心に不恥、仁義礼智信をも不知、我が財 0000_,31,925a03(00):宝を惜しみ人の財をば多く慾がりて貪欲不道限なし。 0000_,31,925a04(00):足手を以て悪を作り、口にて罪を語る、其の科がに依 0000_,31,925a05(00):てのどの穴ふさがり、飲食せず。かやうの酬ひにて足 0000_,31,925a06(00):手なし。又、我が子の律師をは大切にし仏法をも不 0000_,31,925a07(00):聞、慳貪放逸なるに依て長楽寺の御堂の柱の本に餓鬼 0000_,31,925a08(00):と成て住みけり。縦ひ天上に生ずとも此の意を引き替 0000_,31,925a09(00):衆生を利益して慈悲の志ありて仏法を修行せずば速か 0000_,31,925a10(00):に出難生死頓証菩提ありて長楽を受て浄土に住すべか 0000_,31,925a11(00):らずと、御教化ありて上人松崎を御立ありて、其の日 0000_,31,925a12(00):は御船を二十の浦に付給ふ。俄かに風ふきさはぎ、村 0000_,31,925a13(00):雨降来つて程なく暗たりけるに、鬼四人参りたり。御 0000_,31,925a14(00):覧ずれば兵庫の嶋にて約束申したりし鬼神なり。上人 0000_,31,925a15(00):言く、是等は汝が申せし物共かと言ふ。老たる鬼二人 0000_,31,925a16(00):は是れ申し侍し我等が二親也。長生不死の良薬を与へ 0000_,31,925a17(00):給へと申せば、上人三尺五寸の立像の阿彌陀如来を懸 0000_,31,925b18(00):け奉り、鬼神等に言く、汝等あの仏を拝み奉り、汝等 0000_,31,925b19(00):が形は是即生即滅の資也。あの仏の御資は長遠不生の 0000_,31,925b20(00):果報也。皆皆心を静めて聞て信楽すべし。六道四生の 0000_,31,925b21(00):間二十五有の境には何物か死をまぬがる者の一人も可 0000_,31,925b22(00):有。資をそろしげなれども全く無常の殺鬼は恐べから 0000_,31,925b23(00):ず。己等がちからつよしと云とも魔滅獄卒には必ずす 0000_,31,925b24(00):ぐべし。日日に作る所の三途に沈むべき深重の罪業、 0000_,31,925b25(00):夜夜に思ふ所は八難に入るべき悪念なり。汝等過去に 0000_,31,925b26(00):仏道を修行したらば、今生にかかる鬼神の形を受けて 0000_,31,925b27(00):死苦をば歎かざらまし。命を長ふして親子に相そはん 0000_,31,925b28(00):と思はは、南無阿彌陀仏と唱へて、今生穢身を捨てつ 0000_,31,925b29(00):べし。此の身を捨てて終はりなば、阿彌陀如来観音勢 0000_,31,925b30(00):至無量の聖衆と共に来り、汝等を迎へ取り給ふて、極 0000_,31,925b31(00):楽に置給ふべし。彼の浄刹に生れて永く生死の根源を 0000_,31,925b32(00):断ち、六道に帰る事なく、至る所には無量の楽にほこ 0000_,31,925b33(00):り、更に憂悲あるべからずと勧め給へば、鬼神等聞申 0000_,31,925b34(00):さく、実に南無阿彌陀仏を唱へば、あの仏の御資に成 0000_,31,926a01(00):べきにて侍るかと申せば、上人実なり、全く疑ふ事な 0000_,31,926a02(00):かれと仰せ有ければ、鬼神等然らば我等に此法を授け 0000_,31,926a03(00):給へと申せば、可然とて上人御手を合せ十声南無阿 0000_,31,926a04(00):彌陀仏と授け給へり。又教て言く、汝が命のある程は 0000_,31,926a05(00):此の南無阿彌陀仏を忘るる事なく、常に唱ふべし。此 0000_,31,926a06(00):仏の御まゑにて可死とて、彼の本尊を与へ給ふ。鬼神 0000_,31,926a07(00):本尊を給て、上人を拝み奉て帰へる。角て其の日も暮 0000_,31,926a08(00):れにけり。明朝御船を出さんとす。上人言く、暫らく 0000_,31,926a09(00):船を不可出、存ずる旨あり。彼の鬼神等去りつる方 0000_,31,926a10(00):を常に見る、空に紫雲靉びきければ、此由を上人御覧 0000_,31,926a11(00):じて彼の紫雲の下を尋ねて舟を寄すべしと言ふ。御舟 0000_,31,926a12(00):を急に一里ばかり行て海岸に岩あり。数千丈そびゑた 0000_,31,926a13(00):り。御弟子を登らせて見給へば松の枝に本尊を懸奉り 0000_,31,926a14(00):花を取り石の上に置いて四人の鬼神等岩より身を投げ 0000_,31,926a15(00):たり。御舟を寄せて御覧ずれば、一人の老鬼は頭を打 0000_,31,926a16(00):くだきて死畢りぬ。一人の老鬼は腰より切て身躰二に 0000_,31,926a17(00):成れり。面面に身命を捨畢りぬ。然れども合掌は不 0000_,31,926b18(00):乱。上人彼等が死骸を御覧じて泪を流し是れ御覧ぜよ 0000_,31,926b19(00):や、人人昨日今日に至るまで人を食して罪を作る鬼な 0000_,31,926b20(00):れども、源空が一旦の教化に依て身命を捨て往生を遂 0000_,31,926b21(00):げつる事の哀れさよ。頓捨身命帰属彌陀とは聞け共、 0000_,31,926b22(00):我れ未だかほどの志じはなし。鬼神には劣れたる心哉 0000_,31,926b23(00):とて、御衣の袖もしぼる計り也。御弟子達も皆皆泪を 0000_,31,926b24(00):流し給けり。さて彼の鬼神共死骸を一所に取寄せて阿 0000_,31,926b25(00):波の国の目代の許へ御使あり。急ぎ参たりければ此由 0000_,31,926b26(00):を語り給へば、目代も随喜す。此所に一宇の御堂を立 0000_,31,926b27(00):て彼等が菩提を弔らばやと仰ければ、仰せに随て三間 0000_,31,926b28(00):四面の堂を建立して彼の寺を鬼骨寺と号し、三町の免 0000_,31,926b29(00):田を寄進せて今に彼の寺ありと云へり。次の日讃岐と 0000_,31,926b30(00):阿波との境に六連と云処有り、此浦を上人の御船過ぎ 0000_,31,926b31(00):させ給ければ、亦た立て島と云所あり。此の島の腰を 0000_,31,926b32(00):通はせ給ふ。角張の成阿彌陀仏を召して舟を此島に留 0000_,31,926b33(00):めよと仰せありければ、御舟を此の島に留む。成阿彌 0000_,31,926b34(00):陀仏を此の島へ登せて底のほど岩のかどを打て見よと 0000_,31,927a01(00):仰ありければ、則ち彼の所に至て石を取り岩かどを無 0000_,31,927a02(00):相違、打くだきたり。見るに石破れたるあと凹みて、 0000_,31,927a03(00):水一升ばかりあり。水の中に小虵あり。此れ御分の父 0000_,31,927a04(00):よ、請ぜよと云ふ。仰せに随ひて小虵に向て成阿彌陀 0000_,31,927a05(00):仏申しける。実に我父角張七郎殿にて御座すか。是れ 0000_,31,927a06(00):へ参り給へとて、衣の袖にはい入りぬ。又小虵の臥し 0000_,31,927a07(00):たる跡をみるに、石に銘あり。酬倒免田源顔氏成小 0000_,31,927a08(00):虵と云ふ文字也。干時成阿彌陀仏涙を流し、目もく 0000_,31,927a09(00):れぬ。されば仏陀寄進不帰本と云ふは此の理り也。我 0000_,31,927a10(00):れ幼稚五歳の時、父はやく死せしは是非を不知。今 0000_,31,927a11(00):始めて見れば纔なる小虵也。是れは何の罪の酬也けれ 0000_,31,927a12(00):ば五十余年の間、彼の岩の中に在けるこそ悲しけれと 0000_,31,927a13(00):て悲涙せり。則ち上人に遑を申て自是誓福寺へ帰つ 0000_,31,927a14(00):て食物を求めて小蛇に与ふ。日中は山へはなち、夜は 0000_,31,927a15(00):来りけり。其後に上人志度寺へ御参詣ありて阿波国の 0000_,31,927a16(00):目代の宿所に入らせ玉ふ。一七日御法門ありて後、誓 0000_,31,927a17(00):福寺へ御帰寺ありて成阿彌陀仏が舎弟の本へ此由を仰 0000_,31,927b18(00):ありければ、折節京都に有けるが、急ぎ小松の庄へ下 0000_,31,927b19(00):りぬ。角張の七郎太郎申様、少年にして父にをくれ候 0000_,31,927b20(00):間、是非を不知候。但し領内に旧寺の一宇候しに、 0000_,31,927b21(00):免田三町侍べるを取り上げ、下部の給分にせられたり 0000_,31,927b22(00):けると承はると申す。其の時上人此の事也。彼の蛇の 0000_,31,927b23(00):臥したる跡に酬倒免田と云ふ銘ありしはと言ひて、七 0000_,31,927b24(00):日の別時を始めて此の蛇に廻向し給へば、結願と同じ 0000_,31,927b25(00):く此の蛇死畢りぬ。上人の御法徳に仍て彼の蛇成仏す 0000_,31,927b26(00):と云云。さて上人御帰洛の瑞相の時節到来、承元三年 0000_,31,927b27(00):己卯六月八日に大猿八つ連れ比叡の山上に登りて根本中 0000_,31,927b28(00):堂の内陣十二燈を打消して、同じく太皷を打破り日吉 0000_,31,927b29(00):へ下りぬ。其れより以後日日に猿ども山上に乱入り悪 0000_,31,927b30(00):事を致し、惣持院の文殊楼を散散に打破る。猿山上に 0000_,31,927b31(00):登る事一倍せり。後には充満しておほし。山王大師の 0000_,31,927b32(00):御とがめありてぞかかる瑞相あるらん。各東坂本に下 0000_,31,927b33(00):べしとて大衆一味にして十禅師の社檀にて護法を渡し 0000_,31,927b34(00):奉る。童子を祈り付んとするに渡り給はず。西塔の東 0000_,31,928a01(00):谷成就坊の弟子金菊丸とて十一歳になる小児、下僧の 0000_,31,928a02(00):肩に乗りて見物しけるが、鳥の飛ぶが如くに来り、童 0000_,31,928a03(00):子を押しのけて如何計りさめざめと哭く。老僧護法渡 0000_,31,928a04(00):りたりと心得て、御神慮尋ね申せども御返事なし。暫 0000_,31,928a05(00):く有て此小児二首の歌連ねけり 0000_,31,928a06(00):をのがため何かあたごの山なれば 0000_,31,928a07(00):法然坊をながしけるぞや 0000_,31,928a08(00):ちはやぶる玉の簾を巻きあげて 0000_,31,928a09(00):彌陀の誓ひを聞かんとぞ思ふ 0000_,31,928a10(00):すべて別の事をば云はずして只だ此の歌を詠じてさめ 0000_,31,928a11(00):ざめと泪を流す。大衆申けるは、法然上人を山門の訴 0000_,31,928a12(00):訟に依て流したりし御気通ひにてこそ候らん。其の儀 0000_,31,928a13(00):ならば上人を帰洛せしむべしと申せば、其の時彼の童 0000_,31,928a14(00):子の云く、証真法持法印をば我が山に有れば太郎と思 0000_,31,928a15(00):ひ法然上人をば他所は有れば次郎と思て神慮憑もしく 0000_,31,928a16(00):て大乗の法施に明き充ちて思し食しつるに、汝等聊か 0000_,31,928a17(00):申するに依て遙かなる西海に流がし置ければ日日夜夜 0000_,31,928b18(00):に山海を越えて、彼の法然坊を守り、いか程心くるし 0000_,31,928b19(00):く思召とか思ふぞとて、さめざめと御落涙ありければ 0000_,31,928b20(00):衆徒等其恨みにて候はば急ぎ奏聞を経て上人を帰洛せ 0000_,31,928b21(00):しめ奉るべし。はやばや権現上り給へと申す。其の時 0000_,31,928b22(00):権現喜び給ひて上らせ給ふ。依て衆徒等時刻を不移、 0000_,31,928b23(00):唐崎に懸りて京入す。仙洞に惣参して上人流罪を留め 0000_,31,928b24(00):て召帰すべき由奏聞す。竜顔逆麟の禁を止めて召帰す 0000_,31,928b25(00):べき僉下せらる。その免状に云く、土佐国の流人早く 0000_,31,928b26(00):召帰すべき源の本彦の身の事、右件の元彦于時建永二 0000_,31,928b27(00):年二月廿七日に土佐国へ配流す。然るに所念の行有る 0000_,31,928b28(00):に依て召帰さる、宜しく衆徒等承知すべし、宣奉之状 0000_,31,928b29(00):如件 0000_,31,928b30(00):承元三年八月 日 左京太夫権守有光 0000_,31,928b31(00):其時上人讃岐の配所を出させ給ひて建暦元年十月二十 0000_,31,928b32(00):日に上人京都へ還帰し給へば、先の大僧正慈珍の御沙 0000_,31,928b33(00):汰として大谷の御坊に居住みされけると云云 0000_,31,928b34(00):下巻終