0000_,31,929a01(00):法然上人惠月影
0000_,31,929a02(00):漆間徳定作
0000_,31,929a03(00):第一徳守神社鳥居前の段
0000_,31,929a04(00):世に定まれる性もなく、相もなきに心から、善悪邪正
0000_,31,929a05(00):と分れいで、是非黒白と分れきて、蛇の飲む水毒とな
0000_,31,929a06(00):り、牛の飲む水薬と成り、たがひにせめぎ争ふは、実
0000_,31,929a07(00):に此の娑婆の習ひなり。爰美作苫田の郡津山の城下、
0000_,31,929a08(00):立つや煙も賑はしき、民の竈の数数を、守り給ひて鎮
0000_,31,929a09(00):座ます神の御徳の徳守神社、今日は目出度き秋祭り、
0000_,31,929a10(00):千秋楽の神事とて、競馬、武芸の仕合ひやら、催し物
0000_,31,929a11(00):の数多く、人出も多き鳥居前、伯耆守定明が、奴の権
0000_,31,929a12(00):六と鷲平ほろよひ機嫌の千鳥あし、いと横柄に帰り来
0000_,31,929a13(00):る。こちらは久米の押領使漆間時国が小性頭稲岡亀之
0000_,31,929a14(00):進、奴の太刀平と槍助を伴に引きつれ御殿の、今日参
0000_,31,929b15(00):拝の前ぶれ役、しづしづここに来かかりたり。権六わ
0000_,31,929b16(00):ざと酔ひとぼけ、どつとばかりに衝き当り、ヤイヤイ
0000_,31,929b17(00):ここな三ピン、眼玉はどうした、イヤサ此の権六様の
0000_,31,929b18(00):御通りが見えぬか、ヤイ人もあらふに伯耆守様の奴様
0000_,31,929b19(00):ぢや、ソウトモドモ此の鷲平様も同じ御家来、わりや
0000_,31,929b20(00):漆間家の三ピンぢやネイカイ。聞いて立腹こらへかね、
0000_,31,929b21(00):太刀平槍助進み出でコリヤコリヤ酔ひどれ、無礼はそち
0000_,31,929b22(00):らから仕かけおいてしかもまざまざしい無礼呼ばはり
0000_,31,929b23(00):もう手は見せぬぞと、身構へば、権六鷲平、空威張り
0000_,31,929b24(00):何んぢやぢや手は見せぬ、ソンナ弱虫の手は、見たく
0000_,31,929b25(00):もねい、同じ手なれば、伯耆守様の苦が手、時国の手
0000_,31,929b26(00):のうちみていもんぢや、いざ其の訳聞いておかんせ、
0000_,31,929b27(00):先づ、さきだつて伯耆守様が御赴任の、挨拶とて、そ
0000_,31,929b28(00):ちらの館へ、お越しの折り、時国は、無礼千万、面会
0000_,31,929b29(00):に暇とらし取扱ひも存外のしうち、これと申すも、お
0000_,31,929b30(00):のれが先祖の血筋自慢、人をも人とも思はぬ振舞ひ、
0000_,31,929b31(00):伯耆守様は、その時以来、いやはや、きつい、御立腹
0000_,31,930a01(00):深くも之れを意恨におぼしめし、折りさへあらばと、
0000_,31,930a02(00):ねらふて御座るは、主が主ゆゑ、家来までが、今のし
0000_,31,930a03(00):だら、さあ今日つた武芸仕合ひの、神事でござる。い
0000_,31,930a04(00):ざここにて高慢の鼻柱ひつくじいて呉れんずと、さあ
0000_,31,930a05(00):こい来たれと武者ぶるひ、平地に波を起したがる、喧
0000_,31,930a06(00):嘩好きの奴ども、主を威光に威たけ高、これ見よがし
0000_,31,930a07(00):の酔ひざまなり。こちらはもとより、腕達者、武術自
0000_,31,930a08(00):慢の太刀平は、もうたまりかね、刃に手、いやこいつ
0000_,31,930a09(00):がこいつが言はしておけ屋の底ぬけ阿呆、我君時国公
0000_,31,930a10(00):は勿体なくも仁明君、第十六の皇子、西三条右大臣源
0000_,31,930a11(00):の光公の御血統、伯耆守は堀川院の笛造り、長明が、
0000_,31,930a12(00):一子の定明、笛吹きほら吹き太鼓うつ、お太鼓持ちの
0000_,31,930a13(00):成り上り者とは、人が違ふ、家が違ふ、ああこりやこ
0000_,31,930a14(00):りや、太刀平、槍助、何んとした、軽卒な言ひ条、ひ
0000_,31,930a15(00):かゑかゑ、暴にかゆるに暴を以つてする、売り言葉に
0000_,31,930a16(00):買言葉、そりや皆小人の行ひ、ちとたしなめよ。いや
0000_,31,930a17(00):なに、其許たちは、伯耆守殿の御家来衆、某は漆間家
0000_,31,930b18(00):の小性頭、稲岡亀之進と申すもの、つい道の行手を急
0000_,31,930b19(00):ぎしため、思ひも寄らざる粗忽な致して御座る、今日
0000_,31,930b20(00):つた、神事の折りから、いざかいは神への無礼、まづ
0000_,31,930b21(00):まづ御勘辨な致されたしと、いと慇懃にしたてに出る
0000_,31,930b22(00):亀之進、弱音と猶もつけ入る悪党奴、顔色のみか底し
0000_,31,930b23(00):んまで、腹くろくろの本性顕はし、偖ては愈愈恐れ入
0000_,31,930b24(00):つて勘辨なして下されと申さつしやるか。いやもう長
0000_,31,930b25(00):いものには巻かれろ、強い者にはまけてかつのが上分
0000_,31,930b26(00):別、おうよしよし、それ程勘辨がしてほしくば、さあ
0000_,31,930b27(00):韓信のまたくぐり、おいらが此の股ぐら三べんくぐり
0000_,31,930b28(00):お尻をおがんでおじぎな致せと、無理難題。聞くや太
0000_,31,930b29(00):刀平たちまちに、烈火の憤り、うぬほざき居るよな、
0000_,31,930b30(00):言はして置けば附け上る、雑言過言もうもう我慢な致
0000_,31,930b31(00):されぬ、天に代つて誅伐せんと、太刀平太刀を引き抜
0000_,31,930b32(00):けば、槍助俄かに杖をやり、やりすごして衝きかかる
0000_,31,930b33(00):やあいよやあいよ抜きおつたな、いざいざと権六、鷲平、
0000_,31,930b34(00):刃をかざし、はや斬り結ぶ、丁丁発止、神前忽ち修羅
0000_,31,931a01(00):闘場。亀之進割つて入りやあやあ慮外なり、不届きな
0000_,31,931a02(00):り、神前をけがしては神への恐れ義光公へ相すまぬ。
0000_,31,931a03(00):いざいざ刃は引きおろふと、鉄扇執つてまたたく内、
0000_,31,931a04(00):両人刃を打ち落され、腰骨したたか打ちのめされ、跛
0000_,31,931a05(00):足引き引きあとをも見ずに、森の中へと逃げうせたり。
0000_,31,931a06(00):あとに三人顔見合はせ、まあ口ぼとにもない卑怯な奴
0000_,31,931a07(00):それに引換へ亀之進様の御手練手のうち、いやはや恐
0000_,31,931a08(00):れ入つてござりますと、太刀平、槍助刃をおさめ、亀
0000_,31,931a09(00):之進はしづしづと衣紋つくりてうやうやしく神殿さし
0000_,31,931a10(00):てまゐりゆく、つづいて奴も身をただし、おんともし
0000_,31,931a11(00):てぞ入りにける
0000_,31,931a12(00):第二 徳守神社武藝仕合の段
0000_,31,931a13(00):忍ぶ文字摺りもしりあひすり乱れたるみちのくを、弓
0000_,31,931a14(00):矢を以ておさめてし、鎮守府将軍八幡太郎義家卿、御
0000_,31,931a15(00):舎弟新羅三郎義光公遙ばるここに下向あり、近国諸国
0000_,31,931a16(00):の押領使、預り所の諸大名、徳守神社へめしよせ給ひ、
0000_,31,931b17(00):武芸仕合ひの仰せ事、いとおごそかに行ひける。正面
0000_,31,931b18(00):の大床は、源義光公左右に居並ぶ源家の武士、奇羅星
0000_,31,931b19(00):の如くひかひゐる。早や数番の勝敗ずみ、次の番組、
0000_,31,931b20(00):誰れなると、西と東の敵味方、かたずをのんで待ちに
0000_,31,931b21(00):待つ、最後の舞台ぞ晴れがまし、お附きの侍声はり上
0000_,31,931b22(00):げ、やあやあ伯耆守定明、君のおめし、早早是へと取
0000_,31,931b23(00):次ぐに、衣紋つくろひ立ち出でて、東の方へと座に附
0000_,31,931b24(00):きて、いと丁重に拝すれば、義光公は、それとみ給ひ
0000_,31,931b25(00):やよ定明、かねてより申出でたる其の方の願ひ、正に
0000_,31,931b26(00):聞届けたぞ、いで所望にまかせ。今日唯今、久米の押
0000_,31,931b27(00):領使漆間時国との立合確かと申附くる。又時国へ内意
0000_,31,931b28(00):を伝へし処、彼はたつての辞退、しかし予が切なる所
0000_,31,931b29(00):望に従ひ遂に承諾な致したる段神妙の至り勝敗は唯時
0000_,31,931b30(00):の運、あとに意趣ばし残さぬやう。武士の心事は光風
0000_,31,931b31(00):霽月、よつく心得たるか。はつはあ畏まり奉る、我君
0000_,31,931b32(00):には武道ばかりか音律の道にては笙の御名人恐れなが
0000_,31,931b33(00):ら某しが父長明事も笛造り堀川院の御寵愛蒙る身に依
0000_,31,932a01(00):て、某もいささか、此の道に趣味を懐き候が、時国な
0000_,31,932a02(00):どは田舎生れ、かかる優美の道をば、露存じ申さず、
0000_,31,932a03(00):唯唯武骨一点張り、すりや彼れは、達人、所詮は某が
0000_,31,932a04(00):あひ手と相成ることは、竜車に向ふとうろうの企て、
0000_,31,932a05(00):さりながら神慮と我君とを慰め奉らん。某が所存、何
0000_,31,932a06(00):卒しかるべく御さつしのほど、ねがひたてまつると。
0000_,31,932a07(00):うはべをかざるしたごころいろにみせねど針をもつ、
0000_,31,932a08(00):鬼あざみ草あざむきて、素しらぬ顔ぞにくにくし。義
0000_,31,932a09(00):光公はそれともしらず、ほほを成程成程、其方ことは
0000_,31,932a10(00):横笛の名人とはかねてきき及ぶ。然るに今日つた武芸
0000_,31,932a11(00):の仕合ひさすがは、滝ロ感心な至り、武道にかけても
0000_,31,932a12(00):定めし心得深からんいやなに今日の番組中此のとりく
0000_,31,932a13(00):みこそ大関と大関とのたちあひ、予も至極満足に存じ
0000_,31,932a14(00):をるぞ。イザ時国をめし出だせと、下知し給へば、お
0000_,31,932a15(00):附の侍ヤアヤア其れに控えし久米の押領使、いざいざ
0000_,31,932a16(00):これへと呼び出だせば、かねて期したる時国は、いと
0000_,31,932a17(00):勇ましく威儀ととのへ歩みいでくるあしもとに、すき
0000_,31,932b18(00):をも見せぬ天晴れ武者振り一際目立ちて見えにける。
0000_,31,932b19(00):時国遙か下手にざし、これはこれは我君には遠路の御下
0000_,31,932b20(00):向といひ、荘園のおとりしらべと云ひ、しかも御健勝
0000_,31,932b21(00):の態を拝し祝着至極に存じ奉る。今日タ武芸仕合ひの
0000_,31,932b22(00):御催し御照覧恐れ入り奉ると挨拶あれば、義光公、こ
0000_,31,932b23(00):れは聞き及ぶ時国、智仁勇かね備ふとの噂も高し、天
0000_,31,932b24(00):晴れ名将今日タ伯耆守より仕合取組の一条、実にも竜
0000_,31,932b25(00):虎の取組諸国諸大名たちも、みな陪観な待兼ねある、
0000_,31,932b26(00):いざ早早立合ひてよかろうと、鶴の一声美事なり。東
0000_,31,932b27(00):は定明西時国今ぞ竜虎は嘘ぶきて岩根に靠れるさまな
0000_,31,932b28(00):りき。定明きつと時国に向ひ、やあやあ目づらしや、
0000_,31,932b29(00):漆間時国日頃の恨みいやさ日頃もよいうるはしの出で
0000_,31,932b30(00):たち貴殿と某との一騎打ち実に千載の一遇いざいざと
0000_,31,932b31(00):詰めよれば、時国はいとおちつきて目礼しこれはこれは
0000_,31,932b32(00):定明殿こたびのとりくみ、貴殿ナ所望コリヤコレ落花
0000_,31,932b33(00):の情に流水の情、御前仕合ひは晴れの勝負武道のほま
0000_,31,932b34(00):れ、イザイザ時国すばやくとつておさへ、やあやあ定
0000_,31,933a01(00):明卑怯なる此の木剣、中味にかくす真剣な、如何にツ
0000_,31,933a02(00):と図星をさされて唯ウロウロ。サアソレハサアコレハ
0000_,31,933a03(00):ツと争ふうち、義光公が下知のもと近侍の侍右左り、
0000_,31,933a04(00):木剣執り下げ吟味の役、ヤヤヤツアコハコレ表面は木
0000_,31,933a05(00):剣中味は真剣、思へば仕合に事よせて、意恨を果たさ
0000_,31,933a06(00):ん真剣勝負、さては定明には時国に対し何がな意恨ば
0000_,31,933a07(00):しあるよとおぼゑたりと、言上すれば、義光公ソハ又
0000_,31,933a08(00):存外の痴者悪くきしうちヤアヤア定明其方には詮義の
0000_,31,933a09(00):筯あり。者どもソレツ引ツたてと、おん下知に詮方な
0000_,31,933a10(00):くなく定明はしをしをとして引かれゆく、後には義光
0000_,31,933a11(00):公おんこゑほがらかに、ヤァヤァ時国唯今の武術、い
0000_,31,933a12(00):かにも天晴れ晴れ、これは当座の恩賞なり。いざいざ
0000_,31,933a13(00):これをとらするぞと、黄金造りの御佩刀、ひとふりと
0000_,31,933a14(00):つて授け玉ふ。時国これを推し戴き、コレハコレハ身に
0000_,31,933a15(00):余る過分の御恩賞、某が家門のほまれかたじけなう存
0000_,31,933a16(00):じ奉ると、しとやかに一礼する、ホーホーサテサテ都
0000_,31,933a17(00):へ帰へりなば、兄義家にも言上を致すべしと、おん声
0000_,31,933b18(00):残し、しづじづとおん座を立てば諸大名、続いて、諸
0000_,31,933b19(00):武士も従ふて奥殿深く入りにける。おあと見送り時国
0000_,31,933b20(00):は、御殿を下りしづしづと、館をさして立ち帰る。不
0000_,31,933b21(00):興を蒙る定明は、深くたくみし計、不覚にも見破られ
0000_,31,933b22(00):無念残念くちおしやと、一間をそつと忍び足、殿此処
0000_,31,933b23(00):に御座りましたか、折角企みの偽木剣、彼の時国に一
0000_,31,933b24(00):泡ふかすることもならず、肝腎の途中で露見とは、テ
0000_,31,933b25(00):モマアよくよく不運なわが殿様、某歯がゆふてふて成
0000_,31,933b26(00):り申さぬ。もう此の上は一刻の、猶予はなりませぬ。
0000_,31,933b27(00):サアサアよい工夫がありそうなものと、忠義顔してす
0000_,31,933b28(00):すむれば、定明どつかと膝組み直し、ヲ、ヲ、よい処
0000_,31,933b29(00):へ権藤治、予も先程から思案に呉れたが、ササ耳をか
0000_,31,933b30(00):せかせハツハツハツア、ソレ其の手立とイツパと耳に
0000_,31,933b31(00):くちあてひそひそ話。権藤治、俄かに勇み立ちヲヲヲ
0000_,31,933b32(00):それなら来年の保延七年三月ごろ時国が家来他行の不
0000_,31,933b33(00):在の折り、不意の夜討のひといくさ。シツシツシツイ
0000_,31,933b34(00):声が高い高い高いと、主従が根深かきたくみの悪魔の
0000_,31,934a01(00):ささやき知らぬが仏。仏にも似たる心の善人は善を行
0000_,31,934a02(00):じて、明より明かき道にぞ入るさの月、月に群雲、世
0000_,31,934a03(00):はとかく花にあらしのためしをば、しめし易すきぞ、
0000_,31,934a04(00):是非もなき
0000_,31,934a05(00):第三夜討の段
0000_,31,934a06(00):月は満ちても十六夜や、早や欠けかかる始めとや、花
0000_,31,934a07(00):は咲きても一盛り、早や散りそむる習ひあり。况して
0000_,31,934a08(00):や月にはそねみの雲、花にはねたみの風あれば、世を
0000_,31,934a09(00):鶯も此の里を安からざりと啼くならん。其の鶯も夜は
0000_,31,934a10(00):更けて、塒に夢を結ぶ頃、堀の水さへも静やかな丑満
0000_,31,934a11(00):ねむるおぼろ月、ばらばら散り来る桜花、心短かき春
0000_,31,934a12(00):風の誘ふは何の知らせぞや。今泰平の御代なるに、こ
0000_,31,934a13(00):は何事ぞ鎧武者、其数百騎に徒士侍、あまた随へひそ
0000_,31,934a14(00):ひそと、先に進みし総大将、馬上ゆたかに銀鍬形、五
0000_,31,934a15(00):枚錣の兜を着し草摺の音鏘鏘として勇ましく厳物造り
0000_,31,934a16(00):の太刀打ちそらす。弓削の荒武者定明、きつと後ろを
0000_,31,934b17(00):振り返りヤアヤア者共、十歳此の方、恨みの刄、ねた
0000_,31,934b18(00):みの劔を磨きつつ時節を待つて、今日只今忍ぶ文字摺
0000_,31,934b19(00):り草摺りの音、忍ばせし今宵の夜討、目指すは久米の
0000_,31,934b20(00):押領使、漆間の時国只一人、女童に目なかけそ。特に
0000_,31,934b21(00):今宵は彼れが家来、名のある武士は他行して城はがら
0000_,31,934b22(00):明き、流石の時国彼がそつと首討ち落し功名手柄をあ
0000_,31,934b23(00):らはせよ、手柄によつて恩賞取らせん。さは去りなが
0000_,31,934b24(00):ら時国は劔を持つては鬼神同然、実に一騎当千とは彼
0000_,31,934b25(00):れが伎掚、不勢なりとて油断はならじ、又小童ながら
0000_,31,934b26(00):も勢至丸、天性比凡の気質と武芸、尚更以つてあなど
0000_,31,934b27(00):り難し、多勢をたのんで不覚を取るなよ。ハツハハア、
0000_,31,934b28(00):畏まり奉る、兼て用意の繩梯子、掛け矢の大槌打振ひ
0000_,31,934b29(00):金城鉄壁も只一ト撃ち、ヲヲ勇ましい勇ましい。爰は名に
0000_,31,934b30(00):負ふ落合ひ橋、彼が生首落合橋早や城門へは程近し、
0000_,31,934b31(00):者どもかかれと下知すれば、矢竹にはやる若殿原、我
0000_,31,934b32(00):れこそ先駈け一番槍と、繩梯子掛けて飛び込んだり。
0000_,31,934b33(00):中より城門さつと明け、人馬諸共押し寄せて、閧の声
0000_,31,935a01(00):をぞ揚げたりける。只事ならぬ物音に、夢破られし時
0000_,31,935a02(00):国公、褥を蹶つて起き上り、大太刀おつとり声を上げ
0000_,31,935a03(00):ャアャァ宿直の者は居らざるか。コレコレ秦氏、勢至
0000_,31,935a04(00):丸、心得ぬアノ物音、夜中と云ひ騒がしきは、必定夜
0000_,31,935a05(00):討と覚ゑたり。勢至丸にも弓矢と劔、奥も薙刀おつ取
0000_,31,935a06(00):り、先づ先づ此所を落ち延びよ。詞せわしく云ひ放ち
0000_,31,935a07(00):あなたの方には泣き叫ぶ、腰元共や端女の、声を後ろ
0000_,31,935a08(00):に、大床へ走り出でて見給へば、早や宿直の侍数十人
0000_,31,935a09(00):切先き揃へて渡り合ひ、朱に染みたる死物狂ひ、され
0000_,31,935a10(00):ども敵は鎧武者味方は不意をおそはれて、裸寝巻の悲
0000_,31,935a11(00):しさは、いつしか薄手や深手を受け、庭は忽ち血汐の
0000_,31,935a12(00):海、屍は山の如くにて、追ひつ追はれつ火花をちらし
0000_,31,935a13(00):万字巴と入り乱れ、斬り結びたる物凄き、修羅の街を
0000_,31,935a14(00):松明の、焔に照らす有様に、流石豪気の時国公、瞬く
0000_,31,935a15(00):内に数十騎斬つてつて切りまくり、其身も数ヶ所の痛
0000_,31,935a16(00):手を負ひ、唐紅ひの血汐の紅葉、古木を小楯に三人の
0000_,31,935a17(00):敵を左右と前に受け、渡り合ひてぞ見へけるが、音に
0000_,31,935b18(00):聞ゑし達人とて、近よる者もあらざれば、しばし時を
0000_,31,935b19(00):ぞ移しける。睨らみ合ひ、如何なる隙間や見出しけん
0000_,31,935b20(00):先に進みし強敵は長巻の柄を返し、颯と一振り時国の
0000_,31,935b21(00):足をば払ひし電光石火、されども飛鳥と身をおどらし
0000_,31,935b22(00):よろめく敵の肩先より、真ツこう割り斬り、左から斬
0000_,31,935b23(00):り込む太刀先を、危ぶく開いて車切り、モウ叶わじと
0000_,31,935b24(00):遁げ出す。やらじと後ろより袈裟掛けに斬り捨て給ふ
0000_,31,935b25(00):早業の、秘術に怯け遠巻きに唯ヱイヱイと声ばかり、
0000_,31,935b26(00):近寄る者もなかりける。かかる不覚の有様をはるかこ
0000_,31,935b27(00):なたの物蔭より、定明きつと伺ひ見て、イデ未練至極
0000_,31,935b28(00):の味方の奴原、イデ物見せんといふより早く、弓に矢
0000_,31,935b29(00):つがへ引絞り、一矢に射貫きくれんずと、身構へして
0000_,31,935b30(00):ぞまちゐたる、神ならぬ身の時国は、かかる事とは露
0000_,31,935b31(00):知らず。刀を杖にヨロヨロと気息も絶ゑだゑ絶え入る
0000_,31,935b32(00):ばかり、暫しいこへる有様に御運の程こそ危ふけれ。
0000_,31,935b33(00):こなたの屏風に身をしのぶ、母もろともに勢至丸、気
0000_,31,935b34(00):をつめてぞ居たりしが、既に危ぶき父が身の上、小弓
0000_,31,936a01(00):に矢つがへ一心不乱、弓矢八幡御神と、心に念じ満月
0000_,31,936a02(00):の如くに締つてねらひを定め切つて放せば誤またず、
0000_,31,936a03(00):敵の大将定明が、兜のひさし射削つて、はつしと立ち
0000_,31,936a04(00):たる急所のいたで、流石の定明まなこもくらみ、こは
0000_,31,936a05(00):叶はじと勇気もくぢけ、門前さして逃げうせたり。ヤ
0000_,31,936a06(00):アヤアきたなしきたなし斯くまで夜討をかけながら、後を
0000_,31,936a07(00):見せる卑怯のふるまい返せ戻せと味方の軍卒、のがさ
0000_,31,936a08(00):じものと追ふて行く
0000_,31,936a09(00):第四 時國遣言の段
0000_,31,936a10(00):月にそねみの雲あれば、花にも妬の雨ぞ降る。保延七
0000_,31,936a11(00):年彌生の半ば、長閑けき春の花鳥の夢も破れて今日は
0000_,31,936a12(00):早やタベの嵐のしのばるる、美作は久米の郡稲岡の庄
0000_,31,936a13(00):といふ押領使なる漆間の御舘夜の宿直の腰元衆、あま
0000_,31,936a14(00):たつどいてひそひそ話し、思ひ出すさへ恐ろしい。夕
0000_,31,936a15(00):ベの夜討お殿様や御台様、和子様までがいたいたしい
0000_,31,936a16(00):夕ベからのお悲しみ、思ひ奉ればのふ梅ケ枝殿、オオ
0000_,31,936b17(00):そふともとも松の戸様の仰しやる通り、夕ベの夜討の
0000_,31,936b18(00):大将は、につくき弓削のあばれ武者、伯耆守定明が、
0000_,31,936b19(00):日頃恨みの卑怯な夜討、鎧兜の騎馬武者が百騎ばかり
0000_,31,936b20(00):是れに従ふ徒士侍、松明獲物とりどりに、先を争ひ門
0000_,31,936b21(00):打破り、一度にどうと鯨波、イヤモウ私しや夢に夢見
0000_,31,936b22(00):た心地して修羅の街を始めて見た、心もうわの空とな
0000_,31,936b23(00):り、唯もう腰が抜け雀、忠義のちうの声さへ出ず、早
0000_,31,936b24(00):ふ逃げたい逃げたいと、足は立田の気は紅葉、顔の色
0000_,31,936b25(00):こそ青紅葉、命もちらんばかりなりホンに恐ろしい事
0000_,31,936b26(00):でござんしたわいなア。シタガ申し松の戸様へ此の桜
0000_,31,936b27(00):木が弟亀之進から聞きますれば、当家の御嫡男勢至丸
0000_,31,936b28(00):様は勿体なくも仁明天皇の御血筯御年やふやふ九ツの
0000_,31,936b29(00):小松の枝の細腕ながら、小弓おつとり物蔭より、父の
0000_,31,936b30(00):敵憎つくき奴と、敵の大将定明が、片目をめがけては
0000_,31,936b31(00):つしと射る、不思議や征矢は誤またず、美事に敵の右
0000_,31,936b32(00):の目を、のぶかに射立てたりければ、さすが剛気の定
0000_,31,936b33(00):明も片目川にて其目を洗ひ、浮足立て逃げ失せたとの
0000_,31,937a01(00):物語り、何とマア勇ましいお手柄ではござんせぬかヘ
0000_,31,937a02(00):オ、桜木様の仰しやる通り、栴檀は二葉よりもかんば
0000_,31,937a03(00):しくとやら、イヤもう恐れ入つたる和子様の御勇気、
0000_,31,937a04(00):悲しい中にも一同の悦びさこそとすいし候と話し合ふ
0000_,31,937a05(00):其の折からア、コリヤコリヤ腰元共声高い静かに致せ。
0000_,31,937a06(00):只今殿の御召しにより御台若君諸共今にお通りなさる
0000_,31,937a07(00):チトたしなんだがよからうと小性頭の稲岡亀之進びん
0000_,31,937a08(00):もほつれて愁ひ顔、尾羽打枯れねど淋しき風情、枯木
0000_,31,937a09(00):の如く立ちされば、程もあらせずしづしづと和子の御
0000_,31,937a10(00):手を御台所、涙ながらの目を拭ぐひ、御守り役の栃之
0000_,31,937a11(00):助、乳母のおこそ、めし連れて通らせ給ふ長廊下、そ
0000_,31,937a12(00):れと見るより腰元ども、みなひれ伏して咽び泣く。隔
0000_,31,937a13(00):つこなたに父時国、恨み深手のかしらのきづ、太刀風
0000_,31,937a14(00):はげしき其の名残り、つつむにあまる其の風情、苦し
0000_,31,937a15(00):き息を胸息に、もたれ給ひし有様を、一ト目見るより
0000_,31,937a16(00):若君御台、ノウ悲しやと走りより、御いたわしの此の
0000_,31,937a17(00):深手、其のお姿は何事ぞ、お心たしかに持つてたべ、
0000_,31,937b18(00):我が夫のふと取り縋り、歎き給ふぞ道理なり。勢至丸
0000_,31,937b19(00):涙ながら申父上お心慥かにお持ち下さりませ。大将定
0000_,31,937b20(00):明は射とめましてござりますと、聞くより時国、なに
0000_,31,937b21(00):そちが定明をうちとめしとな、ホーウ、天晴れ出かし
0000_,31,937b22(00):た手柄者ぢやと苦痛を忘れ、笑みの眉。慥かに射止め
0000_,31,937b23(00):ました右の目、さは去り乍ら定明は、卑怯にも後を見
0000_,31,937b24(00):せて逃げ失せたり、とどめも刺さず取逃がせしは、こ
0000_,31,937b25(00):れぞ一期の不覚やと、無念涙の物語り、ア、コレ勢至
0000_,31,937b26(00):丸武士の子と生れては不倶戴天の父の仇、一念こつて
0000_,31,937b27(00):はふくしうの、心掛武門のならひ、武士の意地尤も至
0000_,31,937b28(00):極、が然しこの父が心根は其れにも勝る誠の仏道、教
0000_,31,937b29(00):へのまにまに任せん心、コレ勢至丸心を静めて今端の
0000_,31,937b30(00):遺言、小耳の底へ聞き入れて、夢にも忘れてはならぬ
0000_,31,937b31(00):ぞよ。秦氏とてもその通り、予が遺言は誠の道、さと
0000_,31,937b32(00):りの上より出たる教へ、予が亡き跡は父と母二人を兼
0000_,31,937b33(00):ねたる一人の親、愛におぼれず情にほだされず、獅子
0000_,31,937b34(00):が我が子を育つる如く、情のなきが情ぞと心まつとう
0000_,31,938a01(00):育つべし。扨て勢至丸、会稽の耻を思ひて敵き定明を
0000_,31,938a02(00):恨みばししたもふなよ。ア、思へば思へば過ぎし世に此
0000_,31,938a03(00):の時国が恨みより、彼を殺した罪科の其の糸車は今爰
0000_,31,938a04(00):に我と自が引寄せしは、是れ此の仇に違ひなし。恨み
0000_,31,938a05(00):に報ゆるに恨みを以つて重さねなば、恨らみの種こそ
0000_,31,938a06(00):つきぬ道理、恨まざるを以つて恨みをほろぼす真事の
0000_,31,938a07(00):道、仏の御心の大慈大悲、これやこれ時国が年頃日頃
0000_,31,938a08(00):学びたる、仏の道の御賜。汝これより出家を遂げ、父
0000_,31,938a09(00):の菩提をとむらひて、母にも出離の道教しへ、汝も早
0000_,31,938a10(00):く世の争を遁るべし。未来は親子諸共に清き蓮の上に
0000_,31,938a11(00):して、真如の月をながめばやと、いとなんごろに言ひ
0000_,31,938a12(00):ければ、勢至丸は手をつかへ、敵を討たぬは残念には
0000_,31,938a13(00):候へ共、父の仰せに随ひ、もふ恨みは持つまい、今か
0000_,31,938a14(00):ら仏の道に入り、能く能く教へを守りますと、手を合
0000_,31,938a15(00):したるいぢらしさ、後にぞ法然上人と世にも尊き名僧
0000_,31,938a16(00):は此の幼子の御事なり。ヲ、其の一ト言を聞く上は、
0000_,31,938a17(00):此の世に心残りなし、ア、モウ是れまでぞや、イザイ
0000_,31,938b18(00):ザと引寄せて、これが此世の別れかと手を取り交はす
0000_,31,938b19(00):名残りの涙、西に向つて合掌し、次第次第に絶へにけ
0000_,31,938b20(00):り。ノウ悲しやと秦氏は、夫トの死骸に抱き付き、も
0000_,31,938b21(00):だへむせびて泣き居たる。漸う涙押沈め、ア、思ひ廻
0000_,31,938b22(00):はせば自は未だ振袖の花乙女、身は錦ごりの宮近く、
0000_,31,938b23(00):仕へし頃よりおもわれて、思ふ中とはなるこの引板、
0000_,31,938b24(00):引けば引かるる心の綱、ただ一トすじにかしづいて、
0000_,31,938b25(00):二人が中に漸とおい立出でし此の小松、末のみどりも
0000_,31,938b26(00):見ぬ内に、かれ行くけふの男松、一人残りし此の女松
0000_,31,938b27(00):枝もほそほそ日を送る、今日より後の自らは鴛鴦のつ
0000_,31,938b28(00):がひの放れし如く、泣くより外はなかりけり。今より
0000_,31,938b29(00):心政めて、おつとの遺言仏法の道を、守るも貞女のみ
0000_,31,938b30(00):ち、南無阿彌陀仏と諸共に、唱ふる経も菩提のため、
0000_,31,938b31(00):実に有り難き念仏の道ぞ広広知られたり
0000_,31,938b32(00):第五 漆間家門外の段
0000_,31,938b33(00):何を恨みの滝の糸、結すぼれとけぬ思ひより、弓削の
0000_,31,939a01(00):荒武者伯耆守夜討をかけし保延七年、其の光陰に関守
0000_,31,939a02(00):なく、流れ流れていつしかと、月日はめぐりて久安三
0000_,31,939a03(00):年肌まだ寒き如月や残んの雪の白梅に鶯さへもまだし
0000_,31,939a04(00):らぬ濃染の梅にたちまじり、匂ふ、景色を美作や、久
0000_,31,939a05(00):米の郡の押領使漆間の城門いかめしく見越しの松の枝
0000_,31,939a06(00):の下、掃除役の奴共槍助、太刀平、弓八てんでに箒と
0000_,31,939a07(00):塵取持ちいそいそとして掃き清よむ。槍助俄に立どま
0000_,31,939a08(00):り、やア太刀平や斯う御掃除が美事に出来ても御殿様
0000_,31,939a09(00):が此の世に御座らぬゆゑトント精も根もつきて働き甲
0000_,31,939a10(00):斐がないではないかい。イヤわればつかりじやないて
0000_,31,939a11(00):此の太刀平始め、下部一同が寄るとさわると昔話、七
0000_,31,939a12(00):年以前に御殿時国様伯耆守定明が卑怯な夜討に敢えな
0000_,31,939a13(00):くおなり遊ばされ、御殿の内は涙の雨、わけておいた
0000_,31,939a14(00):わしいは御台秦氏様、御殿様の御遺言とやらで和子勢
0000_,31,939a15(00):至丸様は高円の菩提寺で仏道御修行、血すじの親子で
0000_,31,939a16(00):さへ離ればなれおりやモウ胸が一杯でたまらぬたまらぬと
0000_,31,939a17(00):髪男、男泣きする太刀平の太刀も心も冴ゑ冴ゑで錆び
0000_,31,939b18(00):れぬ中味の如くなり、弓八箒を尻にしき、コココレあ
0000_,31,939b19(00):にきの槍助に太刀平よ、一体全体此の弓八様はトント
0000_,31,939b20(00):お殿様の御心中が合点ゆかぬ。押領使ともあらふ時国
0000_,31,939b21(00):様又ツタ夜討の夜の勢至丸様小弓をもつて定明の片目
0000_,31,939b22(00):を射給ふたほどの御勇気のアノ和子様、なぜ父君には
0000_,31,939b23(00):敵討の仰せがなかつたのであらふ、なぜ和子様にはか
0000_,31,939b24(00):たき討を思ひ立ち給はなかつたのであらふ。武家の御
0000_,31,939b25(00):家でありながら、武家らしくもない山寺ずまひ、此の
0000_,31,939b26(00):弓八は憚りながら武骨一点張り夜討の時も真裸かにて
0000_,31,939b27(00):敵を斬りふせる武辺者じや、おりや歯がゆふて成らぬ
0000_,31,939b28(00):イヤイイヤ尤も尤も貴様が言ふからおいらも云ふが武
0000_,31,939b29(00):家には武家の意地、武士には武士のたましひがある筈
0000_,31,939b30(00):智仁勇兼ね備へ給ふ時国様流石にアノ夜の立派な御働
0000_,31,939b31(00):き、寄せ来る敵をまたたくうち、数十騎斬つて捨てら
0000_,31,939b32(00):れたアノ御手練と御勇気、剛勇無敵の定明もあしらひ
0000_,31,939b33(00):かねたる戦の懸引、実にも源家嫡嫡の御血すじほどあ
0000_,31,939b34(00):るとて皆皆感服致したのに、いざ御臨終の御時に忽
0000_,31,940a01(00):ち心一転して、御勇気もいづくへやら、いつしかやさ
0000_,31,940a02(00):しくお成り遊ばされて、勢至丸様へは敵討をさしとど
0000_,31,940a03(00):め、出家して菩提の道を踏めよとの御遺言、ア、想へ
0000_,31,940a04(00):ばお慈悲もかう通り過ぎては智恵も欠け勇気もうせて
0000_,31,940a05(00):武士らしくもない成されかた、下郎の身分でさヘチト
0000_,31,940a06(00):御諫が致したい位であるわいヤイと。さすがは武家の
0000_,31,940a07(00):奴とて皆勇ましき心がけ、手に持手拭豆絞り涙しぼり
0000_,31,940a08(00):て恨み泣く。折から立聞く小性頭稲岡亀之進ツカツカ
0000_,31,940a09(00):と進み出でコリヤコリヤ奴共、上を憚からぬ御噂話余り
0000_,31,940a10(00):と云へば粗骨な振舞ひ、チトたしなんだがよからふと
0000_,31,940a11(00):いとおだやかにしかるにぞ、ネイネイネイ、恐れ入て
0000_,31,940a12(00):ぞ奴ども、わが部屋部屋に立帰る。あとにはひとり亀
0000_,31,940a13(00):之進ア、光陰矢のごとし、先君時国公のハヤ七回忌、
0000_,31,940a14(00):わが父栃之介行実も和子様の御行くすゑをのみ、おあ
0000_,31,940a15(00):んじ申して御座る、イザ登城な致して御機嫌な伺ひ奉
0000_,31,940a16(00):らんと、威儀つくろひて亀之進城内さして急ぎ行く、
0000_,31,940a17(00):実に心ある時国の家来は流石推しなべて、皆忠節の人
0000_,31,940b18(00):揃ひ、月の桂も折るばかり、家の風をば吹かすべき、
0000_,31,940b19(00):けはひに満つるぞ勇ましき
0000_,31,940b20(00):第六 秦氏愛別の段 (上の巻)
0000_,31,940b21(00):水はみそらに登らねど、月は陸には下らねど、水を結
0000_,31,940b22(00):めば其手には、月さはやかに来りすむ。寝た間も忘れ
0000_,31,940b23(00):ぬ、心と心、互ひの胸に通ふより、あふと見る、夜や
0000_,31,940b24(00):逢と見る、さすが親子は、血筯の緣、錦たれたる几帳
0000_,31,940b25(00):のそば、乳人おこそはすり寄つて、申、御台様、御台
0000_,31,940b26(00):様、是はしたり、お夢でも御覧じましたか、先程から
0000_,31,940b27(00):きつううなされてお出遊ばす、申、御台様こそでござ
0000_,31,940b28(00):ります、申申と、ゆり起されて秦氏は、漸御目をさま
0000_,31,940b29(00):し給ひ。コレハ乳母かいの、自らとした事が、今宵も
0000_,31,940b30(00):同じ和子の夢、ゆめじをたどる、自が便りすくない心
0000_,31,940b31(00):根を、不便とすひしたもいのと、歎き給へば、お道理
0000_,31,940b32(00):と、乳母もそでをぞ、おふひなき那伎山颪さそはねど
0000_,31,940b33(00):寒気いや増す高貴山、さも物すごき風情なり。名こそ
0000_,31,941a01(00):豊並村とてもなみなみならぬ高円の菩提寺に、勢至丸
0000_,31,941a02(00):指折り見ればモウ七歳、今年は丁度十五の春ほんに左
0000_,31,941a03(00):様でござります。若君様が十ヲのお年、父君様の一周
0000_,31,941a04(00):忌に山よりお帰り遊ばしたは、ツイ此程と存じまする
0000_,31,941a05(00):に、今年は早七回忌、三月の御命日には是非お帰り遊
0000_,31,941a06(00):ばしませふ、それ斗りを、お待申ておりまする。イヤ
0000_,31,941a07(00):イヤ観覚得業はのふ、随分とゑいまい豪気の御出家、
0000_,31,941a08(00):すこしのひまさへ、おしませ給ひて、学問の修行にい
0000_,31,941a09(00):そしみ給ふ心がけ、何のマア其様に、あまやかし早ふ
0000_,31,941a10(00):つれて帰らふぞいのふ。成程伯父君とは申ながら師匠
0000_,31,941a11(00):と弟子との御契り、あまい斗りが、情ではござりませ
0000_,31,941a12(00):ぬ。先達ても、若君が生木をお切なされた迚それはそ
0000_,31,941a13(00):れはきつい御折檻との噂、草木国土悉皆成仏のいわれ
0000_,31,941a14(00):より、草木と云へども、生ある物、むざむざと、命を
0000_,31,941a15(00):取は罪と成との御教へ、それに付ても若君樣、なみな
0000_,31,941a16(00):らぬ御苦労と、思へばわたしや、御いたはしう存じま
0000_,31,941a17(00):する。サレバイノ、其時観覚得業は、天竺で名高い草
0000_,31,941b18(00):繫比丘の物語りを、おつしやつたとの事、折に逢、時
0000_,31,941b19(00):にふれてのおしへ方、当意即妙のお悟しぶり、智識の
0000_,31,941b20(00):扉を、ひらかする鍵でがな有ぞいのふと、主従たがひ
0000_,31,941b21(00):に、若君の噂とりどり、水入ず、主をば思ふ忠義のお
0000_,31,941b22(00):こそ、うみのたらちね親心呼べば答へん山彦の、声ひ
0000_,31,941b23(00):くけれど、主と子を、思ふ心の琴の音は、はるかに高
0000_,31,941b24(00):き高円の、山の奥にぞひびくらん、御殿の奥の、長廊
0000_,31,941b25(00):下、たれやら案内こし元が、一間隔て手をつかへ、只
0000_,31,941b26(00):今、若君樣、伯父君様おかへりでござりますと思ひが
0000_,31,941b27(00):けなき取つぎを、聞よりはつと飛立斗り、乳母も嬉し
0000_,31,941b28(00):く、倶倶に、いそいそとして出迎ひ給ふ。師匠の影も
0000_,31,941b29(00):踏ざる礼儀、七尺下り、師の坊の跡にしづしづ打とを
0000_,31,941b30(00):る。ヲヲコレハコレハ観覚坊和子もお供を仕やつたか、
0000_,31,941b31(00):扨マア立派な成人ぶり、サアサアこちへと、主従が、
0000_,31,941b32(00):手を執るばかりのもてなしなり。師の観覚威儀を正し
0000_,31,941b33(00):一別以来御意得ませぬ。姉上にも健かにて、まづは重
0000_,31,941b34(00):畳重畳。一礼終れば勢至丸、母上様御健勝の体を拝し
0000_,31,942a01(00):祝着、至極に存じまする。又毎毎のお便りお心付、千
0000_,31,942a02(00):万忝ふ存じますると、りり敷挨拶なし給へば、母の秦
0000_,31,942a03(00):氏嬉しげに、コレハコレハ観覚坊には、いつも替らぬ頑
0000_,31,942a04(00):丈の御姿、自も安堵致しました。何かは扨置、和子の
0000_,31,942a05(00):身の上、寛厳よろしき育てかた、なみ大体ではござり
0000_,31,942a06(00):ますまい、厚く御礼申ます。コレ和子そなたも、師の
0000_,31,942a07(00):坊の御教へ、心にしめてのつかへぶり、母も満足に思
0000_,31,942a08(00):ひます。殊に嬉しく覚ゆるは、なき父君の御尊牌に、
0000_,31,942a09(00):香華燈明絶さずして昼夜六時の御経回向を、しやると
0000_,31,942a10(00):の事、母が身に取、これほどの嬉しい便りはないわい
0000_,31,942a11(00):のふ。草葉のかげでも、父君の、およろこびはいかば
0000_,31,942a12(00):かりと、思へば涙が涙がと、とどめ兼たる御風情。御
0000_,31,942a13(00):台所は心づき、コレ勢至丸、今は父君白木の位牌とお
0000_,31,942a14(00):成りなされても、さぞなお待兼ねのおんみ魂、まづま
0000_,31,942a15(00):づ仏間に通られて、ごあいさつの御回向いたされよ、
0000_,31,942a16(00):いざいざと秦氏は、先に立たれて、導びき給へば、勢
0000_,31,942a17(00):至丸は師の坊のおんあとより、続いて乳母のおこそま
0000_,31,942b18(00):で、しづしづ奥に入りにける。外はみぞれの如月十日
0000_,31,942b19(00):折しもお家の柱石たる稲岡栃之助行実、主家を思ふ物
0000_,31,942b20(00):案じ、しほしほとしてあゆみくる。跡よりたれかしら
0000_,31,942b21(00):ま弓、いきせきとして走りつき、アイヤそれ、なるは
0000_,31,942b22(00):漆間家の御重役、稲岡殿でござるか、某は時国公の御
0000_,31,942b23(00):舎弟、立石時秀が家来、本城市之丞正武でござる。主
0000_,31,942b24(00):君、立石公の仰せを受け、御当家の秦氏君又、和子勢
0000_,31,942b25(00):至丸様へ御諫言を申上度とわざわざかけ付け、推参致
0000_,31,942b26(00):してござると。いとせき込んだる礼儀振り、こなたは
0000_,31,942b27(00):それと、一礼しコレはコレはお見それ申た、正武殿、御
0000_,31,942b28(00):諫言とはいぶかし、何はともあれ登城の上、万事御意
0000_,31,942b29(00):を得るでござらふ、恐れながら貴殿には、暫時これに
0000_,31,942b30(00):てお待下され左様ござれば、稲岡氏と、たがひに目礼
0000_,31,942b31(00):栃之助、奥殿さして入にける
0000_,31,942b32(00):第六 秦氏愛別の段
0000_,31,942b33(00):爰は漆間の奥御殿、仏間の正面荘厳おごそかに、香花
0000_,31,943a01(00):燈明まばゆき斗り、中に祭れる白木の位牌、時国公の
0000_,31,943a02(00):なき御霊、尊かりける須彌壇なり。今しもあしたのか
0000_,31,943a03(00):ん勤も、なみだの内に相果てて、有りし栄華のむかし
0000_,31,943a04(00):をば忍ぶ心の世の有様、観覚坊は詞をただし、姉上御
0000_,31,943a05(00):台所、今ン日、改めて御意得たし。ソワ別事ではござ
0000_,31,943a06(00):らぬ、和子勢至丸儀、一を聞いて十をしる、其性の悟
0000_,31,943a07(00):き事、実に流るる水よりもあつぱれあつぱれ、かかる非凡
0000_,31,943a08(00):の勢至丸、只いたづらに、草ぶかい田舎の中に、埋め
0000_,31,943a09(00):置んより、今日本の大学匠、雲の如くに集りたまふ、
0000_,31,943a10(00):比叡のお山に、のぼし参らせ、天台座主の御位にも、
0000_,31,943a11(00):昇らせたい、愚僧が願ひ、何卒永のお暇を、今よりゆ
0000_,31,943a12(00):るし給はれと、思ひ入てぞ見へにける。勢至丸は手を
0000_,31,943a13(00):つかへ母上様麿も伯父上の仰せの通り、都へ登りたふ
0000_,31,943a14(00):ござりますと。聞より母の秦氏は、ハツトばかりに打
0000_,31,943a15(00):驚き、是はしたり観覚殿、たつた十里の菩提寺でさへ
0000_,31,943a16(00):中中遠くも思ふのに、所もあらふにこれは又都の奥の
0000_,31,943a17(00):比叡のお山何としてそれがマア、赦してやられふ物か
0000_,31,943b18(00):いのふ夫に別れて自は、たより少ない今の身の上、仏
0000_,31,943b19(00):道修行は兼てより、わらはも嬉しう思へども、都のそ
0000_,31,943b20(00):らの比叡とやら、思ひ留つて給ひのと、袖をかみしめ
0000_,31,943b21(00):秦氏は、わつとばかりにどふとふし、人目も耻ず泣給
0000_,31,943b22(00):ふ。折もこそあれ栃之助、それと見るより手をつかへ
0000_,31,943b23(00):只今先君の御舎弟、立石家の御家来、本城正武と申者
0000_,31,943b24(00):何か御諫言の儀に付、御名代として参上と申上れば御
0000_,31,943b25(00):台所諫言とは心得ぬが御名代とあるからは、立石公の
0000_,31,943b26(00):御意見も承りたし、早ふこちらへお通し申や。ハハア
0000_,31,943b27(00):はつと斗りに、稲岡はしづしづ立てこなたに向ひ、ヤ
0000_,31,943b28(00):アヤア、それにひかへし、本城氏、御台のお召、早早
0000_,31,943b29(00):是へと取次にぞ、血気にはやる本城正武、意気揚揚と
0000_,31,943b30(00):威丈高、上座にこそは押直り、扨御台所を始、和子様
0000_,31,943b31(00):又観覚坊様まで、揃はせらるる此座席、いざ是にて主
0000_,31,943b32(00):君の仰、言上せんと、威儀をただし、主君立石公には
0000_,31,943b33(00):亡き兄君の時国公とは常日頃より御気質も違ひ、音信
0000_,31,943b34(00):さへも、しぜんとだへ、され共七年以前のアノ御最期
0000_,31,944a01(00):遉血筋の御兄弟とて、御家の跡の一大事、忘れんとし
0000_,31,944a02(00):て忘れがたし、然るに此程世上の取沙汰に勢至丸を山
0000_,31,944a03(00):寺へつかわして仏道修行致しおるとのこと皆武門の家
0000_,31,944a04(00):に似合はざるふるまいと、聞度毎に御いきどふり、今
0000_,31,944a05(00):日はぜひとも改めて、御諫言申入んと、則拙者御名代
0000_,31,944a06(00):の役、サ其趣き、まづ第一、家督相続の事、第二には
0000_,31,944a07(00):敵討用意の事、此大切なる武門の道を、全ふさせんが
0000_,31,944a08(00):為、勢至丸には出家の一条、ふつつりと思ひとめさせ
0000_,31,944a09(00):不倶戴天の父の仇討。武名を天下にとどろかし、先祖
0000_,31,944a10(00):の武功を揚げん事、これぞ武士たる道の誠の本懐又予
0000_,31,944a11(00):が娘千鶴の前、かねて申し入れおきたる若君との緣組
0000_,31,944a12(00):八千代の末の玉椿、子孫の栄へ、さかへさせんとの思
0000_,31,944a13(00):し召、方方思案仕かへられ、いざいざ返答召れよと弁
0000_,31,944a14(00):舌いともさはやかに、とき立てのべ立て、たたみかけ
0000_,31,944a15(00):主を威光にすすめける。皆皆はつと驚きて何と返事も
0000_,31,944a16(00):くちなしの花のやう成る勢至丸ひざのり出して正武に
0000_,31,944a17(00):向ひ、イヤナニ今其の方が云ひしこと、一応は尤もな
0000_,31,944b18(00):れど、夫れはかたよれるちいさき心、世には武家ばか
0000_,31,944b19(00):りが人ではない、ソモ人として世に立ツ道、是にはさ
0000_,31,944b20(00):まざま有り、麿の出家は、なき父君への孝行、父の遺
0000_,31,944b21(00):言を守るのじや、そちがけふ来やつたは、定めし此麿
0000_,31,944b22(00):を不孝者にせふとの事か、アアイヤ全く左様な儀では
0000_,31,944b23(00):シテ又家の相続とは云へど、家よりも父の心の相続が
0000_,31,944b24(00):かんよふ。又敵討も合点なれど、恨まざるをもつて恨
0000_,31,944b25(00):をほろぼせとの父上の遺言は、敵討にもましたる仇討
0000_,31,944b26(00):爰の深ひお志しはヨモそち共には分るまい。そちは此
0000_,31,944b27(00):勢至丸を人の中なる人にはさそふとは思ひくれぬか。
0000_,31,944b28(00):サアそれは、どふでも出家をやめさすか。サアサアサ
0000_,31,944b29(00):アと、つめかけられて正武は言句も出ず、尻ごみして
0000_,31,944b30(00):ぞひかへ居る。若君重ねて、汝よつく聞け、武家と雖
0000_,31,944b31(00):運なくば滅ぶる事は儘ある習ひ、討つべき仇も赦して
0000_,31,944b32(00):討たず、憎べき敵も愛して憎まず、弘く恵みてふかく
0000_,31,944b33(00):憐れむ末代不滅、御法の家、かかるお家の相続こそ、
0000_,31,944b34(00):麿が誠の家督ぞや。家をば捨る誠には家を捨ざる理り
0000_,31,945a01(00):有り。よくよくそちも考へ見よと宣イて、元の御座へ
0000_,31,945a02(00):しづしづと、鶴の一声かくやらん。ハ、ア恐れ入つた
0000_,31,945a03(00):る賢明無比の御詞、お詞に対し、一言半句の申開きが
0000_,31,945a04(00):成ませふや。主君立石公へ委細言上せば、只感涙遊ば
0000_,31,945a05(00):され、御同意あるはかがみにかけたり、斯迄深ひ思し
0000_,31,945a06(00):召が有ふとは、凡人の分らざりしも理の当然、最早お
0000_,31,945a07(00):暇申さんと挨拶さへもそこそこに、館をさして立かへ
0000_,31,945a08(00):る。勢至丸さし寄つていんぎんに両手をつき、涙払ふ
0000_,31,945a09(00):て申し母上、受けがたき人の身をうけしが上に逢ひが
0000_,31,945a10(00):たき、仏の道にあひ奉り、まだ其上に目の前に見せつ
0000_,31,945a11(00):けられし無常の有様、思へば此の世はゆめでござりま
0000_,31,945a12(00):す。早く比叡のお山にのぼりて、一乗真実の御法が極
0000_,31,945a13(00):はめたふござります。但し母上の御膝元去らず、子た
0000_,31,945a14(00):る者の道を尽すが本意なれども、そりやコレ世間の孝
0000_,31,945a15(00):道なり。出世間の道からは有為偽りの世を捨て、無為
0000_,31,945a16(00):真実の道に入るは、是こそ人界に生を受けたる誠の思
0000_,31,945a17(00):ひ出、今の別れはうつつの別れ、此偽りの別れをおし
0000_,31,945b18(00):みて、未来につづく悲しい後悔、残させ給ふな母上様
0000_,31,945b19(00):と仏の道を説き立て、さとす子よりも悟さるる、母こ
0000_,31,945b20(00):そ却つておしへ子が、見上げ見おろしはらはらと、な
0000_,31,945b21(00):く蝉よりも泣もせで、身をこがしたる螢火の、小さき
0000_,31,945b22(00):目にも光りあり。光りや後に鳥羽街道、摂政関白忠通
0000_,31,945b23(00):の御所車さへとどめたる、威光は今よりかうかうと日
0000_,31,945b24(00):月輝く如くなり。母はうれしき顔をあげ、ヲ、やさし
0000_,31,945b25(00):い事を事を、よふマア云ふてたもつたのふ。そなたの
0000_,31,945b26(00):詞聞に付け、母が迷ひの雲も晴れ、よふ得心仕ました
0000_,31,945b27(00):程にの、モウ涙はない、ナアナア何の泣ふぞヲホヲホ
0000_,31,945b28(00):ヲホヲホヲホヲホ、今改めて、永の暇を取らそふ程に
0000_,31,945b29(00):いさぎよふ出立しやと、雲千仭の高根より、突落した
0000_,31,945b30(00):る獅子の子や、親の思ひの獅子ふんじん、心を鬼とも
0000_,31,945b31(00):蛇ともして、手離しがたき母親の、思ひは千千に砕く
0000_,31,945b32(00):るばかり骨身にこたゆる真身のやみ、子故に迷ふ親心
0000_,31,945b33(00):死ぬるにましたる心根を、三十一文字に引きちぢめ、
0000_,31,945b34(00):身も浮ばかりに泣給ふ。筐とてはかなき親のとどめて
0000_,31,946a01(00):し、此別れさへ又いかにせん、げに此子にしてこの親
0000_,31,946a02(00):と、感歎にもらひ泣き、ヲ、姉上、天晴出かされた
0000_,31,946a03(00):り。それでこそ、時国公への貞節も立、まつた誠の親
0000_,31,946a04(00):の慈悲、道理道理と顔そむに、衣の袖に男泣き、乳母
0000_,31,946a05(00):のおこそも栃之助、皆お道理と諸共に、声を限りに泣
0000_,31,946a06(00):つくす。勢至丸もこたへ兼、五人が涙一時に、落ちて
0000_,31,946a07(00):流るる片目川、波立ちよする如くなり。此ま心の涙川
0000_,31,946a08(00):後には名にあふ吉水や、法りの流れと末代迄、流れ流
0000_,31,946a09(00):れて弘誓の船、善悪共に御法りの親の明照大師、都の
0000_,31,946a10(00):東に知恩院、其西山に光明寺栄へさかへし浄土門、幾
0000_,31,946a11(00):千万の寺の数の本の始めは誕生寺、今も昔のあと留め
0000_,31,946a12(00):て、あふがぬ人こそなかりける
0000_,31,946a13(00):第七 二見ケ浦惡太郎住家の段
0000_,31,946a14(00):千早振る伊勢の神風吹きくれど、持つて生れた心のち
0000_,31,946a15(00):り、払はれもせず荒びゆき、夜遊び博奕賓の目の、替
0000_,31,946a16(00):る替るの悪事の渡世果ては喧嘩の打ちようちやく、世
0000_,31,946b17(00):にはばかられても、おのれのみ世をも人をも御上みを
0000_,31,946b18(00):も、何憚らぬ不敵の振舞ただうはべをばうちかざる。
0000_,31,946b19(00):裏と表の二見ケ浦、波の荒磯あばらやの、猟師渡世の
0000_,31,946b20(00):親分肌片目姿の悪太郎、何の困果ぞ父親も、見にくき
0000_,31,946b21(00):片目の世捨て人、はなれてくらす長男の、悪太郎が手
0000_,31,946b22(00):下なる鰭平、ふか吉、おこぜの権次に、鯨兵衛、皆ど
0000_,31,946b23(00):やどやとして立ち戻り、頭分今戻つたぞやと、手には
0000_,31,946b24(00):鈴竿網船具、籠にゑ物の魚とりとり、かしらおかしら
0000_,31,946b25(00):サア早ふ見て下さんせ、いつでもいつでも片目かんちの魚
0000_,31,946b26(00):ばつかり、かしらが猟に出られても、おいらが船で乗
0000_,31,946b27(00):出しても、取れる肴は不思儀に片目、一体全体、赤鯛
0000_,31,946b28(00):黒鯛、マアたいした訳が、あらふかいなと、皆ロ皆ロ
0000_,31,946b29(00):にどなり散らせば、苦がみ切つたる悪太郎、百日鬘や
0000_,31,946b30(00):どてらの姿、右には煙管、左には、朱塗り羅てんの煙
0000_,31,946b31(00):草盆、惣惣さげて上座に直り、ヱイヱイロやかましい
0000_,31,946b32(00):ほざき様う、片目でもめくらでも、取つた魚類は金に
0000_,31,946b33(00):なりそふな、まア案じたものじやない。然し此の二見
0000_,31,947a01(00):に移つてから、猟師をすれば奇態な事じやて、網に入
0000_,31,947a02(00):り、竿にかかる、魚と云ふ魚、どいつもこいつも片目
0000_,31,947a03(00):ばつかり、いかにこちら親子が片目ぢやとて、こりや
0000_,31,947a04(00):あんまりおかしいわいと、親父様に聞いて見たれば、
0000_,31,947a05(00):只黙然として念仏の返事ばつかり、遉のおれも是には
0000_,31,947a06(00):気がくさつて、ならぬわいのふヱヱツ忌忌しい、モ
0000_,31,947a07(00):ウモウ浜行はやめとせい、船具も網も釣道具も、今か
0000_,31,947a08(00):らみんな売り飛ばし、博奕のもとでか女郎かい、飲ん
0000_,31,947a09(00):で食ふて寝て起きて浮いて浮かれて浮れめども、皆だ
0000_,31,947a10(00):けだかそう、どうせ世は太う短うあすんでこませ、サ
0000_,31,947a11(00):アサア手下共、酒宴の用意せいと云ひつくれば、下地
0000_,31,947a12(00):は好きなり御意はよし、おつと合点、夫れが能い能い
0000_,31,947a13(00):よいやさで立上り、オイお頭おいらが取つた片目の魚
0000_,31,947a14(00):は買手はおろか只でさへ、緣起が悪いと逃げくさる、
0000_,31,947a15(00):貰ひ手のない此品もの、いざ今からお手料理、サア来
0000_,31,947a16(00):い皆来いと、裏口さして馳せて行く。早や運び出す、
0000_,31,947a17(00):酒肴、銚子さかづきつぎつぎに、持出だされたる嶋台
0000_,31,947b18(00):に蝶花形のそへたるは、何の用意か白波の差しつおさ
0000_,31,947b19(00):へつ盃の、数もまはればおのづから、酔も廻つてさざ
0000_,31,947b20(00):んざを歌へや舞への真只中、悪太郎立あがり、コリヤ
0000_,31,947b21(00):コリヤ承玉はれ、人間万事は食ひけと色気、いかに吉野
0000_,31,947b22(00):の花見ぢや迚、ソレソレ花よりも鼻の下、食て食て飲
0000_,31,947b23(00):んで、又飲んでサテほろりと桜色、こう心が春めいて
0000_,31,947b24(00):は、もう女でなくては夜が明けぬ、コレヤコレ、日本
0000_,31,947b25(00):のお国ぶり、ササアノ土小屋に、引くくつてある、い
0000_,31,947b26(00):つぞやの旅の女、年は二八のにくうない、イザ引摺り
0000_,31,947b27(00):出して酒の肴ぢや、くどいてくどいて、色にしやう、サア
0000_,31,947b28(00):サア早ふ参れと云ふに手下はおつと合点、コレヤイケ
0000_,31,947b29(00):ネイ、鰭平さまは酔ひつぶれ、口は立つても足立ず、
0000_,31,947b30(00):それでこつちは口ときの手伝ひ。ヤアヤアおこぜ、貴
0000_,31,947b31(00):様一寸行つて来いと、云はれて俄かにおこぜの権次、
0000_,31,947b32(00):オウサウトモサウトモ、アノ旅の女を引捕らへしはお頭の
0000_,31,947b33(00):云ひ付けとは云へ、権次は結ぶの神、おれが肝入でげ
0000_,31,947b34(00):んさい殿を、どれ連れて来やうと立上り、裏小屋さし
0000_,31,948a01(00):て出て行無惨やな姫君は、夫恋ふ鹿の塒さへ所定めぬ
0000_,31,948a02(00):浜千鳥、片羽は枯れてよし芦の苫田の郷を出でしより
0000_,31,948a03(00):身は数数の憂苦労、思ふ人には逢れもせで、心は主に
0000_,31,948a04(00):淡路島、白浪の手に捕へられ哀れ其身は十重二十重、
0000_,31,948a05(00):紅ひそむる荒繩に、引立られてん雛紅葉、霜に悩みの
0000_,31,948a06(00):風情なり。サア女、ソレお頭がお待兼ねと突きやられ
0000_,31,948a07(00):ハツとためらひたぢろぎて、涙の顔を打覆ふ、綾のた
0000_,31,948a08(00):もとも色あせて、玉のつゆおく玉笹や、さはらば切れ
0000_,31,948a09(00):ん玉の緒の、命の瀬戸の此場の有さま。コリヤ、ヤイ、
0000_,31,948a10(00):旅の女、イヤサ姫君、先立てよりいかに口説いて、す
0000_,31,948a11(00):かせば迚、今に色よい返事もない。まだ其上に国所、
0000_,31,948a12(00):氏素性さへ打明さぬ剛情不敵、いづれは、よしある姫
0000_,31,948a13(00):なりと、肌身につけし守袋を、追つ取つて、取調べて
0000_,31,948a14(00):万事は合点、姫が生国は、美作は苫田の郡、二の宮と
0000_,31,948a15(00):いふ所、立石某が息女で有らふ、其名もめでたき千鶴
0000_,31,948a16(00):の前、ヱツヱーソノ様に、国も親も知られては、父へ
0000_,31,948a17(00):の恥辱、家への名折れ、無念に候、口惜しう候と、歯
0000_,31,948b18(00):を喰ひしめて泣き給ふ。コレサ、姫君いかに氏ある素
0000_,31,948b19(00):性にも致せ、此悪太郎迚、万更の生れでない、今こそ
0000_,31,948b20(00):悪業渡世の浪人なれ共、血筋は正しい、我身共、勿体
0000_,31,948b21(00):なくも堀川院の滝口某は、われらが父ぢや、又母人が
0000_,31,948b22(00):我身をお産みなされしも同じ美作、緣は異なもの、生
0000_,31,948b23(00):れは同国隣郡、何さ何さ、釣合ひの能い姫と我身ぢや
0000_,31,948b24(00):イザイザ千鶴の前、機嫌直して、色能い返事ヤイ権次
0000_,31,948b25(00):姫の繩目を早やとけよ。サア、何んとと、ねこなで声
0000_,31,948b26(00):ヱ、ツ、穢らはしいそこ放しや、聞くさへ耳のよごれ
0000_,31,948b27(00):じやわいのふ。してして気がかりな、今の言葉、そち
0000_,31,948b28(00):らが美作生れと云やかるからは、若しや久米の郡は、
0000_,31,948b29(00):弓削の庄ではなかりしかと、云はれて驚く悪太郎、オ
0000_,31,948b30(00):オサオオサ、不思議に云ひあて召された、姫其眼力には
0000_,31,948b31(00):恐れ入る。我身の生れは弓削の庄、襁褓の間に父上が
0000_,31,948b32(00):一人の姉を余所に残し、逐電あつて旅から旅、さすら
0000_,31,948b33(00):ひまわりて憂艱難、今は親子も離ればなれ、母は亡く
0000_,31,948b34(00):なり姉は分らず、我身ひとりの我まま三昧、身は悪党
0000_,31,949a01(00):の頭となり、子分の数さへ数百人、酒池肉林の楽づく
0000_,31,949a02(00):め、何んと今日から宿の妻、二つに一つの返答しやれ
0000_,31,949a03(00):と手を執りかかれば、其手を払ひ、又しても無礼な振
0000_,31,949a04(00):舞、其れなら明石の源内武者伯耆守定明が、お前の父
0000_,31,949a05(00):であらふがのふ、オオよくぞ云ひあてめされた。遉が
0000_,31,949a06(00):は立石公の息女の果、なほ更ら以つて思ひ切られぬ、
0000_,31,949a07(00):サアサア早ふせきたてられ、もうそれ聞くうへは、我
0000_,31,949a08(00):夫の敵の忰、同じ恨みの仇敵、慮外しやると赦しはせ
0000_,31,949a09(00):ぬぞと、云はれて悪太郎、顔色かへ、オオ姫と思ひい
0000_,31,949a10(00):たわつてやさしく云へば附け上る、可愛さ余つて憎さ
0000_,31,949a11(00):は百倍、いで目にもの見せてくれんずと、有り合ふ割
0000_,31,949a12(00):竹、追つとつて飛びかからんず其けしき、おこぜの権
0000_,31,949a13(00):次走り出で、マアマア待たしやれ、急ぐ所ではござら
0000_,31,949a14(00):ぬ大事な姫の身の上、命あつての、物種、若し当り所
0000_,31,949a15(00):が悪ふて、ひよんな事にならふも知れぬ。爰はお頭、
0000_,31,949a16(00):権次が預かつた。コレサ姫君、是には深い仔細も有ら
0000_,31,949a17(00):ふサアサア頭が得心ゆく様、身の来歴を語らつしやい
0000_,31,949b18(00):と、やさしい勧めに、又泣き入つて、思ひ出に、悲し
0000_,31,949b19(00):の淵に打沈む。姫は漸ふ起き上り、オオ権次とやら、
0000_,31,949b20(00):先程から情のある執成しやう、其心根にほだされて、
0000_,31,949b21(00):いはねばならぬ我の身の上一通り聞いてたべ、そも自
0000_,31,949b22(00):らには、稚い頃より、親と親との、許婚主しにあわび
0000_,31,949b23(00):の片思ひか、なんぼうおしたひ申しても、恋路の暗は
0000_,31,949b24(00):我心、さきは明るい悟りのお方、今は御出家遊ばされ
0000_,31,949b25(00):一天四海に二人とない、世にも尊き生き仏、法然房と
0000_,31,949b26(00):はなられても、妾がためには、矢張り元の勢至丸様、
0000_,31,949b27(00):思ひ廻せば稚い頃、夫は十五の御年にて、母御も妾も
0000_,31,949b28(00):振り捨て比叡のお山に入り給ひ、辛苦も二十五年の果
0000_,31,949b29(00):て、凡入とやら報土とやらの浄土門ひらき給ひ、何所
0000_,31,949b30(00):迄もつまをば迎へぬおんひぢりと聞いて恟り、身も世
0000_,31,949b31(00):もあられず、恨みつらみに泣き明かし、思ひ余つて妾
0000_,31,949b32(00):が玉の緒、きれなば切れよと思ひし末、乳母萩野とも
0000_,31,949b33(00):ろともにお城をぬけてお後したひ、雨風雪を杉さか越
0000_,31,949b34(00):へ、草木を和気の里立つて、気は播磿路や、印南潟、
0000_,31,950a01(00):憂きも苦労もいなみはせず、身の行末も白鷺の城下を
0000_,31,950a02(00):後に、淡路を立ち、世を加古川をうち渡り、なきの涙
0000_,31,950a03(00):に明石の浦、歎きの雨ははらはらと、振の袂にたるみ
0000_,31,950a04(00):の浜、からき浮世の塩屋を経て、浜の真砂の数数の悲
0000_,31,950a05(00):しい事も我夫ゆゑ、伊勢路をこえて鈴鹿山、身を宇治
0000_,31,950a06(00):橋の橋の袖、ふつてわいたる災難は萩野が俄な持病の
0000_,31,950a07(00):癪、身は姫御ぜの介抱も何と詮方泣計り、日は暮果て
0000_,31,950a08(00):真の闇、オオサ、その闇を幸に、おこぜの権次に云付
0000_,31,950a09(00):けて生捕つたは千鶴の前、病人ながら乳母の萩野、懐
0000_,31,950a10(00):劔抜いて手強い武者ぶり、不愍ながらも恋路の邪魔者
0000_,31,950a11(00):エエツしやらくさいと蹴おとせば、五十鈴の川へ身は
0000_,31,950a12(00):どんぶり、エエツー、そんなら乳人は殺されたかいな
0000_,31,950a13(00):ア、むごい事をさせたわいのふ、コレ萩野殿、身に病
0000_,31,950a14(00):み煩らひさへなかりせば、むざむざ討れる乳人ではな
0000_,31,950a15(00):いに、エエ、やかましい、サアサア千鶴の前、もうい
0000_,31,950a16(00):いかげんに観念して、否応云はずに手活の花、エエけ
0000_,31,950a17(00):がちはしやと、逃げ行かんともがく時、悪太郎と権次
0000_,31,950b18(00):の二人、前後に路を打ふさぎすでに危く見へけるが、
0000_,31,950b19(00):不思議や忽ち一天くもり大地は震動、稲妻きらめき物
0000_,31,950b20(00):凄くも又すさまじき悪太郎始め子分一同、五体しびれ
0000_,31,950b21(00):て腰足立たず、只ぼう然たる其中に姿ありあり萩野が
0000_,31,950b22(00):亡霊、コレ悪太郎、よく聞けや萩野はお前の姉と云ふ
0000_,31,950b23(00):深い由緣と冥途で聞いた、それがお前に殺されたも、
0000_,31,950b24(00):皆な父上の罪業からじや、まつた姫君は立石家の御息
0000_,31,950b25(00):女にて、妾が為には御主の大恩人、無礼ばし仕て給も
0000_,31,950b26(00):るなや、早く罪業の懺悔をして真人間に戻つてくりや
0000_,31,950b27(00):れ、頼むむと云ふを思へば姿は消へ千鶴の前もいづ
0000_,31,950b28(00):くへか、後しら波の浦げしき、ハツト気のつく悪太郎
0000_,31,950b29(00):血相かへて怒りの顔色、ウムウム、サテハ法然めがげ
0000_,31,950b30(00):ん術にて、眼をくらまし命をかけし姫をまでかつさら
0000_,31,950b31(00):ひしよや、恋の敵の法然坊、彼を殺して亡者とせば姫
0000_,31,950b32(00):が心もうつりかはらん、そうぢやそうぢやと刀の目釘、う
0000_,31,950b33(00):ちしめり降る、村時雨、身を簑笠に隠しつつ、浜辺を
0000_,31,950b34(00):さして、かけり行く
0000_,31,951a01(00):第八 定明切腹の段
0000_,31,951a02(00):十方世界を照らしつつ善悪共に隔てなく、光をあたゆ
0000_,31,951a03(00):る天つ日は御法の上より名を附けて彌陀如来とは申す
0000_,31,951a04(00):なり、これを形に仰ぐ時、天つ日の影そのままに天照
0000_,31,951a05(00):らします大御神内外の宮居宮柱、ふとしくたちて千木
0000_,31,951a06(00):かつを木、神さびまさる神杉の中にぞ高く聳へます。
0000_,31,951a07(00):伊勢大廟に参籠の法然上人源空はあまたの御弟子引連
0000_,31,951a08(00):れて五十鈴の川にみそぎして、夜をこめまして広前に
0000_,31,951a09(00):祈りを捧げ奉り有難さにぞ涙をば法衣の袖にしたし給
0000_,31,951a10(00):ひ、朝熊山を朝ならぬ夜のうちより出でたちて、二見
0000_,31,951a11(00):が浦は夫婦岩つきぬ妹脊の契りあり、千鶴の前のここ
0000_,31,951a12(00):までも、あこがれ尋ねさすらふとは、なに白波の浪う
0000_,31,951a13(00):ち際、月を便りに歩み給ふ。此の時後のかなたより髪
0000_,31,951a14(00):はおどろにかき乱れ、息も絶ゑ絶ゑ追ふて来るひとり
0000_,31,951a15(00):の姫は千鶴の前、喃待たしやんせ待つてたべ、其所に
0000_,31,951a16(00):わたらせ給ふは法然房様と見奉る、イイヤノウ昔しの
0000_,31,951b17(00):勢至丸様、年つき尋ぬる甲斐あつて計らず爰に遇ひま
0000_,31,951b18(00):したも、神が手引きの尽きせぬゑにし、コレノウコレノウ
0000_,31,951b19(00):と呼ぶ声は千鳥の声か千鳥あし、御弟子の法蓮耳そば
0000_,31,951b20(00):立て若し御師匠様、誰れやら呼ぶ声が聞えまする。と
0000_,31,951b21(00):申上ぐれば法然上人、骨身に答ゆる女の呼声、血筋の
0000_,31,951b22(00):ゑにしか法のゆかりか、呼ばれて逃げんも心づらしと
0000_,31,951b23(00):岩根に腰うちおろし待たさせ給ふ情の御様子、御手に
0000_,31,951b24(00):珠数をつまぐつて、みくちに念仏となへ給ふ。あやぶ
0000_,31,951b25(00):き虎口を遁れたる千鶴の前は落ついて、それと見るよ
0000_,31,951b26(00):り法然房の法夜の袖しつかと取つてくづおれかかり人
0000_,31,951b27(00):目も恥ぢず泣くばかり。上人しづかに其の手を放させ
0000_,31,951b28(00):珠数うち振りて穢れをはらひ物和らかに給ふやう、何
0000_,31,951b29(00):国の方かはおぼゑね共、予が幼な名さへ呼びたてて待
0000_,31,951b30(00):てよと仰せあるからは、若しや国元なる立石家の息女
0000_,31,951b31(00):ではござらぬか、何故本国はなれかかる伊勢路の旅空
0000_,31,951b32(00):に打さすらひておわするや。まツた災難にでも出逢ひ
0000_,31,951b33(00):召されしかと云はれて姫は気を取り直し、オオよふぞ
0000_,31,952a01(00):や問ふて下されます。自らはあなた樣と許婚の千鶴の
0000_,31,952a02(00):前、情けにあまへ申すも恥かしながら、国元たつて行
0000_,31,952a03(00):年月の憂き艱難、まだその上に悪る者の、こわい工み
0000_,31,952a04(00):のわなにおち乳母の萩野が殺されたり、又自らがこれ
0000_,31,952a05(00):此の通り、打ちちやう擲く、攻め折檻なぶり殺しの目
0000_,31,952a06(00):に逢ふのも皆あなた様おんゆへぞ、十八年が長の年月
0000_,31,952a07(00):骨身にこたへし憂き苦労今こそわすれて嬉し涙、尋ね
0000_,31,952a08(00):尋ねて今爰で逢ふたは伊勢の太神が結ばせ給ふ妹脊の
0000_,31,952a09(00):契り、少しは不愍と推量してたつた一言女房と云ふて
0000_,31,952a10(00):たまはれ上人樣と、法衣の傍に寄り添ひて正体涙いぢ
0000_,31,952a11(00):らしし。上人驚き飛びしさり、尊き御目に玉の露、ア
0000_,31,952a12(00):ア哀れなり不愍なり、人間と生れては其の凡情は左も
0000_,31,952a13(00):あるべしが、然しよく聞かれよ、千鶴の前、法然昔の
0000_,31,952a14(00):登山出家の砌り、既に時秀公に申上げて、妹脊の緣も
0000_,31,952a15(00):是れ切りと妻はおろか母をも家をも打捨て身はこれ人
0000_,31,952a16(00):にして然も仏の御子の出家沙門八重の汐路にただよひ
0000_,31,952a17(00):て生死の海に沈めばとて魚には塩のしまざるたとへ、
0000_,31,952b18(00):もう法然は勢至丸ではない許婚の妻はない筈、此の法
0000_,31,952b19(00):然が恋人は只お一人にして然も其数限りなし。聞かれ
0000_,31,952b20(00):よ姫、千鶴の前御仏に染むる心のいろに出ば秋の梢の
0000_,31,952b21(00):たぐひならまし。法然が色は秋の紅葉はその紅ひの血
0000_,31,952b22(00):汐まで心に思ひ染め奉る。恋人はこれ此の彌陀仏極楽
0000_,31,952b23(00):化主おひと方より外にはござらぬ。短かき渡世の恋よ
0000_,31,952b24(00):りも長きまことの阿彌陀如来を恋人とあふぎ、身をも
0000_,31,952b25(00):命も打捨てて恋こがれ給へば二世はおろか三世まで、
0000_,31,952b26(00):法然とそもじは一蓮托生、そもじが彌陀となつて我が
0000_,31,952b27(00):恋人、さすれば法然恋しと思召し候へば、只南無阿彌
0000_,31,952b28(00):陀仏と申させ給へよ。念仏だにも申させ給へばそもじ
0000_,31,952b29(00):と法然とは膝差しまじへて同席同座、若し念仏怠りな
0000_,31,952b30(00):ば譬へ法然が傍にござあつても、法然とは海山万里、
0000_,31,952b31(00):念仏申す人としならばそは皆法然が恋人でござれば、
0000_,31,952b32(00):わが恋人はひとりの彌陀にして而も其数限りなしとは
0000_,31,952b33(00):爰の道理、去れば法然が恋人たる阿彌陀如来はかしこ
0000_,31,952b34(00):くも、この日の本に顕はれて、姿を替へて天照す大御
0000_,31,953a01(00):神様、さてこそ法然が態態伊勢路の大廟参籠、いざい
0000_,31,953a02(00):ざ千鶴の前いまから心改めて、この法然房よりも彌陀
0000_,31,953a03(00):の恋人にかしづきたまへよ。迚も此の世に千歳の春や
0000_,31,953a04(00):万年の秋はござらぬよくよく思案を成し給へといと懇
0000_,31,953a05(00):ごろにさとされたり。千鶴の前も感じ入り迷ひの夢も
0000_,31,953a06(00):覚めかけて南無阿彌陀仏と伏し拝み泣き出したまふ。
0000_,31,953a07(00):こなたの竹籔かき分けて、心其名の悪太郎、様子立聞
0000_,31,953a08(00):き忍び出で、おのれ法然源空め、意恨かさなる恋の敵
0000_,31,953a09(00):いまこそ思ひ知りおれと大太刀引抜き上段に振りかざ
0000_,31,953a10(00):し、骨も砕けと打ちおろす。不思議や刀はふつとおれ
0000_,31,953a11(00):ただ茫然と悪太郎たたづみ見やれば上人の御身に光明
0000_,31,953a12(00):かくかくと、輝き給ふ御ン有様、大悪無道の悪太郎、
0000_,31,953a13(00):小刀抜いて立向へど体しびれて働らかず、もがきもがき
0000_,31,953a14(00):て飛かかる。斯くと遠目に片目の老人、走り来つて引
0000_,31,953a15(00):とむれば振り返つて驚きながら、オオ親人仇敵の法然
0000_,31,953a16(00):討つに何故の此邪魔だて、サアそこ放されよ、コリヤ
0000_,31,953a17(00):ヤイ忰、法然は身共が討つ其脇差こつちへおこせと、
0000_,31,953b18(00):取るより早くおのが弓手の脇腹へぐつと突立たり、ヤ
0000_,31,953b19(00):ヤコリヤ親人、何故の此御最期早まつた事なされたと
0000_,31,953b20(00):遉の悪人悪太郎も鬼の眼にはらはら涙、ヤレ忰歎くま
0000_,31,953b21(00):いくまい、只何事も知らざる汝、法然様も千鶴様にも、
0000_,31,953b22(00):申し昔の罪障懺悔一通語り申さん先づ聞てたべ。コレ
0000_,31,953b23(00):此漁師の親仁こそ、姿は変れど滝口の武士、伯耆の守
0000_,31,953b24(00):明石の源内定明がなれの果と聞いて上人驚き給ひ、偖
0000_,31,953b25(00):は保延七年彌生の春の戦ひに射かけし矢傷の片目の定
0000_,31,953b26(00):明いかにも仰せの通り若気のいたり血気にはやりいさ
0000_,31,953b27(00):さかの恨を根に持ち時国公に弓を引き、武士に有まじ
0000_,31,953b28(00):き卑怯の夜討、時は丑満朧月鳥も塒に夢結ぶ、我旗下
0000_,31,953b29(00):の鎧武者其数百騎は徒士侍数多随へ大槌打振り流石の
0000_,31,953b30(00):金城鉄壁も只一撃に打くづし乱れ入る敵は名におふ鬼
0000_,31,953b31(00):神と呼ばれたる漆間時国、早業秘術にまたたく内味方
0000_,31,953b32(00):討たれて死人の山、唐紅ひに血潮の紅葉され共時国終
0000_,31,953b33(00):には手傷に其時、某時国討たんと身構へたり、折しも
0000_,31,953b34(00):御身の放せし尖り矢羽音するどく兜の庇を射削つて右
0000_,31,954a01(00):の目を射立てられ苦しまぎれに逃出す。忽ち軍は破れ
0000_,31,954a02(00):となり味方はちりぢり詮方なく漸くのがれ逃げ延びた
0000_,31,954a03(00):り。其後ち噂に聞けば勢至丸様討つべき仇も赦し憎む
0000_,31,954a04(00):べき敵も愛し恨まざるを以て恨を滅せとの御父の遺言
0000_,31,954a05(00):を守り給ひて、今は都の大善智識と承つた時は、コレ
0000_,31,954a06(00):此定明が心の内の恥かしさ、此胸のやるせなさ、けふ
0000_,31,954a07(00):は御前に罷り出で懺悔の切腹なし遂げやうか、翌日は
0000_,31,954a08(00):庵におとづれてと思へど時節到来せずおめおめ今まで
0000_,31,954a09(00):長らへたり。サア法然様、時国公の仇敵此親仁を一分
0000_,31,954a10(00):だめしにして亡き父君の御ン恨みを晴らさせ給へ、サ
0000_,31,954a11(00):成敗あれ、コリヤ悪太郎、そちが手にかけ殺したる萩
0000_,31,954a12(00):野はまさしう汝が姉、ホ、驚くは尤も父が作州逐電の
0000_,31,954a13(00):砌り妾腹の娘なれば女房の手前も有り、足でまとひ萩
0000_,31,954a14(00):野は他家へ預けたり、其時持たせし、コレ此北山王子
0000_,31,954a15(00):権現の守札、父が氏素性をしるし置きし此一品、斯計
0000_,31,954a16(00):らず今ン日五十鈴川の下手にて女の死骸と人の騒ぎ、
0000_,31,954a17(00):押し分てよく見れば肌にかけたる此お守中改めて打ち
0000_,31,954b18(00):驚ぎ、なむ三死したり我娘と抱き附たさ悲しさも人前
0000_,31,954b19(00):なれば夫れとなく、厚く葬むり此由を汝に知らしやら
0000_,31,954b20(00):んものとそちが家を訪ひくる途中、子分に聞けば其女
0000_,31,954b21(00):なら親方が蹴り殺して川へはめたとの物語り、いかに
0000_,31,954b22(00):知らぬといひながら、現在真ン身の弟のぞちが手にか
0000_,31,954b23(00):け殺せしとはよくよく因果の寄り合か、かかる非業の
0000_,31,954b24(00):親子供等が三千世界を尋ねても有るべき事かと老の歎
0000_,31,954b25(00):き、守袋を抱きしめ、可愛や萩野、爺じや爺じや爺じや
0000_,31,954b26(00):爺じやはやい、必弟を恨むなよ。皆何事も此親が不所存
0000_,31,954b27(00):故に天の御罰、世の見せしめ、コリヤ必迷ふてくれる
0000_,31,954b28(00):なよ恨を晴らして成仏してくれ、勘忍してくれ勘忍し
0000_,31,954b29(00):てくれ赦してくれくれと、苦痛いとはず悔み泣く。姫
0000_,31,954b30(00):は涙にむせかへり、ほんに思へば此年月朝な夕なのい
0000_,31,954b31(00):つくしみ、かばふてたもつた厚恩の送らぬのみか其上
0000_,31,954b32(00):に、長の旅路の憂苦労、殺さらりやつたも自らが家出
0000_,31,954b33(00):をした故なれば、皆其元は私しが業、思へば思へば情な
0000_,31,954b34(00):や勘忍してたもいのと、人目も恥じずくどき立て、く
0000_,31,955a01(00):どき立つれば法然上人、さとりさとりし御身にも不便の
0000_,31,955a02(00):涙せまりくる。御弟子も共に顔背く、血筋の緣が悪太
0000_,31,955a03(00):郎こらへ兼てはらはらはらはらはらと涙は五十鈴川、
0000_,31,955a04(00):落ちて流れて川下の堤もあふるる計りなり。定明苦し
0000_,31,955a05(00):き息をつぎ我が片目は昔の矢傷、出生したる忰が片目
0000_,31,955a06(00):漁る魚迄不思議にもおなじ片目の魚類計、輪廻無窺と
0000_,31,955a07(00):付きまとふ。アラ恐ろしやしやと、過去遠劫の発露懺
0000_,31,955a08(00):悔片目の魚は片目川今も昔に異ならぬ、跡をとどめて
0000_,31,955a09(00):末の世に霊験示すぞ威徳なる。始終の様子悪太郎、胆
0000_,31,955a10(00):先ささるる心地して一念忽ち発起心遉は武士の血を受
0000_,31,955a11(00):けて悪に強きは善にも強く、アア父上よく御生害遊ば
0000_,31,955a12(00):した法然様への申訳も相立ち夫でこそ堀川の院、滝口
0000_,31,955a13(00):の武士、拙者も追腹仕り死出や三途の冥途の御供、イ
0000_,31,955a14(00):ヤナニ千鶴様にも申訳なき無礼の段段今改めて御詑び
0000_,31,955a15(00):申す。いづれもさらばと自害の体、法然押とめヤレ早
0000_,31,955a16(00):まるまいホー遉に天晴出かされたり。懺悔をすれば皆
0000_,31,955a17(00):是清浄無垢の人人、もふ死ぬるには及ばぬ、方方よく
0000_,31,955b18(00):聞かれよ、経文には既に只礼懺清浄の水のみあつて能
0000_,31,955b19(00):く衆生罪業の垢を洗ふべしと説かれたり。無明長夜の
0000_,31,955b20(00):夢さめて今こそさとりの夜明も近し、イザイザ方方法
0000_,31,955b21(00):然が弟子となつて命全ふ仏道修業是則ち二世安楽、ア
0000_,31,955b22(00):レアレ伊勢の大海原、今しも曙豊阪登る朝日影いとも
0000_,31,955b23(00):尊し尊しと、上人御弟子諸共に東に向ふて合掌し、声
0000_,31,955b24(00):高らかに南無あみだ仏南無あみだ仏と十念を唱へ給へばこはい
0000_,31,955b25(00):かに東の空は唐紅い、浮ぶが如くの大日輪、紫磨黄金
0000_,31,955b26(00):の御六字南無阿彌陀仏と有り有りと現はれ出しは摩訶
0000_,31,955b27(00):不思議、アアラ尊や勿体なやと光り拝んで定明の、息
0000_,31,955b28(00):は其儘絶にける。御名号拝し拝して悪太郎、千鶴の姫
0000_,31,955b29(00):は合掌の其手をかへして髪を切り、法の衣はまとはね
0000_,31,955b30(00):ど心は早くも袈裟かけ松、日光坊善明と悪太郎に法名
0000_,31,955b31(00):給はり、千鶴の前には妙鶴尼、今道心のお弟子入り、
0000_,31,955b32(00):世にぞ伝へし日の丸の六字の筆は、上人の名残りをと
0000_,31,955b33(00):めて伊勢詣、宇治は山田の欣浄寺今にぞ祭る御真筆、
0000_,31,955b34(00):神は此の世の父となり、仏は未来の母と成り、神と仏
0000_,31,956a01(00):の二見が浦、伊勢は五十鈴の河上に鎮まり給ふ大御神、
0000_,31,956a02(00):南無あみだ仏の本地ぞと恵み尊き御法なり。
0000_,31,956a03(00):第九 松虫鈴虫道行戀の重荷
0000_,31,956a04(00):雲井の上や山がつの賤が伏屋とへだつれと恋に上下の
0000_,31,956a05(00):隔てなき。大内山の女ろうの身にも着そめし恋衣、恋
0000_,31,956a06(00):の重荷も我物と想へばいとど軽げにて虫折り笠に顔か
0000_,31,956a07(00):くし待人ありと松虫姫先に急げばおくれじと、成もゆ
0000_,31,956a08(00):かしの鈴虫姫指して行く手は獅子が谷、恋ゆゑ遠き山
0000_,31,956a09(00):路さへ近うおもふて今爰に、御所抜け出て花の蔭見渡
0000_,31,956a10(00):せば、柳桜を交きまぜて今は都の春景色いざ観にごん
0000_,31,956a11(00):せと告げ渡る鐘の響が音羽山、南無や阿彌陀が峯かけ
0000_,31,956a12(00):て霞める奥も花盛り野山も春の心哉。折りから来かか
0000_,31,956a13(00):る茶摘子がつとなで附けし黒髪に、チラチラ懸る花片
0000_,31,956a14(00):をそのままそれを花かんざしに誰れに今宵やアイウヱ
0000_,31,956a15(00):オ、びんのおくれ毛櫛入れて恋の玉章カキクケ、コウ
0000_,31,956a16(00):やあアやと色話し、ヤレヤレキツウ、シヤベリヤマズ
0000_,31,956b17(00):好うマア戯談おいやすなア、いやいや若いものはひと
0000_,31,956b18(00):さしそこでマヰムメモウ、われおとらじと打ちつれて
0000_,31,956b19(00):みどり十重なる茶の園に入りにし賤の乙女子が、ふし
0000_,31,956b20(00):おもしろふ歌ひ出て若き芽を摘む手揃ひに、いよいよ
0000_,31,956b21(00):栄え信楽の壺におさまる里人は皆万歳とぞ祝ひける。
0000_,31,956b22(00):サアサア都へ二人の衆打ちつれて行く跡へ誰を乗せた
0000_,31,956b23(00):か山駕二丁、親を嵯峨野へおとづれの、今帰るさの此
0000_,31,956b24(00):の野路、駕舁、息杖、エツサツサアエツサツサアエツサツサア、さあと
0000_,31,956b25(00):此の花の下よりもヤツパリ下司は鼻の下、ヨイヤサア
0000_,31,956b26(00):とおろす駕舁、駕の垂れあけて出でたる安楽住蓮姿尊
0000_,31,956b27(00):とや袈裟衣数珠つまぐれる念仏の心は花に移らばこそ
0000_,31,956b28(00):松虫姫は顔打ちみやりあなたは安楽様、イイヤイナア
0000_,31,956b29(00):院の北面、阿倍盛久様、本に思ひがけない藤、兵衞の
0000_,31,956b30(00):尉信国様の住蓮様、ここへはどうして迎ひ駕、さては
0000_,31,956b31(00):日頃の願ひをば契へてやろふとのお情かと心に語る一
0000_,31,956b32(00):人言いふさへ胸の内気な姫おもはゆげなる風情にて顔
0000_,31,956b33(00):はほのめく紅桜いとど色ますばかりなり。松虫姫は恋
0000_,31,957a01(00):ひしさの胸に荒波とつおひつ法衣の袖に執りすがり、
0000_,31,957a02(00):命にかけし此の恋ひを如何に聖者のおん身じやとて、
0000_,31,957a03(00):人には人のお情が有るのが仏の御慈悲であらうと心も
0000_,31,957a04(00):赤き緋桜や、いづれ劣らぬ花の色、成程切なる志悦し
0000_,31,957a05(00):いとは思へども其れは在俗昔の夢、浅き夢みし昨日は
0000_,31,957a06(00):迷ひ、有為の奥山既に越え今は大悟の京九重、都にご
0000_,31,957a07(00):ざる法然様、我等が師匠と仰ぎまゐらせ濁にそまぬは
0000_,31,957a08(00):ちすの身、浮世の仇の恋よりもまこと仏へ宮仕へ、好
0000_,31,957a09(00):う覚悟たが善いぞやと、言ひ捨てたまひて駕に入りサ
0000_,31,957a10(00):ツとこも垂れ打ちおとし急がせたまふ駕と駕、二人の
0000_,31,957a11(00):姫は心を定め、転女成男、妾でも髪さへ切れば変成男
0000_,31,957a12(00):子此世からなる一蓮托生、尼にさへなりや一処にゐら
0000_,31,957a13(00):りやう、どうぞ待つてとふしまろび、妾は娑婆であな
0000_,31,957a14(00):たは極楽輪廻に迷ふてゐるうちは近かづいても十万億
0000_,31,957a15(00):土後追つついて此の髪をと心勇めば風勇み、散りくる
0000_,31,957a16(00):花や散華楽、霞のおくの鶯は伽陵、頻伽か、経陀羅尼
0000_,31,957a17(00):無量寿仏に契る身は此の世のいのちも延年寺、後に眺
0000_,31,957b18(00):めて八坂の塔、祇園吉水法勝寺嬉し嬉しと如意満足、
0000_,31,957b19(00):その如意が岳そのふもとぬしおふたりが庵へといそぎ
0000_,31,957b20(00):いそぎておとなへり
0000_,31,957b21(00):第十 御流罪の段
0000_,31,957b22(00):釈迦と彌勒の玉櫛笥ふたりの仏の中空に月の光と現れ
0000_,31,957b23(00):て無明の長夜を照します、末世相応の浄土門、広く開
0000_,31,957b24(00):きて善悪邪正唯そのままに救はるる、彌陀超世の御悲
0000_,31,957b25(00):願は元祖法然弟子親鸞、師弟手を引き衆生を引く、引
0000_,31,957b26(00):きめの弓矢執るもののふ、月卿雲客そはおろか勿体な
0000_,31,957b27(00):くもいにしへに、例も誰れか後白河大君さへも上人に
0000_,31,957b28(00):玉の冠を傾けて生如来とも仰ぎます、名誉はよしや吉
0000_,31,957b29(00):水の、禅房繁昌たぐひなし
0000_,31,957b30(00):されば南都北嶺の荒法師忽ち嫉みの焰をもやし、念仏
0000_,31,957b31(00):非法の嗷訴に讒訴、春日の神木山王権現表に押立て担
0000_,31,957b32(00):ぎ立て早や都路に入らんず有様、搗て加へて雲井には
0000_,31,957b33(00):官女松虫、鈴虫を、安楽住蓮手引して擅ままなる出家
0000_,31,958a01(00):こそ、破戒無慙邪淫の罪と思ひ設けぬ御疑ひ、そのほ
0000_,31,958a02(00):か罪の数限り、皆師の房に投げかけて正しき道も東山
0000_,31,958a03(00):世に時めきし道場も念仏停止の制札に、門は閉ざされ
0000_,31,958a04(00):剰つさへ重き罪科の宣旨まで降さるるとの世上の取沙
0000_,31,958a05(00):汰、いたましや上人は移りて罪を小松谷待たぬ日数も
0000_,31,958a06(00):きさらぎの中の八日に早やなりぬ。浮世を忍び墨染の
0000_,31,958a07(00):法衣に身をば包みても香は漏る梅の門の戸をほとほと
0000_,31,958a08(00):おとなふ二人の尼僧、誰様ぞお取次ぎをと云ふもあた
0000_,31,958a09(00):りへ気がねる声、善信房立出て設くると云へども、常
0000_,31,958a10(00):に閉さぬ師の房の御教へなるに、かく閉さねばならぬ
0000_,31,958a11(00):憂たてさよと開けばおづおづ立入る女性、オオ松虫殿
0000_,31,958a12(00):鈴虫殿いづれに忍び今日が日まで、よくぞ無事でさり
0000_,31,958a13(00):ながら、何と思ふて此の所へは、さあ此度の師の御房
0000_,31,958a14(00):の御災難安楽住蓮お二方の敢へない御最期、皆妾二人
0000_,31,958a15(00):の為めと思へばあるにもあられぬ悲しさ、責めて御前
0000_,31,958a16(00):にひれ伏して罪のしもとを松虫が心を推して善信様ど
0000_,31,958a17(00):うぞ師の御坊へお取りなしをとうるみ声、同じ思ひに
0000_,31,958b18(00):鈴虫もふりそそぎたる袖時雨とふに死ぬるこの命、今
0000_,31,958b19(00):日までながらへ浅間しい、はづかしい見参に入ること
0000_,31,958b20(00):もたつた一言、師の坊にお詑びがしたさ叱られたさ、
0000_,31,958b21(00):もし善信樣と取りすがれば松虫も取りすがり、お前様
0000_,31,958b22(00):も妻子を持ち、女の心はよふ御存じ、お慈悲情けと搔
0000_,31,958b23(00):き口説かれ、胸にひつしと善信坊、たとへ如何なる理
0000_,31,958b24(00):はありとも、その妻子を持つたればこそ、宗敵が讒訴
0000_,31,958b25(00):の種となり、師匠がけふの憂目となる、この善信は不
0000_,31,958b26(00):孝第一さらさらお二方の業ではない、とは云へ朝廷の
0000_,31,958b27(00):手前世間の思惑今が大事の御瀬戸際に御見参は穏やか
0000_,31,958b28(00):ならずわきまへ給へと諭されてすりやお詫さへかなわ
0000_,31,958b29(00):ぬとか、阿難尊者の再来とたのむあなたに振りはなさ
0000_,31,958b30(00):れどうなる事ぞ何とせうと二人は手に手取交し、泣く
0000_,31,958b31(00):より術はなかりけり。俄かに門外人馬の響き、上使
0000_,31,958b32(00):上使と呼ばる声声、素破こそ大事と馳せいづる
0000_,31,958b33(00):法蓮善綽性願其他、善信坊は二人の女性、見咨められ
0000_,31,958b34(00):じと籬の蔭入る間あらせず御法の門外、仏にあらで鬼
0000_,31,959a01(00):鹿毛の駒のたてがみ二頭だて、紫こぞめの手繩かいく
0000_,31,959a02(00):り五位の衣冠もおごそかに、上使は検非違使久経、武
0000_,31,959a03(00):次、二人の官人馬より飛をり互ひにゑしやく庵の上座
0000_,31,959a04(00):に推し通る、ヤア法然房源空、まつた徒弟善信はいづ
0000_,31,959a05(00):れにある、疾くまかん出て上意の次第、謹んで承はれ
0000_,31,959a06(00):畏れ多くも太政官符の申渡しなるぞと威猛高、人人は
0000_,31,959a07(00):つとかしこみて手に汗握るばかりなり。紫雲を出る月
0000_,31,959a08(00):の影、異香薫ずる一間より立出で給ふ法然上人、後に
0000_,31,959a09(00):随ふ善信坊、上使の前に静静と心はゆるがぬ金剛座、
0000_,31,959a10(00):礼拝いともいんぎんなり。久経は威儀を正し、如何に
0000_,31,959a11(00):源空善信上よりの御沙汰謹んで承はれと取出す一書、
0000_,31,959a12(00):太政官府土佐の国司
0000_,31,959a13(00):流人源空事藤井ノ元彦、使左衛門ノ府生、武次、同
0000_,31,959a14(00):じく越後の国司、流人善信事藤井の善信使府生源秋
0000_,31,959a15(00):兼右流人元彦と善信を領送の為め件らの人をさして
0000_,31,959a16(00):発遣件の如し、国よろしく承知して、例によりて此
0000_,31,959a17(00):れを行へ、路次の国、又よろしく食済兵馬三疋を賜
0000_,31,959b18(00):ふべし、符到奉行
0000_,31,959b19(00):建永二年二月十八日 右大史中原ノ朝臣
0000_,31,959b20(00):左少辨藤原ノ朝臣
0000_,31,959b21(00):以上と音声さわやかに読み渡されて門弟一同、余りの
0000_,31,959b22(00):事にあきれ果て唯茫然たるばかりなり。上人少しも動
0000_,31,959b23(00):じ給はず、愚僧を土佐へ又善信を越後へ流されんとの
0000_,31,959b24(00):上意畏み奉ると、事もなげなる御受けに末座に控ゑし
0000_,31,959b25(00):聖覚法印たまりかね、此れはしたり師の坊様、さりと
0000_,31,959b26(00):は余りの軽軽しさ、一期の大事千載の恥辱よくよく御
0000_,31,959b27(00):思案なふてはかなひますまいと、言ふを引取る法蓮房
0000_,31,959b28(00):聖覚法印の申す処至極と存ぜられまする、そも念仏は
0000_,31,959b29(00):三千大千世界の真理、我等が我儘にて申す念仏にあら
0000_,31,959b30(00):ず皆皆大悲招喚の呼声に催されて自然と出づる仏性の
0000_,31,959b31(00):雄叫び幾千万本の制札を建つればとてなんの、なんの
0000_,31,959b32(00):念仏停止がなり申さうか、又住蓮安楽が破戒女犯の御
0000_,31,959b33(00):疑ひ、そは御勝手の邪推でござる、若し又破戒女犯の
0000_,31,959b34(00):詮議立てせば却つて南都や北領の法師ともは片ツ端か
0000_,31,960a01(00):ら流人でござらう、それには引替内外相応清浄無垢の
0000_,31,960a02(00):師の房を、藤井の元彦なんどどいふ俗名までつけ、遠
0000_,31,960a03(00):流とは余りと申せばふさわしからぬ、法のお裁き法蓮
0000_,31,960a04(00):命にかけて不服でござる、と悲憤の相好、上人暫しと
0000_,31,960a05(00):押止め、如何に法蓮房方方もお聞あれ、法然こたびの
0000_,31,960a06(00):流罪更に恨みとは存じ申さぬ、其故は齢既に八十路に
0000_,31,960a07(00):せまり、たとへ師弟が同じ都に住めばとて娑婆の別離
0000_,31,960a08(00):は近きにあるべし、よしまた山海遠く隔てばとて浄土
0000_,31,960a09(00):の再会何ぞ疑はん、いとふたとて生きて居るは人の身
0000_,31,960a10(00):惜しんだとて死するは入の命、何ぞ必ずしも処によろ
0000_,31,960a11(00):うや、しかのみならず念仏の興行都に於て年久しい、
0000_,31,960a12(00):早く辺鄙に赴いて田夫野人を勧めんことこれ年頃の本
0000_,31,960a13(00):意なり、然るに時節到らずして素意を果さぬ源空が、
0000_,31,960a14(00):流罪の影にて念仏を辺土に流布し本意を遂ぐる、是れ
0000_,31,960a15(00):ぞ誠に朝恩ぞや、ハハ忝けなし有難しと聖者の言葉肝
0000_,31,960a16(00):に銘じて人人はアツとばかりに合掌礼拝随喜の涙に暮
0000_,31,960a17(00):れゐたり。武次は言葉をやはらげ上使の役目はこれに
0000_,31,960b18(00):て相すむ。発足は未の上刻迎ひの輿を参らすまでゆる
0000_,31,960b19(00):ゆる名残を惜しまれよ、ああ想ひかへせば空恐ろしい
0000_,31,960b20(00):現在まざまざ無実の罪科と知りながらも、斯く上人た
0000_,31,960b21(00):ちを罪人扱ひに致せしこと、これも検非違使の役目を
0000_,31,960b22(00):勤むる身なればこそ、お許しめされい法然上人、やが
0000_,31,960b23(00):て雲井の御胸も晴れ一陽来復、芽出度き都入りの御沙
0000_,31,960b24(00):汰やあらん、いでその時こそは役目のがれ、心になか
0000_,31,960b25(00):りし今日のおん詫び、よろこび勇んで御出迎ひ、まづ
0000_,31,960b26(00):まづそれまでは御老体随分ともにご大切、又お弟子が
0000_,31,960b27(00):たも師の房おん大事に、爰しばしの一ツとき雨と情を
0000_,31,960b28(00):あとに両人は大内さして立ち帰へる。木屑となりて流
0000_,31,960b29(00):れ行く、それは昔の菅相亟、誰れ、柵と成りてだにと
0000_,31,960b30(00):どめん人は今も又無き世は同じ無実の流罪、哀れや法
0000_,31,960b31(00):然上人にいよいよ宣旨を下されて嵐の後のしじまにも
0000_,31,960b32(00):似て今更に人人は、心心の無常観、善信房は上人の御
0000_,31,960b33(00):膝近く進みより、かねて覚悟は致したれども、あなた
0000_,31,960b34(00):様は土佐の国、又それがしは越後へと南と北の生別れ
0000_,31,961a01(00):同じ事なら師弟は親子、親子一処にいづこまでも御供
0000_,31,961a02(00):致したうござりますると申上ぐれば、いやのう善信、
0000_,31,961a03(00):北と南に師弟が別れ、唯一心に念仏のみのりを拡めて
0000_,31,961a04(00):参れとある、此れぞ如来の御仕向け勇んでお行きやれ
0000_,31,961a05(00):勇んで参る、然るに我れは元来孤独親もなし、又子も
0000_,31,961a06(00):持たねど、おことは三界繋縛の切るに切りうき絆を持
0000_,31,961a07(00):つ、其の鉄索を美事に断切り恩愛輪廻の不破の関無事
0000_,31,961a08(00):に越し路へ出立おしやれ、我れは都に名残の念仏いざ
0000_,31,961a09(00):方方と奥の方、静静立つて入り給ふ
0000_,31,961a10(00):さして入り玉ふ梅が香匂ふ法の庭、経読む鳥の音もす
0000_,31,961a11(00):みていとど哀を催をせり。跡に善信唯ひとり、肝に答
0000_,31,961a12(00):へし師の言葉、難行苦行はいとはねども色身の此の悩
0000_,31,961a13(00):み、故郷の妻子が忘れらりよか、況してや二人は父恋
0000_,31,961a14(00):ひし夫恋ひしと明け暮れに歎げき悲しみあこがれん、
0000_,31,961a15(00):不愍のものやとかこちごと、思ひは同じ玉日の前、若
0000_,31,961a16(00):君諸共一間よりまろびいで取り縋り、わつと計りに泣
0000_,31,961b17(00):き沈む。善信房打ち驚き、二人はどうして此の処へと
0000_,31,961b18(00):いぶかれば、玉日の前顔をあげ流罪の上使がおんいり
0000_,31,961b19(00):と浅倉主膳のしらせに依り、来ごとは来ても上使の手
0000_,31,961b20(00):前かくれて委細を聞きました。泣くも泣かれぬ越路潟
0000_,31,961b21(00):今別れてはいつか又めぐり逢ふ瀬もしら雪に埋もれ給
0000_,31,961b22(00):ふいたわしや。教への為めといひながらまだいたいけ
0000_,31,961b23(00):なこの和子が、片時側を離れても尋ね廻はりこの母を
0000_,31,961b24(00):泣かすことかと泣く涙よそのみる目もあはれなり。子
0000_,31,961b25(00):はさがしくも父の手にしつかと執り附きおろおろ声、
0000_,31,961b26(00):越路とやらへ行くことをやめて下さりませ、行くなら
0000_,31,961b27(00):麿も母樣も一緒に連れてと頑是なき幼な心はいとど猶
0000_,31,961b28(00):親の心の迷ひの絆、右と左に引き締められ五臟六腑も
0000_,31,961b29(00):さかるる思ひ、おお出来したした孝行なことよふいふ
0000_,31,961b30(00):て呉れましたなア、オオそれでこそ皇太皇后の大進、
0000_,31,961b31(00):藤原の有郷卿が孫ほどある。さりながらよふ聞きや此
0000_,31,961b32(00):の父は松若丸と申せし四歳の時に父に別かれ、八歳に
0000_,31,961b33(00):して母に死に別れそれを思へばそなたはまだやうやう
0000_,31,962a01(00):五歳の今日までも父と母とが此の世にそろひ、起すも
0000_,31,962a02(00):ねかすも親と親、何ぼう果報な身であらふぞ。今父が
0000_,31,962a03(00):越路へ行くは御法の為めの大事な御使ひそれをむつが
0000_,31,962a04(00):り留むるのは孝行に似て不孝第一、ここの処を聞き分
0000_,31,962a05(00):けておとなしう留守居めされ、のう和子は賢い、もう
0000_,31,962a06(00):泣きやるな。アイ、はて、そなたが泣けば母も泣く、
0000_,31,962a07(00):エ、エ、玉日も泣きやるな、ハイ、和子も泣きやるな
0000_,31,962a08(00):アイ、はてさて泣くなと口には立派、心には流石、恩
0000_,31,962a09(00):愛別れの涙、妻は心もみだるる思ひ、泣顔みせじとく
0000_,31,962a10(00):ひしばり、そむくる顔をさし覗き、父様さへお泣きや
0000_,31,962a11(00):るもの麿も悲しい、これ母様、父君やつて下さるなと
0000_,31,962a12(00):せがむ子よりもせがまるる母はあるにもあられぬ思ひ
0000_,31,962a13(00):彌陀の誓は罪咎も唯そのままに救はるる、大慈大悲と
0000_,31,962a14(00):聞くものをさりとはつらき此の苦現、これも宿世の因
0000_,31,962a15(00):果かと夫の膝に身を投げかけ悲歎の涙ぞあはれなる。
0000_,31,962a16(00):一間のうちに声あつて、三界の繋縛を断つ彌陀の利劔
0000_,31,962a17(00):今こそ形見に取らするぞと、開く一間の上段には、利
0000_,31,962b18(00):劔即是彌陀名号、一声唱念罪皆除と書きしるしたる師
0000_,31,962b19(00):の墨蹟、前に上人、端座合掌
0000_,31,962b20(00):南無至心帰命礼西方阿彌陀仏
0000_,31,962b21(00):彌陀身色如金山相好光明照十方
0000_,31,962b22(00):唯有念仏蒙光摂当知本願最為強
0000_,31,962b23(00):六方如来舒舌証専稱名号至西方
0000_,31,962b24(00):到彼華開聞妙法十地願行自然彰
0000_,31,962b25(00):願共諸衆生 往生安楽国
0000_,31,962b26(00):安楽住蓮頓生菩提、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛と回向のお
0000_,31,962b27(00):ん声、聞くよりもはツと善信、心の頓悟あら勿体なや
0000_,31,962b28(00):尊とやと三拝九拝ありがたなみだ、いかに善信、彌陀
0000_,31,962b29(00):名号の回向に依つて、安楽住蓮出離得脱、汝は此の利
0000_,31,962b30(00):劔によつて、美事鉄索断ち切るかと仰せに善信飛びし
0000_,31,962b31(00):さり、ハハアこれこそ真に利劔の名号、遠流の本尊、
0000_,31,962b32(00):ハハアありがたやかたじけなや、これこれ玉日、和子
0000_,31,962b33(00):も承れ念佛申さんともがらは皆一様に彌陀のおん子、
0000_,31,962b34(00):南無阿彌陀仏と唱ふれば、即ちその中には妻も子も我
0000_,31,963a01(00):れも姿をあらはすぞや、何の悲歎、何の愛着、離別も
0000_,31,963a02(00):なく生死もなし唯念仏おこたるなど、さとし給ひしそ
0000_,31,963a03(00):の言の葉、後には親鸞聖人とて本願他力の開山と今の
0000_,31,963a04(00):世までも諸人を救ひ玉ふぞありがたき。幼な心の房丸
0000_,31,963a05(00):君、聞きわけましたその代り、利劔の名号、阿彌陀様
0000_,31,963a06(00):御用がすんだら父上を早う帰して下されと紅葉の諸手
0000_,31,963a07(00):合掌し南無阿彌陀仏もいぢらしし、籬の蔭の松虫鈴虫
0000_,31,963a08(00):思はず御前にまろび出で、ノウ勿体なや恐ろしや、師
0000_,31,963a09(00):匠を遠流の憂目に逢はせ、大事なお弟子を殺したは皆
0000_,31,963a10(00):わたしたちふたりの悪業、鬼とも夜叉ともおそろしい
0000_,31,963a11(00):我れと我身を刺殺し、罪のお詑びと思ふたは其も女の
0000_,31,963a12(00):浅い心、よしない二人が恋ゆえにこんな大事を引き起
0000_,31,963a13(00):し、さぞ方方は松虫が、いや鈴虫が憎くからう、こら
0000_,31,963a14(00):へてたべとばかりにて、おがみまわりふしまろび、声
0000_,31,963a15(00):を限りに泣き叫ぶ。上人慈眼をそそがせたまひ、彌陀
0000_,31,963a16(00):の利剣に愛念断ち切り、清浄無垢の白蓮紅蓮、なほも
0000_,31,963a17(00):華開実相のすがたを極めて極楽の一蓮托生楽みにいよ
0000_,31,963b18(00):いよ念仏励まれよと情けの仰せ有難涙、並みゐる人も
0000_,31,963b19(00):もろともに濡れぬ袂はなかりけり。表の方に声あつて
0000_,31,963b20(00):流人領送の時来れり、方方用意と呼ばわつて、怪しの
0000_,31,963b21(00):張輿舁ぎ荷はせ、門内狹しと入り来り上人に打ち向ひ、
0000_,31,963b22(00):土佐への流人法然房源空事藤井の元彦、越後への流人
0000_,31,963b23(00):善信事藤井の善信、又ツた源空事、月輪関白のお執成、
0000_,31,963b24(00):土佐は余りに道遠し、殿下知行の讃岐の国へ変更の旨
0000_,31,963b25(00):仰せ出だされた、いで罪人の乗物へ、ハヤトクハヤトクと
0000_,31,963b26(00):ありければ、おん痛はしや上人は玉藻苅るてふ讃岐潟
0000_,31,963b27(00):荒磯波の辺土まで送ると思へば人人は又今更の涙雨こ
0000_,31,963b28(00):れが一世のわかれかと目も呉れ胸も張り裂くおもひ、
0000_,31,963b29(00):涙をかくし善信房上人の前に謹んで、処こそはへだつ
0000_,31,963b30(00):れど心はおなじ謫居のおん供、師の御房には御健固に
0000_,31,963b31(00):て追つつけ浄土で浄土でとあといひさして呑み込む涙
0000_,31,963b32(00):上人おん目に涙を浮べ因緣つきずば今生にて何ぞ再会
0000_,31,963b33(00):なからんや、いづれも健固で念仏興行怠るな、方方さ
0000_,31,963b34(00):らばとおん上人いでさせ玉ふおんすがた、法蓮房は上
0000_,31,964a01(00):人の法衣の袖に執り縋り鋭邁、豪気の御心でも争はれ
0000_,31,964a02(00):ぬはお歳のうへ、八十路に入らん御老体で波風荒き讃
0000_,31,964a03(00):岐潟、どうお命がつづきませう、何卒最期の御思案あ
0000_,31,964a04(00):つて、九死に一生を得る手段、念仏停止の御沙汰が願
0000_,31,964a05(00):はしうござりますると、涙と共に申すにぞ、上人きつ
0000_,31,964a06(00):と見たまひて、血迷ふたか法蓮房、法然が興ずる浄土
0000_,31,964a07(00):の教は濁世末代の衆生が出離の要道念仏の弘通は、人
0000_,31,964a08(00):止めんとするも法更にとどまるべからず、この法然流
0000_,31,964a09(00):罪はおろか、たとへ死罪に行はるるとも念仏申さであ
0000_,31,964a10(00):るべきかと、一念変ぜぬ大磐石、法蓮房感じ入り我れ
0000_,31,964a11(00):ながら不覚なり、さりながら古来の高僧聖者には皆御
0000_,31,964a12(00):遺蹟がござりまする、万一御入滅もござらばいづれを
0000_,31,964a13(00):御遺蹟と定めませうやとありければ、上人詞をやわら
0000_,31,964a14(00):げたまひ、遺蹟を一処に定むる要なし、念仏を唱ふ所
0000_,31,964a15(00):は貴賤貧富の別ちなく、海人漁人苫屋まで皆法然が遺
0000_,31,964a16(00):蹟ぞと、仰せはげにもありがたき勢至菩薩の御再来、
0000_,31,964a17(00):実に現当のいき如来とみな一様に礼拝す、名残はつき
0000_,31,964b18(00):ず早やさらばと、立ちいでたまふおんすがた、「露の身
0000_,31,964b19(00):はここかしこにてきゆるとも心は同じ、華のうてな
0000_,31,964b20(00):ぞ、」詠じたまひ、静静輿に召したまへば、善信房も
0000_,31,964b21(00):乗り移つるいざとうちたつ門前俄に騒がしく、東下り
0000_,31,964b22(00):の尻馬を又乗り直して西の空、一世の大事と蓮生熊谷
0000_,31,964b23(00):大手を拡げ大音声、ヤア勢至菩薩の再来たる師の上人
0000_,31,964b24(00):に仮名を附け、遠流などとは存外千万、蓮生これにあ
0000_,31,964b25(00):るからは其輿やらぬと仁王立ち、素破、狼藉と警固の
0000_,31,964b26(00):役人、どつとかかるを投げのけ蹴返し、ひとつぶて烈
0000_,31,964b27(00):げしき手なみに警固の役人後しざりする斗りなり。検
0000_,31,964b28(00):非違使、怒の声あららげ、ヤア不届きなり蓮生房、上
0000_,31,964b29(00):意に背くは反逆同然そこうごくなと身構へたり。ウハ
0000_,31,964b30(00):ツハツアハアアアアア這は小賢しの上意呼ばわり、南
0000_,31,964b31(00):都や比叡の偽せ法師が嗷訴こはさの念仏停止、流罪の
0000_,31,964b32(00):御沙汰が何の上意、いでや仏法王法を擁護のためのひ
0000_,31,964b33(00):といくさ、此の法衣此の頭陀を太刀、物具にぬぎかへ
0000_,31,964b34(00):て比叡山の三千坊、南都の七箇寺ども攻め附け攻め破
0000_,31,965a01(00):り悪僧残らず打ち滅ぼし念仏流布の世となさん、何と
0000_,31,965a02(00):何ととののしつたり。上人輿よりをりさせたまひ、如
0000_,31,965a03(00):何に蓮生、汝遁世の素願を忘れ、閻浮に復る心の修羅
0000_,31,965a04(00):太刀執る業が何の勇気、一念彌陀仏称名の不退転の心
0000_,31,965a05(00):こそまことの勇気と知らざるか、我が讃岐への門ん出
0000_,31,965a06(00):は謫居にあらぬ彌陀の御使ひ、玉藻にあらで浦人を念
0000_,31,965a07(00):仏の鎌に刈りとるため、心得たるか蓮生といとねんご
0000_,31,965a08(00):ろにさとしたまへば、蓮生手をつき頭を下げ、ハハア、
0000_,31,965a09(00):現身三昧発得の生如来たる師のおことば、なでうそむ
0000_,31,965a10(00):かんさりながら鎧の袖の一振にも足らぬやからがその
0000_,31,965a11(00):ために師匠がけふの御法難、おもへば丹治直実のきの
0000_,31,965a12(00):ふをすてて、墨染の法衣の袖が恨めしいと腸を断つ男
0000_,31,965a13(00):泣き、阿彌陀が峰にこだまして山もくづるる如くなり
0000_,31,965a14(00):検非違使の声として、ヤアヤア者共はや時うつる、上
0000_,31,965a15(00):人を疾く疾く輿へ乗せまゐらせよと下知すれば、ハツ
0000_,31,965a16(00):と答へて雑人ばらいざさせたまへとありければ、女心
0000_,31,965a17(00):は尚更に声なきほそる鈴虫が永き船路の浪風をいとわ
0000_,31,965b18(00):せ玉へとふし沈めば、どうぞ御無事の御帰洛をまつ虫
0000_,31,965b19(00):の音もすがれゆく。父上なうと幼な子がしやくりあぐ
0000_,31,965b20(00):れば、玉日の前、必ずおん顔わすれぬやう、好うみて
0000_,31,965b21(00):おきやれとさし覗き、みやる目と目に千万無量、胸は
0000_,31,965b22(00):湧き立つ血の涙、早や舁ぎだす越路と讃岐、別れ別れ
0000_,31,965b23(00):に行く道の、並木の松や深みどり忽ち変はる六金色虚
0000_,31,965b24(00):空に花ふり音楽きこゑ、伽陵頻伽の鳥の声みこしの前
0000_,31,965b25(00):後にあらはれて、空よりみおくる天人菩薩みよや権化
0000_,31,965b26(00):のおん守、やがて神託、岩清水、雲井のうへより流罪
0000_,31,965b27(00):の御赦免そのとしもはやくれつかた、法の戦に勝尾寺
0000_,31,965b28(00):念仏再び時めきて、二世安楽の浄土門、いよいよひら
0000_,31,965b29(00):く華頂山、三世に響く三味線のいとも尊とき知恩院、
0000_,31,965b30(00):西と東の本願寺、二十四輩に跡とめて、代代の教の源
0000_,31,965b31(00):は是こそ二十五霊場、第一番は美作や久米の稲岡誕生
0000_,31,965b32(00):寺、流れをともにいざくまん をはり
0000_,31,966a01(00):史料と抄錄
0000_,31,966a02(00):玉葉
0000_,31,966a03(00):(文治五年)八月一日、戊子、今日請法然房之聖人、
0000_,31,966a04(00):談法文語及往生業
0000_,31,966a05(00):八月七日、甲午、入夜向九条堂先是洗頭自明旦可
0000_,31,966a06(00):始恒例念仏之故也
0000_,31,966a07(00):八月八日、乙未、辰刻、法然聖人来授戒、其後始念
0000_,31,966a08(00):仏
0000_,31,966a09(00):(建久元年)七月廿一日、甲戌、今日向九条、自明
0000_,31,966a10(00):日可始恒例念仏之故也
0000_,31,966a11(00):七月廿三日、乙亥、午刻、先請法然坊源空上人受戒、
0000_,31,966a12(00):次始恒例念仏
0000_,31,966a13(00):(建久二年)七月廿八日、甲戌、早旦向九条堂、為
0000_,31,966a14(00):受戒也、請源空上人受之
0000_,31,966b15(00):八月十九日、乙未、早旦、女房相具、向九条堂、女
0000_,31,966b16(00):房自今日、始如法読誦之加行之故也、余自廿一日
0000_,31,966b17(00):可始恒例毎年念仏之故也、
0000_,31,966b18(00):八月廿一日、丁酉、懺法三時了之後、請法然房源空
0000_,31,966b19(00):上人、受戒了、入夜、又読懺法、即余始念仏、女
0000_,31,966b20(00):房始読誦也、其法如如法経行儀也、又女房一人為
0000_,31,966b21(00):同行、師房
0000_,31,966b22(00):九月廿三日、己巳、此日、中宮依不例、退出里亭、
0000_,31,966b23(00):重日雖可憚、事火急之故也
0000_,31,966b24(00):九月廿九日、乙亥、此日、請法然房上人源空、中宮
0000_,31,966b25(00):有御受戒事、先例如此上人、強不参貴所之由、
0000_,31,966b26(00):有傾輩云云、是不知案内也、受戒者、是事不聊
0000_,31,966b27(00):爾、以伝受人可為師、而近代、名僧等、一切不
0000_,31,966b28(00):知戒律事、禅仁、忠尋等之時まては、名僧等、皆好
0000_,31,966b29(00):授戒、自其以後都無此事、近代上人皆学此道、又
0000_,31,966b30(00):有効験、仍不顧傍難、所請用也
0000_,31,966b31(00):十月六日、辛巳、今日又有受戒事、法然房
0000_,31,967a01(00):(建久三年) 八月七日、入夜向九条堂 自明日為
0000_,31,967a02(00):修恒例念仏也
0000_,31,967a03(00):八月八日、早旦洗髪、午刻、請源空上人受戒、即始
0000_,31,967a04(00):念仏
0000_,31,967a05(00):(建久八年) 三月廿日、甲午、余今日加灸点 一所
0000_,31,967a06(00):一壮灸始了、医師時成、今日、請法然房受戒
0000_,31,967a07(00):(正治二年) 九月廿七日、庚辰、自夜半 女房病悩、
0000_,31,967a08(00):及危急云云、仍修諷誦
0000_,31,967a09(00):九月卅日、癸未、女房、今日殊大事発、仍請法然房
0000_,31,967a10(00):令授戒 有其験 尤可貴可貴、又渡邪気之後、
0000_,31,967a11(00):聊落居、成円祈之
0000_,31,967a12(00):十月一日、甲申、及晩、女房温気散畢、為悦、今日
0000_,31,967a13(00):猶受戒
0000_,31,967a14(00):十月二日、乙酉、今日、又更発、太以重悩、今日猶受
0000_,31,967a15(00):戒
0000_,31,967b16(00):明月記
0000_,31,967b17(00):(正治二年) 九月三十日、天陰雨灑、夜天晴、鷄鳴自
0000_,31,967b18(00):六条殿退下、未一寝人人周章、北政所又重令発給、火
0000_,31,967b19(00):急之由被申、仍驚騒参上、但別事不聞出、遅明女院渡
0000_,31,967b20(00):御、参上退下、往反窮屈、請法然房有御戒云云、又以
0000_,31,967b21(00):成円僧都護身
0000_,31,967b22(00):(建仁元年) 十月廿七日、天晴、巳時許参口殿、去十
0000_,31,967b23(00):七日女院御出家云云、於此御堂有此事、法然房参勤云
0000_,31,967b24(00):云、但殿下頻令難渋申給、不被御髪云云
0000_,31,967b25(00):(建仁二年) 一月廿八日、天晴、入道殿渡御(九條兼實★)、午時許
0000_,31,967b26(00):隆信朝臣使者来云、夜前九条殿御出家(於法性寺★)、幽聞及歟者、
0000_,31,967b27(00):入道殿還御之後、申始許参入法性寺月輪殿、新御殿夜前
0000_,31,967b28(00):御仏事等訖、子時許御此御堂、法然房参入、被遂御本
0000_,31,967b29(00):意、奈良法印奉剃給云云
0000_,31,967b30(00):(建永元年) 十一月廿七日、天晴、後聞、大臣殿巳令(大宮實宗★)
0000_,31,967b31(00):遂給、法然房戒師、法印奉剃、実信取被物、盛親取布
0000_,31,968a01(00):施絹、納言被取野劔衣帽直衣、剃髪之後、著染衣受戒
0000_,31,968a02(00):給
0000_,31,968a03(00):建永二年承元元★正月廿四日、天晴、陰雨間降、巳時出門
0000_,31,968a04(00):参水無瀬殿、出御馬場殿訖後参着、頭弁出京、専修念
0000_,31,968a05(00):仏之輩停止事重可宣下云云、去比聊有事故云云、其事
0000_,31,968a06(00):已非軽、又不知子細、不及染筆
0000_,31,968a07(00):二月九日、天晴、近日只一向専修之沙汰、被搦取被拷
0000_,31,968a08(00):問云云、非筆端之所及、
0000_,31,968a09(00):二月十日、天晴、任大臣云云、巳時参上、申始出御訖
0000_,31,968a10(00):退下、例笠懸云云、新宿所寒風無術、仍参御所、入臥
0000_,31,968a11(00):已講壇所、今朝兼時朝臣為入道殿御使参九條兼實★、相具専修僧
0000_,31,968a12(00):云云、専非可被申事歟、骨鯁之御本性猶以如此
0000_,31,968a13(00):四月十七日、入道殿下御事、近近太不穏、背年来之御
0000_,31,968a14(00):存知之旨、可悲可恥
0000_,31,968a15(00):嘉祿三年安貞元★六月廿七日、天晴、巳後忽陰、大風起、
0000_,31,968a16(00):雲飛揚、終夜大風、雨間落、後聞、忠行卿一条高倉群
0000_,31,968a17(00):盗襲来、人多而不入云云、夜深早凉成、始着有綿物、
0000_,31,968b18(00):山門僧又依妨専修、発法然房之墓、破壊其墓堂、以濫
0000_,31,968b19(00):僧等令壊取之間、自武家制止、不知此事日欲陵礫山所司等
0000_,31,968b20(00):之間、訴訟又嗷嗷云云、近日謀反悪徒蜂起之最中、時
0000_,31,968b21(00):節負同心之疑歟、甚無機間、
0000_,31,968b22(00):三長記
0000_,31,968b23(00):建久六年七月十三日、晴、御戒自今日印西上人参
0000_,31,968b24(00):仕云云、源空湛豪三上人各五十ケ日被結番、至御産期
0000_,31,968b25(00):可参仕云云
0000_,31,968b26(00):元久三年二月十四日、乙丑、陰、新宰相送御教書
0000_,31,968b27(00):院宣也曰法法安楽両人可召出、又高野悪僧覚幽同可被
0000_,31,968b28(00):配流者、件法法安楽両人源空上人一弟也、安楽房者勧
0000_,31,968b29(00):進諸人、法法房者立一念往生義、仍可被配流此両人之
0000_,31,968b30(00):由、山階寺衆徒重訴申之、仍及此沙汰歟、於其操行者
0000_,31,968b31(00):縦雖為不善、所勧所執只今仏往生之義也、依此事被行
0000_,31,968b32(00):罪科、可痛哭可痛哭、当此時奉行此事、先世罪業之令
0000_,31,968b33(00):然歟、但山階両衆徒殊成此訴訟、若依背神慮春日大明