0000_,09,051b18(00):吉水遺誓諺論附錄正流辨
0000_,09,051b19(00):
0000_,09,051b20(00):獅谷の忍澂和尚。扶宗の志深くして。よく吉水鎭
0000_,09,051b21(00):西の跡をまもり。六時に禮讃して。宗徒の作業を
0000_,09,051b22(00):匡し。至心に念佛して。願生の思ひをかたくす。
0000_,09,051b23(00):其頃も宗敎を罔冐し。己見にほこりて。故人を輕
0000_,09,051b24(00):蔑するものありき。和尚は才智古今に秀で玉ひた
0000_,09,051b25(00):れども。ただ人情を空じて。ひとへに祖風を仰ぐ
0000_,09,051b26(00):故に。若干の著述。皆末世を照す法燈なり。中に
0000_,09,051b27(00):於て一枚起請諺論に鎭西相承。源智相承と云事あ
0000_,09,051b28(00):り。深く察して扶宗の深志をたふとむべし。然れど
0000_,09,051b29(00):も看る人容易く過して塗に聽きて塗に説くの思を
0000_,09,051b30(00):なしぬ。此頃かの草案には。わけてこまやかなる
0000_,09,051b31(00):慈訓を遺し玉ふを見て。かかる要義の朽ちもてゆ
0000_,09,051b32(00):かんことを惜みて。爰に附す
0000_,09,051b33(00):初に鎭西相承とは。圓光大師預じめ鎭西聖光上人に。
0000_,09,051b34(00):付囑し玉へる一紙の法語あり。是まさしく一枚起請
0000_,09,052a01(00):の本文なり。此本文に起文請と。奧書とを加へて。
0000_,09,052a02(00):末期の御遺誡とはし玉ひけるなり。さるを此縁起を
0000_,09,052a03(00):知らざる人は。一枚起請は御臨終に始めて書置かせ
0000_,09,052a04(00):玉へる。御遺誡とのみ思へり。是故に鎭西相承の規
0000_,09,052a05(00):模を忘るるのみにあらず。又大師の密意もあらはれ
0000_,09,052a06(00):ざるなり。しかれば吉水鎭西の末學は。特に知るべ
0000_,09,052a07(00):き縁起なり
0000_,09,052a08(00):鎭西聖光上人。諱は辨阿。筑前香月の庄の人なり。
0000_,09,052a09(00):生年十四歳より天台宗を學す。二十二歳。壽永二年
0000_,09,052a10(00):の春。延曆寺に登りて。東塔南谷觀叡法橋の室に入り
0000_,09,052a11(00):後には寳地房法印證眞に事へて。一宗の秘頥を受け。
0000_,09,052a12(00):四明の奧義を究む。二十九歳。建長元年に故郷に歸
0000_,09,052a13(00):り。解行譽ありしかば。油山の學頭に補せらる。三
0000_,09,052a14(00):十二の歳世の無常をさとりて。無上道心を發し。今
0000_,09,052a15(00):生の名利を捨て偏に往生極樂を願ひて。念佛の行者
0000_,09,052a16(00):とぞなり玉ひける。建久八年に上洛して。吉水の勸
0000_,09,052a17(00):化の盛なるを聞きて心中に思惟すらく。諸宗皆往生
0000_,09,052b18(00):を願ひ念佛を行ず。其中に念佛の義を釋すること。台
0000_,09,052b19(00):宗に過きたるはなし。今法然上人念佛を弘通し玉ふ
0000_,09,052b20(00):といへども其義道何ぞ我所解に過きんやと。しかは
0000_,09,052b21(00):あれど。昔し寳地房法印。常に上人の智德を讃歎せ
0000_,09,052b22(00):られし事を思ひ出て。結縁せばやと思ひて。吉水の
0000_,09,052b23(00):禪室に參ず。時に大師六十五。辨阿三十六なり。遁世
0000_,09,052b24(00):念佛の行者なるよし申入れられければ。大師念佛の
0000_,09,052b25(00):義は廣く事理定散に通じて。普く八宗九宗に涉る。未
0000_,09,052b26(00):審汝が行ずる所はいづれの念佛ぞやと問はれし時。
0000_,09,052b27(00):其勢ひ大山の覆ふが如く。大海に望むが如くにして。
0000_,09,052b28(00):茫然として答ふることあたはず。時に大師の曰。汝
0000_,09,052b29(00):は天台の學者なれば今まさに三重の念佛を分別し聞
0000_,09,052b30(00):かしめん。一には摩訶止觀に明す念佛。二には往生
0000_,09,052b31(00):要集に勸むる念佛。三には善導和尚の立玉へる念佛
0000_,09,052b32(00):なりとて。此三重の念佛をしきりに立てかへてくは
0000_,09,052b33(00):しく其義を演玉ふに。文義廣博にして智解深遠なり。
0000_,09,052b34(00):崑崙の頂を仰くが如く蓬瀛の底を臨むに似たり。未
0000_,09,053a01(00):時より子時に至るまで。演説數刻に及ぶ。是を聞く
0000_,09,053a02(00):に高峯の心やみ渴仰の思ひ深し。是に於て始て聖道
0000_,09,053a03(00):自力の學文の外に。淨土他力の學問ありといふこと
0000_,09,053a04(00):を信知して。大師に逢奉らずば空しく一生を過きて
0000_,09,053a05(00):まし。悲喜交ながれて。實に凡夫解脱の直路は。本
0000_,09,053a06(00):願念佛の一門に局れりと。信解せられしかば。それ
0000_,09,053a07(00):より永く大師を師とし事へて。首尾八箇年。寸陰を
0000_,09,053a08(00):惜み。釋文を研覈して。一宗の深奧を極むる事。一
0000_,09,053a09(00):器の水を。一器にうつすがごとし。爰に大師三十年
0000_,09,053a10(00):來。念佛の弘通久しく。世に盛りなりけるに。其頃
0000_,09,053a11(00):早門弟の中に弊魔きほひ起りて。吉水の秘密の相承
0000_,09,053a12(00):なりと僞はりてひそかに安心起行の邪義を勸むる輩
0000_,09,053a13(00):も。やや世に聞ゆるおりふしなりければ。大師も聖光
0000_,09,053a14(00):に逢玉へることを。實に傳燈の法器を得たりと。よ
0000_,09,053a15(00):ろこばせ玉ひにけるにこそ。老衰の御疲をも。厭は
0000_,09,053a16(00):せ玉はず。日日の講談。懈りなく。提撕の慈訓。他に
0000_,09,053a17(00):異にして。遂に淨土宗の安心起行の極要を。一紙の
0000_,09,053b18(00):法語に書し賜はりけり。聖光歸國の後。又傳法他に
0000_,09,053b19(00):異なることを標せられん爲に。附法の起請文を。御
0000_,09,053b20(00):自筆に書して。遙に鎭西に贈り玉はりて。末代の龜
0000_,09,053b21(00):鏡にぞ備へ玉ひける。聖光淨土の法門を。九州に弘
0000_,09,053b22(00):通して。其利益廣大なりき。晩年に及んで末弟の濁
0000_,09,053b23(00):亂せんことを恐れ。祖承の法語に依て末代念佛授手
0000_,09,053b24(00):印一卷を著はして。始めて淨土源流の血脈をたて玉
0000_,09,053b25(00):ひしより。吉水の正脈。綿綿としてたへず。願行相
0000_,09,053b26(00):續の正義末代に傳はれり。其ころ生佛と云ふ法師。
0000_,09,053b27(00):念佛往生に歸せんと思ひけるに。吉水の門弟。異義
0000_,09,053b28(00):蘭菊にして。其邪正凡慮に决しがたければ。遙に信
0000_,09,053b29(00):州善光寺に參詣して。此事を祈りけるに。白髮の高
0000_,09,053b30(00):僧夢中に現じて告けて曰。汝が謂ふ所。我今敎へ示
0000_,09,053b31(00):さん。鎭西聖光房。能能往生の道を知れり。彼僧の
0000_,09,053b32(00):許とに往くべしと。明かに示し玉ひければ。生佛歡
0000_,09,053b33(00):喜して。やがて筑後國へ尋ね參りける時。良忠にか
0000_,09,053b34(00):くと語りければ。良忠甚だ隨喜し玉ひて。やがて筑
0000_,09,054a01(00):後に下り。聖光上人を師としつかへて。淨土一宗の
0000_,09,054a02(00):秘頥を。相承せられしより以來。鎭西の正義は。普
0000_,09,054a03(00):く天下に流布しけるなり。さて鎭西の授かり玉ふ法
0000_,09,054a04(00):語并に附法の起請文は。筑紫物語集に載せらる。今
0000_,09,054a05(00):一枚起請と挍合の爲に具に其文を記すべし。
0000_,09,054a06(00):念佛往生と申事は。もろこしわが朝の。もろもろの
0000_,09,054a07(00):智者達の。沙汰し申さるる觀念の念佛にもあらず。
0000_,09,054a08(00):又學問をして。念佛の心をさとりとほして。申す念
0000_,09,054a09(00):佛にもあらず。ただ極樂に往生せんがために。南無
0000_,09,054a10(00):阿彌陀佛と申て。疑ひなく往生するぞと思ひとりて。
0000_,09,054a11(00):申外に別の事なし。ただし三心ぞ四修ぞなんど申事
0000_,09,054a12(00):の候は皆南無阿彌陀佛にて。决定して往生するぞと。
0000_,09,054a13(00):思ふうちに納まれり。ただ南無阿彌陀佛と申せば。决
0000_,09,054a14(00):定して往生することなりと。信じとるべきなり。念
0000_,09,054a15(00):佛を信ぜん人は。たとひ一代の御法を。よくよく學
0000_,09,054a16(00):しきはめたる人なりとも。文字一もしらぬ愚癡鈍根
0000_,09,054a17(00):の。不學の身になして。尼入道の。無智の輩に。わ
0000_,09,054b18(00):が身を同じくなして。智者のふるまひせずして。た
0000_,09,054b19(00):だ一向に南無阿彌陀佛と。申てそ叶はんず。などぞ。
0000_,09,054b20(00):又大師自筆にて。鎭西に與へ玉へる誓狀に云く。源
0000_,09,054b21(00):空所存。皆申于御邊畢。此外有所存者。以梵釋
0000_,09,054b22(00):四王。可奉仰其證。鎭西相承の法語。并に附法の
0000_,09,054b23(00):御誓文。かくの如し。豈たのもしきに非ずや。又鎭西
0000_,09,054b24(00):御病中に。門弟に示されける。起請文に云く
0000_,09,054b25(00):故法然上人は。たとひ一代の佛法を。よくよく學し
0000_,09,054b26(00):たる人なりとも。不學の身となりて。智者のふるま
0000_,09,054b27(00):ひをせずして。ただ一向に南無阿彌陀佛と。申てぞ
0000_,09,054b28(00):叶はんとこそ。仰せられ候ひし。此外に奧ふかき事
0000_,09,054b29(00):の候ぞとも仰せられ候事候はば。阿彌陀釋迦佛の。
0000_,09,054b30(00):御罰を蒙り。又念佛守護の梵天帝釋の御罰を蒙り候
0000_,09,054b31(00):べしと。此鎭西の起請文の中に。故上人の仰とある御
0000_,09,054b32(00):言を世人一枚起請を。寫し玉ふと思へるは。不稽の
0000_,09,054b33(00):誤りなり。是は正しく鎭西の授かり玉へる。法語の
0000_,09,054b34(00):中の。要を取て載せ玉へるなり。文の中に不學の身と
0000_,09,055a01(00):なりてと云ひ。又阿彌陀佛と申てぞ叶はんと云御言
0000_,09,055a02(00):は。是まさしく相承の法語なり。一枚起請の文言には
0000_,09,055a03(00):あらず。然れば大師御臨終の時。此法語を再び取用
0000_,09,055a04(00):ひさせ玉ひて。文言少し潤色して。南無阿彌陀佛ど
0000_,09,055a05(00):申せば。决定して往生するぞと。信じ取るべきなり
0000_,09,055a06(00):と云一段を。起請文に改め。更に奧書を加へて。末
0000_,09,055a07(00):後の御遺誓となして勢觀房に授け玉ひける也。され
0000_,09,055a08(00):ば大師末後の極訓をば。鎭西上人預じめ早既に授り
0000_,09,055a09(00):玉ひき。實に吉水相承の正統たる。規模とするに足れ
0000_,09,055a10(00):るものなり。大師一代書置かせ玉へる法語を集めて
0000_,09,055a11(00):和語燈錄七卷に及べり。かくの如くあまた有りける
0000_,09,055a12(00):法語の中にわきて鎭西に授け玉へる。法語を撰びと
0000_,09,055a13(00):りて。特に起請文を加へて。滅後の邪義を防がんが
0000_,09,055a14(00):爲にと書置かせ玉へる大師の御心をはかるに。勢觀
0000_,09,055a15(00):に授け玉ふは。即ち鎭西に授け玉へるなり。其故は
0000_,09,055a16(00):鎭西既に學成り功遂けて彼法語を相承して西海に歸
0000_,09,055a17(00):り。念佛弘通し玉ふ所に。背宗の贋徒。彼國に徘徊
0000_,09,055b18(00):して。或は金剛寳戒の怪義。或は鏡像圓融の僞説を
0000_,09,055b19(00):弘めて。是こそ吉水内證。眞實の法門なれ。鎭西の
0000_,09,055b20(00):相承せる。專修稱名の行は。しばらく初機の誘引な
0000_,09,055b21(00):り。吉水の本意にはあらずと披露して。男女を惑亂
0000_,09,055b22(00):せし。ことなどありけるを。大師もかねてしろしめ
0000_,09,055b23(00):されし故に。殊更鎭西相承を取て。起請文を加へ。
0000_,09,055b24(00):末後の遺誓となし。彌鎭西の相承は眞實吉水の正統
0000_,09,055b25(00):にして僞りなきことを示して滅後の邪義を。防がし
0000_,09,055b26(00):め玉ふ御心なるべしと。鎭西の爲には。いと忝なき
0000_,09,055b27(00):御遺誓なり
0000_,09,055b28(00):次に源智相承とは。此一枚起請文は圓光大師御臨終
0000_,09,055b29(00):の前に。自ら御筆を染められて。まのあたり門弟源智
0000_,09,055b30(00):に付囑し玉ひける御遺誓なり。勢觀房源智は。備中
0000_,09,055b31(00):守師盛朝臣の子。小松内府重盛公の孫なり。平家逆
0000_,09,055b32(00):亂の後。世をはばかりて。母儀これを隱しもてりけ
0000_,09,055b33(00):るを。建久六年生年十三歳の時大師に進ず。大師こ
0000_,09,055b34(00):れを慈鎭和尚に進ぜられけり。彼門室に參じて。出
0000_,09,056a01(00):家を遂畢りぬ。いくほどなくて。大師の禪室に歸參
0000_,09,056a02(00):し。常隨給仕すること。首尾十八箇年。大師憐愍覆
0000_,09,056a03(00):護。他に異にして。淨土の法門を敎示し。圓頓戒此
0000_,09,056a04(00):人をもて付囑し玉ふ。是によりて道具本尊坊舍聖敎。
0000_,09,056a05(00):殘る所なく。これを相承せられき。大師終焉の期に
0000_,09,056a06(00):近づき玉ふや。勢觀房曰。念佛の安心。年來御敎誡
0000_,09,056a07(00):に預るといへども。なほ御自筆に肝要の御所存。一
0000_,09,056a08(00):筆あそばされて玉はりて。後の御かたみに備へ侍ら
0000_,09,056a09(00):んと。申されたりければ御筆を染められける狀に云
0000_,09,056a10(00):く。もろこし我朝に等云云。正しき御自筆の書なり。
0000_,09,056a11(00):實に末代の龜鏡にたれるものか。大師の一枚消息と
0000_,09,056a12(00):名けて。世に流布するこれなり。大師御入滅の後は。
0000_,09,056a13(00):加茂の邊り。ささき野と云ふ所に住玉ひけり。其由
0000_,09,056a14(00):來は。大師御病中に。いづくよりともなく。車をよす
0000_,09,056a15(00):る事ありけり。貴女車より下りて。大師に謁し玉ふ折
0000_,09,056a16(00):節。看病の僧衆。或はあからさまに立出。或は休息な
0000_,09,056a17(00):どして。ただ勢觀房一人。障子の外にて聞玉ひけれ
0000_,09,056b18(00):ば。女房の聲にて。今しばしとこそ思ひ玉ふるに。御
0000_,09,056b19(00):往生近付いて侍らんこそ。無下に心細く侍れ。さても
0000_,09,056b20(00):念佛の法門など。御往生の後は誰にか申置かれ侍ら
0000_,09,056b21(00):んと申さるれば。源空が所存は。選擇集に載せ侍り。
0000_,09,056b22(00):これに違はず申さんものは。源空が義を傳へたるに
0000_,09,056b23(00):侍るべきと。云云。其後しばし御物語ありて歸り玉
0000_,09,056b24(00):ふ。其氣色直人とも覺えざりけり。さる程に僧衆歸
0000_,09,056b25(00):り參りければ。勢觀房ありつる車の行方覺束なく覺
0000_,09,056b26(00):えて。追付いて見いれんとし玉ふに。河原へ車をやり
0000_,09,056b27(00):出して。北をさしてゆくが。かきけすやうに。見え
0000_,09,056b28(00):ずなりにけり。あやしきこと限りなし。歸りて大師
0000_,09,056b29(00):に客人の貴女。誰人にか侍らんと。尋申されければ。
0000_,09,056b30(00):あれこそ韋提希夫人よ。加茂の邊りにおはしますと
0000_,09,056b31(00):仰せられけり。此事末代にはまことしからぬ程に。覺
0000_,09,056b32(00):ゆるかたも侍れども。近くは解脱上人。明慧上人など
0000_,09,056b33(00):も。かやうの奇特多く侍りけり。此上人は。今少し
0000_,09,056b34(00):宿老にて。行德もたけ。三昧をも發得し玉ひて侍れ
0000_,09,057a01(00):ば。權化のよしを顯はし玉はんこと。驚くにたらず。
0000_,09,057a02(00):勢觀まのあたり此不思議を感見せられける故に。大
0000_,09,057a03(00):師遷化の後は。加茂の社壇近く居をしめて。常に參
0000_,09,057a04(00):詣をなんせられける。勢觀房一期の行狀は。ただ隱
0000_,09,057a05(00):遁を好み。自行を本とす。自ら法談など始められて
0000_,09,057a06(00):も。所化五六人より多くなれば。魔縁きほひなん。
0000_,09,057a07(00):ことごとしとて。とどめられなどぞしける。生年五十
0000_,09,057a08(00):六。曆仁元年十二月十二日。頭北面西にして。念佛二
0000_,09,057a09(00):百餘遍。最後には。陀佛の二字ばかり聞えて。息絶
0000_,09,057a10(00):玉ひにけり。功德院加茂神宮堂也の廊にて終り玉ふに。佛
0000_,09,057a11(00):前より異香熏じて。臨終の處にいたる。その一筋の匂
0000_,09,057a12(00):ひ數日消えざるなりと。已上勅修吉水御傳に載せら
0000_,09,057a13(00):る。御遺誓の縁起かくの如し。然るに吉水の御門弟
0000_,09,057a14(00):多かる中に。わきて鎭西と。勢觀と。同じ法語の付囑
0000_,09,057a15(00):を受られけるは。顧ふに宿世の御契なるべし。其故
0000_,09,057a16(00):は勢觀房は。先師念佛の義道を。たがへず申す人は。
0000_,09,057a17(00):鎭西の聖光房なりとて。常に隨喜讚歎せられけると
0000_,09,057b18(00):かや。嘉禎三年九月廿一日。鎭西に贈られける狀に
0000_,09,057b19(00):云く
0000_,09,057b20(00):相互不見參候。年月多積候于今存命。今一度見參。
0000_,09,057b21(00):今生難有覺候。哀候者歟。抑先師念佛之義。末流
0000_,09,057b22(00):濁亂。義道不似昔。不可説候。御邊一人。正義傳持
0000_,09,057b23(00):之由承及候。返返本懷候。喜悅無極。思給候。必遂
0000_,09,057b24(00):往生。可期引導値遇縁候者也。以便宜捧愚札。
0000_,09,057b25(00):御報何日拜見哉。他事短筆難盡候。云云。其後文
0000_,09,057b26(00):永の頃聖光房附法の弟子良忠上人と。勢觀房附弟蓮
0000_,09,057b27(00):寂房と。東山赤筑地にて。四十八日の談義を始めし
0000_,09,057b28(00):時。良忠上人を讀口として。兩流を挍合せられける
0000_,09,057b29(00):に。一として違する所なかりければ。蓮寂房の云。
0000_,09,057b30(00):日頃勢觀房の申されし事。今既に符合しぬ。予が門
0000_,09,057b31(00):弟に於ては。鎭西相傳を以て我義とすべし。さらに別
0000_,09,057b32(00):流を立つべからずと。是に依てかの勢觀房の門流は。
0000_,09,057b33(00):皆鎭西の義に依附して別流をたてずとぞ。これに
0000_,09,057b34(00):よりて思ふに。わきて此兩人に。肝要の同じ法語を
0000_,09,058a01(00):附囑し玉ひぬる。大師の御遺鑑。いとたふとからず
0000_,09,058a02(00):や。されば聖光上人は預じめ此法語を相承して。一
0000_,09,058a03(00):宗の源流を立られしかば。鎭西の一派。普天に彌淪
0000_,09,058a04(00):し。源智上人は。此遺誓を相承して。大師の遺跡を
0000_,09,058a05(00):繼いて。吉水知恩院の。第二世とあふがれ玉ひき。さ
0000_,09,058a06(00):て又大師御入滅の後。背宗の邪義。盛りに起りける
0000_,09,058a07(00):時も。ただ此兩師。特に法滅をなげきて。鎭西は念
0000_,09,058a08(00):佛名義集を著はし。勢觀は選擇要决を作りて。志を
0000_,09,058a09(00):一にし力を勠せて。いたく滅後の邪義をふせぎて。
0000_,09,058a10(00):各各相承の正義を。弘通し玉ひけるを見るにますま
0000_,09,058a11(00):す大師の未來智をあふぎ奉るものなり。善言ふて異
0000_,09,058a12(00):端を距ぐものは聖人の徒なりとは。孟子の言なり。
0000_,09,058a13(00):我此兩師に於ても。亦かくいはざらめやは
0000_,09,058a14(00):已上澂和尚の草案を記して。荷法の君子に告ぐる
0000_,09,058a15(00):のみ。鎭西の流に浴せん人深く玩味すべし
0000_,09,058a16(00):寳曆癸酉三月春沙門釋慈光於洛東小松谷甘露苑識
0000_,09,058a17(00):右淨業問辨の附錄に載せられたり。然に貞極和尚
0000_,09,058b18(00):法道芝草の附錄に云く。諺論に曰。辨阿上人傳説
0000_,09,058b19(00):の詞の中の一枚消息を引いて。勢觀上人へ遣され
0000_,09,058b20(00):し本據とせり。恐らくは是れ顚倒の文證なるべし。
0000_,09,058b21(00):謂く鎭西上人。元祖の御言を記す。六箇條の最初
0000_,09,058b22(00):に上人言とありて。乃至唯一向に。南無阿彌陀佛
0000_,09,058b23(00):と申してぞ。かなはんずなどと書留め玉ふ。其文
0000_,09,058b24(00):相。大師の御言ばに仰せ出されたるを。鎭西物語
0000_,09,058b25(00):集に記し玉へりと見えたり。或は勢觀上人へ。自
0000_,09,058b26(00):筆に遣はされたるを。傳へ聞いて。書記し玉へり
0000_,09,058b27(00):とも見えたり。鎭西の記錄尊しといへども。祖師
0000_,09,058b28(00):の自筆には比べがたしと今按ずるに。此難勢。諺
0000_,09,058b29(00):論の意を熟知せざるなり。若し大師の御語を。鎭
0000_,09,058b30(00):西の記し玉へるならば。これは是れ直受相承の法
0000_,09,058b31(00):語なれば。勢觀相承と一般なるべし。なんぞ自筆
0000_,09,058b32(00):を重んじて。自語を輕んずるや。あやしむべし。
0000_,09,058b33(00):次に勢觀に授け玉ふを傳聞いて。筆記し玉ふとも
0000_,09,058b34(00):見えたりとは。鎭西たとひ傳聞し玉ふとも。何ぞ誓
0000_,09,059a01(00):文を省き玉はんや。勢觀相承の要は。此遺誓にあ
0000_,09,059a02(00):ればなり。知ぬ傳聞にあらざることを。是故に云
0000_,09,059a03(00):ふ。諺論の意を熟知せざるなりと。今は自語と自筆
0000_,09,059a04(00):の優劣を論ずるにはあらず。相承安心の一致なる
0000_,09,059a05(00):ことを顯はさんと也。宜しく意を得て知りぬべし
0000_,09,059a06(00):抑鎭西上人特に吉水正流相承の許可を得玉ひて。
0000_,09,059a07(00):當時乘願。湛空。聖覺等の。同門の龍象。皆悉く證
0000_,09,059a08(00):誠をなし玉へり。しかのみならず。鎭西製作の授
0000_,09,059a09(00):手印は。末代に光を放つべき書なり。との靈告あ
0000_,09,059a10(00):りけり。かくて此法を。記主禪師に相傳し玉ひて
0000_,09,059a11(00):より以降六百有餘年。吉水淸流異途なく。四箇本
0000_,09,059a12(00):山。十八叢林に。傳持禀承して。天下に弘通し。四
0000_,09,059a13(00):海に盈溢し。利物偏增の。宏益を施すこと。眞に
0000_,09,059a14(00):末代放光の。懸記に應して。實に大師の未來智を。
0000_,09,059a15(00):仰ぎ奉るものなり。予先に吉水前知錄を述して。
0000_,09,059a16(00):此一事をもらせるは。彼書は。普く自他に通ぜし
0000_,09,059a17(00):めんと欲して也。今幸に此書のあるあり。彼に續
0000_,09,059b18(00):で知ぬべし。淨業問辨。梓板鳥有せり。故に此附
0000_,09,059b19(00):錄を。諺論に附して行はんと欲して再挍上木す
0000_,09,059b20(00):因みに擧ぐ。紫野一休禪師。讃法然上人偈あり。
0000_,09,059b21(00):狂雲集下十五帋に出たり。其偈に云く。法然傳聞活
0000_,09,059b22(00):如來。安坐蓮華上品臺。敎智者如尼人道。一
0000_,09,059b23(00):枚起請最奇哉。と。此偈人口に膾炙せり。眞珠庵
0000_,09,059b24(00):に什寳せる。禪師眞跡の集。今現行の集。皆同し
0000_,09,059b25(00):く法然傳聞に作れり。然るに世人多くは。首句を
0000_,09,059b26(00):傳聞法然活如來と云へり。法然傳聞は倒置なりと
0000_,09,059b27(00):おもひて。翻りて倒置せるなり。偈の意は。聖道
0000_,09,059b28(00):家にては。なべて唯心の淨土。己心の彌陀とのみ
0000_,09,059b29(00):云へるに。淨家の元祖法然より傳へきけば。別に
0000_,09,059b30(00):活如來ありて。蓮華上品臺に安坐し玉ふ。其活如
0000_,09,059b31(00):來は。現在西方の阿彌陀佛をさす。元祖には非す。
0000_,09,059b32(00):彼佛を念じて。往生を願ふには。たとひ一代藏經
0000_,09,059b33(00):を。よくよく學び得たる智者なりとも。尼入道の
0000_,09,059b34(00):無智の輩に同して。念佛往生せよと勸め玉ふ。一
0000_,09,060a01(00):枚起請文は最も奇特なるもの哉。と云ふことなり。
0000_,09,060a02(00):然るに造語の雅ならざるやうに思ふにや。倒置な
0000_,09,060a03(00):りと云ひて。傳聞法然活如來とすれば。法然上人を
0000_,09,060a04(00):さして。活如來と云ふことになる故。何の味も無き
0000_,09,060a05(00):句となりて。大に語脉を失へり。誰か一人かく誤
0000_,09,060a06(00):りを傳へて後。愚者は云ふにや及ぶ。さばかりの
0000_,09,060a07(00):珂然和尚だも。吉水實錄の中に。一休和上讚大
0000_,09,060a08(00):師。爲生身如來。所謂道士誠知人者也と述べら
0000_,09,060a09(00):れしは。智人面前三尺の闇なりと云ふべし。是故
0000_,09,060a10(00):に今爰に辨して。禪師の讃意。徒設ならざることを
0000_,09,060a11(00):知らしむ。禪師は實に淨家の秘頥をもさぐり得
0000_,09,060a12(00):玉へる人なり。狂雲集上廿八帋歸入淨土の偈二首
0000_,09,060a13(00):あり。謂く。前年辱賜大燈國師頂相。予今更衣
0000_,09,060a14(00):入淨土宗。故玆奉還栖雲老和尚。離却禪門最
0000_,09,060a15(00):上乘。更衣淨土一宗僧。妄成如意靈山衆。嘆息多
0000_,09,060a16(00):年晦大燈。又。狂雲大德下波旬。會裏修羅勝負
0000_,09,060a17(00):瞋。古則話頭何用處。幾多辛苦數他珍。意の謂く。
0000_,09,060b18(00):最上乘の禪門は。我機に應ぜざれば。即今離却し
0000_,09,060b19(00):て。淨土宗に歸入するは。今迄妄りに。如意靈山
0000_,09,060b20(00):大德寺の山號ならんの衆となりて。多年大燈國師の遺法を晦
0000_,09,060b21(00):ましたることを嘆息すればなりと。みつべし淨家
0000_,09,060b22(00):に投機して。重慚愧の意を述玉へることを。次の偈
0000_,09,060b23(00):は。狂雲一休の號は大德寺の天魔波旬なり。會裏とは。
0000_,09,060b24(00):古則話頭にても。心性にても。會得したることに云
0000_,09,060b25(00):へども。爰は海會衆裏のこととして。看るがよか
0000_,09,060b26(00):るべし。謂く大會の裏にて。問答商量すれば。修
0000_,09,060b27(00):羅の勝負の如く徒らに瞋毒を倍增するのみ。さ
0000_,09,060b28(00):らば古則話頭も。何の用ゐる處ぞ。幾多の辛苦も
0000_,09,060b29(00):皆是他の珍寳をかぞへたるにて。自己に所得はな
0000_,09,060b30(00):きなり。是故に今愚痴に還りて。心外の極樂。活
0000_,09,060b31(00):如來の彌陀をたのみて。淨土を願ふなりと云ことな
0000_,09,060b32(00):り。嗚呼禪師は大徹大悟の人なりと云へども。徒
0000_,09,060b33(00):らに理悟の分際にとどこほらんことを思念して。よ
0000_,09,060b34(00):く吾大師の遺訓に歸して。自信敎人信す。法門に
0000_,09,061a01(00):私なく。澆季を利濟するの活手段。實に護法の大
0000_,09,061a02(00):士なり。禪師自筆の吉水遺誓。今現に京極大雲院
0000_,09,061a03(00):貞安寺の寳庫にあり。近世天龍の桂洲和尚。讃一
0000_,09,061a04(00):枚起請文偈あり。云く。誰道一枚紙。中含大藏經
0000_,09,061a05(00):出頭天外者。始知斯語馨。と今謂く。第三句未
0000_,09,061a06(00):だ蒲團上の習氣を免れず。惜むべし
0000_,09,061a07(00):文政四年辛巳九月廿五日 順阿隆圓謹誌
0000_,09,061a08(00):佛日增輝 法輪常轉
0000_,09,061a09(00):吉水正流 善利萬物